2010年4月30日金曜日

スリランカに佛跡をたずねて(2002年12月)

1.スリランカとは
 2002年掉尾の旅行はセイロン紀行である。タミル人過激派「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」による20年来の内乱も漸く治まり、観光渡航が出来るようになった。
以前にインドからネパール、チベットを経て中国の敦煌、西安への北伝の大乗仏教の跡を辿ったことはある。今回はスリランカからミャンマー、タイ、カンボジヤへと伝播していった南伝の上座部仏教遺跡探査の第一歩となった。
 セイロンとはサンスクリット名シンハラ・ドヴィーパ(獅子を殺した者の島)をアラビア人がサラン・ディープと呼び、ポルトガル人が更にセイラーンと訛ったもので、異国人の呼び方である。1972年イギリスより独立した際に、自国民が従来から呼び慣れたスリ(光り輝く)ランカ(島)と改称された。
北緯8度付近に位置するこの島は「インド亜大陸の涙」とも評され、九州よりは大きく北海道よりは小さい。人口約2000万人のうちシンハラ人は約74%で殆ど仏教徒、タミル人は約18%で主にヒンドゥー教徒、その他キリスト教徒、イスラム教徒が若干づつである。
 平成14年(2002年)12月5日、添乗員共16人のJTBツァーで小牧空港を飛び立った。キャセイ航空で香港、バンコク経由コロンボ北方のバンダラナーヤカ国際空港に到着したのは同日深夜となった。社会主義国家の例に漏れず空港内は一切撮影禁止である。時差が3時間遅れなので、就寝した午前2時は日本時間なら早朝5時である。

2.アヌラダブラ
 6日は午前8時半出発、文化三角地帯(Cultural triangle)と呼ばれる島の中央部の一角アヌラダブラに向かう。文化三角地帯とはアヌラダブラ、ポロンナルワ、キャンディの三つの旧王都で囲まれた地域である。途中、クルネーガラで立ち寄ったレストランで伝統的盛装の結婚式をしばし参観する事が出来た。思いがけない収穫である。
 アヌラダブラに着いていざ見学という矢先、雨が降り出した。この地域は10~1月が雨季である。乾季に替わる3~4月には激しい雷害もあるという。
 街灯のある石畳を歩いて黄銅宮殿と呼ばれる旧僧院跡を左に見てスリー・マハー菩提樹へ行く。紀元前3世紀、インドのアショカ王の王女サンガミッタがインド・ブッダガヤの菩提樹の分木を此処へ持って来たと伝えられている。地元民は「インドの元木はその後枯れて今は二代目、だからこの菩提樹の方が正統」と胸を張る。樹種にもよるが樹齢2300年にしては楚々とした風情である。
 半円形の敷石ムーンストーンから先の仏教遺跡は仏教徒にとって聖域である。脱帽・脱靴で入らなければならぬ。但し靴下・雨天の雨傘・仏像のみの撮影は許される。初めから脱着の容易なサンダルという手もあるが、雨の日には足拭きタオルが必携である。男女別入口が設けられている所もある。
 次はアヌラダブラ遺跡の中心ルワンウェリサーヤ大塔へ。紀元前2世紀ドゥッタガーマニー王が侵攻してきたタミル軍を撃退してこの塔を建設し始めたという。その王の立像は正門右手にある。大塔の基壇を囲む無数の象のレリーフに先ず目を奪われる。大塔脇には館からはみ出さんばかりに大きな涅槃像が横たえられている。
 続いて典型的なムーンストーンが残る旧王妃殿跡へ行く。欲望の炎を表す外輪から象(生)馬(老)ライオン(病)牛(死)を経て半円の中心・蓮の花(極楽)へたどり着くという人の輪廻を表現したものと言われている。
 やっと雨は小降りになった。僧院沐浴場クッタムポクナを車窓から眺めながらアヌラダブラを象徴する大塔ジェータワナ・ラーマヤ(祇園の意)の前に降り立つ。3世紀マハーナーナ王により建立、現在の高さ70m、古いサンスクリット文字で書かれた経典の金板が発見された事で有名である。目下ユネスコにより大規模な足場を組んで修復作業が進んでいる。
 この日投宿のパームガーデン・ビレッジ・ホテルの裏は広大なバサロックラマ貯水池で、時には象も水浴びに来るという。2500年以上も昔、スリランカ最古の都アヌラダブラでは歴代王朝が灌漑・上下水道の造営に熱心で、1400年の永きに亘って栄えたと言い伝えられている。このホテルのプールもまた広大である。

3.ミヒンタレー
 7日はインド・アショカ王の王子マヒンダが最初にスリランカに仏教を伝えた地ミヒンタレーを訪れる。アヌラダブラの東方10数kmに位置し、地名は王子マヒンダに由来する。
 途中、車窓から古代病院跡を見る。日本でも730年、光明皇后が設置した悲田院に相当か。人形に穿った浴槽に注目する。傷病人をその浴槽で薬湯又は薬水に浸けて治療する、特にコブラなど毒蛇に噛まれた人に卓効ありという。
 僧院規則の彫られた石柱の近くに長大な石桶が据えられている。往時の僧侶たちがバナナの葉を底に敷いて、布施された食物を集め並べて食したという。今では僧衣も布施されるが、原初は葬送の遺体を包んだ布を染めて僧衣にした、と現地ガイドのランリ君は説明する。
 このあたりから登り階段のヘルパーが付きまとう。「No thank you」と断るが一向に離れない。マヒンダ王子の遺骨を祀るというアムバスタレー(マンゴーの木の意)大塔では早々と脱靴して参詣し、背後の岩山に登る。この急坂で先程のヘルパーがここぞとばかりに強引に手を引く。6~7月のポヤ・デーには何千という信者がこの頂上から満月を拝むという。
 上から見ると大塔を囲む石柱群が嘗ての大ドームを想像させる。大塔周囲の首なし仏像は異教徒の仕業か。数人の少年僧に出会った。僧衣の色が違うのは出家年次または僧位を表すものらしい。
 大塔の左奥に白亜の大仏が鎮座している。マヒンダの墓とガイドブックにあるが、新しすぎてちょっと違和感がある。右手のマハー・サーヤ大塔へは時間が無くて登れなかった。見学を終えて件のヘルパーに何がしかのチッブを与えたが、もっともっとと執拗に付きまとうのは聊か迷惑である。
 昼食は緑に囲まれたホテルの食堂で10種類ほどの野菜カレーである。ここでは南瓜、パイナップル、バナナの花も夫々立派にカレーの具である。ガイドの説明に従って右手指でつまんで食べて見た。

4.ポロンナルワ
 午後は10世紀末(一説には8世紀末とも)南インドの侵攻軍にアヌラダブラを追われたシンハラ王朝が12世紀まで首都としたポロンナルワの見学である。まずパラークラマ・バーフ1世の宮殿跡を見る。煉瓦造りで、もとは7階建てだったというが現在は3階までの壁しか残っていない。壁の厚さは3mもあり中々堅固である。
 左前方の閣議場跡の石柱には各大臣の名が刻まれ、着席位置が決まっていたという。また近くに形の整ったマーラ王子の沐浴場跡もある。
 仏教遺跡群の中に唯一つシヴァ・デェーワーラヤNo1と称されるヒンドゥー教寺院がある。ちょっと奇異な感があるが、正面奧にはれっきとしたリンガがでんと納まっている。さすがに場所はクォードラングル(Quadrangle 城壁に囲まれた四辺形の中庭)の外側である。



5. クォードラングルのなか
 クォードラングルに入って直ぐのトゥーパーラーマはドラヴィダ式長方形の重厚な仏堂である。内部の仏像は損壊甚だしいとのことで外観を見るに止めた。続いて菩提樹寺跡、ラター・マンダパヤは蓮の蕾を載せた茎型の8本の石柱群、涅槃像跡の石壇、11世紀に建てられた仏歯寺跡アタダーゲ(8つの遺宝の家の意)を見学する。
 なかでも中心にあるワタダーゲは壮麗である。円形の仏塔の四方に入口があり、夫々ムーンストーンとガードストーンがある。特に北口のものが整っている。ガードストーンは悪魔の進入を防ぎ、中の本尊を守る役目を負う。ここのムーンストーンはヒンドゥー教の影響か、死を表す牡牛の図が省かれている。私が四方の仏像に丁重に詣でるのを見て、地元の信者が線香を提供してくれた。ワタダーゲの傍の小さな仏像は風雨に曝されて侘しげに立っている。
 向い側には12世紀ニッサンカ・マーラ王によって建てられた佛歯寺跡。王朝盛時には歴代王が夫々佛歯寺を建てたという。その東側に石の本ガルポタがある。長さ9m、幅1.5mの長大な石にマーラ王が当時の世情を刻ませたものである。北東隅にはタイの建築家が建てたというサトゥマハル・プラサーダが7階建ての偉容を誇っている、但し用途は定かでない。ポロンナルワが全盛時には上座部仏教の聖地としてタイ、ビルマからも多数の僧侶たちがこの地を訪れたという。

6. 上座部仏教と大乗仏教
 上座部仏教とは「出家・修行して上座に位置する僧侶が仏に済度され(救われ)、在家の一般衆生はこれら僧侶たちに布施・功徳をつんだ者のみが、その小さな乗り物(例えば船)に乗せてもらって救われる。」と説く。
 これに対し、北伝の大乗仏教は「信ずるものは皆、大きな乗り物に乗せて済度される」と教え、南伝の上座部仏教を小乗仏教と批判した。現地ガイドのランリ君が「ヒンドゥー教は最古の宗教だが、仏教は哲学。」と呟いたのが妙に印象に残る。

7.ガル・ヴィハーラへ
 一旦バスに戻りランコトゥ・ヴィハーラ(金の尖塔の意)へ行く。この大塔は12世紀マーラ王が建てた当時、上部の尖塔は総て金で覆われていたという。その北には13世紀バラークラマ・バーフ3世が建立した巨大な仏堂ランカティラカがある。高さ17.5m、屋根は無く、奧正面にはスリランカ最大の佛像が立っている。これも異教徒が損壊したのか、頭部が無い。
 尚も北に歩を進めるとポロンナルワのメイン・イベント(?) ガル・ヴィハーラがある。高さ4.6mの凛とした坐像、アーナンダとの説もある高さ7mの立像、全長14m、左右の足のずれでそれと判る釈迦涅槃像。なだらかな曲線、安らかな表情の仏陀の前で記念写真を撮りたい衝動に駆られるが、勿論撮影禁止、監視員が見つけ次第フィルム没収と警告される。そういえば「つくば博」のスリランカ館でこの実寸大の模像を見た記憶がある。

8.シギリヤの悲劇
 8日、シギリヤ・ビレッジ・ホテルの食堂からはシギリヤ・ロックがプール越しに真正面である。5世紀後半、下賎の妾腹から生まれた長男王子カーシャバが父王を廃して、強引に王座に就いたものの、正妻から生まれた弟王子の復讐を恐れて、高さ195mの切り立った岩山の上に王宮を築いた。敵襲に備えて内濠には鰐を放ち、断崖の上には投石用の岩石を蓄える堅固な城塞とした。しかし11年後、弟軍の兵糧攻めであえなく陥落、王は自ら命を絶ったという悲劇の遺跡である。
 もともとここは仏教僧たちの修験場で岩場の説経場や礼拝堂があり、カーシャバ王亡き後は僧侶たちの手に戻された。水の管理運用はなかなか巧みで上下水道、大貯水池から噴水まで設けられている。

9.シギリヤ・レディーの壁画
 何といってもここを一躍有名にしたのは、1875年発見された岩壁のフレスコ画シギリヤ・レディーであろう。鏡の回廊から壁画までは急な螺旋階段を登らねばならぬ。18人の美女のうち12人までは撮影する事が出来た。殺害した父王の霊を鎮めるためカーシャバが描かせたともいわれている。前述・鏡の回廊の表面は今でも滑らかで、かすかに人影を映す。彫られたシンハラ文字による詩文は、シンハラ語研究の重要な資料となった。

10.シギリヤ・ロック
 岩山頂上へは「ライオンの入口」から入る。シギリヤはシンハラ語でシンハ(ライオン)ギリヤ(喉)から来ている。「マーライオン」がシンボルの「シンガポール」のシンガも語源はライオンだとガイドは言う。岩肌にへばりつくように架設された鉄製の階段は昇降別に狭く、約60度の急角度である。麓から尾いて来たヘルパーがここを先途と手を引き、尻を押す。途中、大きな蜂の巣を横目に見ながら安穏を祈って、息を弾ませながらひたすら登る。頂上は1.6haと意外に広く、360度のパノラマは素晴らしい。颯颯たる微風も頬に心地よい。王宮、兵舎、ダンスステージの跡、大きな貯水場、今も石の玉座がある展望台など、しばし栄枯の昔を偲んでみる。
 復路は途中から別れて旧会議室、礼拝堂、コブラ岩へと降ってくる。この辺りにも僅かながら退色した壁画が認められる。
 ダンブッラへの途中、バティック工房に立ち寄る。暗い所での細かい「ろうけつ」作業はちょっと気の毒である。新しい寺院の前を通ったが、金色の仏像がぴかぴか過ぎて新興宗教の祠のようである。

11.ダンブッラ
 ダンブッラの石窟寺院は紀元前1世紀に、高さ180m程の岩山(ランギリ山、黄金色に輝く山の意)の洞窟に造り始められた。自然の洞窟を利用して第一窟から第五窟まで次々に多数の仏像が彫られ、壁画が描かれたものである。
 バスを降りて寺院まではかなりの坂道である、しかしシギリヤ程ではない。道の傍らではコブラ使いが笛を吹いて蛇籠の蓋を開け、参詣人の気を引く。
 第一窟デーワラージャ・ヴィハーラ(神々の王の寺)は、ここでは最古の寺院、全長14mと最大の涅槃佛が自然石から彫り出されている。かなり、くすんではいるが全身は黄金色で足裏だけが赤く、花模様が描かれている。これはスリランカ涅槃佛の特徴とか。
 第二窟マハーラージャ・ヴィハーラ(偉大な王:この寺の創始者ドゥッタガーマニー王:の寺)はダンブッラ最大の洞窟で、幅約52m、奥行き25mに及ぶ。洞内56体の仏像もさることながら壁・天井一面に描かれた壁画が圧巻である。仏陀の生涯やシンハラ人対タミル人との争いなどスリランカの歴史がびっしりと描き込まれている。画面が意外に鮮やかなのは、香煙で煤けたのを度々修復したからだという。しかし必ずしも原画に忠実に描き直したのではないそうである。洞内奧では天井から岩清水が滴り落ち、聖水とされている。ダンブッラとは「水の湧き出る岩」の意である。
 第三窟マハー・アルト・ヴィハーラ(偉大な新しい寺)は18世紀に造られた窟で、全長9m、両足を揃えた寝佛と56体の仏像がある。第四窟バスシーマ・ヴィハーラ(西の寺)は19世紀キャンディ王朝末期に造られたもので、比較的手狭な上、仏像も新しい。
 第五窟は1915年に造られたもので坐像の頭上に光背のようにコブラが覆い被さっているのが怪異に見える。雨は降ったり止んだりだったが、窟から窟へは立派な回廊が連なっているので大助かりである。
カレーの昼食の後はスパイス・ガーデンに立ち寄る。香辛料のほか漢方薬まがいの軟膏、香油のマッサージ付き実演販売でひととき賑わった。

12. キャンディアン・ダンス
 キャンディの宿はマハウェリ川沿いで、セミ・リゾート・ムードのマハウェリ・リーチ・ホテルである。7時開演のキャンディアン・ダンスを鑑賞するべく、キャンディ湖に近い芸術協会へ急ぐ。このダンスは正式にはウダ・ラタ・ナトゥムといって、高地の神に捧げる儀式だったという。
 まず最初、激しい太鼓の連打で幕が開く。続いて仏陀に祈りを捧げる女性たちの舞。次はシンハラ戦士を表す男性のバック転の踊り。コブラを飼い慣らす仕草。悪霊払いの大仮面の踊り。勝利を祈る孔雀の舞の青い衣装は美しい。
 王の衣装とされるビーズ玉のチョッキ、耳輪、首輪、手首足首の鈴輪をジャラジャラ振り鳴らしながら踊るヴェ・ダンサーは聖者とされている。インドの踊りに似てはいるが、首や手指の動きはいくらか地味である。
 最後は悪魔を追い払う火踊りと、燃え盛る炭火の上を歩く火渡りの儀式でお開きとなる。約1時間のショーである。隣席の千葉から来たというカップルは新婚旅行で「明日はリゾート地・ニゴンボへ行く」という。内戦続きのスリランカに、漸く平和が戻って来たからこそのツーリストである。

13. キャンディの仏歯寺
 9日は仏歯の部屋が開扉される午前10時前に仏歯寺に着く。前庭には4世紀、頭髪に隠して仏陀の歯をスリランカに持ってきたインドのカリンガの王子の像や、王朝滅亡に際し、慫慂として死に就いた勇敢な王子の像がある。16世紀始めポルトガル人が、17世紀にはオランダ人が侵攻し、これを追い払うべく援軍を頼んだイギリスに、1815年キャンディ王朝は結局滅ぼされてしまった。
 正面茶色の屋根の八角堂はシンハラ様式の建物で、今は貴重な写本を蔵する図書館になっている。脱靴して17世紀建築の古い建物の前を通り、仏歯を祀る本殿へ進む。10時の開扉を今や遅しと、敬虔な信者たちが蓮の花を供えて待っている。突然けたたましい太鼓とラッパの伴奏で読経が始まる。チベットのラマ教のような雰囲気でもある。行列に従って、金の小箱に収められた仏歯にお布施を供えながら、極く眼近かに拝む事が出来た。
 こうして見てくると、スリランカの仏教伝播の跡を辿る旅は、仏歯を奉じてアヌラダブラからキャンディまで転々と王都を移して滅んだ、シンハラ王朝の盛衰をなぞる旅でもあった。王権を象徴する仏歯は日本の「三種の神器」に相当するのかも知れない。
 このあと鐘楼、ペラヘラ祭りの仏歯奉安台、透明石の仏像、図書館などを見学して寺院を出る。今日も雨降りの中「記念撮影は如何 ? 」と象が一匹、勿論有料である。

14. ペーラーデニヤ植物園
 次はバスでペーラーデニヤ植物園へ行く。もとは14世紀、王妃のために造られた庭園で広大・多種なことはスリランカ第一である。
 各種熱帯植物が多いのは当然だが、ミャンマーから持ってきた世界最大の竹、熟すまで5年もかかるという世界一大きいココナッツをつける双子椰子、象の足のような大木、スリランカの島の形をした池、アキヒト皇太子(現天皇)の記念植樹、一本で1800平方メートルを覆う「この木何の木・・・」ビンロー樹の下で出会った現地の女学生たちが印象深い。
 再びキャンディ駅前の雑踏をすり抜けて、レイク・ビュー・ポイントのレストランで中華料理の昼食である。人造のキャンディ湖越しに仏歯寺や市街地が眼下である。初めて食べた炒めパイナップルが意外に美味しかった。

15. 現地ガイド・ランリ君
 午後はセイロン紅茶の本場ヌワラ・エリヤへ。途中、スリランカ最古、最高のペーラーデニヤ大学脇を通る。4000人の学生、10 平方kmの広いキャンパス内には鉄道駅まで有るという。スリランカでは10年間の義務教育は総て無料、大学の年間授業料も800円位。但し入学試験に合格しても、大学の収容能力が小さい為1.8 % 位しか入学出来ないという。現地ガイド・ランリ君も入試には合格したが、諦めて観光ガイド専門学校に進んだとのことである。彼のネイティブは勿論シンハラ語だが、日本語・英語・フランス語を能くし、歴史・地理・生物に関しても造詣が深いようである。

16. 日本とスリランカとの関係
 日本とスリランカとの関係についてランリ君は言う。
「太平洋戦争初期、英国軍港のあるセイロン島のトリンコマリーが日本軍によって攻撃された。従ってセイロンは賠償請求権があるが仏教の教えに則って、仏教国・日本に対し敢えてこれを放棄した。その後、日本は米国と並んで最大の経済援助国になってくれた。」
 それに対し私、「昭和21(1946)年から始まった極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)でインド選出(セイロン出身)のパル判事が “ 嘗て植民地侵略をした英・米・蘭の諸国に、果たして侵略を裁く裁判権が有るのか ? 争いの勝者が敗者を裁くのは私刑ではないか ? “と唯一人、正論を吐いて英米側を制したが、オーストラリヤ出身のウェブ裁判長が一切黙殺してしまった。当時の日本の為政者はこの発言を大いに多としている。」
 そういうことをランリ君の認識に加えておいて欲しい、と話した。隣で聞いていた元海軍軍医(斎藤さん)も「正にその通り」と言葉を添えてくれた。

17.セイロン紅茶
 追々山道に差し掛かる程に、紅茶畑、谷川、滝を左右に眺めながら、いつしか気温も下がって来たようである。ジグザグの坂道を駆け抜ける花売り少年を見て、ペルー・マチュピチュのグッドバイ・ボーイを思い出す。
 かなり山に分け入ったところでラブーケリー・ティー・センターがある。製茶工程の説明を聞きながら工場見学。折りしも12月、サンタの居るサロンで紅茶を試飲して、直売カウンターへどっと押し寄せる。工場推奨のOP( Orange Pekoe オレンジ・ペコー)や BOP( Broken Orange Pekoe ブロークン・オレンジ・ペコー)に人気が集中する。

18. ヌワラ・エリヤ
 尚も坂道を登りつづけると、急に英国風の町並みに出る。ヌワラ・エリヤ(光溢れる町の意)である。スリランカらしからぬ涼気を求めて、新婚旅行の好適地とされている。 1828年植民地時代に建てられたというピンク色の郵便局がひときわ目を惹く。
 今夜泊まるザ・グランド・ホテルも内装・外観とも全くの英国調で、直ぐ裏はゴルフ場である。植民地時代は英国人の格好の避暑地だったのであろう。瞥見した此処のバーは如何にも正統的で、スーツ、ネクタイ着用が建前らしい。北隣りのヒルクラブ・ホテルには頑なに正装を楽しむ人達が多く出入りするという。
 夕食は折角重厚なダイニング・ルームでエトランゼ気分を楽しんでいるのに、数人の楽士が傍で盛んに日本の歌を演奏してくれるのは少々艶消しである。食後のショッピング・モールではサリーやブラウスなどシルクの店が婦人客で一頻りさんざめく。
 10日、キャンディへの帰路、目に付いたことを二つ三つ。平野部では幹・葉・実・殻とも全部有用な椰子林の所有者は富者とされている。しかしこの辺りの山地では椰子の木をついぞ見かけることは無く、山肌は総て紅茶畑で覆われている。スリランカの食料自給率は未だに50 % そこそこだと聞くが、このいびつ歪な農業構成も植民地政策のなせる業なのだろうか。山間に点々と見えるのは茶摘人の粗末な長屋である。殆どはインドの紅茶産地から連れてきたタミル人で、月収は800円位という。
 日本の熊谷組がODAで道路改修工事に携わっている。寄付されたのか「成田山幼稚園」の掲示板を見た。また三井セメントの看板をしばしば見かけた。

19. 象の孤児園
 キャンディの近くに象の孤児園がある。13時からが授乳の時間というので、昼食もそこそこに授乳場へ急ぐ。小象といえども大きな哺乳瓶を一気に飲み干してしまう。授乳体験にはチップが要る。成象は長い鼻で椰子の葉などをバシバシと口に入れる。飼育係は「記念写真をどうぞ」と手招きするがこれも要チップ。
 象たちの食事が終わると前の川へ水浴びに行く。50頭程の象がのっしのっしと、小象は小走りにレストラン前の「道や狭し」と行進する様は壮観である。最後に一頭、足の不自由な象が遅れまいとびっこを引きながら駈けて行くのは痛ましい。
 川では飼育係りがエスケープを警戒しながら象に水を掛ける。自分の鼻で水を吹きかける象、気持ち良さそうに川床に蹲る象、母像に寄り添って水浴びをする小象など色々である。

20.コロンボ市街
 このあとは一路コロンボへ。夕方の交通渋滞とも重なり、露天・バザールの多いペタ地区、官庁・ビジネス街のフォート地区とも車窓観光となった。小さい町でも結構目に付いたがコロンボの街ではスリー・ウィーラーというミニ・オート三輪タクシーが矢鱈に多い。  南国とはいえ街のデパート、大きな商店、街角のロータリーには電飾のクリスマス・トゥリーが煌く。海岸通りでは、特に時化ている訳ではないが、インド洋の荒波が砂浜にどどっと打ち寄せる。今でも街の要所要所には掩堤で囲んだ軍の監視哨が築かれていて、内乱の余韻を窺わせる。
 夕食は久し振りに和食レストランで煮魚定食である。経営者は関西の人らしく、フライ以外は純日本の味であった。
 スーパー・マーケットでお土産を買い足して、屋根続きのホテルに帰るとロビーで数人のアンサンブルがクラシック音楽を演奏している。さすがコロンボは首都と思いきや、1984年、行政上の首都は10km余東南方のスリー・ジャヤワルダナプラに移転していた。しかし、そこは湖の中央の小島に巨大な国会議事堂が有るだけという。従ってヒルトン・ホテルから見えていた広壮な建物は旧国会議事堂であった。

 帰途のフライトは深夜の2時50分発である。ホテルでゆっくり入浴・休憩の後、空港へ。
 キャセイ航空でバンコック、香港経由11日午後9時、予定通り小牧空港に着陸した。往復とも香港空港で夫々4~5時間の待ち時間は、エコノミー症候群回避にはなるが、少々退屈である。