2010年4月6日火曜日

“大航海”の跡をたずねて ポルトガル(2001年2月)

1. ポルトガルの 冬は雨季
 私の21世紀の初旅はポルトガルから始まった。 2001年1月17日定刻11時50分より少し遅れて小牧空港を出発。千歳、アムステルダムを経て、その日の23時30分、雨のリスボン空港に到着した。但し9時間遅れの時差である。
 ポルトガルの冬は雨季だというが、日本の梅雨のようにべったり降り続く雨ではなく、時折驟雨に見舞われる程度とのことである。

2. 地の果て ロカ岬
 18日は気まぐれ天気の機嫌の良いうちにと、まずロカ岬に向かう。詩人カモンエスの詩ウズ・ルジアダスの一節「ここに陸尽き、海始まる」の刻まれた十字架の塔の前に立って西方を望めば、少なくとも270度、見晴るかす限りの大西洋である。

 ふと頼山陽が天草洋で、海の彼方は呉か越かと詠んだ漢詩「水天髣髴 青一髪」を思い出した。”大航海”の古人ならずとも、芒洋たる海の涯てには「どんな国が・・・、はたまた将又この世の終端か・・・」と好奇心をそそられる。

 岬の観光局 Turismo で最西端到達証明書($600)を発行して貰う。花文字で夫婦連名、シントラ市分室の蝋印入りである。裏面には西・英・仏・独・伊・日の6か国語で証明文が記載されている。次の通り。
 登録番号 C-N.o 047265   証明書  
 ポルトガル国シントラにあるロカ岬に到達されたことを証明します。ここは、ヨーロッパ大陸の最西端に位置し、「陸尽き、海はじまる」と詠われ、新世界を求め、未知の海へとカラベラ船を繰り出した航海者たちの信仰心と冒険魂が、今に尚、脈打つところです。
 北緯38゜47’ 東経9゜30’ 高度 海抜140メートル

 ポルトガル有数のリゾート地帯カスカイス、エストリルのコスタ・ド・ソル(太陽海岸)や名門ゴルフ場を横目に見てシントラに向かう。途中花崗岩だらけの林や大規模山火事の跡がいまだに残る山道を通る。ユーカリや松など樹脂の多い山林なので何日も燃え続いたという。

3. エデンの園 シントラ
 王宮を中心に、森に囲まれたシントラは、バイロンが ”エデンの園” と称えた世界遺産である。外観はさほどではないが、マヌエル1世が ”大航海” の富にまかせて増築した夏の離宮の内部は豪奢である。

 巨大な円錐形の2本の塔は実は煙突であった。この下で数匹の豚を同時に丸焼きもできるという広大な厨房である。オーブンの原型ともいうべき料理保温庫が洋服箪笥のように据え付けられている。続くアラブ風食堂、アズレージョ(絵タイル)の紋章の間、東洋趣味の中国の間。
 なかでも敵襲に備えて短尺のベッドのある寝室、手離したくない愛娘を譬えた白鳥の間、メイドの嫉妬がもとで描かれたカササギの間など王室の人間臭さが面白い。白鳥の間ではその昔天正少年使節団が歓待を受けたという。

 山の端に城壁を望見したムーア城址とノイシュバン・シュタイン城主のいとこが競って建てたというペーナ宮には行けなかった。皆が銀細工の店へ急ぐ頃には案のじょう驟雨に見舞われた。ロカ岬で出しそびれた絵葉書をシントラの郵便局Correioで投函する。切手$140。

4. 王妃の直轄地 オビドス
 住宅団地のカラフルな建物群に目を奪われているうちに、バスは城壁に囲まれたオビドス村に到着した。1228年王妃イザベルがこの村を気に入り、直轄地にして以来6世紀に亘ってこれが続いた。

 リスボン郊外のもの程ではないが16世紀に築かれたという水道橋がまず目に入る。にわか雨にしっとり濡れた石畳の小径や白壁の家々がメルヘンチックである。サンタ・マリア教会、サン・チャゴ教会を過ぎて昔の王宮に入る。アズレージョで飾られた壁の傍で老婆が毛糸を編む。今はポーサダPousada do Casteloになっている旧王宮の小さなサロンでカフェオーレ($300)を喫する。垣間見た客室のほうは如何にも石冷えのしそうな石造りである。

 城塞のテラスからこの小村を一望したあと、アントニオ君運転のバスは今夜の宿泊地ナザレに急ぐ。

5. 奇跡の地 ナザレ
 まず高台のシティオ地区からナザレの中心部プライア地区を俯瞰する。夏は海水浴客で賑わう広い砂浜は人影もない。聖母マリアの奇跡によって、霧の崖っぷちで命拾いした、城主が建てたメモリア礼拝堂がこの崖の上にある。傍にはギリシャ正教形の十字を冠したヴァスコ・ダ・ガマ来訪記念碑も。大航海を前にマリアの奇跡を恃んで訪れたのであろうか。突然の俄か雨でメモリア礼拝堂とノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会を繋ぐ掛け橋のように虹が架かった。やはり奇跡の地に相応しい。

 プライア・ホテルに荷物を置いて海岸通りの観光局を訪れる。終業間際にも拘わらず開錠して招じ入れられた。「日本から来たのですか?」と日本語のパンフレットを渡される。さきのオビドス同様、かかる寒村で日本語のパンフレットが用意されているとは、一寸した感激である。観光熱心なのか、親日的なのか。

 ホテルに戻る道すがら、鰯を焼く匂いが地区全体に仄かに漂っている。ホテルの夕食も鰯の塩焼きであった。

 翌朝、有明月の残る海岸通りを散歩する。歩道のS字模様の敷石が美しい。7枚重ねの短いスカートの女性が市場に急ぐ。浜の水揚げにも便利な伝統的な服装だという。冬のナザレは大西洋の荒波と共生する漁業の町である。

6. 悲恋物語 アルコバサ
 アルコア川とバサ川の合流点にできたアルコバサには世界遺産サンタ・マリア修道院がある。イスラム教徒排除のレコンキスタ(国土回復運動)に協力したシトー派修道会に、1152年アフォンソ・エンリケス王が贈ったものである。但し正面のファサードは18世紀にバロック風に改築されている。

 しかしこの修道院を特に有名にしたのはペドロ王子とイネス・デ・カストロとの悲恋物語である。政略結婚の障害として殺された侍女イネスの石棺と、その遺体を抱いて結婚を宣言したペドロ王子の石棺は、二人が復活のとき向き合えるように翼廊に安置されている。
 北側に続く二階建ての”沈黙の回廊”を通って、広大な生産品倉庫に入る。その収容能力の大きさを見ると、中世の修道院の工業生産が資本主義経済の始まりという学説も頷ける。

7. 戦いの町 バターリァ
 続いてバターリァの修道院を訪れる。これはさきのサンタ・マリア修道院よりも早い1983年登録の世界遺産である。ジョアン1世がカスティーリァ軍を打ち破ったバターリァ(戦い)を記念して1388年建設が始まった。正式には勝利の聖母マリア修道院という。

 入るとジョアン1世と王妃フィリッパ・ランカスターとの比翼の墓、その子エンリケ航海王子の墓も近くに安置されている。ゴシック様式とマヌエル様式が見事に調和した”王の回廊”の奥には無名戦士の墓が冷厳に設えられている。両脇には衛兵が交代で常時警護にあたる。さすがにバターリァ(戦い)の修道院である。

 ジョアン1世の息子ドゥアルテ1世が建て始めた”未完”の礼拝堂が興味深い。100年もの工事期間中にゴシック、マヌエル、ルネッサンスとそれぞれの時代の様式を取り込みながら遂に未完に終わってしまって、未だに屋根も無い。柱に施したマヌエル模様は帆船のロープに”新発見”の各地産品を配して、”大航海”の成果を誇示しているかのようである。

8. 黒マントが似合う コインブラ
 学術都市コインブラで昼食を執る、レストランの名はペドロ。あのイネスとの悲恋の舞台は実はコインブラである。年配ウェイターのなかに唯一人、若い端麗なウェイターがいた。ペドロの再来かと一瞬目を疑う。
 1290年デニス王によって創設されたコインブラ大学は、1911年リスボン大学が設立されるまでポルトガルでは唯一の、ヨーロッパでも古参の大学である。

 黒いマントを身に纏った教授や学生が誇らかに、アズレージョを敷き詰めた”鉄の門”をくぐる。会話はラテン語のみに限定というラテン回廊を右に見て旧図書館に入る。古色蒼然たる書架に金文字の古書がぎっしり。しかし使いもせぬ梯子を架けるなど少々演出過剰ではある。右隣の立派な礼拝堂を見学して広場に出る。眼下には「ポルトガルの洗濯女」の歌で有名になったモンデゴ川が町を二分して流れる。

 旧カテドラル前のショップでも日本語のチラシでクラフトを勧められる。坂を降りて川岸に出る。歩道の壁のアズレージョに感心しながら、コインブラA駅傍のブラガンサ・ホテルまで歩く。鉄道幹線の通るコイン ブラB駅までは、このA駅から支線が接続されている。約4分。

 観光局で貰った地図を片手にサンタ・クルス修道院を見学する。左隣の市庁舎は修道院の敷地を一部割譲してもらったようなレイアウトである。帰路はオクト・デ・マイオ広場から迷路のような狭い商店街を通ってコインブラA駅に辿り着いた。

9. 水郷の町 アヴェイロ
 1月20日ポルトへの途中立ち寄ったアヴェイロは潟に囲まれた水郷の町である。町の中央を流れる運河には極彩色のモリセイロと呼ぶ海藻運搬船が舫っている。アヴェイロの駅は裏も表も見事なアズレージョが張り詰めてある。

 この町の銘菓オヴォス・モーレスOvos Molesは卵黄を甘く調味した餡を包んだ貝型の最中である。この餡を主材としたような博多銘菓”鶏卵素麺”と同様のものがポルトガルで今でも作られているという。また銘菓”ザビエル”のある大分市とアヴェイロとは姉妹都市である。

 余談になるが パン、カステラ、ボーロ、キャラメル、テンプラ、コンペイトウ などの語源はポルトガル語である。カステラの由来は面白い。さる古城でスポンジ・ケーキ(今のパォン・デ・ローPao de Loと思われる)を食した日本人が「これは何ですか」と訊ねたところ「カステーロCastelo(城)です」と言われたからだという。

10.  ポルトガル発祥 ポルト
 ポルトの市街に入る前、ドン・ルイス・1世橋のたもとヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアからの立体的な眺めは絶景である。1886年エッフェルの愛弟子が設計したこの橋は両岸の上の街と下の街とをそれぞれに結ぶ、ちょっと変わった二階構造である。橋を渡って下の街カイス・ダ・リベイラの庶民的なレストランで昼食。

 坂を登って旧商館街を歩く。外観は往時の繁栄を偲ばせるものがあるが、内側は今や廃屋で改修工事中である。1834年ポルト商業組合が建てたポルサ宮の前にはエンリケ航海王子の銅像が建っている。生憎補修中の幕で覆われていた。観光地図によればこの通りをエンリケ王子通りRua Infante do Henriqueと称し、近くに航海王子の生家もあるという。王子の父はジョアン1世だが、母はイギリスのランカスター公の娘であった為Henry the Navigatorと呼ばれ、イギリスでも人気がある。

 再びヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアに戻り老舗のポルト・ワイン工場を見学する。年代物の大樽や無数の古酒の貯蔵庫には圧倒される。ドウロ川には、トラックに取って代わられたワイン運搬船ラヘーロが、広告塔代わりに係留されている。

 ポルトガル一高い塔を持つというクレリコス教会の横を通ってリベルダーデ広場へ出る。正面が市庁舎、右手サンベント駅前にはアズレージョが美しいコングレガドス教会がある。

 ここポルトこそレコンキスタで奮闘したフランスの騎士ドン・エンリケ(のちのポルト・カーレ伯)によるポルトガル発祥の地である。エンリケ航海王子もこの港からモロッコへ船出したという。由緒深いポルトの歴史地区は1996年世界遺産に登録された。ポルトと長崎市とは姉妹都市である。

11. ポルトガルの 歴史概観
 ここでポルトガルの歴史を極く大筋で概観してみよう。
  紀元前後 ローマ人の勢力下
7世紀 西ゴート族が制圧
8世紀 ムーア人によってイスラム化
11世紀 レコンキスタ、ドン・エンリケらキリスト教徒による国土回復運動
12世紀 アフォンソ・エンリケ、スペインから独立を宣言、ポルトガル建国
15世紀 大航海時代
16世紀 再びスペインに併合される
17世紀 ブラガンサ公(後のジョアン4世)、スペインからの再独立を達成
18世紀 リスボン大地震、ボンバル侯、復興に活躍
19世紀 ナポレオン、三度侵入、イギリスと同盟して撃退
20世紀 王制から共和制へ、1974年スピノラの無血革命で”リスボンの春”を謳歌

12. リスボンの下町 アルファマ
 1月21日9時5分発特急CP(Caminhos de Ferro Portgueses ポルトガル鉄道)でリスボンに帰る。リスボン最初の停車駅オリエンテ駅周辺では、1998年「海」をテーマに万国博覧会が開催された。12時40分終点サンタ・アポローニァ駅に到着。海のようなテージョ川に面したアルファマ地区である。

 1755年リスボンの大地震にもここは被害を免れて、イスラム色の強い昔の面影を色濃く残している。狭い路地に面したレストランで、昼食はあんこうのリゾットである。「ポルトガルのロケで先日 杏里 が来たよ」と店主が胸を張る。水道橋から水を引いた名残の水飲み場が1基吐水していた。実際は市水道からの給水らしい。

13. 大航海の精華 ジェロニモス修道院  
 テージョ川沿いに4月25日橋の下を通って、いよいよ”大航海”の精華ベレン地区に急ぐ。ジェロニモス修道院は1502年、マヌエル1世がエンリケ航海王子の偉業を称えて、その礼拝堂の跡地に建てたものである。

 1983年早々と世界遺産に登録されたこの修道院は、まさにマヌエル様式を代表する宗教建築の極致である。”大航海”による海外からの莫大な富に支えられて花開いたマヌエル様式は、天球儀、縦横等寸の十字、帆船のロープ、貝などに異国の産品を配した、ポルトガル独特の芸術様式である。

 入って左側ヴァスコ・ダ・ガマの石棺の傍に白光した”手”の彫刻がある。すぐ前の港から大航海に船出する船人たちが再びこの地に帰って来られるようにと、接吻したキリスト?の手だという。
壮麗な建物もさることながら、中庭を囲む二階建ての回廊が素晴らしい。高名建築家による繊細華麗な55メートル四方の回廊は、大航海時代の繁栄のシンボルと言われている。
 しかし石灰岩の優美なアーチも近年損傷が進み、順次補修が施されている。補修済みの二辺は少し黄色く見える。

14. ベレンの塔と ”発見のモニュメント”
 文化センターの横をすり抜けてベレンの塔へ向かう。1519年マヌエル1世がヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路発見を記念して建てたもので、正式にはリスボンの守護聖人の名に因んだ”サン・ヴィセンテの砦”という。ジェロニモス修道院と一緒に1983年世界遺産に登録された。テラスなどは優美なマヌエル様式で飾られているが、河口で船の出入りを見張る為、二階には砲台、その下は政治犯収容の水牢だという。

 続いてエンリケ航海王子の500回忌を記念して1960年建てられた”発見のモニュメント”
に行く。高さ52メートル、帆船型の舳先に向かって、大海原に乗り出そうとするエンリケ航海王子を先頭に天文学者、宣教師、船乗り、地理学者など”大航海”の立役者の像が彫られている。私達に馴染み深いのは東側のヴァスコ・ダ・ガマ、マゼラン、ザビエルらである。

 モニュメント前の広場には大理石の世界地図に各地発見の西暦が記されている。日本は1543年種子島より前に、ポルトガル商船が豊後府内(今の大分市)の春日浦に漂着した1541年となっている。

15. 大航海の 東西交流
 ここで大航海時代前後の東西交流を概観してみよう。
 1295年頃マルコポーロ(1254-1324 イタリア人) 元(今の中国)に到達、東方見聞録を著す。
 1413年 鄭和(1400前後 宋の人 今の中国) 中国からアフリカ東岸に到達
 1446年 エンリケ航海王子(1394-1460ポルトガル人)航海指導先駆者、部下がギニア探検
 1487年 バルトロメウ・ディアス(ポルトガル人) アフリカ喜望峰発見
 1492年 コロンブス(1446-1506 イタリア人) スペインの援助で西回りアメリカを発見
 1499年 ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524 ポルトガル人) 東回りでインド航路発見
 1500年 アルヴァレス・カブラル(1500年前後 ポルトガル人) ブラジルに到達
 1520年 マゼラン(1480?-1521ポルトガル人) スペインの援助で南米経由フィリピン到達
 1541年 ポルトガル商船、豊後府内に漂着
 1543年 ポルトガル人 種子島に上陸、鉄砲伝来
 1549年 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル鹿児島に上陸
 1584年 日本よりの遣欧少年使節団 リスボンに上陸

16. 坂のリスボン バイロ・アルト
 東の方には全長2278メートルの吊り橋4月25日橋の全容が見える。1966年完成した当時はサラザール橋といっていたが、1974年4月25日に成功した無血クーデターを”リスボンの春”と賞賛して、以来4月25日橋と呼ばれるようになった。

 橋の向こう岸に霞んで見える巨大なキリスト像は、リオ・デ・ジャネイロのコルコバートの丘に立つキリスト像(31m)を模して、1959年完成したものである。

 再びテージョ川沿いにバイロ・アルト地区に戻り、坂上で眺望を楽しむ暇もなく、チンチン電車のようなケーブルカーに乗る。上下どちらかの車両が満員になると発車するという。中間で離合したかと思うともう下の終点である。

 ロシオ広場からレスタウラドーレス(復興者)広場を通ってローマ・ホテルに到着する。夜はポルトガルを代表する音楽のひとつ”ファド”の鑑賞である。

17. 哀愁のファド
 ファドとはラテン語のFatum(運命)と同意で、”哀愁”だけでは表現しきれないサウダーデSaudade(失ったものにたいする押さえ切れない悲しみややるせない思い、こうありたいと切に願う憧れ)をあらわす音楽である。コインブラには学生たちが黒マントを着て、プロヴァンス地方の吟遊詩人が歌っていたものを歌い継いできたファドもあるが、リスボンではアラブやアフリカなどの民族音楽から、19世紀頃裏町の酒場で歌い始められたといわれる。

 バイロ・アルトのファド・レストラン ”オ・フォルカード” ではワインといか料理で軽く夕食を済ませたあと、中央の四角いステージにファディスタ(歌い手)やギタリストが登場する。聴衆は殆んど団体客で大部分は日本人である。

 ギターラというポルトガル独特の12弦ギターと普通のギター(ヴィオーラと彼等は呼ぶ)の伴奏に乗せて黒いショールの女性が切々と歌う。カンツォーネのように歌い上げるかと思えば、ぐっと抑えてシャンソンのように、時にはイスラムのコーランを詠ずるようなメロディーも交えて哀調は続く。

 1954年フランス映画「過去を持つ愛情」でファドを一躍有名にしたアマリア・ロドリゲスはアルファマの出身である、惜しくも1999年亡くなった。たまたま先月末NHKの深夜放送で彼女の哀愁の歌声を聴くことが出来た。CDを探してみようと思う。

 このあとタップ入りの明るいフォーク・ダンスなどが続いた。しかしファドはアルファマのような下町のうらぶれた酒場で聴いてみたい。「矢張り野に置け蓮華草」だろうか。

18. 世界遺産の町 エヴォラ
 1月22日は終日フリータイムである。地下鉄($100)、フェリー、バレイロ駅からは鉄道(フェリーと込みで$1390)と乗り継いでエヴォラへ向かう。駅頭でバッタリ杏里ロケ隊と遭遇、同列車となる。途中カサ・ブランカ駅で乗り換えてからは同じ車両になった。車窓から見るアレンテージョの平野は、半ば樹皮を剥がれたコルクの木が続く田園風景である。エヴォラ駅前からは ”杏里たち” と別れてタクシー($500)でジラルド広場へ。

 観光局で貰った地図を頼りにエヴォラ大学に向かう。航空写真から作成したのだろうか、途中の微妙な曲がり角や道端の植え込みの形まで正確に記されていて迷うことは無かった。学生に混じってずかずかと大学構内に入り、売店で名入りグッズを買う。建物は16世紀に建てられたイエズス会の神学校を転用したものである。中庭の四囲を二階建ての回廊と教室が囲んでいる。回廊から教室の腰板まで派手なアズレージョで埋め尽くされている。

 15世紀に建てられたロイオス修道院は今は品格あるポーサダPousada dos Loiosとして営業中である。振り返れば2世紀に建てられたというディアナ神殿がある。ローマ人が月の女神ディアナに捧げたものといわれ、柱頭はコリント様式である。

 この小公園の北には1世紀ローマ時代の城壁の一部が残っており、南には12-13世紀に建てられたという要塞のようなカテドラルがある。天正少年使節団の伊東マンショと千々石ミゲルがここのパイプ・オルガンを見事に弾きこなして人々を驚かせたという。訪欧途中のマカオで習い覚えたらしい。正面入り口付近では ”杏里ロケ隊” が撮影準備に余念がない。

 このように狭い地域にローマ時代から中世、現代までの建造物が集積しているのは珍しく、エヴォラの歴史地区として1986年世界遺産に登録された。これでポルトガルの世界遺産9件のうち6件を訪れたことになる。

19. 人骨堂と 鱈Bacalhau料理
 ジラルド広場に取って返しサン・フランシスコ教会へ行く。16世紀に建てられたゴシック様式のこの教会では右隣の人骨堂がお目当てである。入り口から壁、天井、柱と人骨がぎっしり、いっぱいである。年をへ経ると乾燥収縮するから小児の頭蓋骨のように見えるが殆んど成人5000人分のものだという。首吊り人のように整体で壁から吊るされた人骨はさすがに気味が悪い。

 それでも食欲は衰えることなく、地元の人達が集う食堂に入り、鱈Bacalhauのトマト煮($1000)を食べる。メニューにはいろいろ書いてあるが、マスターがしきりに勧めるところを見ると、昼時にはこれら2.3種類しか仕込んでないのかもしれない。

 西の城門を出て共同墓地隣のバスターミナルに急ぐ。丁度14時15分発のノン・ストップ・バス($1650)に間に合った。高速道路をつっ走ってテージョ川の大橋を渡る時分には、どしゃ降りである。たいした渋滞もなく、1時間45分でアルコ・ド・セゴ・バスターミナルに到着した。ここからローマ・ホテルまではタクシー($850)で一走りである。

 ポルトガルの通貨 1$(エスクード)=約\0.6 タクシー以外の料金は一人当たりの金額。

20. ヨーロッパの 空で漢詩 
 23日は真夜中の午前3時起き、4時の出発である。5時35分リスボン空港発KL1692便でアムステルダムに翔ぶ。やがて空が白み、脚下に敷き詰めた雲海の先端から朝日が昇り始めた。俄かに詩情が湧き起こり、隣り合わせた山田先生と漢詩の競作となる。

    雲際朝陽
  未明発葡 翔和蘭   未明に葡を発し 和蘭に翔ぶ
  天空雲際 拝朝陽   天空雲際 朝陽を拝す
  興趣難断 談論旺   興趣断ち難く 談論旺なり
  朋友何日 再相見   朋友いつの日にか 再び相見えん

 ヨーロッパの上空で漢詩に興じるとは、まことに忘れ難い思い出になった。

 本稿記述に当たっては ポルトガル投資・観光・貿易振興庁の資料、各地観光局のガイド・マップ、地球の歩き方、平凡社の大百科事典等を参照させて頂いたことを付記します。

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