2010年5月8日土曜日

ポーランド紀行(2004年5月)

1.使い易いフィンランド航空
 5月31日、新幹線、特急はるかと乗り継いで9:10関空に到着。以前より鋭敏になった金属探知器でボディーチェックを受けて、11:00発ヘルシンキ行きフィンランド航空AY078便に搭乗する。
今回のツァーは札幌から3名、別府から2名、名古屋からは3名、あとは大阪、神戸10名と片岡弥生TDの計19名( 男4名、女15名)の一行である。
 所用10時間20分だが、-6時間の時差でヘルシンキへは同じ日の15:20に到着した。空港では日本人職員が親切に乗り継ぎや入国の案内をしている。17:45発コペンハーゲン行きAY667便の機内でも現地語、英語のほか日本語の案内放送があった。
 さらに-1時間の時差で18:25到着した空港ではSASマークの飛行機が十数機駐機している。またスカンジナビア航空のストらしく、乗り継ぎカウンターは大混雑である。「だからSASはやり難い、その点フィンランド航空は使い易い」とは片岡TDの独り言。私達は19:30発ワルシャワ行きポーランド航空LO462便のためスムースに乗り継ぐことが出来た。(A+BC)で18列とコンパクトな機体である。  左前方に飛行機雲を曳きながら飛んで行く機影が見える。普通は地上から見上げる飛行機雲を、機窓から横に眺められるとは・・・と悦に入っているうちに20:50ワルシャワのオケンチェ国際空港に着陸した。丁度夕日が沈むところである。
2.ワルシャワ・ゲットー、ワルシャワ蜂起
 6月1日、ポーランド最初の訪問はワルシャワのユダヤ人ゲットー記念碑である。戦災で壊滅したゲットー( ユダヤ人隔離居住地区)に建てられたもので、ユダヤ人受難像を刻んだレリーフである。三角形を逆に組み合わせた例の紋章が供えられている。早くも次の団体がバスで乗り付けてきた。
 東へ600m程行ったところに、今では古文書館になっているというクラシンスキ宮殿がある。ワルシャワ大学で日本語とラテン語を学んだという現地ガイドのアンナさんが、ラテン語と数字についてひとくさり。「欧州の言語は語源がラテン語から来ているものが多く、綴りを見れば大凡の意味は判る」と。
 道路を隔ててワルシャワ蜂起記念碑がある。1944年、ワルシャワ蜂起の地下運動を象徴するように、地下道から這い出した市民の苦しそうな表情が痛々しい。ソ連軍の離反により20万人もの市民を犠牲にして、結局ドイツ軍に惨敗した。1989年、この碑が建てられ、ドイツは首相が献花・謝罪したが、その後も圧政を続けたソ連に対しては市民は未だに反感を持っているという。ポーランド人はロシア人と同根の西スラブ族で、ポーランド語もロシア語に似た言葉が多いようだが・・・。
 後ろには悲劇の碑とはアンバランスに薄緑色の最高裁判所が建っている。
3.キューリー夫人博物館から旧市街へ
 少し東にキューリー夫人博物館がある。この家で生まれた彼女は、当時ロシアに併合されていたポーランドでは勉学思うに任せず、フランスに脱出、ソルボンヌ大学を卒業した。その後フランス人科学者ピエール・キューリーと結婚、ラジウムなど放射性元素の発見、研究に努め、ノーベル物理学賞、後に化学賞を受賞した。館内には研究経過や実験器具などが展示されているが撮影禁止である。
 次はいよいよ旧市街の入り口、バルバカンである。今ではヨーロッパに数カ所しか残っていないという赤煉瓦の円形砦である。15~16世紀に建てられ、火薬庫や牢獄としても使われていた。第二次大戦で破壊されてしまったものを市民の熱意で1954年、見事に復元された。
広場に出ると中央には楯と剣を振りかざす人魚像が建ち、周囲は大きなパラソルを連ねたカフェや物売りで賑わっている。当時、広場は一つだけだったので、「広場」と言えば今でも此処を指すらしい。
 広場を東に出るとヴィスワ川、対岸は動物園である。金の滴のような黄金色の花が藤のように、たわわに垂れ下がって咲いている。「金滴樹」と呼びたくなるような木である。
4.王宮復興の熱意
 引き返して今は博物館になっている旧王宮を見学する。第二次大戦で完膚無きまでに破壊されたが、心ある美術史家たちによって事前に貴重な絵画・調度品は国外に持ち出されていたため無事であった。バロック様式の建物の内部は王の広間、寝室、食堂、コンサートホール等ジグムント3世当時の儘に再現されているという。被災直後、一面瓦礫の王宮周辺の写真と見比べて、よくぞここまで立派に復元したものだと感心する。疎開されていた精細絵画の数々が大いに貢献しているのだろうと思う。
 ポーランド王を象徴する銀色の鷲を配した王座、豪華な楽譜収納箱、それにユニークなデザインのモザイク床や凝った趣向のドアノブなどが面白い。床、壁とも多種類の大理石を張り詰めた部屋では雰囲気が一変する。
 王宮前広場には1596年、ポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジグムント3世の銅像が建っている。

5.ショパンの心臓
 続いてサスキ公園の無名戦士の墓を車窓から眺めながら聖十字架教会に行く。屋上には金の十字架、内部も金銀きらびやかな教会である。入って左手前の石柱にはショパンの心臓が埋められているが、それにはショパンの遺志を尊重した姉が大いに尽力したという。
 道路の斜め向かいがワルシャワ大学の正門、斜め右には地動説のコペルニクスの銅像がある。
6.ワジェンキ( 浴場 )公園
 午後は市の南方、ワジェンキ公園へ行く。ゲートを入ってすぐ、池の向こうに巨大なショパンの銅像がある。死期に近い肖像から取ったのか憂愁の面持ちである。ピアニストらしいドレスの女性がその前で写真撮影をしてもらっていた。
 18世紀ポーランド最後の王ポニャトフスキが造園した公園で、池に面して建てられた数々の夏の離宮に立派な浴場(ワジェンキ)があったことから、こう呼ばれるようになった。
 ステージの前に池を配した野外音楽堂では折しもアマチュア合唱コンクールの最中である。歌手の前に陣取った数羽の孔雀が時々猫のような鳴き声で奇妙に唱和する。
 早めにメルキュール・ホテルに引き揚げ、民族料理ピエロギの夕食である。水餃子に似ているが、にら、ニンニクは入らず、酢醤油も無いので期待した餃子の味ではなかった。

7.IC特急で古都クラクフへ
 2日はワルシャワ中央駅から9:15発インターシティー特急で南部の古都クラクフへ。ソ連時代の影響か、駅構内は撮影禁止である。駅前に聳える文化科学宮殿付近は再開発のクレーンが立ち並ぶ。
 地下二階のプラットホームから6人1コンパートメントの一等車に乗る。ワルシャワから暫くは見渡す限りの平野だが、後半は丘陵の起伏が続く。途中、車掌が一度検札に来たのみでノンストップ、2時間35分でクラクフ到着である。ここも駅前は再開発で掘り返していた。
 クラクフのガイド、リヒアルト君が同乗して広大な墓地を横目に、西方54kmのオシフィエンチムに向かう。墓地に林立する十字架はロシア正教のものと似ているが少し違う。カトリックと混合した「連合」のものだという。街を出て道の両側に続く白樺林を見ているとシベリアのタイガを思い出す。
 オシフィエンチム駅前で昼食を済ませ、この町外れにあるアウシュビッツ強制収容所を訪ねる。しかし此処はは余りに「凄惨」、稿を改めて記すことにする。
8.中世の面影を残す旧市街
 3日はまず1498年建造、欧州最大を誇る円形防塁バルバカンを見る。すぐ傍には1300年頃に建てられたというフロリアンスカ門がある。門をくぐれば旧市街、「白貂を抱く貴婦人」のポスターを掲示したチャルトルスキ美術館前から中央広場へ行く。
 中世からそのまま残っている広場としてはこれも欧州最大という。真ん中には14世紀に建てられた、長さ100mもあるルネッサンス様式の織物会館がでんと居座っている。当時は織物取引所だったが、今や琥珀をはじめアクセサリや民芸品の店がぎっしりの「おみやげ会館」である。入り口近くの地下男性用有料トイレでは「大は1z、小は0.5z」と用足しをおばさんが見張っていて、料金を徴収する。1ズウォチ( 1z)は約35円。
 旧市庁舎は1820年に取り壊されたが、時計塔だけはそのままこの広場に残された。
 続いてヤギェウォ大学を訪れる。1364年創立、ポーランド最初の大学で、「地動説」のコペルニクス(1473~1543)、現ローマ法王ヨハネ・パウロ2世もここで学んでいる。
 15世紀ゴシック様式の赤煉瓦建物コレギウム・マイウスには一種の威厳がある。アーケード回廊の中庭には卒業試験合格の霊泉があり、毎年6月には学生が列をなすという。
 中央広場へ引き返し1222年に建てられた、これもゴシックの聖マリア教会を見学する。正面ファサードには高さの違う塔を左右に擁する大きな教会である。国宝に指定された奥の聖壇やステンドグラスに目を見張る。

9.古都に相応しいヴァヴェル城
 午後は見学時間を予約したヴァヴェル城である。ポーランドの6月は気候も良く、学校の社会科見学のトップシーズンである。混雑を避けるため厳格に入場制限をしている。城門脇の銅像は18世紀末、3国分割に抗した英雄タデウシ・コシチェシコである。
 入城すると左側に3つの礼拝堂を持つ大聖堂がある。初め1320年ゴシック様式で着工後、数世紀に亘ってルネッサンス、バロックが加えられた異色の建物である。中でもネッサンスの傑作金色ドームのジグムント・チャペルとポーランド最大の鐘を吊すジグムント塔が偉容を誇っている。王の戴冠式は18世紀までここで行われたという。
 旧王宮の中庭に入る。取り巻く建物は16世紀、ジグムント王がゴシックとルネッサンスの複合様式で建てたものだが庇が高いのは太陽光を多く取り入れる為という。屋根の樋の先端が竜頭を象っているのが面白い。集めた雨水を竜の口から吐き出させる趣向である。
王の公室、私室、無数の肖像画、武具もさることながら、厖大な豪華タペストリーは圧巻である。原産地を凌ぐほどのコレクションは、この王宮をむしろタペストリー博物館と見紛うくらいである。
 ヴィスワ川に面して賢者クラクスに退治された伝説の竜の銅像があるが、樹間から竜頭のみを見て退出した。

10.岩塩の殿堂・ヴィエリチカ岩塩坑
 続いて市の南東15kmの世界遺産、ヴィエリチカ岩塩坑の見学である。ここも社会科見学の生徒が沢山入場を待っている。狭い坑内への入坑のため人数制限は厳重である。待つ間、壁の写真を見ていたら高松宮ご夫妻来坑の写真があった。
 順番が来て、まず木製の螺旋階段を約400段垂直に降りる。早足で降りたら恐らく目が回るだろう。途中の渋滞で書いたのか、名前らしき落書きがいっばい、漢字で書いた台湾人の住所氏名も散見される。
 岩塩採掘を再現した現場に降り立つ。採掘夫、運搬・昇降に使役した馬は岩塩の彫像である。王様、偉人、伝説の像など見て回るうち、かつて稼働していた昇降機場へ着く。金属は岩塩で腐蝕するため巨大な昇降機構はすべて木製である。坑道の側板は塩がしみ込んで化石のようになっている。材木の塩干物である。
 天井からは鍾乳石のような塩のつらら、足元には塩水のせせらぎ、それが注ぎ込む地底湖は当然飽和塩水である。
 突然大広間のような巨大空間に出る。採掘跡を利用した聖キンガ礼拝堂である。聖壇、キリスト像、壁面深さ18cmに彫刻した「最後の晩餐」のレリーフ、半透明のシャンデリア、床ブロックまで総てが岩塩製の殿堂である。ここで記念写真を撮る、10z 。
 坑内は自然換気だが、強風を遮るため所々に防風扉が設けられている。鉱山規則によりスィッチ・ボックスは防爆型を設置しているが、1950年代より採掘を中止した後は坑内爆発も無いため、照明器具は普通型を認められているとのことである。
11.真っ暗闇のエレベーター
 最後の出坑待合い広場には岩塩製おみやげ売り場、身障者用エレベーター、高い天井にはギネスブック級のバンジージャンプ台まである。小1時間近く待たされた。一般のエレベーター乗り場へは狭くて長い坑道を歩かねばならぬ。一度に大勢を導入すると「酸欠の恐れがあるので、天井の高い洞窟の方で待って貰っている」と説明がある。
 漸く順番が来てエレベーターへ。鉄檻のような9人乗りの3基が並列運転である。「暗黒恐怖症の人は予め申告を、一応懐中電灯は用意していますから」と片岡TD。2~3分間だったと思うが真っ暗闇の立坑をひたすら昇る。隣のエレベーターからは悲鳴に似た奇声が聞こえる。最初の坑口に近い降り場に辿り着く。久し振りの外界は眩しい程に明るい。
 端正な服装の女性御者の観光馬車が客待ち顔である。僅かな距離だがバス乗り場まで、遊び心で5人が乗り込む、30z 。
 夕食はキャンドルライトのクラシックなレストランでピエロギ他の郷土料理である。ノボテル・ホテル前のヴィスワ川畔で暮れなずむヴァヴェル城を背景にスナップを1枚撮って貰う。

12.カジミエーシュのシナゴーグ
 4日午前中のフリータイムを利用してカジミエーシュ地区へ行ってみた。元々は1335年、カジミエーシュ大王が城塞都市クラクフの南東に別の町として作られたものだが、1941年ナチスによってゲットーが設置され、クラクフのユダヤ人6万人のうち1万5千人がここに移された。しかも大量虐殺により2年後には1/10にまで減ったという。
 最初にイサーク・シナゴーグに入り、ユダヤ人強制移住のビデオ、その後の迫害、遺体処理などの陰惨な展示写真を見る。平和のシンボル鳩の市場がすぐ近くにあるのも皮肉なコントラストである。
 ポーランド最古のユダヤ教会スタラ・シナゴーグの内部はユダヤ博物館である。会堂の中央に大きな鳥籠のような説教壇が設けられている。聖壇には例の7本足の燭台が据えられている。周囲には聖具をはじめユダヤ文化を伝える民俗遺品の数々が展示されている。大戦中ユダヤ人脱出に協力した杉原千畝に関する資料は ? と尋ねたが無かった。
 映画「シンドラーのリスト」の舞台になったこの地区の街並みを見ていると南インド・コーチンの旧ユダヤ人街を彷彿される。
13.トラムでチャルトルスキ美術館へ
 走行ルートを確かめて3番線のトラムに乗る。切符売り場が見つからぬ儘、乗車して運転手から切符を買う、2.4z+0.6z(運転手手数料)。大きな停留所近くのMPKの表示のあるキオスクでしか売っていないらしい。色々な番線のトラムが2連、3連、時には4連で頻繁に走っている。
 バルバカン前で降りチャルトルスキ美術館へ急ぐ。途中出会った片岡TDが同館のガイドブックを貸してくれる。チャルトルスキ王子の夫人イザベラのコレクションを展示するため、1801年オープンしたポーランド最古の美術館である。
 絵画、彫刻、武具、アンティークなど名品が沢山展示されているが、何はともあれレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」の特別展示室へ急ぐ。その醸し出す気品はルーブルのモナリザに匹敵する逸品である。レンブラントの傑作もあったが午後の集合時間12:15に近く、ゆっくり鑑賞出来なかった。気が急くままに急ぎ足で通り過ぎたイコン・コーナーで、独特画風のブリューゲルのキリスト説教図を見たのは収穫であった。
 織物会館前の老人バンド(ヴァイオリン、アコーデオン、ドラム)に耳を傾ける暇もなく集合場所のレストランに滑り込む。
 昼食後はバスでワルシャワまで約300kmの長旅である。途中片岡TDの「旅のトラブル話」は間合いの良いテンポで結構面白く聞かせてくれた。

14.ショパンの生家でコンサート
 5日はワルシャワから西へ54kmのジェラゾヴァ・ヴォラへ行く。1810年フレデリック・ショパンが生まれた生家を見学してビアノ・ミニコンサートを聞くスケジュールである。
 生まれた年にワルシャワに移転しているし、主な遺品はワルシャワのショパン博物館である。こちらには出生証明書、洗礼証明書、家族の写真のほか、14才の時の作詩、スケッチなど芸術的天分を窺わせるものが展示されている。小型ながら竪型のグランドピアノも珍しい。
 この家のサロンでピアニスト、モニカ・ロッサ夫人( ? )によるショパンのプレリュード、ワルツ、エチュード、マズルカの演奏。最後は力強いポロネーズで締めくくった。僅か30分ながら十分の感動を誘ったようである。戸外のベンチでは見学の生徒達が行儀良く傾聴していた。
広い庭園には日本ショパン協会が贈った桜の木、日本趣味らしい橋もある。うつむき加減のショパンの銅像と「対面」のポーズでスナップを撮って貰う。

15.感動のワルシャワ歴史博物館
 昼食後はワルシャワに戻ってフリータイムである。旧市街のワルシャワ歴史博物館に飛び込む。小さい入り口、小振りな建物の割に4階までの館内には戦前戦後のワルシャワの様子を示す資料がびっしりである。戦中破壊され尽くした建物の「壁のひび1本までも忠実に復元」したというワルシャワ市民の不屈の精神に感銘、その経過を確かめたくて入館した。
 1,2階は13世紀から1596年クラクフよりの遷都、18世紀ロシア、プロシァ、オーストリアによる三国分割までの市民、王室の民俗資料。
 3階は占領ロシアの圧政と、それへの抵抗運動から1918年三国分割が一応終わる頃までの歴史資料。
 4階は1939年第二次大戦勃発、独ソ両軍侵入、ナチスの暴虐、対するレジスタンス、1944年ワルシャワ蜂起、翌年終戦までの生々しい経過資料、特に破壊前の建物の絵画、写真、設計図等々。
 これあってこそ厳密な修復が出来たのだと納得する。修復前後の対比写真を見るとき、復興への市民の執念には「脱帽」である。

16.修復、オペラ劇場、ワルシャワ大学
 思いの外時間を費消してしまった。旧王宮前の聖アンナ教会には、土曜日のこととて挙式を待つ新郎新婦の笑顔が溢れている。
大通り(クラクフ郊外通り)を右折して国立オペラ劇場の裏手に出る。余りに大きな建物で、通りがかりの市民に「本当にオペラ劇場か ? 」と確かめてみた。正面に回って見ると誠に壮大である。
 1833年完成、ミラノ・スカラ座、ウイーン・オペラ座にも比肩するヨーロッパ有数の老舗劇場である。第二次大戦で正面外壁以外すべて焼失してしまったのを、市民の熱意で1956年、元の姿に復元したという。
 大通りに戻って貴族ラジヴィウ家宮殿の前を通る。1765年当時は館内でオペラやコンサートを開催したこともあるというが、現在は大統領官邸である。
 南隣りワルシャワ大学の正門をくぐって、キャンパス奥のカジミエーシュ宮殿を見学する。1335年カジミエーシュ大王ゆかりの宮殿で、この日は大広間で学生のモダンアート展覧会が開催されていた。
 別の建物( 講堂 ? )では外壁をそのままに内部を大改修中である。ヨーロッパではこういう工事が得意なのだろうか。
 時間も残り少なく、実物兵器がずらりの軍事博物館やソ連時代の遺物・文化科学宮殿の見学は割愛してノボテル・ホテルに帰る。

17.ポーランド政体の変遷と治安
 ワルシャワのガイドによれば「ポーランドの国家体制が社会主義下では家賃、授業料等無料、失業も無かったが、自由も無かった。大学でもロシア語以外は勉学の自由が無い時代が続いた。海外旅行も、その国の招聘状が無いとパスポートが発給されない。しかも旅行が済めば直ちに返納しなければならず、所謂「海外渡航の自由」は無かった。
 自由主義社会になって「自由」は得たが、失業者、ホームレスが増えて、確かに詐欺、窃盗などの犯罪は増加している」という。
 外務省海外安全情報では「ポーランドでも繁華街、駅周辺、バス、トラム等では掏摸、置き引きに注意。時に集団かつ暴力化することもある。」と警告が出ていた。しかし昼間のワルシャワ、クラクフではそのような気配は殆ど感じられなかった。
 子連れのジプシーや物乞いなども執拗に付きまとうことも無く、観光客を狙って掏摸に豹変するイタリア、フランスとは大違いである。「特に注意」の駅への地下道でも三叉路には大柄の警官が仁王立ちで見張っていた。
 タクシーも正規のものであれば、料金の不当請求は無くなってきたが、タクシー業者によっては信用の差が若干有るようである。ホテルで呼んで貰うタクシーはまず問題は無いが、ホテル周辺で屯している車は観光客狙いの白タクなど悪質なのもいるので、乗らぬように」と現地ガイドは注意する。
18.フォークロア・ショーでダンス
 夜はレストランでのディナー付きフォークロア・ショーにオプション参加する、@\9000.-。既に1組の老夫婦が軽快にダンスを楽しんでいる。スイスからという十数人の客も着席した。
やがて3組の男女の踊り手と楽員が入場して民俗舞踊の競演が始まる。愛の哀歓を表現しているような振り付けである。ワルシャワのガイド・アンナさんが「日本は主に上半身で踊るが、この地方では下半身、特に脚で踊る。」と評していたのを思い出す。
ショーの合間にダンサーが誘いに来たので、久し振りにクィック・ステップを踊ってみた。いくらラフスタイルOKと言われてもディナー、ダンスとなれば上着は必携である。
終わって帰る頃にはどしゃ降りの雷雨である。市内見学中じゃなくて良かったと皆で顔を見合わせる。

19.首都-旧都-戦争の惨禍
 翌6日はもうポーランドとお別れである。ワルシャワ・オケンチェ国際空港、通称ショパン空港のバス降り場ではショパン像が迎えてくれる。
スーツケースに入れた岩塩の缶詰がダイナマイトのように透視されたらしく、開披させられていた。
 10:45ワルシャワ発ヘルシンキ行きAY742便も、17:20ヘルシンキ発関空行きAY077も満席である。なるほど6~7月は北欧観光の最盛期である。関空へは翌7日8:40定刻通り到着した。
振り返れば今回のポーランド旅行のワルシャワ-クラクフ-アウシュヴィッツは日本の東京-京都-ヒロシマ。首都-旧都-戦争の惨禍に相当するように思われる。

 本稿は今回の見聞に各見学場所の資料、地球の歩き方「ポーランド」等を併せ参照しました。

凄惨 アウシュヴィッツ(2004年6月)

1.ナチスの「東方総合計画」
 ポーランド南部の古都クラクフから西へ54km、オシフィエンチムの町はずれにアウシュヴィッツ強制収容所はあった。今では国立オシフィエンチム博物館として、遺された建物・施設・遺品が保存、展示されている。
 第一次世界大戦で課された厖大な賠償金に疲弊したドイツ国民は、ナチスを率いるヒトラーに回生の期待を掛けて、1933年政権を託した。アウトバーン( 軍用高速道路 )建設で失業者を吸収したヒトラーは密かに「東方総合計画」なるものを策定していた。それは東ヨーロッパを支配下に置いて現住民およそ5000万人を追い出し、ドイツ人1000万人を移住させるという壮大な計画であった。その根底にはドイツ選民意識と劣視民族( ユダヤ人、ジプシー、一部のスラブ民族など )の抹殺という意図が隠されていた。
 幸い第二次大戦で後半の戦局ドイツに利あらず、この計画はほとんど実現しなかった。ただポーランドでだけは1939年より1000箇所以上の強制収容所を設置し、ナチ親衛隊( SS )管轄の下に実行されていった。
2.アウシュヴィッツ強制収容所設立
 アウシュヴィッツ強制収容所はポーランドに侵入したナチス・ドイツが、初めはポーランド人政治犯を収容するために、1940年設立された。本来の政治犯の他に一部のクリスチャン( 主に、ものみの塔信者 )、常習犯罪者、同性愛者、浮浪者( ジプシーなど )そしてナチが最も蔑視したユダヤ人が続々と送り込まれた。
 地元ポーランドはもとより、ドイツ、オランダ、ベルギー、オーストリア、ハンガリー、チェコ・スロバキア、ブルガリア、ギリシア、旧ユーゴスラビアそれにイタリア、フランス、北はノルウエー、リトアニアから旧ソ連と、当時ナチが跳梁したヨーロッパ各地から、約28の民族の人達が収容された。 翌1941年、独ソ開戦後はソ連軍の捕虜12,000人も収容され、その過半数は数ヶ月以内に毒殺、銃殺、衰弱死したという。
 20,000人程度の収容能力では増大する囚人に対処しきれなくなり、1941年には約3km離れたブジェジンカ村に第二収容所としてビルケナウ( ドイツ語で新しい白樺の意 )収容所が建設された。更に1942年にはモノヴィツェ村に、付近の工場、炭坑に囚人
の労働力を供給する目的で、傘下に40箇所ものミニ収容所を擁する第三収容所が設立された。

3.収容所正門と遺品の
 博物館では館内の混雑を避けるためインフォメーションセンターからの入場を制限している。数人が「死の壁」に献花する花束を買いに売店へ走る。コースの最初に、鎖に繋がれた右手を大きくデフォルメした彫刻に出くわし、これから見学する陰惨さを予感する。
アウシュヴィッツ強制収容所正門にはドイツ語で ARBEIT MACHT FREI ( 働けば自由になる )と掲げられているが、 B の字が上下逆になっている。強制労働に駆り出された囚人達のせめてものレジスタンスだったろうといわれている。
 収容所に連行された人達は先ず持ち物一切を没収される。展示室にはそれらの衣服、靴、鞄、眼鏡、櫛、ブラシなどが堆く積み上げられている。鞄やトランクには国籍、住所、氏名、子供は生年月日、孤児にはその旨がペンキで書き込んである。
 移住だと騙されて、ユダヤ人が自ら買った東方都市行きの切符が一枚・・・ことの真相を知った時はさぞ無念だったろうと思う。
 処刑前後に刈り取った頭髪、それで織った布地、義手義足の山、1kgで400人をガス殺出来るチクロンB( 青酸ガスの素 )の空き缶がごろごろ。戦局逆転でソ連軍が迫った頃、ナチが焼却し切れなかったものである。死体の焼却灰は肥料にした。遺灰の一部は瓶に詰めて展示台に安置されている。

4.人間の「選別」
 人々は到着すると隊列を組んで医師の前を行進させられる。労働の可否を判別する為である。老人、身体障害者、病人、妊婦、乳飲み子を抱えた母親、ホモ、身長120cm未満の子供は非労働力として「生存の価値無し」と選別され、こうして約3/4の人達がガス室送りとなった。
労働能力有りと判定された人は正面、横、斜めの顔写真を撮られた後、囚人番号を腕に刺青される。しかしナチ・ドイツはもともと「労働力として収奪し尽くした後、抹殺する」という特定民族絶滅政策を執っている。( ガス室へ)行くも地獄、( 労働班に)残るも地獄である。

5.カポの鞭と高圧鉄柵
 労働班は夏冬通して1着きりの囚人服、1500cal / 日 程度の粗悪な食事で、一日中ほとんど休息なしに労働に酷使された。彼等を一層悲惨にしたのは、ドイツ本国の刑務所から送り込まれたマゾ的凶悪犯のカポである。カポとはイタリア語で親方の意味で、囚人頭として現場監督に当たった。
 労働の督励、懲罰に振るったゴムホースの鞭は乗馬用の鞭とは比較にならぬほど強烈で、時にはその場で絶命する者もいたという。殆どの者は2~3ヶ月で骸骨同様に痩せ衰え、やがてガス室送りとなっていった。
 耐えかねて逃亡を図る者には高圧電流( 三相交流380v とガイドは言う)を印加した二重の有刺鉄線柵が待っている。係員向けに「高圧危険」の立て札が立っているが、囚人には無地の裏側しか見えない。遂には自殺目的で感電死する者が続出し、その都度、所内停電が頻発したため、監視塔よりの射殺が強化された。
 それでも旧ポーランド軍の兵舎を流用したアウシュヴィッツ( 第1)はまだ良い方である。後で行くビルケナウの馬小屋式バラック棟に比べれば。

6.忌まわしい生体実験
 ナチの許し難いのは劣視民族絶滅の手段を探るため、男女囚人を使っての不妊・断種の生体実験である。若くて体格の良い男女約30人を実験材料に、聞くもおぞましい施術を週に2~3回行ったという。  また非労働力と見なされた子供でも双生児は別に温存されて、比較生体実験に供された。
 実験中または直後に死亡する者も多く、たとえ生き残っても秘密保持のため結局はガス殺されていった。

7.銃殺刑場「死の壁」と拷問室
 奥の第11棟には臨時裁判所( 室 )があり、2~3時間の間に百数十件の死刑がほとんど即決で下されていった。隣の中庭「死の壁」の前で裸で銃殺されたという。この日も沢山の献花が供えられていた。
 建物の地下は刑務所というよりは、むしろ懲罰のための拷問室である。餓死室では長崎で布教したこともあるマクシミリアン・コルベ神父もここで落命した。
隣の窒息室では僅かな明かり取り窓も積雪で閉ざされると、扉の監視用小穴しか空気が流通しない。直径1cm程の穴を拡げようと内側から爪で掻きむしった痕がある。見る者の胸も掻きむしられる思いがする。最後は長時間90cmに背を屈める「立ち牢」である。厨房前の広場には見せしめの為の公開集団絞首台が復元されている。

8.ガス室にゆらめく鬼火
 ガス室と焼却炉は有刺鉄線柵の外にあった。焼却炉の隣の、もと死体安置所であった広い部屋はシャワー室に見せかけたガス室に改造された。収容所より解放する前の衛生措置と偽って、男女とも頭髪を刈り、消毒、シャワー室、実はガス室に誘導して、一度に2000人を約30分でガス殺した。チクロンB.5kgから発する青酸ガスで事足りたという。
 薄暗いガス室に揺らめく慰霊の献灯がむしろ鬼火のようにさえ見える。見学の一行も段々言葉少なに、陰鬱な気持ちを抱きながら次のビルケナウ収容所を訪れる。

9.「死の門」から馬小屋へ
 オシフィエンチムからの鉄道引き込み線を飲み込むように「死の門」と中央衛兵所の建物が建っている。当時「一旦入ったら、出口は焼却炉の煙突しか無い」と恐れられた「死の門」である。
 衛兵所3階の監視塔から175ha( 約53万坪)にも及ぶ広大な収容所の全景をバンして眺める。貨車で運び込んだ収容者を「選別」した積み降し場の左側、煉瓦造りの建物群が女囚棟である。右側は52頭用馬小屋の設計図で建てた木造バラック群で男性用である。
 枕省略のため頭部に若干勾配を付けた木製3段ベッドがぎっしり。1段に8人を詰め込んで1棟に約1000人、全所で男女併せて10万人、最大16万人を収容したこともあるという。ただ監獄法規則とかで、全棟中央に暖房用横引き煙突が設置されているのが、堅苦しいドイツらしい。
 手前の第1棟は共同便所棟である。中央通路の両側に、2列の便穴を並べた細長い便器が据えられている。背中合わせに腰掛けて用を足す。勿論前後左右にセパレーターは無い。夜はそれぞれの棟内の便桶を使うが、それも使えない時は唯一支給された食器皿に排便したという。
 ビルケナウはもともと湿地帯のうえ、ろくに基礎工事も施さぬまま急造したバラック団地で、水の便も悪く、衛生的にはいろいろ問題を抱えていた。さらに鼠の大発生と伝染病の蔓延で、管理には可成り手を焼いたらしい。

10.殺人工場へ変貌
 引っ込み線の奥には4棟のガス室・焼却炉跡と国際慰霊碑がある。時間の都合で其処までは行けなかったが、150万人もの大量ガス殺は主にこちらで行われた。その2/3はユダヤ人だったという。
 ガス殺が増えるに伴い4基の焼却炉は24時間稼働しても追いつかず、ついには屋外の大きな壕で焼却したとのことである。こうしてこの収容所はナチスによる劣視民族絶滅の殺人工場へと急速に変貌していった。

11.解放、証言、オシフィエンチム博物館
 ドイツの敗色が濃くなるに従い、収容所内外の秘密抵抗組織の連携が強化され、所内ナチの残虐犯行、兵員・装備、士気の低下などの情報が外部にリークされていった。
 1945年1月、ソ連軍によって約7000人が解放されたものの、その多くは肉体的、精神的に極限状態にあった。また約200人の双生児が医学実験材料として、なおストックされていたという。
 これら生き残った人達の証言と破壊を免れた施設の調査でナチスの暴虐は明らかとなり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館として後世に語り継がれることになった。
 ヒロシマ、ナガサキの原爆とともに、「アウシュヴィッツ」はまさに人類の負の遺産である。
最後に、アウシュヴィッツ収容所元所長ルドルフ・ヘスが戦後1947年4月16日、収容所内の絞首台で処刑されたことを付記しておきます。

 本稿は自己の見聞に、国立オシフィエンチム博物館案内書、グリンピース出版会「心に刻むアウシュヴィッツ」、地球の歩き方「ポーランド」などを併せ参照して記述しました。
 なお福島県白河市の「白坂駅」近くの丘に江戸中期の民家を移築した「アウシュヴィッツ平和博物館」があり、アウシュヴィッツ強制収容所の一部の遺品、写真が展示してあります。同館で頒布の前記「心に刻むアウシュヴィッツ」には154件の関連図書名が掲載されております。
 右は白河の「アウシュヴィッツ平和博物館」

左はビルケナウの「死の門」・中央衛兵所の建物全景


下はビルケナウ収容所の航空写真( 絵はがきより)
手前が「死の門」・中央衛兵所、引き込み線の左側が現存している女囚棟、右が男囚棟、奥がガス室・焼却炉跡

チュニジア紀行(2004年3月)

1.遺跡の街ローマから チュニスへ
 3月6日、始発の地下鉄・バスで小牧空港へ駆けつける。国際線7時25分発NH338便で成田空港へ。ウイング違いのアリタリア航空へはシャトル・バスで。チェックイン、出国審査の後、11:30発AZ785便に乗り込む。乗客は疎らで3.3.3の窓側3席を占領する。雪景色のシベリアをひとっ飛びにローマ・フィウミチーノ空港に着陸する。時差-8時間のため同日の16:25である。
 夫婦2組と女2.2.1,男1.1.1に岡本TDの我々一行13名は60人は優に乗れそうな大型バスでホテルへ向かう。城壁、城門、水道橋、カラカラ浴場、サンジョバンニ・イン・ラテラーノ教会と、矢張りローマは遺跡の街である。2連・3連の路面電車と並行して、バス・タクシー専用レーンを走る。車の渋滞は無いが赤信号がやたらに多い。
 着いたエクスプレス・バイ・ホリデイインは今までのホリデイインとは様変わりのビジネスホテルである。ロビー、ダイニングは無く、簡単なカフェバーのみのB&Bである。部屋は日本のものよりも広かったが、バスタブは無く、シャワーのみである。
 7日は朝食もそこそこに10:20発AZ864便で地中海をひとまたぎ、11:35チュニス・カルタゴ空港に到着する。機内で配られたチュニジアへのEDカードは英語の表示が無く、アラビア語とフランス語だけなので記入に一苦労する。空港を出ると耳の長い4匹の「砂漠の狐」の像が愛くるしく迎えてくれる。昼食は海鮮材料を壺ごとオーブンで暖めた「クスクス」である。ナンのようなメリケン粉の蓋をナイフで切り裂いて皿に盛りつける。

2.タイルなら バルドー博物館
 チュニスではまずモザイクタイルでは世界一を誇るバルドー博物館を訪ねる。オスマン統治者の邸宅を利用したものだけに豪壮である。カルタゴの遺跡から出土した尖った墓碑、紀元2世紀のユダヤ教典、ギリシャ・ローマ時代の等身大の石像、その他工芸品。しかし此処の目玉はなんと言っても「ディアナの狩猟」など人間・動物を描いたモザイクタイルである。細かい色石を巧みに組み合わせて色の階調を精細に表現した秀作が揃っている。血まみれの動物に剣を振るう剣闘士のモザイクなどに目を奪われる。

3.白と青の町 シディ・ブ・サイ
 日曜日でお休みのメディナ( 旧市内 )のスーク( 市場 )は明日に振り替えて、シディ・ブ・サイドを見学する。町の名は「ブ・サイド聖人」という意味である。ほかにもシディ( 聖人の意 )の付く名称はよく見かけた。町を通り抜けた高台から見る、真っ青な地中海に白壁の家々とその青い扉とのコントラストが素晴らしい。
 引き返して町のランドマークでもある「カフェ・デ・ナット」へ入る。世界で最も古いカフェといわれるアラブ風の喫茶店である。バルコニーの椅子席で海を眺め、町を眺めながら、松の実入りのミントティー( @1.5D 、1ディナールは約90円 )をスローに喫する。時の流れがしばし止まったように。店の奥では花筵の席に上がり込んでティーを飲み、シーシャ( 水タバコ )をくゆらせながら悠々と時を過ごす土地の男達。女性客の姿が見えないのはイスラムの男尊女卑の所為か。午後6時になると土産物屋はばたばたと店を閉める。私達もシェラトン・チュニス・ホテルへ引き揚げる。

4.チュニスのメディナ( 旧市内 )、スーク( 市場 )
 翌8日はシャンゼリゼ風のカフェ・テラスが並ぶハビブ・ブルギバ通り ? では4両編成もの路面電車が走っている。ビクトワール広場のバブ・バール( フランス門 )からメディナのスーク( 市場 )へ入る。種々雑多な店が軒を連ねる。派手な形の鳥籠や、結婚式に使う花籠の店が華やかである。グランドモスクを取り囲むように香水の店が多い。モスク周辺では香水のような「高貴」なものしか扱えない決まりが有るらしい。その先の一角は昔、奴隷取引専門のスークだったとか。
 スークの中のカフェでミントティーを一服、@ 500ミリーム( 0.5D )である。シディ・ブ・サイドでは3倍の1.5D だった。シディ・ユセフ・モスクのバルコニー付きミナレットは後の建築家の手本となった有名なものである。スークを出た西側はカスバ広場だが、行政機関が多いため殆ど撮影禁止である。首相官邸周辺は自動小銃を持った兵士が警護している。

5.陶器の町 ナブール
 次いでチュニスを後に陶器の町ナブールへ。それを象徴するように巨大な陶器の花瓶がロータリーに据えられている。工房では轆轤と絵付けの工程を見学する。細密な模様を描き込んだ見事な大皿( 40D )には裏に絵付け師のサインが書き込まれている。しかし全般に焼きが甘く割れ易そうである。
 この町の青空スークでは当然陶器の店が多いが、真鍮細工、水タバコ器具のほか、特に目立つのがTatoo( 刺青 )の看板を掲げた装身具店である。刺青も装身具の一種と見なしているのだろうか。図柄見本の中には漢字もあった。

6.チュニジアのトップ・リゾート ハマメット
 綺麗な海岸沿いに暫く走ると、チュニジアのトップ・リゾート、ハマメットである。カスバ( 城塞 )を正面に見据えながら海鮮の昼食のあと、城の中にはいる。小規模ながら賑やかなスークがあり、その奥は一転して静かな住居地区である。城壁の外の海岸には異様な人魚像と民芸店が一店、客待ちの観光馬車も。ゆったりと時が流れて、地中海が眩しいほどに青い。

7.此処もリゾート スース
 海沿いに走ってスースの街ではまず城壁に囲まれたメディナへ行く。右手、教会のミナレットと思えば城塞の見張り塔、左手、城と思えばモスク、但し外敵に対しては城塞になる。ともあれ教会と城塞は表裏一体のようである。スークを一巡したあと、ガイドが適正価格だと奨めるショッピング・センターへ入る。この店頭にもTatooの看板があり、近くで背中に「愛」と彫った女性を見かけた。
 向こうのプロムナードのある岸壁にはロケにでも使ったのか海賊船が二隻繋留されている。入場無料ではあったが、キャビンにはホームレスの毛布らしきものが二三枚散乱していた。
スースのホテル、ディアール・アンダルースは海に面して広いプールを備えたリゾート・ホテルである。ロビーにゴルフ・パックの広告が貼ってあった。3ゴルフ場205D、4ゴルフ場5ラウンド359D、ゴルフ三昧である。街の割には立派なカジノも目に付いた。

8.「血と砂」 エル・ジェムのコロセウム
 明くる9日は広大なオリーブ畑を左右に見ながら南下してエル・ジェムのコロセウムを訪れる。紀元2世紀頃、オリーブ・オイルの交易で栄えたローマ時代に建設された円形闘技場である。紀元80年に完成したローマのコロッセオより規模は小さいが保存状態が良く、今でも毎年夏には音楽フェスティバルが行われる。イタリア・ヴェローナのアレーナ同様、現役のコロセウムである。1979年、世界遺産に登録されている。
 観客席の1階は国会議員、2階は軍人、3階以上は一般民衆及び奴隷だったという。支配者のロイヤル・ボックスは場内がよく見渡せる中央入口の上に設けられている。当時は猛獣同士、奴隷と猛獣との対戦の他、剣闘士同士のトーナメントも行われた。年間30人抜きを3回勝ち抜いた剣闘士は奴隷の身分から解放されたという。
 血生臭い決闘で汚された闘技場を整備するため撒いた砂をラテン語でアリーナと呼んだ、現在の円形演技場「アリーナ」の語源である。スペインの闘牛士が主人公の「血と砂」という映画を思い出した。続いて地下の剣闘士の控え室、猛獣収容室も見学する。ベルベル人の女王カヒナが701年、イスラム・アラブ軍と最後の決戦で果てた処と言い伝えられている。
 私達もベルベル人が逐われた跡を訪ねてマトマタへ向かう。しばらくはオリーブ畑を眺めながらバスは走る。時々首付き羊肉を店先に吊した店が目に付く。中にはその場で食べる客もいるのか、バーベキュー用コンロを備えた店もある。若い羊肉は、それを証する為わざわざ首付きで吊すという。
 ハニカム状煉瓦で新増築ながら中途で放置してある家をよく見かける。金があるときは煉瓦を買ってきて築造するが、無いときはそのままいつまでも放っておくという。道理で素人臭い工事である。

9.ベルベル人の穴蔵住居 マトマタ
 再び海沿いに南下を続ける。以前はリゾートだったという海岸も所々通り過ぎる。ガベスを過ぎるあたりから山地へ入って行く。やがてマトマタのベルベル人の穴蔵住居前に到着する。山肌から10m程掘り込んだ竪穴から、放射状に横穴を掘り進んだ居室が幾つかある。夏は涼しく、冬は暖かくてなかなか快適らしい。居室の上階は倉庫だという。
 女主人のファティマさん( 83歳 )がよく整頓された室内を案内してくれる。日本人観光客と見ると唯一覚えた日本語「フジヤマ」を連発して盛んに愛嬌を振りまく。帰り際にチップ`@ 1D、今では観光用住居のようで、シーズンには可成りの収入になろう。
 少し離れたところに「スターウォーズ」のロケ( バーのシーン )にも使われた穴蔵式オテル・シディ・ドリスがある。天井に奇異な模様を描いた穴蔵「バー」の隣の同じく穴蔵の食堂で昼食を執る。チュニジア風春巻きは意外に美味しかった。2階はドミトリー式の寝室でベッドが7台並んでいた。
 此処から乗り換えて行くべき4WD( 四輪駆動車 )がなかなか来ない。土産物屋の冷やかしにも飽きた頃、漸く2台が到着した。あと1台は途中で故障したという。3台に @ 4人が分乗して行く予定だったが、急遽2台に@ 6人が詰め込まれることになった。これから砂漠への道中が思いやられる。
 砂の広野に棗椰子が数本の小さなオアシスに、バー「サルタン」と看板の店がポツンと建っている。僅かの飲み物、スナック菓子とは対照的に「砂漠のバラ」と呼ばれる石の結晶は山盛り並べてある。とにかく貴重なトイレ・スポットではある。

10.駱駝ツァーとテント・ロッジ クサルギレン
 砂埃を巻き上げて走ることしばし、緑の森が見えてきた。クサルギレンである。棗椰子に囲まれたパンシー・ホテルにはプールもあり、早く到着していたら泳げただろうに。
 取り急ぎ荷物を降ろし、砂漠の駱駝ツァー( 約20分 )に出掛ける。先ず一こぶ駱駝への乗り方を見覚える。3匹縦隊に一人の御者が付く。先頭の駱駝は御者が手綱を握っているから問題ないが、後の駱駝はご用心である。駱駝の機嫌が悪かったのか、乗り方が拙かったのか、男性2人、女性1人が振り落とされた。砂地とはいえ約2mの高さから不意に落とされれば怪我もする。70余歳 の女性は起き上がれない程の重傷である。後で判ったことだが股関節脱臼らしく、数十km先のドゥーズの医院まで4WDで担ぎ込んだ。呉々も御者が手綱を取る先頭の駱駝に乗ることか肝要である。
 石油を探索していたら温泉が出たというこのオアシスには砂漠のすぐ傍に温泉池があり、一人の男性が泳いでいた。
 宿泊はこのツァーの呼び物テント・ロッジである。1張りに3ベッド、水洗トイレ、シャワー、エアコン完備の二重テントである。内側のテントは念入りに目張りがしてある。凄まじい砂嵐に備えてのことであろう。こういうテントが数十張り砂地の上に設置されている。

11.砂漠のオアシス ドゥーズから塩湖「ショット・エル・ジェリド」
 翌朝10日、いつの間に撮ったのか駱駝に乗っている写真を売りに来た、1枚買う。今日は4WD(トヨタのランドクルーザー) 3台に分乗して出発である。駱駝の放牧を眺めながら昨日の小オアシスに立ち寄る。丁度店員がナンを焼いていたので1枚( 0.5D )買って、皆に小分けしながら食べる。噛むほどに味わい深い。傍らのテントには砂地に直に毛布が敷いてある、この店員の寝所らしい。
 太い送油パイプが路傍に数本づつ縦列に放置してある。砂嵐で道路が埋まるのに備えての目印とのことである。
 遊牧民族の交差点らしく、ドゥーズの街に近ずくにつれ、羊や駱駝の放牧が目に付く。街の青空スークでは部族毎に異なったデザインのペンダントを売っている。ミント・ティー1袋を買う( 1D )、後日チュニスのスーパーでは3袋で1Dであった。昼食を執ったホテルのロビーに見事な能衣装が飾ってあった。トイレのタイルも精巧で地方都市にしては・・・と感心する。
 この街を出るとケビリ経由いよいよ塩湖「ショット・エル・ジェリド」( 塩の層に覆われた湖の意 )の横断である。一直線に続く道路脇の水際に塩が白く析出している。そのうち塩田、塩の小山、製塩工場が見えてくる。遙か彼方にオアシスらしい森影が現れる、「あれは蜃気楼 ! オアシスと信じて乾いた塩湖を歩き続け、遂に水、食料が尽きて行き倒れた人もいた。」とガイドが解説する。途中に唯一カ所、粗末なトイレを併設した土産物屋がある。トイレ休憩には不可欠の店である。

12.山のオアシス3渓谷 シェビカ、タメルザ、ミデ
 塩湖の北岸トズールを通過してしばらく走ると「山のオアシス」シェビカ渓谷である。一木一草も無い山間の谷間に僅かに水が湧き、棗椰子が茂る。正に山のオアシスである。1969年の大洪水でベルベル人が放棄した廃村があり、「インディー・ジョーンズ(レイダース) 」もロケしたという秘境ムードが漂っている。大昔は海だったのか、山肌をよく見るとアンモナイトらしい貝の化石が露出している。
 次はタメルザの滝を見に行く。ここも山のオアシスで、グラン・カスカド( 大滝 )というささやかな滝が流れ落ちている。土産物屋が数軒あるだけで、周囲は勿論禿げ山である。
 続いて訪れたミデス渓谷はアルジェリアまで2kmという国境の谷である。バルコニー・オアシスと呼ぶ地点は足元から地球の割れ目のような狭くて深い谷が延びている。殆ど水平に延々と続く鮮明な地層はミデス峡谷の年輪のようでさえある。1997年アカデミー賞の映画「イングリッシュ・ペイシェント( イギリス人の患者 )」もこの峡谷でロケしたという。
 今夜の宿は荒れ地にぽっかりと現れたようなタメルザ・パレス・ホテルである。3週間も降り続いたという1969年の大洪水でベルベル人が捨てた廃村が大きな涸れ川越しに眺められる。こちら側はプールもある豪華な四つ星のリゾート・ホテル、川向こうは古代の廃墟のような集落のパノラマ。一瞬異次元の時空を往復しているような錯覚に捕らわれる。

13.宇宙ロケに最適 オング・ジャメル砂丘と塩湖「ショット・エル・ガルサ」
 11日はサハラ砂漠の日の出を見ようと3:30 モーニング・コール、4:45 出発で一路砂漠の真っ只中へ。6:00 目的地のオング・ジャメルという小高い砂丘へ到着、次の発進でタイヤがめり込まないように4WDを、下り勾配に駐車する。早速土産物売りの男が数人、いつの間にか、忽然と地から湧いて来たかのように近づいて来る。1Dの民芸ペンダントには女性客の人気が集まり、結構売れたようである。6:20漸く朝日が昇り始める。地平線は薄雲で少し霞んだ太陽である。
砂丘の遙か彼方にぽつんと異様な集落が見える。近づくと、なんとスターウォーズのロケに使った異星人基地のオープン・セットである。ロケットのミニチュアも数本立っている。10数年経った今ではさすがに損傷も進み、内側の張りぼても無残である。動植物の一切無い空間は地球外の宇宙のシーンには最適であろう。
 続いて真っ白に乾いた塩湖「ショット・エル・ガルサ」にある奇岩ラクダ岩を見に行く。此処も珍奇な風景としてロケによく使われるという。この異空間からスベイトラに向かう途中、砂漠の彼方に大型飛行機とコントロール・タワーが見える。これも蜃気楼かと一瞬目を疑うが、トズール・ネフタ国際空港であった。周辺の観光リゾートを楽しむため、主にフランスからほぼ毎日直行便があるという。ガソリン・スタンドで給油中、二部制授業に登校中の女学生にフランス語で声を掛けたら、通じたらしく笑顔が返ってきた。

14.ビザンチン遺跡 スベイトラ
 サハラ砂漠ともお別れで、4WDからバスに乗り換える。スベイトラの遺跡見学は先ずローマ式の半円形劇場から始まる。この劇場でも歌舞伎の黒子のように、台詞の助っ人プロンプターの控え室がある。客席の後方を真っ直ぐ、大通りを進むとアントニウス・ビヌスの門を潜り、フォルム( 公共広場 )へ出る。正面にコリント柱のミネルバ、ジュピター、ジュノの3神殿が立ち並ぶ。資産家が財力を誇示し、人望を集めるために建てたのだとガイドは言う。
5 0ヘクタールにも及ぶこの遺跡は7世紀半ばにチュニジアに建設されたビザンチン最後のものである。洗礼槽、避暑目的の地下室、その見事な床タイルなどローマ式都市のたたずまいを知る上で貴重な遺跡である。まだまだ未発掘の面積も大きいという。

15.ケロアンの宿は城塞 「ラ・カスバ」
 ケロアンへの道中では砂漠から緑野へと、車窓が次第に移り変わって行く。ケロアンのカーペット工房では次々に床に拡げて見せてくれるが買った人は居なかったようである。中近東の旅などで既に購入済みなのであろうか。デザイン、配色、見る角度で色調が変わるなど、なかなか豪華なものではあった。
 11月7日通りのスークではカーペットのほか、ベリーダンスでも着られそうな派手なドレスを路傍に並べ立てている。また土地名物の鄙びた菓子「マックロード」( 棗椰子の実を蜂蜜のしみ込んだ生地でコーティングした菓子 )の店が多い。店頭での実演販売では間合いの良いタイミングの口上でつい2つ3つ買ってしまう。此処と思えばまたあちらと場所をかえながらの、商売熱心な香料屋台もある。
 今夜の宿泊は城塞の中のズバリ、「ラ・カスバ」ホテルである。城壁の外には大砲まで据えられていたが、ホテル内部は一般の観光ホテルと変わらない。

16.大貯水池と大モスク ケロアン
 翌12日の見学は街の北、アグラブ朝の貯水池から始まる。西方36kmから導水路によって運ばれ、浄水池を経て大型貯水池に蓄えられる。9世紀当時の最高技術で建設された14の貯水池も、現在なお4池がケロアン市民に上水を供給している。
 再び城内に戻りグランド・モスクを見学する。重厚な煉瓦の四囲は要塞を思わせる。大理石を敷き詰めた中庭の中央に向かってゆるやかに勾配し集水口、その下に貯水槽があり雨水を貯めている。中庭を囲む回廊の華麗な壁タイル、豪壮なレバノン杉の扉など目を瞠るものがある。礼拝堂はムスリム( イスラム教徒 )以外は入れないが、入り口からメッカの方向を示すミフラーブの壁を見ることが出来る。
 中庭の反対側には高さ31.5mのミナレットがある。728年に築かれた最下段はイスラム最古のもので、キリル文字が読めない職人が築いたのであろう、文字が上下逆になっている。角石はビザンチン遺跡から持ち出されたものだという。640年建立、9世紀のアグラブ朝に再建されたこのモスクは北アフリカ最古最大のものである。
 次の目的地ドゥッガへの道中では山頂まで届く広大なオリーブ畑が続く。昼食はホテルのレストランで猪肉のステーキであった、意外に臭みは無かった。

17.チュニジア史の縮図 ドゥッガ遺跡
 アフリカを代表するローマ遺跡として1997年世界遺産に登録されたドゥッガ遺跡は規模、保存状態とも最も優れたものの一つと言われている。ヌミディア、カルタゴ、ローマ、ビザンチンとチュニジア征服の歴史を示す複合遺跡でもある。
 先ず出会うのが168年に建てられたローマ式半円形劇場で、ほぼ原型に近く保存されている。背後の山では放牧の牛や羊がのんびりと草を食んでいる。轍の跡が凹んだ道路、凱旋門、商店、そして都市の中心フォルムからキャピトルへ。其処にはユピテル、ユノー、ミネルヴァの三神を祀るコリント柱の神殿が荘厳に聳える。しかし中央のユピテル像は今は無い。
 ローマ人の住居跡を通ってメインストリートを下り、トリフォリウム(クローバー)の家へ行く。これは公営売春宿で、家の名前は例の小部屋「クローバーの間」から来ている。前金を支払って階段を下りると中庭に面して幾つかの小部屋がある。一方通行で他の客と顔を合わせることもなく、出口はその先にある。12穴の共同便所はセパレーターも無く、青空の下おおらかな情景である。アーチの石組みや浴場の床タイルもよく保存されている。
 遺跡の南端に近くベルベル人の墓といわれる石塔が建っている。ただし1842年崩壊のため、フランス政府が再建したものだという。

18.ヌミディアの地下住居 ブラ・レジア遺跡
 引き続きブラ・レジア遺跡へ移動する。地上には2世紀に建てられたというユリア・メムニアの大浴場が目立つくらいで、此処の見所は北部の地下住居群である。夏の暑熱を避けるため地下に上下水道完備、中庭付きの住居を築き、床には見事なモザイク画が描かれている。中でもアンフィトリテの家のトリトンとアフロディテのモザイク画はブラ・レジアで最高の傑作といわれ、2世紀頃の作品とは信じられないくらい保存状態がよい。サウナ風呂の焚き口、チューブボルトを使ったアーチ工法の跡などを見ることが出来る。
 ブラ・レジアの盛衰はヌミディア王国の興亡でもある。ベルベル系民族のヌミディア王国はカルタゴ時代はその勢力下に、第二次ポエニ戦争後はローマの同盟国に、第三次ポエニ戦争後はローマに反抗して滅ぼされ、その属州となって栄えた時期もあったが、ビザンチン時代以降は衰退し、今では無人の都市遺跡を残すのみである。

19.現地ガイド・ロトビー君の談話
 この辺の鉄道は総て単線で、殆ど貨物輸送用だという。チュニスへの道すがら、現地ガイド・ロトビー君の談話にしばし耳を傾ける。
 「驚異の戦後復興を成し遂げた日本の活力を絶賛する教師に感化されて、大学では日本語科を卒業した。再度来日して東京、名古屋、京都、広島を歴訪した。二度目は日本民放の招きで超長身のチュニジア人を案内して来た。日本人観光客がもっと沢山チュニジアに来てほしい、まだ独身中。
 なおチュニジアでは独身の特権として、金の無いときはカフェの茶代は免除される。しかし妻帯後はいかに失業中でも支払わなければならない。」と。
 ようやくチュニスに帰り着く。今日はなかなかの強行軍であった。

20.ケリビアから カルタゴ遺跡ケルクアンへ
 13日はボン岬の遺跡歴訪である。先ずはケリビアのビザンチン要塞へ。5世紀のカルタゴ時代を経て6世紀からのビザンチン時代に城塞が築かれた。城壁は威厳を保っているが城内は殆ど見るべきものはない。ケリビア港に向かって据えられた大砲が不気味である。強風にあおられながら城壁の上から見渡したパノラマは壮観であった。
 次はいよいよ世界遺産ケルクアンの古代カルタゴ遺跡である。先ず町の北西の岩山から発掘されたネグロポリス( 墓場 )の副葬品、異形の墓石などを陳列した博物館を見学する。
 ケルクアンの町は紀元前6世紀頃カルタゴ人によって築かれ、紀元前2世紀、第一次ポエニ戦争でローマ軍によって破壊された。その後町を再建しなかったため、建物の底部が遺され、整然とした都市計画と各戸の構造を知ることが出来る。住居は真っ直ぐ中庭に進み、それを囲んで生活の場が配置されている。赤いセメントで造られた浴室、竈、貯水槽、排水溝、二階への石段が2~3段、シンプルな床モザイクも。ささやかながら皆同じような構成である。
 ローマ人が公共大浴場を建設したのに対し、カルタゴ人は各戸に小浴室を設備したのは、染色過程で発生する紫貝の腐臭を洗い流すためという説もある。因みにフェニキアとはギリシァ語で「紫」の意である。
 海に近くアポトロバイオンの円柱群跡にはカルタゴの守護神タニトを表した床モザイクがあり、神聖な場所とされている。集落の中心部にフォーラム( 中央広場 )が有るのはローマ遺跡と同じである。貴重なフェニキア遺跡として1985年世界遺産に登録されている。

21.石切場エル・ハワリアと 「カルフール」ショッピング
 昼食はエル・ハワリアのレストラン・レ・グロット( 洞窟の意 )でトマト煮の海鮮料理「ウジャ」を食した。この石切場は石質が良いとして6世紀ローマ時代のカルタゴ都市建設には大量の石が切り出された。より良い石質を求めて幾つもの洞窟が掘り進まれた、中でもガル・エル・ケビルは最大の切り出し穴といわれている。
 岬の丘に風力発電のプロペラが数十基林立しているのを眺めながら、チュニスへの帰路に就く。チュニス郊外のフランス系スーパー「カルフール」でクッキー、ワイン、オリーブオイル、ミントティーを買う。おおまかに言えば食品は日本の半値以下、家電など工業製品は倍以上の価格である。店内は一切撮影禁止、ワイン売り場は袋小路式で、唯一カ所の出入り口は係員が監視 ? している。小売業としてはカルフールは世界第2位の売上高という。

22.「平家琵琶」のようなマルーフ
 今夜はチュニスのメディナの「エッサラヤ・レストラン」で民族音楽マルーフを聞きながらの夕食である。スークの元富豪の邸宅を改装したもので、中庭に天井を取り付けてダイニングルームにしている。従って周囲に個室もあれば、二階にはバルコニーもある。
 入り口に近く薄暗いところに黒い僧衣を纏ったような男が琵琶に似た楽器を抱えて着座している。やがて満席に近づいた頃、弦を掻き鳴らしながらマルーフを吟じ始める。吟遊詩人もさぞやと思わせる纏綿たる情緒である。日本ならさしずめ「平家」を語る琵琶法師というところであろうか。物静かに、或いは高らかにディナーに興を添える。宴の余韻に浸りながら、昼間の喧噪とは打って変わった夜更けのメディナを後にホテル・シェラトン・チュニスへ引き揚げる。

23.ビュルサ伝説と 古代カルタゴ遺
 翌14日はチュニジア最後の行程である。TGMと呼ばれる郊外電車と、時に併走しながらカルタゴに到着する。カルタゴは現地ではフランス語式にカルタージュ(CARTHAGE)と呼ばれている。カルタゴの遺跡はTGMのカルタージュ・サランボ駅からカルタージュ・アミルカル駅まで6駅に亘って分布している。
 先ずビュルサの丘へ上る。伝説に依ればこの丘の名は、王位争いからフェニキアを逐われた王女エリッサが放浪の末、紀元前814年、此の地に辿り着き、牛の皮(ビュルサ)を細長く切り裂いて土地を囲い、丘を手に入れたことに由来するという。はじめはカルト・ハダシュト(フェニキア語で「新しい町」の意)と称していたが、後にローマ人がカルタゴと呼ぶようになった。
 眼前に威容を誇るのは十字軍遠征でこの地に没したフランス国王聖ルイ9世に捧げて建てられたというサン・ルイ教会である。横を通り抜け紀元前3世紀ポエニ時代のカルタゴ住居跡を見学する。中庭を囲んで「狭いながらも楽しい我が家 ? 」の跡が画然と並んでいる。
 カルタゴ博物館ではカルタゴの変遷の見取り図、墓碑、副葬品、人骨、剣で突き刺した穴のある鎧などの出土品が展示してある。チュニスのバルドー博物館には及ばないが、カルタゴ最古といわれるモザイクタイルを始め、狩猟の図を描いたモザイクの大壁画が床に展示してある。これを二階への階段から眺めるとその巨大さが実感できる。館外の敷地にはかつて建っていたであろう建物の円柱の底部が遺されている。
 丘を下りて古代カルタゴ軍港に行く途中、ポエニ人の墓地トフェがある。カルタゴの守護神タニト神を祀る聖域とされていたが、今は数十基の墓石が散乱しているだけである。中に何基か、神への生け贄に捧げられた一歳未満の嬰児の墓といわれる小さな墓碑があり、思わず合掌する。
 一見、中の島のある池のように見える古代カルタゴ軍港の畔を散策する。直径約300mの円形ながら、古代軍船220隻を繋留することが出来たという。隣接して横長の商業港が水路で繋がっている。
 東へ移動して、1988年に修復されたアントニヌスの大共同浴場を見学する。2世紀ローマのアントニヌス・ピウス帝が建設したもので、二階建て、冷温浴の大小100余の部屋を持つ一大温泉レジャーセンターであったという。
 この東隣はチュニジア大統領官邸のためカメラを向けることは一切禁止されている。今やカルタゴ一帯は高級住宅地として各国大使公邸や別荘などが建ち並び、遺跡はその間に点在している状態である。これら一連のカルタゴ遺跡は1979年世界遺産に加えられた。

24.神業 テルミニ駅~フォロ・ロマーノ間を30分で往復
 此処からチュニス・カルタゴ国際空港は近い。空港で昼食代わりにサンドウィッチを頬張って12:35 AZ863 アリタリア航空で飛び立った。離陸して間もなく、あのドーナッツ型の古代カルタゴ軍港を俯瞰することが出来た。
 機内食も無いまま13:55ローマのフィウミチーノ国際空港に着陸する。滑走路は殆ど海岸沿いで、こんなに海に近い空港とは知らなかった。
 成田行き20:45まで待ち合わせ時間があるので、ローマの街へ出ようということになった。空港駅からテルミニ駅行きの切符は空港線オンリーのため簡単に買うことが出来た。9.5Euro(約1300円)、ノンストップで約30分。しかしテルミニ駅で帰路の切符を買うのには難儀した。どの出札窓口も長蛇の列、自販機は英・独・仏・伊・西・蘭語を選択して次々と数画面を操作しなければならぬ。やむを得ず、どこかの添乗員らしき日本人男性をつかまえて手伝って貰った。
 メトロでフォロ・ロマーノへ行くつもりだったが、段々時間が無くなってタクシーで駆けつけた。チップ込み10Euro。日曜日のため人出は多かったが交通渋滞も無く約10分で到着する。しかし残念ながら冬季は15:00で閉場のため、フォロ・ロマーノの中には入れなかった。大急ぎで道路脇から全景をビデオとデジカメで撮影してタクシー乗り場へ。運転手に「テルミニ駅へ」と言うと「メトロか、トレインか ? 」と聞いてくる。「空港へ行くのだからトレインのテルミニ駅だ」と答える。
 来るとき覚えておいたが空港線は26番線である。しかしいくら見渡しても1~24番線までしか見当たらない。警備員らしき職員に尋ねたら右側ずーっと( 約200m ? )前方だという。殆ど小走りに17:22発空港行きに飛び乗った。テルミニ駅~フォロ・ロマーノ間往復たったの30分、あとから思うと正に神業であった。

25.帰国 明暗
 ユーロ圏外への出国審査を念入りにチェックしているためか、数カ所の窓口がどれも大混雑である。搭乗ゲートまで約1時間半かかってしまった。アリタリア航空AZ7788便はJAL400便と共同運航のため日本人スチュアーデスも多く、イタリア人スチュアーデスも日本人顔負けの物腰で、早くも国内線ムードである。このジャンボ機では二階席であった。15日17:00成田着、入国手続きの後、19:30全日空NH339便で名古屋空港着20:40。無事流れ解散となった。
 駱駝ツァーで負傷した老婦人は、無理にでも皆と一緒に帰国したいと熱望したが、旅行保険の傷害治療は医師の指示通りが原則で、それを逸脱した行動は以後一切自己負担という。やむを得ず小康を待って俄介護人となった友人と共に2~3日遅れて帰国したようである。

26.カルタゴの興亡と チュニジア概史
 最後におさらいとしてカルタゴの興亡とチュニジアの歴史を概観しておこう。
 ビュルサ( 牛の皮 )の「伝説」はともかく、カルタゴの興亡は3000年の昔に遡る。地中海東岸地方(主としてレバノン)の民だったフェニキア人は造船、航海、通商に優れ、地中海交易の中継基地としてカルタゴに植民都市を建設した。紀元前6世紀には最盛期を迎えたという。
 これに対し地中海の覇権をめぐってギリシャ、ローマと対立し、三次( 前264~前146 )に亘るポエニ戦争( ローマ人はフェニキア人のことをポエニと呼んだ )の後、カルタゴは滅亡した。勇将ハンニバルがローマ軍を散々苦しめたのは第二次のときであつた。しかしカルタゴはローマ支配下にあっても、好立地から再び繁栄を取り戻し、ローマ、アレキサンドリアに続くローマ帝国第三の都市となった。
 降って2~4世紀、ローマ帝国の衰退と共に、ヴァンダル人( ゲルマン民族の一部族、439)、ビザンチン( 東ローマ帝国、534 )、イスラムを信奉するアラブ軍( 647 )が次々に侵攻する。先住ベルベル人の抵抗、アラブの内部抗争などを抱えながらも歴代のイスラム王朝はチュニジア全土を制圧してきた。
 これに対しスペインはレコンキスタの余勢を駆ってイスラム追放を狙う( 1525 )が、一方イスラム国家オスマン・トルコはこれに対抗( 1574 )、借金の形に付け入るフランスは遂にチュニジアを植民地化してしまった( 1878 )。
 
 しかし1956年遂に独立。その間も尚チュニジアはイスラム国家であり続けた。因みに3月11日スペインで起こった通勤電車爆破テロの首謀者の一人ファケットはチュニジア人である。

 本稿ではダイヤモンド社「地球の歩き方・チュニジア」を一部参照させて頂いたことを付記します。
(←シェビカ渓谷でTD岡本さんと林さん)





 

この26節の写真は上から、カルタゴ古図、ベルベル系ヌミディアのブラ・レジア遺跡、ドゥッガのローマ遺跡、ケリビアのビサンチン要塞、ケロアンのイスラム大モスク。