2010年4月7日水曜日

初冬の熊野古道を歩く(2001年12月)

一、熊野詣でとは  
 京から遠く離れた熊野は黄泉の聖地として古くから畏敬されていた。熊野の「熊は隈に通ず」として、中央に対する僻遠、陽・顕に対する陰・蜜の意味が込められている。特に熊野三山は死者の霊魂が鎮まる霊地として平安の昔より、貴賎男女を問わず尊崇されていた。後白河上皇は年2回、通算34回も供奉数百人を従えて熊野御幸をしたという。
    
 京・大阪(天満橋付近が起点)よりは主に紀伊路(熊野街道)、田辺から中辺路を経て熊野本宮に至る経路である。その道中には熊野(ユヤとも読む)権現の御子神を祀る九十九王子社があり、時には歌合をしながら巡拝して熊野詣でをした。田辺から更に熊野灘沿いの大辺路、高野山から高野聖も通ったであろう小辺路、吉野からは大峯修験者の奧駈道(大峯道)もある。

 江戸時代に入ると伊勢参宮のあと伊勢路(東熊野街道)からの熊野参詣が盛んになり、那智大社に隣接する青岸渡寺を第一番札所とする西国三十三箇所の巡礼が流行した。引きも切らぬ巡礼者の行列を指して「蟻の熊野詣で」と評されるほど当時は賑わった。

 熊野三山とは熊野夫須美神(別称イザナミノミコト)を主神とする那智、速玉神を祀る速玉、家津御子神(実はスサノオノミコト)を中心に祀る本宮の三大社をいう。本地垂迹では夫々の神を観音佛、薬師佛、阿弥陀仏の化身として三所権現ともいう。修験僧等が勢力を広げたときは仏教色の濃い寺社と見なされた時期もあった。

二、伊勢路
 こういう古道を歩いてみたいと思っていたところ「熊野古道・大門坂と熊野詣でのクライマックス中辺路を歩く」一泊二日の旅の広告が目に付いた。早速申し込み12月4日朝7時半、三重交通のバスで名古屋駅西より出発した。男9人、女13人(内夫婦4組)と添乗員(中村和美さん)の総勢23人で、殆んど山歩きの常連らしい。伊勢自動車道安濃SA、国道42号線尾鷲、七里御浜、那智で小休止を執りながら那智大社へ。
 途中ツヅラト峠(九十九折り峠の意)近くの荷坂峠からは急に視界が開けて紀伊長島町から熊野灘が見晴らせる。巡礼者たちはこれを補陀落の海(南海にある観音浄土)として大いに感動したという。

熊野市では鬼が城、獅子岩を経て花の窟神社前を通過する。この神社は高さ70メートルの巨岩をご神体とする日本最古の神社とされ、火霊神カグツチを生んだときの大火傷で亡くなったイザナミノミコトの御陵といわれている。

 この間42号線から熊野古道伊勢路の難所始神峠・馬越峠・八鬼山峠・松本峠に向かう道標が目に付く。名古屋から既に4時間、持参の弁当は車中で執る。新宮市の速玉大社には今回は立ち寄らず、不老不死の仙薬を求めて秦より渡来した「徐福」の記念公園を左にして那智勝浦町に入る。

 那智浜の潮垢離場、浜の王子の隣は補陀落山寺である。ここには観音浄土を求めて、この浜から南海へ補陀落渡海(一種の入水往生、即身成仏)した僧侶・修験者の墓がある。

三、大門坂から那智大
 いよいよ那智大社の入口、大門坂に到着。宿場跡、関所跡、下馬石碑に続いて大門茶屋がある。ここでは熊野詣での平安衣装を貸してくれる、撮影1000円、散策2000円。

 振ヶ瀬橋を渡ると樹齢800年の夫婦杉が古道の両側に亭亭と聳えている。20段ほど石段を登ると中辺路最後の王子社たぶき多富気王子跡がある。神仏への「手向け」が訛ったものといわれる。約600メートルに及ぶ石段の坂道は古道の面影を最も美しく残しているとして「日本の道百選」にも選ばれ、写真撮影には最適である。十一文関跡からは那智の大滝が望見出来る。あと120段ほど登ったところが大門跡の広場である。

 土産物屋で無料の杖を借りて那智大社の長い石段を登る。登り疲れたころ「那智山熊野権現」の額を掲げた赤い鳥居に辿りつく。右は西国三十三箇所一番札所の青岸渡寺である。左の石段を更に登ると熊野三山のうちで昔の姿を最も残しているという那智大社の朱塗りの社殿がある。右奧の門から隣の青岸渡寺へ続く。本尊は勿論、観音様である。

 裏山からは熊野本宮に通じる最大の難所、大雲取越えが始まる。途中から折れて妙法山阿弥陀寺(女人高野)へも行ける。

 朱い三重の塔の奥に見える那智の滝は誠に壮観である。だらだら坂を降りて滝をご神体とする飛滝神社に行く。133メートルの直落差は日本一、鳥居越しに仰ぐ大滝はさすがに神々しい。

 参拝を終り再び那智浜から新宮市に戻り、熊野川右岸を遡って今夜の宿「湯の峯荘」に到着する。熊野詣での湯垢離場として知られ、我が国最古の温泉といわれる。淡い硫黄泉で湯ノ花の化石佛の胸から温泉が湧いたというので元は湯の胸温泉と呼んだ。毒酒を盛られた小栗判官が湯治したという壺湯へは、宿からは離れていて行けなかった。

四、中辺路
 明けて5日は熊野古道のクライマックス中辺路である。朝霧立ち込める「湯の峯荘」を後に熊野本宮大社前へ。此処で本宮町の元産業観光課長だった語り部佐古さんが同乗して発心門王子社に行く。此処は大社聖域の入口に当たり、九十九王子社の中でも格の高い五体王子の一つである。人々はここで心身を祓い清めて聖域に足を踏み入れたという。

 後鳥羽上皇に供奉の藤原定家が泊まったという尼南無房宅跡が社の後ろにある。
語り部が路傍の小祠を「歯痛の石仏」と指差すと皆が慌てて掌を合わせる。小さな村落を通り抜けた水呑王子跡にも「腰痛の石仏」が祀られている。旧小学校の一角にある王子碑の傍には岩清水を掬む柄杓が置いてある。当時も道中の休息・水呑場だつたのだろう。
 前に果無山脈、後ろに音無川(音無紀美子はこの近くの出身)を控える民家の前で大層深い菊水井戸の釣瓶を手繰ってみる。この辺には但馬仔牛(神戸牛)を肥育する農家が多いとか。

 しばらく村道を行くと伏拝王子である。現地の人はフショガミと呼ぶ。はるばる熊野詣での人々はここから遥かに見える大社の杜を伏し拝んだという。ここで「月の障り」を嘆いたという和泉式部の供養塔婆もある。あたり一帯に「NHKほんまもんのまち本宮町」の幟が林立する。近くの民家の外装を整えて山中木葉の家とし、樹上に櫓を組んで瞑想のシーンをロケしたという。茶畑の一隅には「山中フジの墓」が本物の御影石で建ててある。

 ロケを機会に観光で町おこしをと願う町民の気持ちも判らぬでは無いが、山深い熊野古道のあちこちにPR幟をなびかせるのは如何なものか。少々鼻白む思いである。

 初冬の山道は枯葉をカサコソではなくザクザクと踏みしめて歩く。よくした下枝打ちをした杉林は神域の風情があるが、手入れの行き届かぬ森林は、伸び放題の下枝があたかも悪魔が手を絡ませたようで鬼気迫る思いさえする。ところどころに「蘇生の森 熊野古道」の石碑が建っている。地方自治体が世界遺産登録を目指して古道周辺の杉檜林の整備保全に乗り出しているようである。

 杉林を抜けて橋を渡ると三軒茶屋跡と九鬼口関所跡に出る。傍らに「右高野口 左紀三井寺(西国三十三箇所の二番札所)」の小さい道標が蹲っている。近世の関所通行料は酒一升分位だったらしいと語り部は言う。また夫婦の関所手形は夫の名だけ記し、妻は女房とのみで記名は無かった。今でいうパスポートのようなもので、傷病のときは介抱を、行き倒れたときは現地の風習に従って葬ってやってくれとの一文があつたとのこと。

 今回のコースでは目にしなかったが、伊勢路の峻険な古道の傍らには参詣の願い半ばにして異郷に骨を埋めた巡礼たちを供養する無縁石仏が多いという。
左脇道を登ると見晴台に出る。熊野川、片や本宮大社の全景が眼下である。

五、本宮大社と大斎原
 山坂を降って大社の裏手に当たるところに祓戸王子がある。この石祠の前で長旅の穢れを祓い清めて社殿に向かったものである。祓所、祓殿とも書くが何れもハライドと読む。
 熊野本宮大社は家津御子神(実はスサノオノミコト)社殿を中心に、向かって左隣にイザナギ、イザナミノカミ、右隣に天照大神の四社がある。元は熊野川の中州にあつたが、明治22年の大水のとき流失を免れたこの上四社だけは現在の高台に移された。流されてしまった中四社と下四社は旧社地(おおゆのはら大斎原)に石祠として祀られている。

 大斎原には高さ30余メートル?という日本一の大鳥居が平成に入って建てられた。その頂門に描かれたヤタガラスは熊野の神使として神聖視されている。此処にも「蘇」の字を刻んだ大石が据えられている。
 左手熊野川の向こうには大峯修験者の奧駈道を抱く山波が横たわる。ここ大斎原の芝生で当地名産めはり寿司・さんま寿司の入った弁当をひろげる。

六、参詣を終えて
 熊野古道は「紀伊山地の霊場と参詣道」として2001年4月ユネスコの世界遺産暫定リストに登録された。早ければ2004年にも本登録をと地元プロジェクトは意気込んでいる。

 既に世界遺産に登録されているキリスト教巡礼道「サンチャゴへの道」と姉妹道の提携をしたという。
 大社前で語り部の佐古さんとも別れ、旅の疲れを癒すべく川湯温泉の仙人(千人)風呂まで足を伸ばす。川床から湧出する温泉を川水でうめて入浴する男女混浴の露天風呂である。海水着着用の更衣室は、女性用はよしず張りながら男性用は簡単な衝立程度である。

 膝上くらいの深さだが底は角石が多い。立って歩くと体重が掛かって足の裏が痛いので全身を湯に漬けて、体を浮かせて手で歩く。
 全行程を終えて帰途に、尾鷲と関のドライブインで小休止して一路名古屋へ。定員45人のバスを客22人で座席指定、オール禁煙、カラオケ無しで快適なバス旅行である。予定より早く午後8時に名古屋駅に到着した。

 この旅の前夜、熊野古道のイメージを想像して泉鏡花の「高野聖」を読み返してみた。飛騨の深山に踏み込んだ富山の薬売りを馬に化身させてしまう女の魔力に、読み終わってゾッとする。今回歩いた熊野古道は道幅もあり、石段・石畳もまずまず整っていた。先月踏破した赤目滝の裏山から落合への杣道の方が「高野聖」の雰囲気に、より近いと思った。

 魂の蘇生を願う熊野詣でというと何となく陰陰滅滅たる情景を想起させる。しかし黒潮洗う熊野灘は海の幸にも恵まれ、温暖多雨のため蜜柑栽培や杉・檜の林業も盛んである。

 戦国の世には九鬼水軍や雑賀衆など勇壮な軍団も輩出した。熊野はむしろ陽明の地とさえ思えてくる。

 本稿記述に当たっては関係自治体観光協会発行の地図・パンフレット・ガイドブック、特に小倉肇著「伊勢から熊野へ、再生を願う巡礼の道、東熊野街道」を参照させて頂いた。

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