2010年4月30日金曜日

スリランカに佛跡をたずねて(2002年12月)

1.スリランカとは
 2002年掉尾の旅行はセイロン紀行である。タミル人過激派「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」による20年来の内乱も漸く治まり、観光渡航が出来るようになった。
以前にインドからネパール、チベットを経て中国の敦煌、西安への北伝の大乗仏教の跡を辿ったことはある。今回はスリランカからミャンマー、タイ、カンボジヤへと伝播していった南伝の上座部仏教遺跡探査の第一歩となった。
 セイロンとはサンスクリット名シンハラ・ドヴィーパ(獅子を殺した者の島)をアラビア人がサラン・ディープと呼び、ポルトガル人が更にセイラーンと訛ったもので、異国人の呼び方である。1972年イギリスより独立した際に、自国民が従来から呼び慣れたスリ(光り輝く)ランカ(島)と改称された。
北緯8度付近に位置するこの島は「インド亜大陸の涙」とも評され、九州よりは大きく北海道よりは小さい。人口約2000万人のうちシンハラ人は約74%で殆ど仏教徒、タミル人は約18%で主にヒンドゥー教徒、その他キリスト教徒、イスラム教徒が若干づつである。
 平成14年(2002年)12月5日、添乗員共16人のJTBツァーで小牧空港を飛び立った。キャセイ航空で香港、バンコク経由コロンボ北方のバンダラナーヤカ国際空港に到着したのは同日深夜となった。社会主義国家の例に漏れず空港内は一切撮影禁止である。時差が3時間遅れなので、就寝した午前2時は日本時間なら早朝5時である。

2.アヌラダブラ
 6日は午前8時半出発、文化三角地帯(Cultural triangle)と呼ばれる島の中央部の一角アヌラダブラに向かう。文化三角地帯とはアヌラダブラ、ポロンナルワ、キャンディの三つの旧王都で囲まれた地域である。途中、クルネーガラで立ち寄ったレストランで伝統的盛装の結婚式をしばし参観する事が出来た。思いがけない収穫である。
 アヌラダブラに着いていざ見学という矢先、雨が降り出した。この地域は10~1月が雨季である。乾季に替わる3~4月には激しい雷害もあるという。
 街灯のある石畳を歩いて黄銅宮殿と呼ばれる旧僧院跡を左に見てスリー・マハー菩提樹へ行く。紀元前3世紀、インドのアショカ王の王女サンガミッタがインド・ブッダガヤの菩提樹の分木を此処へ持って来たと伝えられている。地元民は「インドの元木はその後枯れて今は二代目、だからこの菩提樹の方が正統」と胸を張る。樹種にもよるが樹齢2300年にしては楚々とした風情である。
 半円形の敷石ムーンストーンから先の仏教遺跡は仏教徒にとって聖域である。脱帽・脱靴で入らなければならぬ。但し靴下・雨天の雨傘・仏像のみの撮影は許される。初めから脱着の容易なサンダルという手もあるが、雨の日には足拭きタオルが必携である。男女別入口が設けられている所もある。
 次はアヌラダブラ遺跡の中心ルワンウェリサーヤ大塔へ。紀元前2世紀ドゥッタガーマニー王が侵攻してきたタミル軍を撃退してこの塔を建設し始めたという。その王の立像は正門右手にある。大塔の基壇を囲む無数の象のレリーフに先ず目を奪われる。大塔脇には館からはみ出さんばかりに大きな涅槃像が横たえられている。
 続いて典型的なムーンストーンが残る旧王妃殿跡へ行く。欲望の炎を表す外輪から象(生)馬(老)ライオン(病)牛(死)を経て半円の中心・蓮の花(極楽)へたどり着くという人の輪廻を表現したものと言われている。
 やっと雨は小降りになった。僧院沐浴場クッタムポクナを車窓から眺めながらアヌラダブラを象徴する大塔ジェータワナ・ラーマヤ(祇園の意)の前に降り立つ。3世紀マハーナーナ王により建立、現在の高さ70m、古いサンスクリット文字で書かれた経典の金板が発見された事で有名である。目下ユネスコにより大規模な足場を組んで修復作業が進んでいる。
 この日投宿のパームガーデン・ビレッジ・ホテルの裏は広大なバサロックラマ貯水池で、時には象も水浴びに来るという。2500年以上も昔、スリランカ最古の都アヌラダブラでは歴代王朝が灌漑・上下水道の造営に熱心で、1400年の永きに亘って栄えたと言い伝えられている。このホテルのプールもまた広大である。

3.ミヒンタレー
 7日はインド・アショカ王の王子マヒンダが最初にスリランカに仏教を伝えた地ミヒンタレーを訪れる。アヌラダブラの東方10数kmに位置し、地名は王子マヒンダに由来する。
 途中、車窓から古代病院跡を見る。日本でも730年、光明皇后が設置した悲田院に相当か。人形に穿った浴槽に注目する。傷病人をその浴槽で薬湯又は薬水に浸けて治療する、特にコブラなど毒蛇に噛まれた人に卓効ありという。
 僧院規則の彫られた石柱の近くに長大な石桶が据えられている。往時の僧侶たちがバナナの葉を底に敷いて、布施された食物を集め並べて食したという。今では僧衣も布施されるが、原初は葬送の遺体を包んだ布を染めて僧衣にした、と現地ガイドのランリ君は説明する。
 このあたりから登り階段のヘルパーが付きまとう。「No thank you」と断るが一向に離れない。マヒンダ王子の遺骨を祀るというアムバスタレー(マンゴーの木の意)大塔では早々と脱靴して参詣し、背後の岩山に登る。この急坂で先程のヘルパーがここぞとばかりに強引に手を引く。6~7月のポヤ・デーには何千という信者がこの頂上から満月を拝むという。
 上から見ると大塔を囲む石柱群が嘗ての大ドームを想像させる。大塔周囲の首なし仏像は異教徒の仕業か。数人の少年僧に出会った。僧衣の色が違うのは出家年次または僧位を表すものらしい。
 大塔の左奥に白亜の大仏が鎮座している。マヒンダの墓とガイドブックにあるが、新しすぎてちょっと違和感がある。右手のマハー・サーヤ大塔へは時間が無くて登れなかった。見学を終えて件のヘルパーに何がしかのチッブを与えたが、もっともっとと執拗に付きまとうのは聊か迷惑である。
 昼食は緑に囲まれたホテルの食堂で10種類ほどの野菜カレーである。ここでは南瓜、パイナップル、バナナの花も夫々立派にカレーの具である。ガイドの説明に従って右手指でつまんで食べて見た。

4.ポロンナルワ
 午後は10世紀末(一説には8世紀末とも)南インドの侵攻軍にアヌラダブラを追われたシンハラ王朝が12世紀まで首都としたポロンナルワの見学である。まずパラークラマ・バーフ1世の宮殿跡を見る。煉瓦造りで、もとは7階建てだったというが現在は3階までの壁しか残っていない。壁の厚さは3mもあり中々堅固である。
 左前方の閣議場跡の石柱には各大臣の名が刻まれ、着席位置が決まっていたという。また近くに形の整ったマーラ王子の沐浴場跡もある。
 仏教遺跡群の中に唯一つシヴァ・デェーワーラヤNo1と称されるヒンドゥー教寺院がある。ちょっと奇異な感があるが、正面奧にはれっきとしたリンガがでんと納まっている。さすがに場所はクォードラングル(Quadrangle 城壁に囲まれた四辺形の中庭)の外側である。



5. クォードラングルのなか
 クォードラングルに入って直ぐのトゥーパーラーマはドラヴィダ式長方形の重厚な仏堂である。内部の仏像は損壊甚だしいとのことで外観を見るに止めた。続いて菩提樹寺跡、ラター・マンダパヤは蓮の蕾を載せた茎型の8本の石柱群、涅槃像跡の石壇、11世紀に建てられた仏歯寺跡アタダーゲ(8つの遺宝の家の意)を見学する。
 なかでも中心にあるワタダーゲは壮麗である。円形の仏塔の四方に入口があり、夫々ムーンストーンとガードストーンがある。特に北口のものが整っている。ガードストーンは悪魔の進入を防ぎ、中の本尊を守る役目を負う。ここのムーンストーンはヒンドゥー教の影響か、死を表す牡牛の図が省かれている。私が四方の仏像に丁重に詣でるのを見て、地元の信者が線香を提供してくれた。ワタダーゲの傍の小さな仏像は風雨に曝されて侘しげに立っている。
 向い側には12世紀ニッサンカ・マーラ王によって建てられた佛歯寺跡。王朝盛時には歴代王が夫々佛歯寺を建てたという。その東側に石の本ガルポタがある。長さ9m、幅1.5mの長大な石にマーラ王が当時の世情を刻ませたものである。北東隅にはタイの建築家が建てたというサトゥマハル・プラサーダが7階建ての偉容を誇っている、但し用途は定かでない。ポロンナルワが全盛時には上座部仏教の聖地としてタイ、ビルマからも多数の僧侶たちがこの地を訪れたという。

6. 上座部仏教と大乗仏教
 上座部仏教とは「出家・修行して上座に位置する僧侶が仏に済度され(救われ)、在家の一般衆生はこれら僧侶たちに布施・功徳をつんだ者のみが、その小さな乗り物(例えば船)に乗せてもらって救われる。」と説く。
 これに対し、北伝の大乗仏教は「信ずるものは皆、大きな乗り物に乗せて済度される」と教え、南伝の上座部仏教を小乗仏教と批判した。現地ガイドのランリ君が「ヒンドゥー教は最古の宗教だが、仏教は哲学。」と呟いたのが妙に印象に残る。

7.ガル・ヴィハーラへ
 一旦バスに戻りランコトゥ・ヴィハーラ(金の尖塔の意)へ行く。この大塔は12世紀マーラ王が建てた当時、上部の尖塔は総て金で覆われていたという。その北には13世紀バラークラマ・バーフ3世が建立した巨大な仏堂ランカティラカがある。高さ17.5m、屋根は無く、奧正面にはスリランカ最大の佛像が立っている。これも異教徒が損壊したのか、頭部が無い。
 尚も北に歩を進めるとポロンナルワのメイン・イベント(?) ガル・ヴィハーラがある。高さ4.6mの凛とした坐像、アーナンダとの説もある高さ7mの立像、全長14m、左右の足のずれでそれと判る釈迦涅槃像。なだらかな曲線、安らかな表情の仏陀の前で記念写真を撮りたい衝動に駆られるが、勿論撮影禁止、監視員が見つけ次第フィルム没収と警告される。そういえば「つくば博」のスリランカ館でこの実寸大の模像を見た記憶がある。

8.シギリヤの悲劇
 8日、シギリヤ・ビレッジ・ホテルの食堂からはシギリヤ・ロックがプール越しに真正面である。5世紀後半、下賎の妾腹から生まれた長男王子カーシャバが父王を廃して、強引に王座に就いたものの、正妻から生まれた弟王子の復讐を恐れて、高さ195mの切り立った岩山の上に王宮を築いた。敵襲に備えて内濠には鰐を放ち、断崖の上には投石用の岩石を蓄える堅固な城塞とした。しかし11年後、弟軍の兵糧攻めであえなく陥落、王は自ら命を絶ったという悲劇の遺跡である。
 もともとここは仏教僧たちの修験場で岩場の説経場や礼拝堂があり、カーシャバ王亡き後は僧侶たちの手に戻された。水の管理運用はなかなか巧みで上下水道、大貯水池から噴水まで設けられている。

9.シギリヤ・レディーの壁画
 何といってもここを一躍有名にしたのは、1875年発見された岩壁のフレスコ画シギリヤ・レディーであろう。鏡の回廊から壁画までは急な螺旋階段を登らねばならぬ。18人の美女のうち12人までは撮影する事が出来た。殺害した父王の霊を鎮めるためカーシャバが描かせたともいわれている。前述・鏡の回廊の表面は今でも滑らかで、かすかに人影を映す。彫られたシンハラ文字による詩文は、シンハラ語研究の重要な資料となった。

10.シギリヤ・ロック
 岩山頂上へは「ライオンの入口」から入る。シギリヤはシンハラ語でシンハ(ライオン)ギリヤ(喉)から来ている。「マーライオン」がシンボルの「シンガポール」のシンガも語源はライオンだとガイドは言う。岩肌にへばりつくように架設された鉄製の階段は昇降別に狭く、約60度の急角度である。麓から尾いて来たヘルパーがここを先途と手を引き、尻を押す。途中、大きな蜂の巣を横目に見ながら安穏を祈って、息を弾ませながらひたすら登る。頂上は1.6haと意外に広く、360度のパノラマは素晴らしい。颯颯たる微風も頬に心地よい。王宮、兵舎、ダンスステージの跡、大きな貯水場、今も石の玉座がある展望台など、しばし栄枯の昔を偲んでみる。
 復路は途中から別れて旧会議室、礼拝堂、コブラ岩へと降ってくる。この辺りにも僅かながら退色した壁画が認められる。
 ダンブッラへの途中、バティック工房に立ち寄る。暗い所での細かい「ろうけつ」作業はちょっと気の毒である。新しい寺院の前を通ったが、金色の仏像がぴかぴか過ぎて新興宗教の祠のようである。

11.ダンブッラ
 ダンブッラの石窟寺院は紀元前1世紀に、高さ180m程の岩山(ランギリ山、黄金色に輝く山の意)の洞窟に造り始められた。自然の洞窟を利用して第一窟から第五窟まで次々に多数の仏像が彫られ、壁画が描かれたものである。
 バスを降りて寺院まではかなりの坂道である、しかしシギリヤ程ではない。道の傍らではコブラ使いが笛を吹いて蛇籠の蓋を開け、参詣人の気を引く。
 第一窟デーワラージャ・ヴィハーラ(神々の王の寺)は、ここでは最古の寺院、全長14mと最大の涅槃佛が自然石から彫り出されている。かなり、くすんではいるが全身は黄金色で足裏だけが赤く、花模様が描かれている。これはスリランカ涅槃佛の特徴とか。
 第二窟マハーラージャ・ヴィハーラ(偉大な王:この寺の創始者ドゥッタガーマニー王:の寺)はダンブッラ最大の洞窟で、幅約52m、奥行き25mに及ぶ。洞内56体の仏像もさることながら壁・天井一面に描かれた壁画が圧巻である。仏陀の生涯やシンハラ人対タミル人との争いなどスリランカの歴史がびっしりと描き込まれている。画面が意外に鮮やかなのは、香煙で煤けたのを度々修復したからだという。しかし必ずしも原画に忠実に描き直したのではないそうである。洞内奧では天井から岩清水が滴り落ち、聖水とされている。ダンブッラとは「水の湧き出る岩」の意である。
 第三窟マハー・アルト・ヴィハーラ(偉大な新しい寺)は18世紀に造られた窟で、全長9m、両足を揃えた寝佛と56体の仏像がある。第四窟バスシーマ・ヴィハーラ(西の寺)は19世紀キャンディ王朝末期に造られたもので、比較的手狭な上、仏像も新しい。
 第五窟は1915年に造られたもので坐像の頭上に光背のようにコブラが覆い被さっているのが怪異に見える。雨は降ったり止んだりだったが、窟から窟へは立派な回廊が連なっているので大助かりである。
カレーの昼食の後はスパイス・ガーデンに立ち寄る。香辛料のほか漢方薬まがいの軟膏、香油のマッサージ付き実演販売でひととき賑わった。

12. キャンディアン・ダンス
 キャンディの宿はマハウェリ川沿いで、セミ・リゾート・ムードのマハウェリ・リーチ・ホテルである。7時開演のキャンディアン・ダンスを鑑賞するべく、キャンディ湖に近い芸術協会へ急ぐ。このダンスは正式にはウダ・ラタ・ナトゥムといって、高地の神に捧げる儀式だったという。
 まず最初、激しい太鼓の連打で幕が開く。続いて仏陀に祈りを捧げる女性たちの舞。次はシンハラ戦士を表す男性のバック転の踊り。コブラを飼い慣らす仕草。悪霊払いの大仮面の踊り。勝利を祈る孔雀の舞の青い衣装は美しい。
 王の衣装とされるビーズ玉のチョッキ、耳輪、首輪、手首足首の鈴輪をジャラジャラ振り鳴らしながら踊るヴェ・ダンサーは聖者とされている。インドの踊りに似てはいるが、首や手指の動きはいくらか地味である。
 最後は悪魔を追い払う火踊りと、燃え盛る炭火の上を歩く火渡りの儀式でお開きとなる。約1時間のショーである。隣席の千葉から来たというカップルは新婚旅行で「明日はリゾート地・ニゴンボへ行く」という。内戦続きのスリランカに、漸く平和が戻って来たからこそのツーリストである。

13. キャンディの仏歯寺
 9日は仏歯の部屋が開扉される午前10時前に仏歯寺に着く。前庭には4世紀、頭髪に隠して仏陀の歯をスリランカに持ってきたインドのカリンガの王子の像や、王朝滅亡に際し、慫慂として死に就いた勇敢な王子の像がある。16世紀始めポルトガル人が、17世紀にはオランダ人が侵攻し、これを追い払うべく援軍を頼んだイギリスに、1815年キャンディ王朝は結局滅ぼされてしまった。
 正面茶色の屋根の八角堂はシンハラ様式の建物で、今は貴重な写本を蔵する図書館になっている。脱靴して17世紀建築の古い建物の前を通り、仏歯を祀る本殿へ進む。10時の開扉を今や遅しと、敬虔な信者たちが蓮の花を供えて待っている。突然けたたましい太鼓とラッパの伴奏で読経が始まる。チベットのラマ教のような雰囲気でもある。行列に従って、金の小箱に収められた仏歯にお布施を供えながら、極く眼近かに拝む事が出来た。
 こうして見てくると、スリランカの仏教伝播の跡を辿る旅は、仏歯を奉じてアヌラダブラからキャンディまで転々と王都を移して滅んだ、シンハラ王朝の盛衰をなぞる旅でもあった。王権を象徴する仏歯は日本の「三種の神器」に相当するのかも知れない。
 このあと鐘楼、ペラヘラ祭りの仏歯奉安台、透明石の仏像、図書館などを見学して寺院を出る。今日も雨降りの中「記念撮影は如何 ? 」と象が一匹、勿論有料である。

14. ペーラーデニヤ植物園
 次はバスでペーラーデニヤ植物園へ行く。もとは14世紀、王妃のために造られた庭園で広大・多種なことはスリランカ第一である。
 各種熱帯植物が多いのは当然だが、ミャンマーから持ってきた世界最大の竹、熟すまで5年もかかるという世界一大きいココナッツをつける双子椰子、象の足のような大木、スリランカの島の形をした池、アキヒト皇太子(現天皇)の記念植樹、一本で1800平方メートルを覆う「この木何の木・・・」ビンロー樹の下で出会った現地の女学生たちが印象深い。
 再びキャンディ駅前の雑踏をすり抜けて、レイク・ビュー・ポイントのレストランで中華料理の昼食である。人造のキャンディ湖越しに仏歯寺や市街地が眼下である。初めて食べた炒めパイナップルが意外に美味しかった。

15. 現地ガイド・ランリ君
 午後はセイロン紅茶の本場ヌワラ・エリヤへ。途中、スリランカ最古、最高のペーラーデニヤ大学脇を通る。4000人の学生、10 平方kmの広いキャンパス内には鉄道駅まで有るという。スリランカでは10年間の義務教育は総て無料、大学の年間授業料も800円位。但し入学試験に合格しても、大学の収容能力が小さい為1.8 % 位しか入学出来ないという。現地ガイド・ランリ君も入試には合格したが、諦めて観光ガイド専門学校に進んだとのことである。彼のネイティブは勿論シンハラ語だが、日本語・英語・フランス語を能くし、歴史・地理・生物に関しても造詣が深いようである。

16. 日本とスリランカとの関係
 日本とスリランカとの関係についてランリ君は言う。
「太平洋戦争初期、英国軍港のあるセイロン島のトリンコマリーが日本軍によって攻撃された。従ってセイロンは賠償請求権があるが仏教の教えに則って、仏教国・日本に対し敢えてこれを放棄した。その後、日本は米国と並んで最大の経済援助国になってくれた。」
 それに対し私、「昭和21(1946)年から始まった極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)でインド選出(セイロン出身)のパル判事が “ 嘗て植民地侵略をした英・米・蘭の諸国に、果たして侵略を裁く裁判権が有るのか ? 争いの勝者が敗者を裁くのは私刑ではないか ? “と唯一人、正論を吐いて英米側を制したが、オーストラリヤ出身のウェブ裁判長が一切黙殺してしまった。当時の日本の為政者はこの発言を大いに多としている。」
 そういうことをランリ君の認識に加えておいて欲しい、と話した。隣で聞いていた元海軍軍医(斎藤さん)も「正にその通り」と言葉を添えてくれた。

17.セイロン紅茶
 追々山道に差し掛かる程に、紅茶畑、谷川、滝を左右に眺めながら、いつしか気温も下がって来たようである。ジグザグの坂道を駆け抜ける花売り少年を見て、ペルー・マチュピチュのグッドバイ・ボーイを思い出す。
 かなり山に分け入ったところでラブーケリー・ティー・センターがある。製茶工程の説明を聞きながら工場見学。折りしも12月、サンタの居るサロンで紅茶を試飲して、直売カウンターへどっと押し寄せる。工場推奨のOP( Orange Pekoe オレンジ・ペコー)や BOP( Broken Orange Pekoe ブロークン・オレンジ・ペコー)に人気が集中する。

18. ヌワラ・エリヤ
 尚も坂道を登りつづけると、急に英国風の町並みに出る。ヌワラ・エリヤ(光溢れる町の意)である。スリランカらしからぬ涼気を求めて、新婚旅行の好適地とされている。 1828年植民地時代に建てられたというピンク色の郵便局がひときわ目を惹く。
 今夜泊まるザ・グランド・ホテルも内装・外観とも全くの英国調で、直ぐ裏はゴルフ場である。植民地時代は英国人の格好の避暑地だったのであろう。瞥見した此処のバーは如何にも正統的で、スーツ、ネクタイ着用が建前らしい。北隣りのヒルクラブ・ホテルには頑なに正装を楽しむ人達が多く出入りするという。
 夕食は折角重厚なダイニング・ルームでエトランゼ気分を楽しんでいるのに、数人の楽士が傍で盛んに日本の歌を演奏してくれるのは少々艶消しである。食後のショッピング・モールではサリーやブラウスなどシルクの店が婦人客で一頻りさんざめく。
 10日、キャンディへの帰路、目に付いたことを二つ三つ。平野部では幹・葉・実・殻とも全部有用な椰子林の所有者は富者とされている。しかしこの辺りの山地では椰子の木をついぞ見かけることは無く、山肌は総て紅茶畑で覆われている。スリランカの食料自給率は未だに50 % そこそこだと聞くが、このいびつ歪な農業構成も植民地政策のなせる業なのだろうか。山間に点々と見えるのは茶摘人の粗末な長屋である。殆どはインドの紅茶産地から連れてきたタミル人で、月収は800円位という。
 日本の熊谷組がODAで道路改修工事に携わっている。寄付されたのか「成田山幼稚園」の掲示板を見た。また三井セメントの看板をしばしば見かけた。

19. 象の孤児園
 キャンディの近くに象の孤児園がある。13時からが授乳の時間というので、昼食もそこそこに授乳場へ急ぐ。小象といえども大きな哺乳瓶を一気に飲み干してしまう。授乳体験にはチップが要る。成象は長い鼻で椰子の葉などをバシバシと口に入れる。飼育係は「記念写真をどうぞ」と手招きするがこれも要チップ。
 象たちの食事が終わると前の川へ水浴びに行く。50頭程の象がのっしのっしと、小象は小走りにレストラン前の「道や狭し」と行進する様は壮観である。最後に一頭、足の不自由な象が遅れまいとびっこを引きながら駈けて行くのは痛ましい。
 川では飼育係りがエスケープを警戒しながら象に水を掛ける。自分の鼻で水を吹きかける象、気持ち良さそうに川床に蹲る象、母像に寄り添って水浴びをする小象など色々である。

20.コロンボ市街
 このあとは一路コロンボへ。夕方の交通渋滞とも重なり、露天・バザールの多いペタ地区、官庁・ビジネス街のフォート地区とも車窓観光となった。小さい町でも結構目に付いたがコロンボの街ではスリー・ウィーラーというミニ・オート三輪タクシーが矢鱈に多い。  南国とはいえ街のデパート、大きな商店、街角のロータリーには電飾のクリスマス・トゥリーが煌く。海岸通りでは、特に時化ている訳ではないが、インド洋の荒波が砂浜にどどっと打ち寄せる。今でも街の要所要所には掩堤で囲んだ軍の監視哨が築かれていて、内乱の余韻を窺わせる。
 夕食は久し振りに和食レストランで煮魚定食である。経営者は関西の人らしく、フライ以外は純日本の味であった。
 スーパー・マーケットでお土産を買い足して、屋根続きのホテルに帰るとロビーで数人のアンサンブルがクラシック音楽を演奏している。さすがコロンボは首都と思いきや、1984年、行政上の首都は10km余東南方のスリー・ジャヤワルダナプラに移転していた。しかし、そこは湖の中央の小島に巨大な国会議事堂が有るだけという。従ってヒルトン・ホテルから見えていた広壮な建物は旧国会議事堂であった。

 帰途のフライトは深夜の2時50分発である。ホテルでゆっくり入浴・休憩の後、空港へ。
 キャセイ航空でバンコック、香港経由11日午後9時、予定通り小牧空港に着陸した。往復とも香港空港で夫々4~5時間の待ち時間は、エコノミー症候群回避にはなるが、少々退屈である。

2010年4月8日木曜日

喜寿所懐(2002年9月)

 私は今年喜寿である。熱田神宮に初詣での際、参道脇の掲示板に「大正15年生まれの人は今年は喜寿、その他還暦、古稀、米寿や厄祓いの年回り」などが大書してあった。戦後は満年齢で数えることが普通になったが、暦の上での年齢は古来数え年である。しかも本来は立春から翌年の節分までで区切っていた。

 喜の字を七十七と読み替えて喜寿としたのは日本独特のもので漢語には無い。同様に傘寿80歳、卒寿90歳、白寿99歳も我が国独自の略字などからくる牽強付会(こじつけ)である。況してや近頃デパート業界が提唱する「緑寿66歳」に至っては「売らんかな」の意図が露である。

 ここで少し漢語と干支について付け加えておこう。米寿88歳に相当する漢語は米年、古稀70歳は七旬ともいう、80歳は漢語で八秩、90歳は九旬、100歳は期頤、還暦61歳は漢語でも華甲という。”広辞苑” によると「華の字を分解すれば六つの十と一になる。甲は甲子の意。数え年61歳の称」とある。これは「米年」と同じ発想である。甲子は十干(木火土金水の兄弟、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸) 十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の最初の組み合わせである。「華」にはもともと立派な、尊いという意味もあるので、「華甲」には干支が一巡して初めに還ったことを寿ぐ思いも込められている。

 それは兎も角、喜寿の旨を子らに告げたところ、敬老の日ころに喜寿祝いをしようということになった。児孫眷属八人で一卓を囲む中華料理で賀宴を張ろうと長男が発案し、横浜中華街の聘珍楼に席が設けられた。横浜は開港の祖・井伊掃部頭直弼に、妻の母方の曾祖母が仕えたことがあり所縁が深い。この際一泊して皆で記念写真を撮ることにした。

 宿舎はアニバーサリーに相応しく昭和2年誕生のホテル・ニューグランド。終戦直後マッカーサー元帥が焼け残ったこのホテルの315号室に滞在したことでも有名である。記念写真は大正7年設立の草分け的写真館フォト・エクボで撮った。 聘珍楼は明治20年創業以来115年の伝統を持つ中華料理店の超老舗である。
 富貴の寿筵と題する菜譜で鶴亀を象った前菜から始まった。次に鱶鰭スープ、鮑、北京ダック、帆立貝、伊勢海老、福建炒飯と続いてバースデイ・ケーキ状のデザートで締め括った。
そのあと喜寿祝いとして”広辞苑”(購入用図書カード)を贈ってくれた。これはいつか佳き日の記念にと、私が今まで購入を引き延ばしていたものである。人生を振り返り折に触れ所感を書き記す際、参照確認の為に必須のアイテムの一つである。

 最後に祝賀の答辞として、「喜寿所懐」をしたためた七言絶句の漢詩(下記)を子等に手渡して寿席をお開き(祝いごとを終わるという語を避けて)とした。

佳辰喜天寿  平成十四年九月十四日(記:ハンドルネームJoe)

           佳辰天寿を喜ぶ
 光陰如矢早喜寿  光陰矢の如し早くも喜寿
 跋渉踏破幾山河  跋渉踏破せり 幾山河
 弥栄萬歳児孫聚  弥栄萬歳 児孫聚まる
 崇祖修身期斉家  崇祖修身して斉家を期す

 【漢詩の意味】
 この佳き日に 天から授かった寿命を喜ぶ
 歳月は矢のように流れて、早くも喜寿、七十七歳になった。
 その間、幾多の山河、艱難辛苦を踏み渉り踏み越えてきたものだ。
 今日はめでたい。枝も弥弥栄えて葉も繁るように、子や孫、婿や嫁も聚まってきた。
 萬歳、萬歳。
 生を享けた先祖に感謝尊崇して益々身を修め、一家眷属が整然と一層栄えて行くよう覚悟を新たにした。

 14日午後、山下公園桟橋からのシーバスは氷川丸、横浜ベイブリッジ、赤レンガ倉庫などを左右に見ながら「みなとみらい21」まで僅か10分程の航行だったが、妙に印象深い。ニューグランドの客室から大桟橋越しに見る「みなとみらい21」の夜景、特にランドマークタワー、電飾された巨大なメリーゴーラウンドは絢爛華麗である。

 翌15日は、掃部山公園で井伊直弼銅像や旧加賀藩の能舞台を見学ののち散会した。このあと訪れた東京ディズニーシーの行程も含めて、この度は非日常的な、ちょっと大袈裟に言えば異次元の時空を遊泳したような数日間であつた。

フランス周遊 雑観et雑感(2002年6月)

1. リヴィエラ、モナコとモンテカルロ
 雑感とは「さまざまの、まとまりのない感想」と辞書にある。主な観光ポイントを僅か8日間で目まぐるしく駆け回った今回のフランス周遊は正しく「まとまりの無い」観光の観さえある。敢えて「雑観」と表題に挿入した所以である。

 2002年5月30日総勢36名で小牧空港を出発したJTBツァーは成田経由、その日の夕方イタリアのミラノ空港に到着した。乗り継ぎ便の都合が悪く、バスでニースまで行くという。約5時間の行程である。

 「只今国境を通過してフランスに入りました」とガイドのアナウンス。ミラノ空港でEU入境に際しパスポートを提示しただけで、あとは自由に域内を通行できる。ミラノから南下してリヴィエラをひた走る。森進一が「冬のリヴィエラ」を歌ってから一層人々の口の端に上るようになったリヴィエラは実は街の名前ではない。フランスのニースからイタリアのラ・スペチアまでの地中海沿岸を指し、ニース、モナコ、マントン、サンレモなど国際的な観光保養地が半円状に地中海を取り囲んでいる様を首飾り(La Riviere)に譬えてリヴィエラと呼んだものである。フランスではコート・ダジュール(Cote d’Azur 水色の海岸)とも別称している。

 F1グランプリ・レースと女優グレース・ケリーを王妃に迎えたことで有名なモナコ公国に入る頃には夜の帳がすっかり下りていた。ひときわ街の灯が闇に煌く。オールド・ファンには懐かしい唄「一夜さモンテカールロ・・・」の灯である。公国の東部、カジノ、オペラハウス、など高級社交場が密集するモンテカルロ地区である。

2. ニースとシャガール
 前夜零時過ぎにニース到着の為、31日は午前10時出発である。出発前のひと時、フランス最大のリゾート、ニースの海岸に出る。ボスコロ・パーク・ホテル前の公園、プロムナード・デザングレ(イギリス人の散歩道の意)の向こうはパラソルの林立するビーチである。冬以外はいつでも海水浴が出来るという温暖なニースのこととて、まだ9時前だというのに早くも水浴を楽しむ人、トップレスで肌を焼く女性などが散見される。

 港を見下ろす高台から眺める紺碧の地中海、それを抱く白砂の海岸は国際的リゾートの風格十分である。降って旧市街サレヤ広場の花市では数十軒の花屋がけんを競う。ブーケ一束\2000前後。動物や怪獣の形をしたカラフルな駄菓子の店ではつい立ち止ってしまう。

 薔薇の綺麗な展望台からシャガール美術館へ。正式には「国立マルク・シャガール聖書の言葉美術館」という。聖と俗を、青と赤とを巧みに使い分けて描いたシュールリアリズム絵画が多数展示されている。

 近・現代美術館前には人面の上半分を立方体に形作った大胆なモニュメント、海岸プロムナードには所々に奇抜な彫像、それを縫うように初老のローラースケーターが・・・、とにかくビジターの目を楽しませてくれる。

 ニース風サラダで昼食を執ったウエスト・エンド・ホテルの隣は有名なホテル・ネグレスコである。もとは北欧の王侯貴族が避寒のため建てた「冬の宮殿」で、ピンク色のドームやアール・ヌーボーのエントランス庇などがひときわ目を惹く。

3. エクス・アン・プロバンスとセザンヌ
 陽光の地中海ともお別れして、セザンヌ生没の地エクス・アン・プロバンスへ。途中国道D17号線ではセザンヌが描き続けたサント・ヴィクトワールの石灰山(標高1011m)を延々と右手に見てバスは走る。ドゴール広場や工事中のミラボー通りはバスの窓からそこそこに、エクスの町外れセザンヌのアトリエへ行く。入って左奧の「病める老人のデッサン」からは暗い呟きが聞こえてきそうである。

4. アルルとゴッホ
 次のアルルはローマ遺跡とゴッホの町である。一世紀末建造の円形闘技場は今でも闘牛場として現役、古代劇場はステージの残存石柱2本ながら12000人を収容できる劇場として毎年コンサートやオペラが催行されるという。

 市庁舎前のサン・トロフィーム教会は中世スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路にあたり、いわば札所である。そのファサードのポルタイユと呼ばれる彫刻はプロバンス・ロマネスクの典型といわれている。

 フォーロム広場ではゴッホの「夜のカフェ」を髣髴させるカフェ・フォーロムが営業中、店先にはゴッホの銅像も。しかしこの絵はゴッホのモデル、ジヌー夫人が経営するアルル駅前のカフェだという説もある。続いて訪れた精神病院中庭もゴッホ入院当時描いたままの面影を残している。ここは1989年総合文化センターになった。この日の宿「ニュー・ホテル」は床は凸凹でかなりオールドだが、部屋の広いのが取り柄だった。

5. ラングロワの跳ね橋と水道橋ポン・デュ・ガール
 翌6月1日はアルル郊外の運河に復元されたゴッホ「ラングロワの跳ね橋」見学から始まった。ラングロワとは地名ではなく、当時の橋守りの人名である。オランダ生まれのゴッホは同郷の技師が架けた跳ね橋に郷愁をそそられた事であろう。しかし跳ね上がったままの復元橋は取り付け道路も無い鑑賞用である。むしろオランダ統治時代に架けられたジャカルタ・コタ地区の跳ね橋の方が原画に近いように思う。こちらは今でも橋上を人・車が往来している。しかしアスファルトで固めてしまったので、もう跳ね上げられない。

 アヴィニヨンへの道すがら古代ローマ時代の水道橋ポン・デュ・ガール(防護の橋の意)に立ち寄る。ニームの町まで日量2万立方メートルの水を50Kmに亘って送り続けたという2000年以上も昔の構築物である。今では高さ49mの一部しか見られないがスペインの世界遺産セゴビアの水道橋にも匹敵する程である。

6. アヴィニヨンの橋と法王庁
 アヴィニヨンではまずローヌ川のプロムナードから法王庁宮殿とサン・ベネゼ橋を遠望したあと法王庁に向かう。1309年フランス国王側の勢力に逐われて、教皇はローマからアヴィニヨンに移された。両者抗争の影響で宮殿というよりは、むしろ城塞である。厚さ4m
高さ50mの外壁に囲まれた法王庁は「城攻め」に備えて石落としまで設けていたという。内部は度々の争乱で損壊し、がらんどうである。ただ塔屋上で金色に輝くマリア像が僅かに法王庁を象徴しているかのようである。そういえば日本でも戦乱・一揆の世では高塀を巡らせた寺院は避難所或いは城塞と化したようである。

 「アヴィニヨンの橋で踊ろよ踊ろよ・・・」の歌で有名なサン・ベネゼ橋はバスの窓から見る限りでは「輪になって踊る」程の広さは無い。1177年聖ベネゼが一生かけて寄進を集め架けた橋だが、度重なるローヌ川の氾濫で今では4つのアーチを残すのみとなっている。橋上には聖ベネゼを祀るサン・ニコラ礼拝堂がある。

 中世の城壁に取り囲まれたアヴィニヨンの町を後に、ローヌ川沿いをリョンへ。途中断崖を穿った住居やホテルが目に付く。なかには高級ホテルもあるとのこと。道路の渋滞もあってリョンでの行程は慌しかった。

7. リヨンとTGV(Train a Grande Vitesse 高速列車の意 フランスの新幹線)
 まずケーブルカーで約3分、フルヴィエールの丘に登る。リヨンの街はソーヌ川とローヌ川の合流点に近いこの丘に設けられたローマの城塞に、その端を発するという。展望台からは左の方、1993年オープンのオペラ座、右足下には12世紀建設のサン・ジャン大司教教会と眺めが広がる。背後にはノートルダム・フルヴィエール・バジリカ聖堂がそそりたつ。ノートルダムといえばパリの大聖堂が有名だが、各地にもノートルダムを名乗る聖堂は沢山ある。ノートルダム(Notre-Dame)とは私達の婦人、この場合は聖母マリアを意味する。カトリツクではイエス・キリストよりも聖母マリアを崇拝するようで、多くの地で聖マリア聖堂が建設されたとのことである。

 日本の新幹線と最高速度を競うTGV(フランスの新幹線)に乗るためリヨン・ペラーシュ駅へ急ぐ。トゥール行きは午後7時定刻に発車、現地人の乗客はまばらである。美食の町リヨンのシェフが腕を振るったという洋食弁当を車中で配られたが、全般に薄味で物足りない。塩分の味覚に差があるように思う。殆んどノンストップで人家の少ない山野をつっ走ること約3時間、漸く日が沈む頃終点トゥールに到着した。

8. シュノンソー城、ディアーヌとカトリーヌ 
 翌2日、一時フランスの首都が置かれたこともあるトゥールだが、街を見学することもなくロワール地方の古城めぐりに出かける。フランス中部の肥沃なこの地方には王族が競って城館を建てた。その数100余、内約80が公開されている。主にトゥールからロワール川沿いにオルレアンまでの間に多いという。今日はその内の代表的な2城を見学する。

 シュノンソー城ではまず直営のワインセラーで試飲ののち城に向かう。森を抜けるとシェール川に浮かぶ船のような白亜のシュノンソー城が姿を現す。代代城主が女性だったことから「6人の奥方の城」と呼ばれている。15世紀のマルク家城塞の名残を留める塔を右に見て入城する。内部はよく保存整備されているが、なかでもアンリ2世からこの城を与えられた寵姫ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋が興味深い。

 アンリ2世のHと、王妃カトリーヌ・ド・メディチのCとを組み合わせながら、全体としてはディアーヌ・ド・ポワティエのDとなつた絵文字が暖炉に刻まれている。アンリ2世は幼時、父フランソワ1世の愛妾ディアーヌに愛育された。長ずるに及んで慕情が恋情となり、父の死後は20歳も年上ながら彼女を寵愛した。なにしろディアーヌは60歳になっても30歳位にしか見えないほどの美貌だったといわる。しかしアンリ2世が騎馬槍試合で倒されてからは、フィレンツェ・メディチ家から輿入れの王妃カトリーヌに逐われて、ショーモン城に去った。ディアーヌの部屋はすっかり模様替えされて暖炉の上にはカトリーヌの肖像画が架けられた。しかし城の左カトリーヌの庭園より大きい、城の右ディアーヌの庭園を改変するまでには至らなかった。

 一方カトリーヌはシェール川に架かる一層の橋上に二層を積み重ね、現在の優美な姿にした。第一次大戦中は時の城主の英断により軍用病院になった。

9. シャンボール城、フランソワ1世とルイ14世
 今でも子孫が住むという17世紀のシュベール城を左に見てバスはシャンボール城へ。ソローニュの森の中に5440ヘクタールの敷地を持つシャンボール城は部屋数440室を擁する壮大な平城である。フランソワ1世が自分の狩猟館をもとに1519年着工、その子アンリ2世を経て1685年完成まで167年も費やしたフランス・ルネッサンス様式の精華である。ヴェルサイユ宮殿完成までの一時期、太陽王ルイ14世が居を置いたこともある。 

 そもそも若きフランソワ1世がこの地に館を構えたのは、愛人トゥリー伯爵夫人の館に近く、逢瀬を楽しむ為だったといわれる。以後歴代ルイ13世、14世も不義・密会とうたかたの恋を重ねたようである。

 レオナルド・ダビンチ原案ともいわれる城内、特に二重螺旋階段やテラスは見たかったが時間の都合で叶わず、ブルターニュのサン・マロに急ぐことになった。

10. サン・マロとシャトーブリアン
 岬全体を高い城壁で取り囲んだサン・マロの旧市内は全くの城砦都市である。17世紀には王公認の海賊の根拠港だったというから、宣なるかなと納得する。イギリス海峡から吹きつける北風は6月でもまだ肌寒い。海岸に林立するポプラの古木はテトラポットならぬ消波林である。冬季に押し寄せる荒波で岸壁に亀裂が入ることもあるという。

 セント・ヴィンセント門を入ると右手奧にシャトーブリアン・ホテルがある。そのシャトーブリアンは1768年没落貴族の子としてサン・マロに生まれた文学者・政治家である。没後は渚続きのグラン・ベ島に葬られた。その先のプチ・ベ島は明らかに往時の見張り砦である。サン・マロはブルターニュ随一のリゾートといわれるが、しばしば海霧に包まれる肌寒いビーチではどうも、俄かには肯じ難い。

11. モン・サン・ミッシェルとノルマンディー上陸作戦
 6月4日はいよいよフランスを代表する世界遺産の一つモン・サン・ミッシェルである。イギリス風に煙突の目立つ家々を眺めながら走ること数刻、海中からそそり立つようなモン・サン・ミッシェルが見えてくる。嘗ては満潮になると島への道が水没したが、今では約2Kmの堤防によって結ばれ、バスでも行ける。

 全景の見える所で記念写真を撮ったあとラヴァンセ門から入る。名物特大オムレツの元祖ラ・メール・プーラール・ホテルの看板が目に付く。そのレストランの壁に貼られた有名来店者写真のなかに高松宮ご夫妻のものもある。「大通り」(Grande Rue)という名の狭い参道の両側には土産物屋とレストランが犇めき合う。

 モン・サン・ミッシェル(聖ミカエルの山の意)は天使軍団長ミカエルに促されて司教オベールが966年トンプ山頂に修道院を建てたのが始まりである。その後数世紀に亘ってロマネスクやゴシックなどの様式で増改築が繰り返され、16世紀に入ってほぼ現在の形になったという。特に北面のラ・メルヴェイユ(La Merveille 驚異)と呼ばれる建物はゴシック建築の傑作といわれている。その最上階には美しい中庭を囲んで127本の二重の列柱回廊があり、祈りと瞑想の場であった。サン・マロ湾を望む西のテラスの床石には当時の工人が刻んだ文字・数字がある。王や貴族たちを迎える迎賓の間が修道僧たちの食堂の真下というのも、両者の立場を表象しているようで面白い。

 昼食は参道沿いのレストランで名物・泡泡の特大オムレツである。もともと巡礼に施した給食なので、お味のほうは今ひとつ。食堂を突き抜けると島を取り囲む城壁に出る。眼下にはガイドに導かれて、素足で遠浅の海を沖に向かう一団がある。所どころ流砂床があるのでガイド無しでは危険という。

 対岸はコタンタン半島である。1944年6月6日いわゆるD- Day、米英軍によるノルマンディー上陸作戦が決行されたのは半島の東側アロマンシュ一帯の海岸線である。周辺数箇所には当時の遺品・資料を収めた戦争博物館があるという。

 モン・サン・ミッシェル自身、城壁は14世紀英仏100年戦争に備えて築造されたものであり、18世紀フランス革命では略奪を、ナポレオン1世はここを牢獄に利用するなど、幾多の辛酸を経ている。しかし修道院付属教会の尖塔で金色に輝く大天使ミカエル像を仰ぐと、やはりモン・サン・ミッシェルは信仰の聖地だとあらためて思う。

 島を離れて振り返ると、潮風に吹かれる仔羊の群れと共に見るモン・サン・ミッシェルは正に「天空のラピュタ城」である。この後は一路パリへ。

 地方の道路交差は殆んどロータリー式、鉄道線路前では日本とは逆に一時停車禁止、EUマーク(星の環)と国識別文字を表示した自動車は域内通行自由、乗用車の多くは小型乃至ミニバンである。パリ近郊からは交通渋滞、加えてトゥールからのバス運転手は市内不案内らしく、メルキュール・ヴェルシー・ホテルへの到着はかなり遅れてしまった。

12. ノートル・ダム寺院とエッフェル塔
 6月4日盛り沢山のパリ観光はノートル・ダム寺院からである。寺院正面にあるパリ道路原標に代わるがわる立ってみる。中央ファサードには、どの宗教にもよくある天国と地獄を分かつ天秤を持った彫像がある。「ノートル・ダムのせむし男」カジモドが住み着いたのは向かって右の鐘楼とされている。1330年完成以来度々の損壊苦難を経て1804年漸くナポレオンが戴冠式を挙げるまでになった。広大な内部空間、ステンドグラスの巨大なバラ窓を可能にしたのは建物外部からの支柱の為である。裏側の広場からはその支柱の形がよく見える。この工法はブルジュのサン・テチエンヌ大聖堂でも見られるという。

 コンコルド広場、シャンゼリゼ通り、凱旋門はバスの窓越し。大きなごみ箱のような古本市、花苗店の長い列などが通りすがりに目に付く。全高320.75mのエッフェル塔はパリのランドマークである。全容が見易いシャン・ド・マルス公園側で記念撮影をする。

13. セーヌ川クルーズと自由の女神
 アルマ広場近くのバトー・ムーシュ乗船場からセーヌ川クルーズに出発する。なんとクルーズコース両岸の全景が世界遺産に指定されているという。

  アレクサンドル3世橋では金色の彫像が眩しい
  コンコルド広場にはエジプトから贈られたオベリスク
  ルーヴル宮へは明日訪れる
  ポン・ヌフ(Pont Neuf)橋 新しい橋の意だが、今では一番古い橋
  サン・ミッシェル橋付近の散歩道は映画のロケによく使われる、画学生もちらほら
  静かな住宅地シテ島はパリ発祥の地、ここでUターン
  パリ市庁舎
  コンシェルジェリーはマリー・アントワネットが処刑前幽閉されていた館
  オルセー美術館は元オルレアン鉄道の終着駅
  イエナ橋ではエッフェル塔を間近に
  自由の女神(ニューヨークのコピー)のあるグルネル橋中洲の先でUターン

 女神とエッフェル塔を一つのシーンに撮影して元の発着所に戻る。約1時間半のクルーズである。夜のディナー・クルーズなら尚素晴らしいことであろう。但し船会社のパンフレットには「フォーマル・ウェアで」と書いてある。船上スピーカーで河岸の説明が5ヶ国語で為されるが日本語は最後の為、時として景色通過後になってしまうのは残念である。

14. ヴェルサイユ宮殿と庭園
 久し振りの和食でお昼を済ませて、パリの南西約18Kmのヴェルサイユ宮殿に向かう。ルイ14世が1661年着工以来50年の歳月を要した畢生の大宮殿である。しかしこの80余年後にルイ16世が処刑され、ブルボン王朝が滅亡するとは夢想だにしなかったであろう。まずは庭園の方から見学する。丹念に手入れされた唐草模様の芝生は寧ろ人工の極致にさえ見える。沼地を改造した大運河を中心に、815ヘクタールの大庭園である。

 この正面に当時としては貴重な578枚もの鏡をはめ込んだ、長さ73メートルの「鏡の回廊」がある。第一次大戦後の1919年6月ヴェルサイユ条約はここで調印された。この他華麗な部屋部屋を多数見学したが、慌しいガイドの説明で、しかとは区別が付け難い

15. モンマルトルの丘と少年すり団
 渋滞もなく順調にパリに帰り着いたところで一行と別れ自由行動をとる。地下鉄ピラミッド駅近くの「マイ・バス社」へ行き、今夜のムーラン・ルージュ・ドリンク・ツァーの予約を確認する。@140ユーロ(約\17000)。流しのタクシーは殆んどいないので、タクシー乗り場で拾ってモンマルトルに向かう。オペラ・ガルニエ、サン・トリニテ教会を経て丘の上のサクレ・クール寺院に着く。名高いモンマルトルの丘である。市街を望見したあとケーブルカーの山上駅へ。西に降れば画家の卵が集うテルトル広場だが、このまま登山電車を横目に階段を下りて、ウィレット公園のメリーゴーラウンドの横に出る。ここから見る白亜の寺院ドームは立派に絵のモチーフである。映画のロケもよくあるという。

 土産物屋の建ち並ぶ坂道を下って地下鉄アンベール駅へ。ここで予て聞いていた少年すりらしき一団に遭遇した。切符を買う時の財布の中身と仕舞うポケットをマークしているらしい。勿論ガードを固めていたので被害は無かった。パリ地下鉄は思ったより清潔で、案内表示もわかり易い。ホテルでスーツ、ワンピースに着替えて再び地下鉄14号線でマイ・バス社へ引き返す。

16. ムーラン・ルージュとフレンチ・カンカン
 20時集合、マイクロバスでシァター・レスラン・ムーラン・ルージュまで送ってくれる。東京から来た細田さんという女性と私達の3人である。例の赤い風車下の入口より入場、丁度19時からのディナーは終わりに近づいていた。通路脇に小卓を仮設してワインクーラーに入れたボトル・シャンペンが運ばれる。ショーは21時から始まった。ステージの立ちは余り高くないが、幅はホール巾一杯に広く取ってある。

 粒の揃ったトップレス・ガールのショーが切れ目無く続く。嘗ての日劇ミュージック・ホールのタカラヅカ版というところか。さり気なくセクシーに演出しているのはさすがである。中間ではマジック、コミック、アクロバットも挿みながらフィナーレは矢張りフレンチ・カンカンである。フランス国旗の赤白青を配したコスチュームで舞台一杯に跳ね回る。肌の浅黒いメスティーソらしき混血娘も混じっている。観客も国際色豊かで隣のテーブルも東洋系だった。フレンチ・カンカンは今やフランスの無形文化財として篤く保護されているという。盛んなアンコールの甲斐も無くそのまま終演となった。22時45分である。

 マイ・バス社の車でホテルまで送ってくれるのが嬉しい。終演後のタクシーは捕まえ難い、通は終演直前に退出してタクシーを確保するという。それは兎も角、セーヌ川端は川面に近い下段の道路を走ったので夜のセーヌの風情も味わうことが出来た。ディナーを終えて帰航するクルーズ船の消燈は、宴の後の哀愁をふと覚える。

17. ルーヴル美術館とモナリザ
 6月5日はルーヴル美術館のオプショナル・ツァーである。@\9000。個人で入場するにはガラス・ピラミッドの入口に長蛇の列、団体見学なら地下から優先的に入場出来る。9時開場と同時に入場しようと早めにホテルを出る。地下駐車場からピラミッドの真下を通って正面シュリー翼の半地下部に入る。中世は要塞だったルーヴル宮の濠や城壁を見て1階に上がる。なにしろ30万点を超えるコレクションの中から、代表的なものだけを2時間そこそこで鑑賞しようというだから気忙しい。

 古代ギリシャの名品ミロのヴィーナス、次は2階デゥノン翼でサモトラケのニケ。ダ・ヴィンチの「モナリザ」の前は既に人だかりである、フラッシュ禁止にも拘わらず盛んに閃光が走る。隣には名古屋でも公開された「白てんを抱く貴婦人」と同系のダ・ヴィンチの絵がある。 引き返して次はドラクロアの「民衆を導く自由の女神」、ここでは画学生が特別料金を払って部分画を模写中である。全画面を同寸で模写することは贋作防止のため禁止されている。ジェリコの「メデュース号の筏」は沖合いの小船に助けを求める群像に迫力がある。またヴェロネーゼ「カナの婚宴」やダヴィッド「ナポレオン1世の戴冠式」の大画面にはそれぞれ圧倒される。

 ナポレオンの部下が発見し、シャンポリオンが解読したロゼッタ・ストーンや古代エジプトの壁面彫刻の右翼は大英博物館に収められている。当時は各国のオリエント遺跡発掘競争が相当熾烈だったのであろう。

18. 凱旋門とシャンゼリゼ大通り
 3階にも見たいものが沢山あったが今日の見学はここまで、11時45分である。3時ホテル集合までの間、地下鉄で凱旋門まで足を伸ばす。高さ49.54m、幅44.82m、30年かけて1840年完成した凱旋門は世界最大である。壁面にはナポレオンの戦功の数々が刻み込まれている。凱旋門の近くから雨上がりのシャンゼリゼをそぞろ歩きに、とあるカフェテラスでお茶とワインとサンドウィッチ。サラダがメインのランチは13ユーロである。同じシャンゼリゼ大通りといってもクレマンソー駅まで来るとすっかり緑の並木通りとなる。

 すりが多いと聞いていた地下鉄1号線もさほどの気配も無く、リヨン駅で乗り換えてホテルに着く。御一行の皆さんの疲れた顔が既に集まっていた。あとは予定通りシャルル・ドゴール空港よりエア・フランス共同運行のJAL406便で帰途についた。

 6月6日 成田乗り継ぎ19時25分小牧空港着。目まぐるしくも慌しいフランス周遊の旅は終わった。しかしバラエティーに富んだ旅ではあった