2010年4月6日火曜日

水の都ヴェネチァに遊ぶ(1998年11月)

一、ローマ広場から運河でホテルへ
 秋色濃い北イタリアのミラノから、私達パックツァーの一行20人がバスでヴェローナ・パドヴァを経て、ヴェネチァの入口・ローマ広場に到着したのは1998年10月10日夕方近くであった。これより先は自動車通行止めである、つまりヴェネチァ市内は年中歩行者天国ということである。   
 広場横の船着場から水上タクシー2艘に分乗、途中何艘かのゴンドラとも行き交いながらホテルに向かう。行き止まりの細い水路には進入禁止の交通標識が貼りだされている。スターホテル・スブレンディット・スイスの水路側エントランスから上陸する。狭い島内では増築が厳しく制限されているせいか、ロビーも客室も可成り手狭な感じである。 

二、サン・マルコ広場
 翌11日は歩いて10分足らずのサン・マルコ広場へ出る。周辺には高さ50~60cmの鉄脚の縁台が並べられている。昨日まで連日の雨で浸水した広場を渡り歩く為の仮設通路だという。あちこちにヴェネチァの象徴である翼のあるライオン像が飾られている。
 先ず朝の開扉を待って一番にドゥカーレ宮殿を見学する、これは曾てのヴェネチァ共和国総督の政庁である。大評議室を見ていると、同じく商人都市として会合衆によって自治統治されていた日本の堺の町が連想される。階段の騙し絵風のモザイク画が面白い。中世の武具などに混じって当時の貞操帯なるものが展示されているが、とても実用されたとは思えないいかめしい代物である。溜め息橋を渡って獄舎の方へ進むと、一転、頑丈な鉄格子が填め込まれた寒々しい石造の牢獄が続く。色豪カザノヴァだけが唯一脱獄に成功したというのは有名な話である。 
 サン・マルコ寺院は日曜日のミサで午前中は入れない為、入り口付近の天井画やモザイク床を見学するのみでガラス工房へ行く。本店はムラノ島にあるというが、このミニ工房でヴェネチァン・グラスの製作工程を簡単に実演してくれる。金太郎飴風の熱いガラス素材からカップや皿が巧みに吹き出されてくる。「少々の衝撃では割れない」と売り子は胸を張る。
 次にヴェネチァン・レースの工房へも案内するというが、あとは自由行動である。何人かはゴンドラ・セレナーデ・ツァー(@L75,000/40 分) でカンツォーネを楽しむらしい。この頃の為替(cambio)レートTTSは大体125,000リラ(L)/10,000 円(\)。 L1,000/\80、即ちリラ(L)の1/10の2割引が円(¥)価格に相当する。

三、リアルト橋からサンタルチア駅へ
 私達は島北端のサンタルチア駅へ向かう。肩の触れ合う程の小道の商店街では、冬のカルネバーレ(カーニバル)用の仮装用品店の店先に並べられた異様な仮面に一瞬ハッとする。土地の希少なこの街ではリアルト橋の上にも商店が立ち並ぶ。橋上からの大運河(Canal Grande)はちょっと絵になる眺めである。
 "Per Ferrovia"(鉄道へ)の標識を頼りに狭い路地を辿る。下町らしい地区では地元の人向けの中華料理店が目につく。13世紀末ヴェネチァ出身のマルコポーロが”東方見聞録”で中国(当時は”元”の時代)を紹介したこともあってか、イタリアには比較的中国人(Cineseチネーゼ) が多いようである。ひと気が感じられない細い路地は流石に少し不気味である。路傍の老爺に現在地を尋ねたら、読みかけの新聞を片手に、大運河の見えるところまで先導してくれた。スカルツィ橋を渡ればすぐサンタルチア駅である。橋のたもとのレース屋のショーウィンドを見ながら一息いれた。  

四、メストレ駅へ
 サンタルチア駅の切符売場はどの窓口も長蛇の列である。自動販売機もあるが硬貨の持ち合わせが少なく、故障も多いと聞いていたので結局敬遠して長蛇に尾く。「メストレ駅まで往復二人」と俄仕込みのイタリア語で言うと「八千リラ」と日本語が返ってきた。
 改札口は無く、乗車日時刻印機で刻印して自由にホームに進む。メストレ駅に停車しない急行では困るので、念の為「どの列車に乗ったらよいか」駅員に聞いたら「Tutto (全部)」どれでもOKだと言う。約10分間隔で次々に発車する列車は全部メストレ駅に停まるということである。
 左右に海を眺めながら、海の中道(鉄橋)を約15分突っ走ってメストレ駅に到着するこのコースのことを「列車でアドリア海を渡り、本土に入る場面は感動的」と或る旅行会社は賞賛する。5世紀頃蛮族に追われて、この海の干潟(ラグーン)に移り住んだ人々の苦難に心が痛む。
 昼食はメストレ駅構内の”マクドナルド”で手早く済ませた。ガス入りミネラルウォーターもコカコーラも大きなカップでとても飲みきれない。此処のメニューにはコーヒーが無くて一寸残念。町は特に見る程のものも無く、駅付近を一瞥したのみでサンタルチア駅に引き返す。    

五、ムラノ島
 駅前のヴァポレット(水上バス)切符売場で1回券(L4500) を買い、「ムラノ島へは52番線」を確認して船着場へ急ぐ。乗船前に日時の刻印を忘れずに。船はカナレジオ運河を抜けて、造船所のあるヴェネチァ北岸から市営墓地の島サン・ミケーレへ立ち寄り、15分位でムラノ島の桟橋に着く。
 此処から運河沿いには軒並みヴェネチァン・グラスの店ばかりである。運河の向こうにはガラス博物館があったが時間の都合で入らなかった。観光客も幾分少なく、ホッと一服したくなるような”村”の雰囲気である。二三店ひやかしたが”金太郎飴”にはいまひとつ馴染めなくて桟橋に引き返す。52番線(緑)は島の裏側廻りとのこと、52番線(赤)の船に乗ってサン・マルコ広場に帰る。

六、再びサン・マルコ広場
 日曜日のせいもあって、こちらは国内外の観光客で大混雑である。それでもドゥカーレ宮殿傍では、獄舎に架けられた”溜め息橋”の外観は抜かり無くスナップする。朝のミサで入れなかったサン・マルコ寺院の入口では可成長い人の列であったが順調に進行した。寺院とは反対正面にあるコッレール博物館を大急ぎで見学する。有名なアントネッロ・ダ・メッシーナの”ピエタ”(キリストの死を悲しむ人々の図)は3階の一番奥の部屋にあった。隣屋のツーリスト・インフォメーションでは観光地図を貰う。
 広場の南側回廊に面して古色蒼然たるカフェ”フローリアン”がある。それもその筈、今から278年前の創業で18・19世紀当時の店構え・調度・絵画がその侭残されている。バイロン・ゲーテやあのカザノヴァにも愛好されたカフェだという。
 ホテルに戻ると「屋上からの眺めが面白い」というのでエレベータで上がる。屋上では函の側面がドアになって開く、こういうところにも狭隘な土地建物事情が滲み出ているように思う。増改築がし難いためか、周囲一面古びた赤瓦の家並みで2・300年タイムスリップしたような光景である。  

七、リド島
 今夜のホテルがリド島の方に変更になった。リヤルト橋たもとから水上タクシー2艘でリゾートの島リドに向かう。猛スピードで突進する私達のモーターボートを、後発組のボートが更に追い抜いて行くのには一驚した。案の定その乗客たちは「転覆しはせぬかと肝の縮む思いがした」と語っていた。
 ホテル・デ・バン・ベニスは眼前にプライベート・ビーチを擁する典型的なリゾート・ホテルである。ロビーや客室もゆったりと広く、なかでもボール・ルームとそれに続くテラスはいつでも大舞踏会が催せるような豪奢なたたずまいである。これらは画一的でない客室構成と共に、曾ての富豪の持ち物だった昔を偲ばせるものがある。  
 夕食は各自自由にとのことなので、島唯一のメイン・ストリートに繰り出す。出来合いピッツァではお粗末過ぎるし、かといってリストランテでイタリア語のメニューからいちいちチョイスするのも面倒臭い。考えあぐねているとき、通りの奥まった食堂の前でバッタリ名古屋の4人の婦人達に出会った。彼女たちも思いは同じらしい。入口に掲示されたセット・メニューL23,000に思わず皆の視線が集中する。衆議一決、6人で一卓を囲み注文する。それでも第一皿のパスタの種類や第二皿の肉か魚料理かは選択しなければならぬ。若いウェーターが額に汗しながら、たどたどしい英語で応対する。赤・白のワイン・デカンタが盛んに行き交う頃には、すっかり盛り上つて談笑に花が咲いた。ホテルまでのそぞろ歩きでは、ほのかに潮の香りを含んだ海からのそよ風が、微くんの頬に快い。  

八、さようならヴェネチァ
 翌12日にはリド島乗船場より、再び爆走の水上タクシーでヴェネチァへ戻る。サン・マルコ寺院や鐘楼を右手に、サンジョルジョ・マッジョーレ教会やジューデッカ島を左に見ながらローマ広場に向かう。広場にはローマまで通しで行くバスが既に待機していた。運転手アントニオはイタリア映画にでも出てきそうな中年の好漢である。少し目まぐるしくはあったが、水の都ヴェネチァを満喫することが出来た。こんどは海の中道をバスで、名残を惜しみながらこの街に別れを告げた。

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