2010年6月15日火曜日

父 岩太郎の思い出 -昔のさかな屋-(記:1995年7月)

一、徒弟制度     
  明治維新後、西南の役などまだまだ世情騒然としている中で、明治16年いわゆる鹿鳴館時代がはじまった。そういう年に私の父、岩太郎は生まれている。   
  当時の義務教育である尋常小学校4年を卒業すると、すぐ四日市市北条町の谷村鮮魚店に小僧見習いとして弟子入りした。満10才になったばかりの少年を社会人として放り出すには余りに早すぎる。そこで既に一業を成した先輩が親方となって、これら少年を受け入れ、職業人として必要な技能・知識を教育した。徒弟制度である。とかく暗いイメージで語られがちなこの制度だが、当時の社会では誠に有効な私立職業訓練学校であったといえよう。   
  まず大人社会への行儀・作法から厳しく躾けられ、ついで始末・才覚・算用など商人としての心得を始め、順次鮮魚商としての技術ノウハウを仕込んでもらったという。後年、店の帳箪笥の引き出しの中に、これらを説く教科書「商売往来」が入っていたのを憶えている。父は谷村店主を終生「親方」と呼んで敬慕していた。長じては谷村家の長女の仲人を引き受けるなど親密な付き合いが続けられた。   
  修業中は辛いこともいろいろあった様である。厳寒の水仕事では指が千切れるように 冷たい。親方から預けられた魚が思うように売れない。売残りを持って帰れば売り方が拙いといって、こっぴどく叱られる。思い余って自腹を切って、残った魚を三滝川へ投げ捨てたことも再三あったという。そのうち、おいしい食べ方・料理法を言い添えて奨めるという知恵がついた。それ以後は円滑に売り捌けるようになったとのことである。年季明け・お礼奉公・一本立ち(または暖簾分け)がいつ頃だったのかは判らない。ともかく27才で結婚、35才で北条町に転居している。ここは平野魚問屋(本誌第3集43頁に写真掲載)の東隣りにあたる。
    
二、魚問屋と仲買人  
  当時はこの北条町の「平野」と浜町の「角中」が魚問屋として張り合っていた。父は「平野」に仲買人として加盟していた。商工人名録によると合資会社「平野魚問屋」代表社員平野太七、大正11年設立とある。   
  仲買人の無闇な増員を避けるため、同業組合的なギルドの様に限定会員制をとっていた。会員には「いろは」48文字が割り振られていた。もっとも最後の「ん」の字は無かった様である。父は「す」の字を貰っていた。問屋内では総てこの字で呼びあっていた。   
  ある時、父について問屋に行ったことがある。早朝、大八車をひいて問屋に着くと5時半。伊勢湾岸漁民よりの湾内もの、尾鷲方面よりの外洋ものなど入荷した魚を予め下見をしておく。時間があれば隅の茶店で、大福餅・串団子で渋茶をすする。茶碗酒を景気よくあおる人もいる。たしか6時頃から「競り」が始まった。浪曲師顔負けの塩辛声で競売係が喚きたてる。目星をつけた魚のせいろが競り台に引き出される。父が競落希望価格を符諜で叫ぶ。ダリとかダリ半とかいうのが耳に残っている。他にも希望者がいれば値は段々競りあがる。これ以上の一声がなければ競落決定である。「はい、すの字」と念を押して記帳方が帳面につける。1か月分の競落代金は翌月5日に現金で「平野」へ支払いに行く。   
  「平野」には競り場しかなく、最近の生鮮食品市場の様に、仲買人が構内に店舗を構える余地はなかった。殆ど仲買人兼鮮魚小売商で流通が間に合っていたのであろう。
  しかし新規に鮮魚商を創めようとする場合は、仲買人の空き枠は殆ど無いので、既存の仲買人から仕入れなければならぬ。駆出し時代ならともかく、すこし商売が大きくなってくると、仲買人経由の仕入れでは面白くない。そこで仲買人の名義を借りて魚問屋の競りに直接参加することを考え付く。これを「肩下」(カタシタ)という。父も或る時、若いさかな屋から熱心に頼み込まれて「肩下」にしたことがあった。始めのうちは競落代金をきちんと支払いにきたが、段々滞るようになり、とうとうその若い「肩下」は行方を晦ませてしまった。問屋に対しては、彼の仕入分も自分の仕入代金として支払はねばならず、多額の焦付債権となってしまった。それ以後「肩下」は一切持っていない。   

三、鮮魚小売商    
  鮮魚商としての屋号は魚岩、商標は 岩(カネイワ)である。北条町では同業者が 多かったせいか売り上げは余り伸びなかった。昭和3年頃、東海道沿いの水車町(今の浜一色)に引っ越してからは面白いように商売繁盛したという。  
  四日市市商工人名録(昭和5年8月現在)には「鮮魚商 水車町 ■■岩太郎」と記載されている。父も46才。いっぱしの商人(アキンド)として活躍していたのであろう。時々得意先より頼まれて仕出し料理にも手を拡げ、かなりの皿小鉢や漆塗りの膳椀などを取揃えていた。預金獲得のため不動貯蓄銀行の行員が毎晩のように売上金を集金に廻ってきたのもこの頃である。  
  鮮魚商は生物商売であるから鮮度・清潔が生命。今のように保健所の規制監督は無いかわり、鮮度管理は徒弟時代に親方から徹底的に教え込まれている。その日の仕入れはその日に売り切るのが大原則だが、万一売れ残った場合は自家冷蔵庫に収容する、量が多ければ製氷会社に預けに行く、いか・たこ等はさっと茹で上げる、最後は契約養鶏場に餌用として払い下げる。  
  刺身など生食ものを調理する関係上、手指の清潔、負傷予防には細心の注意が必要である。おこぜ・こち等の有刺魚類を捌くときは非常に神経を使っていた。これらの針に刺されると必ず化膿するからだという。  
  また鮮魚商は毎日の台所に繋がる商売であるから、盆正月以外は年中無休である。得意先への定時定点巡回を律儀に心掛けていたようである。「烏の鳴かぬ日はあっても、岩さんの廻ってこない日は無い。」と信用され、当てにされていることを父は誇らしげによく語ってくれた。本誌第3集に、買い手の立場から見た昭和12年頃のさかな屋の様子を描いた富山滋子さんの作文が載っている。父もこのように毎日頑張っていたのであろうと思う。    
  昭和19年頃には戦局の緊迫とともに物価統制令の締め付けが厳しくなって、何でも公定価格を表示しなければならなくなった。しかし生鮮食品は極端にいえば、時々刻々鮮度の変化と共に売値を改訂しなければならない商品である。或る時、経済警察が臨検の際、価格表示を怠っていたとして注意されたときは、あとで「生鮮食品の実態が全く判っていない。」と大いに憤慨していた。  
  いよいよ敗色濃い昭和20年6月18日の四日市大空襲では、何もかも焼けだされてしまった。鮮魚も配給統制の一環に組み込まれ、諸事思うに任せぬまま終戦、長男の戦死と悲報が相次いだ。ともかく焼け跡に住居は再建したものの、ついに往時の生気を取り戻せないまま昭和28年逝った。69才であった。  
    
 以上魚問屋の仲買人兼鮮魚小売商であった父の一生を駆け足で逐ってみた。60年以上も昔の思い出を掘り起こし、その後学んだ事柄と照らし合わせながら書き記した。旧四日市の一端を偲ぶよすがとなれば幸いである。何分幼少時の記憶をもとにしているので、一部思い違いや大きな欠落があるかもしれない。お気付きの点は忌憚ないご指摘ご教示をお願いしたい。   

戦時体制下の四商(記:2002年8月)

 昭和16年12月大東亜戦争緒戦ではハワイ・マレー沖で大勝、シンガポール陥落と快進撃したものの、翌17年6月ミッドウェー海戦で惨敗してからは、国内の戦時体制は一段と強化されていった。四商での学園生活もご多分に漏れず、非常時色の濃いものに塗り替えられていった。第46回卒業生として、その幾つかを思い出すままに書き記してみよう。当時の呼称はカッコ内に現在の呼び方を注記した。四商先輩諸兄の、より詳細・正確な回想を期待します。
 尚「四商」は明治29年、私立として開校、明治37年三重県立四日市商業学校となり、平成15年では創立107周年を迎える伝統校である。

1.鮮満旅行の廃止
 5年生の修学旅行は従来から朝鮮・満州(今の中国東北部)旅行であった。関釜連絡船で釜山に上陸後、汽車で京城(ソウル)、平壌、新義州、奉天(瀋陽)、新京(長春)、ハルピンと鮮満を見学できるのを楽しみにしていたのに、2年程前に廃止となりがっかりした。

2.軍事訓練強化
 菰野町千草の実弾射撃場への耐熱行軍では目的地まで水飲み禁止。にもかかわらず自転車に乗りながら時々駆け足を命じる教練の教官・I少尉がこの時ほど恨めしく思ったことは無い。桜村の一生吹き山での突撃演習。松坂から夜行軍して、宮川堤で暁の模擬遭遇戦。空包射撃の後、喚声を上げての白兵戦も印象深い。
 武器庫には村田銃から三八式歩兵銃、騎兵銃や指揮刀などが保管されていた。擲弾筒、機関銃の有無は記憶が定かでない。射撃部を創設、東南隅の花卉園を改造して狭窄(きょうさく)射撃場が設置された。T准尉が教官となり、銃剣術訓練も始まった。
 このほか久居の連隊見学、鈴鹿(荒神山)の陸軍通信隊(中部第132部隊)への体験入営など着々と徴兵予備訓練が進められていった。

3.体力章検定、体格検査
 単に”走る跳ぶ”のほかに20~40kgの土嚢運搬、手榴弾投擲などを含めた体力章検定が制定された。体力に応じ初級、中級、上級と3種類のバッジが交付されたが、土嚢と手榴弾はなかなかに難関であつた。
 4年生の時には柔道場の一隅を衝立で仕切って、M検(性病チェックのため生殖器検査)を含むプレ徴兵検査のような体格検査が実施された。その後戦局急を告げて、本来満20歳で徴兵検査、21歳で入営の兵役が2年間繰り上げられてしまった。

4.進学、志願
 商業学校からの進学は高等商業学校へが従来からの常道であった。しかし戦局の進展に伴い、東京、横浜、名古屋、彦根、和歌山、神戸など本土中央部の高等商業学校はすべて工業経営専門学校に改変された。僅かに小樽、高松、山口、大分などの数校のみが今まで通りの高等商業学校として存続された。
 一方、陸軍士官学校、海軍兵学校、陸軍経理学校、海軍経理学校等、軍関係の学校が進学候補に加わってきた。K君が陸士入学。S君が海軍経理学校に進んだと聞いている。
 そのうち予科練(海軍飛行予科練習生)や特幹(とっかん)(陸軍特別幹部候補生)も募集が始まった。颯爽とした「七つボタンは桜に錨」は若人の憧れのステイタスでもあった。次の諸君が志願していった。
 H君  小豆島で「咬竜」特攻訓練中、機雷に接触して殉職。
 T君  ロケット戦闘機「秋水」特攻要員だったが終戦で命拾い。
 M君  人間魚雷「回天」浮上せずで、一時生死の境を彷徨。
 TN君

5.授業科目の改廃・削減、就職
 上記のように軍事教科が増強される一方、一般教科、商業教科は段々軽んぜられていった。経済・法規・商品・商業実践・商業作文・商業英作文(Correspondence コレポン)は殆んど授業が無かった。平田記念館の伝統的なEnglish Room(室内は英語only、日本語は厳禁)もいつしか廃止された。ただ支那語(中国普通話)だけは新設された数少ない教科の一つである。
 それもこれも徴兵された壮丁の穴埋めとして、農村への勤労奉仕が多発してきたからであろう。挙句の果てが3ヶ月の繰り上げ卒業である。これで学業全て万事休すとなった。
 軍国の道は厳しく、卒業後の就職も第二海軍燃料廠(塩浜)、三菱重工業(名古屋)、浦賀ドック(四日市)などの軍需工場に多く振り向けられた。南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)からも求人が有った。しかし渡満したのは満州電気へ就職したI君(故人)一人だけと聞いている。

 紗のかかったような遥かな回想なら懐かしくもある。しかし一つ一つの事例を具体的に列記して、平和な現在から顧みると随分異常な学園生活であったと思う。
「跋渉踏破せり、幾山河」の感一入(ひとしお)である。

東海道沿いの我が家(記:2001年12月)

 昭和57年に刊行された「東海道往来」(増田 武夫著)に収録されている旧四日市市内の街道絵図(昭和3年11月現在)を眺めていると70年程前の水車町(みずぐるまちょう)の面影が蘇ってくる。水車町は東海道の海蔵川に架かっていた海蔵橋(かいぞうばし)(今は無い)の南たもとから、南へ約100メートル迄の東海道を軸に、東西に拡がった地域である。
 元禄年代に治左ヱ門なる人がこの地で水車業を始めたところから水車町と呼ばれるようになったと言う。当時我が家の所在地は通常は水車町234番地と称していたが、戸籍では浜一色(はまいっしき)234番地となつていた。現在の地籍では浜一色町2の9番地である。それはともかく、昭和5年に引っ越してきて、昭和20年6月空襲で焼失するまでの東海道沿いの水車町を、北から南へ思い浮かべてみよう。

 まず前述絵図の東海道の東側を、海蔵橋から南へ、
当時の通称 絵図の表示 思い出すことども
山之神 山之神祠 粕森(かすもり)さん? が山嶽信仰の小祠を祭祀していた。
  割烹 容月 幼い私の記憶には無い。
米屋 米辰商店
(こめたつ)
米麦雑穀 武藤辰蔵。
ほしか屋 武藤商店 ほしかとは肥料用干し鰯のこと。大豆・菜種油の絞り粕、多木(たき)肥料の看板もあったが私たちは「ほしか屋」と呼んだ。
目立て屋 水目屋
(みずめや)
鋸目立て、大工道具販売。
はかり屋 青木計器店 度量衡、特に台秤(だいばかり)が店頭に陳列されていた。
瀬戸物屋 辻本商店 万古焼(ばんこやき)に対し中級の陶磁器食器類を「せともの」と呼んだ。
綿屋 伊藤綿屋 当時は主婦が布団綿を買ってきて、又は打ち直して布団を新製・再製することが多かった。
傘屋 伊藤傘屋 屋号入りの番傘や学童用の奴傘(やつこがさ)を店頭で貼っていた。
窯(かま)屋 岩塚窯屋 万古窯元。
しもた屋 会社員塚田 勤め人など、商売をしていない家を「しもたや」といった。
タバコ屋 後藤煙草店 一定距離以内の競合開店を専売局が許さなかった。
風呂屋 銭湯 松蔭湯
(まつかげゆ)
予め買っておいた風呂札(ふろふだ)を番台(ばんだい)に渡して入浴。
床屋 大矢知理髪店 子供客にはラムネ菓子を呉れた。
菓子屋 竹尾菓子屋 後に川原町の菓子屋「宝来軒」は此処で創業した。
窯屋 坂倉窯屋 万古窯元 店の奥は窯場だった。
ろくろ師 松井糊屋 手廻し轆轤(ろくろ)で皿・椀・花瓶を手作り、乾燥まで。かなりの名工だったとか。元は玉糊(たまのり)屋とは知らなかった。

次は東海道の西側を、北から南へ、

当時の通称 絵図の表示 思い出すことども
油屋 斎木だんご屋 だんご屋の記憶は全く無い。ガソリン給油機を店先に据えた河村石油店と覚えている。
呉服屋 武藤呉服店 向かいの米辰・ほしか屋と共に武藤家は水車町の大店(おおだな)。
菓子屋 伊藤菓子店 菓子製造販売、黒飴玉10個1銭、ビスケット10個1銭。
万古屋 杉本万古問屋 あまり覚えていない。

佐藤ランプ屋 殆んど記憶に無い。

神主
中島由太郎
しもた屋だったせいか全く気付かなかった。
八百屋 八百仁
(やおに)
野菜・果物。
万古屋 村田万古問屋 万古焼きの茶器や花瓶などの卸問屋。
万古屋 型万古 小野 よく覚えていない。
万古屋 長谷川
万古問屋

荒物屋 坂部屋 荒物・雑貨から、ちょっとした文房具まで。
下駄屋 会社員 伊藤 会社員と絵図にはあるが、店先での下駄作りが記憶にある。
酒屋 壁佐(かべさ) 絵図では壁材商とあるが、私の記憶では酒・醤油・食用油の小売店だったように覚えている。
米屋 小林商店 米穀薪炭のほか豆・卵も小売、陶磁器窯用の割木(わりき)(薪)を大量に貯蔵販売していた。武藤家と並んで町内の大店の一つ。
デンキ屋
杉本石屋の北半分に引っ越してきたモーターの巻き替えなどの電機修理屋。昭和3年の絵図にはまだ載っていない。
石屋 杉本石材店 屋号は「石一(いしいち)」、大番食品(株)の杉本一三氏の生家。
魚屋 前田屋 これが我が家、屋号は「魚岩」。うどん屋の前田屋(若林家)が昭和5年、出身地の亀山市に引き揚げることになったので、この家を建てた大工・後藤清蔵(私の母方の祖父)の斡旋で我が家が入居し、魚屋を営んだ。

火の見櫓 我が家の南隣りには無かった。 


 昭和7年頃舗装されるまでは凸凹だった前の往還(おうかん)(東海道、広い道路を往還、狭い路地
を「せこ」と呼んだ)を時たま桑名通い(がよい)(桑名行き)のバスがガタゴトと通り過ぎる。時移り人変わり、町並みも戦災で一変してしまった。私の微かな記憶も旧いボンネットバスのように、いつしか砂埃の彼方に走り去ってしまうのだろうか。

 なにしろ、かなり昔の幼い記憶を辿って、古語・死語・俗語を交えながら書き記したので思い違いや欠落があるかも知れない。お気付きの節は忌憚なきご教示を賜りたい。

戦時下の婚礼(記:2001年8月16日)

 太平洋戦争勃発の翌年、昭和17年に結婚した兄の婚礼の情景を思い出している。60年近く前のこととて、記憶が一部覚束ない面もあるが思いつくままに記してみよう。
 同年6月、兄は隣町の川原町から嫁を迎えることとなった。我が家のしきたりで、結納の金品に添えて蛇の目傘と高下駄を嫁方に納めた。これは「婚礼当日がどんな雨風になっても嫁入りして下さい」との願望を表す品々だという。もっとも雨が降れば降ったで「降り込め」といって、縁起が良いとも言い習わしていたが。
 幸い当日は天気も良く、花嫁は我が家の100メートル位手前でタクシーを降り、仲人夫人に手を引かれてゆっくり歩む。近所の人々が物見高く人垣を築いて見守る中を、文金高島田に角隠し、裾模様の褄をとって、一歩一歩当家に近付く。
 迎える花婿側は紋付羽織袴に威儀を正し、玄関の両側には我が家の家紋「剣かたばみ」入りの高張り提灯を掲げて花嫁を待つ。当家に嫁入りと同時に、屋根上から蜜柑箱に用意した袋菓子を見物衆の頭上に撒く。娯楽の少ない当時としては、これはちょっとしたショーイベントである。
 花嫁は先ず仏間の仏壇に向かって拝礼し、この家の嫁に入ることを先祖に告げる。続いて座敷に上がり婚礼の儀となる。家は商家の造りで店の間・仏間・座敷と別れているが、間の襖・障子を取り外すとそれなりの広間となる。
 あとは型通りに、三々九度の盃、新客との固めの盃、仲人の口上があって、披露宴となり、余り上手でもない謡曲「高砂」が謡われる。当時は「人的資源確保」ということで結婚・出産は結構奨励されていたようである。戦時下とはいえ何升かの酒が特配になり、披露の宴も宵闇と共に盛り上がっていった。これから先は余りよく覚えていない。ただ、その日の内に新婚旅行に出掛けることはなかった。
 その兄も昭和20年6月、満30歳を目前にしてフィリピンで戦死してしまった。愛しい妻と只一人の愛娘を遺して。

2010年6月12日土曜日

オーストラリア紀行  豪大陸点描(2004年10月)

1.オーストラリア入国
 オーストラリア紀行と表題したものの、日本の20倍もある広い大陸を、僅か10日間のツァーではとても見聞しきれるものではない。敢えて「点描」と付け加えた次第である。
 ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、そしてアフリカへは今までに旅したことがある。しかし南半球のオーストラリア大陸へ足を踏み入れたのは今回が初めてである。本来オーストラル austral とは「南方の」を意味する。
 10月23日(土)私たち12名と南田真樹子TDの一行は小牧空港19時55分発ケアンズ・シドニー行きのオーストラリア航空AO7950便で名古屋から出発した。出発に先立ち名古屋空港税750円を含め、オーストラリアの出国税と国際線、国内線の到着、出発共の空港税合計13990円が徴収された。後で知ったことだが丁度搭乗手続きをしている17.56頃、新潟県中越地方に震度6強の激しい地震が起こっていた。
 約7時間半の夜行便でケアンズ空港に着陸する。時差+1時間で薄明の午前4時半である。観光ETAS(イータス)とパスポートに入国カードを添えて入国審査を受ける。観光ETASとは査証(ビザ)に代わる入国許可証で、3ヶ月以内の観光なら1年間何回でも使用可能の入国許可カードである。機内で配られた日本語の入国カードに併記されたアンケートは詳細かつ厳格である。動植物、食品は原則持ち込み禁止、特に第6項「すべての食物は・・・」は「はい」を記入し、キャンディ、クッキー等も一応申告しておくようにとTDから注意がある。申告を偽り怠った場合の罰則は厳しいという。
 太古(約1億5000万年前のジュラ紀)の海陸分布でもオーストラリアは他のどの大陸にも接せず、大陸移動を続けて現在の位置形状になつたとJ.T.ウィルソン(1962)は推定している。従ってほぼ純粋に繁殖してきた固有種の動植物を今更外来種に侵害されることの無いよう、神経質な防疫体制を執っているようである。

2.ケアンズ、コアラ、バンジージャンプ
 国際空港や日本領事館出張所がある割に、ケアンズは東西1.2km南北2.3kmと碁盤の目状の小さな町である。しかし意外に多いホテル、大きなカジノ(ソフィテル・リーフ・カジノ)、さり気ないナイトクラブ、カナダ、ニュージーランドにも出店している大橋巨泉のOKギフト店、そして街路樹も気温も熱帯のリゾートである。そして海は世界最大の珊瑚礁群グレートバリアリーフ、山は世界最古の熱帯雨林ウエットトロピックス等、世界遺産リゾートへの発進基地でもある
 またケアンズは大陸を一周する世界最長の国道1号線(12,538km)の起点である。その一部を通ってまずトロピカル動物園を訪れる。コアラを抱いての写真撮影タイム(11時から)ではデジタル写真を1枚(14A$ \85/A$)。見学者を敵と感じないのか、襟巻きトカゲは襟を拡げてくれなかった。蛇、鰐、トカゲなど定番動物のほかカンガルー、ウォンバット、大型の火食い鳥、華麗なオウム、奇矯なフクロウ、赤いレッドパンダ、弱視のためうずくまる白カンガルーなど珍しい園内を一巡して、次のバンジージャンプ場へ向かう。
 ニュージーランドで若者が興じるのを見てヒントを得たというアクティビティーとしての施設である。高さ44mのジャンプ台から両足首を弾性のロープの端に結わえて飛び降りる。2回3回と跳ね上がりながら池の水面近くまで急降下する。その間ビートの利いたBGMがジャンパーの絶叫と混ざり合って観衆の熱狂をいやが上にも掻き立てる。
その隣では恋人同士らしい二人が並んでロープに装着され、同じく44mの長大ブランコである。ゲストハウスの屋上遙か、一時見えなくなる程のインターバルで振り上げ、振り下ろされる。料金は写真撮影込みで160A$とのことである。

3.キュランダ鉄道
 ここを出て間もなく世界第二位の長さ(7.5km)を誇るスカイレールのゴンドラを見上げた。途中二回乗り換え、熱帯雨林を眼下にキュランダまで続くという。私たちは途中、展望台から遙かにコーラルシーを眺めながらバスでキュランダへ。
 キュランダ美景鉄道(Scenic Railway)の14時出発まで、町を散策する。向こうから白人が「コンニチワ」と声を掛けてきたので「グッダイ マイト」(Good day mate 「やー今日は」くらいのオーストラリア英語)と返したらオージー(オーストラリア人)なのか、ニャッと笑って通り過ぎた。
ブーゲンビリアの咲き匂う町角ではアボリジニのストリート・パフォーマンス。カンガルー、鰐の皮、ブーメラン等の民芸店に近いTシャツ屋でカンガルーのデザインのTシャツを買う。中年店員の応対が爽やかである。
 少し早めにキュランダ駅に戻り、眺めの良い左側の席に就く。私たち13名に対し20名分の席が割り当てられたが、10数両編成なので結局皆が思い思いにゆったり着席する。
 発車して間もなくバロン滝駅に停車するが乾期のため、か細い白糸の滝である。バロン川沿いの雄大な熱帯雨林を眺めながらストーニークリーク滝の鉄橋を通るが、此処も水涸れである。しかし1890年代に完成したカーブのきついこの鉄橋は車輪を軋ませながら、年代物の客車で往時の鉄道旅行を経験させてくれる。
 次々とトンネルを潜りながらフレッシュウォーター駅に到着、バスに乗り換えてケアンズへ帰る。建設当時工夫たちがこの村でフレッシュウォーターを補給してキュランダ山脈へ入ったことから、こう名付けられた。もともとこの鉄道は長い雨期の都度、ケアンズからの道路が度々損壊した為、交通の便を確保するため1886年着工、難工事の末1910年に完成したものである。

4.ウルル・カタジュタ国立公園
 翌25日(日)は9.25発カンタス航空QF989便でエアーズロックへ飛ぶ。せいぜい1000m程度の大分水嶺山脈を越えると赤茶けた大地に真っ白な塩湖が点在する。着陸直前、機の左側の荒野にぽっかりとエアーズロックが見える。その遙か先にはモコモコとしたカタジュタの岩群が霞んでいる。ケアンズから1786km、エアーズロック空港11.45到着。時差が-30分なので2時間50分のフライトである。
 迎えてくれた現地ガイドめぐみさんが冒頭で「この地に約600人居る原住の人々はアボリジニaborigine(原住民、ラテン語でも「最初から、根源から」を意味する)またはアボ abo と軽蔑的に呼ばれるのをひどく嫌うので、アナング(アナング語で人々の意)と呼びます」と前置きして解説が始まる。5日間有効のウルル・カタジュタ国立公園入園券をバスの窓からゲート係員に提示しながら入境する。
 この日はカタジュタのオルガ岩群見学である。36の岩山の集まりであるカタジュタはアナング語で、カタ(頭)ジュタ(沢山)を意味する。1872年アーネスト・ジャイルズがこの岩群を発見して、最高の山(548m)にバーテンバーグ(ドイツ南西部)の女王の名に因んでオルガ山と名を付けた。
 カタジュタまでの展望台では一連の岩群を、いわば裏側から眺めることが出来る。振り返れば赤紫のエアーズロックが荒野の地平にぽっかりと、遮るものも無く佇んでいる。その間約30km。
予め聞いては居たものの早速小さい蠅の襲来である。乾燥地帯のため僅かの湿気を求めて目鼻口の周りにまつわりつく。防虫剤や化粧品はむしろ匂いが蠅を呼び寄せるらしい。頭からすっぽりと防虫網を被るのが最も効果的という。

5.オルガ渓谷
 バスを進めてオルガ渓谷入り口に到着する。圧倒的な岩山が左右から迫ってくる。しっかり水筒を肩に掛け奥の展望台まで往復する、約1時間。
 ウルルもカタジュタも約6億年の昔、西方の山脈から流れ込んだ玄武岩、花崗岩、砂、小石が混じった礫岩の堆積が風雨に一部浸食されて、現在の形になった。岩肌が赤いのは鉄分のせいであると地質学者は言う。オルガ渓谷では剥落した礫岩塊を多く見かけた。浸食は今も続いている。岩山の渓谷を吹き抜ける風でアニメ作家宮崎駿が「風の谷のナウシカ」を発想したのも頷ける。
 このあと立ち寄った公衆便所の建築費は膨大だったという。その殆どが資材機材の運送費で、道路も未整備の当時、毎回数百kmの道を往復したからだとガイドが解説する。ウルルに引き返す途中、一面の焼け野原に差し掛かる。時に猛烈な落雷があり一気に燃え広がるという。

6.エアーズロック、サンセット
 1873年ウィリアム・クリスティー・ゴスがウルルの巨岩を発見し、当時の南オーストラリア長官サー・ヘンリー・エアーズの名よりエアーズロック(Ayers Rock)と名付けた。決して空気(Air)の岩ではない。
 アナングは今でもこの一枚岩をウルルと呼んでいるが、その意味はアナングの伝承ジュクルバの中にあり、アナング以外には明かされていない。
 まずアナングの居住区に近いムティジュルの水場を訪ねる。水利に乏しいこの地では岩肌から流れ溜まる雨水は絶対に汚してはならない命の水であり、蛇神様が守っていると固く信じられている。雨は初め10分間ほどは岩肌に染み込み、その後薄黒い跡を付けながら岩ひだを流れ落ちる。
 明朝予定の登山口を下見してサンセット・ビューイング・エリアへ移動する。既に旅行会社がシャンパン・パーティーの準備を整えている。グラスを片手に刻々と色相を変えて行くエアーズロックを眺めながら、観光客の一群がさんざめく。地平に近く雲がかかり、燃えるように真っ赤なエアーズロックは見られなかったが、シャンパンで上気した顔はそれぞれ満足気である。小型車で来た小グループも三々五々引き揚げて行く。
 宿泊は国立公園の外側、ユララ(ディンゴ(オーストラリア犬の一種)が遠吠えするところの意)のエアーズロック・リゾートにあるエミュー・ウォーク・アパートメント。連泊客向けの宿舎らしくキッチンが完備している。68枚ものスイス製日除け三角帆布がユニークである。

7.エアーズロック、サンライズ
 26日(火)は4.20モーニングコール。真っ暗の約13kmをエアーズロックの北東サンライズ・ピューイング・エリアへひた走る。カンガルーは光に向かって突進する習性があるので、ヘッドライトを防護するため頑丈なバンパーを装着しているとガイドが説明する。
 まだ暗いなか、特製のリュックサックにセットされた握り飯と即席味噌汁で朝食を済ませる。漸く東が白み始めるとあちこちでカメラのフラッシュが閃く。空が茜色に染まる頃には見る見る大岩に赤みが増してくる。周囲を見渡せば夥しい人、人、人である。
 1980年エアーズロック・リゾートの北6kmに現在の空港が完成するまでは、この辺りが飛行場だったが突風が多くパイロットは苦労したという。

8.アナングのジュクルバ
 アナングにとってウルル自体が聖地なのだが、特に北東部には聖域が多く写真撮影禁止の立て札がある。地表から数メートルのところに水平にぱっくりと割れ目が出来ている。その幾つかは聖域として立ち入り撮影とも厳禁である。儀式、安産祈願、処刑場等ジュクルバに関する聖域が多い。
 ジュクルパはアナングの神話「天地創造」から集団生活の掟、儀式、自然との共生、日常生活のノウハウまで包括する伝承である。アナングには文字が無く、これらの伝承は代々特定の人々によって口伝で語り継がれている。万一誤って伝えた者は、獲物を横取りした罪人同様、両手両足を切断されて処刑場に遺棄されるという。飢え渇きに悶え苦しみながら死に至る惨刑である。
 剥落した亀裂が段々風食されて、高さ数メートルのウェーブロックになっている。天井には岩燕の巣が、壁面にはアナングの祈りを込めた水の渦巻き、貴重な食用幼虫(オオボクトウ)の絵などが描かれている。

9.エアーズロック、登山道
 針のような葉のスピニフェックスの原を通り、ユーカリの林を抜けて、8.00前に登山口に到着した。しかし掲示板には「雨の予報で登山口閉鎖」とある。雨雲一つ無い空を見上げ訝しんでいると、係員が次の掲示板に掛け替えた。「気温が36度以上になる予報で登山口閉鎖」である。聞けば昨日も一昨日も閉鎖されていたという。隣の掲示板には「神聖な山だから極力登らないで欲しい」というアナングの懇願にも似た願いが切々と記されている。
 なお登山口閉鎖には次のような理由が列記されている。
 (1)3時間以内に雨、嵐が予報されるとき
 (2)2500フィートでの最高風速が25ノット以上と予想されるとき
 (3)雲が頂上より下りてきているとき
 (4)救助作業が行われているとき
 (5)気温が36度以上になると予報されるとき
 (6)伝統的所有者から文化的理由による要請があったとき
 これらは数カ国語で列記されているが、日本語は英語、ドイツ語に次いで確か3番目位に書いてあった。
 登山口より50m程先からは登山ルートに鎖の柵が設置されている。ルートの傾斜は平均30度、最大45度はあるという。

10. ウルル・カタジュタ・カルチャーセンター
 心残りに登山道を見返りながら、アナングの生活様式や文化を展示紹介するウルル・カタジュタ・カルチャーセンターへ行く。アナング語には文字が無いので、英語に対するアナング語を音声で聞かせてくれる。蛇は「ニョロニョロ」と聞こえた、少し違うが。また数詞は1.2.3.しか無いので、それ以上は1.2.3.ジュタ・ジュタ・・・( 沢山、沢山・・・) という。興味深いセンターだが一切撮影禁止なのが残念である。
 宿舎に戻り隣接のビジターズセンターでこの地域の地質、動植物、アナングの生活文化の展示を見学する。このあと無料シャトルバスでリゾート一円を巡回する。高級ホテル・セイルズ・インザ・デザートやアウトバック・パイオニアロッジのほか随所にキャンプ場、コーチ(Coach)旅行者用のグランドがある。一周の後はショッピングセンターで散策、ここの郵便局から投函した葉書(A$1.10)にはUraraの消印が押されていた。
 空港までの道すがら、ガイドから「エアーズロック達成証明書」なるものが手渡される。曰く「ウルル・カタジュタ国立公園を訪れ、ジュクルバを学び、沢山の写真を撮り、南十字星( ? )を発見した」と記されている。

11.パース到着
 14.00発カンタス航空QF1923便でパースへ翔ぶ。眼下の荒野には一直線に走る道路が延々と続く。パースまでの途中800kmはガソリンスタンドが無いので、予備のガソリンとスペアタイヤ2本は必携である、とガイドが言っていたのを思い出す。
 緑が濃くなってきたと思ったらパースである。15.30到着、時差が-1時間30分あるので実質3時間のフライトである。直線距離は1643km。
 スーツケースの角が数センチ亀裂していたのでバゲージ・クレームしたが損傷軽微として取り上げてくれなかった。南田TDの助言に従い、帰国後旅行保険で修理することにした。
 夕食までのひとときシーベルホテルの周辺を散歩する。街の中心部で歩行者天国にも近く、中世ヨーロッパの雰囲気を漂わせるロンドンコートにも足を伸ばす。入り口の時計はロンドンのビッグベンと同デザインという。ブティックに混じって土産物屋、両替屋もあり、観光名所の一つになっている。

12.ピナクルズ
 27日(水)はピナクルズへの行きがけに郊外の墓地公園に立ち寄り、野生のカンガルーの群れに出会う。広い芝生を気ままに飛び跳ねるもの、腹袋に子供を入れたままゆっくり歩くもの、但し尻尾で腰を支えながら一足飛びに前へ進む、左右交互に脚を使う訳ではない。故人の名前、没年月日を刻んだ金属の墓標が半ば芝生に埋もれ掛けている。
 トイレ休憩のガソリンスタンドでは大型荷台に羊をぎっしり詰め込んだトラックを見た。今やオーストラリアは中東イスラム圏への最大の羊輸出国だという。途中の展望台から見た薄碧り色のインド洋は意外に波静かである。
ピナクルズに近く、三角形の道標が目に付く。野犬捕殺用の毒薬入りの餌が撒いてあるので、大事なペットなどは放さないようにとの警告だという。
 ピナクルズ・デザート(砂漠)はパースの北約250km、ナムバン国立公園のほぼ中央に位置する。ビジターガイドによれば「石灰岩層の上に生育した樹木の根が誘導する水分で、石灰岩が部分的に溶ける。風が上層の砂を吹き飛ばし、溶け残った石灰岩が地表に現れ、長年に亘って風化されてきた」という。ピナクル( pinnacle )とはもともと高峯とか小尖塔という意味である。
 人の背丈ほどの松茸、バットマンその他色々な形のものが林立し「荒野の墓標」の名に相応しい。展望台から見渡す限りの砂丘に「ピナクル」が点在している。砂地にぽつんと咲くイェローハイバーキャーの黄色い花が可憐である。此処でもエアーズロック以上に小蠅がたかってくる。早々にバスに引き返し、誘導石に従って「墓標砂漠」を回遊しつつ別れを告げる。
 往路に立ち寄ったガソリンスタンドの周辺でワイルドフラワーを観察する。円筒形の花パンクシア、鮮紅のボトルブラシ、ふわっとした煙り草などが珍しい。
 道路の中央分離線が直線なら追い越し禁止、波線なら追い越しOKとドライバーが解説する。そういえばカーブの手前は直線、曲がってしまえば波線になっていた。途中スーパーCOLESで蜂蜜を買ってパースに帰る。今日は往復500kmの行程である。

13.モンガー湖、キングズパーク、フリーマントル
 28日(木)は郊外のモンガー湖で、西オーストラリア州鳥の黒鳥親子と少時戯れる。黒い親鳥にまつわりつく子は白に近い灰色である。
 次に訪れたキングズパークの丘から、スワン川越しに眺めるパースの街は壮麗である。フェリーやクルーズ船が行き交う先には、サウスパースの街並みが拡がる。陸軍の戦争記念碑に敬意を表して、南西19kmのフリーマントルに向かう。町の入り口近い丘の上には海軍の戦争記念碑がある。何故か周りに米軍の魚雷が1基据えてあった。
 通称カプチーノ通りからフリーマントル・マーケットを左に見て、海岸に近いラウンドハウスに到着する。一見円筒形のように見える12角形の建物は1831年、この地最初の刑務所として建てられた。西オーストラリアでは最も古い公共建築物である。中央に井戸、周囲の狭い囚人房には当時の様子が展示されている。
 手枷・首枷を好奇の目でじっと見つめていたら「試してみては・・・? 」と係員に勧められた。手・首を差し込んでみる、矢張り不格好な見せしめの刑具である。裏手には古い大砲が1門インド洋に向かって据えられている。元々この町は1829年キャプテン・フリーマントルが植民地宣言をしたことに始まる、その名残りであろうか。
 また知る人ぞ知る、此処は1986年、アメリカ以外でアメリカズカップのヨットレースが開催されたことでも有名である。港を望むシーフード・レストランでランチの後パースへ帰る。

14.パースのCATバス
 このあとのフリータイムでは無料バスCAT(Central Area Transit)で市内を遊覧する。青猫はパース駅を挟んで南北ルート、赤猫は東西ルート、黄猫は駅からイーストパース方面を巡回する。波止場に近い珍奇なタワー「スワンベル」からキングズパーク下まで、右手に高層ビル群を見上げながらスワン川沿いに走るときは、まるでサイトシーイング・バスである。
 パース駅では乗降客の流れに沿って構内を歩くうち「年中無休 日本語医療センター」の看板を見つけた。中には白人も混じって数人の患者が待っていた。陸橋で繋がったマイヤーデパートで花柄ノートを買ってホテルに戻る。

15.フィリップ島、ペンギンパレード
 29日(金)は3.40モーニングコール。5.50発のカンタス航空QF480便でメルボルンへ。大オーストラリア湾(Great Australian Bight)岸上空を飛行すること3時間35分、11.25メルボルン着。時差は+2時間である。
 ワイルド・ワールド風のレストランでバイキング昼食の後、ペンギンパレードの見学にバスはひた走る。トイレ休憩の売店では飼っているウォンバットや、小型カンガルーのようなワラビーを間近に見る。夕食はスコットランド風の海岸に面したレストランで、見事なロブスターのディナーである。
 橋を渡ってフィリップ島へ入った頃には陽も沈み、ペンギンパレードの時間が迫っている。昨夜もリトルペンギンが海から戻って来たのは19.10だった、今日もその頃だろうという。既に階段状の観覧席は満席に近い。タスマン海から吹き寄せる南極の風が冷たいので、体を寄せ合って腰掛ける。
 ペンギンの視力保護のためカメラ、ビデオは持ち込み禁止である。それでも誰かがフラッシュを・・、監視の係員が制止に飛ぶ。やがて世界最小といわれる体長30cm程のペンギンが数羽づつ砂浜へ戻ってくる。日没後の薄明かりでは見つけるのが難しい。やむを得ず場所を変えて木橋を歩いていたら柵のすぐ外側を、既に上陸した一群がヨチヨチと尻尾を振りながら巣穴へ急いでいる。もっと大きいペンギンの群れは南アフリカのケープタウンに近いボルダーズ・ビーチで見たことがある。しかしリトルペンギンのパレードはゼンマイ仕掛けの玩具のようで、如何にも愛らしい。
 これからメルボルンまで137kmの夜道を突っ走って、ホテルへ着いたのは22時を過ぎていた。朝の3時起きからこの時間まで本ツァー最大の強行軍であった。

16.メルボルン、マーケット、大聖堂
 30日(土)朝、窓のカーテンを開けたら一面隣家の壁である。パークビュー・ホテルの名にも拘わらず、これではウォール( 壁 )ビューである。尤もホテルの正面は公園であったが。
 初めに訪れたクイーン・ビクトリア・マーケットは肉、魚、野菜、果物は勿論、衣類、雑貨、玩具など何でも有りの大マーケットである。解体したばかりの首無し肉、ぴくぴく跳ねる魚など、パック詰めのスーパー食品を見慣れた目には凄まじいまでの店頭である。肉、魚ともA$5~10 /kg位、日本の約1/10の価格である。
 次に訪ねたセントパトリック大聖堂は90年以上も掛かって1939年完成した、オーストラリア最大のカトリック教会である。塔の高さ105.8m、奥行き92.25m、7つの礼拝堂を持つ壮大なゴシック建築である。横手の水路で戯れる黒犬に見とれて暫く時を忘れる。

17.キャプテン・クックの家
 数多い公園の中でもユニオン・ジャックをかたどったフィッツロイ・ガーデンはメルボルン随一という。1755年イギリスのグレート・エイトン村に建てられた煉瓦造りのキャプテン・クックの家が、1934年この公園に移築された。台所、居間、ベッドなど18世紀イギリスの生活様式を再現していて興味深い。魔除けなのか、屋根の両先端に「魔女の腰掛け」が設けられている。壊血病予防に役立つ薬草、野菜、果樹のある裏庭にはキャプテン・ジェイムス・クックの銅像が建っている。
 家の前のクラシックな赤いポストに魅せられてはがきを投函した。帰国後到着の葉書にはオーストラリア郵便がここだけに認めているCook’s Cottageの消印がしてあった。
 日射しの芝生では祈りを捧げるヨガ集団、春の花一杯の温室などを眺めながらバスに戻る。車体一面、窓まで広告を描き尽くした無料トラムが市中を走り回る。

18.メルボルン、車窓観光
 ガイド加藤テルエさん(安城市出身)の説明を聞きながら、英国伝統のクリケット・グラウンド、南半球最大というメルボルン博物館、昔ながらのルームキーを使う、五つ星の名門ウインザーホテル、金色像を頂くブリンセス劇場、最初にオーストラリア国旗を掲揚したという州議事堂、英国風のフリンダー・ストリート駅などを車窓より見学する。
 その東側には2002年完成の公共スペース、フェデレーション・スクェアがある。美術館、動画館、放送スタジオ、観光局その他カフェ、レストラン、ホールなどをユニークな建物内に収め、その前のザ・スクェアは1万人を収容できるイベント広場、言わばコングロマリット・スペースである。面するヤラ川の水は見た目よりも綺麗なのだとガイドは言い訳する。
 オパールの店もそこそこに空港へ向かう途中、超正装の男女を幾組か見かけた、これから競馬場へ行く人達だという。今日は土曜日、競馬場へ急ぐ自家用車で交通渋滞である。イギリス同様この地でも競馬場はお洒落な社交場であり、男女出会いの場でもあるらしい。

19.シドニー、オペラハウス
 12.00発シドニー行きカンタス航空QF430便に搭乗する。オーストラリアの首都キャンベラを飛び越えてシドニーへは13.20着。
 ドライバー兼ガイド前川さんのバスでシドニー随一のビューポイント、ミセスマックォーリー・ポイントへ行く。その昔、総督マックォーリーが夫人の郷愁を慰めるため、イギリスに似た眺望の場所に岩を削って腰掛けを作ったという。
 左手オペラハウス越しにハーバーブリッジ、水面に時折遊覧クルーズ船が悠然と行き交う。旧砲台近くの海には数隻のヨットがたゆたい、傍の波打ち際では新婚夫婦を囲んで友人達が歓声を上げている。後ろの向こう岸には軍艦も停泊している。
 オペラハウス前へ移動する。このユニーク建物はデザインコンペの結果、ヨットの帆をイメージしたデンマークの建築家ジョーン・ウッツォンの設計で1959年着工した。しかし工費、工期とも問題続出で、結局あとは4人のオーストラリア建築家チームが1973年に完成した。その間アメリカで開発された局面建築の技術が役立ったともいわれている。スウェーデンから運ばれた1,056,000枚の白タイルで覆われた外面は、天然の雨で常に清拭されるとガイドは説明する。
 向かって左の大きい屋根の方が2679人収容のコンサートホール、右が1547人収容のオペラシァター、その他大小4つの劇場やスタジオが複合している。客席へは入れなかったが絵はがきを参照した。この前の広場にもウェディングドレスの1組がオープンカーで乗り付けている。

20.ハーバーブリッジ
 ハーバーブリッジのアーチ上にはブリッジクライム・ツァーの一団が豆粒のように登って行く。参加料はA$155という。もとは不況対策として1923年着工、1932完成したもので全長1149m、全幅49m、アーチの高さは水面より134mもある。電車の軌道、自動車道、歩道があり、入り口にある塔門(Pylon)の一つには資料展示と展望台がある。渡りはしなかったがロックス地区への途中、下を通ったときその巨大さを実感した。
 1788年1月26日アーサー・フィリップが流刑囚780人、海兵隊及びその家族1200人を引き連れてこの辺りの入り江に上陸した。これを記念して1月26日がオーストラリアの建国記念日となっている。従ってロックスと呼ばれるこの地区は、今でも白人オーストラリア発祥の地と言われている。
また60余年前、太平洋戦争のときには日本の特殊潜航艇がシドニー湾に侵入し攻撃したことから、未だに反日の老人が多いことも忘れてはならない。
 市内に戻り、ビルの一角にオパールの採掘場を再現して売り込みに熱を入れるオパール店に立ち寄った後、シティーゲート・シーベル・ホテルに到着する。
 シドニーの属するニューサウス・ウェールズ州を含む東南4州は今夜零時からサマータイムである。明朝遅刻の無いように夕食後、南田TDの指示で時計を1時間進める。

21.ブルーマウンテン
 明けて31日(日)はサマータイム第一日である。前川さんのバスで西へ約100kmのブルーマウンテンへ。途中、コロニアル風バルコニーのある建物をよく見かける反面、住宅は意外にこぢんまりとした平屋が多く、ヨーロッパ型の四角い煙突を各戸に備えている。運転手の指さす路面には高橋尚子も走った2000年シドニー・オリンピック・マラソンの青いラインがある。
 カトゥーバの町には寄ることなく、ブルーマウンテンのエコーポイントへ乗り付ける。奇岩スリーシスターズは目の前である。「アボリジニの父親が三人姉妹を魔物から守るため、岩にして隠したが人間に戻せなくて・・・」という伝説による。
 見渡す限り高さ1000m程度の山々がユーカリの森に覆われている。その葉から発するユーカリオイルの微粒子が陽光でプリズム作用を起こし、ブルーの霞となって山谷に漂うのでブルーマウンテンと呼ばれるようになった。「アメリカのグランド・キャニオンには比すべくもないが」と誰かが呟いた。

22.シーニック・ワールドとルーラ
 バスで移動して、旧炭坑の運搬車を模したシーニック・レイルウェイに乗る。最前列に陣取ったものの50度前後の下り勾配では、バーに掴まるというよりは足を踏ん張って、半立ちの姿勢で急坂を駆け下りる。トンネル内の数秒は阿鼻叫喚である。尤もワイヤーロープで前後を結索しているので暴走することはない。最大52度のレイルウェイはギネスものだという。
 遊歩道では観光用に整備された旧炭坑入り口や掘削・運搬具などを見学する。この炭鉱は1945年までは採炭していたようである。今でもオーストラリア大陸の東部地方では何カ所かの大規模炭鉱で採掘が続けられている。この先は森林浴気分で熱帯雨林の中をそぞろ歩き。ターザンのロープのような蔓、ユーカリの大木、宿り木などを眺めながら木道をスカイウェイの乗り場へ行く。
 84人乗りの大型ゴンドラのフロントに着席し、谷底から崖上へ約3分間のロープウエイ。右側からスリーシスターズが見守ってくれる。
 一連のシーニック・ワールドを楽しんだ後、高原の町ルーラへ立ち寄る。避暑地らしいスマートな町で、郵便局併営のレストランやチャーミングなショッピングモール。その内のキャンディ・ストアでは山のようなキャンディ棚の中から、ここの名物ユーカリオイル入りのキャンディを見つけ購入する。
 シドニーへの帰路、2000年オリンピック会場へ立ち寄る。広い敷地に各競技場、施設がゆったり配置されている。メイン会場の前でしばらく散策してバスに戻る。

23.クイーン・ビクトリア・ビル界隈
 街の中心シドニータワーの近くでは消防車が走り、ストリート・パフォーマーが打楽器を打ち鳴らす。こういう都会の喧噪のなか自由行動となる。タワーに登る人、モノレールに乗る人、勿論ショッピングする人、色々である。
 私たちは1898年に建てられたというクイーン・ビクトリア・ビルディングを訪れる。優美なロマネスク様式をそのままに1996年に改修され、今では地上3階地下1階のショッピングセンターになっている。
 北口から入ると、上には高さ10m世界最大の吊り時計オーストラリアン・クロック、床は精緻なタイルが敷き詰められている。ブティック、毛皮、オパールからお土産、レストランなど200余店が軒を連ねる。エスカレータで3階に上がるとクイーン・ビクトリアの蝋人形と王冠、宝石のレプリカが大型ショーウィンドウに飾られている。南口の天井からは、毎時仕掛け人形が動くロイヤルクロックが吊り下げられている。
 3階から1階まで大時代なアコーデオン・シャッターのエレベータで下りる。ビルを出た所にはクイーン・ビクトリアの銅像がでんとあたりを睥睨している。
 交差点の向こうは高い時計塔がよく目立つタウンホール(シドニー市役所)である。折しも周囲は薄紫色のジャカランダが花盛り。桜が日本の春を象徴するように、ジャカランダは南半球の春を告げる花のようである。
 隣りネオゴシックのセントアンドリュース大聖堂は1868年完成、オーストラリア最古の聖堂という。日曜日の午後、ひっそりとした堂内で見事なステンドグラスや荘厳な祭壇を見学する。
 この後ハイドパークの第一次大戦記念碑を訪ねる。この公園は1810年造営された由緒ある所だが、各種イベントやランチスポットでもある。散歩、日光浴と思い思いに人々が緑を楽しんでいる。

24.シドニー・ハーバー・クルーズ
 今夜はシドニー・ハーバーのディナー・クルーズである。それなりに服装を整えて、サーキュラーキーの桟橋で乗船を待つ。ずらりと停泊している他社のクルーズ船もそれぞれ出発準備に忙しい。
 やがて夕日が沈む頃、双胴のクルーズ船に乗り込む。ギター、ヴァイオリン、ヴォーカルのバンドが私たちを迎えてくれる。着席間もなくウェイターが飲み物とメインディッシュのチョイスを聞いて回る。船はゆっくり桟橋を離れ右手にオペラハウス、やがて反転してハーバーブリッジ。こんなコースを繰り返しながらシドニー・ハーバーを逍遙する。時に電飾のクルーズ船が行き交い、旧砲台のミニ灯台が煌めく。
 宴たけなわの頃、グループのTさんが誕生日だというのでハッピーバースデーの大合唱となり、テーブルが沸きかえる。
デッキに出ると満天の星の下、ライトアップされた白亜のオペラハウスが一段と幻想的である。ブリッジのアーチには夜目にもはっきりオーストラリアの国旗が翻る、時々船は橋の塔門(Pylon)のすぐ側をクルーズする。存分に夜景と潮風を愉しんだ後、接岸上陸する。皆ディナー、クルーズ共に満足したようである。

25.オーストラリアという国
 11月1日(月)は早くも帰国の日である。昨日見損なったシドニー駅を右手に見ながら空港へ急ぐ。帰りは8.45発ケアンズ経由名古屋行きオーストラリア航空AO7959便である。内側の席だったので景色は見えなかったが、地図で見るとシドニー付近は入り江が入り組んでいて、機上からは水郷のように見えたのではなかろうか。
 2時間程でケアンズ空港に着陸、トランジットで別の機に乗り換えることになった。ここでまた時差調整である。ケアンズのあるクィーンズランド州はサマータスムを施行していないので、シドニーとは南北関係にありながら-1時間の時差がある。中部オーストラリアの南オーストラリア州と北のノーザン・テリトリーでもサマータイムの有無で1時間の時差がある。
 このように州の独自性は時差のみに止まらず、祝祭日も全国共通日のほか、州毎に異なった日が制定されている。また生鮮食料品を含む動植物の搬入でも州毎に規制基準が異なっている。特にパースは持ち込み検査が厳しいとのことである。
 しかしオーストラリアそのものはイギリスを盟主と仰ぐ英連邦国家であり、元首はエリザベス二世である。国旗の左上にもユニオン・ジャックを配している。
 そもそもオーストラリアは1770年4月29日キャプテン・クックがエンデバー号でシドニー近郊に上陸、英国領を宣言したことに始まる。それまでアメリカを植民地として移民や流刑囚を送り込んでいたイギリスだが、1776年アメリカが独立してからは、その代替地をオーストラリアに求めるようになった。ゴールド・ラッシュ後(1861)採り続けてきた白豪主義も1970年には転換し、今では有色のアジア人種も多数流入している。
 シドニーから同機に乗り込んでいた福岡県東朝倉高校の修学旅行生たちはケアンズ空港で福岡行きに乗り換えたらしい。空港の商店街で、先年ジャカルタで買ったWilliams シャツの専門店を見つけた。矢張りR.M.Williamsはオーストラリアのブランド衣料なのである。
 正午頃乗り込んだ飛行機は、機体は替わったが便名はAO7959便のままである。昼間のフライトながら7時間半程うつらうつらと、まどろんでいるうちに名古屋空港に到着。また-1時間の調整である。サマータイムにぶつかったとはいえ、10月29日からの4日間に4回もの時差調整は何とも気忙しいことである。
 あと数日で立冬、日本の秋は既に深まっていた。

 本稿は今回見聞したことを、オーストラリア政府観光局「Travel Australia」'02版、各訪問地のビジターガイド、「地球の歩き方オーストラリア」'04~'05版等を参照しつつ記述したことを付記します。

儒神基佛の東京ミニ見物 覚え書き(2004年8月)


 先月東京で家内の喜寿祝いの帰途、夕方新幹線までの時間を利用して儒神基佛の東京ミニ見物をしてみた。
 午後3時頃中央特快が停車する御茶ノ水駅で下車、手荷物をロッカーに一時預けにして、まず湯島聖堂に向かう。ロッカー施錠で、乱数表かららしい5桁数字のメモがプリントアウトされる。合い鍵は無く、傍のテンキーからその5桁数字を打ち込めば開扉される仕組みである。

1.湯島聖堂 ( 儒教 )
 聖橋(ヒジリバシ)を渡るとすぐ右手が湯島聖堂である。こんもりと茂った森の中は都心とは思えぬ蝉しぐれが鳴きしきっている。ここは文京区である。
 先に林羅山が建てた孔子廟「先聖堂」を、元禄3年(1690)五代将軍綱吉が湯島に移し大政殿と改称、付属の建物も含め聖堂と総称した。
 寛政9年(1797)拡張した敷地内に昌平坂学問所が開設され、孔子の生地昌平郷に因んで昌平黄(学カンムリに黄)と呼ばれた。これが後の東京大学の前身である。
 度々の江戸大火、関東大震災、東京大空襲により焼失、損壊したが、都度再建改修された。現在の聖堂は概ね昭和10年(1935)に復興した鉄骨鉄筋コンクリート造りのものである。
 入徳門をくぐり大政殿に詣でる。左右に四賢像(顔回、曽子、子思、孟子)を配し、中央には明末の遺臣朱舜水が携えて来たという孔子像が祀られている。左側の壁には蒋介石(名は中正)が揮毫した「有教無類」の石板額がある。
 廟内の売店では四書(大学、中庸、論語、孟子)五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)よりも唐詩選など漢詩関連の書籍が目に付いた。
 なお「湯島の白梅」で歌い囃された泉鏡花の小説「婦系図」の主人公お蔦・主税の別れの場は、聖堂とは別の湯島天神の境内である。

2.神田明神 ( 神道 )
 聖堂の裏、道一筋を隔てると台東区、神田神社・通称神田明神がある。賑やかな神田祭とは裏腹に境内は意外にひっそりと鎮まりかえっている。
 江戸時代には山王日枝神社の祭りと共に江戸二大祭とされ、元禄の頃からは神輿が江戸城内にまで入るようになった。盛時には山車35台の長い行列が氏子地域内(京橋、神田、下谷)を4日がかりで巡行したという。現在の祭日は隔年の5月15日としている。
 祭神は大巳貴神(オオナムチノカミ)、少彦名神(スクナヒコナノカミ)である。

3.ニコライ堂 ( 基督教 )
 再び聖橋に引き返して渡ると千代田区である。正面にニコライ堂の丸屋根が見える。歩いて僅か数百mのところに文京、台東、千代田と三区が区境を接しているのも面白い。
 日本ハリストス正教会ニコライ堂は明治17年(1884)起工、同24年(1891)完成、日本最初のビザンチン建造物で、重要文化財に指定されている。
 文久1年(1861)函館のロシア領事館付き司祭として来日したイオアン・カサトキン、修道名ニコライが明治5年(1872)東京に日本ハリストス正教会を設立し、布教に努める傍ら前記のようにこの教会を着工完成させた。ニコライ堂と俗称される所以である。
 ロシア工科大学教授シチュールポフ博士が設計し、鹿鳴館などを設計した英国人コンドルが一部修正して完成させた。その後関東大震災(1923)に遭い、昭和4年(1929)に再建されている。
 ニコライは1906年大司教に叙せられ、1912年東京で没している。

4.泉岳寺 ( 仏教 )
 次は品川駅で下車してタクシーで北へ1.3km、仮名手本忠臣蔵で有名な芝高輪の泉岳寺を訪れる。慶長17年(1612)開山した曹洞宗・万松山泉岳寺は旧赤穂藩主淺野家の菩提所である。
 本堂左奥には元禄14年(1701)切腹した浅野長矩、吉良邸に討ち入りした47義士、長矩夫人の墓がある。47士の墓は討ち入り後、身柄を預けられた細川家など4大名家別に配置されている。尋常でない死に方の為、戒名は例えば堀部安兵衛は刃雲輝剣信士のように刃・剣の二字に囲まれている。城代家老大石良雄の戒名は忠誠院刃空浄剣居士となっている。大石良雄とその子主税の墓には屋根が設えられている。
 討ち入り陣羽織姿のボランティア数人が丁度墓地を清掃奉仕中であった。参道右傍らには吉良義央の首を洗ったという井戸が金網で覆われている。
 討ち入りの12月14日とか、義士切腹の命日には参詣者も多いのだろうが、通常は人影も疎らで、門前の土産物屋も開店休業、店員の姿も無い。
 品川駅まで再びタクシーで戻り、東京17:36発「ひかり」には悠々間に合った。


 湯島聖堂については斯文会の「湯島聖堂略志」を、その他は主に平凡社「世界大百科事典」を参照しました。

兄 正一の戦没地をたずねて(1995年6月)

 去年の今頃は兄 正一の50回忌の法要だというのに「戦没地はルソン島方面」という茫漠としたものだった。これではどうにも心許なく、もっと詳しい地域・場所が知りたい、出来ればそこまで行って鎮魂慰霊をしたい、追悼顕彰を行ないたいという思いが日毎に募っていった。

 爾来資料があると聞けば閲覧に走り、戦跡慰霊ツアーが出るといえば馳せ参じて、巡拝しつつ多くの方々から沢山の参考情報を承った。その結果「■■正一の戦没地はルソン島イフガオ州パクダン村」と判明した。そして遂に平成7年5月13日、50年振りにその地に立って兄の慰霊追悼を果たすことが出来た。これも偏に英霊のお導きと多くの関係の方々のご協力ご助言の賜と深く感謝します。

 次にこれまでの経過と熱心にご教導頂いた方々のご芳名を記し、血を分けた兄弟児孫に報告するとともに、兄正一とその妻ひでさん、そして「息子の戦死はとても信じられない」と言いつつ逝った父母の霊前に謹んでこの一文を捧げます。

 戦後50年、私なりの一つのメモリアルである。

一、防衛研究所図書館
  確か8月の終戦特集TV番組の中だったか、防衛庁戦史部には可成りの戦史資料が保 管されており閲覧可能と報じていた。手元にある戦中の住所録に記された軍事郵便の宛名「比島派遣渡第10612部隊根本隊 ■■正一」だけが唯一の手掛かりだった。
  平成6年10月3日東京都中目黒の防衛研究所図書館を訪れた。まづ「渡10612部隊」とは部隊の兵種・規模等を敵に察知されないための防諜名で、正式には第14方面軍南方第12陸軍病院であることが判った。その後昭和19年10月山下大将がマニラに着任後の編成見直しで「威10612」と改称されていた。
  所蔵資料「中央部隊歴史・比島方面部隊略歴」及び戦史叢書「捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦」によれば、正一戦没のころ第12陸軍病院は第14方面軍司令部の移動と前後して、キャンガンからもっと奥地のマゴックへ移動している。恐らくその途中の山道で、飢餓とマラリヤ熱発のため遂に力尽きたのだろうと思う。

二、三重県庁
  平成7年5月8日、兄の本籍(四日市市)を所管する三重県庁健康福祉部高齢者対策課援護恩給係を訪れ関係資料を閲覧した。
 
  「死亡告知書」(いわゆる戦死公報)によれば、
   ”昭和20年6月23日比島ルソン島方面ニ於イテ死亡セラレ候条此段通知候也”  「履歴書」によれば、その軍歴は、
   ”昭和 9年12月 1日       第二補充兵役編入
    昭和18年 7月20日 衛生二等兵 臨時召集により京都陸軍病院に応召
    昭和18年 9月14日       宇品港出発
    昭和18年10月 2日       マニラ港上陸
             同日       南方第12陸軍病院に転属
    昭和19年 1月20日 衛生一等兵
    昭和19年 7月20日 衛生上等兵
    昭和20年 6月23日 衛生兵長  比島において戦病死 ”

  「戦没者調査票」(軍人恩給原簿)によれば、その戦没状況は、
   “ 身分        軍人
    所属        南方第12陸軍病院
    官等身分      死亡前 衛生上等兵、死亡後 衛生兵長
    死亡状況      戦病死、在隊死
    死亡年月日     昭和20年6月23日
    公報年月日     昭和21年1月23日
    死亡場所      外地 比島ルソン島
    受傷り病年月日   昭和20年6月15日
    傷病名       マラリヤ
    受傷り病場所    外地 比島ルソン島 ”
  以上のように県庁資料でも、戦没地は「比島ルソン島」までしか記載されていない。

三、太平洋全域洋上慰霊祭の船旅(ふじ丸)
  予て申し込んでいた上記の慰霊行に参加した。商船三井客船のふじ丸(23,340トン)を借り切って、平成7年2月15日博多を出港。
 途中、高雄(台湾)マニラ(フィリピン)メナド(インドネシヤ)ポートモレスビー(パプア・ニューギニヤ)ガダルカナル(ソロモン共和国)サイパン(北マリアナ連邦)には上陸、火山噴火で上陸出来なかったラバウルの湾口をはじめ、多数の将兵が海没した洋上など12箇所で慰霊祭を行ない、3月10日東京晴海帰港という行程であった。昭和19年10月比島沖で沈没した空母千歳から、奇しくも海没を免れた渡辺 守氏が団長である。
 総勢540名の団員の中に、どなたか第12陸軍病院の衛生兵であった兄に関する情報をお持ちではと、一縷の望みを抱いてその旨を船内掲示板に貼りだした。
       
 早速次の方々から貴重な関連情報の提供があった。
 1.●●正太郎さん(名古屋市)
    宮古島沖で轟沈した空母雲竜より生還した数少ない1人である。戦中は南西方面艦隊司令部勤務であった。
    自ら経験したルソン山岳州での惨状、比島戦線のデータベース「比島文庫」、愛知県三ケ根山頂比島観音の例大祭などについて教示紹介を頂いた。また帰着後、昨年参加されたマニラ会(12陸病のとは別で、マニラ在留邦人も入った会)での戦跡巡拝のビデオを拝借。この中にはパクダンでの光景も収録されていた。

 2.●●喜男さん(福岡県苅田町)
    戦中は屏東(台湾)で第157飛行場大隊勤務であった。
   ふじ丸では比島観音、米側資料「山下奉文」などの情報を頂く。帰着後は「比島従軍記」(根本勝著)「追憶の詩」(坂田沢治著)を拝借した。その後届けて頂いた後記吉富巡拝団の西日本新聞の広告切抜は、このあとのパクダン慰霊行に繋がってゆく。

 3.●●比佐子さん(福岡市)
    3月8日木村船長と同卓で夕食の際、隣り合わせた●●サエさん、●●トヨノさん(共にルソン山中会員)より紹介される。
   昭和20年7月父上をキヤンガンで喪くされている。父の戦没時期・場所等、姪淑子と状況のよく似た戦争遺児である。ルソン山中会の世話人・草むす屍会員である。船中では比島観音・12陸病関係者の心当たり等について承り、帰着後は次のような多数の参考図書資料を提供頂いた。
    南方第12陸軍病院の記録「アシンの谷間に」(元軍医中佐 玉村一雄編)
    比島観音20年史
    フィリピン戦逃避行(新美彰・吉見義明共著)
    見知らぬ戦場(長谷部 日出雄著)
    炎熱商人(深田祐介著)
    その他戦跡巡拝記・会報・地図等
   特に「アシンの谷間に」の玉村日記と遺芳録は兄の終期を知る上で誠に貴重な資料であった。

四、比島文庫     
   前記●●正太郎さんより「比島戦線に関して、よろず調査相談に応えられる」として紹介される。
 1.●●喜徳さん(大分市)
    戦中は虎兵団陸軍伍長としてルソン戦に参加。帰還後は関係図書資料1500冊を収蔵して「比島文庫」を主宰、関係者と連携して集録「ルソン」を編集発行しつつ、比島戦線の解明・調査に尽力中である。この集録「ルソン」全70冊は「既刊戦史の誤りを正した第一級の戦史資料」として、平成7年度の菊池寛賞を受賞されている。
    私からの照会に対し、折り返し「■■正一さんの戦没地はパクダン」と資料コピー同封で教示があった時には、年来のわだかまりが一度に氷解したような感激だった。同時に集録「ルソン」(関係分)「ルソン島巡拝記」詳細図等届けられる。
   また三ケ根山12陸病慰霊碑世話人 ●●義一氏を紹介される。

五、三ケ根山比島観音
   愛知県幡豆町三ケ根山頂の大山寺境内にある観音さまで、昭和45年、比島戦関係者の浄財で遥かフィリピンの方を向いて建立されているのでこの呼称がある。その前庭には比島戦線で散華した陸海軍部隊の慰霊碑が林立して居り、毎年4月の第1日曜日には例大祭が行なわれる。
1. ●●義一さん(伊勢市)
   前記●●喜徳さん、●●比佐子さんより紹介される。
  戦中は南方第12陸軍病院の衛生下士官。現在は比島観音奉賛会世話人・12陸病
  慰霊碑の責任者である。
今年4月2日の例大祭に姪淑子と参拝の際、受付(救護班)で元従軍看護婦●●艶子さん、●●秀子さんと共に初会。義一さん持参のアルバム・見取図により当時及び最近のパクダンの状況説明を受ける。部隊の転進経路図も頂いた。今後も12陸病戦友会等の機会を通じ、兄に関する情報を尋ね続けて頂ける由である。

六、フィリピン戦跡巡拝の旅     
   この種の巡拝ツァーは昭和40年代より、各地の戦友会・遺族会等の間では催行されていた様である。一般には広報がないため前記中込さんより報らされるまでは全く関知しなかった。
 1.●●孝信さん(熊本市)
    今回(平成7年5月11日-18日福岡発着)の戦跡巡拝団長である。
   戦中は第14方面軍通信隊将校。戦後はマルコス大統領時代以来、訪比歴数十回という比島巡拝の大先達の一人である。現在熊本市花岡山フィリピン戦没者慰霊碑奉賛会の世話人でもある。
    「戦没地が判っていて行く意志があれば、あらゆる手段を尽くして、たとえカトリック教会の自家用飛行機をチャーターしてでも(大小約7000余の島々よりなるフィリピンでは、離島僻地への布教用に飛行機を持っている教会があるという)行き着ける様に取り計らいます。」との吉富団長の力強い言葉に励まされて、勇躍この巡拝行に参加した。
    現に5月13日には一行36名がネグロス島・サラクサク峠・キヤンガン・パクダンと4班に別れて巡拝した。
    ルソン島を縦横に1500Km、8日間に及ぶ走行中、各戦跡に関する迫真の説明には大いに感ずる所があった。今日の繁栄の礎となったこれら多数同胞の死を決して無にしてはならぬと固く肝に銘じた次第である。

 2.Mr.Sakaiさん(KIANGAN )
    祖父が明治時代に渡比、バギオに通じるベンゲット道路開削工事に従事したという日系三世である。今年67才、日本語は話せず、夫人は現地の人。40年来キヤンガンで雑貨商を営み、道を隔てた隣には”KIANGAN HOTEL ”を経営している。
    5月13日、氏の長男が店のトラックで私達4人をキヤンガンからパクダンまで案内して頂いた。お陰で50年目にして漸く念願の慰霊追悼をすることが出来た。この感謝の気持ちを込めて、帰国後、持ち帰ったペソ紙幣と若干のUSドルを慈善団体への寄付金としてMr.Sakaiに郵送・付託した。

 3.Ms.ビューリー
    マニラより同行のカメラマンだが、商売を超えた熱心さでパクダンでの慰霊に何くれと無く協力してくれた。キヤンガンで添乗ガイドと別れたあと、現地の人と私達の間を、私の覚束ない英語と彼女のたどたどしい日本語で取り持って、どうにか無事に事が運んだ。勿論彼女の撮影した沢山のスナップ写真は買い上げた。
    平成10年の巡拝行で私達に同行した現地カメラマン ニコ氏に尋ねたら「自分の従姉妹」とのことである。

 1年足らずの間にここまで実現出来たということは、丁度水面に輪が生まれ、拡がり、繋がって彼岸に達するように、これら多くの方々の貴重な情報・ご協力の連鎖がパクダンまで導いてくださったものとおもう。
 あらためて英霊のご加護と、お寄せ頂いた沢山のご協力ご好意に深く感謝すると共に、英霊のご冥福とご協力各位の益々のご健勝を祈念します。           合 掌