2010年4月6日火曜日

埃に閉口 アフリカン・サファリ(2000年9月)

アフリカは遠い国
 サファリSafariとはもともと「東アフリカで狩猟旅行をする」ことを指していたスワヒリ語Seafariから来ている。アラビア語のSafariは「旅行」のほか「航海」の意味もあるという。

 2000年9月7日午前6時40分に家を出て、アフリカのナイロビ空港に到着したのは8日午前6時30分。6時間遅れの時差があるので、日本時間では8日昼過ぎの12時30分である。バンコク、ドバイ乗換えで実搭乗時間は17時間余ながら、全所要時間は約30時間である。帰路は乗り継ぎロスがもっと多く33時間半もかかってしまった。

 その間、乗客の移り変わりは甚だしく、名古屋空港からの日本人はバンコクで殆ど降機。その先は肌の浅黒いアーリア系のインド人、アラブ人が多くなる。ドバイからのケニア航空ではサルタン風のアラブ人も散見されるものの、大部分は色黒のアフリカ人となる。
 矢張りアフリカは遠い国である。

ドバイは不夜城
 タイ航空でドバイ空港に着陸したのは7日午後9時40分(現地時間、以下同じ)。機上から見るドバイは等間隔のナトリューム灯に照明された道路が縦横に走っていて、街全体が整然と輝いている。同じような光景のペルーのリマでは「防犯のための照明」と言っていた。

 空港構内は2灯1基の電灯がふんだんに設置され24時間稼動を支えている。屋内ショッピング・フロアでは各種商店が煌煌と終夜営業を、なかでも貴金属店では22Kの装飾品などを並べ立て、目くるめくばかりである。

ナイロビの治安
 繁華街にあるナイロビ・ヒルトン・ホテルに到着したが、夕方まで特に予定は無い。単独行動での治安を心配してか、全員バスで国立博物館を見学することになった。

 タンザニアで発見された原人(アウストラロピテクス・ボイセイ)の化石や鳥、蟲、魚の豊富なコレクションは見事である。「野生のエルザ」で有名なジョイ・アダムソン女史の画才を示す原住民の絵葉書も興味深い。

 向かいの蛇博物館ではガラス越しに大蛇がそれぞれにとぐろを巻く。なかでも「最も危険」と掲示のある黒蛇は不気味である。隣地にはケニア最大の部族キクユ族の背の低い住居が築造展示されている。
 銀行は勿論、高級ショッピング・モールは道路から鉄格子で仕切られ、入り口には屈強なガードマンが厳重に警戒している。

社会主義国タンザニア
 9日、男子6名女子6名女子添乗員1名の一行13名がトヨエースを改造したようなサファリカー2台に分乗してまずタンザニアへ。

 国境の町ナマンガのケニア側では土産物売りのアタックがすさまじい。車を乗り換えてタンザニア側に入ると原則禁止なのかグッと静かになる。入国審査も一人一人念入りに面接するため時間がかかる。付近の撮影は勿論禁止である。

 昼食を執ったアリューシャのインパラ・ホテルも、ンゴロンゴロ自然保護区ゲートの売店の店員(というよりも係員)の態度も余り愛想が無い。タンザニアは今も社会主義国である。

土埃に閉口
 乾季で乾ききった火山灰系の赤黒い土が上昇気流によるつむじ風で舞い上がる。一望のうちにこの小竜巻が数本見えることもある。こういう砂嵐に巻き込まれたときや、車に追い越されたときは、それこそ一寸先も見えぬ埃のカーテンに囲まれる。ヘッドライトを点灯しての徐行運転である。化粧パフのようなミクロパウダーなので、砂埃というよりむしろ土埃である。雨季に折角芽吹いた新緑も乾季の土埃を被って赤枯れてしまう。

 未舗装の道路を含め、このあとサファリツァーの間中物凄い土埃に悩まされることになる。天蓋を開けて駆け巡るサファリ・ドライブのときは尚更である。このことはどのガイドブックや旅行会社の説明会でも余り触れていない。マスクは必携である。

 サファリカーの後部の僅かなスペースに詰め込んだスーツケースは、ロッジの客室に搬入するにも憚られるほど土埃が積もっている。止むを得ず雑巾代わりにハンカチを濡らして拭き取った。小さな雑巾も必携品に加えたい。

世界遺産ンゴロンゴロ自然保護区
 大地溝帯の一部を成すマニヤラ湖国立公園を左に見て、リフトバレーの急坂をじぐざぐに登る。世界遺産ンゴロンゴロ自然保護区自体が南北16km東西19kmの噴火口である。標高2400mの火口縁にあるソパ・ロッジの夜は木枯らしのような冷風が吹き抜ける。阿蘇のカルデラ(430平方kmで世界最大)には及ばぬものの、朝霧の間から現出する264平方kmのクレーターは壮観である。

 クレーターの底まで600mの高低差を駆け下りるため、4人乗りの4WDランドローバーに乗り換えて初サファリに出発する。火口原には人間は一切住んで居らず、完全な野生動物の世界である。ここの動物たちは600m高の火口壁に阻まれて一生を火口内で過ごすという。

 インパラ、縞馬、ヌーの群れには早々と遭遇する。陀鳥、象、ガゼルも次々現れる。ハントした獲物を見張る牝ライオンの周りを、隙あらばと数匹のハイエナが徘徊する。ライオンの世界では牝がハントし、牡は食べるだけという。レライの木立のなかは一見、猿と縞馬の楽園のように見えるが樹上には親ライオン、道路脇には仔ライオンが蹲っている。マカトゥー湖では沢山のフラミンゴに混じって河馬の親子が遊んでいる。突然ドライバーが「デンジャラス(危険)」と指差すほうを見ると黒い大蛇がとぐろを巻いている。毒蛇である。

 ヒッポ・ポイントの沼地では河馬の群れが水浴を楽しみ、近くには水牛たちも。一匹だけ離れて、沼に蹲っているのは「死にかけている水牛だ」とドライバーは言う。岸辺には頭蓋の白骨も散らばっている。とある池の傍で持参のランチボックスをひろげる。但し空中からの鳶に攫われないように車中での昼食である。帰路、砂地を穿ったハイエナのねぐらを観察してロッジに引き揚げる。

マサイの村
 夕食までの時間を利用して近くのマサイの村を訪ねる。魂が吸い取られるとマサイ族が嫌がる写真撮影もOK、住居披露、歓迎舞踏などオール込みで@10US$の見学料である。4WDのドライバーが仕切って村長に手渡すという。

 赤い布を纏った30数人の村人が歌いながら歓迎してくれる。列の右端の老女は祈祷師のようでもある。歌に会わせて次々と奇声を発しながら、ひたすら跳び上がるばかりの単純な舞踏である。もともと背の高いマサイ族の跳躍力は目を瞠るものがある。

 それに引きかえ住居の狭くて低いこと、相当腰を曲げて出入りしなければならぬ。男の棟と女子供の棟とは別々である。一夫多妻なので屋内は第一夫人、第二夫人・・・と娘の部屋とは粗末ながら仕切られている。したがって子沢山である。
 村の周囲は棘のある枝で囲い、外敵、猛獣から守っている。槍、蛮刀は今でも彼等にとって必須の武器である。

深山ロッジでハネムーン
 夕食も終わりに近づいた頃、突然照明が消えた。松明をかざして10人ほどの列が歌いながら行進してくる。バースデー・ケーキのようなものを持って囃しながら客席を練り歩いた挙句、若い二人のテーブルではたと止った。先頭のボスが祝辞を述べてケーキを贈呈する。「Congratulationsおめでとう、どなたの誕生日?」と尋ねると「ハネムーン」との返事。

 節水か、自然保護のためか、夕方5時から8時までしかシャワーの湯が出ない山深いロッジに新婚旅行とは、余程のナチュラリストなのであろうか。

アンボセリ国立公園へ
 翌11日は再びサファリカーで砂塵を蹴って下山。メール山の麓アリューシャの新しいバーベキュー・レストランで昼食となる。純粋のアフリカンながらウエイトレスはなかなかの美人である。もう少し愛嬌があればと惜しまれる。

 ナマンガのタンザニア側出国審査は個々に面接、ケニア側の再入国審査は添乗員がパスポート一括で即OK。
 A104号線を右折してC103号線に入る。アンボセリ国立公園に近づいた頃アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロが見えてくる。ブッシュの間からはキリンが早速顔を出す。

干上がったアンボセリ湖
 古アンボセリ湖の一部は以前は雨季に水を湛えていたというが、乾季にはキリマンジャロの火山灰に覆われた全くの大平原である。直線で横断しても7kmはあるこの平原を併走する僚車を見ていると、まるで埃の煙幕を引っ張って疾走しているようである。パリ・ダカ・ラリーでもこのような猛烈な土埃から、車のメカを如何に守るかにエンジニアは随分苦心していることであろう。スピードよりも寧ろ土埃との戦いと思う。

 象の進入を防ぐため針金の暖簾を吊るしたゲートをくぐる。塀や屋根の上を跳梁するヒヒの群れに迎えられながらオル・トゥカイ・ロッジに到着する。

オル・トゥカイ・ロッジ
 火山では世界最高のキリマンジャロ(5895m)を、何の遮るものも無く真正面に望見できるマウンテン・ビュー側のロッジに泊まる。ロッジが既に海抜千余メートルなので富士山より少し高い程度に見える。山に直面しないサイドは象の水飲み場が近いことからエレファント・ビューと呼ばれている。ハワイと違って此処ではマウンテンビューが上級である。

 翌12日早朝には、まだ夜明け前なのに「ロッジの前をヌーの群れが大移動している」と呼び起こされる。キリマンジャロの頂きの雪が茜色に染まり、やがて左手東方より朝日が顔を出す。水飲み場へのヌーの大移動はまだ延々と続いている。

早朝サファリ
 朝食前のサファリに出発する。ヌー、縞馬、水牛などの定番動物はどの保護区、公園でも沢山いるが、アンボセリでは象、ガゼルそれからハイエナにもよく出会う。これらが早朝には一斉にそれぞれの水飲み場に集まり草を食む。

 肉食獣はハンティングに精を出す。仕留めた獲物で飽食し草むらに寝そべるライオン。ほかに恐れるもの無しとばかりに仰向けに寝転がる格好は百獣の王とも思えぬ他愛なさである。

キリマンジャロの雪
 朝食後、夕方サファリまで自由時間となる。正に空白のバカンス・タイムである。ロッジのバルコニーでキリマンジャロに正対しながら「キリマンジャロの雪」を読む。
 これはヘミングウェイが1934年頃アンボセリで狩猟旅行Safariを楽しんだ経験をもとに著した短編小説の傑作である。瀕死の主人公ハリーが「陽光を浴びて純白に輝くキリマンジャロの山頂」を見ながら愛と死について目まぐるしく思い巡らせる様を描いている。

 1899年シカゴ郊外の医者の息子として生まれたアーネスト・ヘミングウェイErnest Hemingwayは新聞記者となり、スペイン内乱、イギリス空軍などに特派される。生涯に4度結婚、戦傷、自動車事故、飛行機事故、最後は猟銃自殺という多情多感、波乱万丈のノーベル賞作家である。受賞作「老人と海」や「誰がために鐘は鳴る」は映画化もされた。

オブザベーション・ヒル(Observation Hill 観察の丘)
 ケニアの保護区、国立公園でのサファリは野生動物からの危険防止の為、途中降車禁止である。しかしアンボセリの展望台オブザベーション・ヒルだけは降車して登ることが出来る。5分程で登れる数十メートルの丘の上には小さな望楼がある。マサイ族が数人有料モデルとしてカメラ客を誘う。@1US$という。

 この丘はスワヒリ語でヌーモティオNoomotioと呼ばれ「中空に穿たれた内部に水を湛えた岩がある所」という説明標があった。キリマンジャロの地下水が浸出する、眼下の沼地には朝夕象、水牛等が集まってくるという。やがて一直線の西の地平に夕陽が燃えながら沈む。4発の旅客機が発着できるアンボセリ飛行場を左に見て、ロッジに帰る。

土産物屋もE-mail
 翌朝はロッジの中庭でキリマンジャロを背にして全員の記念写真を撮った後、ナイロビに向かう。アンボセリでもチータには会えなかった。せめてキリンにもう一度と、ドライバーが気を使ってブッシュの脇道に入ってくれ.る。道なき道を埃まみれで走り回った甲斐あって、漸く数頭のキリンの群れに出会うことが出来た。

 途中ナマンガの土産物屋で店員Benard Njagiベナード ンジャギ君と写真を撮った。「マサイ族は背が高いが自分はキクユ族なので高くない。その写真を送って欲しい。」と店の名刺に署名して手渡してくれた。見ると電話番号の下にE-mail:hcd@wildmail.comと書いてある。僻地だからこそ尚更、電子メールが必要なのであろう。後日写真を送った日には”I send you the photo today.”とメールした。

ナイロビの日本人倶楽部
 昼食はナイロビで久しぶりに日本料理店である。鍋焼きうどん、天ぷら、ステーキのような鮭定食、ラーメン・ギョーザ・マーボ・炒飯を組み合わせた中華定食など盛り沢山である。店内には日本人倶楽部が併設されていて、数日遅れながらロンドン印刷の日本の新聞、週刊誌がいつでも閲覧できる。奥の売店では味噌、醤油、豆腐から米(10kg \2800の秋田小町)まで一通りの日本食品が販売されている。この店は市中心部の高級ショッピング・モールの奥まった一角にある。前にも触れたが、モールは鉄格子とガードマンに警護されて不審者の進入を阻んでいる。

 このモールで気付いたことは美容院が多いことである。縮れ毛を丹念に編み上げて貰った黒い女性が満足そうに店を出る。どの店も順番待ちの客で一杯である。中流以上の家庭の婦女子であろう。

ナクル湖のフラミンゴ
 午後は国道A104号線を北上してナクル湖国立公園に向かう。ナイロビ西郊外のキクユ族の集落を走り抜け、大地溝帯に沿ってナイバシャ経由ナクルの街に入る。そのままナクル湖に直行、岸辺一面にピンクの絨毯を敷き詰めたようなフラミンゴの大群に息を呑む。

 ソーダ性の湖水で餌を食むほど紅色が濃くなるという。全周の岸辺を埋め尽くしているフラミンゴは200万羽とも300万羽ともいわれている。観光客が近づくとおもむろに距離を開けながら移動してゆく。時々ペリカンの群れが慌ただしく飛び交う。
ヌー、河馬、ガゼルは勿論のことアカシヤの森の樹上ではライオンも発見した。公園管理事務所では「猿、ヒヒに餌を与えないで、危険」と警告する。

ライオン・ヒル・ロッジ
 夕闇迫るライオン・ヒル・ロッジのゲート付近では、まるで作り物のような大きなキリンが長い首を伸ばしてアカシアの葉を食べている。

 ロッジは湖に面した斜面の樹林に散在している。バーの前のテラスではかがり火を焚いてタムタムやボンゴを乾かしていた。このあと、これらの笛鉦太鼓で民俗芸能が催されたが短時間のため鑑賞できなかった。部屋ではベッド毎に一人用の西洋蚊帳が垂らしてあり、ちょっとエキゾチックなムードである。

マサイ・マラ国立保護区へ
 14日は早めに発ってマサイ・マラ国立保護区に向かう。往路でも立ち寄った土産物屋では裏手の彫刻工房に行き、黒檀の小さい板を買う。しきりに「それをポケットに仕舞え」と促すのは工房直販を禁じられている為か。

 舗装されたA104号線(Tarmac Road)から未舗装のC12号線(Earth Road)に入ると、又もやひどい凸凹道と物凄い粉塵に悩まされる。正午(ヒル)をかなり過ぎてから、やっとマサイ・マラ国立保護区のキーコロック・ロッジに辿り着いた。この保護区は岩合(イワゴウ)日出子著「アフリカ・ポレポレ」の舞台でもある。マサイ・マラとはスワヒリ語で「マサイ族の土地」、ポレポレpole poleとは「ゆっくりゆっくり」という意味で、原住民はよく使う。

共生、時に強食弱肉
 遅い昼食、休憩、夕方サファリと結構気忙しい。角のある一匹の牡が十数匹の牝を従えるインパラのハーレム集団、ハーレム以前の牡だけで闘争するインパラの群れ、すぐに逃げ出すいぼいのしし、長い首を交叉してぶっつけ合う2匹のキリン、喧嘩しているのか、じゃれているのか、とにかく可愛い。
 しかし鼻面を血まみれにしてハントした水牛にかぶりつくライオンの形相は物凄い。獲物の脚を押さえ込み、はらわたを引きずり出しては食いちぎる。肉よりも内臓の方を好むのかも知れない。樹上の禿たかはじっと自分たちの出番を待っている。

 付近には屠られて一週間前後らしい首、毛皮、骨だけの死骸が散らばっている。毛皮の模様や角の形から縞馬、キリン、ヌー、水牛と区別がつく。
草原に沈む真っ赤な夕陽さえ、この日は不気味に見える。

動物も出入り自由
 このロッジは草原との間に柵が無い。昼間はとにかく夜間はいろいろな動物が庭園から部屋近くまで進入して来る。猿、インパラ、縞馬はいつものこと「時には象やライオンまでも。深夜、早朝でも暗いうちは部屋から絶対出ないように」とロッジのガードマンはゼスチュアたっぷりに警告する。

 庭園から木橋で繋がる水場展望台までの遊歩道は19-6時の間は閉鎖される。それでもという人は「フロントに言って、セキュリティー・エスコートを受けてください」との掲示がある。

バルーン・サファリ
 15日、早朝サファリに出発する前に、バルーン・サファリ(@350US$)に参加する4人は気球場に向かっていた。赤々とバーナーを焚いてオレンジ色の気球を膨らませながら、有明の月の残る茜空に昇って行く姿は幻想的でさえある。ゴンドラは左右6人づつの12人乗りで、バランスを保つため移動禁止。籠の縁が高くやっと首が出せる程度、角の人は270度見られるが、中ほどの人は180度しか俯瞰出来ない。バーナーに近い人は長髪に注意、地上45mを基準に飛行する。とは乗った人の話である。

 朝のサファリカーは意外に少なく初めは私たち2台だけだった。水辺には既に象、縞馬、水牛などが群れを成している。早くもライオンは背をかがめてインパラ攻撃の準備に入る。単なる彷徨か、獲物を狙っての抜き足差し足かはその姿勢気配で察しがつく。
 朝日が昇る頃には緑色のバルーンも2基加わって、快晴の空も賑やかになる。エジプト雁、冠鶴、時にはほろほろ鳥も草原の水場へ集まる。

 水平に枝が拡がるアカシア、ぶら下がる実の形から名付けられたソーセージ・ツリー、根と枝を逆さにしても可笑しくないような、ずんぐりむっくりのバオバブなどアフリカ固有の樹木が珍しい。

赤道直下の避暑地
 キーコロック・ロッジは南緯1度31分、赤道より僅か169km南の位置にあって、晴れた夜空には南十字星が美しい。しかし海抜1600mの高地に在るため冷涼の避暑地である。旧イギリス領植民地であったためか英語圏からの観光客が多いという。人種偏見を余り持たぬ日本人に、アフリカン・スタッフは好意的であるように思う。

 夕方サファリまでのフリータイムは優雅に避暑ムードを満喫する。庭先の水飲み場に集う綺麗な瑠璃椋鳥にしばし時を忘れる。午後のプール・サイドはデッキ・チェアが殆ど満席である。プールで悠々泳いでいるのは二三人で、あとは日光浴、木陰で昼寝か読書、知己への便りに筆を走らせる人など、さまざまである。

チータはスーパースター
 犀、象のファミリー、ライオン親子などは夕方サファリでも度々出会ったがチータはまだ一度も見たことが無い。今回も駄目かと諦めかけていた矢先、遥か彼方の立ち木の周りに数台のサファリカーが停まっているのを目聡くドライバーが見つけた。

 あたふたと急行すると、いました! チータが、しかも2匹。車がかなり接近しても動ずる気配も無い。いつの間にか20数台のサファリカーが集まってきた。この頃はマサイ・マラでもチータは滅多に見られないのであろう。観光パンフレットでもトップを飾るチータは矢張りスーパースターである。まだ集まって来ないサファリカーを推計すると、夕方は40乃至50台がオフロードの大草原を駆け巡っているのであろう。

 因みにマサイ・マラ国立保護区(1510平方km)は大阪府ほどの広さで、そのままタンザニア領セレンゲッティ国立公園、ンゴロンゴロ自然保護区に地続きである。セレンゲッティへ、雪崩を打つようにマラ川を渡るヌーの大移動はあまりにも有名である。

キーコロック・ロッジの躾
 他でも目に付かぬところで実行していることかも知れないが、客の眼前で食堂のスタッフ一同が集まり、ボスが指示点検した後さっと持ち場に就く。定刻にきっちりオープンして客を迎え入れる。手落ちのあろう筈がなく、見ていて爽快である。

 もうひとつ、同行の佐野さん夫妻が経験された話。「日本から持ってきたプチ・プレゼントの縫いぐるみのライオンを、部屋掃除に来たメイドに進呈しようとしたら”ちょっと待って”と言って事務所に帰り、上司と一緒に戻ってきた。”上司立会いの上で頂きたい”と喜んで受け取ってくれた。」客室からの窃盗と疑われないように、万全の証明を用意した訳である。ロッジの躾か本人の心掛けか、いずれにしても感心なことである。

 このロッジはアンボセリで泊まったオル・トゥカイ・ロッジと同系のBlock Hotelsグループである。ンゴロンゴロのソパ・ロッジはシェラトン系だった。

 ドライバーにアサンテ・サーナ(Asante sana有難う)

 念願のチータをはじめ大抵の野生動物を観察することが出来て、心残りなくマサイ・マラを去ることが出来る。期せずして一同からサファリカーのドライバー(マファ君とジョン君)に対してAsante sana(Thank you very much)と拍手が送られる。

 再び埃まみれの悪路に悩まされながら舗装のA104号線に出たときは内心ほっとした。「埃よ、Kwa heri(さようなら)」。それにしても連日観光客を乗せて、あの猛烈な粉塵の悪路を突っ走っているドライバー達の頑健さには感服する。

大地溝帯を見る
 A104号線でナクル湖へ行くときは通過した大地溝帯展望台に立ち寄る。土産物屋の私設展望台のようで店内への誘い込みが激しい。醤油味のない焼きとうもろこしを齧りながら眼下に広がるグレート・リフト・バレーを見る。

 嘗て南米大陸がアフリカ大陸から分断されたように、この巨大地溝がじりじりと引き裂かれて、何億年かの後には地球の割れ目となって、海の底に沈んでしまうのだろうか。大自然の悠久のドラマの一瞬を見た思いがする。

エミレーツ航空
 10月から花季を迎えるというジャカランダがナイロビ・ヒルトンの前では、まだ9月16日だというのに、もう薄紫の花を咲かせていた。ケニア航空でもオーバー・ブッキングの恐れありと、ジャカランダをあとに早めに空港に急ぐ。

 ナイロビ発19時20分。ドバイで1時間40分待ちの3時15分発タイ航空TG4500便、また深夜便である。ところがこれがエミレーツ航空のEK082便ホンコン行きとの共同運航で、機体はエミレーツ所属の最新型ボーイング777-300だという。往路では当初エミレーツ航空の筈がケニア航空に変更になって、がっかりしていた一行は大喜びである。

 エミレーツ航空はアラブ首長国連邦United ARAB Emiratesの航空会社である。Emirとはアラビアの首長、Emirateとはアラビアの首長国を意味する。

 案の定、搭乗するや「アラビアン・ナイトの後宮の美女」のような扮装のスチュアーデス達が、思いなしか妖艶な笑みを浮かべながら迎えてくれる。機内の装備、食事など、その高級志向は夙に定評がある。各席に液晶ディスプレーがあり、案内、映画、航行図、機前方、機下方の眺望などチャンネルで選択できる。配布されるクリーム色の毛布は清潔で感触も良い。ただトマト・ジュースにタバスコとウスター・ソースを添えられたのには「これがアラブ流か?」と驚いた。

12年振りのバンコク
 バンコクに17日昼の12時35分到着、名古屋行きのタイ航空TG644便は夜中の0時50分である。12時間余の待ち合わせのため、一旦タイに入国してホテルで休憩することになる。バンコク中央駅に近いツイン・タワーズ・ホテルである。日本人客が多いらしく、タイスキ、足裏マッサージなど随所に日本語表示がある。ホテルの夕食は海鮮たっぷりのタイスキで、和食の味に近くなかなか好評であった。

 思い掛けず12年振りに、ハイウェイから高層ビルが林立するバンコクの繁栄振りを見ることが出来た。しかし数年前タイ通貨バーツの為替相場が暴落したときは、進行中のプロジェクトなどはかなり慌てたことであろう。

 連日の深夜便と時差で、体調を整えるには暫く時間が掛かりそうである。矢張りアフリカは遠い国である。

インターネットで得た「ケニアの歌」についての情報を次に記す。

1999.11.22.  ぽれぽれサファリクラブの「かたの」さんより

Top Hits From Kenya
1. Hinde 2. Jambo Bwana 3.Simba Ngruma 4. MSA-Mombasa 5. Lala Salama 6. Safari 7.Disco Chakacha 8.Malaika 9.Kirie Kirio 10. Karinbuni Kenya

1999.11.2. ぽれぽれサファリクラブの「はな」さんより                      

Jambo

 Jambo Jambo bwana Habari gani mzuri sana
 Wageni mwakaribishwa Kenua yetu hakuma matata
 Knya nchi tetu Hakuma matata Pole pole na kazi
 Hakuna matata Hata huku Nairobi Hakuna matata
 Oooho Jambo ninaimbae kila mtu

( Kila mtu Katibuni, Karibuni Kenya mwone Nairobi )

Nchi yenya ajabu Hakuna matata Oh hata kule Amboseli
Hakuna matata Jambo Jambo Jambo Jambo bwana
Habari gani mzuri sana Wageni mwakaribishwa
Kenya yetu hakuna matata

ジャンボ

 やあ ! こんにちは 元気かい !  俺達は元気だよ。みんな遊びにおいでよ、
 俺達のケニアは遊びに来ても大丈夫だよ。俺達のケニアは(遊びに来ても)大丈夫だよ。
 ナイロビでもアンボセリでも大丈夫だよ。みんな遊びにおいで、
 俺達の国は素敵なところだよ。

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