2010年4月8日木曜日

フランス周遊 雑観et雑感(2002年6月)

1. リヴィエラ、モナコとモンテカルロ
 雑感とは「さまざまの、まとまりのない感想」と辞書にある。主な観光ポイントを僅か8日間で目まぐるしく駆け回った今回のフランス周遊は正しく「まとまりの無い」観光の観さえある。敢えて「雑観」と表題に挿入した所以である。

 2002年5月30日総勢36名で小牧空港を出発したJTBツァーは成田経由、その日の夕方イタリアのミラノ空港に到着した。乗り継ぎ便の都合が悪く、バスでニースまで行くという。約5時間の行程である。

 「只今国境を通過してフランスに入りました」とガイドのアナウンス。ミラノ空港でEU入境に際しパスポートを提示しただけで、あとは自由に域内を通行できる。ミラノから南下してリヴィエラをひた走る。森進一が「冬のリヴィエラ」を歌ってから一層人々の口の端に上るようになったリヴィエラは実は街の名前ではない。フランスのニースからイタリアのラ・スペチアまでの地中海沿岸を指し、ニース、モナコ、マントン、サンレモなど国際的な観光保養地が半円状に地中海を取り囲んでいる様を首飾り(La Riviere)に譬えてリヴィエラと呼んだものである。フランスではコート・ダジュール(Cote d’Azur 水色の海岸)とも別称している。

 F1グランプリ・レースと女優グレース・ケリーを王妃に迎えたことで有名なモナコ公国に入る頃には夜の帳がすっかり下りていた。ひときわ街の灯が闇に煌く。オールド・ファンには懐かしい唄「一夜さモンテカールロ・・・」の灯である。公国の東部、カジノ、オペラハウス、など高級社交場が密集するモンテカルロ地区である。

2. ニースとシャガール
 前夜零時過ぎにニース到着の為、31日は午前10時出発である。出発前のひと時、フランス最大のリゾート、ニースの海岸に出る。ボスコロ・パーク・ホテル前の公園、プロムナード・デザングレ(イギリス人の散歩道の意)の向こうはパラソルの林立するビーチである。冬以外はいつでも海水浴が出来るという温暖なニースのこととて、まだ9時前だというのに早くも水浴を楽しむ人、トップレスで肌を焼く女性などが散見される。

 港を見下ろす高台から眺める紺碧の地中海、それを抱く白砂の海岸は国際的リゾートの風格十分である。降って旧市街サレヤ広場の花市では数十軒の花屋がけんを競う。ブーケ一束\2000前後。動物や怪獣の形をしたカラフルな駄菓子の店ではつい立ち止ってしまう。

 薔薇の綺麗な展望台からシャガール美術館へ。正式には「国立マルク・シャガール聖書の言葉美術館」という。聖と俗を、青と赤とを巧みに使い分けて描いたシュールリアリズム絵画が多数展示されている。

 近・現代美術館前には人面の上半分を立方体に形作った大胆なモニュメント、海岸プロムナードには所々に奇抜な彫像、それを縫うように初老のローラースケーターが・・・、とにかくビジターの目を楽しませてくれる。

 ニース風サラダで昼食を執ったウエスト・エンド・ホテルの隣は有名なホテル・ネグレスコである。もとは北欧の王侯貴族が避寒のため建てた「冬の宮殿」で、ピンク色のドームやアール・ヌーボーのエントランス庇などがひときわ目を惹く。

3. エクス・アン・プロバンスとセザンヌ
 陽光の地中海ともお別れして、セザンヌ生没の地エクス・アン・プロバンスへ。途中国道D17号線ではセザンヌが描き続けたサント・ヴィクトワールの石灰山(標高1011m)を延々と右手に見てバスは走る。ドゴール広場や工事中のミラボー通りはバスの窓からそこそこに、エクスの町外れセザンヌのアトリエへ行く。入って左奧の「病める老人のデッサン」からは暗い呟きが聞こえてきそうである。

4. アルルとゴッホ
 次のアルルはローマ遺跡とゴッホの町である。一世紀末建造の円形闘技場は今でも闘牛場として現役、古代劇場はステージの残存石柱2本ながら12000人を収容できる劇場として毎年コンサートやオペラが催行されるという。

 市庁舎前のサン・トロフィーム教会は中世スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路にあたり、いわば札所である。そのファサードのポルタイユと呼ばれる彫刻はプロバンス・ロマネスクの典型といわれている。

 フォーロム広場ではゴッホの「夜のカフェ」を髣髴させるカフェ・フォーロムが営業中、店先にはゴッホの銅像も。しかしこの絵はゴッホのモデル、ジヌー夫人が経営するアルル駅前のカフェだという説もある。続いて訪れた精神病院中庭もゴッホ入院当時描いたままの面影を残している。ここは1989年総合文化センターになった。この日の宿「ニュー・ホテル」は床は凸凹でかなりオールドだが、部屋の広いのが取り柄だった。

5. ラングロワの跳ね橋と水道橋ポン・デュ・ガール
 翌6月1日はアルル郊外の運河に復元されたゴッホ「ラングロワの跳ね橋」見学から始まった。ラングロワとは地名ではなく、当時の橋守りの人名である。オランダ生まれのゴッホは同郷の技師が架けた跳ね橋に郷愁をそそられた事であろう。しかし跳ね上がったままの復元橋は取り付け道路も無い鑑賞用である。むしろオランダ統治時代に架けられたジャカルタ・コタ地区の跳ね橋の方が原画に近いように思う。こちらは今でも橋上を人・車が往来している。しかしアスファルトで固めてしまったので、もう跳ね上げられない。

 アヴィニヨンへの道すがら古代ローマ時代の水道橋ポン・デュ・ガール(防護の橋の意)に立ち寄る。ニームの町まで日量2万立方メートルの水を50Kmに亘って送り続けたという2000年以上も昔の構築物である。今では高さ49mの一部しか見られないがスペインの世界遺産セゴビアの水道橋にも匹敵する程である。

6. アヴィニヨンの橋と法王庁
 アヴィニヨンではまずローヌ川のプロムナードから法王庁宮殿とサン・ベネゼ橋を遠望したあと法王庁に向かう。1309年フランス国王側の勢力に逐われて、教皇はローマからアヴィニヨンに移された。両者抗争の影響で宮殿というよりは、むしろ城塞である。厚さ4m
高さ50mの外壁に囲まれた法王庁は「城攻め」に備えて石落としまで設けていたという。内部は度々の争乱で損壊し、がらんどうである。ただ塔屋上で金色に輝くマリア像が僅かに法王庁を象徴しているかのようである。そういえば日本でも戦乱・一揆の世では高塀を巡らせた寺院は避難所或いは城塞と化したようである。

 「アヴィニヨンの橋で踊ろよ踊ろよ・・・」の歌で有名なサン・ベネゼ橋はバスの窓から見る限りでは「輪になって踊る」程の広さは無い。1177年聖ベネゼが一生かけて寄進を集め架けた橋だが、度重なるローヌ川の氾濫で今では4つのアーチを残すのみとなっている。橋上には聖ベネゼを祀るサン・ニコラ礼拝堂がある。

 中世の城壁に取り囲まれたアヴィニヨンの町を後に、ローヌ川沿いをリョンへ。途中断崖を穿った住居やホテルが目に付く。なかには高級ホテルもあるとのこと。道路の渋滞もあってリョンでの行程は慌しかった。

7. リヨンとTGV(Train a Grande Vitesse 高速列車の意 フランスの新幹線)
 まずケーブルカーで約3分、フルヴィエールの丘に登る。リヨンの街はソーヌ川とローヌ川の合流点に近いこの丘に設けられたローマの城塞に、その端を発するという。展望台からは左の方、1993年オープンのオペラ座、右足下には12世紀建設のサン・ジャン大司教教会と眺めが広がる。背後にはノートルダム・フルヴィエール・バジリカ聖堂がそそりたつ。ノートルダムといえばパリの大聖堂が有名だが、各地にもノートルダムを名乗る聖堂は沢山ある。ノートルダム(Notre-Dame)とは私達の婦人、この場合は聖母マリアを意味する。カトリツクではイエス・キリストよりも聖母マリアを崇拝するようで、多くの地で聖マリア聖堂が建設されたとのことである。

 日本の新幹線と最高速度を競うTGV(フランスの新幹線)に乗るためリヨン・ペラーシュ駅へ急ぐ。トゥール行きは午後7時定刻に発車、現地人の乗客はまばらである。美食の町リヨンのシェフが腕を振るったという洋食弁当を車中で配られたが、全般に薄味で物足りない。塩分の味覚に差があるように思う。殆んどノンストップで人家の少ない山野をつっ走ること約3時間、漸く日が沈む頃終点トゥールに到着した。

8. シュノンソー城、ディアーヌとカトリーヌ 
 翌2日、一時フランスの首都が置かれたこともあるトゥールだが、街を見学することもなくロワール地方の古城めぐりに出かける。フランス中部の肥沃なこの地方には王族が競って城館を建てた。その数100余、内約80が公開されている。主にトゥールからロワール川沿いにオルレアンまでの間に多いという。今日はその内の代表的な2城を見学する。

 シュノンソー城ではまず直営のワインセラーで試飲ののち城に向かう。森を抜けるとシェール川に浮かぶ船のような白亜のシュノンソー城が姿を現す。代代城主が女性だったことから「6人の奥方の城」と呼ばれている。15世紀のマルク家城塞の名残を留める塔を右に見て入城する。内部はよく保存整備されているが、なかでもアンリ2世からこの城を与えられた寵姫ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋が興味深い。

 アンリ2世のHと、王妃カトリーヌ・ド・メディチのCとを組み合わせながら、全体としてはディアーヌ・ド・ポワティエのDとなつた絵文字が暖炉に刻まれている。アンリ2世は幼時、父フランソワ1世の愛妾ディアーヌに愛育された。長ずるに及んで慕情が恋情となり、父の死後は20歳も年上ながら彼女を寵愛した。なにしろディアーヌは60歳になっても30歳位にしか見えないほどの美貌だったといわる。しかしアンリ2世が騎馬槍試合で倒されてからは、フィレンツェ・メディチ家から輿入れの王妃カトリーヌに逐われて、ショーモン城に去った。ディアーヌの部屋はすっかり模様替えされて暖炉の上にはカトリーヌの肖像画が架けられた。しかし城の左カトリーヌの庭園より大きい、城の右ディアーヌの庭園を改変するまでには至らなかった。

 一方カトリーヌはシェール川に架かる一層の橋上に二層を積み重ね、現在の優美な姿にした。第一次大戦中は時の城主の英断により軍用病院になった。

9. シャンボール城、フランソワ1世とルイ14世
 今でも子孫が住むという17世紀のシュベール城を左に見てバスはシャンボール城へ。ソローニュの森の中に5440ヘクタールの敷地を持つシャンボール城は部屋数440室を擁する壮大な平城である。フランソワ1世が自分の狩猟館をもとに1519年着工、その子アンリ2世を経て1685年完成まで167年も費やしたフランス・ルネッサンス様式の精華である。ヴェルサイユ宮殿完成までの一時期、太陽王ルイ14世が居を置いたこともある。 

 そもそも若きフランソワ1世がこの地に館を構えたのは、愛人トゥリー伯爵夫人の館に近く、逢瀬を楽しむ為だったといわれる。以後歴代ルイ13世、14世も不義・密会とうたかたの恋を重ねたようである。

 レオナルド・ダビンチ原案ともいわれる城内、特に二重螺旋階段やテラスは見たかったが時間の都合で叶わず、ブルターニュのサン・マロに急ぐことになった。

10. サン・マロとシャトーブリアン
 岬全体を高い城壁で取り囲んだサン・マロの旧市内は全くの城砦都市である。17世紀には王公認の海賊の根拠港だったというから、宣なるかなと納得する。イギリス海峡から吹きつける北風は6月でもまだ肌寒い。海岸に林立するポプラの古木はテトラポットならぬ消波林である。冬季に押し寄せる荒波で岸壁に亀裂が入ることもあるという。

 セント・ヴィンセント門を入ると右手奧にシャトーブリアン・ホテルがある。そのシャトーブリアンは1768年没落貴族の子としてサン・マロに生まれた文学者・政治家である。没後は渚続きのグラン・ベ島に葬られた。その先のプチ・ベ島は明らかに往時の見張り砦である。サン・マロはブルターニュ随一のリゾートといわれるが、しばしば海霧に包まれる肌寒いビーチではどうも、俄かには肯じ難い。

11. モン・サン・ミッシェルとノルマンディー上陸作戦
 6月4日はいよいよフランスを代表する世界遺産の一つモン・サン・ミッシェルである。イギリス風に煙突の目立つ家々を眺めながら走ること数刻、海中からそそり立つようなモン・サン・ミッシェルが見えてくる。嘗ては満潮になると島への道が水没したが、今では約2Kmの堤防によって結ばれ、バスでも行ける。

 全景の見える所で記念写真を撮ったあとラヴァンセ門から入る。名物特大オムレツの元祖ラ・メール・プーラール・ホテルの看板が目に付く。そのレストランの壁に貼られた有名来店者写真のなかに高松宮ご夫妻のものもある。「大通り」(Grande Rue)という名の狭い参道の両側には土産物屋とレストランが犇めき合う。

 モン・サン・ミッシェル(聖ミカエルの山の意)は天使軍団長ミカエルに促されて司教オベールが966年トンプ山頂に修道院を建てたのが始まりである。その後数世紀に亘ってロマネスクやゴシックなどの様式で増改築が繰り返され、16世紀に入ってほぼ現在の形になったという。特に北面のラ・メルヴェイユ(La Merveille 驚異)と呼ばれる建物はゴシック建築の傑作といわれている。その最上階には美しい中庭を囲んで127本の二重の列柱回廊があり、祈りと瞑想の場であった。サン・マロ湾を望む西のテラスの床石には当時の工人が刻んだ文字・数字がある。王や貴族たちを迎える迎賓の間が修道僧たちの食堂の真下というのも、両者の立場を表象しているようで面白い。

 昼食は参道沿いのレストランで名物・泡泡の特大オムレツである。もともと巡礼に施した給食なので、お味のほうは今ひとつ。食堂を突き抜けると島を取り囲む城壁に出る。眼下にはガイドに導かれて、素足で遠浅の海を沖に向かう一団がある。所どころ流砂床があるのでガイド無しでは危険という。

 対岸はコタンタン半島である。1944年6月6日いわゆるD- Day、米英軍によるノルマンディー上陸作戦が決行されたのは半島の東側アロマンシュ一帯の海岸線である。周辺数箇所には当時の遺品・資料を収めた戦争博物館があるという。

 モン・サン・ミッシェル自身、城壁は14世紀英仏100年戦争に備えて築造されたものであり、18世紀フランス革命では略奪を、ナポレオン1世はここを牢獄に利用するなど、幾多の辛酸を経ている。しかし修道院付属教会の尖塔で金色に輝く大天使ミカエル像を仰ぐと、やはりモン・サン・ミッシェルは信仰の聖地だとあらためて思う。

 島を離れて振り返ると、潮風に吹かれる仔羊の群れと共に見るモン・サン・ミッシェルは正に「天空のラピュタ城」である。この後は一路パリへ。

 地方の道路交差は殆んどロータリー式、鉄道線路前では日本とは逆に一時停車禁止、EUマーク(星の環)と国識別文字を表示した自動車は域内通行自由、乗用車の多くは小型乃至ミニバンである。パリ近郊からは交通渋滞、加えてトゥールからのバス運転手は市内不案内らしく、メルキュール・ヴェルシー・ホテルへの到着はかなり遅れてしまった。

12. ノートル・ダム寺院とエッフェル塔
 6月4日盛り沢山のパリ観光はノートル・ダム寺院からである。寺院正面にあるパリ道路原標に代わるがわる立ってみる。中央ファサードには、どの宗教にもよくある天国と地獄を分かつ天秤を持った彫像がある。「ノートル・ダムのせむし男」カジモドが住み着いたのは向かって右の鐘楼とされている。1330年完成以来度々の損壊苦難を経て1804年漸くナポレオンが戴冠式を挙げるまでになった。広大な内部空間、ステンドグラスの巨大なバラ窓を可能にしたのは建物外部からの支柱の為である。裏側の広場からはその支柱の形がよく見える。この工法はブルジュのサン・テチエンヌ大聖堂でも見られるという。

 コンコルド広場、シャンゼリゼ通り、凱旋門はバスの窓越し。大きなごみ箱のような古本市、花苗店の長い列などが通りすがりに目に付く。全高320.75mのエッフェル塔はパリのランドマークである。全容が見易いシャン・ド・マルス公園側で記念撮影をする。

13. セーヌ川クルーズと自由の女神
 アルマ広場近くのバトー・ムーシュ乗船場からセーヌ川クルーズに出発する。なんとクルーズコース両岸の全景が世界遺産に指定されているという。

  アレクサンドル3世橋では金色の彫像が眩しい
  コンコルド広場にはエジプトから贈られたオベリスク
  ルーヴル宮へは明日訪れる
  ポン・ヌフ(Pont Neuf)橋 新しい橋の意だが、今では一番古い橋
  サン・ミッシェル橋付近の散歩道は映画のロケによく使われる、画学生もちらほら
  静かな住宅地シテ島はパリ発祥の地、ここでUターン
  パリ市庁舎
  コンシェルジェリーはマリー・アントワネットが処刑前幽閉されていた館
  オルセー美術館は元オルレアン鉄道の終着駅
  イエナ橋ではエッフェル塔を間近に
  自由の女神(ニューヨークのコピー)のあるグルネル橋中洲の先でUターン

 女神とエッフェル塔を一つのシーンに撮影して元の発着所に戻る。約1時間半のクルーズである。夜のディナー・クルーズなら尚素晴らしいことであろう。但し船会社のパンフレットには「フォーマル・ウェアで」と書いてある。船上スピーカーで河岸の説明が5ヶ国語で為されるが日本語は最後の為、時として景色通過後になってしまうのは残念である。

14. ヴェルサイユ宮殿と庭園
 久し振りの和食でお昼を済ませて、パリの南西約18Kmのヴェルサイユ宮殿に向かう。ルイ14世が1661年着工以来50年の歳月を要した畢生の大宮殿である。しかしこの80余年後にルイ16世が処刑され、ブルボン王朝が滅亡するとは夢想だにしなかったであろう。まずは庭園の方から見学する。丹念に手入れされた唐草模様の芝生は寧ろ人工の極致にさえ見える。沼地を改造した大運河を中心に、815ヘクタールの大庭園である。

 この正面に当時としては貴重な578枚もの鏡をはめ込んだ、長さ73メートルの「鏡の回廊」がある。第一次大戦後の1919年6月ヴェルサイユ条約はここで調印された。この他華麗な部屋部屋を多数見学したが、慌しいガイドの説明で、しかとは区別が付け難い

15. モンマルトルの丘と少年すり団
 渋滞もなく順調にパリに帰り着いたところで一行と別れ自由行動をとる。地下鉄ピラミッド駅近くの「マイ・バス社」へ行き、今夜のムーラン・ルージュ・ドリンク・ツァーの予約を確認する。@140ユーロ(約\17000)。流しのタクシーは殆んどいないので、タクシー乗り場で拾ってモンマルトルに向かう。オペラ・ガルニエ、サン・トリニテ教会を経て丘の上のサクレ・クール寺院に着く。名高いモンマルトルの丘である。市街を望見したあとケーブルカーの山上駅へ。西に降れば画家の卵が集うテルトル広場だが、このまま登山電車を横目に階段を下りて、ウィレット公園のメリーゴーラウンドの横に出る。ここから見る白亜の寺院ドームは立派に絵のモチーフである。映画のロケもよくあるという。

 土産物屋の建ち並ぶ坂道を下って地下鉄アンベール駅へ。ここで予て聞いていた少年すりらしき一団に遭遇した。切符を買う時の財布の中身と仕舞うポケットをマークしているらしい。勿論ガードを固めていたので被害は無かった。パリ地下鉄は思ったより清潔で、案内表示もわかり易い。ホテルでスーツ、ワンピースに着替えて再び地下鉄14号線でマイ・バス社へ引き返す。

16. ムーラン・ルージュとフレンチ・カンカン
 20時集合、マイクロバスでシァター・レスラン・ムーラン・ルージュまで送ってくれる。東京から来た細田さんという女性と私達の3人である。例の赤い風車下の入口より入場、丁度19時からのディナーは終わりに近づいていた。通路脇に小卓を仮設してワインクーラーに入れたボトル・シャンペンが運ばれる。ショーは21時から始まった。ステージの立ちは余り高くないが、幅はホール巾一杯に広く取ってある。

 粒の揃ったトップレス・ガールのショーが切れ目無く続く。嘗ての日劇ミュージック・ホールのタカラヅカ版というところか。さり気なくセクシーに演出しているのはさすがである。中間ではマジック、コミック、アクロバットも挿みながらフィナーレは矢張りフレンチ・カンカンである。フランス国旗の赤白青を配したコスチュームで舞台一杯に跳ね回る。肌の浅黒いメスティーソらしき混血娘も混じっている。観客も国際色豊かで隣のテーブルも東洋系だった。フレンチ・カンカンは今やフランスの無形文化財として篤く保護されているという。盛んなアンコールの甲斐も無くそのまま終演となった。22時45分である。

 マイ・バス社の車でホテルまで送ってくれるのが嬉しい。終演後のタクシーは捕まえ難い、通は終演直前に退出してタクシーを確保するという。それは兎も角、セーヌ川端は川面に近い下段の道路を走ったので夜のセーヌの風情も味わうことが出来た。ディナーを終えて帰航するクルーズ船の消燈は、宴の後の哀愁をふと覚える。

17. ルーヴル美術館とモナリザ
 6月5日はルーヴル美術館のオプショナル・ツァーである。@\9000。個人で入場するにはガラス・ピラミッドの入口に長蛇の列、団体見学なら地下から優先的に入場出来る。9時開場と同時に入場しようと早めにホテルを出る。地下駐車場からピラミッドの真下を通って正面シュリー翼の半地下部に入る。中世は要塞だったルーヴル宮の濠や城壁を見て1階に上がる。なにしろ30万点を超えるコレクションの中から、代表的なものだけを2時間そこそこで鑑賞しようというだから気忙しい。

 古代ギリシャの名品ミロのヴィーナス、次は2階デゥノン翼でサモトラケのニケ。ダ・ヴィンチの「モナリザ」の前は既に人だかりである、フラッシュ禁止にも拘わらず盛んに閃光が走る。隣には名古屋でも公開された「白てんを抱く貴婦人」と同系のダ・ヴィンチの絵がある。 引き返して次はドラクロアの「民衆を導く自由の女神」、ここでは画学生が特別料金を払って部分画を模写中である。全画面を同寸で模写することは贋作防止のため禁止されている。ジェリコの「メデュース号の筏」は沖合いの小船に助けを求める群像に迫力がある。またヴェロネーゼ「カナの婚宴」やダヴィッド「ナポレオン1世の戴冠式」の大画面にはそれぞれ圧倒される。

 ナポレオンの部下が発見し、シャンポリオンが解読したロゼッタ・ストーンや古代エジプトの壁面彫刻の右翼は大英博物館に収められている。当時は各国のオリエント遺跡発掘競争が相当熾烈だったのであろう。

18. 凱旋門とシャンゼリゼ大通り
 3階にも見たいものが沢山あったが今日の見学はここまで、11時45分である。3時ホテル集合までの間、地下鉄で凱旋門まで足を伸ばす。高さ49.54m、幅44.82m、30年かけて1840年完成した凱旋門は世界最大である。壁面にはナポレオンの戦功の数々が刻み込まれている。凱旋門の近くから雨上がりのシャンゼリゼをそぞろ歩きに、とあるカフェテラスでお茶とワインとサンドウィッチ。サラダがメインのランチは13ユーロである。同じシャンゼリゼ大通りといってもクレマンソー駅まで来るとすっかり緑の並木通りとなる。

 すりが多いと聞いていた地下鉄1号線もさほどの気配も無く、リヨン駅で乗り換えてホテルに着く。御一行の皆さんの疲れた顔が既に集まっていた。あとは予定通りシャルル・ドゴール空港よりエア・フランス共同運行のJAL406便で帰途についた。

 6月6日 成田乗り継ぎ19時25分小牧空港着。目まぐるしくも慌しいフランス周遊の旅は終わった。しかしバラエティーに富んだ旅ではあった

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