2010年6月15日火曜日

父 岩太郎の思い出 -昔のさかな屋-(記:1995年7月)

一、徒弟制度     
  明治維新後、西南の役などまだまだ世情騒然としている中で、明治16年いわゆる鹿鳴館時代がはじまった。そういう年に私の父、岩太郎は生まれている。   
  当時の義務教育である尋常小学校4年を卒業すると、すぐ四日市市北条町の谷村鮮魚店に小僧見習いとして弟子入りした。満10才になったばかりの少年を社会人として放り出すには余りに早すぎる。そこで既に一業を成した先輩が親方となって、これら少年を受け入れ、職業人として必要な技能・知識を教育した。徒弟制度である。とかく暗いイメージで語られがちなこの制度だが、当時の社会では誠に有効な私立職業訓練学校であったといえよう。   
  まず大人社会への行儀・作法から厳しく躾けられ、ついで始末・才覚・算用など商人としての心得を始め、順次鮮魚商としての技術ノウハウを仕込んでもらったという。後年、店の帳箪笥の引き出しの中に、これらを説く教科書「商売往来」が入っていたのを憶えている。父は谷村店主を終生「親方」と呼んで敬慕していた。長じては谷村家の長女の仲人を引き受けるなど親密な付き合いが続けられた。   
  修業中は辛いこともいろいろあった様である。厳寒の水仕事では指が千切れるように 冷たい。親方から預けられた魚が思うように売れない。売残りを持って帰れば売り方が拙いといって、こっぴどく叱られる。思い余って自腹を切って、残った魚を三滝川へ投げ捨てたことも再三あったという。そのうち、おいしい食べ方・料理法を言い添えて奨めるという知恵がついた。それ以後は円滑に売り捌けるようになったとのことである。年季明け・お礼奉公・一本立ち(または暖簾分け)がいつ頃だったのかは判らない。ともかく27才で結婚、35才で北条町に転居している。ここは平野魚問屋(本誌第3集43頁に写真掲載)の東隣りにあたる。
    
二、魚問屋と仲買人  
  当時はこの北条町の「平野」と浜町の「角中」が魚問屋として張り合っていた。父は「平野」に仲買人として加盟していた。商工人名録によると合資会社「平野魚問屋」代表社員平野太七、大正11年設立とある。   
  仲買人の無闇な増員を避けるため、同業組合的なギルドの様に限定会員制をとっていた。会員には「いろは」48文字が割り振られていた。もっとも最後の「ん」の字は無かった様である。父は「す」の字を貰っていた。問屋内では総てこの字で呼びあっていた。   
  ある時、父について問屋に行ったことがある。早朝、大八車をひいて問屋に着くと5時半。伊勢湾岸漁民よりの湾内もの、尾鷲方面よりの外洋ものなど入荷した魚を予め下見をしておく。時間があれば隅の茶店で、大福餅・串団子で渋茶をすする。茶碗酒を景気よくあおる人もいる。たしか6時頃から「競り」が始まった。浪曲師顔負けの塩辛声で競売係が喚きたてる。目星をつけた魚のせいろが競り台に引き出される。父が競落希望価格を符諜で叫ぶ。ダリとかダリ半とかいうのが耳に残っている。他にも希望者がいれば値は段々競りあがる。これ以上の一声がなければ競落決定である。「はい、すの字」と念を押して記帳方が帳面につける。1か月分の競落代金は翌月5日に現金で「平野」へ支払いに行く。   
  「平野」には競り場しかなく、最近の生鮮食品市場の様に、仲買人が構内に店舗を構える余地はなかった。殆ど仲買人兼鮮魚小売商で流通が間に合っていたのであろう。
  しかし新規に鮮魚商を創めようとする場合は、仲買人の空き枠は殆ど無いので、既存の仲買人から仕入れなければならぬ。駆出し時代ならともかく、すこし商売が大きくなってくると、仲買人経由の仕入れでは面白くない。そこで仲買人の名義を借りて魚問屋の競りに直接参加することを考え付く。これを「肩下」(カタシタ)という。父も或る時、若いさかな屋から熱心に頼み込まれて「肩下」にしたことがあった。始めのうちは競落代金をきちんと支払いにきたが、段々滞るようになり、とうとうその若い「肩下」は行方を晦ませてしまった。問屋に対しては、彼の仕入分も自分の仕入代金として支払はねばならず、多額の焦付債権となってしまった。それ以後「肩下」は一切持っていない。   

三、鮮魚小売商    
  鮮魚商としての屋号は魚岩、商標は 岩(カネイワ)である。北条町では同業者が 多かったせいか売り上げは余り伸びなかった。昭和3年頃、東海道沿いの水車町(今の浜一色)に引っ越してからは面白いように商売繁盛したという。  
  四日市市商工人名録(昭和5年8月現在)には「鮮魚商 水車町 ■■岩太郎」と記載されている。父も46才。いっぱしの商人(アキンド)として活躍していたのであろう。時々得意先より頼まれて仕出し料理にも手を拡げ、かなりの皿小鉢や漆塗りの膳椀などを取揃えていた。預金獲得のため不動貯蓄銀行の行員が毎晩のように売上金を集金に廻ってきたのもこの頃である。  
  鮮魚商は生物商売であるから鮮度・清潔が生命。今のように保健所の規制監督は無いかわり、鮮度管理は徒弟時代に親方から徹底的に教え込まれている。その日の仕入れはその日に売り切るのが大原則だが、万一売れ残った場合は自家冷蔵庫に収容する、量が多ければ製氷会社に預けに行く、いか・たこ等はさっと茹で上げる、最後は契約養鶏場に餌用として払い下げる。  
  刺身など生食ものを調理する関係上、手指の清潔、負傷予防には細心の注意が必要である。おこぜ・こち等の有刺魚類を捌くときは非常に神経を使っていた。これらの針に刺されると必ず化膿するからだという。  
  また鮮魚商は毎日の台所に繋がる商売であるから、盆正月以外は年中無休である。得意先への定時定点巡回を律儀に心掛けていたようである。「烏の鳴かぬ日はあっても、岩さんの廻ってこない日は無い。」と信用され、当てにされていることを父は誇らしげによく語ってくれた。本誌第3集に、買い手の立場から見た昭和12年頃のさかな屋の様子を描いた富山滋子さんの作文が載っている。父もこのように毎日頑張っていたのであろうと思う。    
  昭和19年頃には戦局の緊迫とともに物価統制令の締め付けが厳しくなって、何でも公定価格を表示しなければならなくなった。しかし生鮮食品は極端にいえば、時々刻々鮮度の変化と共に売値を改訂しなければならない商品である。或る時、経済警察が臨検の際、価格表示を怠っていたとして注意されたときは、あとで「生鮮食品の実態が全く判っていない。」と大いに憤慨していた。  
  いよいよ敗色濃い昭和20年6月18日の四日市大空襲では、何もかも焼けだされてしまった。鮮魚も配給統制の一環に組み込まれ、諸事思うに任せぬまま終戦、長男の戦死と悲報が相次いだ。ともかく焼け跡に住居は再建したものの、ついに往時の生気を取り戻せないまま昭和28年逝った。69才であった。  
    
 以上魚問屋の仲買人兼鮮魚小売商であった父の一生を駆け足で逐ってみた。60年以上も昔の思い出を掘り起こし、その後学んだ事柄と照らし合わせながら書き記した。旧四日市の一端を偲ぶよすがとなれば幸いである。何分幼少時の記憶をもとにしているので、一部思い違いや大きな欠落があるかもしれない。お気付きの点は忌憚ないご指摘ご教示をお願いしたい。   

戦時体制下の四商(記:2002年8月)

 昭和16年12月大東亜戦争緒戦ではハワイ・マレー沖で大勝、シンガポール陥落と快進撃したものの、翌17年6月ミッドウェー海戦で惨敗してからは、国内の戦時体制は一段と強化されていった。四商での学園生活もご多分に漏れず、非常時色の濃いものに塗り替えられていった。第46回卒業生として、その幾つかを思い出すままに書き記してみよう。当時の呼称はカッコ内に現在の呼び方を注記した。四商先輩諸兄の、より詳細・正確な回想を期待します。
 尚「四商」は明治29年、私立として開校、明治37年三重県立四日市商業学校となり、平成15年では創立107周年を迎える伝統校である。

1.鮮満旅行の廃止
 5年生の修学旅行は従来から朝鮮・満州(今の中国東北部)旅行であった。関釜連絡船で釜山に上陸後、汽車で京城(ソウル)、平壌、新義州、奉天(瀋陽)、新京(長春)、ハルピンと鮮満を見学できるのを楽しみにしていたのに、2年程前に廃止となりがっかりした。

2.軍事訓練強化
 菰野町千草の実弾射撃場への耐熱行軍では目的地まで水飲み禁止。にもかかわらず自転車に乗りながら時々駆け足を命じる教練の教官・I少尉がこの時ほど恨めしく思ったことは無い。桜村の一生吹き山での突撃演習。松坂から夜行軍して、宮川堤で暁の模擬遭遇戦。空包射撃の後、喚声を上げての白兵戦も印象深い。
 武器庫には村田銃から三八式歩兵銃、騎兵銃や指揮刀などが保管されていた。擲弾筒、機関銃の有無は記憶が定かでない。射撃部を創設、東南隅の花卉園を改造して狭窄(きょうさく)射撃場が設置された。T准尉が教官となり、銃剣術訓練も始まった。
 このほか久居の連隊見学、鈴鹿(荒神山)の陸軍通信隊(中部第132部隊)への体験入営など着々と徴兵予備訓練が進められていった。

3.体力章検定、体格検査
 単に”走る跳ぶ”のほかに20~40kgの土嚢運搬、手榴弾投擲などを含めた体力章検定が制定された。体力に応じ初級、中級、上級と3種類のバッジが交付されたが、土嚢と手榴弾はなかなかに難関であつた。
 4年生の時には柔道場の一隅を衝立で仕切って、M検(性病チェックのため生殖器検査)を含むプレ徴兵検査のような体格検査が実施された。その後戦局急を告げて、本来満20歳で徴兵検査、21歳で入営の兵役が2年間繰り上げられてしまった。

4.進学、志願
 商業学校からの進学は高等商業学校へが従来からの常道であった。しかし戦局の進展に伴い、東京、横浜、名古屋、彦根、和歌山、神戸など本土中央部の高等商業学校はすべて工業経営専門学校に改変された。僅かに小樽、高松、山口、大分などの数校のみが今まで通りの高等商業学校として存続された。
 一方、陸軍士官学校、海軍兵学校、陸軍経理学校、海軍経理学校等、軍関係の学校が進学候補に加わってきた。K君が陸士入学。S君が海軍経理学校に進んだと聞いている。
 そのうち予科練(海軍飛行予科練習生)や特幹(とっかん)(陸軍特別幹部候補生)も募集が始まった。颯爽とした「七つボタンは桜に錨」は若人の憧れのステイタスでもあった。次の諸君が志願していった。
 H君  小豆島で「咬竜」特攻訓練中、機雷に接触して殉職。
 T君  ロケット戦闘機「秋水」特攻要員だったが終戦で命拾い。
 M君  人間魚雷「回天」浮上せずで、一時生死の境を彷徨。
 TN君

5.授業科目の改廃・削減、就職
 上記のように軍事教科が増強される一方、一般教科、商業教科は段々軽んぜられていった。経済・法規・商品・商業実践・商業作文・商業英作文(Correspondence コレポン)は殆んど授業が無かった。平田記念館の伝統的なEnglish Room(室内は英語only、日本語は厳禁)もいつしか廃止された。ただ支那語(中国普通話)だけは新設された数少ない教科の一つである。
 それもこれも徴兵された壮丁の穴埋めとして、農村への勤労奉仕が多発してきたからであろう。挙句の果てが3ヶ月の繰り上げ卒業である。これで学業全て万事休すとなった。
 軍国の道は厳しく、卒業後の就職も第二海軍燃料廠(塩浜)、三菱重工業(名古屋)、浦賀ドック(四日市)などの軍需工場に多く振り向けられた。南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)からも求人が有った。しかし渡満したのは満州電気へ就職したI君(故人)一人だけと聞いている。

 紗のかかったような遥かな回想なら懐かしくもある。しかし一つ一つの事例を具体的に列記して、平和な現在から顧みると随分異常な学園生活であったと思う。
「跋渉踏破せり、幾山河」の感一入(ひとしお)である。

東海道沿いの我が家(記:2001年12月)

 昭和57年に刊行された「東海道往来」(増田 武夫著)に収録されている旧四日市市内の街道絵図(昭和3年11月現在)を眺めていると70年程前の水車町(みずぐるまちょう)の面影が蘇ってくる。水車町は東海道の海蔵川に架かっていた海蔵橋(かいぞうばし)(今は無い)の南たもとから、南へ約100メートル迄の東海道を軸に、東西に拡がった地域である。
 元禄年代に治左ヱ門なる人がこの地で水車業を始めたところから水車町と呼ばれるようになったと言う。当時我が家の所在地は通常は水車町234番地と称していたが、戸籍では浜一色(はまいっしき)234番地となつていた。現在の地籍では浜一色町2の9番地である。それはともかく、昭和5年に引っ越してきて、昭和20年6月空襲で焼失するまでの東海道沿いの水車町を、北から南へ思い浮かべてみよう。

 まず前述絵図の東海道の東側を、海蔵橋から南へ、
当時の通称 絵図の表示 思い出すことども
山之神 山之神祠 粕森(かすもり)さん? が山嶽信仰の小祠を祭祀していた。
  割烹 容月 幼い私の記憶には無い。
米屋 米辰商店
(こめたつ)
米麦雑穀 武藤辰蔵。
ほしか屋 武藤商店 ほしかとは肥料用干し鰯のこと。大豆・菜種油の絞り粕、多木(たき)肥料の看板もあったが私たちは「ほしか屋」と呼んだ。
目立て屋 水目屋
(みずめや)
鋸目立て、大工道具販売。
はかり屋 青木計器店 度量衡、特に台秤(だいばかり)が店頭に陳列されていた。
瀬戸物屋 辻本商店 万古焼(ばんこやき)に対し中級の陶磁器食器類を「せともの」と呼んだ。
綿屋 伊藤綿屋 当時は主婦が布団綿を買ってきて、又は打ち直して布団を新製・再製することが多かった。
傘屋 伊藤傘屋 屋号入りの番傘や学童用の奴傘(やつこがさ)を店頭で貼っていた。
窯(かま)屋 岩塚窯屋 万古窯元。
しもた屋 会社員塚田 勤め人など、商売をしていない家を「しもたや」といった。
タバコ屋 後藤煙草店 一定距離以内の競合開店を専売局が許さなかった。
風呂屋 銭湯 松蔭湯
(まつかげゆ)
予め買っておいた風呂札(ふろふだ)を番台(ばんだい)に渡して入浴。
床屋 大矢知理髪店 子供客にはラムネ菓子を呉れた。
菓子屋 竹尾菓子屋 後に川原町の菓子屋「宝来軒」は此処で創業した。
窯屋 坂倉窯屋 万古窯元 店の奥は窯場だった。
ろくろ師 松井糊屋 手廻し轆轤(ろくろ)で皿・椀・花瓶を手作り、乾燥まで。かなりの名工だったとか。元は玉糊(たまのり)屋とは知らなかった。

次は東海道の西側を、北から南へ、

当時の通称 絵図の表示 思い出すことども
油屋 斎木だんご屋 だんご屋の記憶は全く無い。ガソリン給油機を店先に据えた河村石油店と覚えている。
呉服屋 武藤呉服店 向かいの米辰・ほしか屋と共に武藤家は水車町の大店(おおだな)。
菓子屋 伊藤菓子店 菓子製造販売、黒飴玉10個1銭、ビスケット10個1銭。
万古屋 杉本万古問屋 あまり覚えていない。

佐藤ランプ屋 殆んど記憶に無い。

神主
中島由太郎
しもた屋だったせいか全く気付かなかった。
八百屋 八百仁
(やおに)
野菜・果物。
万古屋 村田万古問屋 万古焼きの茶器や花瓶などの卸問屋。
万古屋 型万古 小野 よく覚えていない。
万古屋 長谷川
万古問屋

荒物屋 坂部屋 荒物・雑貨から、ちょっとした文房具まで。
下駄屋 会社員 伊藤 会社員と絵図にはあるが、店先での下駄作りが記憶にある。
酒屋 壁佐(かべさ) 絵図では壁材商とあるが、私の記憶では酒・醤油・食用油の小売店だったように覚えている。
米屋 小林商店 米穀薪炭のほか豆・卵も小売、陶磁器窯用の割木(わりき)(薪)を大量に貯蔵販売していた。武藤家と並んで町内の大店の一つ。
デンキ屋
杉本石屋の北半分に引っ越してきたモーターの巻き替えなどの電機修理屋。昭和3年の絵図にはまだ載っていない。
石屋 杉本石材店 屋号は「石一(いしいち)」、大番食品(株)の杉本一三氏の生家。
魚屋 前田屋 これが我が家、屋号は「魚岩」。うどん屋の前田屋(若林家)が昭和5年、出身地の亀山市に引き揚げることになったので、この家を建てた大工・後藤清蔵(私の母方の祖父)の斡旋で我が家が入居し、魚屋を営んだ。

火の見櫓 我が家の南隣りには無かった。 


 昭和7年頃舗装されるまでは凸凹だった前の往還(おうかん)(東海道、広い道路を往還、狭い路地
を「せこ」と呼んだ)を時たま桑名通い(がよい)(桑名行き)のバスがガタゴトと通り過ぎる。時移り人変わり、町並みも戦災で一変してしまった。私の微かな記憶も旧いボンネットバスのように、いつしか砂埃の彼方に走り去ってしまうのだろうか。

 なにしろ、かなり昔の幼い記憶を辿って、古語・死語・俗語を交えながら書き記したので思い違いや欠落があるかも知れない。お気付きの節は忌憚なきご教示を賜りたい。

戦時下の婚礼(記:2001年8月16日)

 太平洋戦争勃発の翌年、昭和17年に結婚した兄の婚礼の情景を思い出している。60年近く前のこととて、記憶が一部覚束ない面もあるが思いつくままに記してみよう。
 同年6月、兄は隣町の川原町から嫁を迎えることとなった。我が家のしきたりで、結納の金品に添えて蛇の目傘と高下駄を嫁方に納めた。これは「婚礼当日がどんな雨風になっても嫁入りして下さい」との願望を表す品々だという。もっとも雨が降れば降ったで「降り込め」といって、縁起が良いとも言い習わしていたが。
 幸い当日は天気も良く、花嫁は我が家の100メートル位手前でタクシーを降り、仲人夫人に手を引かれてゆっくり歩む。近所の人々が物見高く人垣を築いて見守る中を、文金高島田に角隠し、裾模様の褄をとって、一歩一歩当家に近付く。
 迎える花婿側は紋付羽織袴に威儀を正し、玄関の両側には我が家の家紋「剣かたばみ」入りの高張り提灯を掲げて花嫁を待つ。当家に嫁入りと同時に、屋根上から蜜柑箱に用意した袋菓子を見物衆の頭上に撒く。娯楽の少ない当時としては、これはちょっとしたショーイベントである。
 花嫁は先ず仏間の仏壇に向かって拝礼し、この家の嫁に入ることを先祖に告げる。続いて座敷に上がり婚礼の儀となる。家は商家の造りで店の間・仏間・座敷と別れているが、間の襖・障子を取り外すとそれなりの広間となる。
 あとは型通りに、三々九度の盃、新客との固めの盃、仲人の口上があって、披露宴となり、余り上手でもない謡曲「高砂」が謡われる。当時は「人的資源確保」ということで結婚・出産は結構奨励されていたようである。戦時下とはいえ何升かの酒が特配になり、披露の宴も宵闇と共に盛り上がっていった。これから先は余りよく覚えていない。ただ、その日の内に新婚旅行に出掛けることはなかった。
 その兄も昭和20年6月、満30歳を目前にしてフィリピンで戦死してしまった。愛しい妻と只一人の愛娘を遺して。

2010年6月12日土曜日

オーストラリア紀行  豪大陸点描(2004年10月)

1.オーストラリア入国
 オーストラリア紀行と表題したものの、日本の20倍もある広い大陸を、僅か10日間のツァーではとても見聞しきれるものではない。敢えて「点描」と付け加えた次第である。
 ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、そしてアフリカへは今までに旅したことがある。しかし南半球のオーストラリア大陸へ足を踏み入れたのは今回が初めてである。本来オーストラル austral とは「南方の」を意味する。
 10月23日(土)私たち12名と南田真樹子TDの一行は小牧空港19時55分発ケアンズ・シドニー行きのオーストラリア航空AO7950便で名古屋から出発した。出発に先立ち名古屋空港税750円を含め、オーストラリアの出国税と国際線、国内線の到着、出発共の空港税合計13990円が徴収された。後で知ったことだが丁度搭乗手続きをしている17.56頃、新潟県中越地方に震度6強の激しい地震が起こっていた。
 約7時間半の夜行便でケアンズ空港に着陸する。時差+1時間で薄明の午前4時半である。観光ETAS(イータス)とパスポートに入国カードを添えて入国審査を受ける。観光ETASとは査証(ビザ)に代わる入国許可証で、3ヶ月以内の観光なら1年間何回でも使用可能の入国許可カードである。機内で配られた日本語の入国カードに併記されたアンケートは詳細かつ厳格である。動植物、食品は原則持ち込み禁止、特に第6項「すべての食物は・・・」は「はい」を記入し、キャンディ、クッキー等も一応申告しておくようにとTDから注意がある。申告を偽り怠った場合の罰則は厳しいという。
 太古(約1億5000万年前のジュラ紀)の海陸分布でもオーストラリアは他のどの大陸にも接せず、大陸移動を続けて現在の位置形状になつたとJ.T.ウィルソン(1962)は推定している。従ってほぼ純粋に繁殖してきた固有種の動植物を今更外来種に侵害されることの無いよう、神経質な防疫体制を執っているようである。

2.ケアンズ、コアラ、バンジージャンプ
 国際空港や日本領事館出張所がある割に、ケアンズは東西1.2km南北2.3kmと碁盤の目状の小さな町である。しかし意外に多いホテル、大きなカジノ(ソフィテル・リーフ・カジノ)、さり気ないナイトクラブ、カナダ、ニュージーランドにも出店している大橋巨泉のOKギフト店、そして街路樹も気温も熱帯のリゾートである。そして海は世界最大の珊瑚礁群グレートバリアリーフ、山は世界最古の熱帯雨林ウエットトロピックス等、世界遺産リゾートへの発進基地でもある
 またケアンズは大陸を一周する世界最長の国道1号線(12,538km)の起点である。その一部を通ってまずトロピカル動物園を訪れる。コアラを抱いての写真撮影タイム(11時から)ではデジタル写真を1枚(14A$ \85/A$)。見学者を敵と感じないのか、襟巻きトカゲは襟を拡げてくれなかった。蛇、鰐、トカゲなど定番動物のほかカンガルー、ウォンバット、大型の火食い鳥、華麗なオウム、奇矯なフクロウ、赤いレッドパンダ、弱視のためうずくまる白カンガルーなど珍しい園内を一巡して、次のバンジージャンプ場へ向かう。
 ニュージーランドで若者が興じるのを見てヒントを得たというアクティビティーとしての施設である。高さ44mのジャンプ台から両足首を弾性のロープの端に結わえて飛び降りる。2回3回と跳ね上がりながら池の水面近くまで急降下する。その間ビートの利いたBGMがジャンパーの絶叫と混ざり合って観衆の熱狂をいやが上にも掻き立てる。
その隣では恋人同士らしい二人が並んでロープに装着され、同じく44mの長大ブランコである。ゲストハウスの屋上遙か、一時見えなくなる程のインターバルで振り上げ、振り下ろされる。料金は写真撮影込みで160A$とのことである。

3.キュランダ鉄道
 ここを出て間もなく世界第二位の長さ(7.5km)を誇るスカイレールのゴンドラを見上げた。途中二回乗り換え、熱帯雨林を眼下にキュランダまで続くという。私たちは途中、展望台から遙かにコーラルシーを眺めながらバスでキュランダへ。
 キュランダ美景鉄道(Scenic Railway)の14時出発まで、町を散策する。向こうから白人が「コンニチワ」と声を掛けてきたので「グッダイ マイト」(Good day mate 「やー今日は」くらいのオーストラリア英語)と返したらオージー(オーストラリア人)なのか、ニャッと笑って通り過ぎた。
ブーゲンビリアの咲き匂う町角ではアボリジニのストリート・パフォーマンス。カンガルー、鰐の皮、ブーメラン等の民芸店に近いTシャツ屋でカンガルーのデザインのTシャツを買う。中年店員の応対が爽やかである。
 少し早めにキュランダ駅に戻り、眺めの良い左側の席に就く。私たち13名に対し20名分の席が割り当てられたが、10数両編成なので結局皆が思い思いにゆったり着席する。
 発車して間もなくバロン滝駅に停車するが乾期のため、か細い白糸の滝である。バロン川沿いの雄大な熱帯雨林を眺めながらストーニークリーク滝の鉄橋を通るが、此処も水涸れである。しかし1890年代に完成したカーブのきついこの鉄橋は車輪を軋ませながら、年代物の客車で往時の鉄道旅行を経験させてくれる。
 次々とトンネルを潜りながらフレッシュウォーター駅に到着、バスに乗り換えてケアンズへ帰る。建設当時工夫たちがこの村でフレッシュウォーターを補給してキュランダ山脈へ入ったことから、こう名付けられた。もともとこの鉄道は長い雨期の都度、ケアンズからの道路が度々損壊した為、交通の便を確保するため1886年着工、難工事の末1910年に完成したものである。

4.ウルル・カタジュタ国立公園
 翌25日(日)は9.25発カンタス航空QF989便でエアーズロックへ飛ぶ。せいぜい1000m程度の大分水嶺山脈を越えると赤茶けた大地に真っ白な塩湖が点在する。着陸直前、機の左側の荒野にぽっかりとエアーズロックが見える。その遙か先にはモコモコとしたカタジュタの岩群が霞んでいる。ケアンズから1786km、エアーズロック空港11.45到着。時差が-30分なので2時間50分のフライトである。
 迎えてくれた現地ガイドめぐみさんが冒頭で「この地に約600人居る原住の人々はアボリジニaborigine(原住民、ラテン語でも「最初から、根源から」を意味する)またはアボ abo と軽蔑的に呼ばれるのをひどく嫌うので、アナング(アナング語で人々の意)と呼びます」と前置きして解説が始まる。5日間有効のウルル・カタジュタ国立公園入園券をバスの窓からゲート係員に提示しながら入境する。
 この日はカタジュタのオルガ岩群見学である。36の岩山の集まりであるカタジュタはアナング語で、カタ(頭)ジュタ(沢山)を意味する。1872年アーネスト・ジャイルズがこの岩群を発見して、最高の山(548m)にバーテンバーグ(ドイツ南西部)の女王の名に因んでオルガ山と名を付けた。
 カタジュタまでの展望台では一連の岩群を、いわば裏側から眺めることが出来る。振り返れば赤紫のエアーズロックが荒野の地平にぽっかりと、遮るものも無く佇んでいる。その間約30km。
予め聞いては居たものの早速小さい蠅の襲来である。乾燥地帯のため僅かの湿気を求めて目鼻口の周りにまつわりつく。防虫剤や化粧品はむしろ匂いが蠅を呼び寄せるらしい。頭からすっぽりと防虫網を被るのが最も効果的という。

5.オルガ渓谷
 バスを進めてオルガ渓谷入り口に到着する。圧倒的な岩山が左右から迫ってくる。しっかり水筒を肩に掛け奥の展望台まで往復する、約1時間。
 ウルルもカタジュタも約6億年の昔、西方の山脈から流れ込んだ玄武岩、花崗岩、砂、小石が混じった礫岩の堆積が風雨に一部浸食されて、現在の形になった。岩肌が赤いのは鉄分のせいであると地質学者は言う。オルガ渓谷では剥落した礫岩塊を多く見かけた。浸食は今も続いている。岩山の渓谷を吹き抜ける風でアニメ作家宮崎駿が「風の谷のナウシカ」を発想したのも頷ける。
 このあと立ち寄った公衆便所の建築費は膨大だったという。その殆どが資材機材の運送費で、道路も未整備の当時、毎回数百kmの道を往復したからだとガイドが解説する。ウルルに引き返す途中、一面の焼け野原に差し掛かる。時に猛烈な落雷があり一気に燃え広がるという。

6.エアーズロック、サンセット
 1873年ウィリアム・クリスティー・ゴスがウルルの巨岩を発見し、当時の南オーストラリア長官サー・ヘンリー・エアーズの名よりエアーズロック(Ayers Rock)と名付けた。決して空気(Air)の岩ではない。
 アナングは今でもこの一枚岩をウルルと呼んでいるが、その意味はアナングの伝承ジュクルバの中にあり、アナング以外には明かされていない。
 まずアナングの居住区に近いムティジュルの水場を訪ねる。水利に乏しいこの地では岩肌から流れ溜まる雨水は絶対に汚してはならない命の水であり、蛇神様が守っていると固く信じられている。雨は初め10分間ほどは岩肌に染み込み、その後薄黒い跡を付けながら岩ひだを流れ落ちる。
 明朝予定の登山口を下見してサンセット・ビューイング・エリアへ移動する。既に旅行会社がシャンパン・パーティーの準備を整えている。グラスを片手に刻々と色相を変えて行くエアーズロックを眺めながら、観光客の一群がさんざめく。地平に近く雲がかかり、燃えるように真っ赤なエアーズロックは見られなかったが、シャンパンで上気した顔はそれぞれ満足気である。小型車で来た小グループも三々五々引き揚げて行く。
 宿泊は国立公園の外側、ユララ(ディンゴ(オーストラリア犬の一種)が遠吠えするところの意)のエアーズロック・リゾートにあるエミュー・ウォーク・アパートメント。連泊客向けの宿舎らしくキッチンが完備している。68枚ものスイス製日除け三角帆布がユニークである。

7.エアーズロック、サンライズ
 26日(火)は4.20モーニングコール。真っ暗の約13kmをエアーズロックの北東サンライズ・ピューイング・エリアへひた走る。カンガルーは光に向かって突進する習性があるので、ヘッドライトを防護するため頑丈なバンパーを装着しているとガイドが説明する。
 まだ暗いなか、特製のリュックサックにセットされた握り飯と即席味噌汁で朝食を済ませる。漸く東が白み始めるとあちこちでカメラのフラッシュが閃く。空が茜色に染まる頃には見る見る大岩に赤みが増してくる。周囲を見渡せば夥しい人、人、人である。
 1980年エアーズロック・リゾートの北6kmに現在の空港が完成するまでは、この辺りが飛行場だったが突風が多くパイロットは苦労したという。

8.アナングのジュクルバ
 アナングにとってウルル自体が聖地なのだが、特に北東部には聖域が多く写真撮影禁止の立て札がある。地表から数メートルのところに水平にぱっくりと割れ目が出来ている。その幾つかは聖域として立ち入り撮影とも厳禁である。儀式、安産祈願、処刑場等ジュクルバに関する聖域が多い。
 ジュクルパはアナングの神話「天地創造」から集団生活の掟、儀式、自然との共生、日常生活のノウハウまで包括する伝承である。アナングには文字が無く、これらの伝承は代々特定の人々によって口伝で語り継がれている。万一誤って伝えた者は、獲物を横取りした罪人同様、両手両足を切断されて処刑場に遺棄されるという。飢え渇きに悶え苦しみながら死に至る惨刑である。
 剥落した亀裂が段々風食されて、高さ数メートルのウェーブロックになっている。天井には岩燕の巣が、壁面にはアナングの祈りを込めた水の渦巻き、貴重な食用幼虫(オオボクトウ)の絵などが描かれている。

9.エアーズロック、登山道
 針のような葉のスピニフェックスの原を通り、ユーカリの林を抜けて、8.00前に登山口に到着した。しかし掲示板には「雨の予報で登山口閉鎖」とある。雨雲一つ無い空を見上げ訝しんでいると、係員が次の掲示板に掛け替えた。「気温が36度以上になる予報で登山口閉鎖」である。聞けば昨日も一昨日も閉鎖されていたという。隣の掲示板には「神聖な山だから極力登らないで欲しい」というアナングの懇願にも似た願いが切々と記されている。
 なお登山口閉鎖には次のような理由が列記されている。
 (1)3時間以内に雨、嵐が予報されるとき
 (2)2500フィートでの最高風速が25ノット以上と予想されるとき
 (3)雲が頂上より下りてきているとき
 (4)救助作業が行われているとき
 (5)気温が36度以上になると予報されるとき
 (6)伝統的所有者から文化的理由による要請があったとき
 これらは数カ国語で列記されているが、日本語は英語、ドイツ語に次いで確か3番目位に書いてあった。
 登山口より50m程先からは登山ルートに鎖の柵が設置されている。ルートの傾斜は平均30度、最大45度はあるという。

10. ウルル・カタジュタ・カルチャーセンター
 心残りに登山道を見返りながら、アナングの生活様式や文化を展示紹介するウルル・カタジュタ・カルチャーセンターへ行く。アナング語には文字が無いので、英語に対するアナング語を音声で聞かせてくれる。蛇は「ニョロニョロ」と聞こえた、少し違うが。また数詞は1.2.3.しか無いので、それ以上は1.2.3.ジュタ・ジュタ・・・( 沢山、沢山・・・) という。興味深いセンターだが一切撮影禁止なのが残念である。
 宿舎に戻り隣接のビジターズセンターでこの地域の地質、動植物、アナングの生活文化の展示を見学する。このあと無料シャトルバスでリゾート一円を巡回する。高級ホテル・セイルズ・インザ・デザートやアウトバック・パイオニアロッジのほか随所にキャンプ場、コーチ(Coach)旅行者用のグランドがある。一周の後はショッピングセンターで散策、ここの郵便局から投函した葉書(A$1.10)にはUraraの消印が押されていた。
 空港までの道すがら、ガイドから「エアーズロック達成証明書」なるものが手渡される。曰く「ウルル・カタジュタ国立公園を訪れ、ジュクルバを学び、沢山の写真を撮り、南十字星( ? )を発見した」と記されている。

11.パース到着
 14.00発カンタス航空QF1923便でパースへ翔ぶ。眼下の荒野には一直線に走る道路が延々と続く。パースまでの途中800kmはガソリンスタンドが無いので、予備のガソリンとスペアタイヤ2本は必携である、とガイドが言っていたのを思い出す。
 緑が濃くなってきたと思ったらパースである。15.30到着、時差が-1時間30分あるので実質3時間のフライトである。直線距離は1643km。
 スーツケースの角が数センチ亀裂していたのでバゲージ・クレームしたが損傷軽微として取り上げてくれなかった。南田TDの助言に従い、帰国後旅行保険で修理することにした。
 夕食までのひとときシーベルホテルの周辺を散歩する。街の中心部で歩行者天国にも近く、中世ヨーロッパの雰囲気を漂わせるロンドンコートにも足を伸ばす。入り口の時計はロンドンのビッグベンと同デザインという。ブティックに混じって土産物屋、両替屋もあり、観光名所の一つになっている。

12.ピナクルズ
 27日(水)はピナクルズへの行きがけに郊外の墓地公園に立ち寄り、野生のカンガルーの群れに出会う。広い芝生を気ままに飛び跳ねるもの、腹袋に子供を入れたままゆっくり歩くもの、但し尻尾で腰を支えながら一足飛びに前へ進む、左右交互に脚を使う訳ではない。故人の名前、没年月日を刻んだ金属の墓標が半ば芝生に埋もれ掛けている。
 トイレ休憩のガソリンスタンドでは大型荷台に羊をぎっしり詰め込んだトラックを見た。今やオーストラリアは中東イスラム圏への最大の羊輸出国だという。途中の展望台から見た薄碧り色のインド洋は意外に波静かである。
ピナクルズに近く、三角形の道標が目に付く。野犬捕殺用の毒薬入りの餌が撒いてあるので、大事なペットなどは放さないようにとの警告だという。
 ピナクルズ・デザート(砂漠)はパースの北約250km、ナムバン国立公園のほぼ中央に位置する。ビジターガイドによれば「石灰岩層の上に生育した樹木の根が誘導する水分で、石灰岩が部分的に溶ける。風が上層の砂を吹き飛ばし、溶け残った石灰岩が地表に現れ、長年に亘って風化されてきた」という。ピナクル( pinnacle )とはもともと高峯とか小尖塔という意味である。
 人の背丈ほどの松茸、バットマンその他色々な形のものが林立し「荒野の墓標」の名に相応しい。展望台から見渡す限りの砂丘に「ピナクル」が点在している。砂地にぽつんと咲くイェローハイバーキャーの黄色い花が可憐である。此処でもエアーズロック以上に小蠅がたかってくる。早々にバスに引き返し、誘導石に従って「墓標砂漠」を回遊しつつ別れを告げる。
 往路に立ち寄ったガソリンスタンドの周辺でワイルドフラワーを観察する。円筒形の花パンクシア、鮮紅のボトルブラシ、ふわっとした煙り草などが珍しい。
 道路の中央分離線が直線なら追い越し禁止、波線なら追い越しOKとドライバーが解説する。そういえばカーブの手前は直線、曲がってしまえば波線になっていた。途中スーパーCOLESで蜂蜜を買ってパースに帰る。今日は往復500kmの行程である。

13.モンガー湖、キングズパーク、フリーマントル
 28日(木)は郊外のモンガー湖で、西オーストラリア州鳥の黒鳥親子と少時戯れる。黒い親鳥にまつわりつく子は白に近い灰色である。
 次に訪れたキングズパークの丘から、スワン川越しに眺めるパースの街は壮麗である。フェリーやクルーズ船が行き交う先には、サウスパースの街並みが拡がる。陸軍の戦争記念碑に敬意を表して、南西19kmのフリーマントルに向かう。町の入り口近い丘の上には海軍の戦争記念碑がある。何故か周りに米軍の魚雷が1基据えてあった。
 通称カプチーノ通りからフリーマントル・マーケットを左に見て、海岸に近いラウンドハウスに到着する。一見円筒形のように見える12角形の建物は1831年、この地最初の刑務所として建てられた。西オーストラリアでは最も古い公共建築物である。中央に井戸、周囲の狭い囚人房には当時の様子が展示されている。
 手枷・首枷を好奇の目でじっと見つめていたら「試してみては・・・? 」と係員に勧められた。手・首を差し込んでみる、矢張り不格好な見せしめの刑具である。裏手には古い大砲が1門インド洋に向かって据えられている。元々この町は1829年キャプテン・フリーマントルが植民地宣言をしたことに始まる、その名残りであろうか。
 また知る人ぞ知る、此処は1986年、アメリカ以外でアメリカズカップのヨットレースが開催されたことでも有名である。港を望むシーフード・レストランでランチの後パースへ帰る。

14.パースのCATバス
 このあとのフリータイムでは無料バスCAT(Central Area Transit)で市内を遊覧する。青猫はパース駅を挟んで南北ルート、赤猫は東西ルート、黄猫は駅からイーストパース方面を巡回する。波止場に近い珍奇なタワー「スワンベル」からキングズパーク下まで、右手に高層ビル群を見上げながらスワン川沿いに走るときは、まるでサイトシーイング・バスである。
 パース駅では乗降客の流れに沿って構内を歩くうち「年中無休 日本語医療センター」の看板を見つけた。中には白人も混じって数人の患者が待っていた。陸橋で繋がったマイヤーデパートで花柄ノートを買ってホテルに戻る。

15.フィリップ島、ペンギンパレード
 29日(金)は3.40モーニングコール。5.50発のカンタス航空QF480便でメルボルンへ。大オーストラリア湾(Great Australian Bight)岸上空を飛行すること3時間35分、11.25メルボルン着。時差は+2時間である。
 ワイルド・ワールド風のレストランでバイキング昼食の後、ペンギンパレードの見学にバスはひた走る。トイレ休憩の売店では飼っているウォンバットや、小型カンガルーのようなワラビーを間近に見る。夕食はスコットランド風の海岸に面したレストランで、見事なロブスターのディナーである。
 橋を渡ってフィリップ島へ入った頃には陽も沈み、ペンギンパレードの時間が迫っている。昨夜もリトルペンギンが海から戻って来たのは19.10だった、今日もその頃だろうという。既に階段状の観覧席は満席に近い。タスマン海から吹き寄せる南極の風が冷たいので、体を寄せ合って腰掛ける。
 ペンギンの視力保護のためカメラ、ビデオは持ち込み禁止である。それでも誰かがフラッシュを・・、監視の係員が制止に飛ぶ。やがて世界最小といわれる体長30cm程のペンギンが数羽づつ砂浜へ戻ってくる。日没後の薄明かりでは見つけるのが難しい。やむを得ず場所を変えて木橋を歩いていたら柵のすぐ外側を、既に上陸した一群がヨチヨチと尻尾を振りながら巣穴へ急いでいる。もっと大きいペンギンの群れは南アフリカのケープタウンに近いボルダーズ・ビーチで見たことがある。しかしリトルペンギンのパレードはゼンマイ仕掛けの玩具のようで、如何にも愛らしい。
 これからメルボルンまで137kmの夜道を突っ走って、ホテルへ着いたのは22時を過ぎていた。朝の3時起きからこの時間まで本ツァー最大の強行軍であった。

16.メルボルン、マーケット、大聖堂
 30日(土)朝、窓のカーテンを開けたら一面隣家の壁である。パークビュー・ホテルの名にも拘わらず、これではウォール( 壁 )ビューである。尤もホテルの正面は公園であったが。
 初めに訪れたクイーン・ビクトリア・マーケットは肉、魚、野菜、果物は勿論、衣類、雑貨、玩具など何でも有りの大マーケットである。解体したばかりの首無し肉、ぴくぴく跳ねる魚など、パック詰めのスーパー食品を見慣れた目には凄まじいまでの店頭である。肉、魚ともA$5~10 /kg位、日本の約1/10の価格である。
 次に訪ねたセントパトリック大聖堂は90年以上も掛かって1939年完成した、オーストラリア最大のカトリック教会である。塔の高さ105.8m、奥行き92.25m、7つの礼拝堂を持つ壮大なゴシック建築である。横手の水路で戯れる黒犬に見とれて暫く時を忘れる。

17.キャプテン・クックの家
 数多い公園の中でもユニオン・ジャックをかたどったフィッツロイ・ガーデンはメルボルン随一という。1755年イギリスのグレート・エイトン村に建てられた煉瓦造りのキャプテン・クックの家が、1934年この公園に移築された。台所、居間、ベッドなど18世紀イギリスの生活様式を再現していて興味深い。魔除けなのか、屋根の両先端に「魔女の腰掛け」が設けられている。壊血病予防に役立つ薬草、野菜、果樹のある裏庭にはキャプテン・ジェイムス・クックの銅像が建っている。
 家の前のクラシックな赤いポストに魅せられてはがきを投函した。帰国後到着の葉書にはオーストラリア郵便がここだけに認めているCook’s Cottageの消印がしてあった。
 日射しの芝生では祈りを捧げるヨガ集団、春の花一杯の温室などを眺めながらバスに戻る。車体一面、窓まで広告を描き尽くした無料トラムが市中を走り回る。

18.メルボルン、車窓観光
 ガイド加藤テルエさん(安城市出身)の説明を聞きながら、英国伝統のクリケット・グラウンド、南半球最大というメルボルン博物館、昔ながらのルームキーを使う、五つ星の名門ウインザーホテル、金色像を頂くブリンセス劇場、最初にオーストラリア国旗を掲揚したという州議事堂、英国風のフリンダー・ストリート駅などを車窓より見学する。
 その東側には2002年完成の公共スペース、フェデレーション・スクェアがある。美術館、動画館、放送スタジオ、観光局その他カフェ、レストラン、ホールなどをユニークな建物内に収め、その前のザ・スクェアは1万人を収容できるイベント広場、言わばコングロマリット・スペースである。面するヤラ川の水は見た目よりも綺麗なのだとガイドは言い訳する。
 オパールの店もそこそこに空港へ向かう途中、超正装の男女を幾組か見かけた、これから競馬場へ行く人達だという。今日は土曜日、競馬場へ急ぐ自家用車で交通渋滞である。イギリス同様この地でも競馬場はお洒落な社交場であり、男女出会いの場でもあるらしい。

19.シドニー、オペラハウス
 12.00発シドニー行きカンタス航空QF430便に搭乗する。オーストラリアの首都キャンベラを飛び越えてシドニーへは13.20着。
 ドライバー兼ガイド前川さんのバスでシドニー随一のビューポイント、ミセスマックォーリー・ポイントへ行く。その昔、総督マックォーリーが夫人の郷愁を慰めるため、イギリスに似た眺望の場所に岩を削って腰掛けを作ったという。
 左手オペラハウス越しにハーバーブリッジ、水面に時折遊覧クルーズ船が悠然と行き交う。旧砲台近くの海には数隻のヨットがたゆたい、傍の波打ち際では新婚夫婦を囲んで友人達が歓声を上げている。後ろの向こう岸には軍艦も停泊している。
 オペラハウス前へ移動する。このユニーク建物はデザインコンペの結果、ヨットの帆をイメージしたデンマークの建築家ジョーン・ウッツォンの設計で1959年着工した。しかし工費、工期とも問題続出で、結局あとは4人のオーストラリア建築家チームが1973年に完成した。その間アメリカで開発された局面建築の技術が役立ったともいわれている。スウェーデンから運ばれた1,056,000枚の白タイルで覆われた外面は、天然の雨で常に清拭されるとガイドは説明する。
 向かって左の大きい屋根の方が2679人収容のコンサートホール、右が1547人収容のオペラシァター、その他大小4つの劇場やスタジオが複合している。客席へは入れなかったが絵はがきを参照した。この前の広場にもウェディングドレスの1組がオープンカーで乗り付けている。

20.ハーバーブリッジ
 ハーバーブリッジのアーチ上にはブリッジクライム・ツァーの一団が豆粒のように登って行く。参加料はA$155という。もとは不況対策として1923年着工、1932完成したもので全長1149m、全幅49m、アーチの高さは水面より134mもある。電車の軌道、自動車道、歩道があり、入り口にある塔門(Pylon)の一つには資料展示と展望台がある。渡りはしなかったがロックス地区への途中、下を通ったときその巨大さを実感した。
 1788年1月26日アーサー・フィリップが流刑囚780人、海兵隊及びその家族1200人を引き連れてこの辺りの入り江に上陸した。これを記念して1月26日がオーストラリアの建国記念日となっている。従ってロックスと呼ばれるこの地区は、今でも白人オーストラリア発祥の地と言われている。
また60余年前、太平洋戦争のときには日本の特殊潜航艇がシドニー湾に侵入し攻撃したことから、未だに反日の老人が多いことも忘れてはならない。
 市内に戻り、ビルの一角にオパールの採掘場を再現して売り込みに熱を入れるオパール店に立ち寄った後、シティーゲート・シーベル・ホテルに到着する。
 シドニーの属するニューサウス・ウェールズ州を含む東南4州は今夜零時からサマータイムである。明朝遅刻の無いように夕食後、南田TDの指示で時計を1時間進める。

21.ブルーマウンテン
 明けて31日(日)はサマータイム第一日である。前川さんのバスで西へ約100kmのブルーマウンテンへ。途中、コロニアル風バルコニーのある建物をよく見かける反面、住宅は意外にこぢんまりとした平屋が多く、ヨーロッパ型の四角い煙突を各戸に備えている。運転手の指さす路面には高橋尚子も走った2000年シドニー・オリンピック・マラソンの青いラインがある。
 カトゥーバの町には寄ることなく、ブルーマウンテンのエコーポイントへ乗り付ける。奇岩スリーシスターズは目の前である。「アボリジニの父親が三人姉妹を魔物から守るため、岩にして隠したが人間に戻せなくて・・・」という伝説による。
 見渡す限り高さ1000m程度の山々がユーカリの森に覆われている。その葉から発するユーカリオイルの微粒子が陽光でプリズム作用を起こし、ブルーの霞となって山谷に漂うのでブルーマウンテンと呼ばれるようになった。「アメリカのグランド・キャニオンには比すべくもないが」と誰かが呟いた。

22.シーニック・ワールドとルーラ
 バスで移動して、旧炭坑の運搬車を模したシーニック・レイルウェイに乗る。最前列に陣取ったものの50度前後の下り勾配では、バーに掴まるというよりは足を踏ん張って、半立ちの姿勢で急坂を駆け下りる。トンネル内の数秒は阿鼻叫喚である。尤もワイヤーロープで前後を結索しているので暴走することはない。最大52度のレイルウェイはギネスものだという。
 遊歩道では観光用に整備された旧炭坑入り口や掘削・運搬具などを見学する。この炭鉱は1945年までは採炭していたようである。今でもオーストラリア大陸の東部地方では何カ所かの大規模炭鉱で採掘が続けられている。この先は森林浴気分で熱帯雨林の中をそぞろ歩き。ターザンのロープのような蔓、ユーカリの大木、宿り木などを眺めながら木道をスカイウェイの乗り場へ行く。
 84人乗りの大型ゴンドラのフロントに着席し、谷底から崖上へ約3分間のロープウエイ。右側からスリーシスターズが見守ってくれる。
 一連のシーニック・ワールドを楽しんだ後、高原の町ルーラへ立ち寄る。避暑地らしいスマートな町で、郵便局併営のレストランやチャーミングなショッピングモール。その内のキャンディ・ストアでは山のようなキャンディ棚の中から、ここの名物ユーカリオイル入りのキャンディを見つけ購入する。
 シドニーへの帰路、2000年オリンピック会場へ立ち寄る。広い敷地に各競技場、施設がゆったり配置されている。メイン会場の前でしばらく散策してバスに戻る。

23.クイーン・ビクトリア・ビル界隈
 街の中心シドニータワーの近くでは消防車が走り、ストリート・パフォーマーが打楽器を打ち鳴らす。こういう都会の喧噪のなか自由行動となる。タワーに登る人、モノレールに乗る人、勿論ショッピングする人、色々である。
 私たちは1898年に建てられたというクイーン・ビクトリア・ビルディングを訪れる。優美なロマネスク様式をそのままに1996年に改修され、今では地上3階地下1階のショッピングセンターになっている。
 北口から入ると、上には高さ10m世界最大の吊り時計オーストラリアン・クロック、床は精緻なタイルが敷き詰められている。ブティック、毛皮、オパールからお土産、レストランなど200余店が軒を連ねる。エスカレータで3階に上がるとクイーン・ビクトリアの蝋人形と王冠、宝石のレプリカが大型ショーウィンドウに飾られている。南口の天井からは、毎時仕掛け人形が動くロイヤルクロックが吊り下げられている。
 3階から1階まで大時代なアコーデオン・シャッターのエレベータで下りる。ビルを出た所にはクイーン・ビクトリアの銅像がでんとあたりを睥睨している。
 交差点の向こうは高い時計塔がよく目立つタウンホール(シドニー市役所)である。折しも周囲は薄紫色のジャカランダが花盛り。桜が日本の春を象徴するように、ジャカランダは南半球の春を告げる花のようである。
 隣りネオゴシックのセントアンドリュース大聖堂は1868年完成、オーストラリア最古の聖堂という。日曜日の午後、ひっそりとした堂内で見事なステンドグラスや荘厳な祭壇を見学する。
 この後ハイドパークの第一次大戦記念碑を訪ねる。この公園は1810年造営された由緒ある所だが、各種イベントやランチスポットでもある。散歩、日光浴と思い思いに人々が緑を楽しんでいる。

24.シドニー・ハーバー・クルーズ
 今夜はシドニー・ハーバーのディナー・クルーズである。それなりに服装を整えて、サーキュラーキーの桟橋で乗船を待つ。ずらりと停泊している他社のクルーズ船もそれぞれ出発準備に忙しい。
 やがて夕日が沈む頃、双胴のクルーズ船に乗り込む。ギター、ヴァイオリン、ヴォーカルのバンドが私たちを迎えてくれる。着席間もなくウェイターが飲み物とメインディッシュのチョイスを聞いて回る。船はゆっくり桟橋を離れ右手にオペラハウス、やがて反転してハーバーブリッジ。こんなコースを繰り返しながらシドニー・ハーバーを逍遙する。時に電飾のクルーズ船が行き交い、旧砲台のミニ灯台が煌めく。
 宴たけなわの頃、グループのTさんが誕生日だというのでハッピーバースデーの大合唱となり、テーブルが沸きかえる。
デッキに出ると満天の星の下、ライトアップされた白亜のオペラハウスが一段と幻想的である。ブリッジのアーチには夜目にもはっきりオーストラリアの国旗が翻る、時々船は橋の塔門(Pylon)のすぐ側をクルーズする。存分に夜景と潮風を愉しんだ後、接岸上陸する。皆ディナー、クルーズ共に満足したようである。

25.オーストラリアという国
 11月1日(月)は早くも帰国の日である。昨日見損なったシドニー駅を右手に見ながら空港へ急ぐ。帰りは8.45発ケアンズ経由名古屋行きオーストラリア航空AO7959便である。内側の席だったので景色は見えなかったが、地図で見るとシドニー付近は入り江が入り組んでいて、機上からは水郷のように見えたのではなかろうか。
 2時間程でケアンズ空港に着陸、トランジットで別の機に乗り換えることになった。ここでまた時差調整である。ケアンズのあるクィーンズランド州はサマータスムを施行していないので、シドニーとは南北関係にありながら-1時間の時差がある。中部オーストラリアの南オーストラリア州と北のノーザン・テリトリーでもサマータイムの有無で1時間の時差がある。
 このように州の独自性は時差のみに止まらず、祝祭日も全国共通日のほか、州毎に異なった日が制定されている。また生鮮食料品を含む動植物の搬入でも州毎に規制基準が異なっている。特にパースは持ち込み検査が厳しいとのことである。
 しかしオーストラリアそのものはイギリスを盟主と仰ぐ英連邦国家であり、元首はエリザベス二世である。国旗の左上にもユニオン・ジャックを配している。
 そもそもオーストラリアは1770年4月29日キャプテン・クックがエンデバー号でシドニー近郊に上陸、英国領を宣言したことに始まる。それまでアメリカを植民地として移民や流刑囚を送り込んでいたイギリスだが、1776年アメリカが独立してからは、その代替地をオーストラリアに求めるようになった。ゴールド・ラッシュ後(1861)採り続けてきた白豪主義も1970年には転換し、今では有色のアジア人種も多数流入している。
 シドニーから同機に乗り込んでいた福岡県東朝倉高校の修学旅行生たちはケアンズ空港で福岡行きに乗り換えたらしい。空港の商店街で、先年ジャカルタで買ったWilliams シャツの専門店を見つけた。矢張りR.M.Williamsはオーストラリアのブランド衣料なのである。
 正午頃乗り込んだ飛行機は、機体は替わったが便名はAO7959便のままである。昼間のフライトながら7時間半程うつらうつらと、まどろんでいるうちに名古屋空港に到着。また-1時間の調整である。サマータイムにぶつかったとはいえ、10月29日からの4日間に4回もの時差調整は何とも気忙しいことである。
 あと数日で立冬、日本の秋は既に深まっていた。

 本稿は今回見聞したことを、オーストラリア政府観光局「Travel Australia」'02版、各訪問地のビジターガイド、「地球の歩き方オーストラリア」'04~'05版等を参照しつつ記述したことを付記します。

儒神基佛の東京ミニ見物 覚え書き(2004年8月)


 先月東京で家内の喜寿祝いの帰途、夕方新幹線までの時間を利用して儒神基佛の東京ミニ見物をしてみた。
 午後3時頃中央特快が停車する御茶ノ水駅で下車、手荷物をロッカーに一時預けにして、まず湯島聖堂に向かう。ロッカー施錠で、乱数表かららしい5桁数字のメモがプリントアウトされる。合い鍵は無く、傍のテンキーからその5桁数字を打ち込めば開扉される仕組みである。

1.湯島聖堂 ( 儒教 )
 聖橋(ヒジリバシ)を渡るとすぐ右手が湯島聖堂である。こんもりと茂った森の中は都心とは思えぬ蝉しぐれが鳴きしきっている。ここは文京区である。
 先に林羅山が建てた孔子廟「先聖堂」を、元禄3年(1690)五代将軍綱吉が湯島に移し大政殿と改称、付属の建物も含め聖堂と総称した。
 寛政9年(1797)拡張した敷地内に昌平坂学問所が開設され、孔子の生地昌平郷に因んで昌平黄(学カンムリに黄)と呼ばれた。これが後の東京大学の前身である。
 度々の江戸大火、関東大震災、東京大空襲により焼失、損壊したが、都度再建改修された。現在の聖堂は概ね昭和10年(1935)に復興した鉄骨鉄筋コンクリート造りのものである。
 入徳門をくぐり大政殿に詣でる。左右に四賢像(顔回、曽子、子思、孟子)を配し、中央には明末の遺臣朱舜水が携えて来たという孔子像が祀られている。左側の壁には蒋介石(名は中正)が揮毫した「有教無類」の石板額がある。
 廟内の売店では四書(大学、中庸、論語、孟子)五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)よりも唐詩選など漢詩関連の書籍が目に付いた。
 なお「湯島の白梅」で歌い囃された泉鏡花の小説「婦系図」の主人公お蔦・主税の別れの場は、聖堂とは別の湯島天神の境内である。

2.神田明神 ( 神道 )
 聖堂の裏、道一筋を隔てると台東区、神田神社・通称神田明神がある。賑やかな神田祭とは裏腹に境内は意外にひっそりと鎮まりかえっている。
 江戸時代には山王日枝神社の祭りと共に江戸二大祭とされ、元禄の頃からは神輿が江戸城内にまで入るようになった。盛時には山車35台の長い行列が氏子地域内(京橋、神田、下谷)を4日がかりで巡行したという。現在の祭日は隔年の5月15日としている。
 祭神は大巳貴神(オオナムチノカミ)、少彦名神(スクナヒコナノカミ)である。

3.ニコライ堂 ( 基督教 )
 再び聖橋に引き返して渡ると千代田区である。正面にニコライ堂の丸屋根が見える。歩いて僅か数百mのところに文京、台東、千代田と三区が区境を接しているのも面白い。
 日本ハリストス正教会ニコライ堂は明治17年(1884)起工、同24年(1891)完成、日本最初のビザンチン建造物で、重要文化財に指定されている。
 文久1年(1861)函館のロシア領事館付き司祭として来日したイオアン・カサトキン、修道名ニコライが明治5年(1872)東京に日本ハリストス正教会を設立し、布教に努める傍ら前記のようにこの教会を着工完成させた。ニコライ堂と俗称される所以である。
 ロシア工科大学教授シチュールポフ博士が設計し、鹿鳴館などを設計した英国人コンドルが一部修正して完成させた。その後関東大震災(1923)に遭い、昭和4年(1929)に再建されている。
 ニコライは1906年大司教に叙せられ、1912年東京で没している。

4.泉岳寺 ( 仏教 )
 次は品川駅で下車してタクシーで北へ1.3km、仮名手本忠臣蔵で有名な芝高輪の泉岳寺を訪れる。慶長17年(1612)開山した曹洞宗・万松山泉岳寺は旧赤穂藩主淺野家の菩提所である。
 本堂左奥には元禄14年(1701)切腹した浅野長矩、吉良邸に討ち入りした47義士、長矩夫人の墓がある。47士の墓は討ち入り後、身柄を預けられた細川家など4大名家別に配置されている。尋常でない死に方の為、戒名は例えば堀部安兵衛は刃雲輝剣信士のように刃・剣の二字に囲まれている。城代家老大石良雄の戒名は忠誠院刃空浄剣居士となっている。大石良雄とその子主税の墓には屋根が設えられている。
 討ち入り陣羽織姿のボランティア数人が丁度墓地を清掃奉仕中であった。参道右傍らには吉良義央の首を洗ったという井戸が金網で覆われている。
 討ち入りの12月14日とか、義士切腹の命日には参詣者も多いのだろうが、通常は人影も疎らで、門前の土産物屋も開店休業、店員の姿も無い。
 品川駅まで再びタクシーで戻り、東京17:36発「ひかり」には悠々間に合った。


 湯島聖堂については斯文会の「湯島聖堂略志」を、その他は主に平凡社「世界大百科事典」を参照しました。

兄 正一の戦没地をたずねて(1995年6月)

 去年の今頃は兄 正一の50回忌の法要だというのに「戦没地はルソン島方面」という茫漠としたものだった。これではどうにも心許なく、もっと詳しい地域・場所が知りたい、出来ればそこまで行って鎮魂慰霊をしたい、追悼顕彰を行ないたいという思いが日毎に募っていった。

 爾来資料があると聞けば閲覧に走り、戦跡慰霊ツアーが出るといえば馳せ参じて、巡拝しつつ多くの方々から沢山の参考情報を承った。その結果「■■正一の戦没地はルソン島イフガオ州パクダン村」と判明した。そして遂に平成7年5月13日、50年振りにその地に立って兄の慰霊追悼を果たすことが出来た。これも偏に英霊のお導きと多くの関係の方々のご協力ご助言の賜と深く感謝します。

 次にこれまでの経過と熱心にご教導頂いた方々のご芳名を記し、血を分けた兄弟児孫に報告するとともに、兄正一とその妻ひでさん、そして「息子の戦死はとても信じられない」と言いつつ逝った父母の霊前に謹んでこの一文を捧げます。

 戦後50年、私なりの一つのメモリアルである。

一、防衛研究所図書館
  確か8月の終戦特集TV番組の中だったか、防衛庁戦史部には可成りの戦史資料が保 管されており閲覧可能と報じていた。手元にある戦中の住所録に記された軍事郵便の宛名「比島派遣渡第10612部隊根本隊 ■■正一」だけが唯一の手掛かりだった。
  平成6年10月3日東京都中目黒の防衛研究所図書館を訪れた。まづ「渡10612部隊」とは部隊の兵種・規模等を敵に察知されないための防諜名で、正式には第14方面軍南方第12陸軍病院であることが判った。その後昭和19年10月山下大将がマニラに着任後の編成見直しで「威10612」と改称されていた。
  所蔵資料「中央部隊歴史・比島方面部隊略歴」及び戦史叢書「捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦」によれば、正一戦没のころ第12陸軍病院は第14方面軍司令部の移動と前後して、キャンガンからもっと奥地のマゴックへ移動している。恐らくその途中の山道で、飢餓とマラリヤ熱発のため遂に力尽きたのだろうと思う。

二、三重県庁
  平成7年5月8日、兄の本籍(四日市市)を所管する三重県庁健康福祉部高齢者対策課援護恩給係を訪れ関係資料を閲覧した。
 
  「死亡告知書」(いわゆる戦死公報)によれば、
   ”昭和20年6月23日比島ルソン島方面ニ於イテ死亡セラレ候条此段通知候也”  「履歴書」によれば、その軍歴は、
   ”昭和 9年12月 1日       第二補充兵役編入
    昭和18年 7月20日 衛生二等兵 臨時召集により京都陸軍病院に応召
    昭和18年 9月14日       宇品港出発
    昭和18年10月 2日       マニラ港上陸
             同日       南方第12陸軍病院に転属
    昭和19年 1月20日 衛生一等兵
    昭和19年 7月20日 衛生上等兵
    昭和20年 6月23日 衛生兵長  比島において戦病死 ”

  「戦没者調査票」(軍人恩給原簿)によれば、その戦没状況は、
   “ 身分        軍人
    所属        南方第12陸軍病院
    官等身分      死亡前 衛生上等兵、死亡後 衛生兵長
    死亡状況      戦病死、在隊死
    死亡年月日     昭和20年6月23日
    公報年月日     昭和21年1月23日
    死亡場所      外地 比島ルソン島
    受傷り病年月日   昭和20年6月15日
    傷病名       マラリヤ
    受傷り病場所    外地 比島ルソン島 ”
  以上のように県庁資料でも、戦没地は「比島ルソン島」までしか記載されていない。

三、太平洋全域洋上慰霊祭の船旅(ふじ丸)
  予て申し込んでいた上記の慰霊行に参加した。商船三井客船のふじ丸(23,340トン)を借り切って、平成7年2月15日博多を出港。
 途中、高雄(台湾)マニラ(フィリピン)メナド(インドネシヤ)ポートモレスビー(パプア・ニューギニヤ)ガダルカナル(ソロモン共和国)サイパン(北マリアナ連邦)には上陸、火山噴火で上陸出来なかったラバウルの湾口をはじめ、多数の将兵が海没した洋上など12箇所で慰霊祭を行ない、3月10日東京晴海帰港という行程であった。昭和19年10月比島沖で沈没した空母千歳から、奇しくも海没を免れた渡辺 守氏が団長である。
 総勢540名の団員の中に、どなたか第12陸軍病院の衛生兵であった兄に関する情報をお持ちではと、一縷の望みを抱いてその旨を船内掲示板に貼りだした。
       
 早速次の方々から貴重な関連情報の提供があった。
 1.●●正太郎さん(名古屋市)
    宮古島沖で轟沈した空母雲竜より生還した数少ない1人である。戦中は南西方面艦隊司令部勤務であった。
    自ら経験したルソン山岳州での惨状、比島戦線のデータベース「比島文庫」、愛知県三ケ根山頂比島観音の例大祭などについて教示紹介を頂いた。また帰着後、昨年参加されたマニラ会(12陸病のとは別で、マニラ在留邦人も入った会)での戦跡巡拝のビデオを拝借。この中にはパクダンでの光景も収録されていた。

 2.●●喜男さん(福岡県苅田町)
    戦中は屏東(台湾)で第157飛行場大隊勤務であった。
   ふじ丸では比島観音、米側資料「山下奉文」などの情報を頂く。帰着後は「比島従軍記」(根本勝著)「追憶の詩」(坂田沢治著)を拝借した。その後届けて頂いた後記吉富巡拝団の西日本新聞の広告切抜は、このあとのパクダン慰霊行に繋がってゆく。

 3.●●比佐子さん(福岡市)
    3月8日木村船長と同卓で夕食の際、隣り合わせた●●サエさん、●●トヨノさん(共にルソン山中会員)より紹介される。
   昭和20年7月父上をキヤンガンで喪くされている。父の戦没時期・場所等、姪淑子と状況のよく似た戦争遺児である。ルソン山中会の世話人・草むす屍会員である。船中では比島観音・12陸病関係者の心当たり等について承り、帰着後は次のような多数の参考図書資料を提供頂いた。
    南方第12陸軍病院の記録「アシンの谷間に」(元軍医中佐 玉村一雄編)
    比島観音20年史
    フィリピン戦逃避行(新美彰・吉見義明共著)
    見知らぬ戦場(長谷部 日出雄著)
    炎熱商人(深田祐介著)
    その他戦跡巡拝記・会報・地図等
   特に「アシンの谷間に」の玉村日記と遺芳録は兄の終期を知る上で誠に貴重な資料であった。

四、比島文庫     
   前記●●正太郎さんより「比島戦線に関して、よろず調査相談に応えられる」として紹介される。
 1.●●喜徳さん(大分市)
    戦中は虎兵団陸軍伍長としてルソン戦に参加。帰還後は関係図書資料1500冊を収蔵して「比島文庫」を主宰、関係者と連携して集録「ルソン」を編集発行しつつ、比島戦線の解明・調査に尽力中である。この集録「ルソン」全70冊は「既刊戦史の誤りを正した第一級の戦史資料」として、平成7年度の菊池寛賞を受賞されている。
    私からの照会に対し、折り返し「■■正一さんの戦没地はパクダン」と資料コピー同封で教示があった時には、年来のわだかまりが一度に氷解したような感激だった。同時に集録「ルソン」(関係分)「ルソン島巡拝記」詳細図等届けられる。
   また三ケ根山12陸病慰霊碑世話人 ●●義一氏を紹介される。

五、三ケ根山比島観音
   愛知県幡豆町三ケ根山頂の大山寺境内にある観音さまで、昭和45年、比島戦関係者の浄財で遥かフィリピンの方を向いて建立されているのでこの呼称がある。その前庭には比島戦線で散華した陸海軍部隊の慰霊碑が林立して居り、毎年4月の第1日曜日には例大祭が行なわれる。
1. ●●義一さん(伊勢市)
   前記●●喜徳さん、●●比佐子さんより紹介される。
  戦中は南方第12陸軍病院の衛生下士官。現在は比島観音奉賛会世話人・12陸病
  慰霊碑の責任者である。
今年4月2日の例大祭に姪淑子と参拝の際、受付(救護班)で元従軍看護婦●●艶子さん、●●秀子さんと共に初会。義一さん持参のアルバム・見取図により当時及び最近のパクダンの状況説明を受ける。部隊の転進経路図も頂いた。今後も12陸病戦友会等の機会を通じ、兄に関する情報を尋ね続けて頂ける由である。

六、フィリピン戦跡巡拝の旅     
   この種の巡拝ツァーは昭和40年代より、各地の戦友会・遺族会等の間では催行されていた様である。一般には広報がないため前記中込さんより報らされるまでは全く関知しなかった。
 1.●●孝信さん(熊本市)
    今回(平成7年5月11日-18日福岡発着)の戦跡巡拝団長である。
   戦中は第14方面軍通信隊将校。戦後はマルコス大統領時代以来、訪比歴数十回という比島巡拝の大先達の一人である。現在熊本市花岡山フィリピン戦没者慰霊碑奉賛会の世話人でもある。
    「戦没地が判っていて行く意志があれば、あらゆる手段を尽くして、たとえカトリック教会の自家用飛行機をチャーターしてでも(大小約7000余の島々よりなるフィリピンでは、離島僻地への布教用に飛行機を持っている教会があるという)行き着ける様に取り計らいます。」との吉富団長の力強い言葉に励まされて、勇躍この巡拝行に参加した。
    現に5月13日には一行36名がネグロス島・サラクサク峠・キヤンガン・パクダンと4班に別れて巡拝した。
    ルソン島を縦横に1500Km、8日間に及ぶ走行中、各戦跡に関する迫真の説明には大いに感ずる所があった。今日の繁栄の礎となったこれら多数同胞の死を決して無にしてはならぬと固く肝に銘じた次第である。

 2.Mr.Sakaiさん(KIANGAN )
    祖父が明治時代に渡比、バギオに通じるベンゲット道路開削工事に従事したという日系三世である。今年67才、日本語は話せず、夫人は現地の人。40年来キヤンガンで雑貨商を営み、道を隔てた隣には”KIANGAN HOTEL ”を経営している。
    5月13日、氏の長男が店のトラックで私達4人をキヤンガンからパクダンまで案内して頂いた。お陰で50年目にして漸く念願の慰霊追悼をすることが出来た。この感謝の気持ちを込めて、帰国後、持ち帰ったペソ紙幣と若干のUSドルを慈善団体への寄付金としてMr.Sakaiに郵送・付託した。

 3.Ms.ビューリー
    マニラより同行のカメラマンだが、商売を超えた熱心さでパクダンでの慰霊に何くれと無く協力してくれた。キヤンガンで添乗ガイドと別れたあと、現地の人と私達の間を、私の覚束ない英語と彼女のたどたどしい日本語で取り持って、どうにか無事に事が運んだ。勿論彼女の撮影した沢山のスナップ写真は買い上げた。
    平成10年の巡拝行で私達に同行した現地カメラマン ニコ氏に尋ねたら「自分の従姉妹」とのことである。

 1年足らずの間にここまで実現出来たということは、丁度水面に輪が生まれ、拡がり、繋がって彼岸に達するように、これら多くの方々の貴重な情報・ご協力の連鎖がパクダンまで導いてくださったものとおもう。
 あらためて英霊のご加護と、お寄せ頂いた沢山のご協力ご好意に深く感謝すると共に、英霊のご冥福とご協力各位の益々のご健勝を祈念します。           合 掌

開放された「旅順」を観る(1996年7月)

 軍事機密のため戦後ずっと外国人立入禁止だった日露戦争の激戦地「旅順」が今年7月10日、ようやく外国人観光客にも開放された。7月16日大連を訪れた私達は予定の観光コースもそこそこに、現地旅遊社と交渉してその日の午後、旅順半日観光に出掛けることにした。   

 旅順は大連市中心部より西へバスで1時間ちょっとの距離にあり、一時は大連と連携して旅大市と称した時期もあった。現在は旅順口区として大連市の一部となっている。この地区は軍港をはじめ軍需工場、弾薬庫、砲台等軍事施設が集積していて観光開放は勿論、経済開発も永年見送られてきた。そのためか内陸部のような未開発の風物がいろいろ目につく。  

 往路は北回り(旅大北路)で官城子を経てまず水師営に入った。ここで旅順旅遊公司のガイドが乗りこんでくる。彼等の専管観光テリトリーのようである。明治37年12月、乃木大将とロシヤの将軍ステッセルとの会見は、村外れの小さな工場構内へ入って、右奥の小屋(その後建てられたもの)の建っている場所で行なわれたという。当時国内で戦勝を祝って歌われた軍歌「水師営の会見」を次に記す。         
      「水師営の会見」       佐々木 信綱 作詞  
  1.旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル  
      乃木大将と会見の 所はいずこ水師営  
  2.庭に一本(ヒトモト)なつめの木 弾丸あともいちじるく  
      くずれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍  
  3.乃木大将はおごそかに、みめぐみ深き大君の  
      大みことのり伝うれば、彼かしこみて謝しまつる  
  4.昨日の敵は今日の友、語る言葉もうちとけて  
      われはたたえつ彼の防備、彼はたたえつわが武勇  
  5.かたちただして言い出でぬ、この方面の戦闘に  
      二子をうしない給いつる、閣下の心いかにぞと  
  6.二人のわが子それぞれに、死所を得たるを喜べり  
      これぞ武門の面目と、大将答え力あり  
  7.両将昼食ともにして、なおもつきせぬ物語  
      われに愛する良馬あり、今日の記念に献ずべし  
  8.厚意謝するに余りあり、軍のおきてにしたがいて  
      他日わが手に受領せば、長くいたわり養わん  
  9.さらばと握手ねんごろに、別れて行くや右左  
      砲音たえし砲台に、ひらめき立てり日の御旗  

武人の礼を尽くした両将会見の情景が彷彿とイメージされる。残念ながら「なつめの木」はもう其処に無かった。  

 続いてバスは203高地に向かう。中国人観光客向けの案内板や標識が結構目につく。山頂付近には当時のロシヤ軍塹壕や、日露戦争後、日本が山頂に建立した砲弾型の霊山記念碑が90余年の風化を感じさせぬ鮮やかさで保存されている。頂上より黄海側を見下ろしたが旅順港は霞んでいて余りよく見えない。傍らの露店で購入したパンフレットの写真や地図と照合しながら当時の戦況を偲んだ。案内板に従って山頂より少し西側に下り、「乃木保典戦死の所」碑を訪ねて野の花一茎を供え、合掌して冥福を祈る。あたり一面はその後の植林で松の木などが生い茂り、当時の記録映画でよく見る荒涼たる山腹の面影は残っていない。因みに203高地を詠んだ乃木稀典作の漢詩を下記する。   

         「 霊山」 (ニレイサン)   
    霊山は険なれども、あに攀じ難からんや  
   男子功名、克艱を期す  
   鉄血、山を覆して、山形改まる  
   万人斉しく仰ぐ、 霊山    

 次に東鶏冠山に登りロシヤ軍の北堡塁を見学する。厚さ1メートル以上もあるコンクリート壁の堡塁が延々と続き、その表面には無数の弾痕が生々しい。銃眼の並ぶトーチカ、弾薬庫、電話室、司令部と覚しき天井の高い部屋等が連なり、いかにも堅固そうな要塞である。当時世界最強を豪語したロシヤ陸軍の自信と慢心の程が窺われる。ここにも大正5年日本の「満州戦跡保存会」が築造した「東鶏冠山北堡塁碑」や「露国00少将戦死の地碑」(日本語で刻字)が”旅順口日俄戦争遺址”(俄はゥオロシャの中国での略記)として大切に温存されていた。嘗て外国の軍隊によって踏み荒らされた自国の地を、敢えて戦跡として後世に伝えるのも中国国防政策の一環かとも思われる。とにかく日本人としては或る種の感慨を禁じえなかった。東鶏冠山の方は土産物屋も数軒あり、中国人観光客も多数訪れているようである。見学順路も階段、敷石、整地等よく整備されていた。  

 帰路は南回り(旅大南路)をとり途中星海公園(旧星が浦海水浴場)で小休止の後、夕方大連の街に帰りついた。

サンクト・ペテルブルクで「白鳥の湖」を観る (1997年7月)

 バルト三国を経て1997年7月11日夕方サンクト・ペテルブルクに入った。 この街は80年前まではロマノフ王朝による近代ロシヤの首都であった。その時代の香りを残すマリインスキー(旧名キーロフ)劇場でバレー「白鳥の湖」を公演しているという。幸いホテルはイサク聖堂そばの「アストリア」なので、劇場までは歩いても15分位とアクセスもよい。早速添乗員の中村さんを通じて現地ガイドのマルガリータさんにチケットの手配を頼んだ。翌12日の土曜日夜しか私の都合がつかぬため、劇場関係の知人を通じてやっと一枚入手して貰った。50US$であった。   

 開演は午後6時半である。6時にホテルを出てモイカ運河沿いに歩いていった。勿論ブレザーにネクタイ着用である。劇場前のグリンカ通りを隔てた向かい側テアトラリナヤ(劇場)広場には、ロシヤ音楽の父と呼ばれるグリンカとリムスキー・コルサコフの銅像が建っていた。そういえば1859年マリインスキー劇場のいわゆる「こけら落とし」にはグリンカの「イヴァン・スサーニン(皇帝に捧げた命)」が初演されたという。6時20分頃の開場で劇場前の人の列は漸く進みだした。1階の入口ホールは狭くて殆ど無いに等しい。館内にはいくつもの人の列があったので、成るべく短い列にしたがって入場したら1階桟敷席であった。急いで中央の長い列に加わって1階オーケストラ席に入場した。私の指定席は前から6列目、右から3番目であった。右隣りはドイツから来たという初老の夫婦である。左隣りは二人連れの若い女性であった。この街の娘らしい。   

 客席の間を縫ってプログラム売りのおばさんが通る。1部9000ルーブル(約1.6US$)という。生憎ルーブルを持ち合わせていなかったので、2US$を呈示したらニッコリして売ってくれた。ロシヤ語による解説・キャストの他英語版SWAN LAKEの梗概も添付されていた。  

 椅子は意外にも硬い木製で、長時間の着席は可成つらい代物である。舞踏会を催すときはこの仮設式椅子を取り外づしてダンスホールにするという。1階席から見渡すと後部2階正面には2・3階通しでロイヤルボックスが設けられており、その左右両翼は5階まで桟敷席である。5階は所謂天井桟敷で立ち見らしき人達の顔、顔、顔が並ぶ。館内案内掲示によれば2階は”Dress circle”、3階は”First circle”と表示されている。そういえば2・3階の桟敷の前列にはドレスアップした婦人達が着席し、連れ添う男性は後列に控えていた。そのまた後に供の者達がつき従っているのであろう。垣間見た後部桟敷席には椅子が5列程並んでいた。
  
 程なく楽士達が前のボックスに着席して調律が始まった。2・3回予告のブザーが鳴ったあと何のアナウンスも無いまま「白鳥の湖」の前奏曲が演奏される。これが終って重厚な緞帳がゆっくり引き上げられてゆくと、そこは遠くに古城を望む御存じ「白鳥の湖」の畔りの情景である。緞帳にはスポンサーの文字など何もない。主演者、助演者級のそれぞれのソロ、デュエット、群舞のあとは舞台前列に進み出て「お気に召しましたでしょうか」とばかりに観客の拍手を待つ。余程不出来でない限り惜しみない拍手が贈られる。   

 第二幕までの幕間に軽く腹拵えをしておこうとビュッフェを探すが見当らない。コーヒー、紅茶、クッキー程度の売店が3階にあっただけである。また時間も15分位でブザーが鳴るので、日本の幕の内弁当を楽しむような余裕はとてもない。トイレの床、壁は大理石張りながら意外に手狭で、華やかな館内の雰囲気のわりには地味な感じであった。  

 再び予告ブザーが鳴って第2幕宮廷舞踏会の場が始まる。このとき気付いたことが二つある。その一つは舞台の宮廷大広間と観客席とくに薄緑と黄金色に彩られた絢爛たる桟敷席とが如何によく融合していることか。その二は「舞台は横長」の常識を破って、意外に間口の割りに舞台の丈(演劇仲間ではタッパと言うらしい)が高い。1階席から見上げていると寧ろ「縦長」にさえ見える。そのためか舞台の両翼に迫る5階までの桟敷席と宮廷の壮大な円柱の列とが実によく調和している。観客席全体が恰も舞台の宮廷の延長のように渾然一体、王妃選びの舞踏会の情景を華麗に盛り上げる。収容人員1752人というここのたたずまいのメリットであろう。 それに引き替え最近新改築される劇場の多くは客数拡大の商業主義に堕ちて、アーチスト側の希望が軽視されているのではないか。ロンドンのロイヤル・オペラハウスも140年の歳月には勝てず、今月から2年半の工期をかけて大改築に取りかかるという。舞台・設備の近代化とともに観客席も増加されるとのことである。  

 次の幕間に2階のロビーに行ってみた。さすがにタキシード・ロングドレス姿は余り見かけなかったが、すっきりとドレスアップした男女がそこかしこに群れて談笑している。オペラグラスで舞台を鑑賞するかたわら他の桟敷へも視線を廻らせて、来場者の顔触れとその装いを確かめているのであろうか。
 
 館内は写真撮影禁止であるが1階席のあちこちからフラッシュが閃く。すぐ後の席からは開演中にも拘らず韓国語らしき私語が耳に障る。日本人観客も曾てそうであったかも・・と思い、ぐっと我慢する。

 第3幕は再び白鳥が群れ遊ぶ湖畔の場面である。誤ってオディールを選んでしまった王子ジークフリートは悪魔ロットバルトと激闘の末これを倒し、オデット姫と結ばれて目出度く大団円となる。プリマドンナを先頭に出演者が代わるがわる前列に進み出て観客の盛んな拍手を受ける。ブラボーの声も混じって再三のカーテンコールが繰り返されたのち漸く場内が静まる。終演は午後9時10分であった。   

 現地紙The st.Petersburg Times によればウリヤーナ・ロパートキナ、デイアナ・ヴィシニョーワ、ファルフ・ルジマートフ等マリインスキーの指導的パフォーマー達は8月までロンドン公演中とのこと。夏場の常とはいえ、ちょっと残念である。

12日のプログラムにはキャストとして次のように記されている。勿論キリル文字で。
    オデット    鈴木 ヨシコ (日本人)              
    オディール  テンマ チカ (日本人)  
               (わざわざ日本人と注記してある)
    ジークフリート以下はロシヤ人らしき名前が列記してあった。
つい先日(1997.7.13)亡くなった世界的名バレリーナ アレクサンドラ ダニロワも1918年ここからデビューしているという伝統的なマリインスキー劇場で、日本人バレリーナが見事にプリマの大役を果たしているのを見て感銘もひとしおであった。

 北欧の白夜は明るく午後10時半頃日没、11時過ぎまで薄暮が続く。主な交差点には交通安全の警官が立っていて、治安の心配は全く無かった。3時間足らずとはいえ旧王朝時代の雰囲気に半ば陶然としながら、ポリシャヤモルスカヤ通りを歩いて帰路についた。 
 その後日譚・・・名古屋で鈴木ヨシコの帰国公演を見る  

 1998年11月10日「あの鈴木敬子(ヨシコ)が10年ぶり帰国公演」との新聞広告を見る。サンクト・ペテルブルグで彼女のオデットを見たときの感銘を思い出し、主催者松本バレエ団宛思わずペンを執る。上記の観劇記とプログラムコピーを同封してお届けしたところ、折り返し藤田彰彦氏(同バレエ団演出家)より感謝の電話あり。

 鈴木敬子は名古屋市千種区茶屋が坂出身(私の長女が昭和55年当時上野小学校に奉職していたので、もしやと思ったが千代田橋小学校とのこと)、
 幼少(6才)より松本バレエ団で練習に励み、
 千種高校では皆が一流大学を目指す中で、唯一人進学を擲って敢然渡欧。
 サンクト・ペテルブルグのワガノワバレエ学校に入学、
 その後マカロフ(ロシア国立バレエ・アカデミー)に入団して研鑽を積み、今や一流の若手ソリストに成長したとのこと。
たまたまマリインスキー劇場での彼女の活躍ぶりを記した私の上記観劇記は「後輩バレエ団員の良い励みになるので回読させたい」とのことである。    

 翌日チケット・ピア、セゾンに赴き需めるも既に完売済(sold up) 。止むなく藤田氏に入手を依頼した。公演は12月5日(土)夜一回のみである。前日の4日招待券(20 列35番)を贈るとの報せがあり、些少ながらお祝いを用意して上社の同団スタジオを訪問、鈴木敬子本人と松本道子団長に面会する。3年前結婚した彼女の夫君アレクセイ・パンチェーシン(今回はロットバルトを演ずる)とジーグフリード王子役のセルゲイ・ゴルバチョフも一緒に練習中であった。

 今回の公演では名古屋市民会館大ホールの舞台に相応しいように、全2幕に構成し直したと演出家の藤田氏は言う。振り付けは松本道子団長である。オデット、オディールは鈴木の一人二役である。白鳥の清楚、黒鳥の妖艶の踊り分けが興味深い。この他主なレパートリーとしては”ジゼル”のミルタ、”スパルタカス”の妻があるという。

 朝日新聞の3日夕刊芸能欄では、大きく写真入りで「彼女の踊りは情感豊かな芸術性の中に人間的な温かさ優しさを感じさせる」と紹介している。

 170cm の鈴木のオデットがトウ立ちすると、その髪飾りの頂きは190cm の長身ジーグフリードを凌ぐ程である。出演者の殆どが長身揃いのマリインスキーの公演と比較すると、今回の大型デュエットは断然他を圧している感がある。広大な舞台空間を縦横無尽に切り裂くような伸びやかな、そしてメリハリのあるパフォーマンスは観客を魅了する迫力十分であった。終演後の盛大なアンコールの拍手は可成長い時間ずーっと鳴り止まなかった。 マリインスキーでのオディール役、天満チカは大阪出身で親子二代のバレリーナとか。今回鈴木の意欲的なオディールはメイクのせいもあってか、ひときわ精彩を放っていたように思う。素人目ながら鈴木敬子の凛とした首筋の形には妙に惹かれるものがあった。

2010年5月8日土曜日

ポーランド紀行(2004年5月)

1.使い易いフィンランド航空
 5月31日、新幹線、特急はるかと乗り継いで9:10関空に到着。以前より鋭敏になった金属探知器でボディーチェックを受けて、11:00発ヘルシンキ行きフィンランド航空AY078便に搭乗する。
今回のツァーは札幌から3名、別府から2名、名古屋からは3名、あとは大阪、神戸10名と片岡弥生TDの計19名( 男4名、女15名)の一行である。
 所用10時間20分だが、-6時間の時差でヘルシンキへは同じ日の15:20に到着した。空港では日本人職員が親切に乗り継ぎや入国の案内をしている。17:45発コペンハーゲン行きAY667便の機内でも現地語、英語のほか日本語の案内放送があった。
 さらに-1時間の時差で18:25到着した空港ではSASマークの飛行機が十数機駐機している。またスカンジナビア航空のストらしく、乗り継ぎカウンターは大混雑である。「だからSASはやり難い、その点フィンランド航空は使い易い」とは片岡TDの独り言。私達は19:30発ワルシャワ行きポーランド航空LO462便のためスムースに乗り継ぐことが出来た。(A+BC)で18列とコンパクトな機体である。  左前方に飛行機雲を曳きながら飛んで行く機影が見える。普通は地上から見上げる飛行機雲を、機窓から横に眺められるとは・・・と悦に入っているうちに20:50ワルシャワのオケンチェ国際空港に着陸した。丁度夕日が沈むところである。
2.ワルシャワ・ゲットー、ワルシャワ蜂起
 6月1日、ポーランド最初の訪問はワルシャワのユダヤ人ゲットー記念碑である。戦災で壊滅したゲットー( ユダヤ人隔離居住地区)に建てられたもので、ユダヤ人受難像を刻んだレリーフである。三角形を逆に組み合わせた例の紋章が供えられている。早くも次の団体がバスで乗り付けてきた。
 東へ600m程行ったところに、今では古文書館になっているというクラシンスキ宮殿がある。ワルシャワ大学で日本語とラテン語を学んだという現地ガイドのアンナさんが、ラテン語と数字についてひとくさり。「欧州の言語は語源がラテン語から来ているものが多く、綴りを見れば大凡の意味は判る」と。
 道路を隔ててワルシャワ蜂起記念碑がある。1944年、ワルシャワ蜂起の地下運動を象徴するように、地下道から這い出した市民の苦しそうな表情が痛々しい。ソ連軍の離反により20万人もの市民を犠牲にして、結局ドイツ軍に惨敗した。1989年、この碑が建てられ、ドイツは首相が献花・謝罪したが、その後も圧政を続けたソ連に対しては市民は未だに反感を持っているという。ポーランド人はロシア人と同根の西スラブ族で、ポーランド語もロシア語に似た言葉が多いようだが・・・。
 後ろには悲劇の碑とはアンバランスに薄緑色の最高裁判所が建っている。
3.キューリー夫人博物館から旧市街へ
 少し東にキューリー夫人博物館がある。この家で生まれた彼女は、当時ロシアに併合されていたポーランドでは勉学思うに任せず、フランスに脱出、ソルボンヌ大学を卒業した。その後フランス人科学者ピエール・キューリーと結婚、ラジウムなど放射性元素の発見、研究に努め、ノーベル物理学賞、後に化学賞を受賞した。館内には研究経過や実験器具などが展示されているが撮影禁止である。
 次はいよいよ旧市街の入り口、バルバカンである。今ではヨーロッパに数カ所しか残っていないという赤煉瓦の円形砦である。15~16世紀に建てられ、火薬庫や牢獄としても使われていた。第二次大戦で破壊されてしまったものを市民の熱意で1954年、見事に復元された。
広場に出ると中央には楯と剣を振りかざす人魚像が建ち、周囲は大きなパラソルを連ねたカフェや物売りで賑わっている。当時、広場は一つだけだったので、「広場」と言えば今でも此処を指すらしい。
 広場を東に出るとヴィスワ川、対岸は動物園である。金の滴のような黄金色の花が藤のように、たわわに垂れ下がって咲いている。「金滴樹」と呼びたくなるような木である。
4.王宮復興の熱意
 引き返して今は博物館になっている旧王宮を見学する。第二次大戦で完膚無きまでに破壊されたが、心ある美術史家たちによって事前に貴重な絵画・調度品は国外に持ち出されていたため無事であった。バロック様式の建物の内部は王の広間、寝室、食堂、コンサートホール等ジグムント3世当時の儘に再現されているという。被災直後、一面瓦礫の王宮周辺の写真と見比べて、よくぞここまで立派に復元したものだと感心する。疎開されていた精細絵画の数々が大いに貢献しているのだろうと思う。
 ポーランド王を象徴する銀色の鷲を配した王座、豪華な楽譜収納箱、それにユニークなデザインのモザイク床や凝った趣向のドアノブなどが面白い。床、壁とも多種類の大理石を張り詰めた部屋では雰囲気が一変する。
 王宮前広場には1596年、ポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジグムント3世の銅像が建っている。

5.ショパンの心臓
 続いてサスキ公園の無名戦士の墓を車窓から眺めながら聖十字架教会に行く。屋上には金の十字架、内部も金銀きらびやかな教会である。入って左手前の石柱にはショパンの心臓が埋められているが、それにはショパンの遺志を尊重した姉が大いに尽力したという。
 道路の斜め向かいがワルシャワ大学の正門、斜め右には地動説のコペルニクスの銅像がある。
6.ワジェンキ( 浴場 )公園
 午後は市の南方、ワジェンキ公園へ行く。ゲートを入ってすぐ、池の向こうに巨大なショパンの銅像がある。死期に近い肖像から取ったのか憂愁の面持ちである。ピアニストらしいドレスの女性がその前で写真撮影をしてもらっていた。
 18世紀ポーランド最後の王ポニャトフスキが造園した公園で、池に面して建てられた数々の夏の離宮に立派な浴場(ワジェンキ)があったことから、こう呼ばれるようになった。
 ステージの前に池を配した野外音楽堂では折しもアマチュア合唱コンクールの最中である。歌手の前に陣取った数羽の孔雀が時々猫のような鳴き声で奇妙に唱和する。
 早めにメルキュール・ホテルに引き揚げ、民族料理ピエロギの夕食である。水餃子に似ているが、にら、ニンニクは入らず、酢醤油も無いので期待した餃子の味ではなかった。

7.IC特急で古都クラクフへ
 2日はワルシャワ中央駅から9:15発インターシティー特急で南部の古都クラクフへ。ソ連時代の影響か、駅構内は撮影禁止である。駅前に聳える文化科学宮殿付近は再開発のクレーンが立ち並ぶ。
 地下二階のプラットホームから6人1コンパートメントの一等車に乗る。ワルシャワから暫くは見渡す限りの平野だが、後半は丘陵の起伏が続く。途中、車掌が一度検札に来たのみでノンストップ、2時間35分でクラクフ到着である。ここも駅前は再開発で掘り返していた。
 クラクフのガイド、リヒアルト君が同乗して広大な墓地を横目に、西方54kmのオシフィエンチムに向かう。墓地に林立する十字架はロシア正教のものと似ているが少し違う。カトリックと混合した「連合」のものだという。街を出て道の両側に続く白樺林を見ているとシベリアのタイガを思い出す。
 オシフィエンチム駅前で昼食を済ませ、この町外れにあるアウシュビッツ強制収容所を訪ねる。しかし此処はは余りに「凄惨」、稿を改めて記すことにする。
8.中世の面影を残す旧市街
 3日はまず1498年建造、欧州最大を誇る円形防塁バルバカンを見る。すぐ傍には1300年頃に建てられたというフロリアンスカ門がある。門をくぐれば旧市街、「白貂を抱く貴婦人」のポスターを掲示したチャルトルスキ美術館前から中央広場へ行く。
 中世からそのまま残っている広場としてはこれも欧州最大という。真ん中には14世紀に建てられた、長さ100mもあるルネッサンス様式の織物会館がでんと居座っている。当時は織物取引所だったが、今や琥珀をはじめアクセサリや民芸品の店がぎっしりの「おみやげ会館」である。入り口近くの地下男性用有料トイレでは「大は1z、小は0.5z」と用足しをおばさんが見張っていて、料金を徴収する。1ズウォチ( 1z)は約35円。
 旧市庁舎は1820年に取り壊されたが、時計塔だけはそのままこの広場に残された。
 続いてヤギェウォ大学を訪れる。1364年創立、ポーランド最初の大学で、「地動説」のコペルニクス(1473~1543)、現ローマ法王ヨハネ・パウロ2世もここで学んでいる。
 15世紀ゴシック様式の赤煉瓦建物コレギウム・マイウスには一種の威厳がある。アーケード回廊の中庭には卒業試験合格の霊泉があり、毎年6月には学生が列をなすという。
 中央広場へ引き返し1222年に建てられた、これもゴシックの聖マリア教会を見学する。正面ファサードには高さの違う塔を左右に擁する大きな教会である。国宝に指定された奥の聖壇やステンドグラスに目を見張る。

9.古都に相応しいヴァヴェル城
 午後は見学時間を予約したヴァヴェル城である。ポーランドの6月は気候も良く、学校の社会科見学のトップシーズンである。混雑を避けるため厳格に入場制限をしている。城門脇の銅像は18世紀末、3国分割に抗した英雄タデウシ・コシチェシコである。
 入城すると左側に3つの礼拝堂を持つ大聖堂がある。初め1320年ゴシック様式で着工後、数世紀に亘ってルネッサンス、バロックが加えられた異色の建物である。中でもネッサンスの傑作金色ドームのジグムント・チャペルとポーランド最大の鐘を吊すジグムント塔が偉容を誇っている。王の戴冠式は18世紀までここで行われたという。
 旧王宮の中庭に入る。取り巻く建物は16世紀、ジグムント王がゴシックとルネッサンスの複合様式で建てたものだが庇が高いのは太陽光を多く取り入れる為という。屋根の樋の先端が竜頭を象っているのが面白い。集めた雨水を竜の口から吐き出させる趣向である。
王の公室、私室、無数の肖像画、武具もさることながら、厖大な豪華タペストリーは圧巻である。原産地を凌ぐほどのコレクションは、この王宮をむしろタペストリー博物館と見紛うくらいである。
 ヴィスワ川に面して賢者クラクスに退治された伝説の竜の銅像があるが、樹間から竜頭のみを見て退出した。

10.岩塩の殿堂・ヴィエリチカ岩塩坑
 続いて市の南東15kmの世界遺産、ヴィエリチカ岩塩坑の見学である。ここも社会科見学の生徒が沢山入場を待っている。狭い坑内への入坑のため人数制限は厳重である。待つ間、壁の写真を見ていたら高松宮ご夫妻来坑の写真があった。
 順番が来て、まず木製の螺旋階段を約400段垂直に降りる。早足で降りたら恐らく目が回るだろう。途中の渋滞で書いたのか、名前らしき落書きがいっばい、漢字で書いた台湾人の住所氏名も散見される。
 岩塩採掘を再現した現場に降り立つ。採掘夫、運搬・昇降に使役した馬は岩塩の彫像である。王様、偉人、伝説の像など見て回るうち、かつて稼働していた昇降機場へ着く。金属は岩塩で腐蝕するため巨大な昇降機構はすべて木製である。坑道の側板は塩がしみ込んで化石のようになっている。材木の塩干物である。
 天井からは鍾乳石のような塩のつらら、足元には塩水のせせらぎ、それが注ぎ込む地底湖は当然飽和塩水である。
 突然大広間のような巨大空間に出る。採掘跡を利用した聖キンガ礼拝堂である。聖壇、キリスト像、壁面深さ18cmに彫刻した「最後の晩餐」のレリーフ、半透明のシャンデリア、床ブロックまで総てが岩塩製の殿堂である。ここで記念写真を撮る、10z 。
 坑内は自然換気だが、強風を遮るため所々に防風扉が設けられている。鉱山規則によりスィッチ・ボックスは防爆型を設置しているが、1950年代より採掘を中止した後は坑内爆発も無いため、照明器具は普通型を認められているとのことである。
11.真っ暗闇のエレベーター
 最後の出坑待合い広場には岩塩製おみやげ売り場、身障者用エレベーター、高い天井にはギネスブック級のバンジージャンプ台まである。小1時間近く待たされた。一般のエレベーター乗り場へは狭くて長い坑道を歩かねばならぬ。一度に大勢を導入すると「酸欠の恐れがあるので、天井の高い洞窟の方で待って貰っている」と説明がある。
 漸く順番が来てエレベーターへ。鉄檻のような9人乗りの3基が並列運転である。「暗黒恐怖症の人は予め申告を、一応懐中電灯は用意していますから」と片岡TD。2~3分間だったと思うが真っ暗闇の立坑をひたすら昇る。隣のエレベーターからは悲鳴に似た奇声が聞こえる。最初の坑口に近い降り場に辿り着く。久し振りの外界は眩しい程に明るい。
 端正な服装の女性御者の観光馬車が客待ち顔である。僅かな距離だがバス乗り場まで、遊び心で5人が乗り込む、30z 。
 夕食はキャンドルライトのクラシックなレストランでピエロギ他の郷土料理である。ノボテル・ホテル前のヴィスワ川畔で暮れなずむヴァヴェル城を背景にスナップを1枚撮って貰う。

12.カジミエーシュのシナゴーグ
 4日午前中のフリータイムを利用してカジミエーシュ地区へ行ってみた。元々は1335年、カジミエーシュ大王が城塞都市クラクフの南東に別の町として作られたものだが、1941年ナチスによってゲットーが設置され、クラクフのユダヤ人6万人のうち1万5千人がここに移された。しかも大量虐殺により2年後には1/10にまで減ったという。
 最初にイサーク・シナゴーグに入り、ユダヤ人強制移住のビデオ、その後の迫害、遺体処理などの陰惨な展示写真を見る。平和のシンボル鳩の市場がすぐ近くにあるのも皮肉なコントラストである。
 ポーランド最古のユダヤ教会スタラ・シナゴーグの内部はユダヤ博物館である。会堂の中央に大きな鳥籠のような説教壇が設けられている。聖壇には例の7本足の燭台が据えられている。周囲には聖具をはじめユダヤ文化を伝える民俗遺品の数々が展示されている。大戦中ユダヤ人脱出に協力した杉原千畝に関する資料は ? と尋ねたが無かった。
 映画「シンドラーのリスト」の舞台になったこの地区の街並みを見ていると南インド・コーチンの旧ユダヤ人街を彷彿される。
13.トラムでチャルトルスキ美術館へ
 走行ルートを確かめて3番線のトラムに乗る。切符売り場が見つからぬ儘、乗車して運転手から切符を買う、2.4z+0.6z(運転手手数料)。大きな停留所近くのMPKの表示のあるキオスクでしか売っていないらしい。色々な番線のトラムが2連、3連、時には4連で頻繁に走っている。
 バルバカン前で降りチャルトルスキ美術館へ急ぐ。途中出会った片岡TDが同館のガイドブックを貸してくれる。チャルトルスキ王子の夫人イザベラのコレクションを展示するため、1801年オープンしたポーランド最古の美術館である。
 絵画、彫刻、武具、アンティークなど名品が沢山展示されているが、何はともあれレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」の特別展示室へ急ぐ。その醸し出す気品はルーブルのモナリザに匹敵する逸品である。レンブラントの傑作もあったが午後の集合時間12:15に近く、ゆっくり鑑賞出来なかった。気が急くままに急ぎ足で通り過ぎたイコン・コーナーで、独特画風のブリューゲルのキリスト説教図を見たのは収穫であった。
 織物会館前の老人バンド(ヴァイオリン、アコーデオン、ドラム)に耳を傾ける暇もなく集合場所のレストランに滑り込む。
 昼食後はバスでワルシャワまで約300kmの長旅である。途中片岡TDの「旅のトラブル話」は間合いの良いテンポで結構面白く聞かせてくれた。

14.ショパンの生家でコンサート
 5日はワルシャワから西へ54kmのジェラゾヴァ・ヴォラへ行く。1810年フレデリック・ショパンが生まれた生家を見学してビアノ・ミニコンサートを聞くスケジュールである。
 生まれた年にワルシャワに移転しているし、主な遺品はワルシャワのショパン博物館である。こちらには出生証明書、洗礼証明書、家族の写真のほか、14才の時の作詩、スケッチなど芸術的天分を窺わせるものが展示されている。小型ながら竪型のグランドピアノも珍しい。
 この家のサロンでピアニスト、モニカ・ロッサ夫人( ? )によるショパンのプレリュード、ワルツ、エチュード、マズルカの演奏。最後は力強いポロネーズで締めくくった。僅か30分ながら十分の感動を誘ったようである。戸外のベンチでは見学の生徒達が行儀良く傾聴していた。
広い庭園には日本ショパン協会が贈った桜の木、日本趣味らしい橋もある。うつむき加減のショパンの銅像と「対面」のポーズでスナップを撮って貰う。

15.感動のワルシャワ歴史博物館
 昼食後はワルシャワに戻ってフリータイムである。旧市街のワルシャワ歴史博物館に飛び込む。小さい入り口、小振りな建物の割に4階までの館内には戦前戦後のワルシャワの様子を示す資料がびっしりである。戦中破壊され尽くした建物の「壁のひび1本までも忠実に復元」したというワルシャワ市民の不屈の精神に感銘、その経過を確かめたくて入館した。
 1,2階は13世紀から1596年クラクフよりの遷都、18世紀ロシア、プロシァ、オーストリアによる三国分割までの市民、王室の民俗資料。
 3階は占領ロシアの圧政と、それへの抵抗運動から1918年三国分割が一応終わる頃までの歴史資料。
 4階は1939年第二次大戦勃発、独ソ両軍侵入、ナチスの暴虐、対するレジスタンス、1944年ワルシャワ蜂起、翌年終戦までの生々しい経過資料、特に破壊前の建物の絵画、写真、設計図等々。
 これあってこそ厳密な修復が出来たのだと納得する。修復前後の対比写真を見るとき、復興への市民の執念には「脱帽」である。

16.修復、オペラ劇場、ワルシャワ大学
 思いの外時間を費消してしまった。旧王宮前の聖アンナ教会には、土曜日のこととて挙式を待つ新郎新婦の笑顔が溢れている。
大通り(クラクフ郊外通り)を右折して国立オペラ劇場の裏手に出る。余りに大きな建物で、通りがかりの市民に「本当にオペラ劇場か ? 」と確かめてみた。正面に回って見ると誠に壮大である。
 1833年完成、ミラノ・スカラ座、ウイーン・オペラ座にも比肩するヨーロッパ有数の老舗劇場である。第二次大戦で正面外壁以外すべて焼失してしまったのを、市民の熱意で1956年、元の姿に復元したという。
 大通りに戻って貴族ラジヴィウ家宮殿の前を通る。1765年当時は館内でオペラやコンサートを開催したこともあるというが、現在は大統領官邸である。
 南隣りワルシャワ大学の正門をくぐって、キャンパス奥のカジミエーシュ宮殿を見学する。1335年カジミエーシュ大王ゆかりの宮殿で、この日は大広間で学生のモダンアート展覧会が開催されていた。
 別の建物( 講堂 ? )では外壁をそのままに内部を大改修中である。ヨーロッパではこういう工事が得意なのだろうか。
 時間も残り少なく、実物兵器がずらりの軍事博物館やソ連時代の遺物・文化科学宮殿の見学は割愛してノボテル・ホテルに帰る。

17.ポーランド政体の変遷と治安
 ワルシャワのガイドによれば「ポーランドの国家体制が社会主義下では家賃、授業料等無料、失業も無かったが、自由も無かった。大学でもロシア語以外は勉学の自由が無い時代が続いた。海外旅行も、その国の招聘状が無いとパスポートが発給されない。しかも旅行が済めば直ちに返納しなければならず、所謂「海外渡航の自由」は無かった。
 自由主義社会になって「自由」は得たが、失業者、ホームレスが増えて、確かに詐欺、窃盗などの犯罪は増加している」という。
 外務省海外安全情報では「ポーランドでも繁華街、駅周辺、バス、トラム等では掏摸、置き引きに注意。時に集団かつ暴力化することもある。」と警告が出ていた。しかし昼間のワルシャワ、クラクフではそのような気配は殆ど感じられなかった。
 子連れのジプシーや物乞いなども執拗に付きまとうことも無く、観光客を狙って掏摸に豹変するイタリア、フランスとは大違いである。「特に注意」の駅への地下道でも三叉路には大柄の警官が仁王立ちで見張っていた。
 タクシーも正規のものであれば、料金の不当請求は無くなってきたが、タクシー業者によっては信用の差が若干有るようである。ホテルで呼んで貰うタクシーはまず問題は無いが、ホテル周辺で屯している車は観光客狙いの白タクなど悪質なのもいるので、乗らぬように」と現地ガイドは注意する。
18.フォークロア・ショーでダンス
 夜はレストランでのディナー付きフォークロア・ショーにオプション参加する、@\9000.-。既に1組の老夫婦が軽快にダンスを楽しんでいる。スイスからという十数人の客も着席した。
やがて3組の男女の踊り手と楽員が入場して民俗舞踊の競演が始まる。愛の哀歓を表現しているような振り付けである。ワルシャワのガイド・アンナさんが「日本は主に上半身で踊るが、この地方では下半身、特に脚で踊る。」と評していたのを思い出す。
ショーの合間にダンサーが誘いに来たので、久し振りにクィック・ステップを踊ってみた。いくらラフスタイルOKと言われてもディナー、ダンスとなれば上着は必携である。
終わって帰る頃にはどしゃ降りの雷雨である。市内見学中じゃなくて良かったと皆で顔を見合わせる。

19.首都-旧都-戦争の惨禍
 翌6日はもうポーランドとお別れである。ワルシャワ・オケンチェ国際空港、通称ショパン空港のバス降り場ではショパン像が迎えてくれる。
スーツケースに入れた岩塩の缶詰がダイナマイトのように透視されたらしく、開披させられていた。
 10:45ワルシャワ発ヘルシンキ行きAY742便も、17:20ヘルシンキ発関空行きAY077も満席である。なるほど6~7月は北欧観光の最盛期である。関空へは翌7日8:40定刻通り到着した。
振り返れば今回のポーランド旅行のワルシャワ-クラクフ-アウシュヴィッツは日本の東京-京都-ヒロシマ。首都-旧都-戦争の惨禍に相当するように思われる。

 本稿は今回の見聞に各見学場所の資料、地球の歩き方「ポーランド」等を併せ参照しました。

凄惨 アウシュヴィッツ(2004年6月)

1.ナチスの「東方総合計画」
 ポーランド南部の古都クラクフから西へ54km、オシフィエンチムの町はずれにアウシュヴィッツ強制収容所はあった。今では国立オシフィエンチム博物館として、遺された建物・施設・遺品が保存、展示されている。
 第一次世界大戦で課された厖大な賠償金に疲弊したドイツ国民は、ナチスを率いるヒトラーに回生の期待を掛けて、1933年政権を託した。アウトバーン( 軍用高速道路 )建設で失業者を吸収したヒトラーは密かに「東方総合計画」なるものを策定していた。それは東ヨーロッパを支配下に置いて現住民およそ5000万人を追い出し、ドイツ人1000万人を移住させるという壮大な計画であった。その根底にはドイツ選民意識と劣視民族( ユダヤ人、ジプシー、一部のスラブ民族など )の抹殺という意図が隠されていた。
 幸い第二次大戦で後半の戦局ドイツに利あらず、この計画はほとんど実現しなかった。ただポーランドでだけは1939年より1000箇所以上の強制収容所を設置し、ナチ親衛隊( SS )管轄の下に実行されていった。
2.アウシュヴィッツ強制収容所設立
 アウシュヴィッツ強制収容所はポーランドに侵入したナチス・ドイツが、初めはポーランド人政治犯を収容するために、1940年設立された。本来の政治犯の他に一部のクリスチャン( 主に、ものみの塔信者 )、常習犯罪者、同性愛者、浮浪者( ジプシーなど )そしてナチが最も蔑視したユダヤ人が続々と送り込まれた。
 地元ポーランドはもとより、ドイツ、オランダ、ベルギー、オーストリア、ハンガリー、チェコ・スロバキア、ブルガリア、ギリシア、旧ユーゴスラビアそれにイタリア、フランス、北はノルウエー、リトアニアから旧ソ連と、当時ナチが跳梁したヨーロッパ各地から、約28の民族の人達が収容された。 翌1941年、独ソ開戦後はソ連軍の捕虜12,000人も収容され、その過半数は数ヶ月以内に毒殺、銃殺、衰弱死したという。
 20,000人程度の収容能力では増大する囚人に対処しきれなくなり、1941年には約3km離れたブジェジンカ村に第二収容所としてビルケナウ( ドイツ語で新しい白樺の意 )収容所が建設された。更に1942年にはモノヴィツェ村に、付近の工場、炭坑に囚人
の労働力を供給する目的で、傘下に40箇所ものミニ収容所を擁する第三収容所が設立された。

3.収容所正門と遺品の
 博物館では館内の混雑を避けるためインフォメーションセンターからの入場を制限している。数人が「死の壁」に献花する花束を買いに売店へ走る。コースの最初に、鎖に繋がれた右手を大きくデフォルメした彫刻に出くわし、これから見学する陰惨さを予感する。
アウシュヴィッツ強制収容所正門にはドイツ語で ARBEIT MACHT FREI ( 働けば自由になる )と掲げられているが、 B の字が上下逆になっている。強制労働に駆り出された囚人達のせめてものレジスタンスだったろうといわれている。
 収容所に連行された人達は先ず持ち物一切を没収される。展示室にはそれらの衣服、靴、鞄、眼鏡、櫛、ブラシなどが堆く積み上げられている。鞄やトランクには国籍、住所、氏名、子供は生年月日、孤児にはその旨がペンキで書き込んである。
 移住だと騙されて、ユダヤ人が自ら買った東方都市行きの切符が一枚・・・ことの真相を知った時はさぞ無念だったろうと思う。
 処刑前後に刈り取った頭髪、それで織った布地、義手義足の山、1kgで400人をガス殺出来るチクロンB( 青酸ガスの素 )の空き缶がごろごろ。戦局逆転でソ連軍が迫った頃、ナチが焼却し切れなかったものである。死体の焼却灰は肥料にした。遺灰の一部は瓶に詰めて展示台に安置されている。

4.人間の「選別」
 人々は到着すると隊列を組んで医師の前を行進させられる。労働の可否を判別する為である。老人、身体障害者、病人、妊婦、乳飲み子を抱えた母親、ホモ、身長120cm未満の子供は非労働力として「生存の価値無し」と選別され、こうして約3/4の人達がガス室送りとなった。
労働能力有りと判定された人は正面、横、斜めの顔写真を撮られた後、囚人番号を腕に刺青される。しかしナチ・ドイツはもともと「労働力として収奪し尽くした後、抹殺する」という特定民族絶滅政策を執っている。( ガス室へ)行くも地獄、( 労働班に)残るも地獄である。

5.カポの鞭と高圧鉄柵
 労働班は夏冬通して1着きりの囚人服、1500cal / 日 程度の粗悪な食事で、一日中ほとんど休息なしに労働に酷使された。彼等を一層悲惨にしたのは、ドイツ本国の刑務所から送り込まれたマゾ的凶悪犯のカポである。カポとはイタリア語で親方の意味で、囚人頭として現場監督に当たった。
 労働の督励、懲罰に振るったゴムホースの鞭は乗馬用の鞭とは比較にならぬほど強烈で、時にはその場で絶命する者もいたという。殆どの者は2~3ヶ月で骸骨同様に痩せ衰え、やがてガス室送りとなっていった。
 耐えかねて逃亡を図る者には高圧電流( 三相交流380v とガイドは言う)を印加した二重の有刺鉄線柵が待っている。係員向けに「高圧危険」の立て札が立っているが、囚人には無地の裏側しか見えない。遂には自殺目的で感電死する者が続出し、その都度、所内停電が頻発したため、監視塔よりの射殺が強化された。
 それでも旧ポーランド軍の兵舎を流用したアウシュヴィッツ( 第1)はまだ良い方である。後で行くビルケナウの馬小屋式バラック棟に比べれば。

6.忌まわしい生体実験
 ナチの許し難いのは劣視民族絶滅の手段を探るため、男女囚人を使っての不妊・断種の生体実験である。若くて体格の良い男女約30人を実験材料に、聞くもおぞましい施術を週に2~3回行ったという。  また非労働力と見なされた子供でも双生児は別に温存されて、比較生体実験に供された。
 実験中または直後に死亡する者も多く、たとえ生き残っても秘密保持のため結局はガス殺されていった。

7.銃殺刑場「死の壁」と拷問室
 奥の第11棟には臨時裁判所( 室 )があり、2~3時間の間に百数十件の死刑がほとんど即決で下されていった。隣の中庭「死の壁」の前で裸で銃殺されたという。この日も沢山の献花が供えられていた。
 建物の地下は刑務所というよりは、むしろ懲罰のための拷問室である。餓死室では長崎で布教したこともあるマクシミリアン・コルベ神父もここで落命した。
隣の窒息室では僅かな明かり取り窓も積雪で閉ざされると、扉の監視用小穴しか空気が流通しない。直径1cm程の穴を拡げようと内側から爪で掻きむしった痕がある。見る者の胸も掻きむしられる思いがする。最後は長時間90cmに背を屈める「立ち牢」である。厨房前の広場には見せしめの為の公開集団絞首台が復元されている。

8.ガス室にゆらめく鬼火
 ガス室と焼却炉は有刺鉄線柵の外にあった。焼却炉の隣の、もと死体安置所であった広い部屋はシャワー室に見せかけたガス室に改造された。収容所より解放する前の衛生措置と偽って、男女とも頭髪を刈り、消毒、シャワー室、実はガス室に誘導して、一度に2000人を約30分でガス殺した。チクロンB.5kgから発する青酸ガスで事足りたという。
 薄暗いガス室に揺らめく慰霊の献灯がむしろ鬼火のようにさえ見える。見学の一行も段々言葉少なに、陰鬱な気持ちを抱きながら次のビルケナウ収容所を訪れる。

9.「死の門」から馬小屋へ
 オシフィエンチムからの鉄道引き込み線を飲み込むように「死の門」と中央衛兵所の建物が建っている。当時「一旦入ったら、出口は焼却炉の煙突しか無い」と恐れられた「死の門」である。
 衛兵所3階の監視塔から175ha( 約53万坪)にも及ぶ広大な収容所の全景をバンして眺める。貨車で運び込んだ収容者を「選別」した積み降し場の左側、煉瓦造りの建物群が女囚棟である。右側は52頭用馬小屋の設計図で建てた木造バラック群で男性用である。
 枕省略のため頭部に若干勾配を付けた木製3段ベッドがぎっしり。1段に8人を詰め込んで1棟に約1000人、全所で男女併せて10万人、最大16万人を収容したこともあるという。ただ監獄法規則とかで、全棟中央に暖房用横引き煙突が設置されているのが、堅苦しいドイツらしい。
 手前の第1棟は共同便所棟である。中央通路の両側に、2列の便穴を並べた細長い便器が据えられている。背中合わせに腰掛けて用を足す。勿論前後左右にセパレーターは無い。夜はそれぞれの棟内の便桶を使うが、それも使えない時は唯一支給された食器皿に排便したという。
 ビルケナウはもともと湿地帯のうえ、ろくに基礎工事も施さぬまま急造したバラック団地で、水の便も悪く、衛生的にはいろいろ問題を抱えていた。さらに鼠の大発生と伝染病の蔓延で、管理には可成り手を焼いたらしい。

10.殺人工場へ変貌
 引っ込み線の奥には4棟のガス室・焼却炉跡と国際慰霊碑がある。時間の都合で其処までは行けなかったが、150万人もの大量ガス殺は主にこちらで行われた。その2/3はユダヤ人だったという。
 ガス殺が増えるに伴い4基の焼却炉は24時間稼働しても追いつかず、ついには屋外の大きな壕で焼却したとのことである。こうしてこの収容所はナチスによる劣視民族絶滅の殺人工場へと急速に変貌していった。

11.解放、証言、オシフィエンチム博物館
 ドイツの敗色が濃くなるに従い、収容所内外の秘密抵抗組織の連携が強化され、所内ナチの残虐犯行、兵員・装備、士気の低下などの情報が外部にリークされていった。
 1945年1月、ソ連軍によって約7000人が解放されたものの、その多くは肉体的、精神的に極限状態にあった。また約200人の双生児が医学実験材料として、なおストックされていたという。
 これら生き残った人達の証言と破壊を免れた施設の調査でナチスの暴虐は明らかとなり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館として後世に語り継がれることになった。
 ヒロシマ、ナガサキの原爆とともに、「アウシュヴィッツ」はまさに人類の負の遺産である。
最後に、アウシュヴィッツ収容所元所長ルドルフ・ヘスが戦後1947年4月16日、収容所内の絞首台で処刑されたことを付記しておきます。

 本稿は自己の見聞に、国立オシフィエンチム博物館案内書、グリンピース出版会「心に刻むアウシュヴィッツ」、地球の歩き方「ポーランド」などを併せ参照して記述しました。
 なお福島県白河市の「白坂駅」近くの丘に江戸中期の民家を移築した「アウシュヴィッツ平和博物館」があり、アウシュヴィッツ強制収容所の一部の遺品、写真が展示してあります。同館で頒布の前記「心に刻むアウシュヴィッツ」には154件の関連図書名が掲載されております。
 右は白河の「アウシュヴィッツ平和博物館」

左はビルケナウの「死の門」・中央衛兵所の建物全景


下はビルケナウ収容所の航空写真( 絵はがきより)
手前が「死の門」・中央衛兵所、引き込み線の左側が現存している女囚棟、右が男囚棟、奥がガス室・焼却炉跡

チュニジア紀行(2004年3月)

1.遺跡の街ローマから チュニスへ
 3月6日、始発の地下鉄・バスで小牧空港へ駆けつける。国際線7時25分発NH338便で成田空港へ。ウイング違いのアリタリア航空へはシャトル・バスで。チェックイン、出国審査の後、11:30発AZ785便に乗り込む。乗客は疎らで3.3.3の窓側3席を占領する。雪景色のシベリアをひとっ飛びにローマ・フィウミチーノ空港に着陸する。時差-8時間のため同日の16:25である。
 夫婦2組と女2.2.1,男1.1.1に岡本TDの我々一行13名は60人は優に乗れそうな大型バスでホテルへ向かう。城壁、城門、水道橋、カラカラ浴場、サンジョバンニ・イン・ラテラーノ教会と、矢張りローマは遺跡の街である。2連・3連の路面電車と並行して、バス・タクシー専用レーンを走る。車の渋滞は無いが赤信号がやたらに多い。
 着いたエクスプレス・バイ・ホリデイインは今までのホリデイインとは様変わりのビジネスホテルである。ロビー、ダイニングは無く、簡単なカフェバーのみのB&Bである。部屋は日本のものよりも広かったが、バスタブは無く、シャワーのみである。
 7日は朝食もそこそこに10:20発AZ864便で地中海をひとまたぎ、11:35チュニス・カルタゴ空港に到着する。機内で配られたチュニジアへのEDカードは英語の表示が無く、アラビア語とフランス語だけなので記入に一苦労する。空港を出ると耳の長い4匹の「砂漠の狐」の像が愛くるしく迎えてくれる。昼食は海鮮材料を壺ごとオーブンで暖めた「クスクス」である。ナンのようなメリケン粉の蓋をナイフで切り裂いて皿に盛りつける。

2.タイルなら バルドー博物館
 チュニスではまずモザイクタイルでは世界一を誇るバルドー博物館を訪ねる。オスマン統治者の邸宅を利用したものだけに豪壮である。カルタゴの遺跡から出土した尖った墓碑、紀元2世紀のユダヤ教典、ギリシャ・ローマ時代の等身大の石像、その他工芸品。しかし此処の目玉はなんと言っても「ディアナの狩猟」など人間・動物を描いたモザイクタイルである。細かい色石を巧みに組み合わせて色の階調を精細に表現した秀作が揃っている。血まみれの動物に剣を振るう剣闘士のモザイクなどに目を奪われる。

3.白と青の町 シディ・ブ・サイ
 日曜日でお休みのメディナ( 旧市内 )のスーク( 市場 )は明日に振り替えて、シディ・ブ・サイドを見学する。町の名は「ブ・サイド聖人」という意味である。ほかにもシディ( 聖人の意 )の付く名称はよく見かけた。町を通り抜けた高台から見る、真っ青な地中海に白壁の家々とその青い扉とのコントラストが素晴らしい。
 引き返して町のランドマークでもある「カフェ・デ・ナット」へ入る。世界で最も古いカフェといわれるアラブ風の喫茶店である。バルコニーの椅子席で海を眺め、町を眺めながら、松の実入りのミントティー( @1.5D 、1ディナールは約90円 )をスローに喫する。時の流れがしばし止まったように。店の奥では花筵の席に上がり込んでティーを飲み、シーシャ( 水タバコ )をくゆらせながら悠々と時を過ごす土地の男達。女性客の姿が見えないのはイスラムの男尊女卑の所為か。午後6時になると土産物屋はばたばたと店を閉める。私達もシェラトン・チュニス・ホテルへ引き揚げる。

4.チュニスのメディナ( 旧市内 )、スーク( 市場 )
 翌8日はシャンゼリゼ風のカフェ・テラスが並ぶハビブ・ブルギバ通り ? では4両編成もの路面電車が走っている。ビクトワール広場のバブ・バール( フランス門 )からメディナのスーク( 市場 )へ入る。種々雑多な店が軒を連ねる。派手な形の鳥籠や、結婚式に使う花籠の店が華やかである。グランドモスクを取り囲むように香水の店が多い。モスク周辺では香水のような「高貴」なものしか扱えない決まりが有るらしい。その先の一角は昔、奴隷取引専門のスークだったとか。
 スークの中のカフェでミントティーを一服、@ 500ミリーム( 0.5D )である。シディ・ブ・サイドでは3倍の1.5D だった。シディ・ユセフ・モスクのバルコニー付きミナレットは後の建築家の手本となった有名なものである。スークを出た西側はカスバ広場だが、行政機関が多いため殆ど撮影禁止である。首相官邸周辺は自動小銃を持った兵士が警護している。

5.陶器の町 ナブール
 次いでチュニスを後に陶器の町ナブールへ。それを象徴するように巨大な陶器の花瓶がロータリーに据えられている。工房では轆轤と絵付けの工程を見学する。細密な模様を描き込んだ見事な大皿( 40D )には裏に絵付け師のサインが書き込まれている。しかし全般に焼きが甘く割れ易そうである。
 この町の青空スークでは当然陶器の店が多いが、真鍮細工、水タバコ器具のほか、特に目立つのがTatoo( 刺青 )の看板を掲げた装身具店である。刺青も装身具の一種と見なしているのだろうか。図柄見本の中には漢字もあった。

6.チュニジアのトップ・リゾート ハマメット
 綺麗な海岸沿いに暫く走ると、チュニジアのトップ・リゾート、ハマメットである。カスバ( 城塞 )を正面に見据えながら海鮮の昼食のあと、城の中にはいる。小規模ながら賑やかなスークがあり、その奥は一転して静かな住居地区である。城壁の外の海岸には異様な人魚像と民芸店が一店、客待ちの観光馬車も。ゆったりと時が流れて、地中海が眩しいほどに青い。

7.此処もリゾート スース
 海沿いに走ってスースの街ではまず城壁に囲まれたメディナへ行く。右手、教会のミナレットと思えば城塞の見張り塔、左手、城と思えばモスク、但し外敵に対しては城塞になる。ともあれ教会と城塞は表裏一体のようである。スークを一巡したあと、ガイドが適正価格だと奨めるショッピング・センターへ入る。この店頭にもTatooの看板があり、近くで背中に「愛」と彫った女性を見かけた。
 向こうのプロムナードのある岸壁にはロケにでも使ったのか海賊船が二隻繋留されている。入場無料ではあったが、キャビンにはホームレスの毛布らしきものが二三枚散乱していた。
スースのホテル、ディアール・アンダルースは海に面して広いプールを備えたリゾート・ホテルである。ロビーにゴルフ・パックの広告が貼ってあった。3ゴルフ場205D、4ゴルフ場5ラウンド359D、ゴルフ三昧である。街の割には立派なカジノも目に付いた。

8.「血と砂」 エル・ジェムのコロセウム
 明くる9日は広大なオリーブ畑を左右に見ながら南下してエル・ジェムのコロセウムを訪れる。紀元2世紀頃、オリーブ・オイルの交易で栄えたローマ時代に建設された円形闘技場である。紀元80年に完成したローマのコロッセオより規模は小さいが保存状態が良く、今でも毎年夏には音楽フェスティバルが行われる。イタリア・ヴェローナのアレーナ同様、現役のコロセウムである。1979年、世界遺産に登録されている。
 観客席の1階は国会議員、2階は軍人、3階以上は一般民衆及び奴隷だったという。支配者のロイヤル・ボックスは場内がよく見渡せる中央入口の上に設けられている。当時は猛獣同士、奴隷と猛獣との対戦の他、剣闘士同士のトーナメントも行われた。年間30人抜きを3回勝ち抜いた剣闘士は奴隷の身分から解放されたという。
 血生臭い決闘で汚された闘技場を整備するため撒いた砂をラテン語でアリーナと呼んだ、現在の円形演技場「アリーナ」の語源である。スペインの闘牛士が主人公の「血と砂」という映画を思い出した。続いて地下の剣闘士の控え室、猛獣収容室も見学する。ベルベル人の女王カヒナが701年、イスラム・アラブ軍と最後の決戦で果てた処と言い伝えられている。
 私達もベルベル人が逐われた跡を訪ねてマトマタへ向かう。しばらくはオリーブ畑を眺めながらバスは走る。時々首付き羊肉を店先に吊した店が目に付く。中にはその場で食べる客もいるのか、バーベキュー用コンロを備えた店もある。若い羊肉は、それを証する為わざわざ首付きで吊すという。
 ハニカム状煉瓦で新増築ながら中途で放置してある家をよく見かける。金があるときは煉瓦を買ってきて築造するが、無いときはそのままいつまでも放っておくという。道理で素人臭い工事である。

9.ベルベル人の穴蔵住居 マトマタ
 再び海沿いに南下を続ける。以前はリゾートだったという海岸も所々通り過ぎる。ガベスを過ぎるあたりから山地へ入って行く。やがてマトマタのベルベル人の穴蔵住居前に到着する。山肌から10m程掘り込んだ竪穴から、放射状に横穴を掘り進んだ居室が幾つかある。夏は涼しく、冬は暖かくてなかなか快適らしい。居室の上階は倉庫だという。
 女主人のファティマさん( 83歳 )がよく整頓された室内を案内してくれる。日本人観光客と見ると唯一覚えた日本語「フジヤマ」を連発して盛んに愛嬌を振りまく。帰り際にチップ`@ 1D、今では観光用住居のようで、シーズンには可成りの収入になろう。
 少し離れたところに「スターウォーズ」のロケ( バーのシーン )にも使われた穴蔵式オテル・シディ・ドリスがある。天井に奇異な模様を描いた穴蔵「バー」の隣の同じく穴蔵の食堂で昼食を執る。チュニジア風春巻きは意外に美味しかった。2階はドミトリー式の寝室でベッドが7台並んでいた。
 此処から乗り換えて行くべき4WD( 四輪駆動車 )がなかなか来ない。土産物屋の冷やかしにも飽きた頃、漸く2台が到着した。あと1台は途中で故障したという。3台に @ 4人が分乗して行く予定だったが、急遽2台に@ 6人が詰め込まれることになった。これから砂漠への道中が思いやられる。
 砂の広野に棗椰子が数本の小さなオアシスに、バー「サルタン」と看板の店がポツンと建っている。僅かの飲み物、スナック菓子とは対照的に「砂漠のバラ」と呼ばれる石の結晶は山盛り並べてある。とにかく貴重なトイレ・スポットではある。

10.駱駝ツァーとテント・ロッジ クサルギレン
 砂埃を巻き上げて走ることしばし、緑の森が見えてきた。クサルギレンである。棗椰子に囲まれたパンシー・ホテルにはプールもあり、早く到着していたら泳げただろうに。
 取り急ぎ荷物を降ろし、砂漠の駱駝ツァー( 約20分 )に出掛ける。先ず一こぶ駱駝への乗り方を見覚える。3匹縦隊に一人の御者が付く。先頭の駱駝は御者が手綱を握っているから問題ないが、後の駱駝はご用心である。駱駝の機嫌が悪かったのか、乗り方が拙かったのか、男性2人、女性1人が振り落とされた。砂地とはいえ約2mの高さから不意に落とされれば怪我もする。70余歳 の女性は起き上がれない程の重傷である。後で判ったことだが股関節脱臼らしく、数十km先のドゥーズの医院まで4WDで担ぎ込んだ。呉々も御者が手綱を取る先頭の駱駝に乗ることか肝要である。
 石油を探索していたら温泉が出たというこのオアシスには砂漠のすぐ傍に温泉池があり、一人の男性が泳いでいた。
 宿泊はこのツァーの呼び物テント・ロッジである。1張りに3ベッド、水洗トイレ、シャワー、エアコン完備の二重テントである。内側のテントは念入りに目張りがしてある。凄まじい砂嵐に備えてのことであろう。こういうテントが数十張り砂地の上に設置されている。

11.砂漠のオアシス ドゥーズから塩湖「ショット・エル・ジェリド」
 翌朝10日、いつの間に撮ったのか駱駝に乗っている写真を売りに来た、1枚買う。今日は4WD(トヨタのランドクルーザー) 3台に分乗して出発である。駱駝の放牧を眺めながら昨日の小オアシスに立ち寄る。丁度店員がナンを焼いていたので1枚( 0.5D )買って、皆に小分けしながら食べる。噛むほどに味わい深い。傍らのテントには砂地に直に毛布が敷いてある、この店員の寝所らしい。
 太い送油パイプが路傍に数本づつ縦列に放置してある。砂嵐で道路が埋まるのに備えての目印とのことである。
 遊牧民族の交差点らしく、ドゥーズの街に近ずくにつれ、羊や駱駝の放牧が目に付く。街の青空スークでは部族毎に異なったデザインのペンダントを売っている。ミント・ティー1袋を買う( 1D )、後日チュニスのスーパーでは3袋で1Dであった。昼食を執ったホテルのロビーに見事な能衣装が飾ってあった。トイレのタイルも精巧で地方都市にしては・・・と感心する。
 この街を出るとケビリ経由いよいよ塩湖「ショット・エル・ジェリド」( 塩の層に覆われた湖の意 )の横断である。一直線に続く道路脇の水際に塩が白く析出している。そのうち塩田、塩の小山、製塩工場が見えてくる。遙か彼方にオアシスらしい森影が現れる、「あれは蜃気楼 ! オアシスと信じて乾いた塩湖を歩き続け、遂に水、食料が尽きて行き倒れた人もいた。」とガイドが解説する。途中に唯一カ所、粗末なトイレを併設した土産物屋がある。トイレ休憩には不可欠の店である。

12.山のオアシス3渓谷 シェビカ、タメルザ、ミデ
 塩湖の北岸トズールを通過してしばらく走ると「山のオアシス」シェビカ渓谷である。一木一草も無い山間の谷間に僅かに水が湧き、棗椰子が茂る。正に山のオアシスである。1969年の大洪水でベルベル人が放棄した廃村があり、「インディー・ジョーンズ(レイダース) 」もロケしたという秘境ムードが漂っている。大昔は海だったのか、山肌をよく見るとアンモナイトらしい貝の化石が露出している。
 次はタメルザの滝を見に行く。ここも山のオアシスで、グラン・カスカド( 大滝 )というささやかな滝が流れ落ちている。土産物屋が数軒あるだけで、周囲は勿論禿げ山である。
 続いて訪れたミデス渓谷はアルジェリアまで2kmという国境の谷である。バルコニー・オアシスと呼ぶ地点は足元から地球の割れ目のような狭くて深い谷が延びている。殆ど水平に延々と続く鮮明な地層はミデス峡谷の年輪のようでさえある。1997年アカデミー賞の映画「イングリッシュ・ペイシェント( イギリス人の患者 )」もこの峡谷でロケしたという。
 今夜の宿は荒れ地にぽっかりと現れたようなタメルザ・パレス・ホテルである。3週間も降り続いたという1969年の大洪水でベルベル人が捨てた廃村が大きな涸れ川越しに眺められる。こちら側はプールもある豪華な四つ星のリゾート・ホテル、川向こうは古代の廃墟のような集落のパノラマ。一瞬異次元の時空を往復しているような錯覚に捕らわれる。

13.宇宙ロケに最適 オング・ジャメル砂丘と塩湖「ショット・エル・ガルサ」
 11日はサハラ砂漠の日の出を見ようと3:30 モーニング・コール、4:45 出発で一路砂漠の真っ只中へ。6:00 目的地のオング・ジャメルという小高い砂丘へ到着、次の発進でタイヤがめり込まないように4WDを、下り勾配に駐車する。早速土産物売りの男が数人、いつの間にか、忽然と地から湧いて来たかのように近づいて来る。1Dの民芸ペンダントには女性客の人気が集まり、結構売れたようである。6:20漸く朝日が昇り始める。地平線は薄雲で少し霞んだ太陽である。
砂丘の遙か彼方にぽつんと異様な集落が見える。近づくと、なんとスターウォーズのロケに使った異星人基地のオープン・セットである。ロケットのミニチュアも数本立っている。10数年経った今ではさすがに損傷も進み、内側の張りぼても無残である。動植物の一切無い空間は地球外の宇宙のシーンには最適であろう。
 続いて真っ白に乾いた塩湖「ショット・エル・ガルサ」にある奇岩ラクダ岩を見に行く。此処も珍奇な風景としてロケによく使われるという。この異空間からスベイトラに向かう途中、砂漠の彼方に大型飛行機とコントロール・タワーが見える。これも蜃気楼かと一瞬目を疑うが、トズール・ネフタ国際空港であった。周辺の観光リゾートを楽しむため、主にフランスからほぼ毎日直行便があるという。ガソリン・スタンドで給油中、二部制授業に登校中の女学生にフランス語で声を掛けたら、通じたらしく笑顔が返ってきた。

14.ビザンチン遺跡 スベイトラ
 サハラ砂漠ともお別れで、4WDからバスに乗り換える。スベイトラの遺跡見学は先ずローマ式の半円形劇場から始まる。この劇場でも歌舞伎の黒子のように、台詞の助っ人プロンプターの控え室がある。客席の後方を真っ直ぐ、大通りを進むとアントニウス・ビヌスの門を潜り、フォルム( 公共広場 )へ出る。正面にコリント柱のミネルバ、ジュピター、ジュノの3神殿が立ち並ぶ。資産家が財力を誇示し、人望を集めるために建てたのだとガイドは言う。
5 0ヘクタールにも及ぶこの遺跡は7世紀半ばにチュニジアに建設されたビザンチン最後のものである。洗礼槽、避暑目的の地下室、その見事な床タイルなどローマ式都市のたたずまいを知る上で貴重な遺跡である。まだまだ未発掘の面積も大きいという。

15.ケロアンの宿は城塞 「ラ・カスバ」
 ケロアンへの道中では砂漠から緑野へと、車窓が次第に移り変わって行く。ケロアンのカーペット工房では次々に床に拡げて見せてくれるが買った人は居なかったようである。中近東の旅などで既に購入済みなのであろうか。デザイン、配色、見る角度で色調が変わるなど、なかなか豪華なものではあった。
 11月7日通りのスークではカーペットのほか、ベリーダンスでも着られそうな派手なドレスを路傍に並べ立てている。また土地名物の鄙びた菓子「マックロード」( 棗椰子の実を蜂蜜のしみ込んだ生地でコーティングした菓子 )の店が多い。店頭での実演販売では間合いの良いタイミングの口上でつい2つ3つ買ってしまう。此処と思えばまたあちらと場所をかえながらの、商売熱心な香料屋台もある。
 今夜の宿泊は城塞の中のズバリ、「ラ・カスバ」ホテルである。城壁の外には大砲まで据えられていたが、ホテル内部は一般の観光ホテルと変わらない。

16.大貯水池と大モスク ケロアン
 翌12日の見学は街の北、アグラブ朝の貯水池から始まる。西方36kmから導水路によって運ばれ、浄水池を経て大型貯水池に蓄えられる。9世紀当時の最高技術で建設された14の貯水池も、現在なお4池がケロアン市民に上水を供給している。
 再び城内に戻りグランド・モスクを見学する。重厚な煉瓦の四囲は要塞を思わせる。大理石を敷き詰めた中庭の中央に向かってゆるやかに勾配し集水口、その下に貯水槽があり雨水を貯めている。中庭を囲む回廊の華麗な壁タイル、豪壮なレバノン杉の扉など目を瞠るものがある。礼拝堂はムスリム( イスラム教徒 )以外は入れないが、入り口からメッカの方向を示すミフラーブの壁を見ることが出来る。
 中庭の反対側には高さ31.5mのミナレットがある。728年に築かれた最下段はイスラム最古のもので、キリル文字が読めない職人が築いたのであろう、文字が上下逆になっている。角石はビザンチン遺跡から持ち出されたものだという。640年建立、9世紀のアグラブ朝に再建されたこのモスクは北アフリカ最古最大のものである。
 次の目的地ドゥッガへの道中では山頂まで届く広大なオリーブ畑が続く。昼食はホテルのレストランで猪肉のステーキであった、意外に臭みは無かった。

17.チュニジア史の縮図 ドゥッガ遺跡
 アフリカを代表するローマ遺跡として1997年世界遺産に登録されたドゥッガ遺跡は規模、保存状態とも最も優れたものの一つと言われている。ヌミディア、カルタゴ、ローマ、ビザンチンとチュニジア征服の歴史を示す複合遺跡でもある。
 先ず出会うのが168年に建てられたローマ式半円形劇場で、ほぼ原型に近く保存されている。背後の山では放牧の牛や羊がのんびりと草を食んでいる。轍の跡が凹んだ道路、凱旋門、商店、そして都市の中心フォルムからキャピトルへ。其処にはユピテル、ユノー、ミネルヴァの三神を祀るコリント柱の神殿が荘厳に聳える。しかし中央のユピテル像は今は無い。
 ローマ人の住居跡を通ってメインストリートを下り、トリフォリウム(クローバー)の家へ行く。これは公営売春宿で、家の名前は例の小部屋「クローバーの間」から来ている。前金を支払って階段を下りると中庭に面して幾つかの小部屋がある。一方通行で他の客と顔を合わせることもなく、出口はその先にある。12穴の共同便所はセパレーターも無く、青空の下おおらかな情景である。アーチの石組みや浴場の床タイルもよく保存されている。
 遺跡の南端に近くベルベル人の墓といわれる石塔が建っている。ただし1842年崩壊のため、フランス政府が再建したものだという。

18.ヌミディアの地下住居 ブラ・レジア遺跡
 引き続きブラ・レジア遺跡へ移動する。地上には2世紀に建てられたというユリア・メムニアの大浴場が目立つくらいで、此処の見所は北部の地下住居群である。夏の暑熱を避けるため地下に上下水道完備、中庭付きの住居を築き、床には見事なモザイク画が描かれている。中でもアンフィトリテの家のトリトンとアフロディテのモザイク画はブラ・レジアで最高の傑作といわれ、2世紀頃の作品とは信じられないくらい保存状態がよい。サウナ風呂の焚き口、チューブボルトを使ったアーチ工法の跡などを見ることが出来る。
 ブラ・レジアの盛衰はヌミディア王国の興亡でもある。ベルベル系民族のヌミディア王国はカルタゴ時代はその勢力下に、第二次ポエニ戦争後はローマの同盟国に、第三次ポエニ戦争後はローマに反抗して滅ぼされ、その属州となって栄えた時期もあったが、ビザンチン時代以降は衰退し、今では無人の都市遺跡を残すのみである。

19.現地ガイド・ロトビー君の談話
 この辺の鉄道は総て単線で、殆ど貨物輸送用だという。チュニスへの道すがら、現地ガイド・ロトビー君の談話にしばし耳を傾ける。
 「驚異の戦後復興を成し遂げた日本の活力を絶賛する教師に感化されて、大学では日本語科を卒業した。再度来日して東京、名古屋、京都、広島を歴訪した。二度目は日本民放の招きで超長身のチュニジア人を案内して来た。日本人観光客がもっと沢山チュニジアに来てほしい、まだ独身中。
 なおチュニジアでは独身の特権として、金の無いときはカフェの茶代は免除される。しかし妻帯後はいかに失業中でも支払わなければならない。」と。
 ようやくチュニスに帰り着く。今日はなかなかの強行軍であった。

20.ケリビアから カルタゴ遺跡ケルクアンへ
 13日はボン岬の遺跡歴訪である。先ずはケリビアのビザンチン要塞へ。5世紀のカルタゴ時代を経て6世紀からのビザンチン時代に城塞が築かれた。城壁は威厳を保っているが城内は殆ど見るべきものはない。ケリビア港に向かって据えられた大砲が不気味である。強風にあおられながら城壁の上から見渡したパノラマは壮観であった。
 次はいよいよ世界遺産ケルクアンの古代カルタゴ遺跡である。先ず町の北西の岩山から発掘されたネグロポリス( 墓場 )の副葬品、異形の墓石などを陳列した博物館を見学する。
 ケルクアンの町は紀元前6世紀頃カルタゴ人によって築かれ、紀元前2世紀、第一次ポエニ戦争でローマ軍によって破壊された。その後町を再建しなかったため、建物の底部が遺され、整然とした都市計画と各戸の構造を知ることが出来る。住居は真っ直ぐ中庭に進み、それを囲んで生活の場が配置されている。赤いセメントで造られた浴室、竈、貯水槽、排水溝、二階への石段が2~3段、シンプルな床モザイクも。ささやかながら皆同じような構成である。
 ローマ人が公共大浴場を建設したのに対し、カルタゴ人は各戸に小浴室を設備したのは、染色過程で発生する紫貝の腐臭を洗い流すためという説もある。因みにフェニキアとはギリシァ語で「紫」の意である。
 海に近くアポトロバイオンの円柱群跡にはカルタゴの守護神タニトを表した床モザイクがあり、神聖な場所とされている。集落の中心部にフォーラム( 中央広場 )が有るのはローマ遺跡と同じである。貴重なフェニキア遺跡として1985年世界遺産に登録されている。

21.石切場エル・ハワリアと 「カルフール」ショッピング
 昼食はエル・ハワリアのレストラン・レ・グロット( 洞窟の意 )でトマト煮の海鮮料理「ウジャ」を食した。この石切場は石質が良いとして6世紀ローマ時代のカルタゴ都市建設には大量の石が切り出された。より良い石質を求めて幾つもの洞窟が掘り進まれた、中でもガル・エル・ケビルは最大の切り出し穴といわれている。
 岬の丘に風力発電のプロペラが数十基林立しているのを眺めながら、チュニスへの帰路に就く。チュニス郊外のフランス系スーパー「カルフール」でクッキー、ワイン、オリーブオイル、ミントティーを買う。おおまかに言えば食品は日本の半値以下、家電など工業製品は倍以上の価格である。店内は一切撮影禁止、ワイン売り場は袋小路式で、唯一カ所の出入り口は係員が監視 ? している。小売業としてはカルフールは世界第2位の売上高という。

22.「平家琵琶」のようなマルーフ
 今夜はチュニスのメディナの「エッサラヤ・レストラン」で民族音楽マルーフを聞きながらの夕食である。スークの元富豪の邸宅を改装したもので、中庭に天井を取り付けてダイニングルームにしている。従って周囲に個室もあれば、二階にはバルコニーもある。
 入り口に近く薄暗いところに黒い僧衣を纏ったような男が琵琶に似た楽器を抱えて着座している。やがて満席に近づいた頃、弦を掻き鳴らしながらマルーフを吟じ始める。吟遊詩人もさぞやと思わせる纏綿たる情緒である。日本ならさしずめ「平家」を語る琵琶法師というところであろうか。物静かに、或いは高らかにディナーに興を添える。宴の余韻に浸りながら、昼間の喧噪とは打って変わった夜更けのメディナを後にホテル・シェラトン・チュニスへ引き揚げる。

23.ビュルサ伝説と 古代カルタゴ遺
 翌14日はチュニジア最後の行程である。TGMと呼ばれる郊外電車と、時に併走しながらカルタゴに到着する。カルタゴは現地ではフランス語式にカルタージュ(CARTHAGE)と呼ばれている。カルタゴの遺跡はTGMのカルタージュ・サランボ駅からカルタージュ・アミルカル駅まで6駅に亘って分布している。
 先ずビュルサの丘へ上る。伝説に依ればこの丘の名は、王位争いからフェニキアを逐われた王女エリッサが放浪の末、紀元前814年、此の地に辿り着き、牛の皮(ビュルサ)を細長く切り裂いて土地を囲い、丘を手に入れたことに由来するという。はじめはカルト・ハダシュト(フェニキア語で「新しい町」の意)と称していたが、後にローマ人がカルタゴと呼ぶようになった。
 眼前に威容を誇るのは十字軍遠征でこの地に没したフランス国王聖ルイ9世に捧げて建てられたというサン・ルイ教会である。横を通り抜け紀元前3世紀ポエニ時代のカルタゴ住居跡を見学する。中庭を囲んで「狭いながらも楽しい我が家 ? 」の跡が画然と並んでいる。
 カルタゴ博物館ではカルタゴの変遷の見取り図、墓碑、副葬品、人骨、剣で突き刺した穴のある鎧などの出土品が展示してある。チュニスのバルドー博物館には及ばないが、カルタゴ最古といわれるモザイクタイルを始め、狩猟の図を描いたモザイクの大壁画が床に展示してある。これを二階への階段から眺めるとその巨大さが実感できる。館外の敷地にはかつて建っていたであろう建物の円柱の底部が遺されている。
 丘を下りて古代カルタゴ軍港に行く途中、ポエニ人の墓地トフェがある。カルタゴの守護神タニト神を祀る聖域とされていたが、今は数十基の墓石が散乱しているだけである。中に何基か、神への生け贄に捧げられた一歳未満の嬰児の墓といわれる小さな墓碑があり、思わず合掌する。
 一見、中の島のある池のように見える古代カルタゴ軍港の畔を散策する。直径約300mの円形ながら、古代軍船220隻を繋留することが出来たという。隣接して横長の商業港が水路で繋がっている。
 東へ移動して、1988年に修復されたアントニヌスの大共同浴場を見学する。2世紀ローマのアントニヌス・ピウス帝が建設したもので、二階建て、冷温浴の大小100余の部屋を持つ一大温泉レジャーセンターであったという。
 この東隣はチュニジア大統領官邸のためカメラを向けることは一切禁止されている。今やカルタゴ一帯は高級住宅地として各国大使公邸や別荘などが建ち並び、遺跡はその間に点在している状態である。これら一連のカルタゴ遺跡は1979年世界遺産に加えられた。

24.神業 テルミニ駅~フォロ・ロマーノ間を30分で往復
 此処からチュニス・カルタゴ国際空港は近い。空港で昼食代わりにサンドウィッチを頬張って12:35 AZ863 アリタリア航空で飛び立った。離陸して間もなく、あのドーナッツ型の古代カルタゴ軍港を俯瞰することが出来た。
 機内食も無いまま13:55ローマのフィウミチーノ国際空港に着陸する。滑走路は殆ど海岸沿いで、こんなに海に近い空港とは知らなかった。
 成田行き20:45まで待ち合わせ時間があるので、ローマの街へ出ようということになった。空港駅からテルミニ駅行きの切符は空港線オンリーのため簡単に買うことが出来た。9.5Euro(約1300円)、ノンストップで約30分。しかしテルミニ駅で帰路の切符を買うのには難儀した。どの出札窓口も長蛇の列、自販機は英・独・仏・伊・西・蘭語を選択して次々と数画面を操作しなければならぬ。やむを得ず、どこかの添乗員らしき日本人男性をつかまえて手伝って貰った。
 メトロでフォロ・ロマーノへ行くつもりだったが、段々時間が無くなってタクシーで駆けつけた。チップ込み10Euro。日曜日のため人出は多かったが交通渋滞も無く約10分で到着する。しかし残念ながら冬季は15:00で閉場のため、フォロ・ロマーノの中には入れなかった。大急ぎで道路脇から全景をビデオとデジカメで撮影してタクシー乗り場へ。運転手に「テルミニ駅へ」と言うと「メトロか、トレインか ? 」と聞いてくる。「空港へ行くのだからトレインのテルミニ駅だ」と答える。
 来るとき覚えておいたが空港線は26番線である。しかしいくら見渡しても1~24番線までしか見当たらない。警備員らしき職員に尋ねたら右側ずーっと( 約200m ? )前方だという。殆ど小走りに17:22発空港行きに飛び乗った。テルミニ駅~フォロ・ロマーノ間往復たったの30分、あとから思うと正に神業であった。

25.帰国 明暗
 ユーロ圏外への出国審査を念入りにチェックしているためか、数カ所の窓口がどれも大混雑である。搭乗ゲートまで約1時間半かかってしまった。アリタリア航空AZ7788便はJAL400便と共同運航のため日本人スチュアーデスも多く、イタリア人スチュアーデスも日本人顔負けの物腰で、早くも国内線ムードである。このジャンボ機では二階席であった。15日17:00成田着、入国手続きの後、19:30全日空NH339便で名古屋空港着20:40。無事流れ解散となった。
 駱駝ツァーで負傷した老婦人は、無理にでも皆と一緒に帰国したいと熱望したが、旅行保険の傷害治療は医師の指示通りが原則で、それを逸脱した行動は以後一切自己負担という。やむを得ず小康を待って俄介護人となった友人と共に2~3日遅れて帰国したようである。

26.カルタゴの興亡と チュニジア概史
 最後におさらいとしてカルタゴの興亡とチュニジアの歴史を概観しておこう。
 ビュルサ( 牛の皮 )の「伝説」はともかく、カルタゴの興亡は3000年の昔に遡る。地中海東岸地方(主としてレバノン)の民だったフェニキア人は造船、航海、通商に優れ、地中海交易の中継基地としてカルタゴに植民都市を建設した。紀元前6世紀には最盛期を迎えたという。
 これに対し地中海の覇権をめぐってギリシャ、ローマと対立し、三次( 前264~前146 )に亘るポエニ戦争( ローマ人はフェニキア人のことをポエニと呼んだ )の後、カルタゴは滅亡した。勇将ハンニバルがローマ軍を散々苦しめたのは第二次のときであつた。しかしカルタゴはローマ支配下にあっても、好立地から再び繁栄を取り戻し、ローマ、アレキサンドリアに続くローマ帝国第三の都市となった。
 降って2~4世紀、ローマ帝国の衰退と共に、ヴァンダル人( ゲルマン民族の一部族、439)、ビザンチン( 東ローマ帝国、534 )、イスラムを信奉するアラブ軍( 647 )が次々に侵攻する。先住ベルベル人の抵抗、アラブの内部抗争などを抱えながらも歴代のイスラム王朝はチュニジア全土を制圧してきた。
 これに対しスペインはレコンキスタの余勢を駆ってイスラム追放を狙う( 1525 )が、一方イスラム国家オスマン・トルコはこれに対抗( 1574 )、借金の形に付け入るフランスは遂にチュニジアを植民地化してしまった( 1878 )。
 
 しかし1956年遂に独立。その間も尚チュニジアはイスラム国家であり続けた。因みに3月11日スペインで起こった通勤電車爆破テロの首謀者の一人ファケットはチュニジア人である。

 本稿ではダイヤモンド社「地球の歩き方・チュニジア」を一部参照させて頂いたことを付記します。
(←シェビカ渓谷でTD岡本さんと林さん)





 

この26節の写真は上から、カルタゴ古図、ベルベル系ヌミディアのブラ・レジア遺跡、ドゥッガのローマ遺跡、ケリビアのビサンチン要塞、ケロアンのイスラム大モスク。