2010年6月15日火曜日

戦時下の婚礼(記:2001年8月16日)

 太平洋戦争勃発の翌年、昭和17年に結婚した兄の婚礼の情景を思い出している。60年近く前のこととて、記憶が一部覚束ない面もあるが思いつくままに記してみよう。
 同年6月、兄は隣町の川原町から嫁を迎えることとなった。我が家のしきたりで、結納の金品に添えて蛇の目傘と高下駄を嫁方に納めた。これは「婚礼当日がどんな雨風になっても嫁入りして下さい」との願望を表す品々だという。もっとも雨が降れば降ったで「降り込め」といって、縁起が良いとも言い習わしていたが。
 幸い当日は天気も良く、花嫁は我が家の100メートル位手前でタクシーを降り、仲人夫人に手を引かれてゆっくり歩む。近所の人々が物見高く人垣を築いて見守る中を、文金高島田に角隠し、裾模様の褄をとって、一歩一歩当家に近付く。
 迎える花婿側は紋付羽織袴に威儀を正し、玄関の両側には我が家の家紋「剣かたばみ」入りの高張り提灯を掲げて花嫁を待つ。当家に嫁入りと同時に、屋根上から蜜柑箱に用意した袋菓子を見物衆の頭上に撒く。娯楽の少ない当時としては、これはちょっとしたショーイベントである。
 花嫁は先ず仏間の仏壇に向かって拝礼し、この家の嫁に入ることを先祖に告げる。続いて座敷に上がり婚礼の儀となる。家は商家の造りで店の間・仏間・座敷と別れているが、間の襖・障子を取り外すとそれなりの広間となる。
 あとは型通りに、三々九度の盃、新客との固めの盃、仲人の口上があって、披露宴となり、余り上手でもない謡曲「高砂」が謡われる。当時は「人的資源確保」ということで結婚・出産は結構奨励されていたようである。戦時下とはいえ何升かの酒が特配になり、披露の宴も宵闇と共に盛り上がっていった。これから先は余りよく覚えていない。ただ、その日の内に新婚旅行に出掛けることはなかった。
 その兄も昭和20年6月、満30歳を目前にしてフィリピンで戦死してしまった。愛しい妻と只一人の愛娘を遺して。