2010年6月12日土曜日

オーストラリア紀行  豪大陸点描(2004年10月)

1.オーストラリア入国
 オーストラリア紀行と表題したものの、日本の20倍もある広い大陸を、僅か10日間のツァーではとても見聞しきれるものではない。敢えて「点描」と付け加えた次第である。
 ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、そしてアフリカへは今までに旅したことがある。しかし南半球のオーストラリア大陸へ足を踏み入れたのは今回が初めてである。本来オーストラル austral とは「南方の」を意味する。
 10月23日(土)私たち12名と南田真樹子TDの一行は小牧空港19時55分発ケアンズ・シドニー行きのオーストラリア航空AO7950便で名古屋から出発した。出発に先立ち名古屋空港税750円を含め、オーストラリアの出国税と国際線、国内線の到着、出発共の空港税合計13990円が徴収された。後で知ったことだが丁度搭乗手続きをしている17.56頃、新潟県中越地方に震度6強の激しい地震が起こっていた。
 約7時間半の夜行便でケアンズ空港に着陸する。時差+1時間で薄明の午前4時半である。観光ETAS(イータス)とパスポートに入国カードを添えて入国審査を受ける。観光ETASとは査証(ビザ)に代わる入国許可証で、3ヶ月以内の観光なら1年間何回でも使用可能の入国許可カードである。機内で配られた日本語の入国カードに併記されたアンケートは詳細かつ厳格である。動植物、食品は原則持ち込み禁止、特に第6項「すべての食物は・・・」は「はい」を記入し、キャンディ、クッキー等も一応申告しておくようにとTDから注意がある。申告を偽り怠った場合の罰則は厳しいという。
 太古(約1億5000万年前のジュラ紀)の海陸分布でもオーストラリアは他のどの大陸にも接せず、大陸移動を続けて現在の位置形状になつたとJ.T.ウィルソン(1962)は推定している。従ってほぼ純粋に繁殖してきた固有種の動植物を今更外来種に侵害されることの無いよう、神経質な防疫体制を執っているようである。

2.ケアンズ、コアラ、バンジージャンプ
 国際空港や日本領事館出張所がある割に、ケアンズは東西1.2km南北2.3kmと碁盤の目状の小さな町である。しかし意外に多いホテル、大きなカジノ(ソフィテル・リーフ・カジノ)、さり気ないナイトクラブ、カナダ、ニュージーランドにも出店している大橋巨泉のOKギフト店、そして街路樹も気温も熱帯のリゾートである。そして海は世界最大の珊瑚礁群グレートバリアリーフ、山は世界最古の熱帯雨林ウエットトロピックス等、世界遺産リゾートへの発進基地でもある
 またケアンズは大陸を一周する世界最長の国道1号線(12,538km)の起点である。その一部を通ってまずトロピカル動物園を訪れる。コアラを抱いての写真撮影タイム(11時から)ではデジタル写真を1枚(14A$ \85/A$)。見学者を敵と感じないのか、襟巻きトカゲは襟を拡げてくれなかった。蛇、鰐、トカゲなど定番動物のほかカンガルー、ウォンバット、大型の火食い鳥、華麗なオウム、奇矯なフクロウ、赤いレッドパンダ、弱視のためうずくまる白カンガルーなど珍しい園内を一巡して、次のバンジージャンプ場へ向かう。
 ニュージーランドで若者が興じるのを見てヒントを得たというアクティビティーとしての施設である。高さ44mのジャンプ台から両足首を弾性のロープの端に結わえて飛び降りる。2回3回と跳ね上がりながら池の水面近くまで急降下する。その間ビートの利いたBGMがジャンパーの絶叫と混ざり合って観衆の熱狂をいやが上にも掻き立てる。
その隣では恋人同士らしい二人が並んでロープに装着され、同じく44mの長大ブランコである。ゲストハウスの屋上遙か、一時見えなくなる程のインターバルで振り上げ、振り下ろされる。料金は写真撮影込みで160A$とのことである。

3.キュランダ鉄道
 ここを出て間もなく世界第二位の長さ(7.5km)を誇るスカイレールのゴンドラを見上げた。途中二回乗り換え、熱帯雨林を眼下にキュランダまで続くという。私たちは途中、展望台から遙かにコーラルシーを眺めながらバスでキュランダへ。
 キュランダ美景鉄道(Scenic Railway)の14時出発まで、町を散策する。向こうから白人が「コンニチワ」と声を掛けてきたので「グッダイ マイト」(Good day mate 「やー今日は」くらいのオーストラリア英語)と返したらオージー(オーストラリア人)なのか、ニャッと笑って通り過ぎた。
ブーゲンビリアの咲き匂う町角ではアボリジニのストリート・パフォーマンス。カンガルー、鰐の皮、ブーメラン等の民芸店に近いTシャツ屋でカンガルーのデザインのTシャツを買う。中年店員の応対が爽やかである。
 少し早めにキュランダ駅に戻り、眺めの良い左側の席に就く。私たち13名に対し20名分の席が割り当てられたが、10数両編成なので結局皆が思い思いにゆったり着席する。
 発車して間もなくバロン滝駅に停車するが乾期のため、か細い白糸の滝である。バロン川沿いの雄大な熱帯雨林を眺めながらストーニークリーク滝の鉄橋を通るが、此処も水涸れである。しかし1890年代に完成したカーブのきついこの鉄橋は車輪を軋ませながら、年代物の客車で往時の鉄道旅行を経験させてくれる。
 次々とトンネルを潜りながらフレッシュウォーター駅に到着、バスに乗り換えてケアンズへ帰る。建設当時工夫たちがこの村でフレッシュウォーターを補給してキュランダ山脈へ入ったことから、こう名付けられた。もともとこの鉄道は長い雨期の都度、ケアンズからの道路が度々損壊した為、交通の便を確保するため1886年着工、難工事の末1910年に完成したものである。

4.ウルル・カタジュタ国立公園
 翌25日(日)は9.25発カンタス航空QF989便でエアーズロックへ飛ぶ。せいぜい1000m程度の大分水嶺山脈を越えると赤茶けた大地に真っ白な塩湖が点在する。着陸直前、機の左側の荒野にぽっかりとエアーズロックが見える。その遙か先にはモコモコとしたカタジュタの岩群が霞んでいる。ケアンズから1786km、エアーズロック空港11.45到着。時差が-30分なので2時間50分のフライトである。
 迎えてくれた現地ガイドめぐみさんが冒頭で「この地に約600人居る原住の人々はアボリジニaborigine(原住民、ラテン語でも「最初から、根源から」を意味する)またはアボ abo と軽蔑的に呼ばれるのをひどく嫌うので、アナング(アナング語で人々の意)と呼びます」と前置きして解説が始まる。5日間有効のウルル・カタジュタ国立公園入園券をバスの窓からゲート係員に提示しながら入境する。
 この日はカタジュタのオルガ岩群見学である。36の岩山の集まりであるカタジュタはアナング語で、カタ(頭)ジュタ(沢山)を意味する。1872年アーネスト・ジャイルズがこの岩群を発見して、最高の山(548m)にバーテンバーグ(ドイツ南西部)の女王の名に因んでオルガ山と名を付けた。
 カタジュタまでの展望台では一連の岩群を、いわば裏側から眺めることが出来る。振り返れば赤紫のエアーズロックが荒野の地平にぽっかりと、遮るものも無く佇んでいる。その間約30km。
予め聞いては居たものの早速小さい蠅の襲来である。乾燥地帯のため僅かの湿気を求めて目鼻口の周りにまつわりつく。防虫剤や化粧品はむしろ匂いが蠅を呼び寄せるらしい。頭からすっぽりと防虫網を被るのが最も効果的という。

5.オルガ渓谷
 バスを進めてオルガ渓谷入り口に到着する。圧倒的な岩山が左右から迫ってくる。しっかり水筒を肩に掛け奥の展望台まで往復する、約1時間。
 ウルルもカタジュタも約6億年の昔、西方の山脈から流れ込んだ玄武岩、花崗岩、砂、小石が混じった礫岩の堆積が風雨に一部浸食されて、現在の形になった。岩肌が赤いのは鉄分のせいであると地質学者は言う。オルガ渓谷では剥落した礫岩塊を多く見かけた。浸食は今も続いている。岩山の渓谷を吹き抜ける風でアニメ作家宮崎駿が「風の谷のナウシカ」を発想したのも頷ける。
 このあと立ち寄った公衆便所の建築費は膨大だったという。その殆どが資材機材の運送費で、道路も未整備の当時、毎回数百kmの道を往復したからだとガイドが解説する。ウルルに引き返す途中、一面の焼け野原に差し掛かる。時に猛烈な落雷があり一気に燃え広がるという。

6.エアーズロック、サンセット
 1873年ウィリアム・クリスティー・ゴスがウルルの巨岩を発見し、当時の南オーストラリア長官サー・ヘンリー・エアーズの名よりエアーズロック(Ayers Rock)と名付けた。決して空気(Air)の岩ではない。
 アナングは今でもこの一枚岩をウルルと呼んでいるが、その意味はアナングの伝承ジュクルバの中にあり、アナング以外には明かされていない。
 まずアナングの居住区に近いムティジュルの水場を訪ねる。水利に乏しいこの地では岩肌から流れ溜まる雨水は絶対に汚してはならない命の水であり、蛇神様が守っていると固く信じられている。雨は初め10分間ほどは岩肌に染み込み、その後薄黒い跡を付けながら岩ひだを流れ落ちる。
 明朝予定の登山口を下見してサンセット・ビューイング・エリアへ移動する。既に旅行会社がシャンパン・パーティーの準備を整えている。グラスを片手に刻々と色相を変えて行くエアーズロックを眺めながら、観光客の一群がさんざめく。地平に近く雲がかかり、燃えるように真っ赤なエアーズロックは見られなかったが、シャンパンで上気した顔はそれぞれ満足気である。小型車で来た小グループも三々五々引き揚げて行く。
 宿泊は国立公園の外側、ユララ(ディンゴ(オーストラリア犬の一種)が遠吠えするところの意)のエアーズロック・リゾートにあるエミュー・ウォーク・アパートメント。連泊客向けの宿舎らしくキッチンが完備している。68枚ものスイス製日除け三角帆布がユニークである。

7.エアーズロック、サンライズ
 26日(火)は4.20モーニングコール。真っ暗の約13kmをエアーズロックの北東サンライズ・ピューイング・エリアへひた走る。カンガルーは光に向かって突進する習性があるので、ヘッドライトを防護するため頑丈なバンパーを装着しているとガイドが説明する。
 まだ暗いなか、特製のリュックサックにセットされた握り飯と即席味噌汁で朝食を済ませる。漸く東が白み始めるとあちこちでカメラのフラッシュが閃く。空が茜色に染まる頃には見る見る大岩に赤みが増してくる。周囲を見渡せば夥しい人、人、人である。
 1980年エアーズロック・リゾートの北6kmに現在の空港が完成するまでは、この辺りが飛行場だったが突風が多くパイロットは苦労したという。

8.アナングのジュクルバ
 アナングにとってウルル自体が聖地なのだが、特に北東部には聖域が多く写真撮影禁止の立て札がある。地表から数メートルのところに水平にぱっくりと割れ目が出来ている。その幾つかは聖域として立ち入り撮影とも厳禁である。儀式、安産祈願、処刑場等ジュクルバに関する聖域が多い。
 ジュクルパはアナングの神話「天地創造」から集団生活の掟、儀式、自然との共生、日常生活のノウハウまで包括する伝承である。アナングには文字が無く、これらの伝承は代々特定の人々によって口伝で語り継がれている。万一誤って伝えた者は、獲物を横取りした罪人同様、両手両足を切断されて処刑場に遺棄されるという。飢え渇きに悶え苦しみながら死に至る惨刑である。
 剥落した亀裂が段々風食されて、高さ数メートルのウェーブロックになっている。天井には岩燕の巣が、壁面にはアナングの祈りを込めた水の渦巻き、貴重な食用幼虫(オオボクトウ)の絵などが描かれている。

9.エアーズロック、登山道
 針のような葉のスピニフェックスの原を通り、ユーカリの林を抜けて、8.00前に登山口に到着した。しかし掲示板には「雨の予報で登山口閉鎖」とある。雨雲一つ無い空を見上げ訝しんでいると、係員が次の掲示板に掛け替えた。「気温が36度以上になる予報で登山口閉鎖」である。聞けば昨日も一昨日も閉鎖されていたという。隣の掲示板には「神聖な山だから極力登らないで欲しい」というアナングの懇願にも似た願いが切々と記されている。
 なお登山口閉鎖には次のような理由が列記されている。
 (1)3時間以内に雨、嵐が予報されるとき
 (2)2500フィートでの最高風速が25ノット以上と予想されるとき
 (3)雲が頂上より下りてきているとき
 (4)救助作業が行われているとき
 (5)気温が36度以上になると予報されるとき
 (6)伝統的所有者から文化的理由による要請があったとき
 これらは数カ国語で列記されているが、日本語は英語、ドイツ語に次いで確か3番目位に書いてあった。
 登山口より50m程先からは登山ルートに鎖の柵が設置されている。ルートの傾斜は平均30度、最大45度はあるという。

10. ウルル・カタジュタ・カルチャーセンター
 心残りに登山道を見返りながら、アナングの生活様式や文化を展示紹介するウルル・カタジュタ・カルチャーセンターへ行く。アナング語には文字が無いので、英語に対するアナング語を音声で聞かせてくれる。蛇は「ニョロニョロ」と聞こえた、少し違うが。また数詞は1.2.3.しか無いので、それ以上は1.2.3.ジュタ・ジュタ・・・( 沢山、沢山・・・) という。興味深いセンターだが一切撮影禁止なのが残念である。
 宿舎に戻り隣接のビジターズセンターでこの地域の地質、動植物、アナングの生活文化の展示を見学する。このあと無料シャトルバスでリゾート一円を巡回する。高級ホテル・セイルズ・インザ・デザートやアウトバック・パイオニアロッジのほか随所にキャンプ場、コーチ(Coach)旅行者用のグランドがある。一周の後はショッピングセンターで散策、ここの郵便局から投函した葉書(A$1.10)にはUraraの消印が押されていた。
 空港までの道すがら、ガイドから「エアーズロック達成証明書」なるものが手渡される。曰く「ウルル・カタジュタ国立公園を訪れ、ジュクルバを学び、沢山の写真を撮り、南十字星( ? )を発見した」と記されている。

11.パース到着
 14.00発カンタス航空QF1923便でパースへ翔ぶ。眼下の荒野には一直線に走る道路が延々と続く。パースまでの途中800kmはガソリンスタンドが無いので、予備のガソリンとスペアタイヤ2本は必携である、とガイドが言っていたのを思い出す。
 緑が濃くなってきたと思ったらパースである。15.30到着、時差が-1時間30分あるので実質3時間のフライトである。直線距離は1643km。
 スーツケースの角が数センチ亀裂していたのでバゲージ・クレームしたが損傷軽微として取り上げてくれなかった。南田TDの助言に従い、帰国後旅行保険で修理することにした。
 夕食までのひとときシーベルホテルの周辺を散歩する。街の中心部で歩行者天国にも近く、中世ヨーロッパの雰囲気を漂わせるロンドンコートにも足を伸ばす。入り口の時計はロンドンのビッグベンと同デザインという。ブティックに混じって土産物屋、両替屋もあり、観光名所の一つになっている。

12.ピナクルズ
 27日(水)はピナクルズへの行きがけに郊外の墓地公園に立ち寄り、野生のカンガルーの群れに出会う。広い芝生を気ままに飛び跳ねるもの、腹袋に子供を入れたままゆっくり歩くもの、但し尻尾で腰を支えながら一足飛びに前へ進む、左右交互に脚を使う訳ではない。故人の名前、没年月日を刻んだ金属の墓標が半ば芝生に埋もれ掛けている。
 トイレ休憩のガソリンスタンドでは大型荷台に羊をぎっしり詰め込んだトラックを見た。今やオーストラリアは中東イスラム圏への最大の羊輸出国だという。途中の展望台から見た薄碧り色のインド洋は意外に波静かである。
ピナクルズに近く、三角形の道標が目に付く。野犬捕殺用の毒薬入りの餌が撒いてあるので、大事なペットなどは放さないようにとの警告だという。
 ピナクルズ・デザート(砂漠)はパースの北約250km、ナムバン国立公園のほぼ中央に位置する。ビジターガイドによれば「石灰岩層の上に生育した樹木の根が誘導する水分で、石灰岩が部分的に溶ける。風が上層の砂を吹き飛ばし、溶け残った石灰岩が地表に現れ、長年に亘って風化されてきた」という。ピナクル( pinnacle )とはもともと高峯とか小尖塔という意味である。
 人の背丈ほどの松茸、バットマンその他色々な形のものが林立し「荒野の墓標」の名に相応しい。展望台から見渡す限りの砂丘に「ピナクル」が点在している。砂地にぽつんと咲くイェローハイバーキャーの黄色い花が可憐である。此処でもエアーズロック以上に小蠅がたかってくる。早々にバスに引き返し、誘導石に従って「墓標砂漠」を回遊しつつ別れを告げる。
 往路に立ち寄ったガソリンスタンドの周辺でワイルドフラワーを観察する。円筒形の花パンクシア、鮮紅のボトルブラシ、ふわっとした煙り草などが珍しい。
 道路の中央分離線が直線なら追い越し禁止、波線なら追い越しOKとドライバーが解説する。そういえばカーブの手前は直線、曲がってしまえば波線になっていた。途中スーパーCOLESで蜂蜜を買ってパースに帰る。今日は往復500kmの行程である。

13.モンガー湖、キングズパーク、フリーマントル
 28日(木)は郊外のモンガー湖で、西オーストラリア州鳥の黒鳥親子と少時戯れる。黒い親鳥にまつわりつく子は白に近い灰色である。
 次に訪れたキングズパークの丘から、スワン川越しに眺めるパースの街は壮麗である。フェリーやクルーズ船が行き交う先には、サウスパースの街並みが拡がる。陸軍の戦争記念碑に敬意を表して、南西19kmのフリーマントルに向かう。町の入り口近い丘の上には海軍の戦争記念碑がある。何故か周りに米軍の魚雷が1基据えてあった。
 通称カプチーノ通りからフリーマントル・マーケットを左に見て、海岸に近いラウンドハウスに到着する。一見円筒形のように見える12角形の建物は1831年、この地最初の刑務所として建てられた。西オーストラリアでは最も古い公共建築物である。中央に井戸、周囲の狭い囚人房には当時の様子が展示されている。
 手枷・首枷を好奇の目でじっと見つめていたら「試してみては・・・? 」と係員に勧められた。手・首を差し込んでみる、矢張り不格好な見せしめの刑具である。裏手には古い大砲が1門インド洋に向かって据えられている。元々この町は1829年キャプテン・フリーマントルが植民地宣言をしたことに始まる、その名残りであろうか。
 また知る人ぞ知る、此処は1986年、アメリカ以外でアメリカズカップのヨットレースが開催されたことでも有名である。港を望むシーフード・レストランでランチの後パースへ帰る。

14.パースのCATバス
 このあとのフリータイムでは無料バスCAT(Central Area Transit)で市内を遊覧する。青猫はパース駅を挟んで南北ルート、赤猫は東西ルート、黄猫は駅からイーストパース方面を巡回する。波止場に近い珍奇なタワー「スワンベル」からキングズパーク下まで、右手に高層ビル群を見上げながらスワン川沿いに走るときは、まるでサイトシーイング・バスである。
 パース駅では乗降客の流れに沿って構内を歩くうち「年中無休 日本語医療センター」の看板を見つけた。中には白人も混じって数人の患者が待っていた。陸橋で繋がったマイヤーデパートで花柄ノートを買ってホテルに戻る。

15.フィリップ島、ペンギンパレード
 29日(金)は3.40モーニングコール。5.50発のカンタス航空QF480便でメルボルンへ。大オーストラリア湾(Great Australian Bight)岸上空を飛行すること3時間35分、11.25メルボルン着。時差は+2時間である。
 ワイルド・ワールド風のレストランでバイキング昼食の後、ペンギンパレードの見学にバスはひた走る。トイレ休憩の売店では飼っているウォンバットや、小型カンガルーのようなワラビーを間近に見る。夕食はスコットランド風の海岸に面したレストランで、見事なロブスターのディナーである。
 橋を渡ってフィリップ島へ入った頃には陽も沈み、ペンギンパレードの時間が迫っている。昨夜もリトルペンギンが海から戻って来たのは19.10だった、今日もその頃だろうという。既に階段状の観覧席は満席に近い。タスマン海から吹き寄せる南極の風が冷たいので、体を寄せ合って腰掛ける。
 ペンギンの視力保護のためカメラ、ビデオは持ち込み禁止である。それでも誰かがフラッシュを・・、監視の係員が制止に飛ぶ。やがて世界最小といわれる体長30cm程のペンギンが数羽づつ砂浜へ戻ってくる。日没後の薄明かりでは見つけるのが難しい。やむを得ず場所を変えて木橋を歩いていたら柵のすぐ外側を、既に上陸した一群がヨチヨチと尻尾を振りながら巣穴へ急いでいる。もっと大きいペンギンの群れは南アフリカのケープタウンに近いボルダーズ・ビーチで見たことがある。しかしリトルペンギンのパレードはゼンマイ仕掛けの玩具のようで、如何にも愛らしい。
 これからメルボルンまで137kmの夜道を突っ走って、ホテルへ着いたのは22時を過ぎていた。朝の3時起きからこの時間まで本ツァー最大の強行軍であった。

16.メルボルン、マーケット、大聖堂
 30日(土)朝、窓のカーテンを開けたら一面隣家の壁である。パークビュー・ホテルの名にも拘わらず、これではウォール( 壁 )ビューである。尤もホテルの正面は公園であったが。
 初めに訪れたクイーン・ビクトリア・マーケットは肉、魚、野菜、果物は勿論、衣類、雑貨、玩具など何でも有りの大マーケットである。解体したばかりの首無し肉、ぴくぴく跳ねる魚など、パック詰めのスーパー食品を見慣れた目には凄まじいまでの店頭である。肉、魚ともA$5~10 /kg位、日本の約1/10の価格である。
 次に訪ねたセントパトリック大聖堂は90年以上も掛かって1939年完成した、オーストラリア最大のカトリック教会である。塔の高さ105.8m、奥行き92.25m、7つの礼拝堂を持つ壮大なゴシック建築である。横手の水路で戯れる黒犬に見とれて暫く時を忘れる。

17.キャプテン・クックの家
 数多い公園の中でもユニオン・ジャックをかたどったフィッツロイ・ガーデンはメルボルン随一という。1755年イギリスのグレート・エイトン村に建てられた煉瓦造りのキャプテン・クックの家が、1934年この公園に移築された。台所、居間、ベッドなど18世紀イギリスの生活様式を再現していて興味深い。魔除けなのか、屋根の両先端に「魔女の腰掛け」が設けられている。壊血病予防に役立つ薬草、野菜、果樹のある裏庭にはキャプテン・ジェイムス・クックの銅像が建っている。
 家の前のクラシックな赤いポストに魅せられてはがきを投函した。帰国後到着の葉書にはオーストラリア郵便がここだけに認めているCook’s Cottageの消印がしてあった。
 日射しの芝生では祈りを捧げるヨガ集団、春の花一杯の温室などを眺めながらバスに戻る。車体一面、窓まで広告を描き尽くした無料トラムが市中を走り回る。

18.メルボルン、車窓観光
 ガイド加藤テルエさん(安城市出身)の説明を聞きながら、英国伝統のクリケット・グラウンド、南半球最大というメルボルン博物館、昔ながらのルームキーを使う、五つ星の名門ウインザーホテル、金色像を頂くブリンセス劇場、最初にオーストラリア国旗を掲揚したという州議事堂、英国風のフリンダー・ストリート駅などを車窓より見学する。
 その東側には2002年完成の公共スペース、フェデレーション・スクェアがある。美術館、動画館、放送スタジオ、観光局その他カフェ、レストラン、ホールなどをユニークな建物内に収め、その前のザ・スクェアは1万人を収容できるイベント広場、言わばコングロマリット・スペースである。面するヤラ川の水は見た目よりも綺麗なのだとガイドは言い訳する。
 オパールの店もそこそこに空港へ向かう途中、超正装の男女を幾組か見かけた、これから競馬場へ行く人達だという。今日は土曜日、競馬場へ急ぐ自家用車で交通渋滞である。イギリス同様この地でも競馬場はお洒落な社交場であり、男女出会いの場でもあるらしい。

19.シドニー、オペラハウス
 12.00発シドニー行きカンタス航空QF430便に搭乗する。オーストラリアの首都キャンベラを飛び越えてシドニーへは13.20着。
 ドライバー兼ガイド前川さんのバスでシドニー随一のビューポイント、ミセスマックォーリー・ポイントへ行く。その昔、総督マックォーリーが夫人の郷愁を慰めるため、イギリスに似た眺望の場所に岩を削って腰掛けを作ったという。
 左手オペラハウス越しにハーバーブリッジ、水面に時折遊覧クルーズ船が悠然と行き交う。旧砲台近くの海には数隻のヨットがたゆたい、傍の波打ち際では新婚夫婦を囲んで友人達が歓声を上げている。後ろの向こう岸には軍艦も停泊している。
 オペラハウス前へ移動する。このユニーク建物はデザインコンペの結果、ヨットの帆をイメージしたデンマークの建築家ジョーン・ウッツォンの設計で1959年着工した。しかし工費、工期とも問題続出で、結局あとは4人のオーストラリア建築家チームが1973年に完成した。その間アメリカで開発された局面建築の技術が役立ったともいわれている。スウェーデンから運ばれた1,056,000枚の白タイルで覆われた外面は、天然の雨で常に清拭されるとガイドは説明する。
 向かって左の大きい屋根の方が2679人収容のコンサートホール、右が1547人収容のオペラシァター、その他大小4つの劇場やスタジオが複合している。客席へは入れなかったが絵はがきを参照した。この前の広場にもウェディングドレスの1組がオープンカーで乗り付けている。

20.ハーバーブリッジ
 ハーバーブリッジのアーチ上にはブリッジクライム・ツァーの一団が豆粒のように登って行く。参加料はA$155という。もとは不況対策として1923年着工、1932完成したもので全長1149m、全幅49m、アーチの高さは水面より134mもある。電車の軌道、自動車道、歩道があり、入り口にある塔門(Pylon)の一つには資料展示と展望台がある。渡りはしなかったがロックス地区への途中、下を通ったときその巨大さを実感した。
 1788年1月26日アーサー・フィリップが流刑囚780人、海兵隊及びその家族1200人を引き連れてこの辺りの入り江に上陸した。これを記念して1月26日がオーストラリアの建国記念日となっている。従ってロックスと呼ばれるこの地区は、今でも白人オーストラリア発祥の地と言われている。
また60余年前、太平洋戦争のときには日本の特殊潜航艇がシドニー湾に侵入し攻撃したことから、未だに反日の老人が多いことも忘れてはならない。
 市内に戻り、ビルの一角にオパールの採掘場を再現して売り込みに熱を入れるオパール店に立ち寄った後、シティーゲート・シーベル・ホテルに到着する。
 シドニーの属するニューサウス・ウェールズ州を含む東南4州は今夜零時からサマータイムである。明朝遅刻の無いように夕食後、南田TDの指示で時計を1時間進める。

21.ブルーマウンテン
 明けて31日(日)はサマータイム第一日である。前川さんのバスで西へ約100kmのブルーマウンテンへ。途中、コロニアル風バルコニーのある建物をよく見かける反面、住宅は意外にこぢんまりとした平屋が多く、ヨーロッパ型の四角い煙突を各戸に備えている。運転手の指さす路面には高橋尚子も走った2000年シドニー・オリンピック・マラソンの青いラインがある。
 カトゥーバの町には寄ることなく、ブルーマウンテンのエコーポイントへ乗り付ける。奇岩スリーシスターズは目の前である。「アボリジニの父親が三人姉妹を魔物から守るため、岩にして隠したが人間に戻せなくて・・・」という伝説による。
 見渡す限り高さ1000m程度の山々がユーカリの森に覆われている。その葉から発するユーカリオイルの微粒子が陽光でプリズム作用を起こし、ブルーの霞となって山谷に漂うのでブルーマウンテンと呼ばれるようになった。「アメリカのグランド・キャニオンには比すべくもないが」と誰かが呟いた。

22.シーニック・ワールドとルーラ
 バスで移動して、旧炭坑の運搬車を模したシーニック・レイルウェイに乗る。最前列に陣取ったものの50度前後の下り勾配では、バーに掴まるというよりは足を踏ん張って、半立ちの姿勢で急坂を駆け下りる。トンネル内の数秒は阿鼻叫喚である。尤もワイヤーロープで前後を結索しているので暴走することはない。最大52度のレイルウェイはギネスものだという。
 遊歩道では観光用に整備された旧炭坑入り口や掘削・運搬具などを見学する。この炭鉱は1945年までは採炭していたようである。今でもオーストラリア大陸の東部地方では何カ所かの大規模炭鉱で採掘が続けられている。この先は森林浴気分で熱帯雨林の中をそぞろ歩き。ターザンのロープのような蔓、ユーカリの大木、宿り木などを眺めながら木道をスカイウェイの乗り場へ行く。
 84人乗りの大型ゴンドラのフロントに着席し、谷底から崖上へ約3分間のロープウエイ。右側からスリーシスターズが見守ってくれる。
 一連のシーニック・ワールドを楽しんだ後、高原の町ルーラへ立ち寄る。避暑地らしいスマートな町で、郵便局併営のレストランやチャーミングなショッピングモール。その内のキャンディ・ストアでは山のようなキャンディ棚の中から、ここの名物ユーカリオイル入りのキャンディを見つけ購入する。
 シドニーへの帰路、2000年オリンピック会場へ立ち寄る。広い敷地に各競技場、施設がゆったり配置されている。メイン会場の前でしばらく散策してバスに戻る。

23.クイーン・ビクトリア・ビル界隈
 街の中心シドニータワーの近くでは消防車が走り、ストリート・パフォーマーが打楽器を打ち鳴らす。こういう都会の喧噪のなか自由行動となる。タワーに登る人、モノレールに乗る人、勿論ショッピングする人、色々である。
 私たちは1898年に建てられたというクイーン・ビクトリア・ビルディングを訪れる。優美なロマネスク様式をそのままに1996年に改修され、今では地上3階地下1階のショッピングセンターになっている。
 北口から入ると、上には高さ10m世界最大の吊り時計オーストラリアン・クロック、床は精緻なタイルが敷き詰められている。ブティック、毛皮、オパールからお土産、レストランなど200余店が軒を連ねる。エスカレータで3階に上がるとクイーン・ビクトリアの蝋人形と王冠、宝石のレプリカが大型ショーウィンドウに飾られている。南口の天井からは、毎時仕掛け人形が動くロイヤルクロックが吊り下げられている。
 3階から1階まで大時代なアコーデオン・シャッターのエレベータで下りる。ビルを出た所にはクイーン・ビクトリアの銅像がでんとあたりを睥睨している。
 交差点の向こうは高い時計塔がよく目立つタウンホール(シドニー市役所)である。折しも周囲は薄紫色のジャカランダが花盛り。桜が日本の春を象徴するように、ジャカランダは南半球の春を告げる花のようである。
 隣りネオゴシックのセントアンドリュース大聖堂は1868年完成、オーストラリア最古の聖堂という。日曜日の午後、ひっそりとした堂内で見事なステンドグラスや荘厳な祭壇を見学する。
 この後ハイドパークの第一次大戦記念碑を訪ねる。この公園は1810年造営された由緒ある所だが、各種イベントやランチスポットでもある。散歩、日光浴と思い思いに人々が緑を楽しんでいる。

24.シドニー・ハーバー・クルーズ
 今夜はシドニー・ハーバーのディナー・クルーズである。それなりに服装を整えて、サーキュラーキーの桟橋で乗船を待つ。ずらりと停泊している他社のクルーズ船もそれぞれ出発準備に忙しい。
 やがて夕日が沈む頃、双胴のクルーズ船に乗り込む。ギター、ヴァイオリン、ヴォーカルのバンドが私たちを迎えてくれる。着席間もなくウェイターが飲み物とメインディッシュのチョイスを聞いて回る。船はゆっくり桟橋を離れ右手にオペラハウス、やがて反転してハーバーブリッジ。こんなコースを繰り返しながらシドニー・ハーバーを逍遙する。時に電飾のクルーズ船が行き交い、旧砲台のミニ灯台が煌めく。
 宴たけなわの頃、グループのTさんが誕生日だというのでハッピーバースデーの大合唱となり、テーブルが沸きかえる。
デッキに出ると満天の星の下、ライトアップされた白亜のオペラハウスが一段と幻想的である。ブリッジのアーチには夜目にもはっきりオーストラリアの国旗が翻る、時々船は橋の塔門(Pylon)のすぐ側をクルーズする。存分に夜景と潮風を愉しんだ後、接岸上陸する。皆ディナー、クルーズ共に満足したようである。

25.オーストラリアという国
 11月1日(月)は早くも帰国の日である。昨日見損なったシドニー駅を右手に見ながら空港へ急ぐ。帰りは8.45発ケアンズ経由名古屋行きオーストラリア航空AO7959便である。内側の席だったので景色は見えなかったが、地図で見るとシドニー付近は入り江が入り組んでいて、機上からは水郷のように見えたのではなかろうか。
 2時間程でケアンズ空港に着陸、トランジットで別の機に乗り換えることになった。ここでまた時差調整である。ケアンズのあるクィーンズランド州はサマータスムを施行していないので、シドニーとは南北関係にありながら-1時間の時差がある。中部オーストラリアの南オーストラリア州と北のノーザン・テリトリーでもサマータイムの有無で1時間の時差がある。
 このように州の独自性は時差のみに止まらず、祝祭日も全国共通日のほか、州毎に異なった日が制定されている。また生鮮食料品を含む動植物の搬入でも州毎に規制基準が異なっている。特にパースは持ち込み検査が厳しいとのことである。
 しかしオーストラリアそのものはイギリスを盟主と仰ぐ英連邦国家であり、元首はエリザベス二世である。国旗の左上にもユニオン・ジャックを配している。
 そもそもオーストラリアは1770年4月29日キャプテン・クックがエンデバー号でシドニー近郊に上陸、英国領を宣言したことに始まる。それまでアメリカを植民地として移民や流刑囚を送り込んでいたイギリスだが、1776年アメリカが独立してからは、その代替地をオーストラリアに求めるようになった。ゴールド・ラッシュ後(1861)採り続けてきた白豪主義も1970年には転換し、今では有色のアジア人種も多数流入している。
 シドニーから同機に乗り込んでいた福岡県東朝倉高校の修学旅行生たちはケアンズ空港で福岡行きに乗り換えたらしい。空港の商店街で、先年ジャカルタで買ったWilliams シャツの専門店を見つけた。矢張りR.M.Williamsはオーストラリアのブランド衣料なのである。
 正午頃乗り込んだ飛行機は、機体は替わったが便名はAO7959便のままである。昼間のフライトながら7時間半程うつらうつらと、まどろんでいるうちに名古屋空港に到着。また-1時間の調整である。サマータイムにぶつかったとはいえ、10月29日からの4日間に4回もの時差調整は何とも気忙しいことである。
 あと数日で立冬、日本の秋は既に深まっていた。

 本稿は今回見聞したことを、オーストラリア政府観光局「Travel Australia」'02版、各訪問地のビジターガイド、「地球の歩き方オーストラリア」'04~'05版等を参照しつつ記述したことを付記します。