2010年6月12日土曜日

儒神基佛の東京ミニ見物 覚え書き(2004年8月)


 先月東京で家内の喜寿祝いの帰途、夕方新幹線までの時間を利用して儒神基佛の東京ミニ見物をしてみた。
 午後3時頃中央特快が停車する御茶ノ水駅で下車、手荷物をロッカーに一時預けにして、まず湯島聖堂に向かう。ロッカー施錠で、乱数表かららしい5桁数字のメモがプリントアウトされる。合い鍵は無く、傍のテンキーからその5桁数字を打ち込めば開扉される仕組みである。

1.湯島聖堂 ( 儒教 )
 聖橋(ヒジリバシ)を渡るとすぐ右手が湯島聖堂である。こんもりと茂った森の中は都心とは思えぬ蝉しぐれが鳴きしきっている。ここは文京区である。
 先に林羅山が建てた孔子廟「先聖堂」を、元禄3年(1690)五代将軍綱吉が湯島に移し大政殿と改称、付属の建物も含め聖堂と総称した。
 寛政9年(1797)拡張した敷地内に昌平坂学問所が開設され、孔子の生地昌平郷に因んで昌平黄(学カンムリに黄)と呼ばれた。これが後の東京大学の前身である。
 度々の江戸大火、関東大震災、東京大空襲により焼失、損壊したが、都度再建改修された。現在の聖堂は概ね昭和10年(1935)に復興した鉄骨鉄筋コンクリート造りのものである。
 入徳門をくぐり大政殿に詣でる。左右に四賢像(顔回、曽子、子思、孟子)を配し、中央には明末の遺臣朱舜水が携えて来たという孔子像が祀られている。左側の壁には蒋介石(名は中正)が揮毫した「有教無類」の石板額がある。
 廟内の売店では四書(大学、中庸、論語、孟子)五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)よりも唐詩選など漢詩関連の書籍が目に付いた。
 なお「湯島の白梅」で歌い囃された泉鏡花の小説「婦系図」の主人公お蔦・主税の別れの場は、聖堂とは別の湯島天神の境内である。

2.神田明神 ( 神道 )
 聖堂の裏、道一筋を隔てると台東区、神田神社・通称神田明神がある。賑やかな神田祭とは裏腹に境内は意外にひっそりと鎮まりかえっている。
 江戸時代には山王日枝神社の祭りと共に江戸二大祭とされ、元禄の頃からは神輿が江戸城内にまで入るようになった。盛時には山車35台の長い行列が氏子地域内(京橋、神田、下谷)を4日がかりで巡行したという。現在の祭日は隔年の5月15日としている。
 祭神は大巳貴神(オオナムチノカミ)、少彦名神(スクナヒコナノカミ)である。

3.ニコライ堂 ( 基督教 )
 再び聖橋に引き返して渡ると千代田区である。正面にニコライ堂の丸屋根が見える。歩いて僅か数百mのところに文京、台東、千代田と三区が区境を接しているのも面白い。
 日本ハリストス正教会ニコライ堂は明治17年(1884)起工、同24年(1891)完成、日本最初のビザンチン建造物で、重要文化財に指定されている。
 文久1年(1861)函館のロシア領事館付き司祭として来日したイオアン・カサトキン、修道名ニコライが明治5年(1872)東京に日本ハリストス正教会を設立し、布教に努める傍ら前記のようにこの教会を着工完成させた。ニコライ堂と俗称される所以である。
 ロシア工科大学教授シチュールポフ博士が設計し、鹿鳴館などを設計した英国人コンドルが一部修正して完成させた。その後関東大震災(1923)に遭い、昭和4年(1929)に再建されている。
 ニコライは1906年大司教に叙せられ、1912年東京で没している。

4.泉岳寺 ( 仏教 )
 次は品川駅で下車してタクシーで北へ1.3km、仮名手本忠臣蔵で有名な芝高輪の泉岳寺を訪れる。慶長17年(1612)開山した曹洞宗・万松山泉岳寺は旧赤穂藩主淺野家の菩提所である。
 本堂左奥には元禄14年(1701)切腹した浅野長矩、吉良邸に討ち入りした47義士、長矩夫人の墓がある。47士の墓は討ち入り後、身柄を預けられた細川家など4大名家別に配置されている。尋常でない死に方の為、戒名は例えば堀部安兵衛は刃雲輝剣信士のように刃・剣の二字に囲まれている。城代家老大石良雄の戒名は忠誠院刃空浄剣居士となっている。大石良雄とその子主税の墓には屋根が設えられている。
 討ち入り陣羽織姿のボランティア数人が丁度墓地を清掃奉仕中であった。参道右傍らには吉良義央の首を洗ったという井戸が金網で覆われている。
 討ち入りの12月14日とか、義士切腹の命日には参詣者も多いのだろうが、通常は人影も疎らで、門前の土産物屋も開店休業、店員の姿も無い。
 品川駅まで再びタクシーで戻り、東京17:36発「ひかり」には悠々間に合った。


 湯島聖堂については斯文会の「湯島聖堂略志」を、その他は主に平凡社「世界大百科事典」を参照しました。