2010年6月15日火曜日

父 岩太郎の思い出 -昔のさかな屋-(記:1995年7月)

一、徒弟制度     
  明治維新後、西南の役などまだまだ世情騒然としている中で、明治16年いわゆる鹿鳴館時代がはじまった。そういう年に私の父、岩太郎は生まれている。   
  当時の義務教育である尋常小学校4年を卒業すると、すぐ四日市市北条町の谷村鮮魚店に小僧見習いとして弟子入りした。満10才になったばかりの少年を社会人として放り出すには余りに早すぎる。そこで既に一業を成した先輩が親方となって、これら少年を受け入れ、職業人として必要な技能・知識を教育した。徒弟制度である。とかく暗いイメージで語られがちなこの制度だが、当時の社会では誠に有効な私立職業訓練学校であったといえよう。   
  まず大人社会への行儀・作法から厳しく躾けられ、ついで始末・才覚・算用など商人としての心得を始め、順次鮮魚商としての技術ノウハウを仕込んでもらったという。後年、店の帳箪笥の引き出しの中に、これらを説く教科書「商売往来」が入っていたのを憶えている。父は谷村店主を終生「親方」と呼んで敬慕していた。長じては谷村家の長女の仲人を引き受けるなど親密な付き合いが続けられた。   
  修業中は辛いこともいろいろあった様である。厳寒の水仕事では指が千切れるように 冷たい。親方から預けられた魚が思うように売れない。売残りを持って帰れば売り方が拙いといって、こっぴどく叱られる。思い余って自腹を切って、残った魚を三滝川へ投げ捨てたことも再三あったという。そのうち、おいしい食べ方・料理法を言い添えて奨めるという知恵がついた。それ以後は円滑に売り捌けるようになったとのことである。年季明け・お礼奉公・一本立ち(または暖簾分け)がいつ頃だったのかは判らない。ともかく27才で結婚、35才で北条町に転居している。ここは平野魚問屋(本誌第3集43頁に写真掲載)の東隣りにあたる。
    
二、魚問屋と仲買人  
  当時はこの北条町の「平野」と浜町の「角中」が魚問屋として張り合っていた。父は「平野」に仲買人として加盟していた。商工人名録によると合資会社「平野魚問屋」代表社員平野太七、大正11年設立とある。   
  仲買人の無闇な増員を避けるため、同業組合的なギルドの様に限定会員制をとっていた。会員には「いろは」48文字が割り振られていた。もっとも最後の「ん」の字は無かった様である。父は「す」の字を貰っていた。問屋内では総てこの字で呼びあっていた。   
  ある時、父について問屋に行ったことがある。早朝、大八車をひいて問屋に着くと5時半。伊勢湾岸漁民よりの湾内もの、尾鷲方面よりの外洋ものなど入荷した魚を予め下見をしておく。時間があれば隅の茶店で、大福餅・串団子で渋茶をすする。茶碗酒を景気よくあおる人もいる。たしか6時頃から「競り」が始まった。浪曲師顔負けの塩辛声で競売係が喚きたてる。目星をつけた魚のせいろが競り台に引き出される。父が競落希望価格を符諜で叫ぶ。ダリとかダリ半とかいうのが耳に残っている。他にも希望者がいれば値は段々競りあがる。これ以上の一声がなければ競落決定である。「はい、すの字」と念を押して記帳方が帳面につける。1か月分の競落代金は翌月5日に現金で「平野」へ支払いに行く。   
  「平野」には競り場しかなく、最近の生鮮食品市場の様に、仲買人が構内に店舗を構える余地はなかった。殆ど仲買人兼鮮魚小売商で流通が間に合っていたのであろう。
  しかし新規に鮮魚商を創めようとする場合は、仲買人の空き枠は殆ど無いので、既存の仲買人から仕入れなければならぬ。駆出し時代ならともかく、すこし商売が大きくなってくると、仲買人経由の仕入れでは面白くない。そこで仲買人の名義を借りて魚問屋の競りに直接参加することを考え付く。これを「肩下」(カタシタ)という。父も或る時、若いさかな屋から熱心に頼み込まれて「肩下」にしたことがあった。始めのうちは競落代金をきちんと支払いにきたが、段々滞るようになり、とうとうその若い「肩下」は行方を晦ませてしまった。問屋に対しては、彼の仕入分も自分の仕入代金として支払はねばならず、多額の焦付債権となってしまった。それ以後「肩下」は一切持っていない。   

三、鮮魚小売商    
  鮮魚商としての屋号は魚岩、商標は 岩(カネイワ)である。北条町では同業者が 多かったせいか売り上げは余り伸びなかった。昭和3年頃、東海道沿いの水車町(今の浜一色)に引っ越してからは面白いように商売繁盛したという。  
  四日市市商工人名録(昭和5年8月現在)には「鮮魚商 水車町 ■■岩太郎」と記載されている。父も46才。いっぱしの商人(アキンド)として活躍していたのであろう。時々得意先より頼まれて仕出し料理にも手を拡げ、かなりの皿小鉢や漆塗りの膳椀などを取揃えていた。預金獲得のため不動貯蓄銀行の行員が毎晩のように売上金を集金に廻ってきたのもこの頃である。  
  鮮魚商は生物商売であるから鮮度・清潔が生命。今のように保健所の規制監督は無いかわり、鮮度管理は徒弟時代に親方から徹底的に教え込まれている。その日の仕入れはその日に売り切るのが大原則だが、万一売れ残った場合は自家冷蔵庫に収容する、量が多ければ製氷会社に預けに行く、いか・たこ等はさっと茹で上げる、最後は契約養鶏場に餌用として払い下げる。  
  刺身など生食ものを調理する関係上、手指の清潔、負傷予防には細心の注意が必要である。おこぜ・こち等の有刺魚類を捌くときは非常に神経を使っていた。これらの針に刺されると必ず化膿するからだという。  
  また鮮魚商は毎日の台所に繋がる商売であるから、盆正月以外は年中無休である。得意先への定時定点巡回を律儀に心掛けていたようである。「烏の鳴かぬ日はあっても、岩さんの廻ってこない日は無い。」と信用され、当てにされていることを父は誇らしげによく語ってくれた。本誌第3集に、買い手の立場から見た昭和12年頃のさかな屋の様子を描いた富山滋子さんの作文が載っている。父もこのように毎日頑張っていたのであろうと思う。    
  昭和19年頃には戦局の緊迫とともに物価統制令の締め付けが厳しくなって、何でも公定価格を表示しなければならなくなった。しかし生鮮食品は極端にいえば、時々刻々鮮度の変化と共に売値を改訂しなければならない商品である。或る時、経済警察が臨検の際、価格表示を怠っていたとして注意されたときは、あとで「生鮮食品の実態が全く判っていない。」と大いに憤慨していた。  
  いよいよ敗色濃い昭和20年6月18日の四日市大空襲では、何もかも焼けだされてしまった。鮮魚も配給統制の一環に組み込まれ、諸事思うに任せぬまま終戦、長男の戦死と悲報が相次いだ。ともかく焼け跡に住居は再建したものの、ついに往時の生気を取り戻せないまま昭和28年逝った。69才であった。  
    
 以上魚問屋の仲買人兼鮮魚小売商であった父の一生を駆け足で逐ってみた。60年以上も昔の思い出を掘り起こし、その後学んだ事柄と照らし合わせながら書き記した。旧四日市の一端を偲ぶよすがとなれば幸いである。何分幼少時の記憶をもとにしているので、一部思い違いや大きな欠落があるかもしれない。お気付きの点は忌憚ないご指摘ご教示をお願いしたい。