2010年6月12日土曜日

開放された「旅順」を観る(1996年7月)

 軍事機密のため戦後ずっと外国人立入禁止だった日露戦争の激戦地「旅順」が今年7月10日、ようやく外国人観光客にも開放された。7月16日大連を訪れた私達は予定の観光コースもそこそこに、現地旅遊社と交渉してその日の午後、旅順半日観光に出掛けることにした。   

 旅順は大連市中心部より西へバスで1時間ちょっとの距離にあり、一時は大連と連携して旅大市と称した時期もあった。現在は旅順口区として大連市の一部となっている。この地区は軍港をはじめ軍需工場、弾薬庫、砲台等軍事施設が集積していて観光開放は勿論、経済開発も永年見送られてきた。そのためか内陸部のような未開発の風物がいろいろ目につく。  

 往路は北回り(旅大北路)で官城子を経てまず水師営に入った。ここで旅順旅遊公司のガイドが乗りこんでくる。彼等の専管観光テリトリーのようである。明治37年12月、乃木大将とロシヤの将軍ステッセルとの会見は、村外れの小さな工場構内へ入って、右奥の小屋(その後建てられたもの)の建っている場所で行なわれたという。当時国内で戦勝を祝って歌われた軍歌「水師営の会見」を次に記す。         
      「水師営の会見」       佐々木 信綱 作詞  
  1.旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル  
      乃木大将と会見の 所はいずこ水師営  
  2.庭に一本(ヒトモト)なつめの木 弾丸あともいちじるく  
      くずれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍  
  3.乃木大将はおごそかに、みめぐみ深き大君の  
      大みことのり伝うれば、彼かしこみて謝しまつる  
  4.昨日の敵は今日の友、語る言葉もうちとけて  
      われはたたえつ彼の防備、彼はたたえつわが武勇  
  5.かたちただして言い出でぬ、この方面の戦闘に  
      二子をうしない給いつる、閣下の心いかにぞと  
  6.二人のわが子それぞれに、死所を得たるを喜べり  
      これぞ武門の面目と、大将答え力あり  
  7.両将昼食ともにして、なおもつきせぬ物語  
      われに愛する良馬あり、今日の記念に献ずべし  
  8.厚意謝するに余りあり、軍のおきてにしたがいて  
      他日わが手に受領せば、長くいたわり養わん  
  9.さらばと握手ねんごろに、別れて行くや右左  
      砲音たえし砲台に、ひらめき立てり日の御旗  

武人の礼を尽くした両将会見の情景が彷彿とイメージされる。残念ながら「なつめの木」はもう其処に無かった。  

 続いてバスは203高地に向かう。中国人観光客向けの案内板や標識が結構目につく。山頂付近には当時のロシヤ軍塹壕や、日露戦争後、日本が山頂に建立した砲弾型の霊山記念碑が90余年の風化を感じさせぬ鮮やかさで保存されている。頂上より黄海側を見下ろしたが旅順港は霞んでいて余りよく見えない。傍らの露店で購入したパンフレットの写真や地図と照合しながら当時の戦況を偲んだ。案内板に従って山頂より少し西側に下り、「乃木保典戦死の所」碑を訪ねて野の花一茎を供え、合掌して冥福を祈る。あたり一面はその後の植林で松の木などが生い茂り、当時の記録映画でよく見る荒涼たる山腹の面影は残っていない。因みに203高地を詠んだ乃木稀典作の漢詩を下記する。   

         「 霊山」 (ニレイサン)   
    霊山は険なれども、あに攀じ難からんや  
   男子功名、克艱を期す  
   鉄血、山を覆して、山形改まる  
   万人斉しく仰ぐ、 霊山    

 次に東鶏冠山に登りロシヤ軍の北堡塁を見学する。厚さ1メートル以上もあるコンクリート壁の堡塁が延々と続き、その表面には無数の弾痕が生々しい。銃眼の並ぶトーチカ、弾薬庫、電話室、司令部と覚しき天井の高い部屋等が連なり、いかにも堅固そうな要塞である。当時世界最強を豪語したロシヤ陸軍の自信と慢心の程が窺われる。ここにも大正5年日本の「満州戦跡保存会」が築造した「東鶏冠山北堡塁碑」や「露国00少将戦死の地碑」(日本語で刻字)が”旅順口日俄戦争遺址”(俄はゥオロシャの中国での略記)として大切に温存されていた。嘗て外国の軍隊によって踏み荒らされた自国の地を、敢えて戦跡として後世に伝えるのも中国国防政策の一環かとも思われる。とにかく日本人としては或る種の感慨を禁じえなかった。東鶏冠山の方は土産物屋も数軒あり、中国人観光客も多数訪れているようである。見学順路も階段、敷石、整地等よく整備されていた。  

 帰路は南回り(旅大南路)をとり途中星海公園(旧星が浦海水浴場)で小休止の後、夕方大連の街に帰りついた。