去年の今頃は兄 正一の50回忌の法要だというのに「戦没地はルソン島方面」という茫漠としたものだった。これではどうにも心許なく、もっと詳しい地域・場所が知りたい、出来ればそこまで行って鎮魂慰霊をしたい、追悼顕彰を行ないたいという思いが日毎に募っていった。
爾来資料があると聞けば閲覧に走り、戦跡慰霊ツアーが出るといえば馳せ参じて、巡拝しつつ多くの方々から沢山の参考情報を承った。その結果「■■正一の戦没地はルソン島イフガオ州パクダン村」と判明した。そして遂に平成7年5月13日、50年振りにその地に立って兄の慰霊追悼を果たすことが出来た。これも偏に英霊のお導きと多くの関係の方々のご協力ご助言の賜と深く感謝します。
次にこれまでの経過と熱心にご教導頂いた方々のご芳名を記し、血を分けた兄弟児孫に報告するとともに、兄正一とその妻ひでさん、そして「息子の戦死はとても信じられない」と言いつつ逝った父母の霊前に謹んでこの一文を捧げます。
戦後50年、私なりの一つのメモリアルである。
一、防衛研究所図書館
確か8月の終戦特集TV番組の中だったか、防衛庁戦史部には可成りの戦史資料が保 管されており閲覧可能と報じていた。手元にある戦中の住所録に記された軍事郵便の宛名「比島派遣渡第10612部隊根本隊 ■■正一」だけが唯一の手掛かりだった。
平成6年10月3日東京都中目黒の防衛研究所図書館を訪れた。まづ「渡10612部隊」とは部隊の兵種・規模等を敵に察知されないための防諜名で、正式には第14方面軍南方第12陸軍病院であることが判った。その後昭和19年10月山下大将がマニラに着任後の編成見直しで「威10612」と改称されていた。
所蔵資料「中央部隊歴史・比島方面部隊略歴」及び戦史叢書「捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦」によれば、正一戦没のころ第12陸軍病院は第14方面軍司令部の移動と前後して、キャンガンからもっと奥地のマゴックへ移動している。恐らくその途中の山道で、飢餓とマラリヤ熱発のため遂に力尽きたのだろうと思う。
二、三重県庁
平成7年5月8日、兄の本籍(四日市市)を所管する三重県庁健康福祉部高齢者対策課援護恩給係を訪れ関係資料を閲覧した。
「死亡告知書」(いわゆる戦死公報)によれば、
”昭和20年6月23日比島ルソン島方面ニ於イテ死亡セラレ候条此段通知候也” 「履歴書」によれば、その軍歴は、
”昭和 9年12月 1日 第二補充兵役編入
昭和18年 7月20日 衛生二等兵 臨時召集により京都陸軍病院に応召
昭和18年 9月14日 宇品港出発
昭和18年10月 2日 マニラ港上陸
同日 南方第12陸軍病院に転属
昭和19年 1月20日 衛生一等兵
昭和19年 7月20日 衛生上等兵
昭和20年 6月23日 衛生兵長 比島において戦病死 ”
「戦没者調査票」(軍人恩給原簿)によれば、その戦没状況は、
“ 身分 軍人
所属 南方第12陸軍病院
官等身分 死亡前 衛生上等兵、死亡後 衛生兵長
死亡状況 戦病死、在隊死
死亡年月日 昭和20年6月23日
公報年月日 昭和21年1月23日
死亡場所 外地 比島ルソン島
受傷り病年月日 昭和20年6月15日
傷病名 マラリヤ
受傷り病場所 外地 比島ルソン島 ”
以上のように県庁資料でも、戦没地は「比島ルソン島」までしか記載されていない。
三、太平洋全域洋上慰霊祭の船旅(ふじ丸)
予て申し込んでいた上記の慰霊行に参加した。商船三井客船のふじ丸(23,340トン)を借り切って、平成7年2月15日博多を出港。
途中、高雄(台湾)マニラ(フィリピン)メナド(インドネシヤ)ポートモレスビー(パプア・ニューギニヤ)ガダルカナル(ソロモン共和国)サイパン(北マリアナ連邦)には上陸、火山噴火で上陸出来なかったラバウルの湾口をはじめ、多数の将兵が海没した洋上など12箇所で慰霊祭を行ない、3月10日東京晴海帰港という行程であった。昭和19年10月比島沖で沈没した空母千歳から、奇しくも海没を免れた渡辺 守氏が団長である。
総勢540名の団員の中に、どなたか第12陸軍病院の衛生兵であった兄に関する情報をお持ちではと、一縷の望みを抱いてその旨を船内掲示板に貼りだした。
早速次の方々から貴重な関連情報の提供があった。
1.●●正太郎さん(名古屋市)
宮古島沖で轟沈した空母雲竜より生還した数少ない1人である。戦中は南西方面艦隊司令部勤務であった。
自ら経験したルソン山岳州での惨状、比島戦線のデータベース「比島文庫」、愛知県三ケ根山頂比島観音の例大祭などについて教示紹介を頂いた。また帰着後、昨年参加されたマニラ会(12陸病のとは別で、マニラ在留邦人も入った会)での戦跡巡拝のビデオを拝借。この中にはパクダンでの光景も収録されていた。
2.●●喜男さん(福岡県苅田町)
戦中は屏東(台湾)で第157飛行場大隊勤務であった。
ふじ丸では比島観音、米側資料「山下奉文」などの情報を頂く。帰着後は「比島従軍記」(根本勝著)「追憶の詩」(坂田沢治著)を拝借した。その後届けて頂いた後記吉富巡拝団の西日本新聞の広告切抜は、このあとのパクダン慰霊行に繋がってゆく。
3.●●比佐子さん(福岡市)
3月8日木村船長と同卓で夕食の際、隣り合わせた●●サエさん、●●トヨノさん(共にルソン山中会員)より紹介される。
昭和20年7月父上をキヤンガンで喪くされている。父の戦没時期・場所等、姪淑子と状況のよく似た戦争遺児である。ルソン山中会の世話人・草むす屍会員である。船中では比島観音・12陸病関係者の心当たり等について承り、帰着後は次のような多数の参考図書資料を提供頂いた。
南方第12陸軍病院の記録「アシンの谷間に」(元軍医中佐 玉村一雄編)
比島観音20年史
フィリピン戦逃避行(新美彰・吉見義明共著)
見知らぬ戦場(長谷部 日出雄著)
炎熱商人(深田祐介著)
その他戦跡巡拝記・会報・地図等
特に「アシンの谷間に」の玉村日記と遺芳録は兄の終期を知る上で誠に貴重な資料であった。
四、比島文庫
前記●●正太郎さんより「比島戦線に関して、よろず調査相談に応えられる」として紹介される。
1.●●喜徳さん(大分市)
戦中は虎兵団陸軍伍長としてルソン戦に参加。帰還後は関係図書資料1500冊を収蔵して「比島文庫」を主宰、関係者と連携して集録「ルソン」を編集発行しつつ、比島戦線の解明・調査に尽力中である。この集録「ルソン」全70冊は「既刊戦史の誤りを正した第一級の戦史資料」として、平成7年度の菊池寛賞を受賞されている。
私からの照会に対し、折り返し「■■正一さんの戦没地はパクダン」と資料コピー同封で教示があった時には、年来のわだかまりが一度に氷解したような感激だった。同時に集録「ルソン」(関係分)「ルソン島巡拝記」詳細図等届けられる。
また三ケ根山12陸病慰霊碑世話人 ●●義一氏を紹介される。
五、三ケ根山比島観音
愛知県幡豆町三ケ根山頂の大山寺境内にある観音さまで、昭和45年、比島戦関係者の浄財で遥かフィリピンの方を向いて建立されているのでこの呼称がある。その前庭には比島戦線で散華した陸海軍部隊の慰霊碑が林立して居り、毎年4月の第1日曜日には例大祭が行なわれる。
1. ●●義一さん(伊勢市)
前記●●喜徳さん、●●比佐子さんより紹介される。
戦中は南方第12陸軍病院の衛生下士官。現在は比島観音奉賛会世話人・12陸病
慰霊碑の責任者である。
今年4月2日の例大祭に姪淑子と参拝の際、受付(救護班)で元従軍看護婦●●艶子さん、●●秀子さんと共に初会。義一さん持参のアルバム・見取図により当時及び最近のパクダンの状況説明を受ける。部隊の転進経路図も頂いた。今後も12陸病戦友会等の機会を通じ、兄に関する情報を尋ね続けて頂ける由である。
六、フィリピン戦跡巡拝の旅
この種の巡拝ツァーは昭和40年代より、各地の戦友会・遺族会等の間では催行されていた様である。一般には広報がないため前記中込さんより報らされるまでは全く関知しなかった。
1.●●孝信さん(熊本市)
今回(平成7年5月11日-18日福岡発着)の戦跡巡拝団長である。
戦中は第14方面軍通信隊将校。戦後はマルコス大統領時代以来、訪比歴数十回という比島巡拝の大先達の一人である。現在熊本市花岡山フィリピン戦没者慰霊碑奉賛会の世話人でもある。
「戦没地が判っていて行く意志があれば、あらゆる手段を尽くして、たとえカトリック教会の自家用飛行機をチャーターしてでも(大小約7000余の島々よりなるフィリピンでは、離島僻地への布教用に飛行機を持っている教会があるという)行き着ける様に取り計らいます。」との吉富団長の力強い言葉に励まされて、勇躍この巡拝行に参加した。
現に5月13日には一行36名がネグロス島・サラクサク峠・キヤンガン・パクダンと4班に別れて巡拝した。
ルソン島を縦横に1500Km、8日間に及ぶ走行中、各戦跡に関する迫真の説明には大いに感ずる所があった。今日の繁栄の礎となったこれら多数同胞の死を決して無にしてはならぬと固く肝に銘じた次第である。
2.Mr.Sakaiさん(KIANGAN )
祖父が明治時代に渡比、バギオに通じるベンゲット道路開削工事に従事したという日系三世である。今年67才、日本語は話せず、夫人は現地の人。40年来キヤンガンで雑貨商を営み、道を隔てた隣には”KIANGAN HOTEL ”を経営している。
5月13日、氏の長男が店のトラックで私達4人をキヤンガンからパクダンまで案内して頂いた。お陰で50年目にして漸く念願の慰霊追悼をすることが出来た。この感謝の気持ちを込めて、帰国後、持ち帰ったペソ紙幣と若干のUSドルを慈善団体への寄付金としてMr.Sakaiに郵送・付託した。
3.Ms.ビューリー
マニラより同行のカメラマンだが、商売を超えた熱心さでパクダンでの慰霊に何くれと無く協力してくれた。キヤンガンで添乗ガイドと別れたあと、現地の人と私達の間を、私の覚束ない英語と彼女のたどたどしい日本語で取り持って、どうにか無事に事が運んだ。勿論彼女の撮影した沢山のスナップ写真は買い上げた。
平成10年の巡拝行で私達に同行した現地カメラマン ニコ氏に尋ねたら「自分の従姉妹」とのことである。
1年足らずの間にここまで実現出来たということは、丁度水面に輪が生まれ、拡がり、繋がって彼岸に達するように、これら多くの方々の貴重な情報・ご協力の連鎖がパクダンまで導いてくださったものとおもう。
あらためて英霊のご加護と、お寄せ頂いた沢山のご協力ご好意に深く感謝すると共に、英霊のご冥福とご協力各位の益々のご健勝を祈念します。 合 掌