2010年6月15日火曜日

戦時体制下の四商(記:2002年8月)

 昭和16年12月大東亜戦争緒戦ではハワイ・マレー沖で大勝、シンガポール陥落と快進撃したものの、翌17年6月ミッドウェー海戦で惨敗してからは、国内の戦時体制は一段と強化されていった。四商での学園生活もご多分に漏れず、非常時色の濃いものに塗り替えられていった。第46回卒業生として、その幾つかを思い出すままに書き記してみよう。当時の呼称はカッコ内に現在の呼び方を注記した。四商先輩諸兄の、より詳細・正確な回想を期待します。
 尚「四商」は明治29年、私立として開校、明治37年三重県立四日市商業学校となり、平成15年では創立107周年を迎える伝統校である。

1.鮮満旅行の廃止
 5年生の修学旅行は従来から朝鮮・満州(今の中国東北部)旅行であった。関釜連絡船で釜山に上陸後、汽車で京城(ソウル)、平壌、新義州、奉天(瀋陽)、新京(長春)、ハルピンと鮮満を見学できるのを楽しみにしていたのに、2年程前に廃止となりがっかりした。

2.軍事訓練強化
 菰野町千草の実弾射撃場への耐熱行軍では目的地まで水飲み禁止。にもかかわらず自転車に乗りながら時々駆け足を命じる教練の教官・I少尉がこの時ほど恨めしく思ったことは無い。桜村の一生吹き山での突撃演習。松坂から夜行軍して、宮川堤で暁の模擬遭遇戦。空包射撃の後、喚声を上げての白兵戦も印象深い。
 武器庫には村田銃から三八式歩兵銃、騎兵銃や指揮刀などが保管されていた。擲弾筒、機関銃の有無は記憶が定かでない。射撃部を創設、東南隅の花卉園を改造して狭窄(きょうさく)射撃場が設置された。T准尉が教官となり、銃剣術訓練も始まった。
 このほか久居の連隊見学、鈴鹿(荒神山)の陸軍通信隊(中部第132部隊)への体験入営など着々と徴兵予備訓練が進められていった。

3.体力章検定、体格検査
 単に”走る跳ぶ”のほかに20~40kgの土嚢運搬、手榴弾投擲などを含めた体力章検定が制定された。体力に応じ初級、中級、上級と3種類のバッジが交付されたが、土嚢と手榴弾はなかなかに難関であつた。
 4年生の時には柔道場の一隅を衝立で仕切って、M検(性病チェックのため生殖器検査)を含むプレ徴兵検査のような体格検査が実施された。その後戦局急を告げて、本来満20歳で徴兵検査、21歳で入営の兵役が2年間繰り上げられてしまった。

4.進学、志願
 商業学校からの進学は高等商業学校へが従来からの常道であった。しかし戦局の進展に伴い、東京、横浜、名古屋、彦根、和歌山、神戸など本土中央部の高等商業学校はすべて工業経営専門学校に改変された。僅かに小樽、高松、山口、大分などの数校のみが今まで通りの高等商業学校として存続された。
 一方、陸軍士官学校、海軍兵学校、陸軍経理学校、海軍経理学校等、軍関係の学校が進学候補に加わってきた。K君が陸士入学。S君が海軍経理学校に進んだと聞いている。
 そのうち予科練(海軍飛行予科練習生)や特幹(とっかん)(陸軍特別幹部候補生)も募集が始まった。颯爽とした「七つボタンは桜に錨」は若人の憧れのステイタスでもあった。次の諸君が志願していった。
 H君  小豆島で「咬竜」特攻訓練中、機雷に接触して殉職。
 T君  ロケット戦闘機「秋水」特攻要員だったが終戦で命拾い。
 M君  人間魚雷「回天」浮上せずで、一時生死の境を彷徨。
 TN君

5.授業科目の改廃・削減、就職
 上記のように軍事教科が増強される一方、一般教科、商業教科は段々軽んぜられていった。経済・法規・商品・商業実践・商業作文・商業英作文(Correspondence コレポン)は殆んど授業が無かった。平田記念館の伝統的なEnglish Room(室内は英語only、日本語は厳禁)もいつしか廃止された。ただ支那語(中国普通話)だけは新設された数少ない教科の一つである。
 それもこれも徴兵された壮丁の穴埋めとして、農村への勤労奉仕が多発してきたからであろう。挙句の果てが3ヶ月の繰り上げ卒業である。これで学業全て万事休すとなった。
 軍国の道は厳しく、卒業後の就職も第二海軍燃料廠(塩浜)、三菱重工業(名古屋)、浦賀ドック(四日市)などの軍需工場に多く振り向けられた。南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)からも求人が有った。しかし渡満したのは満州電気へ就職したI君(故人)一人だけと聞いている。

 紗のかかったような遥かな回想なら懐かしくもある。しかし一つ一つの事例を具体的に列記して、平和な現在から顧みると随分異常な学園生活であったと思う。
「跋渉踏破せり、幾山河」の感一入(ひとしお)である。