2010年5月8日土曜日

チュニジア紀行(2004年3月)

1.遺跡の街ローマから チュニスへ
 3月6日、始発の地下鉄・バスで小牧空港へ駆けつける。国際線7時25分発NH338便で成田空港へ。ウイング違いのアリタリア航空へはシャトル・バスで。チェックイン、出国審査の後、11:30発AZ785便に乗り込む。乗客は疎らで3.3.3の窓側3席を占領する。雪景色のシベリアをひとっ飛びにローマ・フィウミチーノ空港に着陸する。時差-8時間のため同日の16:25である。
 夫婦2組と女2.2.1,男1.1.1に岡本TDの我々一行13名は60人は優に乗れそうな大型バスでホテルへ向かう。城壁、城門、水道橋、カラカラ浴場、サンジョバンニ・イン・ラテラーノ教会と、矢張りローマは遺跡の街である。2連・3連の路面電車と並行して、バス・タクシー専用レーンを走る。車の渋滞は無いが赤信号がやたらに多い。
 着いたエクスプレス・バイ・ホリデイインは今までのホリデイインとは様変わりのビジネスホテルである。ロビー、ダイニングは無く、簡単なカフェバーのみのB&Bである。部屋は日本のものよりも広かったが、バスタブは無く、シャワーのみである。
 7日は朝食もそこそこに10:20発AZ864便で地中海をひとまたぎ、11:35チュニス・カルタゴ空港に到着する。機内で配られたチュニジアへのEDカードは英語の表示が無く、アラビア語とフランス語だけなので記入に一苦労する。空港を出ると耳の長い4匹の「砂漠の狐」の像が愛くるしく迎えてくれる。昼食は海鮮材料を壺ごとオーブンで暖めた「クスクス」である。ナンのようなメリケン粉の蓋をナイフで切り裂いて皿に盛りつける。

2.タイルなら バルドー博物館
 チュニスではまずモザイクタイルでは世界一を誇るバルドー博物館を訪ねる。オスマン統治者の邸宅を利用したものだけに豪壮である。カルタゴの遺跡から出土した尖った墓碑、紀元2世紀のユダヤ教典、ギリシャ・ローマ時代の等身大の石像、その他工芸品。しかし此処の目玉はなんと言っても「ディアナの狩猟」など人間・動物を描いたモザイクタイルである。細かい色石を巧みに組み合わせて色の階調を精細に表現した秀作が揃っている。血まみれの動物に剣を振るう剣闘士のモザイクなどに目を奪われる。

3.白と青の町 シディ・ブ・サイ
 日曜日でお休みのメディナ( 旧市内 )のスーク( 市場 )は明日に振り替えて、シディ・ブ・サイドを見学する。町の名は「ブ・サイド聖人」という意味である。ほかにもシディ( 聖人の意 )の付く名称はよく見かけた。町を通り抜けた高台から見る、真っ青な地中海に白壁の家々とその青い扉とのコントラストが素晴らしい。
 引き返して町のランドマークでもある「カフェ・デ・ナット」へ入る。世界で最も古いカフェといわれるアラブ風の喫茶店である。バルコニーの椅子席で海を眺め、町を眺めながら、松の実入りのミントティー( @1.5D 、1ディナールは約90円 )をスローに喫する。時の流れがしばし止まったように。店の奥では花筵の席に上がり込んでティーを飲み、シーシャ( 水タバコ )をくゆらせながら悠々と時を過ごす土地の男達。女性客の姿が見えないのはイスラムの男尊女卑の所為か。午後6時になると土産物屋はばたばたと店を閉める。私達もシェラトン・チュニス・ホテルへ引き揚げる。

4.チュニスのメディナ( 旧市内 )、スーク( 市場 )
 翌8日はシャンゼリゼ風のカフェ・テラスが並ぶハビブ・ブルギバ通り ? では4両編成もの路面電車が走っている。ビクトワール広場のバブ・バール( フランス門 )からメディナのスーク( 市場 )へ入る。種々雑多な店が軒を連ねる。派手な形の鳥籠や、結婚式に使う花籠の店が華やかである。グランドモスクを取り囲むように香水の店が多い。モスク周辺では香水のような「高貴」なものしか扱えない決まりが有るらしい。その先の一角は昔、奴隷取引専門のスークだったとか。
 スークの中のカフェでミントティーを一服、@ 500ミリーム( 0.5D )である。シディ・ブ・サイドでは3倍の1.5D だった。シディ・ユセフ・モスクのバルコニー付きミナレットは後の建築家の手本となった有名なものである。スークを出た西側はカスバ広場だが、行政機関が多いため殆ど撮影禁止である。首相官邸周辺は自動小銃を持った兵士が警護している。

5.陶器の町 ナブール
 次いでチュニスを後に陶器の町ナブールへ。それを象徴するように巨大な陶器の花瓶がロータリーに据えられている。工房では轆轤と絵付けの工程を見学する。細密な模様を描き込んだ見事な大皿( 40D )には裏に絵付け師のサインが書き込まれている。しかし全般に焼きが甘く割れ易そうである。
 この町の青空スークでは当然陶器の店が多いが、真鍮細工、水タバコ器具のほか、特に目立つのがTatoo( 刺青 )の看板を掲げた装身具店である。刺青も装身具の一種と見なしているのだろうか。図柄見本の中には漢字もあった。

6.チュニジアのトップ・リゾート ハマメット
 綺麗な海岸沿いに暫く走ると、チュニジアのトップ・リゾート、ハマメットである。カスバ( 城塞 )を正面に見据えながら海鮮の昼食のあと、城の中にはいる。小規模ながら賑やかなスークがあり、その奥は一転して静かな住居地区である。城壁の外の海岸には異様な人魚像と民芸店が一店、客待ちの観光馬車も。ゆったりと時が流れて、地中海が眩しいほどに青い。

7.此処もリゾート スース
 海沿いに走ってスースの街ではまず城壁に囲まれたメディナへ行く。右手、教会のミナレットと思えば城塞の見張り塔、左手、城と思えばモスク、但し外敵に対しては城塞になる。ともあれ教会と城塞は表裏一体のようである。スークを一巡したあと、ガイドが適正価格だと奨めるショッピング・センターへ入る。この店頭にもTatooの看板があり、近くで背中に「愛」と彫った女性を見かけた。
 向こうのプロムナードのある岸壁にはロケにでも使ったのか海賊船が二隻繋留されている。入場無料ではあったが、キャビンにはホームレスの毛布らしきものが二三枚散乱していた。
スースのホテル、ディアール・アンダルースは海に面して広いプールを備えたリゾート・ホテルである。ロビーにゴルフ・パックの広告が貼ってあった。3ゴルフ場205D、4ゴルフ場5ラウンド359D、ゴルフ三昧である。街の割には立派なカジノも目に付いた。

8.「血と砂」 エル・ジェムのコロセウム
 明くる9日は広大なオリーブ畑を左右に見ながら南下してエル・ジェムのコロセウムを訪れる。紀元2世紀頃、オリーブ・オイルの交易で栄えたローマ時代に建設された円形闘技場である。紀元80年に完成したローマのコロッセオより規模は小さいが保存状態が良く、今でも毎年夏には音楽フェスティバルが行われる。イタリア・ヴェローナのアレーナ同様、現役のコロセウムである。1979年、世界遺産に登録されている。
 観客席の1階は国会議員、2階は軍人、3階以上は一般民衆及び奴隷だったという。支配者のロイヤル・ボックスは場内がよく見渡せる中央入口の上に設けられている。当時は猛獣同士、奴隷と猛獣との対戦の他、剣闘士同士のトーナメントも行われた。年間30人抜きを3回勝ち抜いた剣闘士は奴隷の身分から解放されたという。
 血生臭い決闘で汚された闘技場を整備するため撒いた砂をラテン語でアリーナと呼んだ、現在の円形演技場「アリーナ」の語源である。スペインの闘牛士が主人公の「血と砂」という映画を思い出した。続いて地下の剣闘士の控え室、猛獣収容室も見学する。ベルベル人の女王カヒナが701年、イスラム・アラブ軍と最後の決戦で果てた処と言い伝えられている。
 私達もベルベル人が逐われた跡を訪ねてマトマタへ向かう。しばらくはオリーブ畑を眺めながらバスは走る。時々首付き羊肉を店先に吊した店が目に付く。中にはその場で食べる客もいるのか、バーベキュー用コンロを備えた店もある。若い羊肉は、それを証する為わざわざ首付きで吊すという。
 ハニカム状煉瓦で新増築ながら中途で放置してある家をよく見かける。金があるときは煉瓦を買ってきて築造するが、無いときはそのままいつまでも放っておくという。道理で素人臭い工事である。

9.ベルベル人の穴蔵住居 マトマタ
 再び海沿いに南下を続ける。以前はリゾートだったという海岸も所々通り過ぎる。ガベスを過ぎるあたりから山地へ入って行く。やがてマトマタのベルベル人の穴蔵住居前に到着する。山肌から10m程掘り込んだ竪穴から、放射状に横穴を掘り進んだ居室が幾つかある。夏は涼しく、冬は暖かくてなかなか快適らしい。居室の上階は倉庫だという。
 女主人のファティマさん( 83歳 )がよく整頓された室内を案内してくれる。日本人観光客と見ると唯一覚えた日本語「フジヤマ」を連発して盛んに愛嬌を振りまく。帰り際にチップ`@ 1D、今では観光用住居のようで、シーズンには可成りの収入になろう。
 少し離れたところに「スターウォーズ」のロケ( バーのシーン )にも使われた穴蔵式オテル・シディ・ドリスがある。天井に奇異な模様を描いた穴蔵「バー」の隣の同じく穴蔵の食堂で昼食を執る。チュニジア風春巻きは意外に美味しかった。2階はドミトリー式の寝室でベッドが7台並んでいた。
 此処から乗り換えて行くべき4WD( 四輪駆動車 )がなかなか来ない。土産物屋の冷やかしにも飽きた頃、漸く2台が到着した。あと1台は途中で故障したという。3台に @ 4人が分乗して行く予定だったが、急遽2台に@ 6人が詰め込まれることになった。これから砂漠への道中が思いやられる。
 砂の広野に棗椰子が数本の小さなオアシスに、バー「サルタン」と看板の店がポツンと建っている。僅かの飲み物、スナック菓子とは対照的に「砂漠のバラ」と呼ばれる石の結晶は山盛り並べてある。とにかく貴重なトイレ・スポットではある。

10.駱駝ツァーとテント・ロッジ クサルギレン
 砂埃を巻き上げて走ることしばし、緑の森が見えてきた。クサルギレンである。棗椰子に囲まれたパンシー・ホテルにはプールもあり、早く到着していたら泳げただろうに。
 取り急ぎ荷物を降ろし、砂漠の駱駝ツァー( 約20分 )に出掛ける。先ず一こぶ駱駝への乗り方を見覚える。3匹縦隊に一人の御者が付く。先頭の駱駝は御者が手綱を握っているから問題ないが、後の駱駝はご用心である。駱駝の機嫌が悪かったのか、乗り方が拙かったのか、男性2人、女性1人が振り落とされた。砂地とはいえ約2mの高さから不意に落とされれば怪我もする。70余歳 の女性は起き上がれない程の重傷である。後で判ったことだが股関節脱臼らしく、数十km先のドゥーズの医院まで4WDで担ぎ込んだ。呉々も御者が手綱を取る先頭の駱駝に乗ることか肝要である。
 石油を探索していたら温泉が出たというこのオアシスには砂漠のすぐ傍に温泉池があり、一人の男性が泳いでいた。
 宿泊はこのツァーの呼び物テント・ロッジである。1張りに3ベッド、水洗トイレ、シャワー、エアコン完備の二重テントである。内側のテントは念入りに目張りがしてある。凄まじい砂嵐に備えてのことであろう。こういうテントが数十張り砂地の上に設置されている。

11.砂漠のオアシス ドゥーズから塩湖「ショット・エル・ジェリド」
 翌朝10日、いつの間に撮ったのか駱駝に乗っている写真を売りに来た、1枚買う。今日は4WD(トヨタのランドクルーザー) 3台に分乗して出発である。駱駝の放牧を眺めながら昨日の小オアシスに立ち寄る。丁度店員がナンを焼いていたので1枚( 0.5D )買って、皆に小分けしながら食べる。噛むほどに味わい深い。傍らのテントには砂地に直に毛布が敷いてある、この店員の寝所らしい。
 太い送油パイプが路傍に数本づつ縦列に放置してある。砂嵐で道路が埋まるのに備えての目印とのことである。
 遊牧民族の交差点らしく、ドゥーズの街に近ずくにつれ、羊や駱駝の放牧が目に付く。街の青空スークでは部族毎に異なったデザインのペンダントを売っている。ミント・ティー1袋を買う( 1D )、後日チュニスのスーパーでは3袋で1Dであった。昼食を執ったホテルのロビーに見事な能衣装が飾ってあった。トイレのタイルも精巧で地方都市にしては・・・と感心する。
 この街を出るとケビリ経由いよいよ塩湖「ショット・エル・ジェリド」( 塩の層に覆われた湖の意 )の横断である。一直線に続く道路脇の水際に塩が白く析出している。そのうち塩田、塩の小山、製塩工場が見えてくる。遙か彼方にオアシスらしい森影が現れる、「あれは蜃気楼 ! オアシスと信じて乾いた塩湖を歩き続け、遂に水、食料が尽きて行き倒れた人もいた。」とガイドが解説する。途中に唯一カ所、粗末なトイレを併設した土産物屋がある。トイレ休憩には不可欠の店である。

12.山のオアシス3渓谷 シェビカ、タメルザ、ミデ
 塩湖の北岸トズールを通過してしばらく走ると「山のオアシス」シェビカ渓谷である。一木一草も無い山間の谷間に僅かに水が湧き、棗椰子が茂る。正に山のオアシスである。1969年の大洪水でベルベル人が放棄した廃村があり、「インディー・ジョーンズ(レイダース) 」もロケしたという秘境ムードが漂っている。大昔は海だったのか、山肌をよく見るとアンモナイトらしい貝の化石が露出している。
 次はタメルザの滝を見に行く。ここも山のオアシスで、グラン・カスカド( 大滝 )というささやかな滝が流れ落ちている。土産物屋が数軒あるだけで、周囲は勿論禿げ山である。
 続いて訪れたミデス渓谷はアルジェリアまで2kmという国境の谷である。バルコニー・オアシスと呼ぶ地点は足元から地球の割れ目のような狭くて深い谷が延びている。殆ど水平に延々と続く鮮明な地層はミデス峡谷の年輪のようでさえある。1997年アカデミー賞の映画「イングリッシュ・ペイシェント( イギリス人の患者 )」もこの峡谷でロケしたという。
 今夜の宿は荒れ地にぽっかりと現れたようなタメルザ・パレス・ホテルである。3週間も降り続いたという1969年の大洪水でベルベル人が捨てた廃村が大きな涸れ川越しに眺められる。こちら側はプールもある豪華な四つ星のリゾート・ホテル、川向こうは古代の廃墟のような集落のパノラマ。一瞬異次元の時空を往復しているような錯覚に捕らわれる。

13.宇宙ロケに最適 オング・ジャメル砂丘と塩湖「ショット・エル・ガルサ」
 11日はサハラ砂漠の日の出を見ようと3:30 モーニング・コール、4:45 出発で一路砂漠の真っ只中へ。6:00 目的地のオング・ジャメルという小高い砂丘へ到着、次の発進でタイヤがめり込まないように4WDを、下り勾配に駐車する。早速土産物売りの男が数人、いつの間にか、忽然と地から湧いて来たかのように近づいて来る。1Dの民芸ペンダントには女性客の人気が集まり、結構売れたようである。6:20漸く朝日が昇り始める。地平線は薄雲で少し霞んだ太陽である。
砂丘の遙か彼方にぽつんと異様な集落が見える。近づくと、なんとスターウォーズのロケに使った異星人基地のオープン・セットである。ロケットのミニチュアも数本立っている。10数年経った今ではさすがに損傷も進み、内側の張りぼても無残である。動植物の一切無い空間は地球外の宇宙のシーンには最適であろう。
 続いて真っ白に乾いた塩湖「ショット・エル・ガルサ」にある奇岩ラクダ岩を見に行く。此処も珍奇な風景としてロケによく使われるという。この異空間からスベイトラに向かう途中、砂漠の彼方に大型飛行機とコントロール・タワーが見える。これも蜃気楼かと一瞬目を疑うが、トズール・ネフタ国際空港であった。周辺の観光リゾートを楽しむため、主にフランスからほぼ毎日直行便があるという。ガソリン・スタンドで給油中、二部制授業に登校中の女学生にフランス語で声を掛けたら、通じたらしく笑顔が返ってきた。

14.ビザンチン遺跡 スベイトラ
 サハラ砂漠ともお別れで、4WDからバスに乗り換える。スベイトラの遺跡見学は先ずローマ式の半円形劇場から始まる。この劇場でも歌舞伎の黒子のように、台詞の助っ人プロンプターの控え室がある。客席の後方を真っ直ぐ、大通りを進むとアントニウス・ビヌスの門を潜り、フォルム( 公共広場 )へ出る。正面にコリント柱のミネルバ、ジュピター、ジュノの3神殿が立ち並ぶ。資産家が財力を誇示し、人望を集めるために建てたのだとガイドは言う。
5 0ヘクタールにも及ぶこの遺跡は7世紀半ばにチュニジアに建設されたビザンチン最後のものである。洗礼槽、避暑目的の地下室、その見事な床タイルなどローマ式都市のたたずまいを知る上で貴重な遺跡である。まだまだ未発掘の面積も大きいという。

15.ケロアンの宿は城塞 「ラ・カスバ」
 ケロアンへの道中では砂漠から緑野へと、車窓が次第に移り変わって行く。ケロアンのカーペット工房では次々に床に拡げて見せてくれるが買った人は居なかったようである。中近東の旅などで既に購入済みなのであろうか。デザイン、配色、見る角度で色調が変わるなど、なかなか豪華なものではあった。
 11月7日通りのスークではカーペットのほか、ベリーダンスでも着られそうな派手なドレスを路傍に並べ立てている。また土地名物の鄙びた菓子「マックロード」( 棗椰子の実を蜂蜜のしみ込んだ生地でコーティングした菓子 )の店が多い。店頭での実演販売では間合いの良いタイミングの口上でつい2つ3つ買ってしまう。此処と思えばまたあちらと場所をかえながらの、商売熱心な香料屋台もある。
 今夜の宿泊は城塞の中のズバリ、「ラ・カスバ」ホテルである。城壁の外には大砲まで据えられていたが、ホテル内部は一般の観光ホテルと変わらない。

16.大貯水池と大モスク ケロアン
 翌12日の見学は街の北、アグラブ朝の貯水池から始まる。西方36kmから導水路によって運ばれ、浄水池を経て大型貯水池に蓄えられる。9世紀当時の最高技術で建設された14の貯水池も、現在なお4池がケロアン市民に上水を供給している。
 再び城内に戻りグランド・モスクを見学する。重厚な煉瓦の四囲は要塞を思わせる。大理石を敷き詰めた中庭の中央に向かってゆるやかに勾配し集水口、その下に貯水槽があり雨水を貯めている。中庭を囲む回廊の華麗な壁タイル、豪壮なレバノン杉の扉など目を瞠るものがある。礼拝堂はムスリム( イスラム教徒 )以外は入れないが、入り口からメッカの方向を示すミフラーブの壁を見ることが出来る。
 中庭の反対側には高さ31.5mのミナレットがある。728年に築かれた最下段はイスラム最古のもので、キリル文字が読めない職人が築いたのであろう、文字が上下逆になっている。角石はビザンチン遺跡から持ち出されたものだという。640年建立、9世紀のアグラブ朝に再建されたこのモスクは北アフリカ最古最大のものである。
 次の目的地ドゥッガへの道中では山頂まで届く広大なオリーブ畑が続く。昼食はホテルのレストランで猪肉のステーキであった、意外に臭みは無かった。

17.チュニジア史の縮図 ドゥッガ遺跡
 アフリカを代表するローマ遺跡として1997年世界遺産に登録されたドゥッガ遺跡は規模、保存状態とも最も優れたものの一つと言われている。ヌミディア、カルタゴ、ローマ、ビザンチンとチュニジア征服の歴史を示す複合遺跡でもある。
 先ず出会うのが168年に建てられたローマ式半円形劇場で、ほぼ原型に近く保存されている。背後の山では放牧の牛や羊がのんびりと草を食んでいる。轍の跡が凹んだ道路、凱旋門、商店、そして都市の中心フォルムからキャピトルへ。其処にはユピテル、ユノー、ミネルヴァの三神を祀るコリント柱の神殿が荘厳に聳える。しかし中央のユピテル像は今は無い。
 ローマ人の住居跡を通ってメインストリートを下り、トリフォリウム(クローバー)の家へ行く。これは公営売春宿で、家の名前は例の小部屋「クローバーの間」から来ている。前金を支払って階段を下りると中庭に面して幾つかの小部屋がある。一方通行で他の客と顔を合わせることもなく、出口はその先にある。12穴の共同便所はセパレーターも無く、青空の下おおらかな情景である。アーチの石組みや浴場の床タイルもよく保存されている。
 遺跡の南端に近くベルベル人の墓といわれる石塔が建っている。ただし1842年崩壊のため、フランス政府が再建したものだという。

18.ヌミディアの地下住居 ブラ・レジア遺跡
 引き続きブラ・レジア遺跡へ移動する。地上には2世紀に建てられたというユリア・メムニアの大浴場が目立つくらいで、此処の見所は北部の地下住居群である。夏の暑熱を避けるため地下に上下水道完備、中庭付きの住居を築き、床には見事なモザイク画が描かれている。中でもアンフィトリテの家のトリトンとアフロディテのモザイク画はブラ・レジアで最高の傑作といわれ、2世紀頃の作品とは信じられないくらい保存状態がよい。サウナ風呂の焚き口、チューブボルトを使ったアーチ工法の跡などを見ることが出来る。
 ブラ・レジアの盛衰はヌミディア王国の興亡でもある。ベルベル系民族のヌミディア王国はカルタゴ時代はその勢力下に、第二次ポエニ戦争後はローマの同盟国に、第三次ポエニ戦争後はローマに反抗して滅ぼされ、その属州となって栄えた時期もあったが、ビザンチン時代以降は衰退し、今では無人の都市遺跡を残すのみである。

19.現地ガイド・ロトビー君の談話
 この辺の鉄道は総て単線で、殆ど貨物輸送用だという。チュニスへの道すがら、現地ガイド・ロトビー君の談話にしばし耳を傾ける。
 「驚異の戦後復興を成し遂げた日本の活力を絶賛する教師に感化されて、大学では日本語科を卒業した。再度来日して東京、名古屋、京都、広島を歴訪した。二度目は日本民放の招きで超長身のチュニジア人を案内して来た。日本人観光客がもっと沢山チュニジアに来てほしい、まだ独身中。
 なおチュニジアでは独身の特権として、金の無いときはカフェの茶代は免除される。しかし妻帯後はいかに失業中でも支払わなければならない。」と。
 ようやくチュニスに帰り着く。今日はなかなかの強行軍であった。

20.ケリビアから カルタゴ遺跡ケルクアンへ
 13日はボン岬の遺跡歴訪である。先ずはケリビアのビザンチン要塞へ。5世紀のカルタゴ時代を経て6世紀からのビザンチン時代に城塞が築かれた。城壁は威厳を保っているが城内は殆ど見るべきものはない。ケリビア港に向かって据えられた大砲が不気味である。強風にあおられながら城壁の上から見渡したパノラマは壮観であった。
 次はいよいよ世界遺産ケルクアンの古代カルタゴ遺跡である。先ず町の北西の岩山から発掘されたネグロポリス( 墓場 )の副葬品、異形の墓石などを陳列した博物館を見学する。
 ケルクアンの町は紀元前6世紀頃カルタゴ人によって築かれ、紀元前2世紀、第一次ポエニ戦争でローマ軍によって破壊された。その後町を再建しなかったため、建物の底部が遺され、整然とした都市計画と各戸の構造を知ることが出来る。住居は真っ直ぐ中庭に進み、それを囲んで生活の場が配置されている。赤いセメントで造られた浴室、竈、貯水槽、排水溝、二階への石段が2~3段、シンプルな床モザイクも。ささやかながら皆同じような構成である。
 ローマ人が公共大浴場を建設したのに対し、カルタゴ人は各戸に小浴室を設備したのは、染色過程で発生する紫貝の腐臭を洗い流すためという説もある。因みにフェニキアとはギリシァ語で「紫」の意である。
 海に近くアポトロバイオンの円柱群跡にはカルタゴの守護神タニトを表した床モザイクがあり、神聖な場所とされている。集落の中心部にフォーラム( 中央広場 )が有るのはローマ遺跡と同じである。貴重なフェニキア遺跡として1985年世界遺産に登録されている。

21.石切場エル・ハワリアと 「カルフール」ショッピング
 昼食はエル・ハワリアのレストラン・レ・グロット( 洞窟の意 )でトマト煮の海鮮料理「ウジャ」を食した。この石切場は石質が良いとして6世紀ローマ時代のカルタゴ都市建設には大量の石が切り出された。より良い石質を求めて幾つもの洞窟が掘り進まれた、中でもガル・エル・ケビルは最大の切り出し穴といわれている。
 岬の丘に風力発電のプロペラが数十基林立しているのを眺めながら、チュニスへの帰路に就く。チュニス郊外のフランス系スーパー「カルフール」でクッキー、ワイン、オリーブオイル、ミントティーを買う。おおまかに言えば食品は日本の半値以下、家電など工業製品は倍以上の価格である。店内は一切撮影禁止、ワイン売り場は袋小路式で、唯一カ所の出入り口は係員が監視 ? している。小売業としてはカルフールは世界第2位の売上高という。

22.「平家琵琶」のようなマルーフ
 今夜はチュニスのメディナの「エッサラヤ・レストラン」で民族音楽マルーフを聞きながらの夕食である。スークの元富豪の邸宅を改装したもので、中庭に天井を取り付けてダイニングルームにしている。従って周囲に個室もあれば、二階にはバルコニーもある。
 入り口に近く薄暗いところに黒い僧衣を纏ったような男が琵琶に似た楽器を抱えて着座している。やがて満席に近づいた頃、弦を掻き鳴らしながらマルーフを吟じ始める。吟遊詩人もさぞやと思わせる纏綿たる情緒である。日本ならさしずめ「平家」を語る琵琶法師というところであろうか。物静かに、或いは高らかにディナーに興を添える。宴の余韻に浸りながら、昼間の喧噪とは打って変わった夜更けのメディナを後にホテル・シェラトン・チュニスへ引き揚げる。

23.ビュルサ伝説と 古代カルタゴ遺
 翌14日はチュニジア最後の行程である。TGMと呼ばれる郊外電車と、時に併走しながらカルタゴに到着する。カルタゴは現地ではフランス語式にカルタージュ(CARTHAGE)と呼ばれている。カルタゴの遺跡はTGMのカルタージュ・サランボ駅からカルタージュ・アミルカル駅まで6駅に亘って分布している。
 先ずビュルサの丘へ上る。伝説に依ればこの丘の名は、王位争いからフェニキアを逐われた王女エリッサが放浪の末、紀元前814年、此の地に辿り着き、牛の皮(ビュルサ)を細長く切り裂いて土地を囲い、丘を手に入れたことに由来するという。はじめはカルト・ハダシュト(フェニキア語で「新しい町」の意)と称していたが、後にローマ人がカルタゴと呼ぶようになった。
 眼前に威容を誇るのは十字軍遠征でこの地に没したフランス国王聖ルイ9世に捧げて建てられたというサン・ルイ教会である。横を通り抜け紀元前3世紀ポエニ時代のカルタゴ住居跡を見学する。中庭を囲んで「狭いながらも楽しい我が家 ? 」の跡が画然と並んでいる。
 カルタゴ博物館ではカルタゴの変遷の見取り図、墓碑、副葬品、人骨、剣で突き刺した穴のある鎧などの出土品が展示してある。チュニスのバルドー博物館には及ばないが、カルタゴ最古といわれるモザイクタイルを始め、狩猟の図を描いたモザイクの大壁画が床に展示してある。これを二階への階段から眺めるとその巨大さが実感できる。館外の敷地にはかつて建っていたであろう建物の円柱の底部が遺されている。
 丘を下りて古代カルタゴ軍港に行く途中、ポエニ人の墓地トフェがある。カルタゴの守護神タニト神を祀る聖域とされていたが、今は数十基の墓石が散乱しているだけである。中に何基か、神への生け贄に捧げられた一歳未満の嬰児の墓といわれる小さな墓碑があり、思わず合掌する。
 一見、中の島のある池のように見える古代カルタゴ軍港の畔を散策する。直径約300mの円形ながら、古代軍船220隻を繋留することが出来たという。隣接して横長の商業港が水路で繋がっている。
 東へ移動して、1988年に修復されたアントニヌスの大共同浴場を見学する。2世紀ローマのアントニヌス・ピウス帝が建設したもので、二階建て、冷温浴の大小100余の部屋を持つ一大温泉レジャーセンターであったという。
 この東隣はチュニジア大統領官邸のためカメラを向けることは一切禁止されている。今やカルタゴ一帯は高級住宅地として各国大使公邸や別荘などが建ち並び、遺跡はその間に点在している状態である。これら一連のカルタゴ遺跡は1979年世界遺産に加えられた。

24.神業 テルミニ駅~フォロ・ロマーノ間を30分で往復
 此処からチュニス・カルタゴ国際空港は近い。空港で昼食代わりにサンドウィッチを頬張って12:35 AZ863 アリタリア航空で飛び立った。離陸して間もなく、あのドーナッツ型の古代カルタゴ軍港を俯瞰することが出来た。
 機内食も無いまま13:55ローマのフィウミチーノ国際空港に着陸する。滑走路は殆ど海岸沿いで、こんなに海に近い空港とは知らなかった。
 成田行き20:45まで待ち合わせ時間があるので、ローマの街へ出ようということになった。空港駅からテルミニ駅行きの切符は空港線オンリーのため簡単に買うことが出来た。9.5Euro(約1300円)、ノンストップで約30分。しかしテルミニ駅で帰路の切符を買うのには難儀した。どの出札窓口も長蛇の列、自販機は英・独・仏・伊・西・蘭語を選択して次々と数画面を操作しなければならぬ。やむを得ず、どこかの添乗員らしき日本人男性をつかまえて手伝って貰った。
 メトロでフォロ・ロマーノへ行くつもりだったが、段々時間が無くなってタクシーで駆けつけた。チップ込み10Euro。日曜日のため人出は多かったが交通渋滞も無く約10分で到着する。しかし残念ながら冬季は15:00で閉場のため、フォロ・ロマーノの中には入れなかった。大急ぎで道路脇から全景をビデオとデジカメで撮影してタクシー乗り場へ。運転手に「テルミニ駅へ」と言うと「メトロか、トレインか ? 」と聞いてくる。「空港へ行くのだからトレインのテルミニ駅だ」と答える。
 来るとき覚えておいたが空港線は26番線である。しかしいくら見渡しても1~24番線までしか見当たらない。警備員らしき職員に尋ねたら右側ずーっと( 約200m ? )前方だという。殆ど小走りに17:22発空港行きに飛び乗った。テルミニ駅~フォロ・ロマーノ間往復たったの30分、あとから思うと正に神業であった。

25.帰国 明暗
 ユーロ圏外への出国審査を念入りにチェックしているためか、数カ所の窓口がどれも大混雑である。搭乗ゲートまで約1時間半かかってしまった。アリタリア航空AZ7788便はJAL400便と共同運航のため日本人スチュアーデスも多く、イタリア人スチュアーデスも日本人顔負けの物腰で、早くも国内線ムードである。このジャンボ機では二階席であった。15日17:00成田着、入国手続きの後、19:30全日空NH339便で名古屋空港着20:40。無事流れ解散となった。
 駱駝ツァーで負傷した老婦人は、無理にでも皆と一緒に帰国したいと熱望したが、旅行保険の傷害治療は医師の指示通りが原則で、それを逸脱した行動は以後一切自己負担という。やむを得ず小康を待って俄介護人となった友人と共に2~3日遅れて帰国したようである。

26.カルタゴの興亡と チュニジア概史
 最後におさらいとしてカルタゴの興亡とチュニジアの歴史を概観しておこう。
 ビュルサ( 牛の皮 )の「伝説」はともかく、カルタゴの興亡は3000年の昔に遡る。地中海東岸地方(主としてレバノン)の民だったフェニキア人は造船、航海、通商に優れ、地中海交易の中継基地としてカルタゴに植民都市を建設した。紀元前6世紀には最盛期を迎えたという。
 これに対し地中海の覇権をめぐってギリシャ、ローマと対立し、三次( 前264~前146 )に亘るポエニ戦争( ローマ人はフェニキア人のことをポエニと呼んだ )の後、カルタゴは滅亡した。勇将ハンニバルがローマ軍を散々苦しめたのは第二次のときであつた。しかしカルタゴはローマ支配下にあっても、好立地から再び繁栄を取り戻し、ローマ、アレキサンドリアに続くローマ帝国第三の都市となった。
 降って2~4世紀、ローマ帝国の衰退と共に、ヴァンダル人( ゲルマン民族の一部族、439)、ビザンチン( 東ローマ帝国、534 )、イスラムを信奉するアラブ軍( 647 )が次々に侵攻する。先住ベルベル人の抵抗、アラブの内部抗争などを抱えながらも歴代のイスラム王朝はチュニジア全土を制圧してきた。
 これに対しスペインはレコンキスタの余勢を駆ってイスラム追放を狙う( 1525 )が、一方イスラム国家オスマン・トルコはこれに対抗( 1574 )、借金の形に付け入るフランスは遂にチュニジアを植民地化してしまった( 1878 )。
 
 しかし1956年遂に独立。その間も尚チュニジアはイスラム国家であり続けた。因みに3月11日スペインで起こった通勤電車爆破テロの首謀者の一人ファケットはチュニジア人である。

 本稿ではダイヤモンド社「地球の歩き方・チュニジア」を一部参照させて頂いたことを付記します。
(←シェビカ渓谷でTD岡本さんと林さん)





 

この26節の写真は上から、カルタゴ古図、ベルベル系ヌミディアのブラ・レジア遺跡、ドゥッガのローマ遺跡、ケリビアのビサンチン要塞、ケロアンのイスラム大モスク。