2010年5月8日土曜日

ポーランド紀行(2004年5月)

1.使い易いフィンランド航空
 5月31日、新幹線、特急はるかと乗り継いで9:10関空に到着。以前より鋭敏になった金属探知器でボディーチェックを受けて、11:00発ヘルシンキ行きフィンランド航空AY078便に搭乗する。
今回のツァーは札幌から3名、別府から2名、名古屋からは3名、あとは大阪、神戸10名と片岡弥生TDの計19名( 男4名、女15名)の一行である。
 所用10時間20分だが、-6時間の時差でヘルシンキへは同じ日の15:20に到着した。空港では日本人職員が親切に乗り継ぎや入国の案内をしている。17:45発コペンハーゲン行きAY667便の機内でも現地語、英語のほか日本語の案内放送があった。
 さらに-1時間の時差で18:25到着した空港ではSASマークの飛行機が十数機駐機している。またスカンジナビア航空のストらしく、乗り継ぎカウンターは大混雑である。「だからSASはやり難い、その点フィンランド航空は使い易い」とは片岡TDの独り言。私達は19:30発ワルシャワ行きポーランド航空LO462便のためスムースに乗り継ぐことが出来た。(A+BC)で18列とコンパクトな機体である。  左前方に飛行機雲を曳きながら飛んで行く機影が見える。普通は地上から見上げる飛行機雲を、機窓から横に眺められるとは・・・と悦に入っているうちに20:50ワルシャワのオケンチェ国際空港に着陸した。丁度夕日が沈むところである。
2.ワルシャワ・ゲットー、ワルシャワ蜂起
 6月1日、ポーランド最初の訪問はワルシャワのユダヤ人ゲットー記念碑である。戦災で壊滅したゲットー( ユダヤ人隔離居住地区)に建てられたもので、ユダヤ人受難像を刻んだレリーフである。三角形を逆に組み合わせた例の紋章が供えられている。早くも次の団体がバスで乗り付けてきた。
 東へ600m程行ったところに、今では古文書館になっているというクラシンスキ宮殿がある。ワルシャワ大学で日本語とラテン語を学んだという現地ガイドのアンナさんが、ラテン語と数字についてひとくさり。「欧州の言語は語源がラテン語から来ているものが多く、綴りを見れば大凡の意味は判る」と。
 道路を隔ててワルシャワ蜂起記念碑がある。1944年、ワルシャワ蜂起の地下運動を象徴するように、地下道から這い出した市民の苦しそうな表情が痛々しい。ソ連軍の離反により20万人もの市民を犠牲にして、結局ドイツ軍に惨敗した。1989年、この碑が建てられ、ドイツは首相が献花・謝罪したが、その後も圧政を続けたソ連に対しては市民は未だに反感を持っているという。ポーランド人はロシア人と同根の西スラブ族で、ポーランド語もロシア語に似た言葉が多いようだが・・・。
 後ろには悲劇の碑とはアンバランスに薄緑色の最高裁判所が建っている。
3.キューリー夫人博物館から旧市街へ
 少し東にキューリー夫人博物館がある。この家で生まれた彼女は、当時ロシアに併合されていたポーランドでは勉学思うに任せず、フランスに脱出、ソルボンヌ大学を卒業した。その後フランス人科学者ピエール・キューリーと結婚、ラジウムなど放射性元素の発見、研究に努め、ノーベル物理学賞、後に化学賞を受賞した。館内には研究経過や実験器具などが展示されているが撮影禁止である。
 次はいよいよ旧市街の入り口、バルバカンである。今ではヨーロッパに数カ所しか残っていないという赤煉瓦の円形砦である。15~16世紀に建てられ、火薬庫や牢獄としても使われていた。第二次大戦で破壊されてしまったものを市民の熱意で1954年、見事に復元された。
広場に出ると中央には楯と剣を振りかざす人魚像が建ち、周囲は大きなパラソルを連ねたカフェや物売りで賑わっている。当時、広場は一つだけだったので、「広場」と言えば今でも此処を指すらしい。
 広場を東に出るとヴィスワ川、対岸は動物園である。金の滴のような黄金色の花が藤のように、たわわに垂れ下がって咲いている。「金滴樹」と呼びたくなるような木である。
4.王宮復興の熱意
 引き返して今は博物館になっている旧王宮を見学する。第二次大戦で完膚無きまでに破壊されたが、心ある美術史家たちによって事前に貴重な絵画・調度品は国外に持ち出されていたため無事であった。バロック様式の建物の内部は王の広間、寝室、食堂、コンサートホール等ジグムント3世当時の儘に再現されているという。被災直後、一面瓦礫の王宮周辺の写真と見比べて、よくぞここまで立派に復元したものだと感心する。疎開されていた精細絵画の数々が大いに貢献しているのだろうと思う。
 ポーランド王を象徴する銀色の鷲を配した王座、豪華な楽譜収納箱、それにユニークなデザインのモザイク床や凝った趣向のドアノブなどが面白い。床、壁とも多種類の大理石を張り詰めた部屋では雰囲気が一変する。
 王宮前広場には1596年、ポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジグムント3世の銅像が建っている。

5.ショパンの心臓
 続いてサスキ公園の無名戦士の墓を車窓から眺めながら聖十字架教会に行く。屋上には金の十字架、内部も金銀きらびやかな教会である。入って左手前の石柱にはショパンの心臓が埋められているが、それにはショパンの遺志を尊重した姉が大いに尽力したという。
 道路の斜め向かいがワルシャワ大学の正門、斜め右には地動説のコペルニクスの銅像がある。
6.ワジェンキ( 浴場 )公園
 午後は市の南方、ワジェンキ公園へ行く。ゲートを入ってすぐ、池の向こうに巨大なショパンの銅像がある。死期に近い肖像から取ったのか憂愁の面持ちである。ピアニストらしいドレスの女性がその前で写真撮影をしてもらっていた。
 18世紀ポーランド最後の王ポニャトフスキが造園した公園で、池に面して建てられた数々の夏の離宮に立派な浴場(ワジェンキ)があったことから、こう呼ばれるようになった。
 ステージの前に池を配した野外音楽堂では折しもアマチュア合唱コンクールの最中である。歌手の前に陣取った数羽の孔雀が時々猫のような鳴き声で奇妙に唱和する。
 早めにメルキュール・ホテルに引き揚げ、民族料理ピエロギの夕食である。水餃子に似ているが、にら、ニンニクは入らず、酢醤油も無いので期待した餃子の味ではなかった。

7.IC特急で古都クラクフへ
 2日はワルシャワ中央駅から9:15発インターシティー特急で南部の古都クラクフへ。ソ連時代の影響か、駅構内は撮影禁止である。駅前に聳える文化科学宮殿付近は再開発のクレーンが立ち並ぶ。
 地下二階のプラットホームから6人1コンパートメントの一等車に乗る。ワルシャワから暫くは見渡す限りの平野だが、後半は丘陵の起伏が続く。途中、車掌が一度検札に来たのみでノンストップ、2時間35分でクラクフ到着である。ここも駅前は再開発で掘り返していた。
 クラクフのガイド、リヒアルト君が同乗して広大な墓地を横目に、西方54kmのオシフィエンチムに向かう。墓地に林立する十字架はロシア正教のものと似ているが少し違う。カトリックと混合した「連合」のものだという。街を出て道の両側に続く白樺林を見ているとシベリアのタイガを思い出す。
 オシフィエンチム駅前で昼食を済ませ、この町外れにあるアウシュビッツ強制収容所を訪ねる。しかし此処はは余りに「凄惨」、稿を改めて記すことにする。
8.中世の面影を残す旧市街
 3日はまず1498年建造、欧州最大を誇る円形防塁バルバカンを見る。すぐ傍には1300年頃に建てられたというフロリアンスカ門がある。門をくぐれば旧市街、「白貂を抱く貴婦人」のポスターを掲示したチャルトルスキ美術館前から中央広場へ行く。
 中世からそのまま残っている広場としてはこれも欧州最大という。真ん中には14世紀に建てられた、長さ100mもあるルネッサンス様式の織物会館がでんと居座っている。当時は織物取引所だったが、今や琥珀をはじめアクセサリや民芸品の店がぎっしりの「おみやげ会館」である。入り口近くの地下男性用有料トイレでは「大は1z、小は0.5z」と用足しをおばさんが見張っていて、料金を徴収する。1ズウォチ( 1z)は約35円。
 旧市庁舎は1820年に取り壊されたが、時計塔だけはそのままこの広場に残された。
 続いてヤギェウォ大学を訪れる。1364年創立、ポーランド最初の大学で、「地動説」のコペルニクス(1473~1543)、現ローマ法王ヨハネ・パウロ2世もここで学んでいる。
 15世紀ゴシック様式の赤煉瓦建物コレギウム・マイウスには一種の威厳がある。アーケード回廊の中庭には卒業試験合格の霊泉があり、毎年6月には学生が列をなすという。
 中央広場へ引き返し1222年に建てられた、これもゴシックの聖マリア教会を見学する。正面ファサードには高さの違う塔を左右に擁する大きな教会である。国宝に指定された奥の聖壇やステンドグラスに目を見張る。

9.古都に相応しいヴァヴェル城
 午後は見学時間を予約したヴァヴェル城である。ポーランドの6月は気候も良く、学校の社会科見学のトップシーズンである。混雑を避けるため厳格に入場制限をしている。城門脇の銅像は18世紀末、3国分割に抗した英雄タデウシ・コシチェシコである。
 入城すると左側に3つの礼拝堂を持つ大聖堂がある。初め1320年ゴシック様式で着工後、数世紀に亘ってルネッサンス、バロックが加えられた異色の建物である。中でもネッサンスの傑作金色ドームのジグムント・チャペルとポーランド最大の鐘を吊すジグムント塔が偉容を誇っている。王の戴冠式は18世紀までここで行われたという。
 旧王宮の中庭に入る。取り巻く建物は16世紀、ジグムント王がゴシックとルネッサンスの複合様式で建てたものだが庇が高いのは太陽光を多く取り入れる為という。屋根の樋の先端が竜頭を象っているのが面白い。集めた雨水を竜の口から吐き出させる趣向である。
王の公室、私室、無数の肖像画、武具もさることながら、厖大な豪華タペストリーは圧巻である。原産地を凌ぐほどのコレクションは、この王宮をむしろタペストリー博物館と見紛うくらいである。
 ヴィスワ川に面して賢者クラクスに退治された伝説の竜の銅像があるが、樹間から竜頭のみを見て退出した。

10.岩塩の殿堂・ヴィエリチカ岩塩坑
 続いて市の南東15kmの世界遺産、ヴィエリチカ岩塩坑の見学である。ここも社会科見学の生徒が沢山入場を待っている。狭い坑内への入坑のため人数制限は厳重である。待つ間、壁の写真を見ていたら高松宮ご夫妻来坑の写真があった。
 順番が来て、まず木製の螺旋階段を約400段垂直に降りる。早足で降りたら恐らく目が回るだろう。途中の渋滞で書いたのか、名前らしき落書きがいっばい、漢字で書いた台湾人の住所氏名も散見される。
 岩塩採掘を再現した現場に降り立つ。採掘夫、運搬・昇降に使役した馬は岩塩の彫像である。王様、偉人、伝説の像など見て回るうち、かつて稼働していた昇降機場へ着く。金属は岩塩で腐蝕するため巨大な昇降機構はすべて木製である。坑道の側板は塩がしみ込んで化石のようになっている。材木の塩干物である。
 天井からは鍾乳石のような塩のつらら、足元には塩水のせせらぎ、それが注ぎ込む地底湖は当然飽和塩水である。
 突然大広間のような巨大空間に出る。採掘跡を利用した聖キンガ礼拝堂である。聖壇、キリスト像、壁面深さ18cmに彫刻した「最後の晩餐」のレリーフ、半透明のシャンデリア、床ブロックまで総てが岩塩製の殿堂である。ここで記念写真を撮る、10z 。
 坑内は自然換気だが、強風を遮るため所々に防風扉が設けられている。鉱山規則によりスィッチ・ボックスは防爆型を設置しているが、1950年代より採掘を中止した後は坑内爆発も無いため、照明器具は普通型を認められているとのことである。
11.真っ暗闇のエレベーター
 最後の出坑待合い広場には岩塩製おみやげ売り場、身障者用エレベーター、高い天井にはギネスブック級のバンジージャンプ台まである。小1時間近く待たされた。一般のエレベーター乗り場へは狭くて長い坑道を歩かねばならぬ。一度に大勢を導入すると「酸欠の恐れがあるので、天井の高い洞窟の方で待って貰っている」と説明がある。
 漸く順番が来てエレベーターへ。鉄檻のような9人乗りの3基が並列運転である。「暗黒恐怖症の人は予め申告を、一応懐中電灯は用意していますから」と片岡TD。2~3分間だったと思うが真っ暗闇の立坑をひたすら昇る。隣のエレベーターからは悲鳴に似た奇声が聞こえる。最初の坑口に近い降り場に辿り着く。久し振りの外界は眩しい程に明るい。
 端正な服装の女性御者の観光馬車が客待ち顔である。僅かな距離だがバス乗り場まで、遊び心で5人が乗り込む、30z 。
 夕食はキャンドルライトのクラシックなレストランでピエロギ他の郷土料理である。ノボテル・ホテル前のヴィスワ川畔で暮れなずむヴァヴェル城を背景にスナップを1枚撮って貰う。

12.カジミエーシュのシナゴーグ
 4日午前中のフリータイムを利用してカジミエーシュ地区へ行ってみた。元々は1335年、カジミエーシュ大王が城塞都市クラクフの南東に別の町として作られたものだが、1941年ナチスによってゲットーが設置され、クラクフのユダヤ人6万人のうち1万5千人がここに移された。しかも大量虐殺により2年後には1/10にまで減ったという。
 最初にイサーク・シナゴーグに入り、ユダヤ人強制移住のビデオ、その後の迫害、遺体処理などの陰惨な展示写真を見る。平和のシンボル鳩の市場がすぐ近くにあるのも皮肉なコントラストである。
 ポーランド最古のユダヤ教会スタラ・シナゴーグの内部はユダヤ博物館である。会堂の中央に大きな鳥籠のような説教壇が設けられている。聖壇には例の7本足の燭台が据えられている。周囲には聖具をはじめユダヤ文化を伝える民俗遺品の数々が展示されている。大戦中ユダヤ人脱出に協力した杉原千畝に関する資料は ? と尋ねたが無かった。
 映画「シンドラーのリスト」の舞台になったこの地区の街並みを見ていると南インド・コーチンの旧ユダヤ人街を彷彿される。
13.トラムでチャルトルスキ美術館へ
 走行ルートを確かめて3番線のトラムに乗る。切符売り場が見つからぬ儘、乗車して運転手から切符を買う、2.4z+0.6z(運転手手数料)。大きな停留所近くのMPKの表示のあるキオスクでしか売っていないらしい。色々な番線のトラムが2連、3連、時には4連で頻繁に走っている。
 バルバカン前で降りチャルトルスキ美術館へ急ぐ。途中出会った片岡TDが同館のガイドブックを貸してくれる。チャルトルスキ王子の夫人イザベラのコレクションを展示するため、1801年オープンしたポーランド最古の美術館である。
 絵画、彫刻、武具、アンティークなど名品が沢山展示されているが、何はともあれレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」の特別展示室へ急ぐ。その醸し出す気品はルーブルのモナリザに匹敵する逸品である。レンブラントの傑作もあったが午後の集合時間12:15に近く、ゆっくり鑑賞出来なかった。気が急くままに急ぎ足で通り過ぎたイコン・コーナーで、独特画風のブリューゲルのキリスト説教図を見たのは収穫であった。
 織物会館前の老人バンド(ヴァイオリン、アコーデオン、ドラム)に耳を傾ける暇もなく集合場所のレストランに滑り込む。
 昼食後はバスでワルシャワまで約300kmの長旅である。途中片岡TDの「旅のトラブル話」は間合いの良いテンポで結構面白く聞かせてくれた。

14.ショパンの生家でコンサート
 5日はワルシャワから西へ54kmのジェラゾヴァ・ヴォラへ行く。1810年フレデリック・ショパンが生まれた生家を見学してビアノ・ミニコンサートを聞くスケジュールである。
 生まれた年にワルシャワに移転しているし、主な遺品はワルシャワのショパン博物館である。こちらには出生証明書、洗礼証明書、家族の写真のほか、14才の時の作詩、スケッチなど芸術的天分を窺わせるものが展示されている。小型ながら竪型のグランドピアノも珍しい。
 この家のサロンでピアニスト、モニカ・ロッサ夫人( ? )によるショパンのプレリュード、ワルツ、エチュード、マズルカの演奏。最後は力強いポロネーズで締めくくった。僅か30分ながら十分の感動を誘ったようである。戸外のベンチでは見学の生徒達が行儀良く傾聴していた。
広い庭園には日本ショパン協会が贈った桜の木、日本趣味らしい橋もある。うつむき加減のショパンの銅像と「対面」のポーズでスナップを撮って貰う。

15.感動のワルシャワ歴史博物館
 昼食後はワルシャワに戻ってフリータイムである。旧市街のワルシャワ歴史博物館に飛び込む。小さい入り口、小振りな建物の割に4階までの館内には戦前戦後のワルシャワの様子を示す資料がびっしりである。戦中破壊され尽くした建物の「壁のひび1本までも忠実に復元」したというワルシャワ市民の不屈の精神に感銘、その経過を確かめたくて入館した。
 1,2階は13世紀から1596年クラクフよりの遷都、18世紀ロシア、プロシァ、オーストリアによる三国分割までの市民、王室の民俗資料。
 3階は占領ロシアの圧政と、それへの抵抗運動から1918年三国分割が一応終わる頃までの歴史資料。
 4階は1939年第二次大戦勃発、独ソ両軍侵入、ナチスの暴虐、対するレジスタンス、1944年ワルシャワ蜂起、翌年終戦までの生々しい経過資料、特に破壊前の建物の絵画、写真、設計図等々。
 これあってこそ厳密な修復が出来たのだと納得する。修復前後の対比写真を見るとき、復興への市民の執念には「脱帽」である。

16.修復、オペラ劇場、ワルシャワ大学
 思いの外時間を費消してしまった。旧王宮前の聖アンナ教会には、土曜日のこととて挙式を待つ新郎新婦の笑顔が溢れている。
大通り(クラクフ郊外通り)を右折して国立オペラ劇場の裏手に出る。余りに大きな建物で、通りがかりの市民に「本当にオペラ劇場か ? 」と確かめてみた。正面に回って見ると誠に壮大である。
 1833年完成、ミラノ・スカラ座、ウイーン・オペラ座にも比肩するヨーロッパ有数の老舗劇場である。第二次大戦で正面外壁以外すべて焼失してしまったのを、市民の熱意で1956年、元の姿に復元したという。
 大通りに戻って貴族ラジヴィウ家宮殿の前を通る。1765年当時は館内でオペラやコンサートを開催したこともあるというが、現在は大統領官邸である。
 南隣りワルシャワ大学の正門をくぐって、キャンパス奥のカジミエーシュ宮殿を見学する。1335年カジミエーシュ大王ゆかりの宮殿で、この日は大広間で学生のモダンアート展覧会が開催されていた。
 別の建物( 講堂 ? )では外壁をそのままに内部を大改修中である。ヨーロッパではこういう工事が得意なのだろうか。
 時間も残り少なく、実物兵器がずらりの軍事博物館やソ連時代の遺物・文化科学宮殿の見学は割愛してノボテル・ホテルに帰る。

17.ポーランド政体の変遷と治安
 ワルシャワのガイドによれば「ポーランドの国家体制が社会主義下では家賃、授業料等無料、失業も無かったが、自由も無かった。大学でもロシア語以外は勉学の自由が無い時代が続いた。海外旅行も、その国の招聘状が無いとパスポートが発給されない。しかも旅行が済めば直ちに返納しなければならず、所謂「海外渡航の自由」は無かった。
 自由主義社会になって「自由」は得たが、失業者、ホームレスが増えて、確かに詐欺、窃盗などの犯罪は増加している」という。
 外務省海外安全情報では「ポーランドでも繁華街、駅周辺、バス、トラム等では掏摸、置き引きに注意。時に集団かつ暴力化することもある。」と警告が出ていた。しかし昼間のワルシャワ、クラクフではそのような気配は殆ど感じられなかった。
 子連れのジプシーや物乞いなども執拗に付きまとうことも無く、観光客を狙って掏摸に豹変するイタリア、フランスとは大違いである。「特に注意」の駅への地下道でも三叉路には大柄の警官が仁王立ちで見張っていた。
 タクシーも正規のものであれば、料金の不当請求は無くなってきたが、タクシー業者によっては信用の差が若干有るようである。ホテルで呼んで貰うタクシーはまず問題は無いが、ホテル周辺で屯している車は観光客狙いの白タクなど悪質なのもいるので、乗らぬように」と現地ガイドは注意する。
18.フォークロア・ショーでダンス
 夜はレストランでのディナー付きフォークロア・ショーにオプション参加する、@\9000.-。既に1組の老夫婦が軽快にダンスを楽しんでいる。スイスからという十数人の客も着席した。
やがて3組の男女の踊り手と楽員が入場して民俗舞踊の競演が始まる。愛の哀歓を表現しているような振り付けである。ワルシャワのガイド・アンナさんが「日本は主に上半身で踊るが、この地方では下半身、特に脚で踊る。」と評していたのを思い出す。
ショーの合間にダンサーが誘いに来たので、久し振りにクィック・ステップを踊ってみた。いくらラフスタイルOKと言われてもディナー、ダンスとなれば上着は必携である。
終わって帰る頃にはどしゃ降りの雷雨である。市内見学中じゃなくて良かったと皆で顔を見合わせる。

19.首都-旧都-戦争の惨禍
 翌6日はもうポーランドとお別れである。ワルシャワ・オケンチェ国際空港、通称ショパン空港のバス降り場ではショパン像が迎えてくれる。
スーツケースに入れた岩塩の缶詰がダイナマイトのように透視されたらしく、開披させられていた。
 10:45ワルシャワ発ヘルシンキ行きAY742便も、17:20ヘルシンキ発関空行きAY077も満席である。なるほど6~7月は北欧観光の最盛期である。関空へは翌7日8:40定刻通り到着した。
振り返れば今回のポーランド旅行のワルシャワ-クラクフ-アウシュヴィッツは日本の東京-京都-ヒロシマ。首都-旧都-戦争の惨禍に相当するように思われる。

 本稿は今回の見聞に各見学場所の資料、地球の歩き方「ポーランド」等を併せ参照しました。