2010年5月7日金曜日

西南インドを行く(2003年3月)

エローラ、アジャンタ、コモリン岬そしてシンガポール

1. 仏跡を訪ねてインド、スリランカ
 10年前にインド東北部を、カルカッタからブッダガヤ、バーラーナシー(旧ベナレス)、サルナート、クシナガラ、ルンビニ(ネパール)、アグラ、デリーへと主に釈迦ゆかりの遺跡を旅したことがある。
 昨年末は漸く治安が回復したスリランカで、ポロンナルワ、シギリア、ダンブッラ、キャンディなどの仏跡を訪ね歩いた。
 今回は西南インドで待望のエローラ、アジャンタの石窟群とコモリン岬を巡遊することにした。
2003年2月19日9時50分名古屋(小牧)空港発、シンガポール乗り継ぎ、同日深夜ムンバイ(旧ボンベイ)空港へ到着した。

2. ギャング、テロ、ボディーチェック
 搬出が遅れたスーツケースを携えて税関を出た途端、多数の報道陣がカメラを構えている。アラブ首長国連邦で捕まったムンバイのギャング、ダウッド兄弟が国外追放されて、ドバイから到着するのを待ち構えていたのだとは、翌朝の新聞で知った。
 翌20日は早朝5時モーニングコール。長谷川添乗員以下22名の中日旅行会一行は7時10分発オーランガバード行きジェットエアーに乗るべく国内空港へ向かう。朝食は大きなランチボックス、但し中身はパン、ケーキ、卵、林檎が片隅にひっそり。
 空港での機内携行品の検査は聞きしに勝る厳重さである。印・パ紛争でイスラム過激派のテロを警戒してか、「身に寸鉄をも許さじ」とばかりに探知機で撫で回す。硬貨、鍵、尾錠にまで鋭敏に反応する。特にカメラの予備電池、懐中電灯は持ち込み厳禁。しかも搭乗までに3回もこんなボディーチェックが繰り返される。
 現に私達が帰国後の3月13日、ムンバイ郊外の通勤列車で爆弾テロがあり、69人が死傷したとの報道があった。
   
3. ダウラターバード砦からエローラ石窟へ
 約60分、簡単な機内食を終えた頃にはもう着陸である。まずバスでエローラへの途中、ダウラターバード(幸運の町の意)砦に立ち寄り見学する。12世紀築造のこの砦はインド3名砦の一つに数えられ、ピンクの戦勝記念塔チャンドミナールは30mと、インド第二の高さを誇っている。
 デカン高原に入ってしばらく行くと一列に並んだエローラ石窟群である。この土地ではヴェルールと呼ばれ、昔から巡礼で賑わったといわれる。

4. まず仏教窟から
 7~8世紀頃造営の仏教窟から見学する。第10窟はチャイティヤ(塔院)窟で、奥のストゥーパ(佛塔、卒塔婆の語源でもある)前には観音菩薩、弥勒菩薩を左右に配した佛坐像がある。ヴォールト天井は古代木造たるき垂木リブを模したものという。欄間の位置にはミトゥナのような男女像が多数彫り込まれているが、ヒンドゥー教にある交合像ではないとガイドは言う。
 3階構造の第12窟ヴィハーラ(僧院)窟や第15窟を右に見て、本日のハイライト第16窟カイラーサ寺院へ向かう。

5. ヒンドゥー教窟カイラーサ寺院
 この寺院はヒンドゥー教のシヴァ神が棲むというヒマラヤのカイラーサ聖山を表していると伝えられる。756年から鑿とハンマーだけで一世紀余に亘って巨大な一枚岩より、幅46m、奥行き80m、高さ34mの寺院を彫り刻んだ信仰の偉業である。8世紀といえば日本では奈良時代、正倉院が造営された時期である。精巧な計算機、測定器も無い時代に、3~4世代に亘ってあれだけ正確・細緻に彫り継ぎ、刻み進んだ建築? いや掘削技術は驚嘆に値する。
 本殿奥の「胎堂」には本尊リンガ(男根)がヨーニ(女陰)の上にそそり立っている。子孫繁栄、五穀豊穣などの祈りが込められているのだろうか。外へ出て手彫りの痕が残る岩壁を見上げていると恰もビルの谷間に居るような圧迫感を覚える。
 寺院の全貌を俯瞰しょうと岩山を駆け登ること6~7分、暑い、息が弾む、地元の子供たちが微笑みながら通り過ぎる。脚下に展開するパノラミックな巨大彫刻には唯唯感嘆、脱帽である。

6. ジャイナ教窟も
 左奥のジャイナ教窟へは約2km、バスで移動である。ジャイナとは「煩悩に打ち勝った解脱者」という意味で、無欲、無所有、不殺生を旨とし、富裕の信者が多いという。
 9世紀頃造営されたという第32窟はなかなか手の込んだ彫刻である。入口近くには不動の修行で蔦が絡みついた無衣の行者像が、奥には開祖マハーヴィーラの像が据えられている。第33,34窟と門構えのある第30窟は外観のみで見学を終えた。

7. オーランガバードの小タージ・マハルと水車公園
 オーランガバードに戻り、ビービー・カ・マクバラーを訪ねる。タージ・マハルを少し小型にしたようなこの廟は、町名の元にもなったアウラングゼーブ帝の息子が母ベーガム・ラビア・ドラニを追慕するため、1679年、建立したという。ここで出会った、絢爛華麗にサリーを着こなした女性の一団が印象深い。
 このあと前記アウラングゼーブ帝のイスラム導師ムザファルが葬られたパーンチャッキー(水車の意)公園を見学する。10km程離れた丘から導いた水で滝を作り、水車を廻し、貯水したという。今では粉は挽いていないが、縦軸水車と石臼だけは廻り続けている。
 隣接するイスラム礼拝堂の周辺には表面が凸型の男性の墓、凹型の女性の墓が数基ある。空港の厳重検査を敬遠してスーツケースはムンバイのホテルに置いたまま、手荷物だけでオーランガバードのホテル・ラマ・インターナショナルに一泊する。

8. アジャンタ石窟は電気自動車と駕籠で
 21日はもう一つの目玉、アジャンタ石窟の見学である。遺跡、特に壁画を自動車の排気ガスから護るため、麓のバスターミナルで電気自動車に乗り換える。みやげ物売りの男たちがわっと押し寄せる。一行中一番若い長谷川裕子添乗員には若者が執拗に付き纏う。隠然たるカースト制度に阻まれて同国の異性には気安くアプローチ出来ない為の反動かも知れない。
 電気自動車の筈なのにディーゼル車のような轟音を轟かせながら、渓谷沿いに10数分で石窟群の入口に着く。坂道は苦手という人の為に4人組みで一人を担ぐ駕篭かきが沢山待機している。急な階段を昇降する為、座席は駕籠よりは高く、輿よりは低い。座席を半ば低くした川渡りの輦台(れんだい)のようなものである。この際は仮に駕籠と呼んでおこう。
 「担ぎ賃は公定で客一人につき500ルピー(約1400円)、見学を終えてこの出発点まで戻ってから、ガイドの目前で支払うように」とガイドが強調する。目の届かぬところでは時々雲助根性が出るのかも知れない。登りは前向きに座るが、急な下り坂は前につんのめらぬよう、後ろ向きに担がれる。

9. 壁画はインド仏教美術の精華
 途中、野猿にも出迎えられながら第1窟に辿り着く。窟左奥の蓮華手菩薩像はアジャンタ壁画の最高傑作といわれ、艶やかな気品を漂わせる三屈の姿態は法隆寺金堂壁画の勢至菩薩像のモデルにもなったといわれる。
 第2窟も6世紀頃彫られた僧院窟だが、この時代になると正面奥には仏堂が造作されるようになる。高さ3.6mの仏像は目下、足場を組んで修復中であった。天井の円形の図柄は見事である、しかし周囲の壁に描かれているジャータカ(釈迦前世説話)の絵は暗くてよく見えない。
 第7窟仏堂前の壁面には、かなり後期の作らしく丹念に千仏像が浮き彫りされている。
 第10窟は前期の塔院窟らしく、ストゥーパ前に仏像は無い。周りの39本の八角柱の鮮やかな仏陀や僧の図は後世に描かれたものだという。右側壁面には紀元前1世紀頃に書かれたものが額縁のようにガラスで保護されている。

10. 虎とアジャンタ
 また右奥柱の僧の絵の胸に「ジョン・スミス第28騎兵隊、1819年4月28日」と線刻されている。この日、虎狩りにきた彼が川向こうの丘(今は展望台になっている)からこの石窟を千余年振りに発見したという。アジャンタ石窟はワーグラー川(虎の川の意)に面する馬蹄形の岩壁に、600mに亘って彫り続けられた大小30もの石窟群である。
 第12窟は三方の壁に各4室づつ房室がある僧院窟である。房の入口は虎の侵入を防ぐ為とかで異常に狭く、中には左右各一つの岩のベッドが造られている。
 最も保存状態が良いといわれる第17窟の壁画のなかでもジャータカの一場面を描いた「六牙象本生」図は有名である。
 第19窟は正面玄関に2本の円柱を備え、ちょっと昔の銀行を連想させる。いかにも後期の僧院窟らしく、ストゥーパ自体に仏像が彫りこまれている。それを取り囲む佛彫像、画像も精細である。

11. 明るい塔院窟と未完の僧院窟
 第26窟はアジャンタ最大の後期塔院窟で、ストゥーパを囲む列柱の外側回廊の壁面には無数の佛立像、坐像が彫られている。左出口近くには全長7.3m、インド最大の涅槃像が横たわる。クシナガラの沙羅双樹の下で入滅した釈迦の姿を表しているという。この窟は唯一、随所に明るく照明があり存分に見学することが出来た。
 第24窟は未完の僧院窟で、掘削半ばの床面、壁面が凸凹のまま放置されている。ヒンドゥー教の普及、仏教の衰退とともに僧たちも段々離散して行ったのであろう。
 第13窟?は仏堂を備えた僧院窟だが、現在は管理オフィスに使っているらしい。アジャンタ渓谷の立体模型や修復前後の壁画写真が対比して展示してある。
窟前の通路は近年観光客のために築造されたもので、往時の僧たちは狭隘な径をさぞ難渋しながらアジャンタ村まで托鉢に出かけたことであろう。アジャンタとはア(遥かな)ジャンタ(俗界)を意味するとガイドは言う。

12. ムンバイ、コーチン、ヴァスコ・ダ・ガマ
 再び一般客も乗り合いで電気自動車に乗り、麓のバスターミナルへ。ホテルで夕食、空港ではまたぞろ再三の携行品検査を受け、ムンバイへは21時15分到着した。翌22日も6時モーニングコール、8時50分発ジェット・エアーでコーチンへ。
 東インド会社の根拠地でもあったムンバイではフォート地区からインド門にかけて植民地時代の面影を色濃く残していると聞く。マリオット・ホテルは市街から遠く、深夜到着、早朝出発の為これらが観られなかったのは聊か残念である。また映画産業が盛んでボリウッド(ボンベイ・ハリウッド)とも別称されているそうである。
 10時35分コーチン着、まずヴァスコ・ダ・ガマゆかりの聖フランシスコ教会を訪ねる。ガマは香辛料を求めてポルトガルからインドにまで到達した大航海時代の大物である。のちにインド総督にもなり、1524年コーチンで病没した。この教会に葬られたが、遺体は後年故国ポルトガルに移送された。もと埋葬された跡は柵で囲われている。エリザベス女王来訪記念のタブレットも飾ってある。
 ポルトガル人の手になるこの教会はさほど大きくはないが、降り注ぐ陽光の下、南欧リスボンのノスタルジアを感じさせる。

13. 中国人、オランダ人、ユダヤ人
 次は歩いて数分のチャイニーズ・フィッシング・ネットを見学する。いつ頃中国人が伝えたものか、10m四方もあろうかという四つ手網を沈めては引き揚げる漁法で、アラビア海の海岸に10数基設置されている。石の錘を着脱して梃子を操作し、網を上げ下げする。産地直売の魚屋も軒を連ねる。
 コーチンはインドとしては格段に就学率が高く(98%とか)英語が普及しているので、街頭でも英語の表示が多いと、ガイドのアジータは言う。
 1568年に建てられたというシナゴーグ(ユダヤ教会)は礼拝日のため観られなかった。その代わりという訳ではないが、近くのマッタンチェリー・パレスを見学する。もとはコーチン藩主の宮殿だったが、オランダ統治時代にその総督邸になったためダッチ・パレスとも呼ばれている。
 藩時代のものが多数陳列され、ラーマヤナ説話の細密壁画、なかでも王妃寝室の壁いっぱいに描かれた犬、牛、馬、象など哺乳動物の交接図には圧倒される。王族繁栄を望む切なる願いなのであろうか。見学を終えた女学生の一団が、心なしかはにかみ笑いをしているように見えた。
 次に訪れたスパイス・マーケットは5時過ぎのため閉店、薄暗いスパイス倉庫を瞥見しただけで近くの商店に入る。土地柄各種スパイスの小袋が棚一面に、カレー粉も野菜用、魚用、チキン用とブレンド別に包装されている。勿論ヒンドゥー教、イスラム教が禁忌する牛肉用、豚肉用は無い。
 この付近は昔スパイス取引で巨利を得たユダヤ人が多く住み着き、ユダヤ人墓地もあるが、今では数家族しか住んでいないという。僅かに残る家並みには、かつて殷賑を誇ったユダヤ商人の心意気が感じられる。

14. カタカリ・ダンスとは
 午後6時過ぎ「コーチン・カルチャー・センター」の「劇場」に入る。「劇場」といっても倉庫のような建物の一隅にステージを設け、可搬式の椅子が数十脚並べられているだけである。楽屋が手狭なためかステージの上でカタカリ・ダンスの主役二人がメークアップに余念が無い。歌舞伎「暫」「車引」も顔負けのどぎつい隈取である。
 7時開演、司会者がカタカリの由来、所作の意味、今夜の演目などを英語で説明する。カタカリとはカタ(物語)カリ(音楽)の意味でインド・ケララ州を中心に古くから伝わる、いわばミュージカルで、ラーマヤナなどの伝承に材を採ったものが多いという。
 今夜はその内の一つ・・・兄の嫁探しに神の国に忍び込んだ妹の悪魔が、逆に神の皇子に恋慕してしまう。しかし悪魔の本性を見破られて結局、皇子に首を刎ねられてしまう・・・という話が上演される。
 出演は男性のみで、太鼓と鉦に僅かな語りが入る。悪魔役が時々奇声を発するほかは、すべてパントマイムである。太鼓の連打はラマ教のそれを思い出させる。約1時間で終演、希望者は主演者と並んで記念写真を撮る。観客は私たち22人とほぼ同数の欧米人である。「カルチャー・センター」の別棟では健康・美容のアーユルベーダを実施しているようである。
 今夜のホテル・トライデントはコーチン市のウィリントン島ヴェンバナード湖に面したリゾート風ホテルである。湖といってもアラビア海にそのまま口を開いているので、プールの先は海岸のような砂浜が続いている。

15. バック・ウォーター・クルーズ
 23日はバスでコヴァラム・ビーチへ向かう。途中アレッピーからクマロコムまでは約3時間のバックウォーター・クルーズを楽しむ行程である。定員100人足らずの小さな観光用クルーザーに貸切で乗り込む。水路には椰子の葉で葺いた苫舟のような舟がたくさん舫っている。水郷に住む人たちの重要な脚である。
 岸辺に近い水路では数人の子供が「ボールペン、ボールペン」とせがんで舟に並走する。昔ながらに石に叩きつけて洗濯をするサリーの女、水に戯れる子供たち、水中に蹲っている人を見て誰かが「用便をしているのでは ? 」と呟く。岸辺の椰子の林に南国情緒をたっぷり味わいながら、或いは広く、或いは狭い水路を滑るように船は進んでゆく。この地方の州名ケララはケラ(椰子)のラ(国)と、そのものずばりである。
 トイレ休憩を兼ねて、とある岸辺に接岸する。丁度マンゴー収穫の最中である、一人が水上に伸びた枝からマンゴーを水面に掻き落とす、他の一人は水中でそれを拾い集める。表面に傷が付かないから、商品価値を保つには良い方法である。
 デリーから移り住んだというマンガラムッタム夫妻の家を見せてもらう。一見小奇麗な住宅だが中は少々猥雑である。雨水をタンクに貯めて生活用水に、街へは自家用モーターボートで、と都会の利便とは程遠い生活である。
 再び乗船して広い水路に出る。やがて拡がった湖はアジア第2の大湖とガイドは言うが、地図を見ても定かでない。バックウォーター back water とは元々堰き止められた水、淀んだ入り江を意味し、この辺りは運河と湖の区別も判然としない、むしろ広大な水郷と言った方が相応しい。
 今度は小島に立ち寄る。○○クルーザーの看板を掲げた薄汚い小屋の片隅で、茹でた蝦の試食を勧めてくれるが、粗末な食卓には食べかけのカレーが椰子の葉の皿に散乱し、ちょっと頂けない。それでも好奇心で、もぎ落とした椰子の実にストローを挿し込んで飲んでみる、余り甘くなく少し青臭い、10ルピー( 27 円位)という。一息入れて再び船へ戻る。
 入り江の入り口に、照明付き十字架を冠したミニ灯台のような白い塔が立っている。船長がひと際大きく鐘を鳴らす、クマロコムが近いことを乗客に知らせると共に、船着場の係員に着岸準備を促す警報でもあるようだ。

16. コバラム・ビーチ・リゾートは遠かった
 クマロコムのホテルで昼食、午後5時頃にはコバラム・ビーチに着くだろうと聞いたが、その時間になっても一向にその気配が無い。途中の観光案内所で訊ねたら、まだ2~3時間は掛かるだろうという。直線距離でいえば150kmそこそこだが高速道路が無く、町へ入れば人込みを掻き分けるように右折左折しながら走る訳だから、平均時速は40km位にまで落ちているのだろう。
 しかも夕方暗くなっても無灯火の自転車、バイク、三輪車が多いのも気になるところである。午後8時過ぎ、漸くコバラム・ビーチ・リゾート・ホテルに到着した。
 24日午前は久し振りにリゾート・ライフをエンジョイすることが出来た。スイミング・プールで泳いだ後、ホテルのプライベート・ビーチでもうひと泳ぎ。波打ち際の貝殻に気を付けながら暫く「アラビア海」の海水浴を楽しんだ。
 砂浜に戻ると長谷川添乗員とガイドのワドワ君が浜の少年から買った「うに」を食している。お相伴させて頂いたが薄い潮味で、頬を撫ぜる海風と共に磯の香りを満喫した。

17. 荒波にご用心、コモリン岬
 早目の昼食の後、この旅後半のハイライト、コモリン岬の観光である。バスで3時間、カニャークマリ(処女岬の意)の町に着く。午後4時の渡し船最終便に間に合うように、そして6時半にはアラビア海のサンセットが観られるようにと、苦心のスケジュールである。
 同じような思惑なのか、ヴィヴェーカーナンダ岩への渡し船は100余席程度の小型船なのに、どうやら定員超過の満杯である。「乗船者注意」の掲示板には「席から立たないで、撮影禁止・・・」などいくつか箇条書きの最後に「どんな事態になっても総て乗客の責任である」と書いてある。
 目と鼻の小島へたかだか10分位、「何程の事や、あらん」と船首に近い所でビデオカメラを構えていた。これが大間違いのもとで、ベンガル湾から打ち寄せる波は意外に荒く、渡し船は激しくシッピング(上下動)して、舳先からの大波を頭から被ってしまった。暴風雨に翻弄される船上のシーンの様に。
 当然ビデオカメラは即アウト、以後撮影不能となった。幸い旅行保険で10万円までは補償されるそうである。コモリン岬では「船首、大波、カメラ」にはくれぐれも「ご用心」。
 詩人ティルヴァルヴァールの巨像のみが建っている右手の島では、海水を被ったカメラとびしょ濡れの衣服の善後処理に追われて観光どころではない。再び渡し船に乗ってヴィヴェーカーナンダ岩へ渡る。この数分間は岩礁に遮られてか、波は静かである。

18. コモリン岬はヒンドゥー教の聖地
 ヒンドゥー教の改革者ヴィヴェーカーナンダ(1863~1902)が瞑想したこの岩に1970年、石造の記念堂が建てられた。カーストを重視するヒンドゥー教徒にしては珍しく、彼は平等を説いたという。
 堂内には裸足で入場、一隅に据えられた等身大の立像には「グル(尊師) ヴィヴェーカーナンダ」と標記されている。見学を終えた頃、往客無しの最終便がこちらへ直進して来る。数人の管理要員を残し、観光客は全て総攫えにして帰港する。
 土産物屋の建ち並ぶ参道を歩いて、物々しく囲われたクマリ寺院へ行く。コモリン岬の語源でもあるクマリ(処女神)を祀るこの寺院へは裸足、男性は上半身裸で入場しなければならぬ。
 初潮を見ると失格という本尊の生き女神(この日は代わりの人形だった)に一礼して何がしかの喜捨(バクシーシ)をすると、傍らの寺男が眉間に紅を付けてくれる。互いに顔を見合わせて、俄かヒンドゥー教徒になった様な気分になる。
 寺院の先のガート(沐浴場)では、敬虔な信者たちがインド洋の波に身を沈めながら合掌祈念している。右はアラビア海、正面はインド洋、左はベンガル湾越しにスリランカの島影が望見される。正にインド亜大陸最南端、コモリン岬はヒンドゥー教の大切な聖地である。

19. アラビア海のサンセット
 今日の日没は午後6時35分とのこと、マハトマ・ガンジーの遺灰を流した地に建てられたガンジー記念堂への入場は諦めて、サンセット展望塔へ急ぐ。塔の最上階にはもうかなりの人数が西を向いて待機している。
 刻々と赤い太陽がアラビア海の水平線に近づいて行く、しかし夕靄が濃くなってきて沈む瞬間は霞んでしまった。同行のアマチュア・カメラマンは「波間に反射する陽光と共に、水平線に沈み行く夕日を撮りたかったのに・・・」と口惜しがる。
 日没と共に観光客は一斉に帰り支度である。3時間のバスに揺られて、この日もホテルでの夕食は10時過ぎとなった。
 25日はゆっくり朝食、全裸全身に香油を付けてマッサージというアーユルベーダに行く人、紺碧のビーチを散歩する人、私は潮抜き水洗いした衣服を乾燥かたがたプールサイドへ。
 椰子の木陰でデッキチェヤに、海水パンツで寝そべって約3時間、衣服は乾いたが皮膚は軽いサンバーンsun burn(日焼け)である。矢張り南国の太陽は強烈である。

20. トリヴァンドラム観光
 午後はトリヴァンドラム観光に出かける。ネピエル博物館では宮殿のような建物、特異な彫刻、トラヴァンコール藩王時代の文物などが目を惹く。続く美術館ではインド細密画は勿論のこと、中国の山水画、日本の浮世絵も、また王自身の絵も展示されて居り、なかなかの画才である。
 次に訪れたパドマナーバスワーミは厳格なヒンドゥー寺院で、牛肉を食べる異教徒は一切入場禁止とのことである。沐浴の池を右に見てヒンドゥー独特の細緻な彫刻を施した塔屋を正面から、側面から、そして背面からとなぞる様に見上げる。カジュラホのカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院ほどではないが、かなり際どいミトゥナ(男女交合像)の集積である。
 境内裏手の小祠の軒上にはヴィシュヌ神の化身像が並べられている。光背を背負った釈迦像が第9番目の化身といわれている。

21. 南インドの街角で
 この街は大学、カレッジがよく目に付く。英語の看板のほか、ドラヴィタ系の言葉なのか ? くるくると丸まっちい文字の看板が多い。逆に横線のあるヒンドゥー語の文字は殆ど見かけない。   長々と板を敷き、幕を張って座り込むストライキの列が続く、この地方は共産党が強いという。
 この街に限ったことではないが、大都市はともかく、インドでは上下水道やごみ収集制度が無い、いわば垂れ流し、捨てっ放しである。また停電も多い。国民多数の低所得と徴税制度の未熟から、インフラ整備になかなか手が廻らないのであろう。日光、水、空気、動植物の生態系など大自然の摂理で浄化還元されるに任せているように見える。
 夕べのホテルでも部屋にはFiltered water(濾過された水)のペットボトルが置いてあったが、果たしてどんな水を濾過したものやら。
 また町外れでは流浪の人たちの集落をよく見かける。ギリシャ、イタリアなどで見たジプシーのテントのような小屋が立ち並ぶ。インドから発したというジプシーとルーツを同じくしているからだろうか。

22. サンセット・ディナー
 デリー大学日本語科中退のスルーガイド・ワドワ君も南インドの地元の人にはヒンドゥー語が余り通じなくて、困惑する場面もあったようだ。
 バスのエアコン、リクライニングシートの不具合のお詫びも兼ねて、今夕はインド側の旅行会社(Great India Tour ? )がホテルでフリー・ドリンクの海鮮ディナーを提供するという。アラビア海に面したプールサイドに机を並べてサンセットを待ったが、今日も夕靄に紛れて、水平の彼方に沈む夕陽を見ることは出来なかった。
 再びトリヴァンドラムに戻り、国際空港から23時発のシルク・エアーでシンガポールへ。
国際空港といってもスリランカのコロンボ、シンガポールとモルディブが主なdestination(行き先)のようである。

23. マーライオン、ブキテマ、オーチャードロード
 26日朝5時50分シンガポールのチャンギ空港に到着後、最寄のホテルで朝食バイキング。醤油を垂らした中国粥を口にして、何かとカレーっぽい香りの付き纏うインド料理から、やっと開放された感じがした。
 通勤者も疎らな早朝だというのに、さっそく市内観光である。まず昨年9月、ワン・フラトンのプロムナード近くに移転したマーライオンを見学する。昔この島にライオンが居たという伝説からシンガ(ライオン)プーラ(街)と呼ばれるようになった。頭がライオン、尻尾がマーメイド(人魚)のマーライオンが街のシンボルとして設置されたという。
 続いて太平洋戦争の激戦地ブキテマ(マレー語でBukit Timah)の丘から対岸のセントーサ島を眺める。この後は昨夜の睡眠不足が祟ってシンガポール植物園はバスの中でパス。昨夜のフライト、シルクエアーはエアコンの個別調節が無く、小寒い窓際席で仮眠も儘ならなかった。
 次は開店を待ち兼ねたようにバスはスコッツ・ロード沿いのデューティー・フリー・ショップへ急ぐ。ここは早々に抜け出して、近くのオーチャード・ロードへ出る。街角の両替店でも事足りるが、ちょっとバンキングを試みたくて伊勢丹スコッツ前のDBS銀行でシンガポール・ドルに両替する。Personal(個人)とcorporation(法人)に受付カウンターが区別されている。
 飲茶で昼食の時、ウーロン茶を持ってきたウェィターに「ムコーイ」(広東語でやあ、どうも、ありがとう、程度の常用語)と声を掛けると、はっと振り向いて早口に何か話しかけてきたが勿論聞き取れない。この後はマリーナ・ベイを見下ろすオリエンタル・ホテルにチェックインして深夜発の帰国便まで休憩である。その間にオプショナル・ツァーのナイトサファリに行く人、添乗員と夕食を食べに行く人、夫々である。

24. 戦争記念碑
 私はシティー・ホール前の戦争記念碑を訪ねる。日本語の観光地図にはWar Memorial(戦争記念碑)とのみ記載されているが、中国語の地図では「日治時期蒙難人士記念碑」(日本が占領統治時代に被災受難した人達の記念碑)と表示されている。
 モニュメントの中央に骨壷のような器が安置してある。台座には「シンガポールか華僑が提唱し、市民・政府が資金を拠出して1967年建設した」と記されている。60余年前シンガポール陥落に沸いた当時の日本を回想して、万感の思いを込めて合掌する。
 日本語の少し怪しい現地ガイドも太平洋戦争のことについては、此処でもブキテマでも殆ど触れようとはしなかった。聞けば日本人と結婚した中国人とのことである。
 碑文を読みカメラに収めていると一人の老人が近付いてくる、「イングランドから来た」と言う。互いに写真を撮りあって、言葉少なに別れた。

25. ラッフルズ・ホテルとロング・バー
 続いて筋向いの区画のラッフルズ・ホテルに向かう。名前は、1819年シンガポールに上陸、貿易拠点を築いたイギリス東インド会社のトーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿(1781~1826)に因んで名付けられたが、創業者はアルメニア人サーキーズ兄弟である。
 1887年部屋数10のバンガロー風の建物で創業し、その後度々の増改築で1910年頃ラッフルズらしいオリジナルが出来上がった。太平洋戦争当時日本軍に、戦後しばらく連合軍に占有されたが、1991年には1915年当時の姿に忠実に復元、リニューアル・オープンされた。
 左右に翼を拡げたような堂々たるファサードである。しかし風水学的には余り感心しないらしく、周囲に沢山の樹木を植えて「悪い気」を避けているという。
 裏手のショッピング・アーケイドに戻り二階のロング・バーLong Barに入る。予ねて聞いていたラッフルズ・ホテル名物「シンガポール・スリング」を注文する。海南島出身のバーテンダー、ニャン・トン・ブンが1915年創作したカクテルで、ジンをベースにした上品な南国フルーツジュース風である。チップ込みで20S$(約1400円)。地元の人は専らジョッキでビールを楽しんでいる。
 このバーのユニークなところは落花生が食べ放題、殻は床へ捨て放題、次々にカップに豆を補充してくれる。一連5枚位の椰子の葉団扇が電動で、天井からゆったりと微風を・・・南国の旅情が慰められるひと時である。
 日本円への再両替は通常千円紙幣単位だが、チャンギ空港では百円硬貨単位まで計算してくれる。1700円が再両替で戻ってきた。午前1時15分発SQ982便名古屋行きはあちこち空席が目に付く。シンガポールへの商用・観光とも一時ほどの繁忙が幾分遠退いたのかも知れない。
 27日午前8時25分小牧空港到着。真夏のようなインド、シンガポールに馴染んだ身体には春まだ浅い名古屋の寒風が身に沁みる。

26. 変な肺炎SARS拡がる
 帰国後の報道(中日新聞3月30日朝刊)で知ったことだが、東南アジアを中心に原因不明の肺炎SARS(重症急性呼吸器症候群)が拡がっているという。世界保健機構WHOによると昨年11月中国広東省で集団発生(感染792人、死亡31人)し、今年2月26日ベトナム(感染58人、死亡4人)で新型の肺炎と断定された。航空機による旅客の移動で、その後香港(感染266人、死亡11人)、シンガポール(感染65人、死亡2人)でも発生、アメリカ、カナダ、ドイツ・タイでも若干名が発症しているという。
 新種のウィルスによるものらしく、接触感染か空気感染かも不明で、対応策はまだ見つかっていないようである。

 ところどころ三題噺のような小見出しを付けてしまったが、本稿記述に当たっては各政府観光局「ガイドブック」、「地球の歩き方」(ダイヤモンド社)、「世界遺産」(講談社)、その他各種辞事典等を参照させて頂いたことを付記します。