2010年5月7日金曜日

伊豆大島と八丈島の旅(2004年4月)

1.大島アンコと椿まつり
 「チャーター便で行く伊豆大島・八丈島二島めぐり」に海外旅行の旅友・鷹羽さんに誘われて参加することにした。
 3月23日12時40分名古屋空港発NAL591便で伊豆大島へ約1時間。中日本エアラインサービスのフォッカー50は4席x16列で乗客定員は64名、久し振りの双発プロペラ機である。
 大島空港ではアンコ姿のJTB社員が出迎えてくれる。大島は伊豆七島の中では最大で、東京山手線の内側くらいの面積である。
 先ず島の北東・大島公園へ直行する。園内では良く手入れ改良された見事な椿をいろいろ観賞する。人の顔ほどの大輪の椿、「貴宝殿」と名付けられた上品な白椿など、それぞれに尤もらしい名前が付けられている。
 一巡して中央広場に戻ると仮設舞台で「えんやらやー」のアンコ節など、アンコ達数人の手踊りである。丁度1月31日から3月28日までは「伊豆大島椿まつり」であった。くさや、島焼酎、あしたばそば、まんじゅう、椿油、せんべい等々土産物屋がまわりに軒を連ねる。
 島内では年長の女性を、例えばお春姉さんなら「お春のアンコー( 姉公の訛り ? )」と呼んでいたが、近年では余り聞かれなくなった。「アンコ椿は恋の花・・・」などと都はるみが歌い囃して、逆に若い大島娘をアンコというようになった。しかしこれも今や観光用であるらしい。アンコが荷物を頭に載せて運ぶ光景もすっかり見られなくなったという。

2.為朝伝説
 1156年、源為朝が大島へ流されている。強弓で名高い為朝は九州を制圧して鎮西八郎と称し、保元の乱では崇徳上皇側について、後白河天皇・平清盛側と戦って敗れた。
 滝沢馬琴の読み本( 小説 )「椿説弓張月」(1811年刊 )では、その後伊豆七島を征服し、果ては琉球に漂着して土地の王女と結ばれ、一子は王位に就くという規模壮大な物語により、各地にいろいろな伝説を派生している。丁度源義経が陸奥の衣川で没することなく、蒙古にまで渡ってジンギスカンになったという義経伝説のように。
 八丈島では1170年、従者50人と共に為朝が来島したと言い伝えられている。

3.御神火太鼓
 郷土芸能館では大島節、アンコ節などの民踊に続いての御神火太鼓が圧巻である。二台の大太鼓をはっぴ姿の娘3人が威勢良く両面打ちをする。舞台の左右、真上のスクリーンには三原山噴火の映像が大音響と共に映し出され、両々相俟って胸に迫る大迫力である。芸能館の向かい側には「御神火太鼓道場」があり、日夜練習に励んでいるのであろう。軽快なリズム、小粋な所作、びしっと決まる見栄など、なかなかに玄人はだしである。
 売店では椿の実を華麗に彩色した根付けを購う。暖かい甘酒も嬉しいサービスである。

4.大島夜祭り
 大島町営の観光バスは補助席を利用しても50名余である。今回の参加人員49名はこのバスの定員リミットによるものらしい。4軒の旅館に分宿することになり、私達は北区からのご夫婦と一緒に「大島館」に割り振られた。温泉は豊かだが売店もなく、昔ながらの宿屋のたたずまいである。
 来島客のナイトライフを楽しんで貰おうと「大島夜祭り」が開催される。会場の元町港待合室までは宿のマイクロバスで送迎してくれる。
 夜7時半からの抽選会に続いて、威勢の良いスーパーそーらん・よさこい踊りである。派手な長羽織に鉢巻きの若い男女が舞台狭しと踊り跳ねる。「名古屋ど真ん中まつり」のパフォーマンスさながらである。司会のシンちゃんが間合いの良い口上で舞台を進行し、あっという間に9時の終演となる。

5.三原山頂と割れ目火口
 翌24日は朝8時から4軒の旅館をピックアップしながら三原山山頂口へ。生憎の雨とガスで内輪山のお鉢巡りは中止となった。警視庁大島警察署外輪山警備派出所という物々しい表示の駐在巡査と相談の結果「ガスで視界不良では・・・」と考慮して決定された。昔、三原山心中が一時流行 ? したこともあって警官が常駐するようになったのかも知れない。
 残念ながらお鉢巡りは諦めて、帰路は割れ目噴火の跡を辿りながら下山することになった。それまでの噴火では溶岩流は外輪山の切れ目から島の東部地区に流出していって、西北部の元町、岡田港方面は安全と考えられていた。ところが昭和61年、外輪山の外側からハワイ・キラウェア火山のような割れ目噴火が始まった。割れ目の拡大・多発を恐れて、この時は東京都知事により全島避難が発令された。その深い噴火口も今では草むして歳月の経過を感じさせる。
 割れ目と溶岩流に阻まれてそれまでの有料旧登山道は廃止されてしまった。路傍に建つ「天皇陛下臨幸之跡」の標柱がひときわ目を惹く。
 このあと火山博物館では20mに及ぶ地層断面の剥ぎ取り標本により、火山島・大島噴火の年輪 ? を目の当たりにする。島民にとって三原山は矢張り恐れ敬うべき御神火なのであろう。引き続きいろいろな噴火形態や世界の火山について館長の解説を聞く。
 御神火スカイラインを登って再び三原山頂の「歌の茶屋」へ。昼食はあしたば定食である。あしたばの天麩羅はさほどでもないが、おひたしは些か癖がある。隣の客が「ちょっと石油くさい」と呟いた。
 雨も上がって三原山の全貌を見ることが出来た。戦後間もなく封切られた映画「暁の脱走」で、池部良と李香蘭(山口淑子)がこけつまろびつ脱走するラストシーンのロケ砂漠も、50余年を経た今では一面の草原である。
 晴天なら富士山がよく見えるという富士見展望台を後に山を下りる。中腹から下は野生のやぶ椿の森である。道路の両側からトンネルのように椿が覆い被さる。2月から3月前半位の最盛期はさぞかし見事な椿のオンパレードであろう。
 歌や川端康成の「伊豆の踊子」がその後落ち着いたという波浮の港は島の東南端にあり、旧港屋旅館や踊り子通りなど当時の面影を偲ばせる情緒が今に漂っているそうだが、今回は行けなかった。

6.八丈島歴史民俗資料館
 13時40分、名古屋からのチャーター機が大島空港に着陸する。本日のご一行が降りた後、14時10分私達49名が搭乗して八丈島へ。フォッカー50はフル回転である。40分で早くも到着した八丈島空港では密植したキダチアロエと八丈富士が私達を迎えてくれる。
 まずは八丈島歴史民俗資料館へ案内される。旧東京府八丈支庁( 昭和14年築 )を利用しているため、戦前にタイムスリップしたような錯覚を覚える。建物は高温多湿と台風の潮風に耐えるよう釘を一切使っていないという。
 縄文土器から黄八丈の柄見本帳( 永鑑牒 )、織機、農耕具など民俗資料は数多いが、矢張り「鳥も通わぬ流人の島」としての資料に関心が集まる。

7.流人は知識人
 関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家の父子主従13人が、1606年来島したのが八丈島流人第一号である。徳川方に味方した前田利家の四女豪姫が嫁していた為か、死一等を減ぜられてこの島に流罪になった、時に秀家33才。しかし豪姫は八丈島へは来ていないという。
 明治になって赦免され、東京・板橋に移り住むまでの265年間毎年2回、前田藩より衣食を供する船が来航したと言い伝えられている。
 明治4年までの流人は1865人を数え、公家、神官、僧侶、武士、百姓、町人から無宿者、遊女まで種々雑多な人々が全国各地から流されて来ている。
もともと八丈島は政治犯、思想犯、経済犯等比較的有識者が多かったが、五代将軍綱吉以降は火付け、盗賊、人殺しなど凶悪犯も流されて来るようになった。

 ・永見大蔵、荻田主馬・・・越後高田藩のお家騒動で。相手の小栗正矩父子は切腹。
 ・僧 日要、日巡、日顕、日成ほか・・・日蓮宗不受不施派が幕府から禁断されて。
 ・梅辻規清・・・神道を鼓吹して儒教を反駁した勤王の志士。
 ・丹宗庄右衛門・・・島津藩財政立て直しのため密貿易に尽力したが、幕府に露見して。
   芋焼酎の製法を伝えた遺徳を頌えて、島酒醸造用大がめの碑が建てられている。
 ・近藤富蔵・・・蝦夷地開拓に功のあった近藤重蔵の長男ながら、隣人7人を斬殺して。
   父親譲りで文を能くし八丈実記69巻を著す。土木工芸にも長じ六法積玉石垣などを残す。
 200余人もの流罪僧のなかには、禁忌宗派のほかに女犯の僧も多かったと元校長の資料館長は言う。ともあれ公家、神官、僧侶、武士など知識人の流人が島民啓蒙に尽くした功績は大きい。

8.島抜けと黒瀬川
 流人の唯一の望みはご赦免、それが適わぬ重罪犯は島抜けを画策する。念願の抜け舟を手に入れ、神港あたりから沖へ漕ぎ出したものの、三宅島との間を時速14kmという奔流のような黒潮に阻まれて、殆ど全員が逮捕または水死したという。
 この黒潮は「黒瀬川」と呼ばれ、航空写真でもひときわ波立っているのが認められる。帰路の飛行機は雲上を飛んだため見ることは出来なかった。
 「黒瀬川」を乗り切って房総半島に辿り着いた男が一人いた。八丈島270年流刑史に残る抜け舟15回のうち、唯一の島抜け成功者である。
 通常島抜けは捕らえられれば死罪となる。しかし地上で処刑すれば土が血で汚され、黄八丈の泥染めに障るとして、断崖絶壁から海に突き落とす刑が行われた。この島特有の刑である。

9.赦免花
 無実を叫びながら断食死した慈運法印の墓に植えた蘇鉄に花が咲くと不思議に赦免状が届いた。誰言うとなくこの花を赦免花と呼ぶようになった。
 流人のなかには島の水汲み女と懇ろになり子まで成しながらも、赦免状が届くと矢張り帰心を募らせ本土に帰ってしまうため、生き別れの愁嘆場が度々有ったという。

10.六法積玉石垣
 昔の住居を修復した大里ふるさと村を見学する。台風に備えて周囲を玉石垣と熱帯樹( 蛸の足のような枝?根?を伸ばすタコの木 など)で防護している。門を入るとまず閑所(カンジョ便所)、牛小屋、高倉( 食料庫 )、それに茅葺きの母屋は縁側と障子で囲み壁が無い。沖縄の住宅を連想する。
 前記近藤富蔵が考案したという堅固な六法積玉石垣用の玉石を、横間が浦( 大坂トンネルの西側海岸 )から運んでくると1個につき握り飯1個または手拭い1本が与えられたという。米の貴重なこの島では過分の報償である。
 海辺の岩石が波の波動で琢磨されて、見事な球形になっているのがバスからも望見出来た。大分県別府湾の波打ち際でもビーロンと呼ぶビー玉のような玉石を拾ったことがある。

11.南原千畳岩海岸
 南原千畳岩海岸に面して宇喜多秀家と豪姫の石像がある。NHK大河ドラマ「利家とまつ」の影響か、その後北陸地方からの観光客が増えたという。
 千畳岩は八丈富士から海岸まで流れ出した溶岩流が冷え固まったもので、ハワイ島のそれには比すべくもないが、ごつごつした溶岩越しに見る無人の八丈小島は南海の孤島を思わせる。
海辺の土産物屋でクサヤの小片を試食したが殆ど臭みが無い。土産物用にソフトに仕上げてあるのかも知れない。
 八丈島では49名全員八丈ビューホテル宿泊である。大広間で子供のスーパーそーらん節を見ながら夕食を執っていた時、客の一人が踊り手におひねりをバラバラと投げかけた。子供達は初めての経験らしく、呆然と棒立ちになってしまった。熱演を賞賛・激励したという意味を説明して、漸く踊りを再開した。

12.黄八丈「め由工房」
 明くる25日はまず登竜峠( ノボリョウトウゲ )より、底土港越しに八丈富士と八丈小島を展望する。代表的な景観の一つである。
 島内一周道路がこのさき末吉地区で不通のため引き返して民芸店「あき」に立ち寄る。なんと畳敷きのおみやげショップである。脱靴して店内を見て回る。
 次は黄八丈「め由工房」へ行く。きんさん・ぎんさんも104才の時来島して、昔を懐かしみ機織りを再演して見せたという。
 東京都無形文化財技術保持者山下八百子の息子山下誉さんの解説に依れば、
 ・黄色はコブナグサの煎汁に十数回浸けては乾かし、最後にサカキとツバキの灰汁に浸けて発色。
 ・樺色はタブノキの生皮の煎汁に十数回と囲炉裏の灰汁、これを3回繰り返す。
 ・黒色はシイノキの乾皮の煎汁に十数回、最後に還元鉄の多い泥土に浸けて発色させる。
 絣とは違って黄八丈は縞柄のため、いくら力強く織っても柄のずれる心配が無い。
 一般にくすんだ黄色が好まれているようだが、白洲正子も言っているように本来の黄八丈は明るく鮮やかな黄色である。
 皇室専用だった蚕品種「小石丸」が昭和27年、貞明皇后の御遺志により紅葉山養蚕所より下賜されて伝承してきた。しかし今は島に養蚕農家は無く、主に群馬県から絹糸を移入している。

 昭和天皇御製
  小石丸の糸の話を島人より 聞きて母君(貞明皇后 )をしのびけるかも
山下八百子デザインの黄八丈根付けを買い とめる。工房の創始者山下め由は八百子の母である。
 この島では室町時代から島自生の草木染めの八丈長さの絹織物を、米の代わりに貢納していた。八丈島の名前の由来について本居宣長も「八丈絹より出ずるらむかし」と述べている。

13.焼酎のフリードリンク
 名古の展望台は足下に洞輪沢港を望む200m余の断崖絶壁の上にある。海からの水蒸気で常に雲が湧き出るため快晴の日は滅多に無いが、普通の晴天でも伊豆七島最南の青ヶ島が見えるという。
 売店の店先に焼酎カメと数個の盃が置いてある。湯茶の無料サービスは時々見かけるが、焼酎のフリードリンクは初めてである。癖のない焼酎で銘柄は「情けの岬 ? 」とか言っていた。

14.服部屋敷跡で樫立踊り
 樫立地区の服部屋敷は黄八丈を貢納するご用船の小舟預かりを勤めた船方のもので、同家の盛衰は可成り激しかったようである。今では近藤富蔵が築城形式で築いた玉石垣と樹齢700年余の大蘇鉄を残すのみである。
 屋敷跡に建てられた芸能館では各地からの流人が持ち込んだ樫立踊りと八丈太鼓が披露される。黄八丈を着た男女5人が諸国民謡のうち12曲を立て続けに踊り通す。伊勢音頭は6番目、12番目は鹿児島おはら節であった。
 島唄ショメ節では観客も交えて「あーショメショメ( 塩梅の訛り)」と賑やかに囃し立てる。歌いながら敲く八丈太鼓もユニークである。
 八丈八景の一つ「大坂夕照」は車窓から、大坂トンネルを出たあたりで八丈富士と八丈小島を眺望して通り過ぎた。

15.島寿司と八丈植物公園
 昼食は名代の「くらみつ」で島寿司である。島で捕れたネタを予め醤油に漬けておいて、わさびの代わりに洋からしで握り込んだものである。いわば「島前寿司」ということだろうか。
 午後は空港近くの八丈植物公園を訪ねる。入口を飾る火山岩で形作った八丈島のミニチュアが面白い。面積は大島より小さく瓢箪型で、八丈富士( 東山 )と三原山( 西山 )に挟まれて空港も長方形の石で表現されている。
 極楽鳥花と呼ばれるストレチアは八丈島の町花、フェニックス・ロベレニーは島の主要産品となった観葉植物で、以前の養蚕農家もこれの栽培に転向してしまった。その他熱帯・亜熱帯の花が咲き競い、温室の中ではハイビスカスなど特に赤い花が百花繚乱である。

16.フリージアを胸に名古屋へ
 ビジターセンターで一息入れたあと、八形山麓のフリージアまつり会場へ移動する。4月4日までのまつり期間中は一人20本まで球根ごと摘み取り無料である。黄、紫、赤、ピンクなど蕾で品定めして、思い思いにフリージア畑を物色する。採集したフリージアは飛行機内持ち込みが出来るようコンパクトに包装してくれる。
 八丈島空港では現在1800mの滑走路を2000mに拡張工事中である。東京・羽田空港までの300kmをジェット機で45分、同じく300kmの名古屋までプロペラ機なら1時間10分かかる。
 大島からの客を降ろしたフォッカー50に乗り込み、15時20分それぞれフリージアの花束を胸に一路名古屋空港へ。帰宅後、二つの花瓶に生けたフリージアは豪華絢爛に咲き匂っている。
 大島、八丈両島とも「流人の島」という先入観とは裏腹に、島人たちはとても凶悪犯の後裔とも思えぬ立派な人品骨柄である。「観光客熱烈歓迎」の熱意も充分感じられた。

 本稿記述に当たっては実業之日本社ブルーガイド「伊豆大島・八丈島」、両町観光パンフレット、博物館長・資料館長の解説、特に八丈町役場産業観光課の「八丈島名所・旧跡と温泉のしおり」( 平成14年2月版 )を参照させて頂いたことを付記します。