2010年5月7日金曜日

「僕の細道」白河・会津紀行(2003年9月)

1.「奥の細道」「僕の細道」
 嫁いだ娘夫婦の誘いで東北路を旅することになった。「奥の細道」をもじって「僕の細道」と洒落てみたが、或る週刊誌の俳句投稿欄に既に先例があった。
「みちのく」とは「みちのおく( 陸奥 )」を意味し、奥州ともいう。明治元年、五つ( 磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥 )に分割されてからの陸奥は概ね現在の青森県を指す。出羽のくに( 羽州 ほぼ今の秋田、山形県 )と合わせて奥羽地方といえば、大体現在の東北地方を指すことになる。
 処暑、白露と節季は移り変わっているのに、残暑はまるで「大暑」並みの盛夏続きである。9月6日午前8時前、マイカーで鳩山を発ち、うどんのまち加須市を経て羽生ICから東北自動車道に入る。宇都宮までは片側3車線で、可成りの交通量である。11時頃白河ICに到着、白河関跡に向かう。やはり「みちのく僕の細道」は白河関からスタートしたい。

2.白河関
 平安中期、能因法師が「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠んで、一躍有名になった。その後西行、一遍、芭蕉などもここからみちのく路へ旅立って行った。
もともと此処は奥羽三関( 白河、勿来ナコソ、念珠ネズ )の一つで、蝦夷の侵入を防ぐため5世紀頃設けられた砦であった。しかし坂上田村麻呂が延暦20年( 西暦801 )蝦夷を平定した後は、いつしか関の機能が失われて廃関となっていった。
 江戸後期、白河藩主松平定信が収集した古書画等で空湟(壕)、南門跡、北門跡などを照査して、この地を白河古関跡と認証し碑を建てた。

3.アウシュビッツと白河そば
 観光アンケートを採っている白河市の職員に勧められるままに、アウシュビッツ平和博物館を訪れた。建家は江戸中期の民家を白坂駅近くの丘に移築したものである。入館料 @ 500 円。
 特に目を引いたものは、 高さ140cm の鉄棒、身長がこれに届かぬ子供は非労働力としてガス室に送られた。もう一つ 夜間、便器・便桶が使用できないときは、各人唯1個宛支給された食器( ホーロー引きの深皿 )に排便をしていたという。
 館外に置かれた有蓋貨車2両には子供たちが描いたユダヤ人迫害の絵が多数展示してあり、中でも拉致、処刑の図は痛ましい。
那須連山からの雪解け水に恵まれて、白河のそば、ラーメンは旨いという。麺マップで奨められた新駒本店で割子そばを注文する。そば粉分が多く、舌触りがざらついて喉越しがいまひとつである。
 元来そばは米麦作にも適さぬ寒冷荒地に救荒植物として栽培されたもので、つなぎの小麦粉が少ない古来の製法に依ったものかも知れない。

4.檜枝岐温泉
 再び東北自動車道を南下して塩原ICから国道400号線へ。塩原温泉郷を通り抜け、道の駅たじまで小休止。「真実の口」のレプリカで占いを試した後、丁度3時半に檜枝岐温泉に到着した。
 4時半の夕食までのひととき、今夜の歌舞伎会場の下見かたがた村内を散策する。舞台の茅葺き建家は明治中期の再建とか、それを囲む階段状の観客席を見てギリシャの円形劇場を思い出す。路傍に祀られた「縁切り縁結び像・・橋場のバンバ」には縁結びより縁切り鋏のお供えの方が多く苦笑する。そのあと釘を使わない正倉院様式のセイロウ作り板倉、凶作のため間引いた嬰児を慰霊する六地蔵などを見学して帰館する。蕎麦屋が経営する丸屋新館の山人(ヤモウド)料理に出た「そば」は逸品である。名を伏せた天麩羅のひとつは山椒魚であった。

5.檜枝岐歌舞伎
 少し早めに宿の座布団を携えて歌舞伎会場へ行く。程よい二段目あたりの階段に席を取る。既に高齢の素人カメラマンがずらりとカメラの砲列を布いていた。薄暮の6時半、恒例の寿式三番叟で幕が開く。神に奉納するため、舞台の四方を浄める舞である。「舞い手は高校生」と誰かが呟いた。
 今夜の演目は大阪夏の陣に材を取りながら時代を遡った「鎌倉三代記 三浦別れの段」である。伊勢参りの帰途、江戸で見覚えた村人の素人歌舞伎が起源である。歌舞伎三姫( 八重垣姫、雪姫、時姫 )のひとり時姫、木村重成を擬した三浦之助、真田幸村をなぞった佐々木高綱の各役とも、聊か生硬な演技がまた農民芸能らしくて却って親しめる。この有志集団を花駒座という。
 花道から舞台下まで続々とご祝儀のびら( 二万円から千円まで )が貼り出される。「国立劇場より一万円」もあった。村民600人程の村に2000人余の観客が詰めかけた。長袖で丁度良い夜の涼気に包まれながら、盛況のうちに午後8時過ぎ終演となった。一つしかない出入り口から整然と退出、宿の檜風呂で一浴びして床に就く。

6.南泉寺から塔のへつりへ
 翌7日は出がけに村はずれの人工ミニ尾瀬を散歩したあと121号線を北上する。路傍の茅葺き鐘楼門は松見山南泉寺のもので、1794年建立、今年3月福島県重要文化財に指定された。
 「鐘撞き自由」の貼紙で代わる代わる撞いてみる。掲示板によれば「寺はもと聖徳太子を本尊とする太子守宗であったが、1655年浄土真宗に転宗した」とのことである。
 次に立ち寄ったのが東北一の景勝と地元が自称する天然記念物「塔のへつり」て゛ある。河岸の岩壁が堆積地層毎に微妙に浸食されて、恰も10個の奇妙な塔のように並んでいる。向かって左から烏帽子、護摩、象、尾形、九輪、櫓、屋形、獅子、鷹、鷲の各塔岩と名付けられている。
 トルコのカッパドキア広野に散在する風蝕の奇岩群には比すべくもないが大自然の為せる奇勝である。

7.大内宿
 続いて下野街道の大内宿を訪れる。会津若松から日光街道の今市宿までを結ぶ約30里(118km) 17宿のうちの一つである。会津から江戸への最短ルートで、廻米をはじめ産品輸送の重要路であった。参勤交代のとき、大名が泊まった藁葺き屋根の本陣も立派に現存している。
 格式のありそうな佐藤家は「玉屋( 佐藤家 )由来」によれば治承4年( 1180年 平家討伐のため源氏が起った年)以来の名家とあるが、平安末期にしては建ちも高く、かなりの豪族の館だったに違いない。
 道の両側には農家の縁側に民芸みやげを並べた格好の店や食堂、旅館が軒を連ねている。軽食とおみやげショッピングモールとして、最近の観光客には案外うけているのかも知れない。

8.鶴ヶ城と麟閣(リンカク)
 会津若松では「山葵」の釜めしで腹ごしらえの後、鶴ヶ城へ。1384年創建以来度々の増改再築が繰り返され、現在の天守閣は昭和40年( 1956年)、昔ながらに再建されたものである。
 西出丸に車を止め梅坂より入城、戊辰戦争のとき落城直前まで鐘を鳴らし続けたという鐘撞堂を過ぎると天守閣が目前である。本丸側に回ると大勢の観光客を引き連れて現地ガイドが「よく見てくなんしょ、云々」と会津弁でまくし立てている。天守閣へ登る人、櫓・走長屋などを見て回る人、様々である。
 私達は千利休の次男 少庵が時の城主蒲生氏郷のために造ったと伝えられる茶室「麟閣」を見学する。但し現在の「麟閣」は戊辰戦争後の荒廃を避けて他所に移築していたものを、平成2年、城内に復元したものである。寄付待合、中門、腰掛待合、蹲踞( ツクバイ)から茶室へと正統なたたずまいに心洗われる。

9.御薬園(オヤクエン)
 次に市の東郊「御薬園」を訪れる。その昔、薬泉が湧いた霊地としてこの地に祠、藩主別荘が建てられ、3代松平正容の頃には朝鮮人参ほか各種薬草が栽培された。今や400種に及ぶ薬草・薬木となり、「御薬園」として広く名を知られるようになった。
 用法次第で薬効ありという毒草「とりかぶと」も花盛り、蔓延して困る「どくだみ」が1坪程の区画にちんまり収まっているのは寧ろ不思議である。
 秩父宮妃殿下ゆかりの新滝旅館が東山温泉から移築され、妃殿下の誕生日(9月9日)に因んで重陽閣と名付けられた。昭和天皇の弟君秩父宮に嫁した勢津子さまは会津藩主松平容保の孫娘である。本日は90周年の何か記念行事があったらしい。邸前に咲いた数輪の蓮が清々しい。
 回遊路に従って「心字の池」へ回る。徳川中期の築庭で、池畔には茅葺きの御茶屋御殿、中の島には戊辰の刀痕も残る楽寿亭を配した山水の名庭である。池を前に、緋毛氈の床几で胡麻羊羹と抹茶を一服頂く。水量豊かな男滝、女滝が特に印象的であった。

10.飯盛山
 今日の観光の終盤は白虎隊の飯盛山である。中腹までは有料( @ 250円)の動く歩道で行く。そのあと30数段ほど階段を登ると白虎隊士の墓がある。正面はここで自刃した19士、右側には会津各地で戦没した白虎隊士のうち氏名が判明した31士の墓が並んでいる。
 墓前の広場では白虎隊の扮装で剣舞「白虎隊」と当時の戦況説明をしている。右奥には「白虎隊の武士道精神に感銘した」として昭和3年、ローマ市民より贈られた「古代ローマ精神を象徴するファッシスタ党章を冠したボンベイの古柱の碑」が建っている。
 また自刃したものの唯一蘇生して白虎隊の実録を後世に伝えた飯沼貞雄の墓も、昭和32年になって近くに建てられた。尚、山中で本隊にはぐれた酒井峰治が後世書き残した記録も、併せて貴重である。
 更に右奥には炎上する鶴ヶ城( 実は周囲の侍屋敷の火煙を見誤ったとも言われている)を拝し、従容自刃した白虎隊士の聖地がある。十四・五歳の少年を形どった石像が掌をかざしてお城を望見する様はひときわ涙を誘う。
 帰路は登降別通路のさざえ堂前を通り、戸の口堰洞穴を見学して下山する。この堰洞穴は猪苗代湖の水を通水して会津盆地を潅漑するため天保3年(1832年)掘削されたものだが、戸の口原の戦いに敗れた白虎隊士20名が難渋しながら通り抜けたことでも有名である。
 まだ4時半だというのに麓のみやげもの屋はバタバタと店を閉めている。私達も一路、東山温泉「御宿東鳳」へ急ぐ。

11.東山温泉から猪苗代湖へ
 若松市内を眼下の大展望浴場で旅塵を洗い流したあと、料亭「吉祥」へ。ホテル内とは思えぬ本格的な料亭玄関から観月の間に案内される。板長自慢の旬菜(シュンサイ)御膳14品を堪能するうち、当館の芳賀女将が挨拶に参上、彼女を囲んで皆で写真を撮る。
 宿泊はタワー館17階の和室で会津盆地が一望の下である。勿論遠目ながら鶴ヶ城も見渡せる。この旅館は東山温泉随一、収容人員1000人を豪語するだけあって、和洋中華の朝食バイキングでは大バンケットルームもほぼ満席の盛況である。
 8日、猪苗代湖への峠道で久し振りに「支那そば」の看板を見た。戦前はチャルメラを吹きながら屋台車で町中を流していたものだが、戦後は「中華そば」に呼び方も変わり、何となくもの悲しいチャルメラの音色もすっかり聞かれなくなった。
 いまの中華人民挙共和国は紀元前3世紀、この地域を統一した「秦」帝国のことが西欧に伝わって、英語でChinaチャイナ、フランス語でChineシーヌ、イタリア語でCinaチーナと呼ばれている。漢民族が世界の中央に位置し、華の文化国家と誇る「中華思想」の高揚と共に「支那」という文字を禁忌するようになった。しかし「シナ」は本来、現在の中国及びその周辺を含む一大地域の名称である。例えば東シナ海、インドシナ半島など。

12.野口記念館
 湖面標高514mの猪苗代湖はさすがに爽やかな秋色である。朝8時半開館の野口記念館には早くも見学者が詰めかけている。まず「野口博士生家」を見る。文政6年(1823年)に建てた生家は損傷甚だしく、昭和56年(1981年)解体復旧された。
 1歳半の清作(英世の幼名)が左手を火傷した囲炉裏、19歳で上京する時「志を得ざれば再び此地を踏まず」と刻んだ床柱に注目する。火傷の時、母シカが洗い物をしていた小川、快癒を祈って熱心に信仰した救世観音(クセカンノン)、英世が英仏文で書いた忍耐の碑、遺髪塚碑など中庭を見て回る。
 本館では冒頭に野口清作尋常小学校4年生の試験成績表が目につく。修身、読書、作文、習字、算術、体操(除)平均93点、席順一、優 ( 席順四以下は「良」ではなくて「尋」)と記載されている。読み、書き、算術など基礎学力を重視した当時の教育方針が窺える。その隣には高等小学校で使ったらしい英語のリーダーが展示されている。父娘で蜜蜂を観察している情景の頁である。韓国でも野口英世は望ましい立志の偉人として尊敬されているのか、見学者が多いらしく、ハングルでの説明文が頻りに目につく。
 等身大に引き伸ばした「ニューヨークでの英世の写真」と並んで写真を撮る。彼は153cm位で割に小柄に見える。
 アメリカ、中南米、アフリカで蛇毒、梅毒、黄熱病等の解明に尽力するうち、その黄熱病に冒されて1928年アフリカで病没した、51歳であった。6年前、私が訪れたメキシコのメリダにも1919年12月から3ヶ月、研究のため滞在したという。
 英世自筆の愛妻メリー夫人像、旧師への手紙など、画才、書才もなかなかのものである。「はやくきてくだされ、はやくきてくだされ・・・」と繰り返す母シカの手紙は肉親の情が惻々と迫ってくる。
 生家の北の空高く標高1819 mの磐梯山が端然と聳えている。清作少年は国際的医学者への雄飛を朝な夕な、この秀峰に誓っていたのではなかろうか。
 エクアドルで撮った野口英世の写真が来年の新千円札に採用される。また一段と来館者が増えることであろう。

13.五色沼
 猪苗代湖から磐梯山を左に見て五色沼へ到着する。沼一帯は未舗装路ながら緑豊かなハイキングコースで、三々五々ハイカーが散策を楽しんでいる。大小100以上の湖沼があるというが、時間の都合で深緑の柳沼、コバルトブルーの青沼、瑠璃色のるり沼までを見て引き返す。
 水底に赤錆や湯ノ花状の沈堆があり、鉄分、硫黄分の溶融加減で水の色がいろいろに変化しているのだと思う。
 続いて裏磐梯最大の檜原湖畔を走る。湖に散在する小島は磐梯山噴火の堰き止め湖であることを表している。磐梯高原から大塩温泉を経て喜多方市にはお昼頃着いた。


14.「蔵のまち」喜多方でラーメン

 元祖喜多方ラーメンを自称する「源来軒」で定番ラーメン( @ 550円)を賞味する。大正年代、中国から移り住んだ店主が手打ち一筋に、屋台ラーメンから始めたという。少し太めの麺に玄妙なスープがよく合う。店を出る頃には席待ちの列が出来ていた、あちこちに沢山ラーメン屋はあるだろうに。
 観光パンフレットには「蔵のまち」喜多方と謳って、醸造蔵、レンガ蔵、長蔵(80m位)、蔵座敷、蔵寺院など紹介されているが、川越の蔵通りも前に見たことだし、切り上げて会津若松に還る。途中、塩川町では東鳳の女将が激賞した塩川牛のことを思い出した。

15.会津若松から5時間
 会津若松では市の観光物産協会で若松の赤べこ、会津塗り、堆朱の根付け( 本来は財布などの紐に付け、帯にはさむ飾り)、お菓子「ハットー」などを買い調える。観光地図によれば、この近くに「野口英世の初恋の人、山内ヨネの生家」の記載まである。
 東北新幹線で栃木県黒磯付近を通過中、もくもくと立ち昇る異様な黒煙を見た。この日の正午頃発生したブリヂストンのタイヤ工場の大火災であった。
 会津若松駅を夕刻4時前に出発、郡山駅、東京駅で新幹線を乗り継いで、午後9時過ぎには名古屋駅に到着した、その間5時間余。高速鉄道の発達を今更のように感心するとともに、奥州「みちのく」も近くなったものだと思う。