2010年5月8日土曜日

凄惨 アウシュヴィッツ(2004年6月)

1.ナチスの「東方総合計画」
 ポーランド南部の古都クラクフから西へ54km、オシフィエンチムの町はずれにアウシュヴィッツ強制収容所はあった。今では国立オシフィエンチム博物館として、遺された建物・施設・遺品が保存、展示されている。
 第一次世界大戦で課された厖大な賠償金に疲弊したドイツ国民は、ナチスを率いるヒトラーに回生の期待を掛けて、1933年政権を託した。アウトバーン( 軍用高速道路 )建設で失業者を吸収したヒトラーは密かに「東方総合計画」なるものを策定していた。それは東ヨーロッパを支配下に置いて現住民およそ5000万人を追い出し、ドイツ人1000万人を移住させるという壮大な計画であった。その根底にはドイツ選民意識と劣視民族( ユダヤ人、ジプシー、一部のスラブ民族など )の抹殺という意図が隠されていた。
 幸い第二次大戦で後半の戦局ドイツに利あらず、この計画はほとんど実現しなかった。ただポーランドでだけは1939年より1000箇所以上の強制収容所を設置し、ナチ親衛隊( SS )管轄の下に実行されていった。
2.アウシュヴィッツ強制収容所設立
 アウシュヴィッツ強制収容所はポーランドに侵入したナチス・ドイツが、初めはポーランド人政治犯を収容するために、1940年設立された。本来の政治犯の他に一部のクリスチャン( 主に、ものみの塔信者 )、常習犯罪者、同性愛者、浮浪者( ジプシーなど )そしてナチが最も蔑視したユダヤ人が続々と送り込まれた。
 地元ポーランドはもとより、ドイツ、オランダ、ベルギー、オーストリア、ハンガリー、チェコ・スロバキア、ブルガリア、ギリシア、旧ユーゴスラビアそれにイタリア、フランス、北はノルウエー、リトアニアから旧ソ連と、当時ナチが跳梁したヨーロッパ各地から、約28の民族の人達が収容された。 翌1941年、独ソ開戦後はソ連軍の捕虜12,000人も収容され、その過半数は数ヶ月以内に毒殺、銃殺、衰弱死したという。
 20,000人程度の収容能力では増大する囚人に対処しきれなくなり、1941年には約3km離れたブジェジンカ村に第二収容所としてビルケナウ( ドイツ語で新しい白樺の意 )収容所が建設された。更に1942年にはモノヴィツェ村に、付近の工場、炭坑に囚人
の労働力を供給する目的で、傘下に40箇所ものミニ収容所を擁する第三収容所が設立された。

3.収容所正門と遺品の
 博物館では館内の混雑を避けるためインフォメーションセンターからの入場を制限している。数人が「死の壁」に献花する花束を買いに売店へ走る。コースの最初に、鎖に繋がれた右手を大きくデフォルメした彫刻に出くわし、これから見学する陰惨さを予感する。
アウシュヴィッツ強制収容所正門にはドイツ語で ARBEIT MACHT FREI ( 働けば自由になる )と掲げられているが、 B の字が上下逆になっている。強制労働に駆り出された囚人達のせめてものレジスタンスだったろうといわれている。
 収容所に連行された人達は先ず持ち物一切を没収される。展示室にはそれらの衣服、靴、鞄、眼鏡、櫛、ブラシなどが堆く積み上げられている。鞄やトランクには国籍、住所、氏名、子供は生年月日、孤児にはその旨がペンキで書き込んである。
 移住だと騙されて、ユダヤ人が自ら買った東方都市行きの切符が一枚・・・ことの真相を知った時はさぞ無念だったろうと思う。
 処刑前後に刈り取った頭髪、それで織った布地、義手義足の山、1kgで400人をガス殺出来るチクロンB( 青酸ガスの素 )の空き缶がごろごろ。戦局逆転でソ連軍が迫った頃、ナチが焼却し切れなかったものである。死体の焼却灰は肥料にした。遺灰の一部は瓶に詰めて展示台に安置されている。

4.人間の「選別」
 人々は到着すると隊列を組んで医師の前を行進させられる。労働の可否を判別する為である。老人、身体障害者、病人、妊婦、乳飲み子を抱えた母親、ホモ、身長120cm未満の子供は非労働力として「生存の価値無し」と選別され、こうして約3/4の人達がガス室送りとなった。
労働能力有りと判定された人は正面、横、斜めの顔写真を撮られた後、囚人番号を腕に刺青される。しかしナチ・ドイツはもともと「労働力として収奪し尽くした後、抹殺する」という特定民族絶滅政策を執っている。( ガス室へ)行くも地獄、( 労働班に)残るも地獄である。

5.カポの鞭と高圧鉄柵
 労働班は夏冬通して1着きりの囚人服、1500cal / 日 程度の粗悪な食事で、一日中ほとんど休息なしに労働に酷使された。彼等を一層悲惨にしたのは、ドイツ本国の刑務所から送り込まれたマゾ的凶悪犯のカポである。カポとはイタリア語で親方の意味で、囚人頭として現場監督に当たった。
 労働の督励、懲罰に振るったゴムホースの鞭は乗馬用の鞭とは比較にならぬほど強烈で、時にはその場で絶命する者もいたという。殆どの者は2~3ヶ月で骸骨同様に痩せ衰え、やがてガス室送りとなっていった。
 耐えかねて逃亡を図る者には高圧電流( 三相交流380v とガイドは言う)を印加した二重の有刺鉄線柵が待っている。係員向けに「高圧危険」の立て札が立っているが、囚人には無地の裏側しか見えない。遂には自殺目的で感電死する者が続出し、その都度、所内停電が頻発したため、監視塔よりの射殺が強化された。
 それでも旧ポーランド軍の兵舎を流用したアウシュヴィッツ( 第1)はまだ良い方である。後で行くビルケナウの馬小屋式バラック棟に比べれば。

6.忌まわしい生体実験
 ナチの許し難いのは劣視民族絶滅の手段を探るため、男女囚人を使っての不妊・断種の生体実験である。若くて体格の良い男女約30人を実験材料に、聞くもおぞましい施術を週に2~3回行ったという。  また非労働力と見なされた子供でも双生児は別に温存されて、比較生体実験に供された。
 実験中または直後に死亡する者も多く、たとえ生き残っても秘密保持のため結局はガス殺されていった。

7.銃殺刑場「死の壁」と拷問室
 奥の第11棟には臨時裁判所( 室 )があり、2~3時間の間に百数十件の死刑がほとんど即決で下されていった。隣の中庭「死の壁」の前で裸で銃殺されたという。この日も沢山の献花が供えられていた。
 建物の地下は刑務所というよりは、むしろ懲罰のための拷問室である。餓死室では長崎で布教したこともあるマクシミリアン・コルベ神父もここで落命した。
隣の窒息室では僅かな明かり取り窓も積雪で閉ざされると、扉の監視用小穴しか空気が流通しない。直径1cm程の穴を拡げようと内側から爪で掻きむしった痕がある。見る者の胸も掻きむしられる思いがする。最後は長時間90cmに背を屈める「立ち牢」である。厨房前の広場には見せしめの為の公開集団絞首台が復元されている。

8.ガス室にゆらめく鬼火
 ガス室と焼却炉は有刺鉄線柵の外にあった。焼却炉の隣の、もと死体安置所であった広い部屋はシャワー室に見せかけたガス室に改造された。収容所より解放する前の衛生措置と偽って、男女とも頭髪を刈り、消毒、シャワー室、実はガス室に誘導して、一度に2000人を約30分でガス殺した。チクロンB.5kgから発する青酸ガスで事足りたという。
 薄暗いガス室に揺らめく慰霊の献灯がむしろ鬼火のようにさえ見える。見学の一行も段々言葉少なに、陰鬱な気持ちを抱きながら次のビルケナウ収容所を訪れる。

9.「死の門」から馬小屋へ
 オシフィエンチムからの鉄道引き込み線を飲み込むように「死の門」と中央衛兵所の建物が建っている。当時「一旦入ったら、出口は焼却炉の煙突しか無い」と恐れられた「死の門」である。
 衛兵所3階の監視塔から175ha( 約53万坪)にも及ぶ広大な収容所の全景をバンして眺める。貨車で運び込んだ収容者を「選別」した積み降し場の左側、煉瓦造りの建物群が女囚棟である。右側は52頭用馬小屋の設計図で建てた木造バラック群で男性用である。
 枕省略のため頭部に若干勾配を付けた木製3段ベッドがぎっしり。1段に8人を詰め込んで1棟に約1000人、全所で男女併せて10万人、最大16万人を収容したこともあるという。ただ監獄法規則とかで、全棟中央に暖房用横引き煙突が設置されているのが、堅苦しいドイツらしい。
 手前の第1棟は共同便所棟である。中央通路の両側に、2列の便穴を並べた細長い便器が据えられている。背中合わせに腰掛けて用を足す。勿論前後左右にセパレーターは無い。夜はそれぞれの棟内の便桶を使うが、それも使えない時は唯一支給された食器皿に排便したという。
 ビルケナウはもともと湿地帯のうえ、ろくに基礎工事も施さぬまま急造したバラック団地で、水の便も悪く、衛生的にはいろいろ問題を抱えていた。さらに鼠の大発生と伝染病の蔓延で、管理には可成り手を焼いたらしい。

10.殺人工場へ変貌
 引っ込み線の奥には4棟のガス室・焼却炉跡と国際慰霊碑がある。時間の都合で其処までは行けなかったが、150万人もの大量ガス殺は主にこちらで行われた。その2/3はユダヤ人だったという。
 ガス殺が増えるに伴い4基の焼却炉は24時間稼働しても追いつかず、ついには屋外の大きな壕で焼却したとのことである。こうしてこの収容所はナチスによる劣視民族絶滅の殺人工場へと急速に変貌していった。

11.解放、証言、オシフィエンチム博物館
 ドイツの敗色が濃くなるに従い、収容所内外の秘密抵抗組織の連携が強化され、所内ナチの残虐犯行、兵員・装備、士気の低下などの情報が外部にリークされていった。
 1945年1月、ソ連軍によって約7000人が解放されたものの、その多くは肉体的、精神的に極限状態にあった。また約200人の双生児が医学実験材料として、なおストックされていたという。
 これら生き残った人達の証言と破壊を免れた施設の調査でナチスの暴虐は明らかとなり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館として後世に語り継がれることになった。
 ヒロシマ、ナガサキの原爆とともに、「アウシュヴィッツ」はまさに人類の負の遺産である。
最後に、アウシュヴィッツ収容所元所長ルドルフ・ヘスが戦後1947年4月16日、収容所内の絞首台で処刑されたことを付記しておきます。

 本稿は自己の見聞に、国立オシフィエンチム博物館案内書、グリンピース出版会「心に刻むアウシュヴィッツ」、地球の歩き方「ポーランド」などを併せ参照して記述しました。
 なお福島県白河市の「白坂駅」近くの丘に江戸中期の民家を移築した「アウシュヴィッツ平和博物館」があり、アウシュヴィッツ強制収容所の一部の遺品、写真が展示してあります。同館で頒布の前記「心に刻むアウシュヴィッツ」には154件の関連図書名が掲載されております。
 右は白河の「アウシュヴィッツ平和博物館」

左はビルケナウの「死の門」・中央衛兵所の建物全景


下はビルケナウ収容所の航空写真( 絵はがきより)
手前が「死の門」・中央衛兵所、引き込み線の左側が現存している女囚棟、右が男囚棟、奥がガス室・焼却炉跡