2010年4月8日木曜日

喜寿所懐(2002年9月)

 私は今年喜寿である。熱田神宮に初詣での際、参道脇の掲示板に「大正15年生まれの人は今年は喜寿、その他還暦、古稀、米寿や厄祓いの年回り」などが大書してあった。戦後は満年齢で数えることが普通になったが、暦の上での年齢は古来数え年である。しかも本来は立春から翌年の節分までで区切っていた。

 喜の字を七十七と読み替えて喜寿としたのは日本独特のもので漢語には無い。同様に傘寿80歳、卒寿90歳、白寿99歳も我が国独自の略字などからくる牽強付会(こじつけ)である。況してや近頃デパート業界が提唱する「緑寿66歳」に至っては「売らんかな」の意図が露である。

 ここで少し漢語と干支について付け加えておこう。米寿88歳に相当する漢語は米年、古稀70歳は七旬ともいう、80歳は漢語で八秩、90歳は九旬、100歳は期頤、還暦61歳は漢語でも華甲という。”広辞苑” によると「華の字を分解すれば六つの十と一になる。甲は甲子の意。数え年61歳の称」とある。これは「米年」と同じ発想である。甲子は十干(木火土金水の兄弟、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸) 十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の最初の組み合わせである。「華」にはもともと立派な、尊いという意味もあるので、「華甲」には干支が一巡して初めに還ったことを寿ぐ思いも込められている。

 それは兎も角、喜寿の旨を子らに告げたところ、敬老の日ころに喜寿祝いをしようということになった。児孫眷属八人で一卓を囲む中華料理で賀宴を張ろうと長男が発案し、横浜中華街の聘珍楼に席が設けられた。横浜は開港の祖・井伊掃部頭直弼に、妻の母方の曾祖母が仕えたことがあり所縁が深い。この際一泊して皆で記念写真を撮ることにした。

 宿舎はアニバーサリーに相応しく昭和2年誕生のホテル・ニューグランド。終戦直後マッカーサー元帥が焼け残ったこのホテルの315号室に滞在したことでも有名である。記念写真は大正7年設立の草分け的写真館フォト・エクボで撮った。 聘珍楼は明治20年創業以来115年の伝統を持つ中華料理店の超老舗である。
 富貴の寿筵と題する菜譜で鶴亀を象った前菜から始まった。次に鱶鰭スープ、鮑、北京ダック、帆立貝、伊勢海老、福建炒飯と続いてバースデイ・ケーキ状のデザートで締め括った。
そのあと喜寿祝いとして”広辞苑”(購入用図書カード)を贈ってくれた。これはいつか佳き日の記念にと、私が今まで購入を引き延ばしていたものである。人生を振り返り折に触れ所感を書き記す際、参照確認の為に必須のアイテムの一つである。

 最後に祝賀の答辞として、「喜寿所懐」をしたためた七言絶句の漢詩(下記)を子等に手渡して寿席をお開き(祝いごとを終わるという語を避けて)とした。

佳辰喜天寿  平成十四年九月十四日(記:ハンドルネームJoe)

           佳辰天寿を喜ぶ
 光陰如矢早喜寿  光陰矢の如し早くも喜寿
 跋渉踏破幾山河  跋渉踏破せり 幾山河
 弥栄萬歳児孫聚  弥栄萬歳 児孫聚まる
 崇祖修身期斉家  崇祖修身して斉家を期す

 【漢詩の意味】
 この佳き日に 天から授かった寿命を喜ぶ
 歳月は矢のように流れて、早くも喜寿、七十七歳になった。
 その間、幾多の山河、艱難辛苦を踏み渉り踏み越えてきたものだ。
 今日はめでたい。枝も弥弥栄えて葉も繁るように、子や孫、婿や嫁も聚まってきた。
 萬歳、萬歳。
 生を享けた先祖に感謝尊崇して益々身を修め、一家眷属が整然と一層栄えて行くよう覚悟を新たにした。

 14日午後、山下公園桟橋からのシーバスは氷川丸、横浜ベイブリッジ、赤レンガ倉庫などを左右に見ながら「みなとみらい21」まで僅か10分程の航行だったが、妙に印象深い。ニューグランドの客室から大桟橋越しに見る「みなとみらい21」の夜景、特にランドマークタワー、電飾された巨大なメリーゴーラウンドは絢爛華麗である。

 翌15日は、掃部山公園で井伊直弼銅像や旧加賀藩の能舞台を見学ののち散会した。このあと訪れた東京ディズニーシーの行程も含めて、この度は非日常的な、ちょっと大袈裟に言えば異次元の時空を遊泳したような数日間であつた。

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