2010年4月7日水曜日

スペイン見聞抄(2002年2月)

1. ガウディの街 バルセロナ
 1月26日スペインの旅はバルセロナから始まった。首都マドリッドに次ぐスペイン第二の都市バルセロナは1992年オリンピック開催で世界の注目を集めた。一方芸術の分野では19世紀末に起った「モデルニスモ」(近代主義)という芸術運動により、ガウディ、ビカソ、ダリ、ミロなど特異なアーチストが輩出している。

 まずグラシア通りのカサ・ミラ(ミラ邸)前を通りグエル公園に行く。未来指向の住宅地を目指したが完成は2棟のみで、あとは公園になった。1棟は医者が、もう1棟はガウディ自身が住み、現在はガウディ博物館になっている。直線よりもグニュグニュした曲線を多く採り入れた建築物はむしろ異様でさえある。

 続いてサグラダ・ファミリア(聖家族)聖堂を訪れる。1882年着工以来延々と建築中で、完成は200年後とも言われている。1883年ガウディが担当して以来、1926年交通事故で亡くなるまでの44年間建設に精励したという。

 現在引き継いでいる建築家の一人は日本人である。その手になる「ご誕生の門」の母子像は心なしか日本人的容貌である。反対側入口脇には縦・横・斜め何れも合計が33になる数字表がある。

2. 西回り大航海 コロンブス
 オリンピック・スタジアムのあるモンジュイックの丘に登る。バルセロナの市街と港が一望の下である。眼下に目を凝らすとランブラス通りの南端で、港に近いロータリーにコロンブスの塔が見える。1888年にバルセロナ万博を記念して建てられたものである。

 しかし1492年イタリアの探検家コロンブスがスペイン女王イサベル1世の援助の下、新大陸発見の航海に船出したのはスペイン南西部のパロス港であつて、バルセロナではない。その後スペインは西回りで中南米を簒奪し、遠くフィリピンにまで達している。ともあれオリンピックの年にはコロンブス500年祭も合わせ開催されている。

 バレンシアへの途中、江ノ島のように地中海に突き出た岩山の城塞の町ペニスコラを、ベニカルロの海岸から海越しに眺める。

 3月19日深夜、巨大なファリヤ(張子人形)が次々に炎に包まれるバレンシアの火祭りはオレンジと共に有名である。

3. ドン・キホーテの幻想 ラ・マンチャ
 27日は西進してドン・キホーテの舞台ラ・マンチャ地方に向かう。内陸の高地に入ると俄かに霧に包まれ、自動車はのろのろ運転を余儀なくされる。世界遺産にも指定されたサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道では、ピレネー越えの濃霧で道を見失い、行き倒れる巡礼者が続出したというが、それもう頷かれる。なにしろ突然の濃霧である。

 ドン・キホーテが巨人ブリアレオと見間違えて突進した風車は霧の中。風車の村カンポ・デ・クリプターナも霧に霞んで益々幻想を掻き立てる。セルバンテスが度々泊まったというプエルト・ラピセ村の旅籠で昼食を執る。ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサのおどけた銅像があちこちに建っていて、ついつい虚構の中世に引き込まれる。

4. 情熱のフラメンコ グラナダ
 グラナダに到着の夜はフラメンコのディナー・ショウである。タブラオと呼ばれる洞窟風のフラメンコ酒場もあるが、今回は「サラ・アルハンブラ」というレストラン・シァターである。

 会場へは一番乗りだったので最前列に陣取った。ディナーのあと10時過ぎに漸く開演。トーケ(ギタリスト)、カンテ(歌い手)、バイラオーラ(踊り手)がフラメンコ特有のリズムに乗って、ぴったり息の合ったパフォーマンスが展開される。

 数種類のリズムパターンがあるが”33222”の12拍子が代表的という。歌はアンダルシア地方の歌をジプシー風にアレンジしたというが、どこかインド・アラブ的旋律も交じっているようで共感を覚える。踊りは6人の踊り手が一人ずつ踊っては自席に戻るクワドロ形式で始まる。自席ではパルマ(手拍子)で同僚の踊りを盛り立てる。思いなしか掌指が大きく、踊りのブラセオ(腕の動き)を一層魅力的に強調する
。最前列で見たせいか、強烈なリズムを生み出すサバテアード(足の動き)を存分に堪能することが出来た。

 終盤フィグラで登場する真打ダンサー男女の真摯なデュエットは圧巻である。全員が額に汗し、胸弾ませてのフィナーレで最高潮のうちに終演した。午後11時半。

5. アルハンブラ宮殿と ジプシー
 1354年イスラム文明の粋を集めて完成したアルハンブラ宮殿は最盛時2000人を超える人が住む宮廷都市であった。砂漠から来たアラブの王は水を非常に珍重した。アラヤネスの中庭では、水を満々と湛えた池に映えるコマレスの塔に各国大使を迎えたという。

 噴水を備えたライオンの中庭に面して東に王の間、南にハーレムがある。北側の二姉妹の間の天井の鍾乳石飾りは、グエル公園のガウディの作品に通ずるものがあるように思う。
カルロス5世宮殿は資金難から屋根が未完成である。同じく屋根が無いポルトガルのバターリアの礼拝堂をふと思い出した。

 城外、ナスル朝の離宮ヘネラリフェは修築中のため、代表的なスペイン・イスラム庭園「アセキアの中庭」を見ることは出来なかった。

 宮殿への途次、通り過ぎたサクロモンテの丘にはクエバと呼ばれるジプシーの洞窟住居がある。

 言い伝えによれば千年程前、異民族の侵略に追われてインド西北部ラジャスタン地方より脱出した部族が各地を放浪の末、ルーマニアをはじめヨーロッパ各地に流れ着いた。しかし生来の放浪癖と地元民の排斥のため、なかなか定住出来なかった。

 レコンキスタ(キリスト教徒による、イスラムからの国土回復運動)の頃、イサベル女王がアラブの王ボアプディルを追放する際、協力した功によりジプシーの一群は許されてこの丘の洞窟に住みついた。未だに放浪を続ける人々がいる一方、定住してオリーブ、オレンジの収穫に従事する者も多いとのことである。またフラメンコで見初められて、グラナダ市長夫人に納まったジプシーダンサーもいたという。

 地元民はエジプトから来た人「イジプシアン」(Egyptian エジプト人)と呼んだのが訛って「ジプシー」になったらしい。しかし彼等はこれを嫌って自身を「ロマ」と称している。「ロマ」とは彼らの言葉ロマ語で”人間”を意味する。

6. イスラムとカトリックの鬩ぎあい コルドバ
 ヨーロッパが「暗黒の中世」の頃、コルドバではイスラム文化全盛を誇っていた。その象徴 メスキータ(Mezquita スペイン語でモスクの意)は785年建設が始められ、その後三度の拡張で175m x 135m, 25.000人を収容する巨大モスクとなつた。堂内東奧にはイスラムの聖地メッカを指向するミーラブと呼ぶ聖所がある。

 レコンキスタののち、カトリツクのカテドラルに大改造されたが、前記ミーラブや赤白のアーチなどはそのまま残され、イスラムとの混交が随所に見られる。もとは白い石と赤煉瓦を交互に組み合わせて構成したアーチであるが、後期拡張では全部白い石で構築し、縞模様は後で赤く塗装したという。

 イスラムに経済協力したユダヤ人もレコンキスタで追放されたが、今に残るユダヤ人街の「花の小道」の路地から見えるメスキータのたたずまいは、鬩ぎあいの昔を忘れさせる。

7. グレコの後半生 トレド
 29日は一気に北上して、街全体が世界遺産のトレドを訪ねる。タホ川越しに見るトレドの全景はまるで中世都市のシネラマである。偉大な建物の双璧、カテドラルとアルカサルは時間の関係で外観と遠望に止まった。

 「グレコの家へ」の標識を横目にサント・トメ教会に急ぐ。閉館時刻が近い。ここにはグレコ中期の代表作「オルガス伯爵の埋葬」がある。オルガス伯はこの教会の創立者である。

 エル・グレコとはスペイン語で”一人のギリシァ人”の意。1541年クレタ島で出生、本名はドメニコス・キリアコス・テオトコプーロスという。1575年から没する1614年までの40年間をトレドで過ごした。

8. マドリッドといえば プラド美術館
 人口300万余人を抱えるスペインの首都だから、いろいろな観光名所があるがマドリッドといえば、さしずめプラド美術館が最大の観光ポイントだろう。スペイン王室のコレクションを中心にベラスケス、ゴヤ、グレコなど珠玉のスペイン絵画を誇るヨーロッパ屈指の美術館である。

 30日は先ず同館に直行する。フラッシュカメラやビデオは禁止、フラッシュレスなら撮影自由。しかし同時開催されていた「ゴヤ展」会場だけは何故か一切撮影禁止であった。限られた時間にいわゆる名画だけはと鑑賞・撮影に没頭した。

 現地ガイドによる「絵画」に関するエピソードや解説のいくつかを次に記す。
ベラスケス「マルガリータ王女」・・・ドレスを特に絢爛豪華に描いたのは王女の「斜視」から観る者の目を逸らす為だったという。

 ゴヤ「カルロス4世とその家族」・・・画面中央のマリア・ルイーサ王妃は実は歯抜け婆さんであった。口元を良く見ればそれとわかる程度に、宮廷お抱え画家のゴヤは描写に苦心したことであろう。

 ゴヤ「裸のマハ」・・・マハはMajaのスペイン語読み。カルロス4世は日頃これを架けて楽しんだが、来客のときは「着衣のマハ」に架け替えた。とガイドは解説するが ?

 グレコ「羊飼いの礼拝」・・・手指が長く、殆んど12等身にデフォルメされている。その後のベラスケス「褐色と銀のフェリペ4世」にもその傾向が見られる。

 その他カンバスの都合で馬身が寸詰まりの騎馬像や、分断された絵を額縁付きのように復元したグレコの作品などが目を惹く。1階を探し回ってヒエロニムス・ボッスの奇画「快楽の園」も観ることが出来た。これはプラド美術館の至宝といわれている。

9. 観光客はご用心 スペイン広場
 スペイン広場ではセルバンテス、ドン・キホーテの銅像前でそそくさと写真を撮っただけである。あとで気が付いたが、私達のグループの周りをうろついている色黒の男を近付けまいと、現地ガイドが牽制していた。

 物乞い風に近寄ってきて、強盗に豹変する者も居るらしい。子供連れのジプシー窃盗団も居るようだが、スペインではモロッコなどから職を求めて、密入国してきたものの食い詰めた挙句、強盗を働く北アフリカ人が多いという。最峡部15Kmのジブラルタル海峡は漁船でも密航可能とか。

10. ローマ人の水道橋とお伽の城 セゴビア
 マドリッドの北西95Kmのセゴビアにはローマ人の遺跡、水道橋がある。全長728m、最高29m、二段アーチの水道橋はスペイン最大、世界遺産にも指定されている。推定で紀元100年頃、表面に穿った小穴のみを識別して一切の接合材を用いず、ただ積み上げただけでこれだけ壮大なものを構築するとは、大した石造技術である。

 貴婦人と評されるゴシック式カテドラル前を通ってアルカサル(城)を訪れる。これは13世紀初めエレスマ川とクラモレス川との合流点に築かれた戦略的要塞である。

 ディズニーの「白雪姫」のお城のモデルということでメルヘンチックに観られがちだが、牢獄として使われたこともあり、炎上、再建の憂き目も見ている。城内の軍事博物館には中世の武器・甲冑が展示されている。

11. オレンジ・オリーブ・ひまわり そして闘牛
 これは今回、バス沿線の移り変わりである。バルセロナから地中海沿いに南下したときはオレンジ畑がよく目に付いた。バレンシア・オレンジはブランドとしても有名である。

 続いて多いのがオリーブ畑である。この国は石灰岩の地質らしく大樹の森林が少ない。従って丘の上までオリーブの樹が植えられている。山上までの段々畑を評して「耕して天に至る」と言われるが、ここでは正に「植して天に至る」である。収穫の時には膨大な人手が要ることであろう。よく見ると樹間は石ころだらけである。昼夜の地温を平準化するため態々砕石を敷き詰めているという。

 オレンジは大生産地らしく廉かったが、オリーブの一番絞り「バージン・オイル」は意外に高かった。コルドバから北上するに従い、ひまわり畑が増えてくる。花が満開の頃はさぞかし壮観であろう。
尚、北上してマドリツドからセゴビアに向かう沿線は広闊な牧草地である。闘牛用の牛もこのあたりで飼育されているという。
 闘牛で勇敢に戦った牛も、倒された後は筋張った肉質のため安値で処分されてしまう。地方の町でも結構、闘牛場が目に付いた。古代ギリシァの小都市でも円形劇場があったように、必須のエンターテイメントなのであろう。

12. カスティーリャ、カタルーニャ、アンダルシアと ポルトガル
 一般にスペイン語と呼ばれているものはマドリツドを中心とするカスティーリャ語である。フランスに近いカタルーニャ地方ではフランス語の影響を受けたカタルーニャ語が用いられ、これも公用語として認められている。

 旅行者に必要ないくつかを対比してみよう。
   日本語     スペイン語(カスティーリャ語)  カタルーニャ語
  男性 / 女性    caballeros / damas homes / dones
  トイレ       servicio servei
   水        agua aigua
   出口       salida sortida
  開店 / 閉店    abierto / carrado obert / tancat
 (ドアを)引く/ 押す  tirar / empujar tireu / empenyeu

 長年イスラムの勢力下にあったスペインではアラブ系の言葉が入って来ている。Alで始まる言葉、特に名詞が多い。アンダルシア地方でその傾向が強いようである。

 ポルトガル語はスペイン語と同類だと言われるが、スペインからみればポルトガル地方の一方言と見なすのであろうか。 

31日払暁、マドリツド・バラハス空港から機上の人となる。短い期間ではあつたが、
グラシアス(Graciasありがとう)スペイン、 アディオス(Adiosさようなら)スペイン語。

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