1999年5月13日より10日間オーストリアを旅してみた。そしてこの国では音楽が日常生活によく染み込んでいることに気がついた。まず音に対するデリカシイがかなり違う。当然に音楽は生演奏が尊ばれ、町中の警笛や声高な喧燥は忌み嫌われる。見聞したいくつかを記してみよう。
一、 ハイリゲンブルートの教会合唱隊
5月15日(土曜日)冬季オリンピックで有名なインスブルックを経て、鉄道も通っていない山間 の寒村ハイリゲンブルート(Heiligen聖なるblut血)に着いた。グロース・グロックナー・アルプス道路走破の基地である。
夕食前のひととき、ポスト・ホテル近くのヴィンツェンツ教会に足を運んだ。夕べのミサで教会合唱隊の讃美歌が歌われるという。急いで、しかし静かに堂内に入ると既に始まっていた。山村の教会のものとも思えぬ本格的なコーラスである。ウイーンの王宮礼拝所ではウイーン少年合唱団が、あの天使の歌声でミサを歌いあげるという。
二、音楽祭の街 ザルツブルク
翌16日(日曜日)は雪のフランツ・ヨーゼフ・ヘーエを通ってザルツブルク(Salz塩Burg城)に入った。1756年この街で生まれたモーツアルトを記念して、7・8月に催される音楽祭は世界的によく知られている。投宿したルネッサンス・ホテルのロビーには会場別に音楽催事がびっしり書き込まれた日程表が掲示されている。
祝祭劇場(音楽祭のときは主会場となる)
ホーエンザルツブルク城の「黄金の間」
大司教宮殿レジデンツの「騎士の間」
ミラベル宮殿の「マルモア・ザール」(Marmor大理石 Saal広間)
モーツアルテュウム(モーツアルテュゥム財団の音楽造形芸術大学の略称)
などが主な会場である。
旧市内ゲトライデガッセ9番地にはモーツアルトの生家が現存し、4階には使用した楽器や自筆の楽譜が展示されている。マカルト広場に面して建つ、後年の住居にも赤白赤のオーストリアの国旗が誇らかに掲げられている。またマカルト橋たもとには音楽界の帝王と言われ続けたヘルベルト・フォン・カラヤンの生家がある。しかしザルツブルクを一躍有名にしたのは映画「サウンド・オブ・ミュージック」であろう。ナチス・ドイツの侵略の手が伸びてきた1937年頃の実話をもとに、トラップ大佐一家とマリアとの清々しいロマンスを描いたものである。
ミラベル庭園、揺れるモーツアルト小橋、ラスト近く大佐が憂国の情を込めて「エーデルワイス」(Edel高貴なWeiss白)を歌い上げた祝祭劇場のフェルゼンライトシューレ(Felsen岩壁reitschule乗馬学校・・旧乗馬学校を改築した劇場なので、この名がある)、その先の馬洗い池、ナチの目から逃れたペータース墓地、郊外に出るとマリアとの結婚式場モントゼー教区教会、アニフ城、トラップ一家の邸宅としてロケされたヘルブルン宮殿、レオポルツクロン城などがある。
三、ミラベル宮殿コンサート
翌朝(17日 月曜日)ホテルのロビーに出ると、無造作に置かれたピアノを数人の若者が取り囲んでいる。一人がピアノを弾き、小声ながら合唱している。この何気ない光景にも音楽を楽しむ国民性が窺える。この日はバート・デュルンベルクの岩塩坑見学のあと、夜はミラベル宮殿のコンサートを聴きに行くことにした。
予め会場を下見しておこうと宮殿に足を運んだ。守衛にマルモア・ザールを尋ねると「チケットも売っているよ」と言いながら教えてくれた。「天使の階段」を登って二階に行くと、どうやら結婚式のようである。新婦が「階段」のキューピットの像に触れると子宝に恵まれるとの言い伝えがあって、挙式するカップルが多いという。その為この広間は「婚礼の間」とも呼ばれている。
夜8時半からの開演であるが早めにホテルを出た。天白区の小池さん、福岡市の瀬尾さんと私たちの三夫婦である。8時頃スタッフの一人が当日券とプログラム販売の机を構える。表紙に「天使の階段」を描いたプログラムには「ザルツブルク宮殿コンサート フェスティバル“音楽の春”」と題されている。
前半はモーツアルト、ベートーベンの古典ソナタ、後半はドビュッシー、フォーレの近代ソナタである。席数は確保されているが指定席ではない。前5列は特別席、その中でも最前2列は特別招待席のようである。私たちの後ろ数列には地元の高校生らしい多勢が着席した。
定刻に正面の扉が開いてヴァイオリン奏者ゲルトルート・ヴァインマイスターとピアノ(Klavier)奏者ゲルダ・グッテンベルクの両名が入場する。共にザルツブルク生まれ、モーツアルテュゥム出身の中年女性である。前半2曲は私にとって余り耳慣れないものであった。ピアニストの側で楽譜を繰る助手は日本女性のようである。休憩となりロビー代わりの隣室ではコーラ、クッキー程度の軽飲食が供されている。
次は「牧神の午後への前奏曲」に通じる楽想のドビュッシーらしいヴァイオリンソナタである。続いてフォーレのヴァイオリンソナタ13番イ長調は聞覚えのある甘美な旋律と和声美である。終わって一斉にアンコールの拍手が贈られ、馴染み深い小品が奏でられる。
宮殿コンサートに相応しい端正な演奏は百数十人の聴衆を完全に魅了したようである。
10時半頃終演となり、小走りに急ぐ私たちを、夜更けの市電の運転手はじっと待っていてくれる。コンサート帰りと知っての心遣いか…とにかく有り難い。
四、ザルツカンマーグートからドナウ川へ
18日(火曜日)にはモントゼー経由サンクト・ギルゲンにあるモーツアルトの母の生家を訪ねた。矢張り赤白赤の国旗がはためいている。湖の対岸サンクト・ヴォルフガングには湖畔に「白馬亭」があって、今でも毎週金曜夜7時半からオペレッタ「白馬亭にて」が上演される。ここで昼食後、トラップ一家もハイクしたシャーフベルク山へ登る。
登山鉄道の麓駅は半袖の初夏なのに、中腹は春爛漫の花盛り、山頂駅では冬の名残の残雪さえ見られる。1783mの頂上から眺めるザルツカンマーグート(kammer王侯のgut領土・・この地域の総称)のパノラマは正に絶景である。マリンブルーの宝石のような湖水を、まるで緑の絨毯に散りばめたようである。この夜泊まった湖畔ホテル・シュロスでも明夜コンサートが催されるという。
19日(水曜日)も朝から右に左に山紫水明を賞でながらバスは走る。運転手はモーツアルトと同じ名前のヴォルフガング君である。岡崎添乗員が持ってきたミュージックテープがかかる。ウィーン少年合唱団の歌曲、ヨハン・シュトラウスのワルツなど車窓の風景とマッチして耳に快い。
程なくメルクに着く。修道院近くの船着き場からドナウ川下りの遊覧船に乗る。先日来の雨で豊かなミナモ水面は全く茶褐色である。「美しく青きドナウ」とはとても言い難い。もともとこの歌はドナウ川のほとりで当時の不景気を嘆いた歌詞だったとか、川を賛美する今の歌詞(註1)に変わったのは30年程経つてからと聞いた。勢い込んで3階のデッキに陣取っては見たものの風当たりが強く、結局1階船尾に移動した。
まず右岸にそそり立つシェーンビューエル城が目に入る。バッハウ渓谷もシュピッツを過ぎる辺りからは葡萄畑が目立ってくる。デュルンシュタインでは、ウェッジウッドを思わせる淡い水色に彩られた修道院の鐘楼が端麗である。その後背山頂には十字軍の昔を偲ばせるクエンリンガー故城が聳えている。両岸の風光明媚に目を奪われている間に、カフェでケーキを賞味する暇もなく、終着クレムスに到着してしまった。
五、ウィーンの森のホイリゲ
ウィーンに入ってシェーンブルン宮殿、ベルヴェデーレ宮殿を見学した後、夕食はウィーンの森のホイリゲである。ホイリゲとは元来今年産の新葡萄酒という意味であるが、転じて自家製の新ワインを飲ませる居酒屋のことも指すようになった。ウィーンの西北グリンツィングでは軒並みホイリゲである。
とある一軒に入ると、そこはもう歌声と歓声の坩堝である。各国からの団体客が入っているらしく、お国自慢の歌声が渦巻く。その間を縫ってジプシーのヴァイオリンとアコーデオンが、ワインで上気した酔客の楽興を掻きたてる。「第三の男」や「上を向いて歩こう」なども聞こえてくる。
私たちグループの城戸脇夫人がちょうど誕生日というので、先程の楽士に伴奏させて皆で「ハッピ・バースデー・トゥー・ユー」を歌う。思いがけない御祝儀にありついて楽士は益々張り切り、ハッピーな歌を次々に奏でる。日本ではこの種の楽士はせいぜい演歌、ポップスどまりだが、ここの彼等はベートーベンの第九「歓喜の歌」から、果ては「ツィゴイネルワイゼン」まで弾き放った。セルフサービスで酒食を堪能したところを、バースデーのトルテで締め括ってお開きとなった。
六、ウィーンのオペラ座
20日(木曜日)午前中は欧州最大と言われる地底湖をウィーンの森で見学した後、「菩提樹」ゆかりのベルドリヒスミューレ亭や、かの「うたかたの恋」の跡をマイヤーリンクに訪ねた。市内に戻って早速オペラ座となりの劇場連盟前売所へ行く。持参した座席表で場所を確認しながら、今夜の2枚を買う。バルコンの右側最前列で@450ASである(ASはオーストリア・シリングの略記)。この日の1ASのTTSは約¥10であった。開演は夜8時である。
ウィーン市立公園のヨハン・シュトラウスの金色像はひときわ目を惹く。他にもシューベルト、ブルックナー、レハールなど著名な音楽家の銅像がある。市電でリンクを一周したあとマリア・テレジア銅像前の美術史博物館に入る。ブリューゲルの「バベルの塔」「子供の遊び」、ベラスケスの「マルガリータ・テレサ」等の名画をそば近くで鑑賞する。
一旦ルネッサンス・ホテルに戻り、服装を整えてオペラ座に向かう。生憎の夕立の中、幾組かの正装の「紳士」が同伴の「淑女」を健気にも劇場へとエスコートして行く。傘とレインコートをクロークに預けて(14AS)、豪華な大理石の階段を昇る。バルコンへの入り口でプログラム(38AS)を買う。今夜の演目はロッシーニ作曲の歌劇「セヴィリアの理髪師」2幕である。イタリア・オペラの代表作としてイタリア語で演じられる。モーツアルト作曲「フィガロの結婚」は実はこれの続編である。プログラムの本文は勿論ドイツ語だが梗概は英、仏、伊、日本語でも併記してある。
配役は次のとうり。
アルマヴィーヴァ伯爵 ミハエル・シャーデ
医師バルトロ(ロジーナの後見人) アルフレッド・スラメーク
ロジーナ ジェニファー・ラルモア
理髪師フィガロ ドミトリー・フォロストフスキー
着席して場内を見渡すとほぼ満席である。50人程のオーケスラの面々が席に就く、殆ど中高年の男性である。しかし指揮者はその物腰からして女性のようである。予告のベルが鳴り、定刻にはきっちり序曲がスタートする。幕が開くと舞台は3階3列の9場に仕切って装置されている。タチの高い舞台だから出来るセットなのであろう。筋の進行に伴い、演者はロジーナ家の玄関、彼女の部屋、フィガロの理髪室、バルトロの居室など場所を移動して演ずる。従って舞台装置は最後までそのままで変わらない。出演した兵士役の一人はどうも日本人のように見えた。
第1幕が終わったところで観客の全員が一斉に席を離れる。一瞬終演かと錯覚する程である。舞台に向かって左側のロビー「大理石の間」はちょっと手狭な感じで、喫煙可能にも拘わらず人影は疎らであった。やはり賑やかなのは大きい中央ロビーである。ビュッフェの周りでは正装の男女がグラスを片手に談笑の花を咲かせている。ロビーをそぞろ歩きしながらファッション・ウォッチングするのも幕間の楽しい過ごし方かもしれない。
次の第2幕では伯爵が理髪師フィガロの智略に助けられてロジーナと結ばれ、医師バルトロは相応の財産を得て目出度く大団円となる。再三のアンコールでは出演者が手を繋いで幕前に並び、謝意を込めて何度も何度も手を振っていた。終演は予定(10時45分)より少し遅れて11時頃になった。ホテルはオペラ座前の地下鉄駅カールスプラッツから5つ目の駅前のため11時半には帰り着いた。ヴィヴィッドな音楽に陶酔して、しばしまどろんだかと思ううちに、早くも早朝出発のモーニング・コール。21日午前4時である。
註1.昭和21年頃、文化サークル「白紙会」のコーラスで歌われていた歌詞は次のとうりである。
美しき碧きドナウ
遥かに果てなく、ドナウの水は行く、
麗しの藍色、ドナウの水は常に流るる、 野を越えて吹く風と、
楽しく手を組み、水鳥の鳴く声に、
微笑投げながら、春には花の影をも映すよ、 秋には月の光を浮かべる
その昔のある時、黄金塗りのボートに、
艶(あで)なる姫君を見た日もあろう、
武き武士の角笛の音が水の上に、
こだました日もあろう、
遠い夢を偲んで、他国の詩人は、
この流れのほとりを、今もなお歩む、
すべては過去に消えても、夢見る心は、
思い出深い昔を、描き出そうよ
ドナウ そを巡る、思い出は靄のように、
われ (以下 不明)
備考)
「白紙会」とは三重県河芸郡(今は津市)一身田町の門跡寺院、浄土真宗高田派総本山
専修寺の常盤井尭祺法主が会長となって組織された文化サークルで、音楽、演劇映画、華道、茶道、書道、文学などの各部があった。常盤井尭祺氏は近衛文麿元首相のいとこである。
2010年4月6日火曜日
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