2010年5月7日金曜日

伊豆大島と八丈島の旅(2004年4月)

1.大島アンコと椿まつり
 「チャーター便で行く伊豆大島・八丈島二島めぐり」に海外旅行の旅友・鷹羽さんに誘われて参加することにした。
 3月23日12時40分名古屋空港発NAL591便で伊豆大島へ約1時間。中日本エアラインサービスのフォッカー50は4席x16列で乗客定員は64名、久し振りの双発プロペラ機である。
 大島空港ではアンコ姿のJTB社員が出迎えてくれる。大島は伊豆七島の中では最大で、東京山手線の内側くらいの面積である。
 先ず島の北東・大島公園へ直行する。園内では良く手入れ改良された見事な椿をいろいろ観賞する。人の顔ほどの大輪の椿、「貴宝殿」と名付けられた上品な白椿など、それぞれに尤もらしい名前が付けられている。
 一巡して中央広場に戻ると仮設舞台で「えんやらやー」のアンコ節など、アンコ達数人の手踊りである。丁度1月31日から3月28日までは「伊豆大島椿まつり」であった。くさや、島焼酎、あしたばそば、まんじゅう、椿油、せんべい等々土産物屋がまわりに軒を連ねる。
 島内では年長の女性を、例えばお春姉さんなら「お春のアンコー( 姉公の訛り ? )」と呼んでいたが、近年では余り聞かれなくなった。「アンコ椿は恋の花・・・」などと都はるみが歌い囃して、逆に若い大島娘をアンコというようになった。しかしこれも今や観光用であるらしい。アンコが荷物を頭に載せて運ぶ光景もすっかり見られなくなったという。

2.為朝伝説
 1156年、源為朝が大島へ流されている。強弓で名高い為朝は九州を制圧して鎮西八郎と称し、保元の乱では崇徳上皇側について、後白河天皇・平清盛側と戦って敗れた。
 滝沢馬琴の読み本( 小説 )「椿説弓張月」(1811年刊 )では、その後伊豆七島を征服し、果ては琉球に漂着して土地の王女と結ばれ、一子は王位に就くという規模壮大な物語により、各地にいろいろな伝説を派生している。丁度源義経が陸奥の衣川で没することなく、蒙古にまで渡ってジンギスカンになったという義経伝説のように。
 八丈島では1170年、従者50人と共に為朝が来島したと言い伝えられている。

3.御神火太鼓
 郷土芸能館では大島節、アンコ節などの民踊に続いての御神火太鼓が圧巻である。二台の大太鼓をはっぴ姿の娘3人が威勢良く両面打ちをする。舞台の左右、真上のスクリーンには三原山噴火の映像が大音響と共に映し出され、両々相俟って胸に迫る大迫力である。芸能館の向かい側には「御神火太鼓道場」があり、日夜練習に励んでいるのであろう。軽快なリズム、小粋な所作、びしっと決まる見栄など、なかなかに玄人はだしである。
 売店では椿の実を華麗に彩色した根付けを購う。暖かい甘酒も嬉しいサービスである。

4.大島夜祭り
 大島町営の観光バスは補助席を利用しても50名余である。今回の参加人員49名はこのバスの定員リミットによるものらしい。4軒の旅館に分宿することになり、私達は北区からのご夫婦と一緒に「大島館」に割り振られた。温泉は豊かだが売店もなく、昔ながらの宿屋のたたずまいである。
 来島客のナイトライフを楽しんで貰おうと「大島夜祭り」が開催される。会場の元町港待合室までは宿のマイクロバスで送迎してくれる。
 夜7時半からの抽選会に続いて、威勢の良いスーパーそーらん・よさこい踊りである。派手な長羽織に鉢巻きの若い男女が舞台狭しと踊り跳ねる。「名古屋ど真ん中まつり」のパフォーマンスさながらである。司会のシンちゃんが間合いの良い口上で舞台を進行し、あっという間に9時の終演となる。

5.三原山頂と割れ目火口
 翌24日は朝8時から4軒の旅館をピックアップしながら三原山山頂口へ。生憎の雨とガスで内輪山のお鉢巡りは中止となった。警視庁大島警察署外輪山警備派出所という物々しい表示の駐在巡査と相談の結果「ガスで視界不良では・・・」と考慮して決定された。昔、三原山心中が一時流行 ? したこともあって警官が常駐するようになったのかも知れない。
 残念ながらお鉢巡りは諦めて、帰路は割れ目噴火の跡を辿りながら下山することになった。それまでの噴火では溶岩流は外輪山の切れ目から島の東部地区に流出していって、西北部の元町、岡田港方面は安全と考えられていた。ところが昭和61年、外輪山の外側からハワイ・キラウェア火山のような割れ目噴火が始まった。割れ目の拡大・多発を恐れて、この時は東京都知事により全島避難が発令された。その深い噴火口も今では草むして歳月の経過を感じさせる。
 割れ目と溶岩流に阻まれてそれまでの有料旧登山道は廃止されてしまった。路傍に建つ「天皇陛下臨幸之跡」の標柱がひときわ目を惹く。
 このあと火山博物館では20mに及ぶ地層断面の剥ぎ取り標本により、火山島・大島噴火の年輪 ? を目の当たりにする。島民にとって三原山は矢張り恐れ敬うべき御神火なのであろう。引き続きいろいろな噴火形態や世界の火山について館長の解説を聞く。
 御神火スカイラインを登って再び三原山頂の「歌の茶屋」へ。昼食はあしたば定食である。あしたばの天麩羅はさほどでもないが、おひたしは些か癖がある。隣の客が「ちょっと石油くさい」と呟いた。
 雨も上がって三原山の全貌を見ることが出来た。戦後間もなく封切られた映画「暁の脱走」で、池部良と李香蘭(山口淑子)がこけつまろびつ脱走するラストシーンのロケ砂漠も、50余年を経た今では一面の草原である。
 晴天なら富士山がよく見えるという富士見展望台を後に山を下りる。中腹から下は野生のやぶ椿の森である。道路の両側からトンネルのように椿が覆い被さる。2月から3月前半位の最盛期はさぞかし見事な椿のオンパレードであろう。
 歌や川端康成の「伊豆の踊子」がその後落ち着いたという波浮の港は島の東南端にあり、旧港屋旅館や踊り子通りなど当時の面影を偲ばせる情緒が今に漂っているそうだが、今回は行けなかった。

6.八丈島歴史民俗資料館
 13時40分、名古屋からのチャーター機が大島空港に着陸する。本日のご一行が降りた後、14時10分私達49名が搭乗して八丈島へ。フォッカー50はフル回転である。40分で早くも到着した八丈島空港では密植したキダチアロエと八丈富士が私達を迎えてくれる。
 まずは八丈島歴史民俗資料館へ案内される。旧東京府八丈支庁( 昭和14年築 )を利用しているため、戦前にタイムスリップしたような錯覚を覚える。建物は高温多湿と台風の潮風に耐えるよう釘を一切使っていないという。
 縄文土器から黄八丈の柄見本帳( 永鑑牒 )、織機、農耕具など民俗資料は数多いが、矢張り「鳥も通わぬ流人の島」としての資料に関心が集まる。

7.流人は知識人
 関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家の父子主従13人が、1606年来島したのが八丈島流人第一号である。徳川方に味方した前田利家の四女豪姫が嫁していた為か、死一等を減ぜられてこの島に流罪になった、時に秀家33才。しかし豪姫は八丈島へは来ていないという。
 明治になって赦免され、東京・板橋に移り住むまでの265年間毎年2回、前田藩より衣食を供する船が来航したと言い伝えられている。
 明治4年までの流人は1865人を数え、公家、神官、僧侶、武士、百姓、町人から無宿者、遊女まで種々雑多な人々が全国各地から流されて来ている。
もともと八丈島は政治犯、思想犯、経済犯等比較的有識者が多かったが、五代将軍綱吉以降は火付け、盗賊、人殺しなど凶悪犯も流されて来るようになった。

 ・永見大蔵、荻田主馬・・・越後高田藩のお家騒動で。相手の小栗正矩父子は切腹。
 ・僧 日要、日巡、日顕、日成ほか・・・日蓮宗不受不施派が幕府から禁断されて。
 ・梅辻規清・・・神道を鼓吹して儒教を反駁した勤王の志士。
 ・丹宗庄右衛門・・・島津藩財政立て直しのため密貿易に尽力したが、幕府に露見して。
   芋焼酎の製法を伝えた遺徳を頌えて、島酒醸造用大がめの碑が建てられている。
 ・近藤富蔵・・・蝦夷地開拓に功のあった近藤重蔵の長男ながら、隣人7人を斬殺して。
   父親譲りで文を能くし八丈実記69巻を著す。土木工芸にも長じ六法積玉石垣などを残す。
 200余人もの流罪僧のなかには、禁忌宗派のほかに女犯の僧も多かったと元校長の資料館長は言う。ともあれ公家、神官、僧侶、武士など知識人の流人が島民啓蒙に尽くした功績は大きい。

8.島抜けと黒瀬川
 流人の唯一の望みはご赦免、それが適わぬ重罪犯は島抜けを画策する。念願の抜け舟を手に入れ、神港あたりから沖へ漕ぎ出したものの、三宅島との間を時速14kmという奔流のような黒潮に阻まれて、殆ど全員が逮捕または水死したという。
 この黒潮は「黒瀬川」と呼ばれ、航空写真でもひときわ波立っているのが認められる。帰路の飛行機は雲上を飛んだため見ることは出来なかった。
 「黒瀬川」を乗り切って房総半島に辿り着いた男が一人いた。八丈島270年流刑史に残る抜け舟15回のうち、唯一の島抜け成功者である。
 通常島抜けは捕らえられれば死罪となる。しかし地上で処刑すれば土が血で汚され、黄八丈の泥染めに障るとして、断崖絶壁から海に突き落とす刑が行われた。この島特有の刑である。

9.赦免花
 無実を叫びながら断食死した慈運法印の墓に植えた蘇鉄に花が咲くと不思議に赦免状が届いた。誰言うとなくこの花を赦免花と呼ぶようになった。
 流人のなかには島の水汲み女と懇ろになり子まで成しながらも、赦免状が届くと矢張り帰心を募らせ本土に帰ってしまうため、生き別れの愁嘆場が度々有ったという。

10.六法積玉石垣
 昔の住居を修復した大里ふるさと村を見学する。台風に備えて周囲を玉石垣と熱帯樹( 蛸の足のような枝?根?を伸ばすタコの木 など)で防護している。門を入るとまず閑所(カンジョ便所)、牛小屋、高倉( 食料庫 )、それに茅葺きの母屋は縁側と障子で囲み壁が無い。沖縄の住宅を連想する。
 前記近藤富蔵が考案したという堅固な六法積玉石垣用の玉石を、横間が浦( 大坂トンネルの西側海岸 )から運んでくると1個につき握り飯1個または手拭い1本が与えられたという。米の貴重なこの島では過分の報償である。
 海辺の岩石が波の波動で琢磨されて、見事な球形になっているのがバスからも望見出来た。大分県別府湾の波打ち際でもビーロンと呼ぶビー玉のような玉石を拾ったことがある。

11.南原千畳岩海岸
 南原千畳岩海岸に面して宇喜多秀家と豪姫の石像がある。NHK大河ドラマ「利家とまつ」の影響か、その後北陸地方からの観光客が増えたという。
 千畳岩は八丈富士から海岸まで流れ出した溶岩流が冷え固まったもので、ハワイ島のそれには比すべくもないが、ごつごつした溶岩越しに見る無人の八丈小島は南海の孤島を思わせる。
海辺の土産物屋でクサヤの小片を試食したが殆ど臭みが無い。土産物用にソフトに仕上げてあるのかも知れない。
 八丈島では49名全員八丈ビューホテル宿泊である。大広間で子供のスーパーそーらん節を見ながら夕食を執っていた時、客の一人が踊り手におひねりをバラバラと投げかけた。子供達は初めての経験らしく、呆然と棒立ちになってしまった。熱演を賞賛・激励したという意味を説明して、漸く踊りを再開した。

12.黄八丈「め由工房」
 明くる25日はまず登竜峠( ノボリョウトウゲ )より、底土港越しに八丈富士と八丈小島を展望する。代表的な景観の一つである。
 島内一周道路がこのさき末吉地区で不通のため引き返して民芸店「あき」に立ち寄る。なんと畳敷きのおみやげショップである。脱靴して店内を見て回る。
 次は黄八丈「め由工房」へ行く。きんさん・ぎんさんも104才の時来島して、昔を懐かしみ機織りを再演して見せたという。
 東京都無形文化財技術保持者山下八百子の息子山下誉さんの解説に依れば、
 ・黄色はコブナグサの煎汁に十数回浸けては乾かし、最後にサカキとツバキの灰汁に浸けて発色。
 ・樺色はタブノキの生皮の煎汁に十数回と囲炉裏の灰汁、これを3回繰り返す。
 ・黒色はシイノキの乾皮の煎汁に十数回、最後に還元鉄の多い泥土に浸けて発色させる。
 絣とは違って黄八丈は縞柄のため、いくら力強く織っても柄のずれる心配が無い。
 一般にくすんだ黄色が好まれているようだが、白洲正子も言っているように本来の黄八丈は明るく鮮やかな黄色である。
 皇室専用だった蚕品種「小石丸」が昭和27年、貞明皇后の御遺志により紅葉山養蚕所より下賜されて伝承してきた。しかし今は島に養蚕農家は無く、主に群馬県から絹糸を移入している。

 昭和天皇御製
  小石丸の糸の話を島人より 聞きて母君(貞明皇后 )をしのびけるかも
山下八百子デザインの黄八丈根付けを買い とめる。工房の創始者山下め由は八百子の母である。
 この島では室町時代から島自生の草木染めの八丈長さの絹織物を、米の代わりに貢納していた。八丈島の名前の由来について本居宣長も「八丈絹より出ずるらむかし」と述べている。

13.焼酎のフリードリンク
 名古の展望台は足下に洞輪沢港を望む200m余の断崖絶壁の上にある。海からの水蒸気で常に雲が湧き出るため快晴の日は滅多に無いが、普通の晴天でも伊豆七島最南の青ヶ島が見えるという。
 売店の店先に焼酎カメと数個の盃が置いてある。湯茶の無料サービスは時々見かけるが、焼酎のフリードリンクは初めてである。癖のない焼酎で銘柄は「情けの岬 ? 」とか言っていた。

14.服部屋敷跡で樫立踊り
 樫立地区の服部屋敷は黄八丈を貢納するご用船の小舟預かりを勤めた船方のもので、同家の盛衰は可成り激しかったようである。今では近藤富蔵が築城形式で築いた玉石垣と樹齢700年余の大蘇鉄を残すのみである。
 屋敷跡に建てられた芸能館では各地からの流人が持ち込んだ樫立踊りと八丈太鼓が披露される。黄八丈を着た男女5人が諸国民謡のうち12曲を立て続けに踊り通す。伊勢音頭は6番目、12番目は鹿児島おはら節であった。
 島唄ショメ節では観客も交えて「あーショメショメ( 塩梅の訛り)」と賑やかに囃し立てる。歌いながら敲く八丈太鼓もユニークである。
 八丈八景の一つ「大坂夕照」は車窓から、大坂トンネルを出たあたりで八丈富士と八丈小島を眺望して通り過ぎた。

15.島寿司と八丈植物公園
 昼食は名代の「くらみつ」で島寿司である。島で捕れたネタを予め醤油に漬けておいて、わさびの代わりに洋からしで握り込んだものである。いわば「島前寿司」ということだろうか。
 午後は空港近くの八丈植物公園を訪ねる。入口を飾る火山岩で形作った八丈島のミニチュアが面白い。面積は大島より小さく瓢箪型で、八丈富士( 東山 )と三原山( 西山 )に挟まれて空港も長方形の石で表現されている。
 極楽鳥花と呼ばれるストレチアは八丈島の町花、フェニックス・ロベレニーは島の主要産品となった観葉植物で、以前の養蚕農家もこれの栽培に転向してしまった。その他熱帯・亜熱帯の花が咲き競い、温室の中ではハイビスカスなど特に赤い花が百花繚乱である。

16.フリージアを胸に名古屋へ
 ビジターセンターで一息入れたあと、八形山麓のフリージアまつり会場へ移動する。4月4日までのまつり期間中は一人20本まで球根ごと摘み取り無料である。黄、紫、赤、ピンクなど蕾で品定めして、思い思いにフリージア畑を物色する。採集したフリージアは飛行機内持ち込みが出来るようコンパクトに包装してくれる。
 八丈島空港では現在1800mの滑走路を2000mに拡張工事中である。東京・羽田空港までの300kmをジェット機で45分、同じく300kmの名古屋までプロペラ機なら1時間10分かかる。
 大島からの客を降ろしたフォッカー50に乗り込み、15時20分それぞれフリージアの花束を胸に一路名古屋空港へ。帰宅後、二つの花瓶に生けたフリージアは豪華絢爛に咲き匂っている。
 大島、八丈両島とも「流人の島」という先入観とは裏腹に、島人たちはとても凶悪犯の後裔とも思えぬ立派な人品骨柄である。「観光客熱烈歓迎」の熱意も充分感じられた。

 本稿記述に当たっては実業之日本社ブルーガイド「伊豆大島・八丈島」、両町観光パンフレット、博物館長・資料館長の解説、特に八丈町役場産業観光課の「八丈島名所・旧跡と温泉のしおり」( 平成14年2月版 )を参照させて頂いたことを付記します。

「僕の細道」白河・会津紀行(2003年9月)

1.「奥の細道」「僕の細道」
 嫁いだ娘夫婦の誘いで東北路を旅することになった。「奥の細道」をもじって「僕の細道」と洒落てみたが、或る週刊誌の俳句投稿欄に既に先例があった。
「みちのく」とは「みちのおく( 陸奥 )」を意味し、奥州ともいう。明治元年、五つ( 磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥 )に分割されてからの陸奥は概ね現在の青森県を指す。出羽のくに( 羽州 ほぼ今の秋田、山形県 )と合わせて奥羽地方といえば、大体現在の東北地方を指すことになる。
 処暑、白露と節季は移り変わっているのに、残暑はまるで「大暑」並みの盛夏続きである。9月6日午前8時前、マイカーで鳩山を発ち、うどんのまち加須市を経て羽生ICから東北自動車道に入る。宇都宮までは片側3車線で、可成りの交通量である。11時頃白河ICに到着、白河関跡に向かう。やはり「みちのく僕の細道」は白河関からスタートしたい。

2.白河関
 平安中期、能因法師が「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠んで、一躍有名になった。その後西行、一遍、芭蕉などもここからみちのく路へ旅立って行った。
もともと此処は奥羽三関( 白河、勿来ナコソ、念珠ネズ )の一つで、蝦夷の侵入を防ぐため5世紀頃設けられた砦であった。しかし坂上田村麻呂が延暦20年( 西暦801 )蝦夷を平定した後は、いつしか関の機能が失われて廃関となっていった。
 江戸後期、白河藩主松平定信が収集した古書画等で空湟(壕)、南門跡、北門跡などを照査して、この地を白河古関跡と認証し碑を建てた。

3.アウシュビッツと白河そば
 観光アンケートを採っている白河市の職員に勧められるままに、アウシュビッツ平和博物館を訪れた。建家は江戸中期の民家を白坂駅近くの丘に移築したものである。入館料 @ 500 円。
 特に目を引いたものは、 高さ140cm の鉄棒、身長がこれに届かぬ子供は非労働力としてガス室に送られた。もう一つ 夜間、便器・便桶が使用できないときは、各人唯1個宛支給された食器( ホーロー引きの深皿 )に排便をしていたという。
 館外に置かれた有蓋貨車2両には子供たちが描いたユダヤ人迫害の絵が多数展示してあり、中でも拉致、処刑の図は痛ましい。
那須連山からの雪解け水に恵まれて、白河のそば、ラーメンは旨いという。麺マップで奨められた新駒本店で割子そばを注文する。そば粉分が多く、舌触りがざらついて喉越しがいまひとつである。
 元来そばは米麦作にも適さぬ寒冷荒地に救荒植物として栽培されたもので、つなぎの小麦粉が少ない古来の製法に依ったものかも知れない。

4.檜枝岐温泉
 再び東北自動車道を南下して塩原ICから国道400号線へ。塩原温泉郷を通り抜け、道の駅たじまで小休止。「真実の口」のレプリカで占いを試した後、丁度3時半に檜枝岐温泉に到着した。
 4時半の夕食までのひととき、今夜の歌舞伎会場の下見かたがた村内を散策する。舞台の茅葺き建家は明治中期の再建とか、それを囲む階段状の観客席を見てギリシャの円形劇場を思い出す。路傍に祀られた「縁切り縁結び像・・橋場のバンバ」には縁結びより縁切り鋏のお供えの方が多く苦笑する。そのあと釘を使わない正倉院様式のセイロウ作り板倉、凶作のため間引いた嬰児を慰霊する六地蔵などを見学して帰館する。蕎麦屋が経営する丸屋新館の山人(ヤモウド)料理に出た「そば」は逸品である。名を伏せた天麩羅のひとつは山椒魚であった。

5.檜枝岐歌舞伎
 少し早めに宿の座布団を携えて歌舞伎会場へ行く。程よい二段目あたりの階段に席を取る。既に高齢の素人カメラマンがずらりとカメラの砲列を布いていた。薄暮の6時半、恒例の寿式三番叟で幕が開く。神に奉納するため、舞台の四方を浄める舞である。「舞い手は高校生」と誰かが呟いた。
 今夜の演目は大阪夏の陣に材を取りながら時代を遡った「鎌倉三代記 三浦別れの段」である。伊勢参りの帰途、江戸で見覚えた村人の素人歌舞伎が起源である。歌舞伎三姫( 八重垣姫、雪姫、時姫 )のひとり時姫、木村重成を擬した三浦之助、真田幸村をなぞった佐々木高綱の各役とも、聊か生硬な演技がまた農民芸能らしくて却って親しめる。この有志集団を花駒座という。
 花道から舞台下まで続々とご祝儀のびら( 二万円から千円まで )が貼り出される。「国立劇場より一万円」もあった。村民600人程の村に2000人余の観客が詰めかけた。長袖で丁度良い夜の涼気に包まれながら、盛況のうちに午後8時過ぎ終演となった。一つしかない出入り口から整然と退出、宿の檜風呂で一浴びして床に就く。

6.南泉寺から塔のへつりへ
 翌7日は出がけに村はずれの人工ミニ尾瀬を散歩したあと121号線を北上する。路傍の茅葺き鐘楼門は松見山南泉寺のもので、1794年建立、今年3月福島県重要文化財に指定された。
 「鐘撞き自由」の貼紙で代わる代わる撞いてみる。掲示板によれば「寺はもと聖徳太子を本尊とする太子守宗であったが、1655年浄土真宗に転宗した」とのことである。
 次に立ち寄ったのが東北一の景勝と地元が自称する天然記念物「塔のへつり」て゛ある。河岸の岩壁が堆積地層毎に微妙に浸食されて、恰も10個の奇妙な塔のように並んでいる。向かって左から烏帽子、護摩、象、尾形、九輪、櫓、屋形、獅子、鷹、鷲の各塔岩と名付けられている。
 トルコのカッパドキア広野に散在する風蝕の奇岩群には比すべくもないが大自然の為せる奇勝である。

7.大内宿
 続いて下野街道の大内宿を訪れる。会津若松から日光街道の今市宿までを結ぶ約30里(118km) 17宿のうちの一つである。会津から江戸への最短ルートで、廻米をはじめ産品輸送の重要路であった。参勤交代のとき、大名が泊まった藁葺き屋根の本陣も立派に現存している。
 格式のありそうな佐藤家は「玉屋( 佐藤家 )由来」によれば治承4年( 1180年 平家討伐のため源氏が起った年)以来の名家とあるが、平安末期にしては建ちも高く、かなりの豪族の館だったに違いない。
 道の両側には農家の縁側に民芸みやげを並べた格好の店や食堂、旅館が軒を連ねている。軽食とおみやげショッピングモールとして、最近の観光客には案外うけているのかも知れない。

8.鶴ヶ城と麟閣(リンカク)
 会津若松では「山葵」の釜めしで腹ごしらえの後、鶴ヶ城へ。1384年創建以来度々の増改再築が繰り返され、現在の天守閣は昭和40年( 1956年)、昔ながらに再建されたものである。
 西出丸に車を止め梅坂より入城、戊辰戦争のとき落城直前まで鐘を鳴らし続けたという鐘撞堂を過ぎると天守閣が目前である。本丸側に回ると大勢の観光客を引き連れて現地ガイドが「よく見てくなんしょ、云々」と会津弁でまくし立てている。天守閣へ登る人、櫓・走長屋などを見て回る人、様々である。
 私達は千利休の次男 少庵が時の城主蒲生氏郷のために造ったと伝えられる茶室「麟閣」を見学する。但し現在の「麟閣」は戊辰戦争後の荒廃を避けて他所に移築していたものを、平成2年、城内に復元したものである。寄付待合、中門、腰掛待合、蹲踞( ツクバイ)から茶室へと正統なたたずまいに心洗われる。

9.御薬園(オヤクエン)
 次に市の東郊「御薬園」を訪れる。その昔、薬泉が湧いた霊地としてこの地に祠、藩主別荘が建てられ、3代松平正容の頃には朝鮮人参ほか各種薬草が栽培された。今や400種に及ぶ薬草・薬木となり、「御薬園」として広く名を知られるようになった。
 用法次第で薬効ありという毒草「とりかぶと」も花盛り、蔓延して困る「どくだみ」が1坪程の区画にちんまり収まっているのは寧ろ不思議である。
 秩父宮妃殿下ゆかりの新滝旅館が東山温泉から移築され、妃殿下の誕生日(9月9日)に因んで重陽閣と名付けられた。昭和天皇の弟君秩父宮に嫁した勢津子さまは会津藩主松平容保の孫娘である。本日は90周年の何か記念行事があったらしい。邸前に咲いた数輪の蓮が清々しい。
 回遊路に従って「心字の池」へ回る。徳川中期の築庭で、池畔には茅葺きの御茶屋御殿、中の島には戊辰の刀痕も残る楽寿亭を配した山水の名庭である。池を前に、緋毛氈の床几で胡麻羊羹と抹茶を一服頂く。水量豊かな男滝、女滝が特に印象的であった。

10.飯盛山
 今日の観光の終盤は白虎隊の飯盛山である。中腹までは有料( @ 250円)の動く歩道で行く。そのあと30数段ほど階段を登ると白虎隊士の墓がある。正面はここで自刃した19士、右側には会津各地で戦没した白虎隊士のうち氏名が判明した31士の墓が並んでいる。
 墓前の広場では白虎隊の扮装で剣舞「白虎隊」と当時の戦況説明をしている。右奥には「白虎隊の武士道精神に感銘した」として昭和3年、ローマ市民より贈られた「古代ローマ精神を象徴するファッシスタ党章を冠したボンベイの古柱の碑」が建っている。
 また自刃したものの唯一蘇生して白虎隊の実録を後世に伝えた飯沼貞雄の墓も、昭和32年になって近くに建てられた。尚、山中で本隊にはぐれた酒井峰治が後世書き残した記録も、併せて貴重である。
 更に右奥には炎上する鶴ヶ城( 実は周囲の侍屋敷の火煙を見誤ったとも言われている)を拝し、従容自刃した白虎隊士の聖地がある。十四・五歳の少年を形どった石像が掌をかざしてお城を望見する様はひときわ涙を誘う。
 帰路は登降別通路のさざえ堂前を通り、戸の口堰洞穴を見学して下山する。この堰洞穴は猪苗代湖の水を通水して会津盆地を潅漑するため天保3年(1832年)掘削されたものだが、戸の口原の戦いに敗れた白虎隊士20名が難渋しながら通り抜けたことでも有名である。
 まだ4時半だというのに麓のみやげもの屋はバタバタと店を閉めている。私達も一路、東山温泉「御宿東鳳」へ急ぐ。

11.東山温泉から猪苗代湖へ
 若松市内を眼下の大展望浴場で旅塵を洗い流したあと、料亭「吉祥」へ。ホテル内とは思えぬ本格的な料亭玄関から観月の間に案内される。板長自慢の旬菜(シュンサイ)御膳14品を堪能するうち、当館の芳賀女将が挨拶に参上、彼女を囲んで皆で写真を撮る。
 宿泊はタワー館17階の和室で会津盆地が一望の下である。勿論遠目ながら鶴ヶ城も見渡せる。この旅館は東山温泉随一、収容人員1000人を豪語するだけあって、和洋中華の朝食バイキングでは大バンケットルームもほぼ満席の盛況である。
 8日、猪苗代湖への峠道で久し振りに「支那そば」の看板を見た。戦前はチャルメラを吹きながら屋台車で町中を流していたものだが、戦後は「中華そば」に呼び方も変わり、何となくもの悲しいチャルメラの音色もすっかり聞かれなくなった。
 いまの中華人民挙共和国は紀元前3世紀、この地域を統一した「秦」帝国のことが西欧に伝わって、英語でChinaチャイナ、フランス語でChineシーヌ、イタリア語でCinaチーナと呼ばれている。漢民族が世界の中央に位置し、華の文化国家と誇る「中華思想」の高揚と共に「支那」という文字を禁忌するようになった。しかし「シナ」は本来、現在の中国及びその周辺を含む一大地域の名称である。例えば東シナ海、インドシナ半島など。

12.野口記念館
 湖面標高514mの猪苗代湖はさすがに爽やかな秋色である。朝8時半開館の野口記念館には早くも見学者が詰めかけている。まず「野口博士生家」を見る。文政6年(1823年)に建てた生家は損傷甚だしく、昭和56年(1981年)解体復旧された。
 1歳半の清作(英世の幼名)が左手を火傷した囲炉裏、19歳で上京する時「志を得ざれば再び此地を踏まず」と刻んだ床柱に注目する。火傷の時、母シカが洗い物をしていた小川、快癒を祈って熱心に信仰した救世観音(クセカンノン)、英世が英仏文で書いた忍耐の碑、遺髪塚碑など中庭を見て回る。
 本館では冒頭に野口清作尋常小学校4年生の試験成績表が目につく。修身、読書、作文、習字、算術、体操(除)平均93点、席順一、優 ( 席順四以下は「良」ではなくて「尋」)と記載されている。読み、書き、算術など基礎学力を重視した当時の教育方針が窺える。その隣には高等小学校で使ったらしい英語のリーダーが展示されている。父娘で蜜蜂を観察している情景の頁である。韓国でも野口英世は望ましい立志の偉人として尊敬されているのか、見学者が多いらしく、ハングルでの説明文が頻りに目につく。
 等身大に引き伸ばした「ニューヨークでの英世の写真」と並んで写真を撮る。彼は153cm位で割に小柄に見える。
 アメリカ、中南米、アフリカで蛇毒、梅毒、黄熱病等の解明に尽力するうち、その黄熱病に冒されて1928年アフリカで病没した、51歳であった。6年前、私が訪れたメキシコのメリダにも1919年12月から3ヶ月、研究のため滞在したという。
 英世自筆の愛妻メリー夫人像、旧師への手紙など、画才、書才もなかなかのものである。「はやくきてくだされ、はやくきてくだされ・・・」と繰り返す母シカの手紙は肉親の情が惻々と迫ってくる。
 生家の北の空高く標高1819 mの磐梯山が端然と聳えている。清作少年は国際的医学者への雄飛を朝な夕な、この秀峰に誓っていたのではなかろうか。
 エクアドルで撮った野口英世の写真が来年の新千円札に採用される。また一段と来館者が増えることであろう。

13.五色沼
 猪苗代湖から磐梯山を左に見て五色沼へ到着する。沼一帯は未舗装路ながら緑豊かなハイキングコースで、三々五々ハイカーが散策を楽しんでいる。大小100以上の湖沼があるというが、時間の都合で深緑の柳沼、コバルトブルーの青沼、瑠璃色のるり沼までを見て引き返す。
 水底に赤錆や湯ノ花状の沈堆があり、鉄分、硫黄分の溶融加減で水の色がいろいろに変化しているのだと思う。
 続いて裏磐梯最大の檜原湖畔を走る。湖に散在する小島は磐梯山噴火の堰き止め湖であることを表している。磐梯高原から大塩温泉を経て喜多方市にはお昼頃着いた。


14.「蔵のまち」喜多方でラーメン

 元祖喜多方ラーメンを自称する「源来軒」で定番ラーメン( @ 550円)を賞味する。大正年代、中国から移り住んだ店主が手打ち一筋に、屋台ラーメンから始めたという。少し太めの麺に玄妙なスープがよく合う。店を出る頃には席待ちの列が出来ていた、あちこちに沢山ラーメン屋はあるだろうに。
 観光パンフレットには「蔵のまち」喜多方と謳って、醸造蔵、レンガ蔵、長蔵(80m位)、蔵座敷、蔵寺院など紹介されているが、川越の蔵通りも前に見たことだし、切り上げて会津若松に還る。途中、塩川町では東鳳の女将が激賞した塩川牛のことを思い出した。

15.会津若松から5時間
 会津若松では市の観光物産協会で若松の赤べこ、会津塗り、堆朱の根付け( 本来は財布などの紐に付け、帯にはさむ飾り)、お菓子「ハットー」などを買い調える。観光地図によれば、この近くに「野口英世の初恋の人、山内ヨネの生家」の記載まである。
 東北新幹線で栃木県黒磯付近を通過中、もくもくと立ち昇る異様な黒煙を見た。この日の正午頃発生したブリヂストンのタイヤ工場の大火災であった。
 会津若松駅を夕刻4時前に出発、郡山駅、東京駅で新幹線を乗り継いで、午後9時過ぎには名古屋駅に到着した、その間5時間余。高速鉄道の発達を今更のように感心するとともに、奥州「みちのく」も近くなったものだと思う。

西南インドを行く(2003年3月)

エローラ、アジャンタ、コモリン岬そしてシンガポール

1. 仏跡を訪ねてインド、スリランカ
 10年前にインド東北部を、カルカッタからブッダガヤ、バーラーナシー(旧ベナレス)、サルナート、クシナガラ、ルンビニ(ネパール)、アグラ、デリーへと主に釈迦ゆかりの遺跡を旅したことがある。
 昨年末は漸く治安が回復したスリランカで、ポロンナルワ、シギリア、ダンブッラ、キャンディなどの仏跡を訪ね歩いた。
 今回は西南インドで待望のエローラ、アジャンタの石窟群とコモリン岬を巡遊することにした。
2003年2月19日9時50分名古屋(小牧)空港発、シンガポール乗り継ぎ、同日深夜ムンバイ(旧ボンベイ)空港へ到着した。

2. ギャング、テロ、ボディーチェック
 搬出が遅れたスーツケースを携えて税関を出た途端、多数の報道陣がカメラを構えている。アラブ首長国連邦で捕まったムンバイのギャング、ダウッド兄弟が国外追放されて、ドバイから到着するのを待ち構えていたのだとは、翌朝の新聞で知った。
 翌20日は早朝5時モーニングコール。長谷川添乗員以下22名の中日旅行会一行は7時10分発オーランガバード行きジェットエアーに乗るべく国内空港へ向かう。朝食は大きなランチボックス、但し中身はパン、ケーキ、卵、林檎が片隅にひっそり。
 空港での機内携行品の検査は聞きしに勝る厳重さである。印・パ紛争でイスラム過激派のテロを警戒してか、「身に寸鉄をも許さじ」とばかりに探知機で撫で回す。硬貨、鍵、尾錠にまで鋭敏に反応する。特にカメラの予備電池、懐中電灯は持ち込み厳禁。しかも搭乗までに3回もこんなボディーチェックが繰り返される。
 現に私達が帰国後の3月13日、ムンバイ郊外の通勤列車で爆弾テロがあり、69人が死傷したとの報道があった。
   
3. ダウラターバード砦からエローラ石窟へ
 約60分、簡単な機内食を終えた頃にはもう着陸である。まずバスでエローラへの途中、ダウラターバード(幸運の町の意)砦に立ち寄り見学する。12世紀築造のこの砦はインド3名砦の一つに数えられ、ピンクの戦勝記念塔チャンドミナールは30mと、インド第二の高さを誇っている。
 デカン高原に入ってしばらく行くと一列に並んだエローラ石窟群である。この土地ではヴェルールと呼ばれ、昔から巡礼で賑わったといわれる。

4. まず仏教窟から
 7~8世紀頃造営の仏教窟から見学する。第10窟はチャイティヤ(塔院)窟で、奥のストゥーパ(佛塔、卒塔婆の語源でもある)前には観音菩薩、弥勒菩薩を左右に配した佛坐像がある。ヴォールト天井は古代木造たるき垂木リブを模したものという。欄間の位置にはミトゥナのような男女像が多数彫り込まれているが、ヒンドゥー教にある交合像ではないとガイドは言う。
 3階構造の第12窟ヴィハーラ(僧院)窟や第15窟を右に見て、本日のハイライト第16窟カイラーサ寺院へ向かう。

5. ヒンドゥー教窟カイラーサ寺院
 この寺院はヒンドゥー教のシヴァ神が棲むというヒマラヤのカイラーサ聖山を表していると伝えられる。756年から鑿とハンマーだけで一世紀余に亘って巨大な一枚岩より、幅46m、奥行き80m、高さ34mの寺院を彫り刻んだ信仰の偉業である。8世紀といえば日本では奈良時代、正倉院が造営された時期である。精巧な計算機、測定器も無い時代に、3~4世代に亘ってあれだけ正確・細緻に彫り継ぎ、刻み進んだ建築? いや掘削技術は驚嘆に値する。
 本殿奥の「胎堂」には本尊リンガ(男根)がヨーニ(女陰)の上にそそり立っている。子孫繁栄、五穀豊穣などの祈りが込められているのだろうか。外へ出て手彫りの痕が残る岩壁を見上げていると恰もビルの谷間に居るような圧迫感を覚える。
 寺院の全貌を俯瞰しょうと岩山を駆け登ること6~7分、暑い、息が弾む、地元の子供たちが微笑みながら通り過ぎる。脚下に展開するパノラミックな巨大彫刻には唯唯感嘆、脱帽である。

6. ジャイナ教窟も
 左奥のジャイナ教窟へは約2km、バスで移動である。ジャイナとは「煩悩に打ち勝った解脱者」という意味で、無欲、無所有、不殺生を旨とし、富裕の信者が多いという。
 9世紀頃造営されたという第32窟はなかなか手の込んだ彫刻である。入口近くには不動の修行で蔦が絡みついた無衣の行者像が、奥には開祖マハーヴィーラの像が据えられている。第33,34窟と門構えのある第30窟は外観のみで見学を終えた。

7. オーランガバードの小タージ・マハルと水車公園
 オーランガバードに戻り、ビービー・カ・マクバラーを訪ねる。タージ・マハルを少し小型にしたようなこの廟は、町名の元にもなったアウラングゼーブ帝の息子が母ベーガム・ラビア・ドラニを追慕するため、1679年、建立したという。ここで出会った、絢爛華麗にサリーを着こなした女性の一団が印象深い。
 このあと前記アウラングゼーブ帝のイスラム導師ムザファルが葬られたパーンチャッキー(水車の意)公園を見学する。10km程離れた丘から導いた水で滝を作り、水車を廻し、貯水したという。今では粉は挽いていないが、縦軸水車と石臼だけは廻り続けている。
 隣接するイスラム礼拝堂の周辺には表面が凸型の男性の墓、凹型の女性の墓が数基ある。空港の厳重検査を敬遠してスーツケースはムンバイのホテルに置いたまま、手荷物だけでオーランガバードのホテル・ラマ・インターナショナルに一泊する。

8. アジャンタ石窟は電気自動車と駕籠で
 21日はもう一つの目玉、アジャンタ石窟の見学である。遺跡、特に壁画を自動車の排気ガスから護るため、麓のバスターミナルで電気自動車に乗り換える。みやげ物売りの男たちがわっと押し寄せる。一行中一番若い長谷川裕子添乗員には若者が執拗に付き纏う。隠然たるカースト制度に阻まれて同国の異性には気安くアプローチ出来ない為の反動かも知れない。
 電気自動車の筈なのにディーゼル車のような轟音を轟かせながら、渓谷沿いに10数分で石窟群の入口に着く。坂道は苦手という人の為に4人組みで一人を担ぐ駕篭かきが沢山待機している。急な階段を昇降する為、座席は駕籠よりは高く、輿よりは低い。座席を半ば低くした川渡りの輦台(れんだい)のようなものである。この際は仮に駕籠と呼んでおこう。
 「担ぎ賃は公定で客一人につき500ルピー(約1400円)、見学を終えてこの出発点まで戻ってから、ガイドの目前で支払うように」とガイドが強調する。目の届かぬところでは時々雲助根性が出るのかも知れない。登りは前向きに座るが、急な下り坂は前につんのめらぬよう、後ろ向きに担がれる。

9. 壁画はインド仏教美術の精華
 途中、野猿にも出迎えられながら第1窟に辿り着く。窟左奥の蓮華手菩薩像はアジャンタ壁画の最高傑作といわれ、艶やかな気品を漂わせる三屈の姿態は法隆寺金堂壁画の勢至菩薩像のモデルにもなったといわれる。
 第2窟も6世紀頃彫られた僧院窟だが、この時代になると正面奥には仏堂が造作されるようになる。高さ3.6mの仏像は目下、足場を組んで修復中であった。天井の円形の図柄は見事である、しかし周囲の壁に描かれているジャータカ(釈迦前世説話)の絵は暗くてよく見えない。
 第7窟仏堂前の壁面には、かなり後期の作らしく丹念に千仏像が浮き彫りされている。
 第10窟は前期の塔院窟らしく、ストゥーパ前に仏像は無い。周りの39本の八角柱の鮮やかな仏陀や僧の図は後世に描かれたものだという。右側壁面には紀元前1世紀頃に書かれたものが額縁のようにガラスで保護されている。

10. 虎とアジャンタ
 また右奥柱の僧の絵の胸に「ジョン・スミス第28騎兵隊、1819年4月28日」と線刻されている。この日、虎狩りにきた彼が川向こうの丘(今は展望台になっている)からこの石窟を千余年振りに発見したという。アジャンタ石窟はワーグラー川(虎の川の意)に面する馬蹄形の岩壁に、600mに亘って彫り続けられた大小30もの石窟群である。
 第12窟は三方の壁に各4室づつ房室がある僧院窟である。房の入口は虎の侵入を防ぐ為とかで異常に狭く、中には左右各一つの岩のベッドが造られている。
 最も保存状態が良いといわれる第17窟の壁画のなかでもジャータカの一場面を描いた「六牙象本生」図は有名である。
 第19窟は正面玄関に2本の円柱を備え、ちょっと昔の銀行を連想させる。いかにも後期の僧院窟らしく、ストゥーパ自体に仏像が彫りこまれている。それを取り囲む佛彫像、画像も精細である。

11. 明るい塔院窟と未完の僧院窟
 第26窟はアジャンタ最大の後期塔院窟で、ストゥーパを囲む列柱の外側回廊の壁面には無数の佛立像、坐像が彫られている。左出口近くには全長7.3m、インド最大の涅槃像が横たわる。クシナガラの沙羅双樹の下で入滅した釈迦の姿を表しているという。この窟は唯一、随所に明るく照明があり存分に見学することが出来た。
 第24窟は未完の僧院窟で、掘削半ばの床面、壁面が凸凹のまま放置されている。ヒンドゥー教の普及、仏教の衰退とともに僧たちも段々離散して行ったのであろう。
 第13窟?は仏堂を備えた僧院窟だが、現在は管理オフィスに使っているらしい。アジャンタ渓谷の立体模型や修復前後の壁画写真が対比して展示してある。
窟前の通路は近年観光客のために築造されたもので、往時の僧たちは狭隘な径をさぞ難渋しながらアジャンタ村まで托鉢に出かけたことであろう。アジャンタとはア(遥かな)ジャンタ(俗界)を意味するとガイドは言う。

12. ムンバイ、コーチン、ヴァスコ・ダ・ガマ
 再び一般客も乗り合いで電気自動車に乗り、麓のバスターミナルへ。ホテルで夕食、空港ではまたぞろ再三の携行品検査を受け、ムンバイへは21時15分到着した。翌22日も6時モーニングコール、8時50分発ジェット・エアーでコーチンへ。
 東インド会社の根拠地でもあったムンバイではフォート地区からインド門にかけて植民地時代の面影を色濃く残していると聞く。マリオット・ホテルは市街から遠く、深夜到着、早朝出発の為これらが観られなかったのは聊か残念である。また映画産業が盛んでボリウッド(ボンベイ・ハリウッド)とも別称されているそうである。
 10時35分コーチン着、まずヴァスコ・ダ・ガマゆかりの聖フランシスコ教会を訪ねる。ガマは香辛料を求めてポルトガルからインドにまで到達した大航海時代の大物である。のちにインド総督にもなり、1524年コーチンで病没した。この教会に葬られたが、遺体は後年故国ポルトガルに移送された。もと埋葬された跡は柵で囲われている。エリザベス女王来訪記念のタブレットも飾ってある。
 ポルトガル人の手になるこの教会はさほど大きくはないが、降り注ぐ陽光の下、南欧リスボンのノスタルジアを感じさせる。

13. 中国人、オランダ人、ユダヤ人
 次は歩いて数分のチャイニーズ・フィッシング・ネットを見学する。いつ頃中国人が伝えたものか、10m四方もあろうかという四つ手網を沈めては引き揚げる漁法で、アラビア海の海岸に10数基設置されている。石の錘を着脱して梃子を操作し、網を上げ下げする。産地直売の魚屋も軒を連ねる。
 コーチンはインドとしては格段に就学率が高く(98%とか)英語が普及しているので、街頭でも英語の表示が多いと、ガイドのアジータは言う。
 1568年に建てられたというシナゴーグ(ユダヤ教会)は礼拝日のため観られなかった。その代わりという訳ではないが、近くのマッタンチェリー・パレスを見学する。もとはコーチン藩主の宮殿だったが、オランダ統治時代にその総督邸になったためダッチ・パレスとも呼ばれている。
 藩時代のものが多数陳列され、ラーマヤナ説話の細密壁画、なかでも王妃寝室の壁いっぱいに描かれた犬、牛、馬、象など哺乳動物の交接図には圧倒される。王族繁栄を望む切なる願いなのであろうか。見学を終えた女学生の一団が、心なしかはにかみ笑いをしているように見えた。
 次に訪れたスパイス・マーケットは5時過ぎのため閉店、薄暗いスパイス倉庫を瞥見しただけで近くの商店に入る。土地柄各種スパイスの小袋が棚一面に、カレー粉も野菜用、魚用、チキン用とブレンド別に包装されている。勿論ヒンドゥー教、イスラム教が禁忌する牛肉用、豚肉用は無い。
 この付近は昔スパイス取引で巨利を得たユダヤ人が多く住み着き、ユダヤ人墓地もあるが、今では数家族しか住んでいないという。僅かに残る家並みには、かつて殷賑を誇ったユダヤ商人の心意気が感じられる。

14. カタカリ・ダンスとは
 午後6時過ぎ「コーチン・カルチャー・センター」の「劇場」に入る。「劇場」といっても倉庫のような建物の一隅にステージを設け、可搬式の椅子が数十脚並べられているだけである。楽屋が手狭なためかステージの上でカタカリ・ダンスの主役二人がメークアップに余念が無い。歌舞伎「暫」「車引」も顔負けのどぎつい隈取である。
 7時開演、司会者がカタカリの由来、所作の意味、今夜の演目などを英語で説明する。カタカリとはカタ(物語)カリ(音楽)の意味でインド・ケララ州を中心に古くから伝わる、いわばミュージカルで、ラーマヤナなどの伝承に材を採ったものが多いという。
 今夜はその内の一つ・・・兄の嫁探しに神の国に忍び込んだ妹の悪魔が、逆に神の皇子に恋慕してしまう。しかし悪魔の本性を見破られて結局、皇子に首を刎ねられてしまう・・・という話が上演される。
 出演は男性のみで、太鼓と鉦に僅かな語りが入る。悪魔役が時々奇声を発するほかは、すべてパントマイムである。太鼓の連打はラマ教のそれを思い出させる。約1時間で終演、希望者は主演者と並んで記念写真を撮る。観客は私たち22人とほぼ同数の欧米人である。「カルチャー・センター」の別棟では健康・美容のアーユルベーダを実施しているようである。
 今夜のホテル・トライデントはコーチン市のウィリントン島ヴェンバナード湖に面したリゾート風ホテルである。湖といってもアラビア海にそのまま口を開いているので、プールの先は海岸のような砂浜が続いている。

15. バック・ウォーター・クルーズ
 23日はバスでコヴァラム・ビーチへ向かう。途中アレッピーからクマロコムまでは約3時間のバックウォーター・クルーズを楽しむ行程である。定員100人足らずの小さな観光用クルーザーに貸切で乗り込む。水路には椰子の葉で葺いた苫舟のような舟がたくさん舫っている。水郷に住む人たちの重要な脚である。
 岸辺に近い水路では数人の子供が「ボールペン、ボールペン」とせがんで舟に並走する。昔ながらに石に叩きつけて洗濯をするサリーの女、水に戯れる子供たち、水中に蹲っている人を見て誰かが「用便をしているのでは ? 」と呟く。岸辺の椰子の林に南国情緒をたっぷり味わいながら、或いは広く、或いは狭い水路を滑るように船は進んでゆく。この地方の州名ケララはケラ(椰子)のラ(国)と、そのものずばりである。
 トイレ休憩を兼ねて、とある岸辺に接岸する。丁度マンゴー収穫の最中である、一人が水上に伸びた枝からマンゴーを水面に掻き落とす、他の一人は水中でそれを拾い集める。表面に傷が付かないから、商品価値を保つには良い方法である。
 デリーから移り住んだというマンガラムッタム夫妻の家を見せてもらう。一見小奇麗な住宅だが中は少々猥雑である。雨水をタンクに貯めて生活用水に、街へは自家用モーターボートで、と都会の利便とは程遠い生活である。
 再び乗船して広い水路に出る。やがて拡がった湖はアジア第2の大湖とガイドは言うが、地図を見ても定かでない。バックウォーター back water とは元々堰き止められた水、淀んだ入り江を意味し、この辺りは運河と湖の区別も判然としない、むしろ広大な水郷と言った方が相応しい。
 今度は小島に立ち寄る。○○クルーザーの看板を掲げた薄汚い小屋の片隅で、茹でた蝦の試食を勧めてくれるが、粗末な食卓には食べかけのカレーが椰子の葉の皿に散乱し、ちょっと頂けない。それでも好奇心で、もぎ落とした椰子の実にストローを挿し込んで飲んでみる、余り甘くなく少し青臭い、10ルピー( 27 円位)という。一息入れて再び船へ戻る。
 入り江の入り口に、照明付き十字架を冠したミニ灯台のような白い塔が立っている。船長がひと際大きく鐘を鳴らす、クマロコムが近いことを乗客に知らせると共に、船着場の係員に着岸準備を促す警報でもあるようだ。

16. コバラム・ビーチ・リゾートは遠かった
 クマロコムのホテルで昼食、午後5時頃にはコバラム・ビーチに着くだろうと聞いたが、その時間になっても一向にその気配が無い。途中の観光案内所で訊ねたら、まだ2~3時間は掛かるだろうという。直線距離でいえば150kmそこそこだが高速道路が無く、町へ入れば人込みを掻き分けるように右折左折しながら走る訳だから、平均時速は40km位にまで落ちているのだろう。
 しかも夕方暗くなっても無灯火の自転車、バイク、三輪車が多いのも気になるところである。午後8時過ぎ、漸くコバラム・ビーチ・リゾート・ホテルに到着した。
 24日午前は久し振りにリゾート・ライフをエンジョイすることが出来た。スイミング・プールで泳いだ後、ホテルのプライベート・ビーチでもうひと泳ぎ。波打ち際の貝殻に気を付けながら暫く「アラビア海」の海水浴を楽しんだ。
 砂浜に戻ると長谷川添乗員とガイドのワドワ君が浜の少年から買った「うに」を食している。お相伴させて頂いたが薄い潮味で、頬を撫ぜる海風と共に磯の香りを満喫した。

17. 荒波にご用心、コモリン岬
 早目の昼食の後、この旅後半のハイライト、コモリン岬の観光である。バスで3時間、カニャークマリ(処女岬の意)の町に着く。午後4時の渡し船最終便に間に合うように、そして6時半にはアラビア海のサンセットが観られるようにと、苦心のスケジュールである。
 同じような思惑なのか、ヴィヴェーカーナンダ岩への渡し船は100余席程度の小型船なのに、どうやら定員超過の満杯である。「乗船者注意」の掲示板には「席から立たないで、撮影禁止・・・」などいくつか箇条書きの最後に「どんな事態になっても総て乗客の責任である」と書いてある。
 目と鼻の小島へたかだか10分位、「何程の事や、あらん」と船首に近い所でビデオカメラを構えていた。これが大間違いのもとで、ベンガル湾から打ち寄せる波は意外に荒く、渡し船は激しくシッピング(上下動)して、舳先からの大波を頭から被ってしまった。暴風雨に翻弄される船上のシーンの様に。
 当然ビデオカメラは即アウト、以後撮影不能となった。幸い旅行保険で10万円までは補償されるそうである。コモリン岬では「船首、大波、カメラ」にはくれぐれも「ご用心」。
 詩人ティルヴァルヴァールの巨像のみが建っている右手の島では、海水を被ったカメラとびしょ濡れの衣服の善後処理に追われて観光どころではない。再び渡し船に乗ってヴィヴェーカーナンダ岩へ渡る。この数分間は岩礁に遮られてか、波は静かである。

18. コモリン岬はヒンドゥー教の聖地
 ヒンドゥー教の改革者ヴィヴェーカーナンダ(1863~1902)が瞑想したこの岩に1970年、石造の記念堂が建てられた。カーストを重視するヒンドゥー教徒にしては珍しく、彼は平等を説いたという。
 堂内には裸足で入場、一隅に据えられた等身大の立像には「グル(尊師) ヴィヴェーカーナンダ」と標記されている。見学を終えた頃、往客無しの最終便がこちらへ直進して来る。数人の管理要員を残し、観光客は全て総攫えにして帰港する。
 土産物屋の建ち並ぶ参道を歩いて、物々しく囲われたクマリ寺院へ行く。コモリン岬の語源でもあるクマリ(処女神)を祀るこの寺院へは裸足、男性は上半身裸で入場しなければならぬ。
 初潮を見ると失格という本尊の生き女神(この日は代わりの人形だった)に一礼して何がしかの喜捨(バクシーシ)をすると、傍らの寺男が眉間に紅を付けてくれる。互いに顔を見合わせて、俄かヒンドゥー教徒になった様な気分になる。
 寺院の先のガート(沐浴場)では、敬虔な信者たちがインド洋の波に身を沈めながら合掌祈念している。右はアラビア海、正面はインド洋、左はベンガル湾越しにスリランカの島影が望見される。正にインド亜大陸最南端、コモリン岬はヒンドゥー教の大切な聖地である。

19. アラビア海のサンセット
 今日の日没は午後6時35分とのこと、マハトマ・ガンジーの遺灰を流した地に建てられたガンジー記念堂への入場は諦めて、サンセット展望塔へ急ぐ。塔の最上階にはもうかなりの人数が西を向いて待機している。
 刻々と赤い太陽がアラビア海の水平線に近づいて行く、しかし夕靄が濃くなってきて沈む瞬間は霞んでしまった。同行のアマチュア・カメラマンは「波間に反射する陽光と共に、水平線に沈み行く夕日を撮りたかったのに・・・」と口惜しがる。
 日没と共に観光客は一斉に帰り支度である。3時間のバスに揺られて、この日もホテルでの夕食は10時過ぎとなった。
 25日はゆっくり朝食、全裸全身に香油を付けてマッサージというアーユルベーダに行く人、紺碧のビーチを散歩する人、私は潮抜き水洗いした衣服を乾燥かたがたプールサイドへ。
 椰子の木陰でデッキチェヤに、海水パンツで寝そべって約3時間、衣服は乾いたが皮膚は軽いサンバーンsun burn(日焼け)である。矢張り南国の太陽は強烈である。

20. トリヴァンドラム観光
 午後はトリヴァンドラム観光に出かける。ネピエル博物館では宮殿のような建物、特異な彫刻、トラヴァンコール藩王時代の文物などが目を惹く。続く美術館ではインド細密画は勿論のこと、中国の山水画、日本の浮世絵も、また王自身の絵も展示されて居り、なかなかの画才である。
 次に訪れたパドマナーバスワーミは厳格なヒンドゥー寺院で、牛肉を食べる異教徒は一切入場禁止とのことである。沐浴の池を右に見てヒンドゥー独特の細緻な彫刻を施した塔屋を正面から、側面から、そして背面からとなぞる様に見上げる。カジュラホのカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院ほどではないが、かなり際どいミトゥナ(男女交合像)の集積である。
 境内裏手の小祠の軒上にはヴィシュヌ神の化身像が並べられている。光背を背負った釈迦像が第9番目の化身といわれている。

21. 南インドの街角で
 この街は大学、カレッジがよく目に付く。英語の看板のほか、ドラヴィタ系の言葉なのか ? くるくると丸まっちい文字の看板が多い。逆に横線のあるヒンドゥー語の文字は殆ど見かけない。   長々と板を敷き、幕を張って座り込むストライキの列が続く、この地方は共産党が強いという。
 この街に限ったことではないが、大都市はともかく、インドでは上下水道やごみ収集制度が無い、いわば垂れ流し、捨てっ放しである。また停電も多い。国民多数の低所得と徴税制度の未熟から、インフラ整備になかなか手が廻らないのであろう。日光、水、空気、動植物の生態系など大自然の摂理で浄化還元されるに任せているように見える。
 夕べのホテルでも部屋にはFiltered water(濾過された水)のペットボトルが置いてあったが、果たしてどんな水を濾過したものやら。
 また町外れでは流浪の人たちの集落をよく見かける。ギリシャ、イタリアなどで見たジプシーのテントのような小屋が立ち並ぶ。インドから発したというジプシーとルーツを同じくしているからだろうか。

22. サンセット・ディナー
 デリー大学日本語科中退のスルーガイド・ワドワ君も南インドの地元の人にはヒンドゥー語が余り通じなくて、困惑する場面もあったようだ。
 バスのエアコン、リクライニングシートの不具合のお詫びも兼ねて、今夕はインド側の旅行会社(Great India Tour ? )がホテルでフリー・ドリンクの海鮮ディナーを提供するという。アラビア海に面したプールサイドに机を並べてサンセットを待ったが、今日も夕靄に紛れて、水平の彼方に沈む夕陽を見ることは出来なかった。
 再びトリヴァンドラムに戻り、国際空港から23時発のシルク・エアーでシンガポールへ。
国際空港といってもスリランカのコロンボ、シンガポールとモルディブが主なdestination(行き先)のようである。

23. マーライオン、ブキテマ、オーチャードロード
 26日朝5時50分シンガポールのチャンギ空港に到着後、最寄のホテルで朝食バイキング。醤油を垂らした中国粥を口にして、何かとカレーっぽい香りの付き纏うインド料理から、やっと開放された感じがした。
 通勤者も疎らな早朝だというのに、さっそく市内観光である。まず昨年9月、ワン・フラトンのプロムナード近くに移転したマーライオンを見学する。昔この島にライオンが居たという伝説からシンガ(ライオン)プーラ(街)と呼ばれるようになった。頭がライオン、尻尾がマーメイド(人魚)のマーライオンが街のシンボルとして設置されたという。
 続いて太平洋戦争の激戦地ブキテマ(マレー語でBukit Timah)の丘から対岸のセントーサ島を眺める。この後は昨夜の睡眠不足が祟ってシンガポール植物園はバスの中でパス。昨夜のフライト、シルクエアーはエアコンの個別調節が無く、小寒い窓際席で仮眠も儘ならなかった。
 次は開店を待ち兼ねたようにバスはスコッツ・ロード沿いのデューティー・フリー・ショップへ急ぐ。ここは早々に抜け出して、近くのオーチャード・ロードへ出る。街角の両替店でも事足りるが、ちょっとバンキングを試みたくて伊勢丹スコッツ前のDBS銀行でシンガポール・ドルに両替する。Personal(個人)とcorporation(法人)に受付カウンターが区別されている。
 飲茶で昼食の時、ウーロン茶を持ってきたウェィターに「ムコーイ」(広東語でやあ、どうも、ありがとう、程度の常用語)と声を掛けると、はっと振り向いて早口に何か話しかけてきたが勿論聞き取れない。この後はマリーナ・ベイを見下ろすオリエンタル・ホテルにチェックインして深夜発の帰国便まで休憩である。その間にオプショナル・ツァーのナイトサファリに行く人、添乗員と夕食を食べに行く人、夫々である。

24. 戦争記念碑
 私はシティー・ホール前の戦争記念碑を訪ねる。日本語の観光地図にはWar Memorial(戦争記念碑)とのみ記載されているが、中国語の地図では「日治時期蒙難人士記念碑」(日本が占領統治時代に被災受難した人達の記念碑)と表示されている。
 モニュメントの中央に骨壷のような器が安置してある。台座には「シンガポールか華僑が提唱し、市民・政府が資金を拠出して1967年建設した」と記されている。60余年前シンガポール陥落に沸いた当時の日本を回想して、万感の思いを込めて合掌する。
 日本語の少し怪しい現地ガイドも太平洋戦争のことについては、此処でもブキテマでも殆ど触れようとはしなかった。聞けば日本人と結婚した中国人とのことである。
 碑文を読みカメラに収めていると一人の老人が近付いてくる、「イングランドから来た」と言う。互いに写真を撮りあって、言葉少なに別れた。

25. ラッフルズ・ホテルとロング・バー
 続いて筋向いの区画のラッフルズ・ホテルに向かう。名前は、1819年シンガポールに上陸、貿易拠点を築いたイギリス東インド会社のトーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿(1781~1826)に因んで名付けられたが、創業者はアルメニア人サーキーズ兄弟である。
 1887年部屋数10のバンガロー風の建物で創業し、その後度々の増改築で1910年頃ラッフルズらしいオリジナルが出来上がった。太平洋戦争当時日本軍に、戦後しばらく連合軍に占有されたが、1991年には1915年当時の姿に忠実に復元、リニューアル・オープンされた。
 左右に翼を拡げたような堂々たるファサードである。しかし風水学的には余り感心しないらしく、周囲に沢山の樹木を植えて「悪い気」を避けているという。
 裏手のショッピング・アーケイドに戻り二階のロング・バーLong Barに入る。予ねて聞いていたラッフルズ・ホテル名物「シンガポール・スリング」を注文する。海南島出身のバーテンダー、ニャン・トン・ブンが1915年創作したカクテルで、ジンをベースにした上品な南国フルーツジュース風である。チップ込みで20S$(約1400円)。地元の人は専らジョッキでビールを楽しんでいる。
 このバーのユニークなところは落花生が食べ放題、殻は床へ捨て放題、次々にカップに豆を補充してくれる。一連5枚位の椰子の葉団扇が電動で、天井からゆったりと微風を・・・南国の旅情が慰められるひと時である。
 日本円への再両替は通常千円紙幣単位だが、チャンギ空港では百円硬貨単位まで計算してくれる。1700円が再両替で戻ってきた。午前1時15分発SQ982便名古屋行きはあちこち空席が目に付く。シンガポールへの商用・観光とも一時ほどの繁忙が幾分遠退いたのかも知れない。
 27日午前8時25分小牧空港到着。真夏のようなインド、シンガポールに馴染んだ身体には春まだ浅い名古屋の寒風が身に沁みる。

26. 変な肺炎SARS拡がる
 帰国後の報道(中日新聞3月30日朝刊)で知ったことだが、東南アジアを中心に原因不明の肺炎SARS(重症急性呼吸器症候群)が拡がっているという。世界保健機構WHOによると昨年11月中国広東省で集団発生(感染792人、死亡31人)し、今年2月26日ベトナム(感染58人、死亡4人)で新型の肺炎と断定された。航空機による旅客の移動で、その後香港(感染266人、死亡11人)、シンガポール(感染65人、死亡2人)でも発生、アメリカ、カナダ、ドイツ・タイでも若干名が発症しているという。
 新種のウィルスによるものらしく、接触感染か空気感染かも不明で、対応策はまだ見つかっていないようである。

 ところどころ三題噺のような小見出しを付けてしまったが、本稿記述に当たっては各政府観光局「ガイドブック」、「地球の歩き方」(ダイヤモンド社)、「世界遺産」(講談社)、その他各種辞事典等を参照させて頂いたことを付記します。

2010年4月30日金曜日

スリランカに佛跡をたずねて(2002年12月)

1.スリランカとは
 2002年掉尾の旅行はセイロン紀行である。タミル人過激派「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」による20年来の内乱も漸く治まり、観光渡航が出来るようになった。
以前にインドからネパール、チベットを経て中国の敦煌、西安への北伝の大乗仏教の跡を辿ったことはある。今回はスリランカからミャンマー、タイ、カンボジヤへと伝播していった南伝の上座部仏教遺跡探査の第一歩となった。
 セイロンとはサンスクリット名シンハラ・ドヴィーパ(獅子を殺した者の島)をアラビア人がサラン・ディープと呼び、ポルトガル人が更にセイラーンと訛ったもので、異国人の呼び方である。1972年イギリスより独立した際に、自国民が従来から呼び慣れたスリ(光り輝く)ランカ(島)と改称された。
北緯8度付近に位置するこの島は「インド亜大陸の涙」とも評され、九州よりは大きく北海道よりは小さい。人口約2000万人のうちシンハラ人は約74%で殆ど仏教徒、タミル人は約18%で主にヒンドゥー教徒、その他キリスト教徒、イスラム教徒が若干づつである。
 平成14年(2002年)12月5日、添乗員共16人のJTBツァーで小牧空港を飛び立った。キャセイ航空で香港、バンコク経由コロンボ北方のバンダラナーヤカ国際空港に到着したのは同日深夜となった。社会主義国家の例に漏れず空港内は一切撮影禁止である。時差が3時間遅れなので、就寝した午前2時は日本時間なら早朝5時である。

2.アヌラダブラ
 6日は午前8時半出発、文化三角地帯(Cultural triangle)と呼ばれる島の中央部の一角アヌラダブラに向かう。文化三角地帯とはアヌラダブラ、ポロンナルワ、キャンディの三つの旧王都で囲まれた地域である。途中、クルネーガラで立ち寄ったレストランで伝統的盛装の結婚式をしばし参観する事が出来た。思いがけない収穫である。
 アヌラダブラに着いていざ見学という矢先、雨が降り出した。この地域は10~1月が雨季である。乾季に替わる3~4月には激しい雷害もあるという。
 街灯のある石畳を歩いて黄銅宮殿と呼ばれる旧僧院跡を左に見てスリー・マハー菩提樹へ行く。紀元前3世紀、インドのアショカ王の王女サンガミッタがインド・ブッダガヤの菩提樹の分木を此処へ持って来たと伝えられている。地元民は「インドの元木はその後枯れて今は二代目、だからこの菩提樹の方が正統」と胸を張る。樹種にもよるが樹齢2300年にしては楚々とした風情である。
 半円形の敷石ムーンストーンから先の仏教遺跡は仏教徒にとって聖域である。脱帽・脱靴で入らなければならぬ。但し靴下・雨天の雨傘・仏像のみの撮影は許される。初めから脱着の容易なサンダルという手もあるが、雨の日には足拭きタオルが必携である。男女別入口が設けられている所もある。
 次はアヌラダブラ遺跡の中心ルワンウェリサーヤ大塔へ。紀元前2世紀ドゥッタガーマニー王が侵攻してきたタミル軍を撃退してこの塔を建設し始めたという。その王の立像は正門右手にある。大塔の基壇を囲む無数の象のレリーフに先ず目を奪われる。大塔脇には館からはみ出さんばかりに大きな涅槃像が横たえられている。
 続いて典型的なムーンストーンが残る旧王妃殿跡へ行く。欲望の炎を表す外輪から象(生)馬(老)ライオン(病)牛(死)を経て半円の中心・蓮の花(極楽)へたどり着くという人の輪廻を表現したものと言われている。
 やっと雨は小降りになった。僧院沐浴場クッタムポクナを車窓から眺めながらアヌラダブラを象徴する大塔ジェータワナ・ラーマヤ(祇園の意)の前に降り立つ。3世紀マハーナーナ王により建立、現在の高さ70m、古いサンスクリット文字で書かれた経典の金板が発見された事で有名である。目下ユネスコにより大規模な足場を組んで修復作業が進んでいる。
 この日投宿のパームガーデン・ビレッジ・ホテルの裏は広大なバサロックラマ貯水池で、時には象も水浴びに来るという。2500年以上も昔、スリランカ最古の都アヌラダブラでは歴代王朝が灌漑・上下水道の造営に熱心で、1400年の永きに亘って栄えたと言い伝えられている。このホテルのプールもまた広大である。

3.ミヒンタレー
 7日はインド・アショカ王の王子マヒンダが最初にスリランカに仏教を伝えた地ミヒンタレーを訪れる。アヌラダブラの東方10数kmに位置し、地名は王子マヒンダに由来する。
 途中、車窓から古代病院跡を見る。日本でも730年、光明皇后が設置した悲田院に相当か。人形に穿った浴槽に注目する。傷病人をその浴槽で薬湯又は薬水に浸けて治療する、特にコブラなど毒蛇に噛まれた人に卓効ありという。
 僧院規則の彫られた石柱の近くに長大な石桶が据えられている。往時の僧侶たちがバナナの葉を底に敷いて、布施された食物を集め並べて食したという。今では僧衣も布施されるが、原初は葬送の遺体を包んだ布を染めて僧衣にした、と現地ガイドのランリ君は説明する。
 このあたりから登り階段のヘルパーが付きまとう。「No thank you」と断るが一向に離れない。マヒンダ王子の遺骨を祀るというアムバスタレー(マンゴーの木の意)大塔では早々と脱靴して参詣し、背後の岩山に登る。この急坂で先程のヘルパーがここぞとばかりに強引に手を引く。6~7月のポヤ・デーには何千という信者がこの頂上から満月を拝むという。
 上から見ると大塔を囲む石柱群が嘗ての大ドームを想像させる。大塔周囲の首なし仏像は異教徒の仕業か。数人の少年僧に出会った。僧衣の色が違うのは出家年次または僧位を表すものらしい。
 大塔の左奥に白亜の大仏が鎮座している。マヒンダの墓とガイドブックにあるが、新しすぎてちょっと違和感がある。右手のマハー・サーヤ大塔へは時間が無くて登れなかった。見学を終えて件のヘルパーに何がしかのチッブを与えたが、もっともっとと執拗に付きまとうのは聊か迷惑である。
 昼食は緑に囲まれたホテルの食堂で10種類ほどの野菜カレーである。ここでは南瓜、パイナップル、バナナの花も夫々立派にカレーの具である。ガイドの説明に従って右手指でつまんで食べて見た。

4.ポロンナルワ
 午後は10世紀末(一説には8世紀末とも)南インドの侵攻軍にアヌラダブラを追われたシンハラ王朝が12世紀まで首都としたポロンナルワの見学である。まずパラークラマ・バーフ1世の宮殿跡を見る。煉瓦造りで、もとは7階建てだったというが現在は3階までの壁しか残っていない。壁の厚さは3mもあり中々堅固である。
 左前方の閣議場跡の石柱には各大臣の名が刻まれ、着席位置が決まっていたという。また近くに形の整ったマーラ王子の沐浴場跡もある。
 仏教遺跡群の中に唯一つシヴァ・デェーワーラヤNo1と称されるヒンドゥー教寺院がある。ちょっと奇異な感があるが、正面奧にはれっきとしたリンガがでんと納まっている。さすがに場所はクォードラングル(Quadrangle 城壁に囲まれた四辺形の中庭)の外側である。



5. クォードラングルのなか
 クォードラングルに入って直ぐのトゥーパーラーマはドラヴィダ式長方形の重厚な仏堂である。内部の仏像は損壊甚だしいとのことで外観を見るに止めた。続いて菩提樹寺跡、ラター・マンダパヤは蓮の蕾を載せた茎型の8本の石柱群、涅槃像跡の石壇、11世紀に建てられた仏歯寺跡アタダーゲ(8つの遺宝の家の意)を見学する。
 なかでも中心にあるワタダーゲは壮麗である。円形の仏塔の四方に入口があり、夫々ムーンストーンとガードストーンがある。特に北口のものが整っている。ガードストーンは悪魔の進入を防ぎ、中の本尊を守る役目を負う。ここのムーンストーンはヒンドゥー教の影響か、死を表す牡牛の図が省かれている。私が四方の仏像に丁重に詣でるのを見て、地元の信者が線香を提供してくれた。ワタダーゲの傍の小さな仏像は風雨に曝されて侘しげに立っている。
 向い側には12世紀ニッサンカ・マーラ王によって建てられた佛歯寺跡。王朝盛時には歴代王が夫々佛歯寺を建てたという。その東側に石の本ガルポタがある。長さ9m、幅1.5mの長大な石にマーラ王が当時の世情を刻ませたものである。北東隅にはタイの建築家が建てたというサトゥマハル・プラサーダが7階建ての偉容を誇っている、但し用途は定かでない。ポロンナルワが全盛時には上座部仏教の聖地としてタイ、ビルマからも多数の僧侶たちがこの地を訪れたという。

6. 上座部仏教と大乗仏教
 上座部仏教とは「出家・修行して上座に位置する僧侶が仏に済度され(救われ)、在家の一般衆生はこれら僧侶たちに布施・功徳をつんだ者のみが、その小さな乗り物(例えば船)に乗せてもらって救われる。」と説く。
 これに対し、北伝の大乗仏教は「信ずるものは皆、大きな乗り物に乗せて済度される」と教え、南伝の上座部仏教を小乗仏教と批判した。現地ガイドのランリ君が「ヒンドゥー教は最古の宗教だが、仏教は哲学。」と呟いたのが妙に印象に残る。

7.ガル・ヴィハーラへ
 一旦バスに戻りランコトゥ・ヴィハーラ(金の尖塔の意)へ行く。この大塔は12世紀マーラ王が建てた当時、上部の尖塔は総て金で覆われていたという。その北には13世紀バラークラマ・バーフ3世が建立した巨大な仏堂ランカティラカがある。高さ17.5m、屋根は無く、奧正面にはスリランカ最大の佛像が立っている。これも異教徒が損壊したのか、頭部が無い。
 尚も北に歩を進めるとポロンナルワのメイン・イベント(?) ガル・ヴィハーラがある。高さ4.6mの凛とした坐像、アーナンダとの説もある高さ7mの立像、全長14m、左右の足のずれでそれと判る釈迦涅槃像。なだらかな曲線、安らかな表情の仏陀の前で記念写真を撮りたい衝動に駆られるが、勿論撮影禁止、監視員が見つけ次第フィルム没収と警告される。そういえば「つくば博」のスリランカ館でこの実寸大の模像を見た記憶がある。

8.シギリヤの悲劇
 8日、シギリヤ・ビレッジ・ホテルの食堂からはシギリヤ・ロックがプール越しに真正面である。5世紀後半、下賎の妾腹から生まれた長男王子カーシャバが父王を廃して、強引に王座に就いたものの、正妻から生まれた弟王子の復讐を恐れて、高さ195mの切り立った岩山の上に王宮を築いた。敵襲に備えて内濠には鰐を放ち、断崖の上には投石用の岩石を蓄える堅固な城塞とした。しかし11年後、弟軍の兵糧攻めであえなく陥落、王は自ら命を絶ったという悲劇の遺跡である。
 もともとここは仏教僧たちの修験場で岩場の説経場や礼拝堂があり、カーシャバ王亡き後は僧侶たちの手に戻された。水の管理運用はなかなか巧みで上下水道、大貯水池から噴水まで設けられている。

9.シギリヤ・レディーの壁画
 何といってもここを一躍有名にしたのは、1875年発見された岩壁のフレスコ画シギリヤ・レディーであろう。鏡の回廊から壁画までは急な螺旋階段を登らねばならぬ。18人の美女のうち12人までは撮影する事が出来た。殺害した父王の霊を鎮めるためカーシャバが描かせたともいわれている。前述・鏡の回廊の表面は今でも滑らかで、かすかに人影を映す。彫られたシンハラ文字による詩文は、シンハラ語研究の重要な資料となった。

10.シギリヤ・ロック
 岩山頂上へは「ライオンの入口」から入る。シギリヤはシンハラ語でシンハ(ライオン)ギリヤ(喉)から来ている。「マーライオン」がシンボルの「シンガポール」のシンガも語源はライオンだとガイドは言う。岩肌にへばりつくように架設された鉄製の階段は昇降別に狭く、約60度の急角度である。麓から尾いて来たヘルパーがここを先途と手を引き、尻を押す。途中、大きな蜂の巣を横目に見ながら安穏を祈って、息を弾ませながらひたすら登る。頂上は1.6haと意外に広く、360度のパノラマは素晴らしい。颯颯たる微風も頬に心地よい。王宮、兵舎、ダンスステージの跡、大きな貯水場、今も石の玉座がある展望台など、しばし栄枯の昔を偲んでみる。
 復路は途中から別れて旧会議室、礼拝堂、コブラ岩へと降ってくる。この辺りにも僅かながら退色した壁画が認められる。
 ダンブッラへの途中、バティック工房に立ち寄る。暗い所での細かい「ろうけつ」作業はちょっと気の毒である。新しい寺院の前を通ったが、金色の仏像がぴかぴか過ぎて新興宗教の祠のようである。

11.ダンブッラ
 ダンブッラの石窟寺院は紀元前1世紀に、高さ180m程の岩山(ランギリ山、黄金色に輝く山の意)の洞窟に造り始められた。自然の洞窟を利用して第一窟から第五窟まで次々に多数の仏像が彫られ、壁画が描かれたものである。
 バスを降りて寺院まではかなりの坂道である、しかしシギリヤ程ではない。道の傍らではコブラ使いが笛を吹いて蛇籠の蓋を開け、参詣人の気を引く。
 第一窟デーワラージャ・ヴィハーラ(神々の王の寺)は、ここでは最古の寺院、全長14mと最大の涅槃佛が自然石から彫り出されている。かなり、くすんではいるが全身は黄金色で足裏だけが赤く、花模様が描かれている。これはスリランカ涅槃佛の特徴とか。
 第二窟マハーラージャ・ヴィハーラ(偉大な王:この寺の創始者ドゥッタガーマニー王:の寺)はダンブッラ最大の洞窟で、幅約52m、奥行き25mに及ぶ。洞内56体の仏像もさることながら壁・天井一面に描かれた壁画が圧巻である。仏陀の生涯やシンハラ人対タミル人との争いなどスリランカの歴史がびっしりと描き込まれている。画面が意外に鮮やかなのは、香煙で煤けたのを度々修復したからだという。しかし必ずしも原画に忠実に描き直したのではないそうである。洞内奧では天井から岩清水が滴り落ち、聖水とされている。ダンブッラとは「水の湧き出る岩」の意である。
 第三窟マハー・アルト・ヴィハーラ(偉大な新しい寺)は18世紀に造られた窟で、全長9m、両足を揃えた寝佛と56体の仏像がある。第四窟バスシーマ・ヴィハーラ(西の寺)は19世紀キャンディ王朝末期に造られたもので、比較的手狭な上、仏像も新しい。
 第五窟は1915年に造られたもので坐像の頭上に光背のようにコブラが覆い被さっているのが怪異に見える。雨は降ったり止んだりだったが、窟から窟へは立派な回廊が連なっているので大助かりである。
カレーの昼食の後はスパイス・ガーデンに立ち寄る。香辛料のほか漢方薬まがいの軟膏、香油のマッサージ付き実演販売でひととき賑わった。

12. キャンディアン・ダンス
 キャンディの宿はマハウェリ川沿いで、セミ・リゾート・ムードのマハウェリ・リーチ・ホテルである。7時開演のキャンディアン・ダンスを鑑賞するべく、キャンディ湖に近い芸術協会へ急ぐ。このダンスは正式にはウダ・ラタ・ナトゥムといって、高地の神に捧げる儀式だったという。
 まず最初、激しい太鼓の連打で幕が開く。続いて仏陀に祈りを捧げる女性たちの舞。次はシンハラ戦士を表す男性のバック転の踊り。コブラを飼い慣らす仕草。悪霊払いの大仮面の踊り。勝利を祈る孔雀の舞の青い衣装は美しい。
 王の衣装とされるビーズ玉のチョッキ、耳輪、首輪、手首足首の鈴輪をジャラジャラ振り鳴らしながら踊るヴェ・ダンサーは聖者とされている。インドの踊りに似てはいるが、首や手指の動きはいくらか地味である。
 最後は悪魔を追い払う火踊りと、燃え盛る炭火の上を歩く火渡りの儀式でお開きとなる。約1時間のショーである。隣席の千葉から来たというカップルは新婚旅行で「明日はリゾート地・ニゴンボへ行く」という。内戦続きのスリランカに、漸く平和が戻って来たからこそのツーリストである。

13. キャンディの仏歯寺
 9日は仏歯の部屋が開扉される午前10時前に仏歯寺に着く。前庭には4世紀、頭髪に隠して仏陀の歯をスリランカに持ってきたインドのカリンガの王子の像や、王朝滅亡に際し、慫慂として死に就いた勇敢な王子の像がある。16世紀始めポルトガル人が、17世紀にはオランダ人が侵攻し、これを追い払うべく援軍を頼んだイギリスに、1815年キャンディ王朝は結局滅ぼされてしまった。
 正面茶色の屋根の八角堂はシンハラ様式の建物で、今は貴重な写本を蔵する図書館になっている。脱靴して17世紀建築の古い建物の前を通り、仏歯を祀る本殿へ進む。10時の開扉を今や遅しと、敬虔な信者たちが蓮の花を供えて待っている。突然けたたましい太鼓とラッパの伴奏で読経が始まる。チベットのラマ教のような雰囲気でもある。行列に従って、金の小箱に収められた仏歯にお布施を供えながら、極く眼近かに拝む事が出来た。
 こうして見てくると、スリランカの仏教伝播の跡を辿る旅は、仏歯を奉じてアヌラダブラからキャンディまで転々と王都を移して滅んだ、シンハラ王朝の盛衰をなぞる旅でもあった。王権を象徴する仏歯は日本の「三種の神器」に相当するのかも知れない。
 このあと鐘楼、ペラヘラ祭りの仏歯奉安台、透明石の仏像、図書館などを見学して寺院を出る。今日も雨降りの中「記念撮影は如何 ? 」と象が一匹、勿論有料である。

14. ペーラーデニヤ植物園
 次はバスでペーラーデニヤ植物園へ行く。もとは14世紀、王妃のために造られた庭園で広大・多種なことはスリランカ第一である。
 各種熱帯植物が多いのは当然だが、ミャンマーから持ってきた世界最大の竹、熟すまで5年もかかるという世界一大きいココナッツをつける双子椰子、象の足のような大木、スリランカの島の形をした池、アキヒト皇太子(現天皇)の記念植樹、一本で1800平方メートルを覆う「この木何の木・・・」ビンロー樹の下で出会った現地の女学生たちが印象深い。
 再びキャンディ駅前の雑踏をすり抜けて、レイク・ビュー・ポイントのレストランで中華料理の昼食である。人造のキャンディ湖越しに仏歯寺や市街地が眼下である。初めて食べた炒めパイナップルが意外に美味しかった。

15. 現地ガイド・ランリ君
 午後はセイロン紅茶の本場ヌワラ・エリヤへ。途中、スリランカ最古、最高のペーラーデニヤ大学脇を通る。4000人の学生、10 平方kmの広いキャンパス内には鉄道駅まで有るという。スリランカでは10年間の義務教育は総て無料、大学の年間授業料も800円位。但し入学試験に合格しても、大学の収容能力が小さい為1.8 % 位しか入学出来ないという。現地ガイド・ランリ君も入試には合格したが、諦めて観光ガイド専門学校に進んだとのことである。彼のネイティブは勿論シンハラ語だが、日本語・英語・フランス語を能くし、歴史・地理・生物に関しても造詣が深いようである。

16. 日本とスリランカとの関係
 日本とスリランカとの関係についてランリ君は言う。
「太平洋戦争初期、英国軍港のあるセイロン島のトリンコマリーが日本軍によって攻撃された。従ってセイロンは賠償請求権があるが仏教の教えに則って、仏教国・日本に対し敢えてこれを放棄した。その後、日本は米国と並んで最大の経済援助国になってくれた。」
 それに対し私、「昭和21(1946)年から始まった極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)でインド選出(セイロン出身)のパル判事が “ 嘗て植民地侵略をした英・米・蘭の諸国に、果たして侵略を裁く裁判権が有るのか ? 争いの勝者が敗者を裁くのは私刑ではないか ? “と唯一人、正論を吐いて英米側を制したが、オーストラリヤ出身のウェブ裁判長が一切黙殺してしまった。当時の日本の為政者はこの発言を大いに多としている。」
 そういうことをランリ君の認識に加えておいて欲しい、と話した。隣で聞いていた元海軍軍医(斎藤さん)も「正にその通り」と言葉を添えてくれた。

17.セイロン紅茶
 追々山道に差し掛かる程に、紅茶畑、谷川、滝を左右に眺めながら、いつしか気温も下がって来たようである。ジグザグの坂道を駆け抜ける花売り少年を見て、ペルー・マチュピチュのグッドバイ・ボーイを思い出す。
 かなり山に分け入ったところでラブーケリー・ティー・センターがある。製茶工程の説明を聞きながら工場見学。折りしも12月、サンタの居るサロンで紅茶を試飲して、直売カウンターへどっと押し寄せる。工場推奨のOP( Orange Pekoe オレンジ・ペコー)や BOP( Broken Orange Pekoe ブロークン・オレンジ・ペコー)に人気が集中する。

18. ヌワラ・エリヤ
 尚も坂道を登りつづけると、急に英国風の町並みに出る。ヌワラ・エリヤ(光溢れる町の意)である。スリランカらしからぬ涼気を求めて、新婚旅行の好適地とされている。 1828年植民地時代に建てられたというピンク色の郵便局がひときわ目を惹く。
 今夜泊まるザ・グランド・ホテルも内装・外観とも全くの英国調で、直ぐ裏はゴルフ場である。植民地時代は英国人の格好の避暑地だったのであろう。瞥見した此処のバーは如何にも正統的で、スーツ、ネクタイ着用が建前らしい。北隣りのヒルクラブ・ホテルには頑なに正装を楽しむ人達が多く出入りするという。
 夕食は折角重厚なダイニング・ルームでエトランゼ気分を楽しんでいるのに、数人の楽士が傍で盛んに日本の歌を演奏してくれるのは少々艶消しである。食後のショッピング・モールではサリーやブラウスなどシルクの店が婦人客で一頻りさんざめく。
 10日、キャンディへの帰路、目に付いたことを二つ三つ。平野部では幹・葉・実・殻とも全部有用な椰子林の所有者は富者とされている。しかしこの辺りの山地では椰子の木をついぞ見かけることは無く、山肌は総て紅茶畑で覆われている。スリランカの食料自給率は未だに50 % そこそこだと聞くが、このいびつ歪な農業構成も植民地政策のなせる業なのだろうか。山間に点々と見えるのは茶摘人の粗末な長屋である。殆どはインドの紅茶産地から連れてきたタミル人で、月収は800円位という。
 日本の熊谷組がODAで道路改修工事に携わっている。寄付されたのか「成田山幼稚園」の掲示板を見た。また三井セメントの看板をしばしば見かけた。

19. 象の孤児園
 キャンディの近くに象の孤児園がある。13時からが授乳の時間というので、昼食もそこそこに授乳場へ急ぐ。小象といえども大きな哺乳瓶を一気に飲み干してしまう。授乳体験にはチップが要る。成象は長い鼻で椰子の葉などをバシバシと口に入れる。飼育係は「記念写真をどうぞ」と手招きするがこれも要チップ。
 象たちの食事が終わると前の川へ水浴びに行く。50頭程の象がのっしのっしと、小象は小走りにレストラン前の「道や狭し」と行進する様は壮観である。最後に一頭、足の不自由な象が遅れまいとびっこを引きながら駈けて行くのは痛ましい。
 川では飼育係りがエスケープを警戒しながら象に水を掛ける。自分の鼻で水を吹きかける象、気持ち良さそうに川床に蹲る象、母像に寄り添って水浴びをする小象など色々である。

20.コロンボ市街
 このあとは一路コロンボへ。夕方の交通渋滞とも重なり、露天・バザールの多いペタ地区、官庁・ビジネス街のフォート地区とも車窓観光となった。小さい町でも結構目に付いたがコロンボの街ではスリー・ウィーラーというミニ・オート三輪タクシーが矢鱈に多い。  南国とはいえ街のデパート、大きな商店、街角のロータリーには電飾のクリスマス・トゥリーが煌く。海岸通りでは、特に時化ている訳ではないが、インド洋の荒波が砂浜にどどっと打ち寄せる。今でも街の要所要所には掩堤で囲んだ軍の監視哨が築かれていて、内乱の余韻を窺わせる。
 夕食は久し振りに和食レストランで煮魚定食である。経営者は関西の人らしく、フライ以外は純日本の味であった。
 スーパー・マーケットでお土産を買い足して、屋根続きのホテルに帰るとロビーで数人のアンサンブルがクラシック音楽を演奏している。さすがコロンボは首都と思いきや、1984年、行政上の首都は10km余東南方のスリー・ジャヤワルダナプラに移転していた。しかし、そこは湖の中央の小島に巨大な国会議事堂が有るだけという。従ってヒルトン・ホテルから見えていた広壮な建物は旧国会議事堂であった。

 帰途のフライトは深夜の2時50分発である。ホテルでゆっくり入浴・休憩の後、空港へ。
 キャセイ航空でバンコック、香港経由11日午後9時、予定通り小牧空港に着陸した。往復とも香港空港で夫々4~5時間の待ち時間は、エコノミー症候群回避にはなるが、少々退屈である。