2010年4月7日水曜日

スペイン見聞抄(2002年2月)

1. ガウディの街 バルセロナ
 1月26日スペインの旅はバルセロナから始まった。首都マドリッドに次ぐスペイン第二の都市バルセロナは1992年オリンピック開催で世界の注目を集めた。一方芸術の分野では19世紀末に起った「モデルニスモ」(近代主義)という芸術運動により、ガウディ、ビカソ、ダリ、ミロなど特異なアーチストが輩出している。

 まずグラシア通りのカサ・ミラ(ミラ邸)前を通りグエル公園に行く。未来指向の住宅地を目指したが完成は2棟のみで、あとは公園になった。1棟は医者が、もう1棟はガウディ自身が住み、現在はガウディ博物館になっている。直線よりもグニュグニュした曲線を多く採り入れた建築物はむしろ異様でさえある。

 続いてサグラダ・ファミリア(聖家族)聖堂を訪れる。1882年着工以来延々と建築中で、完成は200年後とも言われている。1883年ガウディが担当して以来、1926年交通事故で亡くなるまでの44年間建設に精励したという。

 現在引き継いでいる建築家の一人は日本人である。その手になる「ご誕生の門」の母子像は心なしか日本人的容貌である。反対側入口脇には縦・横・斜め何れも合計が33になる数字表がある。

2. 西回り大航海 コロンブス
 オリンピック・スタジアムのあるモンジュイックの丘に登る。バルセロナの市街と港が一望の下である。眼下に目を凝らすとランブラス通りの南端で、港に近いロータリーにコロンブスの塔が見える。1888年にバルセロナ万博を記念して建てられたものである。

 しかし1492年イタリアの探検家コロンブスがスペイン女王イサベル1世の援助の下、新大陸発見の航海に船出したのはスペイン南西部のパロス港であつて、バルセロナではない。その後スペインは西回りで中南米を簒奪し、遠くフィリピンにまで達している。ともあれオリンピックの年にはコロンブス500年祭も合わせ開催されている。

 バレンシアへの途中、江ノ島のように地中海に突き出た岩山の城塞の町ペニスコラを、ベニカルロの海岸から海越しに眺める。

 3月19日深夜、巨大なファリヤ(張子人形)が次々に炎に包まれるバレンシアの火祭りはオレンジと共に有名である。

3. ドン・キホーテの幻想 ラ・マンチャ
 27日は西進してドン・キホーテの舞台ラ・マンチャ地方に向かう。内陸の高地に入ると俄かに霧に包まれ、自動車はのろのろ運転を余儀なくされる。世界遺産にも指定されたサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道では、ピレネー越えの濃霧で道を見失い、行き倒れる巡礼者が続出したというが、それもう頷かれる。なにしろ突然の濃霧である。

 ドン・キホーテが巨人ブリアレオと見間違えて突進した風車は霧の中。風車の村カンポ・デ・クリプターナも霧に霞んで益々幻想を掻き立てる。セルバンテスが度々泊まったというプエルト・ラピセ村の旅籠で昼食を執る。ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサのおどけた銅像があちこちに建っていて、ついつい虚構の中世に引き込まれる。

4. 情熱のフラメンコ グラナダ
 グラナダに到着の夜はフラメンコのディナー・ショウである。タブラオと呼ばれる洞窟風のフラメンコ酒場もあるが、今回は「サラ・アルハンブラ」というレストラン・シァターである。

 会場へは一番乗りだったので最前列に陣取った。ディナーのあと10時過ぎに漸く開演。トーケ(ギタリスト)、カンテ(歌い手)、バイラオーラ(踊り手)がフラメンコ特有のリズムに乗って、ぴったり息の合ったパフォーマンスが展開される。

 数種類のリズムパターンがあるが”33222”の12拍子が代表的という。歌はアンダルシア地方の歌をジプシー風にアレンジしたというが、どこかインド・アラブ的旋律も交じっているようで共感を覚える。踊りは6人の踊り手が一人ずつ踊っては自席に戻るクワドロ形式で始まる。自席ではパルマ(手拍子)で同僚の踊りを盛り立てる。思いなしか掌指が大きく、踊りのブラセオ(腕の動き)を一層魅力的に強調する
。最前列で見たせいか、強烈なリズムを生み出すサバテアード(足の動き)を存分に堪能することが出来た。

 終盤フィグラで登場する真打ダンサー男女の真摯なデュエットは圧巻である。全員が額に汗し、胸弾ませてのフィナーレで最高潮のうちに終演した。午後11時半。

5. アルハンブラ宮殿と ジプシー
 1354年イスラム文明の粋を集めて完成したアルハンブラ宮殿は最盛時2000人を超える人が住む宮廷都市であった。砂漠から来たアラブの王は水を非常に珍重した。アラヤネスの中庭では、水を満々と湛えた池に映えるコマレスの塔に各国大使を迎えたという。

 噴水を備えたライオンの中庭に面して東に王の間、南にハーレムがある。北側の二姉妹の間の天井の鍾乳石飾りは、グエル公園のガウディの作品に通ずるものがあるように思う。
カルロス5世宮殿は資金難から屋根が未完成である。同じく屋根が無いポルトガルのバターリアの礼拝堂をふと思い出した。

 城外、ナスル朝の離宮ヘネラリフェは修築中のため、代表的なスペイン・イスラム庭園「アセキアの中庭」を見ることは出来なかった。

 宮殿への途次、通り過ぎたサクロモンテの丘にはクエバと呼ばれるジプシーの洞窟住居がある。

 言い伝えによれば千年程前、異民族の侵略に追われてインド西北部ラジャスタン地方より脱出した部族が各地を放浪の末、ルーマニアをはじめヨーロッパ各地に流れ着いた。しかし生来の放浪癖と地元民の排斥のため、なかなか定住出来なかった。

 レコンキスタ(キリスト教徒による、イスラムからの国土回復運動)の頃、イサベル女王がアラブの王ボアプディルを追放する際、協力した功によりジプシーの一群は許されてこの丘の洞窟に住みついた。未だに放浪を続ける人々がいる一方、定住してオリーブ、オレンジの収穫に従事する者も多いとのことである。またフラメンコで見初められて、グラナダ市長夫人に納まったジプシーダンサーもいたという。

 地元民はエジプトから来た人「イジプシアン」(Egyptian エジプト人)と呼んだのが訛って「ジプシー」になったらしい。しかし彼等はこれを嫌って自身を「ロマ」と称している。「ロマ」とは彼らの言葉ロマ語で”人間”を意味する。

6. イスラムとカトリックの鬩ぎあい コルドバ
 ヨーロッパが「暗黒の中世」の頃、コルドバではイスラム文化全盛を誇っていた。その象徴 メスキータ(Mezquita スペイン語でモスクの意)は785年建設が始められ、その後三度の拡張で175m x 135m, 25.000人を収容する巨大モスクとなつた。堂内東奧にはイスラムの聖地メッカを指向するミーラブと呼ぶ聖所がある。

 レコンキスタののち、カトリツクのカテドラルに大改造されたが、前記ミーラブや赤白のアーチなどはそのまま残され、イスラムとの混交が随所に見られる。もとは白い石と赤煉瓦を交互に組み合わせて構成したアーチであるが、後期拡張では全部白い石で構築し、縞模様は後で赤く塗装したという。

 イスラムに経済協力したユダヤ人もレコンキスタで追放されたが、今に残るユダヤ人街の「花の小道」の路地から見えるメスキータのたたずまいは、鬩ぎあいの昔を忘れさせる。

7. グレコの後半生 トレド
 29日は一気に北上して、街全体が世界遺産のトレドを訪ねる。タホ川越しに見るトレドの全景はまるで中世都市のシネラマである。偉大な建物の双璧、カテドラルとアルカサルは時間の関係で外観と遠望に止まった。

 「グレコの家へ」の標識を横目にサント・トメ教会に急ぐ。閉館時刻が近い。ここにはグレコ中期の代表作「オルガス伯爵の埋葬」がある。オルガス伯はこの教会の創立者である。

 エル・グレコとはスペイン語で”一人のギリシァ人”の意。1541年クレタ島で出生、本名はドメニコス・キリアコス・テオトコプーロスという。1575年から没する1614年までの40年間をトレドで過ごした。

8. マドリッドといえば プラド美術館
 人口300万余人を抱えるスペインの首都だから、いろいろな観光名所があるがマドリッドといえば、さしずめプラド美術館が最大の観光ポイントだろう。スペイン王室のコレクションを中心にベラスケス、ゴヤ、グレコなど珠玉のスペイン絵画を誇るヨーロッパ屈指の美術館である。

 30日は先ず同館に直行する。フラッシュカメラやビデオは禁止、フラッシュレスなら撮影自由。しかし同時開催されていた「ゴヤ展」会場だけは何故か一切撮影禁止であった。限られた時間にいわゆる名画だけはと鑑賞・撮影に没頭した。

 現地ガイドによる「絵画」に関するエピソードや解説のいくつかを次に記す。
ベラスケス「マルガリータ王女」・・・ドレスを特に絢爛豪華に描いたのは王女の「斜視」から観る者の目を逸らす為だったという。

 ゴヤ「カルロス4世とその家族」・・・画面中央のマリア・ルイーサ王妃は実は歯抜け婆さんであった。口元を良く見ればそれとわかる程度に、宮廷お抱え画家のゴヤは描写に苦心したことであろう。

 ゴヤ「裸のマハ」・・・マハはMajaのスペイン語読み。カルロス4世は日頃これを架けて楽しんだが、来客のときは「着衣のマハ」に架け替えた。とガイドは解説するが ?

 グレコ「羊飼いの礼拝」・・・手指が長く、殆んど12等身にデフォルメされている。その後のベラスケス「褐色と銀のフェリペ4世」にもその傾向が見られる。

 その他カンバスの都合で馬身が寸詰まりの騎馬像や、分断された絵を額縁付きのように復元したグレコの作品などが目を惹く。1階を探し回ってヒエロニムス・ボッスの奇画「快楽の園」も観ることが出来た。これはプラド美術館の至宝といわれている。

9. 観光客はご用心 スペイン広場
 スペイン広場ではセルバンテス、ドン・キホーテの銅像前でそそくさと写真を撮っただけである。あとで気が付いたが、私達のグループの周りをうろついている色黒の男を近付けまいと、現地ガイドが牽制していた。

 物乞い風に近寄ってきて、強盗に豹変する者も居るらしい。子供連れのジプシー窃盗団も居るようだが、スペインではモロッコなどから職を求めて、密入国してきたものの食い詰めた挙句、強盗を働く北アフリカ人が多いという。最峡部15Kmのジブラルタル海峡は漁船でも密航可能とか。

10. ローマ人の水道橋とお伽の城 セゴビア
 マドリッドの北西95Kmのセゴビアにはローマ人の遺跡、水道橋がある。全長728m、最高29m、二段アーチの水道橋はスペイン最大、世界遺産にも指定されている。推定で紀元100年頃、表面に穿った小穴のみを識別して一切の接合材を用いず、ただ積み上げただけでこれだけ壮大なものを構築するとは、大した石造技術である。

 貴婦人と評されるゴシック式カテドラル前を通ってアルカサル(城)を訪れる。これは13世紀初めエレスマ川とクラモレス川との合流点に築かれた戦略的要塞である。

 ディズニーの「白雪姫」のお城のモデルということでメルヘンチックに観られがちだが、牢獄として使われたこともあり、炎上、再建の憂き目も見ている。城内の軍事博物館には中世の武器・甲冑が展示されている。

11. オレンジ・オリーブ・ひまわり そして闘牛
 これは今回、バス沿線の移り変わりである。バルセロナから地中海沿いに南下したときはオレンジ畑がよく目に付いた。バレンシア・オレンジはブランドとしても有名である。

 続いて多いのがオリーブ畑である。この国は石灰岩の地質らしく大樹の森林が少ない。従って丘の上までオリーブの樹が植えられている。山上までの段々畑を評して「耕して天に至る」と言われるが、ここでは正に「植して天に至る」である。収穫の時には膨大な人手が要ることであろう。よく見ると樹間は石ころだらけである。昼夜の地温を平準化するため態々砕石を敷き詰めているという。

 オレンジは大生産地らしく廉かったが、オリーブの一番絞り「バージン・オイル」は意外に高かった。コルドバから北上するに従い、ひまわり畑が増えてくる。花が満開の頃はさぞかし壮観であろう。
尚、北上してマドリツドからセゴビアに向かう沿線は広闊な牧草地である。闘牛用の牛もこのあたりで飼育されているという。
 闘牛で勇敢に戦った牛も、倒された後は筋張った肉質のため安値で処分されてしまう。地方の町でも結構、闘牛場が目に付いた。古代ギリシァの小都市でも円形劇場があったように、必須のエンターテイメントなのであろう。

12. カスティーリャ、カタルーニャ、アンダルシアと ポルトガル
 一般にスペイン語と呼ばれているものはマドリツドを中心とするカスティーリャ語である。フランスに近いカタルーニャ地方ではフランス語の影響を受けたカタルーニャ語が用いられ、これも公用語として認められている。

 旅行者に必要ないくつかを対比してみよう。
   日本語     スペイン語(カスティーリャ語)  カタルーニャ語
  男性 / 女性    caballeros / damas homes / dones
  トイレ       servicio servei
   水        agua aigua
   出口       salida sortida
  開店 / 閉店    abierto / carrado obert / tancat
 (ドアを)引く/ 押す  tirar / empujar tireu / empenyeu

 長年イスラムの勢力下にあったスペインではアラブ系の言葉が入って来ている。Alで始まる言葉、特に名詞が多い。アンダルシア地方でその傾向が強いようである。

 ポルトガル語はスペイン語と同類だと言われるが、スペインからみればポルトガル地方の一方言と見なすのであろうか。 

31日払暁、マドリツド・バラハス空港から機上の人となる。短い期間ではあつたが、
グラシアス(Graciasありがとう)スペイン、 アディオス(Adiosさようなら)スペイン語。

初冬の熊野古道を歩く(2001年12月)

一、熊野詣でとは  
 京から遠く離れた熊野は黄泉の聖地として古くから畏敬されていた。熊野の「熊は隈に通ず」として、中央に対する僻遠、陽・顕に対する陰・蜜の意味が込められている。特に熊野三山は死者の霊魂が鎮まる霊地として平安の昔より、貴賎男女を問わず尊崇されていた。後白河上皇は年2回、通算34回も供奉数百人を従えて熊野御幸をしたという。
    
 京・大阪(天満橋付近が起点)よりは主に紀伊路(熊野街道)、田辺から中辺路を経て熊野本宮に至る経路である。その道中には熊野(ユヤとも読む)権現の御子神を祀る九十九王子社があり、時には歌合をしながら巡拝して熊野詣でをした。田辺から更に熊野灘沿いの大辺路、高野山から高野聖も通ったであろう小辺路、吉野からは大峯修験者の奧駈道(大峯道)もある。

 江戸時代に入ると伊勢参宮のあと伊勢路(東熊野街道)からの熊野参詣が盛んになり、那智大社に隣接する青岸渡寺を第一番札所とする西国三十三箇所の巡礼が流行した。引きも切らぬ巡礼者の行列を指して「蟻の熊野詣で」と評されるほど当時は賑わった。

 熊野三山とは熊野夫須美神(別称イザナミノミコト)を主神とする那智、速玉神を祀る速玉、家津御子神(実はスサノオノミコト)を中心に祀る本宮の三大社をいう。本地垂迹では夫々の神を観音佛、薬師佛、阿弥陀仏の化身として三所権現ともいう。修験僧等が勢力を広げたときは仏教色の濃い寺社と見なされた時期もあった。

二、伊勢路
 こういう古道を歩いてみたいと思っていたところ「熊野古道・大門坂と熊野詣でのクライマックス中辺路を歩く」一泊二日の旅の広告が目に付いた。早速申し込み12月4日朝7時半、三重交通のバスで名古屋駅西より出発した。男9人、女13人(内夫婦4組)と添乗員(中村和美さん)の総勢23人で、殆んど山歩きの常連らしい。伊勢自動車道安濃SA、国道42号線尾鷲、七里御浜、那智で小休止を執りながら那智大社へ。
 途中ツヅラト峠(九十九折り峠の意)近くの荷坂峠からは急に視界が開けて紀伊長島町から熊野灘が見晴らせる。巡礼者たちはこれを補陀落の海(南海にある観音浄土)として大いに感動したという。

熊野市では鬼が城、獅子岩を経て花の窟神社前を通過する。この神社は高さ70メートルの巨岩をご神体とする日本最古の神社とされ、火霊神カグツチを生んだときの大火傷で亡くなったイザナミノミコトの御陵といわれている。

 この間42号線から熊野古道伊勢路の難所始神峠・馬越峠・八鬼山峠・松本峠に向かう道標が目に付く。名古屋から既に4時間、持参の弁当は車中で執る。新宮市の速玉大社には今回は立ち寄らず、不老不死の仙薬を求めて秦より渡来した「徐福」の記念公園を左にして那智勝浦町に入る。

 那智浜の潮垢離場、浜の王子の隣は補陀落山寺である。ここには観音浄土を求めて、この浜から南海へ補陀落渡海(一種の入水往生、即身成仏)した僧侶・修験者の墓がある。

三、大門坂から那智大社
 いよいよ那智大社の入口、大門坂に到着。宿場跡、関所跡、下馬石碑に続いて大門茶屋がある。ここでは熊野詣での平安衣装を貸してくれる、撮影1000円、散策2000円。

 振ヶ瀬橋を渡ると樹齢800年の夫婦杉が古道の両側に亭亭と聳えている。20段ほど石段を登ると中辺路最後の王子社たぶき多富気王子跡がある。神仏への「手向け」が訛ったものといわれる。約600メートルに及ぶ石段の坂道は古道の面影を最も美しく残しているとして「日本の道百選」にも選ばれ、写真撮影には最適である。十一文関跡からは那智の大滝が望見出来る。あと120段ほど登ったところが大門跡の広場である。

 土産物屋で無料の杖を借りて那智大社の長い石段を登る。登り疲れたころ「那智山熊野権現」の額を掲げた赤い鳥居に辿りつく。右は西国三十三箇所一番札所の青岸渡寺である。左の石段を更に登ると熊野三山のうちで昔の姿を最も残しているという那智大社の朱塗りの社殿がある。右奧の門から隣の青岸渡寺へ続く。本尊は勿論、観音様である。

 裏山からは熊野本宮に通じる最大の難所、大雲取越えが始まる。途中から折れて妙法山阿弥陀寺(女人高野)へも行ける。

 朱い三重の塔の奥に見える那智の滝は誠に壮観である。だらだら坂を降りて滝をご神体とする飛滝神社に行く。133メートルの直落差は日本一、鳥居越しに仰ぐ大滝はさすがに神々しい。

 参拝を終り再び那智浜から新宮市に戻り、熊野川右岸を遡って今夜の宿「湯の峯荘」に到着する。熊野詣での湯垢離場として知られ、我が国最古の温泉といわれる。淡い硫黄泉で湯ノ花の化石佛の胸から温泉が湧いたというので元は湯の胸温泉と呼んだ。毒酒を盛られた小栗判官が湯治したという壺湯へは、宿からは離れていて行けなかった。

四、中辺路
 明けて5日は熊野古道のクライマックス中辺路である。朝霧立ち込める「湯の峯荘」を後に熊野本宮大社前へ。此処で本宮町の元産業観光課長だった語り部佐古さんが同乗して発心門王子社に行く。此処は大社聖域の入口に当たり、九十九王子社の中でも格の高い五体王子の一つである。人々はここで心身を祓い清めて聖域に足を踏み入れたという。

 後鳥羽上皇に供奉の藤原定家が泊まったという尼南無房宅跡が社の後ろにある。
語り部が路傍の小祠を「歯痛の石仏」と指差すと皆が慌てて掌を合わせる。小さな村落を通り抜けた水呑王子跡にも「腰痛の石仏」が祀られている。旧小学校の一角にある王子碑の傍には岩清水を掬む柄杓が置いてある。当時も道中の休息・水呑場だつたのだろう。
 前に果無山脈、後ろに音無川(音無紀美子はこの近くの出身)を控える民家の前で大層深い菊水井戸の釣瓶を手繰ってみる。この辺には但馬仔牛(神戸牛)を肥育する農家が多いとか。

 しばらく村道を行くと伏拝王子である。現地の人はフショガミと呼ぶ。はるばる熊野詣での人々はここから遥かに見える大社の杜を伏し拝んだという。ここで「月の障り」を嘆いたという和泉式部の供養塔婆もある。あたり一帯に「NHKほんまもんのまち本宮町」の幟が林立する。近くの民家の外装を整えて山中木葉の家とし、樹上に櫓を組んで瞑想のシーンをロケしたという。茶畑の一隅には「山中フジの墓」が本物の御影石で建ててある。

 ロケを機会に観光で町おこしをと願う町民の気持ちも判らぬでは無いが、山深い熊野古道のあちこちにPR幟をなびかせるのは如何なものか。少々鼻白む思いである。

 初冬の山道は枯葉をカサコソではなくザクザクと踏みしめて歩く。よくした下枝打ちをした杉林は神域の風情があるが、手入れの行き届かぬ森林は、伸び放題の下枝があたかも悪魔が手を絡ませたようで鬼気迫る思いさえする。ところどころに「蘇生の森 熊野古道」の石碑が建っている。地方自治体が世界遺産登録を目指して古道周辺の杉檜林の整備保全に乗り出しているようである。

 杉林を抜けて橋を渡ると三軒茶屋跡と九鬼口関所跡に出る。傍らに「右高野口 左紀三井寺(西国三十三箇所の二番札所)」の小さい道標が蹲っている。近世の関所通行料は酒一升分位だったらしいと語り部は言う。また夫婦の関所手形は夫の名だけ記し、妻は女房とのみで記名は無かった。今でいうパスポートのようなもので、傷病のときは介抱を、行き倒れたときは現地の風習に従って葬ってやってくれとの一文があつたとのこと。

 今回のコースでは目にしなかったが、伊勢路の峻険な古道の傍らには参詣の願い半ばにして異郷に骨を埋めた巡礼たちを供養する無縁石仏が多いという。
左脇道を登ると見晴台に出る。熊野川、片や本宮大社の全景が眼下である。

五、本宮大社と大斎原
 山坂を降って大社の裏手に当たるところに祓戸王子がある。この石祠の前で長旅の穢れを祓い清めて社殿に向かったものである。祓所、祓殿とも書くが何れもハライドと読む。
 熊野本宮大社は家津御子神(実はスサノオノミコト)社殿を中心に、向かって左隣にイザナギ、イザナミノカミ、右隣に天照大神の四社がある。元は熊野川の中州にあつたが、明治22年の大水のとき流失を免れたこの上四社だけは現在の高台に移された。流されてしまった中四社と下四社は旧社地(おおゆのはら大斎原)に石祠として祀られている。

 大斎原には高さ30余メートル?という日本一の大鳥居が平成に入って建てられた。その頂門に描かれたヤタガラスは熊野の神使として神聖視されている。此処にも「蘇」の字を刻んだ大石が据えられている。
 左手熊野川の向こうには大峯修験者の奧駈道を抱く山波が横たわる。ここ大斎原の芝生で当地名産めはり寿司・さんま寿司の入った弁当をひろげる。

六、参詣を終えて
 熊野古道は「紀伊山地の霊場と参詣道」として2001年4月ユネスコの世界遺産暫定リストに登録された。早ければ2004年にも本登録をと地元プロジェクトは意気込んでいる。

 既に世界遺産に登録されているキリスト教巡礼道「サンチャゴへの道」と姉妹道の提携をしたという。
 大社前で語り部の佐古さんとも別れ、旅の疲れを癒すべく川湯温泉の仙人(千人)風呂まで足を伸ばす。川床から湧出する温泉を川水でうめて入浴する男女混浴の露天風呂である。海水着着用の更衣室は、女性用はよしず張りながら男性用は簡単な衝立程度である。

 膝上くらいの深さだが底は角石が多い。立って歩くと体重が掛かって足の裏が痛いので全身を湯に漬けて、体を浮かせて手で歩く。
 全行程を終えて帰途に、尾鷲と関のドライブインで小休止して一路名古屋へ。定員45人のバスを客22人で座席指定、オール禁煙、カラオケ無しで快適なバス旅行である。予定より早く午後8時に名古屋駅に到着した。

 この旅の前夜、熊野古道のイメージを想像して泉鏡花の「高野聖」を読み返してみた。飛騨の深山に踏み込んだ富山の薬売りを馬に化身させてしまう女の魔力に、読み終わってゾッとする。今回歩いた熊野古道は道幅もあり、石段・石畳もまずまず整っていた。先月踏破した赤目滝の裏山から落合への杣道の方が「高野聖」の雰囲気に、より近いと思った。

 魂の蘇生を願う熊野詣でというと何となく陰陰滅滅たる情景を想起させる。しかし黒潮洗う熊野灘は海の幸にも恵まれ、温暖多雨のため蜜柑栽培や杉・檜の林業も盛んである。

 戦国の世には九鬼水軍や雑賀衆など勇壮な軍団も輩出した。熊野はむしろ陽明の地とさえ思えてくる。

 本稿記述に当たっては関係自治体観光協会発行の地図・パンフレット・ガイドブック、特に小倉肇著「伊勢から熊野へ、再生を願う巡礼の道、東熊野街道」を参照させて頂いた。

2010年4月6日火曜日

ポルトガルを旅してのトイレ考(2001年8月)

 2001年6月ポルトガルを旅して、トイレについて気が付いたことを記してみよう。

 欧米のトイレではよくあることだが、ポルトガルでも男性用小便器の朝顔の位置が高い。ポルトガル人は日本人と同じくらいの体格で、そんなに大柄でもないのに矢張り高い。子供用に低い小便器もあるが、大人が使うには少々抵抗がある。若い時なら上向き放水も容易だが高年ともなるとそうも行かぬ。精一杯爪先立ちして朝顔に注ぎ込むことになる。

 ポルト市からリスボンへはポルトガル国鉄Caminhos de Ferro Portguesesで移動した。車両後部のトイレで小用を済ませたが、通常在るべき位置に放水ボタンが見当たらない。あちこちと見渡すうちに足元に突起ボタンを見つけた。ドンッと踏み込むと勢い良くフラッシュして洗い流してくれた。そういえばシベリア鉄道でも同じような記憶がある。

 ポルトガル南東部エヴォラの町で、地元民が多く集う食堂に入る。この店のトイレは中近東・インド方面でよく見かける前向きにしゃがむ型式である。和式に似ているが所謂「金隠し」は無い。ヨーロッパといっても必ずしも全部が座式の洋風便器ではないことが判った。

 帰路アムステルダムの空港トイレで気付いた事がある。洗面所の大鏡の横に目線の高さで一見ティッシュ・ペーパーの自動販売機のような機器が取り付けられている。良く見るとコンドームの自販機である。しかも寸法別に大小の選択ボタンまで設けられている。

 フランスの高校ではエイズ予防のためとして、生徒にコンドームを配布するというニュースを聞いたことがある。性に対して随分あっけらかんとしたものだと思う。

ケンブリツジ 駆けある記(2001年7月)

 今年はイギリスへ行ってみようと思い立った。行くからには長女が1976年短期留学したケンブリツジには是非立ち寄ってみたい。旅行各社の旅程を比較検討した結果H社の8日間のツァーに参加することにした。これならロンドン半日観光後のフリータイムでケンブリツジ見学が可能と推定した。

1.地下鉄ピカデリー・サーカスPiccadily Circus駅
 2001年6月28日 中華レストランへ昼食に行くツァーの一行と別れて地下鉄ピカデリー・サーカス駅へ向かう。バスの運転手に「Tubeはどの方向か?」と尋ねると「真っ直ぐ前方へ」と。ロンドンではSub wayは”地下道”、”地下鉄”はTubeと聞いていたが、入り口はUndergroundと表示されていた。デートの待ち合わせで有名な”エロスの像”を撮る暇もなく地下に潜る。

 ずらりと並んだ切符自販機の前で当惑していると、「出札窓口は角の向こうに」と日本語で女性の声。窓口に”Assistance and Ticket(お手伝いと切符)と書いてあるのが嬉しい。本日の一日乗車券Oneday travelcard(@4ポンド 約800円)を買う。朝9時半以降Zone1.2
 区内の地下鉄・バスは乗り放題である。自動改札機に差し込んで、先で取り上げると扉が開く。

 紫色のガイドラインに沿ってピカデリー線のホームに出る。この駅は茶色のベーカールー線と2本しか通っていないので迷うことは無い。キングズ・クロスKing’s Cross駅はCockfosters行きに乗って5つ目である。成る程Tubeと言うだけあって坑道も丸ければ、車両も丸い。1890年電化されるまでは、この狭い管路を蒸気機関車で運転していたと言うから、さぞ煤煙で苦労したことであろう。ホームにはこれから通る駅名入りの路線図が掲示してあるので、目的駅まであといくつと判りやすい。過ぎた駅名は省略されている。キングズ・クロス駅で下車、一日券を改札機に挿入・取り出して外に出る。



2.キングズ・クロスKing’s Cross駅
 出札窓口で「ケンブリッジ2枚」と言うと「この後ろ、ずっと右奥だ」という。そうだ、ここは地下鉄の切符売り場であつた。
 King’s Crossの案内板に従って鉄道切符売り場に辿り着く。イギリスでは民営鉄道数社が競合して運行しているので、会社毎に切符売り場が異なる。キングズ・クロス駅でもスコットランド地方へはGNER(Great North Western Railway)、ケンブリツジ方面はWAGN(West Anglia Great Northern Railway)が運行している。

 ケンブリッジ行きをCheap Day Returnで買う(@15ポンド 約3000円)。これは朝夕のラッシュを避けて、当日のみの往復という条件付割引切符である。それにしては高い。念の為「復路に午後5時頃乗車OK」を確かめてホームに出る。
 出発の電光掲示板によればケンブリッジ方面行きは13時15分(以下 時分省略)9番ホームとあるが1-8番までしか見当たらない。やむなく8番ホームの奥を探すと仕切り壁の向こうに9a(出発) 9b(到着)のホームがあつた。この間に13.15発は出発してしまって、次は13.45発である。ベンチの婦人に確かめたあとホットドックとコーヒーで昼食を済ます。


3.ケンブリッジCambridge到着
 定刻発車してケンブリッジまでノン・ストップである。途中の通過駅でもスピードを落とすことなく、すっ飛ばして45分で到着。日中のこととて乗客は少ない。この間車内検札が一回あった。ホームに降り立つと目の前に鉄道案内所と観光案内所がある。タクシーでラウンド・チャーチに向かう。予め詳細地図が手元にあるので心強い。

 一本道の筈だが途中右折左折を繰り返して到着する。カレッジが立ち並ぶ市中心部は一方通行や進入禁止などの交通規制があるらしい。

 この古風な建物はエルサレムの聖墓教会を記念して1130年頃建てられたもので、イギリスでは数少ない円形教会の一つである。ラウンド・チャーチRound Church(丸い教会)と通称されてケンブリッジ名所の一つである。円錐形の屋根は19世紀に加えられたという。



4.ユニオン・ソサェティUnion Society
 探しもとめたユニオン・ソサェティは、この教会の横をすり抜けて裏手にあった。事務所で「ケンブリッジ・ランゲージ・センターCambridge Language Centreは?」と聞くが「知らない、講義室なら奥にあるが」との返事。通りがかった日本人学生らしい青年にセンターやホーム・ステイ先の住所のメモを渡して訳を話すと「カレッジの事務所で聞いて来ましょう」と手伝ってくれる。京都出身という。しばらくして曰く「その住所は確かに現存しているが学校・女主人名を知っている人は居なかった」。この話を傍で聞いていた女子留学生は名古屋出身ということで、ひとしきり話に花が咲く。あと5年はこの地で勉強とか。

 食堂で一緒に写真を撮ったあと談話室やバーを見学して、売店でコーラを買おうとしたらユニオンの会員カード専用と言う。ユニオン・ソサェティ自身、ケンブリッジ各カレッジの共同経営による学生援護施設のようである。

5.大学都市 ケンブリッジ
 1284年イーリー司教ヒュー・ド・ボルシャムが創立したピーターハウスPeterhouseがケンブリッジ最初のカレッジである。

 壮麗な礼拝堂で有名なキングズ・カレッジは1441年、
 クィーンズ・カレッジは1446年、
 ケンブリッジ最大のトリニティ・カレッジは1546年の創立。
 
 以後1977年創立のロビンソン・カレッジまで、ケンブリッジは近郊を含めて31のカレッジ(1988年現在)を擁する有数の大学都市である。その間60人以上のノーベル賞受賞者が輩出している。
 落ちる林檎で万有引力を発見したアイザック・ニュートンは1661年トリニティ・カレッジに入学、「種の起源」を著した進化論のチャールス・ダーウィンは1828年クライスツ・カレッジに入学していることは有名である。

6.カレッジは卒業シーズン
 ユニオン・ソサェティをあとにセント・ジョージ通りを南下してトリニティ・カレッジに行ったが大門が閉まっていて入れない。数人の観光客が残念そうに、何度も大門を見返っていた。更に南のキングズ・カレッジも「今日は卒業式で入れないが、明日からは見学出来る」とのこと。隣接する市の評議員会館では卒業生たちが背中に白線入りのガウンのような式服を着て学位を受けに集まっている。6月末はGeneral Admissionと呼ばれる卒業式期間である。

 トリニティ通りからキングズ・パレイドのメイン・ストリート沿いは軒並みカレツジである。特にキングズ・カレッジの礼拝堂は1515年完成、ケンブリッジの象徴的建物として一際威容を誇っている。南隣りのクイーンズ・カレツジは卒業式も済んだとみえて、@4ポンドで見学OKだったが16時閉門まであまり時間が無い。ゲートからキャンパスを背景に写真を撮り、傍の売店で栞などを買って退出する。

7.ケム川界隈
 裏手のケム川に架かる数学橋の下をパント(平底の小船)に揺られての舟遊びはケンブリッジののどかな風物詩である。この橋は建設当時、木を巧みに組み合わせて釘を使わなかったので”数学橋”と名付けられたというが、その後の補修では釘も使っているらしい。もともとケンブリッジという市名もケム川Camに架かる橋Bridgeから来ている。

 ケム川西岸からバックスと呼ばれる草地越しに各カレッジを眺め歩くのがお勧めとガイドブックにあるが、時間が無いので割愛して駅に向かう。折角タクシーを拾ったのに交通渋滞で一向に進まない。

8.ケンブリッジ駅
 漸くケンブリッジ駅に着いて16.45発キングズ・クロス行きに乗ろうとしたらCanceled (取り消し)、次は17.15発である。ホームに時刻表が貼り出してあるが、複数の鉄道会社の時刻が入り混じって、WAGNのを見つけ出すのが一寸面倒である。「間違って他の会社の列車に乗ってしまうと、長時間の迂回コースで違約料金まで請求されてしまう」とはユニオンで逢った女子留学生のアドバイス。

 17.15を過ぎても発車しない。同乗の紳士に丁重に確かめると「間違いない」という。結局ケンブリッジ始発にもかかわらず15分の遅発である。どうもイギリスの鉄道は運賃が高い割に、平気で遅延・取り消しをするので評判が悪いようである。ほぼ満席で途中ノン・ストップ、18.15にはキングズ・クロス駅に無事到着した。復路は検札ノーチェックであった。

9.アールズ・コートEarl’s Court駅
 鉄道のキングズ・クロス駅から地下鉄のキングズ・クロス駅までは沢山の案内板はあるものの、6路線が交差・並走しているので、目指すピカデリー線のアールズ・コート方面行きのホームに出るまでが一苦労である。途中係員らしい人に確認しながらヒースロー空港行きに乗る。退勤時なのでほぼ満席である。 

 11番目のアールズ・コート駅に18.45着。これなら19時ホテル発、夕食への出発に間に合いそうである。
 南側出口への案内板に従ってエスカレーターを乗り継ぐうち、地上のプラット・ホームに出てしまった。通路を間違ったかと一瞬たじろいだが、並走するウィンブルドン行きのディストリクト線のホームであった。 その先に出口への表示があり、ほっと一安心。

 改札口を出て地図を片手に初めての道をホテル・パラゴンへ一目散。18.55ホテル着、荷物を部屋に置いて、19時集合、出発。夕食に滑り込みセーフであった。

シェイクスピアの生地で ”ハムレット” を観る(2001年7月)

1. ストラットフォード・アポン・エイボン
 2001年6月27日シェイクスピアの生地ストラットフォード・アポン・エイボンの町に入った。町名のStratは街道を意味するこの地方の古語、fordは浅瀬の渡川場、同名の町と区別する為upon-Avon(エイボン川沿いの)と場所を特定している。従って「街道筋にあるエイボン川沿いの浅瀬の渡川場」という意味の町名である。

 シェイクスピアの妻となったアン・ハサウェイの家を見学して町に入り、RSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)の3つの劇場(ロイヤル・シェイクスピア・シァター定員1700名、スワン・シァター定員350名、ジ・アザー・プレイス定員170名)やシェイクスピアが通った学校、生家、資料センターを見学する。

2.  ロイヤル・シェイクスピア・シァター Royal Shakespeare Theatre 
 このあと早速ロイヤル・シェイクスピア・シァターのボックス・オフィスに急行し、”ハムレット”の当日券を需める。「予約は? 65歳以上ですか? ファミリー・ネームは?」と尋ねられ、「予約はしていない。74歳と72歳。」、名前を答える。ローマ字のネーム入りの観劇券・領収書と座席表を渡される。2階(Circle)中央、前から3列目で、大きな劇場ならさしづめロイヤル・ボックス相当である。それがなんと@12ポンド(約2400円) 学生・老人割引のStandbyチケットを適用してくれたらしい。

 一行の皆さんには今夕食を欠席する旨をTD加藤さんに告げて、開場時間まで町を散策する。人々が舟遊びに興ずるエイボン川沿いのツーリスト・インフォメーションで必要情報を貰う。郊外(シャルルコート村)にある今夜のホテル・フェザンの地図とタクシー代の概略(約10ポンドという)を確認する。

 劇場建物の入り口は常時開いている。ロビーで買ったプログラム(2.5ポンド)にはFinn Caldwellが体調不良のためDamian Kearneyが代役するとの活字印刷の訂正カードが入っていた。開演19時の10分前になって漸く客席に入場出来る。それまで進入を制止していた階段昇り口の係員が観劇券を一瞥して道を明ける。

3.  RSC ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー Royal Shakespeare Company
 今夜の”ハムレット”はRSC所属Steven Pimlott演出、Samuel West主演、所要4時間である。なおRSC(Royal Shakespeare Company)とはストラット・フォードとロンドンを本拠地とする世界周知の演劇集団である。ロンドンではバービカン・シァター(大劇場)とザ・ビット(小劇場)で主にシェイクスピアものを上演する。

 またロンドンのグローブ座がシェイクスピア活躍当時の様式(木造茅葺、屋根無し舞台)で、もとの場所(テームズ川右岸、サザーク橋近く)に400年振りに再建された。時折正調シェイクスピア劇が上演されるという。

4. “ハムレツト”第一幕 亡霊は紫
 19時になる。奥行きの深いステージで花道はあるが幕は無い。全部の照明が消えた後、舞台のライトがぱっと点く。ドラマの場所はデンマークのエルシノア城内となっているが、舞台装置は何も無い。奥の入り口から見張りの従臣たちと、劇の語り部でもあるホレイショが登場する。従臣たちは現代の軍装で自動小銃を携えている。前王の亡霊も軍服の外套を纏って登場するが、終始薄暗い紫色のライトに包まれて冥界の人であることが示唆される。

 照明係りは2階客席右先端に操作机を据えて、前後左右、上下昇降、点滅明暗、色調など全て遠隔操作である。

 ハムレット登場。父王の亡霊より「弟クローディアスに毒殺された」と告げられ、復讐を誓って以後狂気を装うこととなる。

 約1時間20分、全照明が消えて拍手が湧き起こる。第一幕(原作では第一・二幕)の終了である。観客が一斉に席を離れる。2階には小さいながらもロビーがあるが、1階席の客は館外に出て一息入れるのであろう。

5. 稽古場のような第二幕
 15分の休憩で予鈴も無く第二幕(原作では第三・四幕)が始まる。舞台に幕が無いので第何幕というのも変だが原作に従って”幕”と言っておこう。

 ハムレツトが舞台正面先端に進み出て、あの有名なせりふ”to be or not to be? that’s a question.”(生きるか死ぬか? それが問題だ。)を声高に朗誦する。近付いてきた恋人オフェリアに「尼寺へ行け」と狂態で迫る。

 ハムレットはTシャツにトレパン、他の演者も似たようなラフスタイルである。椅子2脚と照明スタンド2基、小スクリーン1面を舞台監督の指示で一部の演者がステージ上を移動させる。王侯・宮廷の雰囲気は全く無く、まるで演劇の稽古場のようでである。

 旅役者が王暗殺の劇中劇を演ずるあたりでは、主要人物(クローディアス、ガートルード、ハムレットなど)に照明を近づけて、アクターの一人がビデオカメラでその微妙な表情の変化をクローズアップで撮る。それを舞台中央に据え付けた小スクリーンにモノクロで大写しする演出はなかなかユニークである。
物陰にいたボローニアス(オフェリアの父)をハムレットが誤って射殺する。突然のピストルの発射音、耳を劈くようなジェット機の轟音が館内を揺るがす。オフェリアも遂に悲嘆発狂して彷徨ううち水死してしま う。約1時間15分、全消灯、拍手、休憩となる。

 週日のせいもあってか1階の観客は学生らしい若い男女、2階は年配のカップルが多いようである。ロビーでは氷水とレモンスライスがフリードリンクである。喉を潤し外を見る、10時近いがまだ薄暮である。このまま見続けるか、退出するか、to be or not to be? ちょっと迷ったが惹かれるものがあり、最後まで観ることにした。

6. 殺陣が冴える第三幕
 いよいよ第三幕(原作では第五幕)である。舞台中ほどの切穴(歌舞伎ではすっぽんと俗称)を墓穴に見立てて墓堀人の軽妙な会話が弾む。観客がどっと笑う。

 クローディアス王の教唆もあって、レアティーズは父妹の仇とばかりにハムレットに決闘を挑む。フェンシングで剣闘十数合、両者共毒剣に倒れる。殺陣師マルコルム・ランソンによるスピーディな殺陣が冴える。日本でなら舞踊のような歌舞伎の殺陣ではなくて、新国劇の大立ち回りに匹敵する。

 王がハムレットに飲ませようと仕込んだ毒酒とも知らず、飲んだ王妃ガートルードは絶命する。ハムレットは死力を振り絞って王を刺し、毒酒を強いて復讐を果たす。後継ぎの絶える王家の後事をノルウェーの王子フォーティンブラスに託すと親友ホレイショに告げてハムレットも息絶える。

 これでドラマ”ハムレット”の主要人物は全て非業の死を遂げたことになる。歴史年表でシェイクスピアの没年(イロイロ)1616年、生年(ヒトゴロシ)1564年を組み合わせて「いろいろ人殺し」とは言いえて妙である。

7. 台詞を楽しませるシェイクスピア
 殆んど皆無の舞台装置、現代風の衣装、時には稽古着、銃砲爆音、音楽は第二幕で遠慮がちなピアノ・ソロだけ。一時は現代に翻案しての演出かと思ったが配役・登場順序は原作に忠実なので、変更省略は無かったようである。 2回のアンコールが終わって11時に終演、たっぷり4時間の熱演である。

 同じ頃東京・世田谷パブリック・シァターで上演されたピーター・ブルック演出”ハムレットの悲劇”ではノルウェー王子フォーティンブラスなどかなりの部分を削ぎ落として2時間半の舞台に縮めたという。
いずれにしろシェイクスピアの演劇は詩的比喩揶揄に富んだ台詞で客をふんだんに楽しませる、まさに”聞かせるパフォーマンス”であると思う。

 館前には客待ちタクシーの長い列を予想していたが1台も居ない。慌てて劇場に引き返し係員に電話で呼んでもらう。「ダブルオーセブン(007)が来る」と言う。”007”という名のタクシー会社の車が来た。深夜の田舎道を疾走して約15分、ホテルに到着する。深夜加算とチップをプラスして15ポンド(約3000円)を支払う。

 農村の夜は更けた、TDの加藤さんに到着を告げて就寝。

“大航海”の跡をたずねて ポルトガル(2001年2月)

1. ポルトガルの 冬は雨季
 私の21世紀の初旅はポルトガルから始まった。 2001年1月17日定刻11時50分より少し遅れて小牧空港を出発。千歳、アムステルダムを経て、その日の23時30分、雨のリスボン空港に到着した。但し9時間遅れの時差である。
 ポルトガルの冬は雨季だというが、日本の梅雨のようにべったり降り続く雨ではなく、時折驟雨に見舞われる程度とのことである。

2. 地の果て ロカ岬
 18日は気まぐれ天気の機嫌の良いうちにと、まずロカ岬に向かう。詩人カモンエスの詩ウズ・ルジアダスの一節「ここに陸尽き、海始まる」の刻まれた十字架の塔の前に立って西方を望めば、少なくとも270度、見晴るかす限りの大西洋である。

 ふと頼山陽が天草洋で、海の彼方は呉か越かと詠んだ漢詩「水天髣髴 青一髪」を思い出した。”大航海”の古人ならずとも、芒洋たる海の涯てには「どんな国が・・・、はたまた将又この世の終端か・・・」と好奇心をそそられる。

 岬の観光局 Turismo で最西端到達証明書($600)を発行して貰う。花文字で夫婦連名、シントラ市分室の蝋印入りである。裏面には西・英・仏・独・伊・日の6か国語で証明文が記載されている。次の通り。
 登録番号 C-N.o 047265   証明書  
 ポルトガル国シントラにあるロカ岬に到達されたことを証明します。ここは、ヨーロッパ大陸の最西端に位置し、「陸尽き、海はじまる」と詠われ、新世界を求め、未知の海へとカラベラ船を繰り出した航海者たちの信仰心と冒険魂が、今に尚、脈打つところです。
 北緯38゜47’ 東経9゜30’ 高度 海抜140メートル

 ポルトガル有数のリゾート地帯カスカイス、エストリルのコスタ・ド・ソル(太陽海岸)や名門ゴルフ場を横目に見てシントラに向かう。途中花崗岩だらけの林や大規模山火事の跡がいまだに残る山道を通る。ユーカリや松など樹脂の多い山林なので何日も燃え続いたという。

3. エデンの園 シントラ
 王宮を中心に、森に囲まれたシントラは、バイロンが ”エデンの園” と称えた世界遺産である。外観はさほどではないが、マヌエル1世が ”大航海” の富にまかせて増築した夏の離宮の内部は豪奢である。

 巨大な円錐形の2本の塔は実は煙突であった。この下で数匹の豚を同時に丸焼きもできるという広大な厨房である。オーブンの原型ともいうべき料理保温庫が洋服箪笥のように据え付けられている。続くアラブ風食堂、アズレージョ(絵タイル)の紋章の間、東洋趣味の中国の間。
 なかでも敵襲に備えて短尺のベッドのある寝室、手離したくない愛娘を譬えた白鳥の間、メイドの嫉妬がもとで描かれたカササギの間など王室の人間臭さが面白い。白鳥の間ではその昔天正少年使節団が歓待を受けたという。

 山の端に城壁を望見したムーア城址とノイシュバン・シュタイン城主のいとこが競って建てたというペーナ宮には行けなかった。皆が銀細工の店へ急ぐ頃には案のじょう驟雨に見舞われた。ロカ岬で出しそびれた絵葉書をシントラの郵便局Correioで投函する。切手$140。

4. 王妃の直轄地 オビドス
 住宅団地のカラフルな建物群に目を奪われているうちに、バスは城壁に囲まれたオビドス村に到着した。1228年王妃イザベルがこの村を気に入り、直轄地にして以来6世紀に亘ってこれが続いた。

 リスボン郊外のもの程ではないが16世紀に築かれたという水道橋がまず目に入る。にわか雨にしっとり濡れた石畳の小径や白壁の家々がメルヘンチックである。サンタ・マリア教会、サン・チャゴ教会を過ぎて昔の王宮に入る。アズレージョで飾られた壁の傍で老婆が毛糸を編む。今はポーサダPousada do Casteloになっている旧王宮の小さなサロンでカフェオーレ($300)を喫する。垣間見た客室のほうは如何にも石冷えのしそうな石造りである。

 城塞のテラスからこの小村を一望したあと、アントニオ君運転のバスは今夜の宿泊地ナザレに急ぐ。

5. 奇跡の地 ナザレ
 まず高台のシティオ地区からナザレの中心部プライア地区を俯瞰する。夏は海水浴客で賑わう広い砂浜は人影もない。聖母マリアの奇跡によって、霧の崖っぷちで命拾いした、城主が建てたメモリア礼拝堂がこの崖の上にある。傍にはギリシャ正教形の十字を冠したヴァスコ・ダ・ガマ来訪記念碑も。大航海を前にマリアの奇跡を恃んで訪れたのであろうか。突然の俄か雨でメモリア礼拝堂とノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会を繋ぐ掛け橋のように虹が架かった。やはり奇跡の地に相応しい。

 プライア・ホテルに荷物を置いて海岸通りの観光局を訪れる。終業間際にも拘わらず開錠して招じ入れられた。「日本から来たのですか?」と日本語のパンフレットを渡される。さきのオビドス同様、かかる寒村で日本語のパンフレットが用意されているとは、一寸した感激である。観光熱心なのか、親日的なのか。

 ホテルに戻る道すがら、鰯を焼く匂いが地区全体に仄かに漂っている。ホテルの夕食も鰯の塩焼きであった。

 翌朝、有明月の残る海岸通りを散歩する。歩道のS字模様の敷石が美しい。7枚重ねの短いスカートの女性が市場に急ぐ。浜の水揚げにも便利な伝統的な服装だという。冬のナザレは大西洋の荒波と共生する漁業の町である。

6. 悲恋物語 アルコバサ
 アルコア川とバサ川の合流点にできたアルコバサには世界遺産サンタ・マリア修道院がある。イスラム教徒排除のレコンキスタ(国土回復運動)に協力したシトー派修道会に、1152年アフォンソ・エンリケス王が贈ったものである。但し正面のファサードは18世紀にバロック風に改築されている。

 しかしこの修道院を特に有名にしたのはペドロ王子とイネス・デ・カストロとの悲恋物語である。政略結婚の障害として殺された侍女イネスの石棺と、その遺体を抱いて結婚を宣言したペドロ王子の石棺は、二人が復活のとき向き合えるように翼廊に安置されている。
 北側に続く二階建ての”沈黙の回廊”を通って、広大な生産品倉庫に入る。その収容能力の大きさを見ると、中世の修道院の工業生産が資本主義経済の始まりという学説も頷ける。

7. 戦いの町 バターリァ
 続いてバターリァの修道院を訪れる。これはさきのサンタ・マリア修道院よりも早い1983年登録の世界遺産である。ジョアン1世がカスティーリァ軍を打ち破ったバターリァ(戦い)を記念して1388年建設が始まった。正式には勝利の聖母マリア修道院という。

 入るとジョアン1世と王妃フィリッパ・ランカスターとの比翼の墓、その子エンリケ航海王子の墓も近くに安置されている。ゴシック様式とマヌエル様式が見事に調和した”王の回廊”の奥には無名戦士の墓が冷厳に設えられている。両脇には衛兵が交代で常時警護にあたる。さすがにバターリァ(戦い)の修道院である。

 ジョアン1世の息子ドゥアルテ1世が建て始めた”未完”の礼拝堂が興味深い。100年もの工事期間中にゴシック、マヌエル、ルネッサンスとそれぞれの時代の様式を取り込みながら遂に未完に終わってしまって、未だに屋根も無い。柱に施したマヌエル模様は帆船のロープに”新発見”の各地産品を配して、”大航海”の成果を誇示しているかのようである。

8. 黒マントが似合う コインブラ
 学術都市コインブラで昼食を執る、レストランの名はペドロ。あのイネスとの悲恋の舞台は実はコインブラである。年配ウェイターのなかに唯一人、若い端麗なウェイターがいた。ペドロの再来かと一瞬目を疑う。
 1290年デニス王によって創設されたコインブラ大学は、1911年リスボン大学が設立されるまでポルトガルでは唯一の、ヨーロッパでも古参の大学である。

 黒いマントを身に纏った教授や学生が誇らかに、アズレージョを敷き詰めた”鉄の門”をくぐる。会話はラテン語のみに限定というラテン回廊を右に見て旧図書館に入る。古色蒼然たる書架に金文字の古書がぎっしり。しかし使いもせぬ梯子を架けるなど少々演出過剰ではある。右隣の立派な礼拝堂を見学して広場に出る。眼下には「ポルトガルの洗濯女」の歌で有名になったモンデゴ川が町を二分して流れる。

 旧カテドラル前のショップでも日本語のチラシでクラフトを勧められる。坂を降りて川岸に出る。歩道の壁のアズレージョに感心しながら、コインブラA駅傍のブラガンサ・ホテルまで歩く。鉄道幹線の通るコイン ブラB駅までは、このA駅から支線が接続されている。約4分。

 観光局で貰った地図を片手にサンタ・クルス修道院を見学する。左隣の市庁舎は修道院の敷地を一部割譲してもらったようなレイアウトである。帰路はオクト・デ・マイオ広場から迷路のような狭い商店街を通ってコインブラA駅に辿り着いた。

9. 水郷の町 アヴェイロ
 1月20日ポルトへの途中立ち寄ったアヴェイロは潟に囲まれた水郷の町である。町の中央を流れる運河には極彩色のモリセイロと呼ぶ海藻運搬船が舫っている。アヴェイロの駅は裏も表も見事なアズレージョが張り詰めてある。

 この町の銘菓オヴォス・モーレスOvos Molesは卵黄を甘く調味した餡を包んだ貝型の最中である。この餡を主材としたような博多銘菓”鶏卵素麺”と同様のものがポルトガルで今でも作られているという。また銘菓”ザビエル”のある大分市とアヴェイロとは姉妹都市である。

 余談になるが パン、カステラ、ボーロ、キャラメル、テンプラ、コンペイトウ などの語源はポルトガル語である。カステラの由来は面白い。さる古城でスポンジ・ケーキ(今のパォン・デ・ローPao de Loと思われる)を食した日本人が「これは何ですか」と訊ねたところ「カステーロCastelo(城)です」と言われたからだという。

10.  ポルトガル発祥 ポルト
 ポルトの市街に入る前、ドン・ルイス・1世橋のたもとヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアからの立体的な眺めは絶景である。1886年エッフェルの愛弟子が設計したこの橋は両岸の上の街と下の街とをそれぞれに結ぶ、ちょっと変わった二階構造である。橋を渡って下の街カイス・ダ・リベイラの庶民的なレストランで昼食。

 坂を登って旧商館街を歩く。外観は往時の繁栄を偲ばせるものがあるが、内側は今や廃屋で改修工事中である。1834年ポルト商業組合が建てたポルサ宮の前にはエンリケ航海王子の銅像が建っている。生憎補修中の幕で覆われていた。観光地図によればこの通りをエンリケ王子通りRua Infante do Henriqueと称し、近くに航海王子の生家もあるという。王子の父はジョアン1世だが、母はイギリスのランカスター公の娘であった為Henry the Navigatorと呼ばれ、イギリスでも人気がある。

 再びヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアに戻り老舗のポルト・ワイン工場を見学する。年代物の大樽や無数の古酒の貯蔵庫には圧倒される。ドウロ川には、トラックに取って代わられたワイン運搬船ラヘーロが、広告塔代わりに係留されている。

 ポルトガル一高い塔を持つというクレリコス教会の横を通ってリベルダーデ広場へ出る。正面が市庁舎、右手サンベント駅前にはアズレージョが美しいコングレガドス教会がある。

 ここポルトこそレコンキスタで奮闘したフランスの騎士ドン・エンリケ(のちのポルト・カーレ伯)によるポルトガル発祥の地である。エンリケ航海王子もこの港からモロッコへ船出したという。由緒深いポルトの歴史地区は1996年世界遺産に登録された。ポルトと長崎市とは姉妹都市である。

11. ポルトガルの 歴史概観
 ここでポルトガルの歴史を極く大筋で概観してみよう。
  紀元前後 ローマ人の勢力下
7世紀 西ゴート族が制圧
8世紀 ムーア人によってイスラム化
11世紀 レコンキスタ、ドン・エンリケらキリスト教徒による国土回復運動
12世紀 アフォンソ・エンリケ、スペインから独立を宣言、ポルトガル建国
15世紀 大航海時代
16世紀 再びスペインに併合される
17世紀 ブラガンサ公(後のジョアン4世)、スペインからの再独立を達成
18世紀 リスボン大地震、ボンバル侯、復興に活躍
19世紀 ナポレオン、三度侵入、イギリスと同盟して撃退
20世紀 王制から共和制へ、1974年スピノラの無血革命で”リスボンの春”を謳歌

12. リスボンの下町 アルファマ
 1月21日9時5分発特急CP(Caminhos de Ferro Portgueses ポルトガル鉄道)でリスボンに帰る。リスボン最初の停車駅オリエンテ駅周辺では、1998年「海」をテーマに万国博覧会が開催された。12時40分終点サンタ・アポローニァ駅に到着。海のようなテージョ川に面したアルファマ地区である。

 1755年リスボンの大地震にもここは被害を免れて、イスラム色の強い昔の面影を色濃く残している。狭い路地に面したレストランで、昼食はあんこうのリゾットである。「ポルトガルのロケで先日 杏里 が来たよ」と店主が胸を張る。水道橋から水を引いた名残の水飲み場が1基吐水していた。実際は市水道からの給水らしい。

13. 大航海の精華 ジェロニモス修道院  
 テージョ川沿いに4月25日橋の下を通って、いよいよ”大航海”の精華ベレン地区に急ぐ。ジェロニモス修道院は1502年、マヌエル1世がエンリケ航海王子の偉業を称えて、その礼拝堂の跡地に建てたものである。

 1983年早々と世界遺産に登録されたこの修道院は、まさにマヌエル様式を代表する宗教建築の極致である。”大航海”による海外からの莫大な富に支えられて花開いたマヌエル様式は、天球儀、縦横等寸の十字、帆船のロープ、貝などに異国の産品を配した、ポルトガル独特の芸術様式である。

 入って左側ヴァスコ・ダ・ガマの石棺の傍に白光した”手”の彫刻がある。すぐ前の港から大航海に船出する船人たちが再びこの地に帰って来られるようにと、接吻したキリスト?の手だという。
壮麗な建物もさることながら、中庭を囲む二階建ての回廊が素晴らしい。高名建築家による繊細華麗な55メートル四方の回廊は、大航海時代の繁栄のシンボルと言われている。
 しかし石灰岩の優美なアーチも近年損傷が進み、順次補修が施されている。補修済みの二辺は少し黄色く見える。

14. ベレンの塔と ”発見のモニュメント”
 文化センターの横をすり抜けてベレンの塔へ向かう。1519年マヌエル1世がヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路発見を記念して建てたもので、正式にはリスボンの守護聖人の名に因んだ”サン・ヴィセンテの砦”という。ジェロニモス修道院と一緒に1983年世界遺産に登録された。テラスなどは優美なマヌエル様式で飾られているが、河口で船の出入りを見張る為、二階には砲台、その下は政治犯収容の水牢だという。

 続いてエンリケ航海王子の500回忌を記念して1960年建てられた”発見のモニュメント”
に行く。高さ52メートル、帆船型の舳先に向かって、大海原に乗り出そうとするエンリケ航海王子を先頭に天文学者、宣教師、船乗り、地理学者など”大航海”の立役者の像が彫られている。私達に馴染み深いのは東側のヴァスコ・ダ・ガマ、マゼラン、ザビエルらである。

 モニュメント前の広場には大理石の世界地図に各地発見の西暦が記されている。日本は1543年種子島より前に、ポルトガル商船が豊後府内(今の大分市)の春日浦に漂着した1541年となっている。

15. 大航海の 東西交流
 ここで大航海時代前後の東西交流を概観してみよう。
 1295年頃マルコポーロ(1254-1324 イタリア人) 元(今の中国)に到達、東方見聞録を著す。
 1413年 鄭和(1400前後 宋の人 今の中国) 中国からアフリカ東岸に到達
 1446年 エンリケ航海王子(1394-1460ポルトガル人)航海指導先駆者、部下がギニア探検
 1487年 バルトロメウ・ディアス(ポルトガル人) アフリカ喜望峰発見
 1492年 コロンブス(1446-1506 イタリア人) スペインの援助で西回りアメリカを発見
 1499年 ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524 ポルトガル人) 東回りでインド航路発見
 1500年 アルヴァレス・カブラル(1500年前後 ポルトガル人) ブラジルに到達
 1520年 マゼラン(1480?-1521ポルトガル人) スペインの援助で南米経由フィリピン到達
 1541年 ポルトガル商船、豊後府内に漂着
 1543年 ポルトガル人 種子島に上陸、鉄砲伝来
 1549年 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル鹿児島に上陸
 1584年 日本よりの遣欧少年使節団 リスボンに上陸

16. 坂のリスボン バイロ・アルト
 東の方には全長2278メートルの吊り橋4月25日橋の全容が見える。1966年完成した当時はサラザール橋といっていたが、1974年4月25日に成功した無血クーデターを”リスボンの春”と賞賛して、以来4月25日橋と呼ばれるようになった。

 橋の向こう岸に霞んで見える巨大なキリスト像は、リオ・デ・ジャネイロのコルコバートの丘に立つキリスト像(31m)を模して、1959年完成したものである。

 再びテージョ川沿いにバイロ・アルト地区に戻り、坂上で眺望を楽しむ暇もなく、チンチン電車のようなケーブルカーに乗る。上下どちらかの車両が満員になると発車するという。中間で離合したかと思うともう下の終点である。

 ロシオ広場からレスタウラドーレス(復興者)広場を通ってローマ・ホテルに到着する。夜はポルトガルを代表する音楽のひとつ”ファド”の鑑賞である。

17. 哀愁のファド
 ファドとはラテン語のFatum(運命)と同意で、”哀愁”だけでは表現しきれないサウダーデSaudade(失ったものにたいする押さえ切れない悲しみややるせない思い、こうありたいと切に願う憧れ)をあらわす音楽である。コインブラには学生たちが黒マントを着て、プロヴァンス地方の吟遊詩人が歌っていたものを歌い継いできたファドもあるが、リスボンではアラブやアフリカなどの民族音楽から、19世紀頃裏町の酒場で歌い始められたといわれる。

 バイロ・アルトのファド・レストラン ”オ・フォルカード” ではワインといか料理で軽く夕食を済ませたあと、中央の四角いステージにファディスタ(歌い手)やギタリストが登場する。聴衆は殆んど団体客で大部分は日本人である。

 ギターラというポルトガル独特の12弦ギターと普通のギター(ヴィオーラと彼等は呼ぶ)の伴奏に乗せて黒いショールの女性が切々と歌う。カンツォーネのように歌い上げるかと思えば、ぐっと抑えてシャンソンのように、時にはイスラムのコーランを詠ずるようなメロディーも交えて哀調は続く。

 1954年フランス映画「過去を持つ愛情」でファドを一躍有名にしたアマリア・ロドリゲスはアルファマの出身である、惜しくも1999年亡くなった。たまたま先月末NHKの深夜放送で彼女の哀愁の歌声を聴くことが出来た。CDを探してみようと思う。

 このあとタップ入りの明るいフォーク・ダンスなどが続いた。しかしファドはアルファマのような下町のうらぶれた酒場で聴いてみたい。「矢張り野に置け蓮華草」だろうか。

18. 世界遺産の町 エヴォラ
 1月22日は終日フリータイムである。地下鉄($100)、フェリー、バレイロ駅からは鉄道(フェリーと込みで$1390)と乗り継いでエヴォラへ向かう。駅頭でバッタリ杏里ロケ隊と遭遇、同列車となる。途中カサ・ブランカ駅で乗り換えてからは同じ車両になった。車窓から見るアレンテージョの平野は、半ば樹皮を剥がれたコルクの木が続く田園風景である。エヴォラ駅前からは ”杏里たち” と別れてタクシー($500)でジラルド広場へ。

 観光局で貰った地図を頼りにエヴォラ大学に向かう。航空写真から作成したのだろうか、途中の微妙な曲がり角や道端の植え込みの形まで正確に記されていて迷うことは無かった。学生に混じってずかずかと大学構内に入り、売店で名入りグッズを買う。建物は16世紀に建てられたイエズス会の神学校を転用したものである。中庭の四囲を二階建ての回廊と教室が囲んでいる。回廊から教室の腰板まで派手なアズレージョで埋め尽くされている。

 15世紀に建てられたロイオス修道院は今は品格あるポーサダPousada dos Loiosとして営業中である。振り返れば2世紀に建てられたというディアナ神殿がある。ローマ人が月の女神ディアナに捧げたものといわれ、柱頭はコリント様式である。

 この小公園の北には1世紀ローマ時代の城壁の一部が残っており、南には12-13世紀に建てられたという要塞のようなカテドラルがある。天正少年使節団の伊東マンショと千々石ミゲルがここのパイプ・オルガンを見事に弾きこなして人々を驚かせたという。訪欧途中のマカオで習い覚えたらしい。正面入り口付近では ”杏里ロケ隊” が撮影準備に余念がない。

 このように狭い地域にローマ時代から中世、現代までの建造物が集積しているのは珍しく、エヴォラの歴史地区として1986年世界遺産に登録された。これでポルトガルの世界遺産9件のうち6件を訪れたことになる。

19. 人骨堂と 鱈Bacalhau料理
 ジラルド広場に取って返しサン・フランシスコ教会へ行く。16世紀に建てられたゴシック様式のこの教会では右隣の人骨堂がお目当てである。入り口から壁、天井、柱と人骨がぎっしり、いっぱいである。年をへ経ると乾燥収縮するから小児の頭蓋骨のように見えるが殆んど成人5000人分のものだという。首吊り人のように整体で壁から吊るされた人骨はさすがに気味が悪い。

 それでも食欲は衰えることなく、地元の人達が集う食堂に入り、鱈Bacalhauのトマト煮($1000)を食べる。メニューにはいろいろ書いてあるが、マスターがしきりに勧めるところを見ると、昼時にはこれら2.3種類しか仕込んでないのかもしれない。

 西の城門を出て共同墓地隣のバスターミナルに急ぐ。丁度14時15分発のノン・ストップ・バス($1650)に間に合った。高速道路をつっ走ってテージョ川の大橋を渡る時分には、どしゃ降りである。たいした渋滞もなく、1時間45分でアルコ・ド・セゴ・バスターミナルに到着した。ここからローマ・ホテルまではタクシー($850)で一走りである。

 ポルトガルの通貨 1$(エスクード)=約\0.6 タクシー以外の料金は一人当たりの金額。

20. ヨーロッパの 空で漢詩 
 23日は真夜中の午前3時起き、4時の出発である。5時35分リスボン空港発KL1692便でアムステルダムに翔ぶ。やがて空が白み、脚下に敷き詰めた雲海の先端から朝日が昇り始めた。俄かに詩情が湧き起こり、隣り合わせた山田先生と漢詩の競作となる。

    雲際朝陽
  未明発葡 翔和蘭   未明に葡を発し 和蘭に翔ぶ
  天空雲際 拝朝陽   天空雲際 朝陽を拝す
  興趣難断 談論旺   興趣断ち難く 談論旺なり
  朋友何日 再相見   朋友いつの日にか 再び相見えん

 ヨーロッパの上空で漢詩に興じるとは、まことに忘れ難い思い出になった。

 本稿記述に当たっては ポルトガル投資・観光・貿易振興庁の資料、各地観光局のガイド・マップ、地球の歩き方、平凡社の大百科事典等を参照させて頂いたことを付記します。

埃に閉口 アフリカン・サファリ(2000年9月)

アフリカは遠い国
 サファリSafariとはもともと「東アフリカで狩猟旅行をする」ことを指していたスワヒリ語Seafariから来ている。アラビア語のSafariは「旅行」のほか「航海」の意味もあるという。

 2000年9月7日午前6時40分に家を出て、アフリカのナイロビ空港に到着したのは8日午前6時30分。6時間遅れの時差があるので、日本時間では8日昼過ぎの12時30分である。バンコク、ドバイ乗換えで実搭乗時間は17時間余ながら、全所要時間は約30時間である。帰路は乗り継ぎロスがもっと多く33時間半もかかってしまった。

 その間、乗客の移り変わりは甚だしく、名古屋空港からの日本人はバンコクで殆ど降機。その先は肌の浅黒いアーリア系のインド人、アラブ人が多くなる。ドバイからのケニア航空ではサルタン風のアラブ人も散見されるものの、大部分は色黒のアフリカ人となる。
 矢張りアフリカは遠い国である。

ドバイは不夜城
 タイ航空でドバイ空港に着陸したのは7日午後9時40分(現地時間、以下同じ)。機上から見るドバイは等間隔のナトリューム灯に照明された道路が縦横に走っていて、街全体が整然と輝いている。同じような光景のペルーのリマでは「防犯のための照明」と言っていた。

 空港構内は2灯1基の電灯がふんだんに設置され24時間稼動を支えている。屋内ショッピング・フロアでは各種商店が煌煌と終夜営業を、なかでも貴金属店では22Kの装飾品などを並べ立て、目くるめくばかりである。

ナイロビの治安
 繁華街にあるナイロビ・ヒルトン・ホテルに到着したが、夕方まで特に予定は無い。単独行動での治安を心配してか、全員バスで国立博物館を見学することになった。

 タンザニアで発見された原人(アウストラロピテクス・ボイセイ)の化石や鳥、蟲、魚の豊富なコレクションは見事である。「野生のエルザ」で有名なジョイ・アダムソン女史の画才を示す原住民の絵葉書も興味深い。

 向かいの蛇博物館ではガラス越しに大蛇がそれぞれにとぐろを巻く。なかでも「最も危険」と掲示のある黒蛇は不気味である。隣地にはケニア最大の部族キクユ族の背の低い住居が築造展示されている。
 銀行は勿論、高級ショッピング・モールは道路から鉄格子で仕切られ、入り口には屈強なガードマンが厳重に警戒している。

社会主義国タンザニア
 9日、男子6名女子6名女子添乗員1名の一行13名がトヨエースを改造したようなサファリカー2台に分乗してまずタンザニアへ。

 国境の町ナマンガのケニア側では土産物売りのアタックがすさまじい。車を乗り換えてタンザニア側に入ると原則禁止なのかグッと静かになる。入国審査も一人一人念入りに面接するため時間がかかる。付近の撮影は勿論禁止である。

 昼食を執ったアリューシャのインパラ・ホテルも、ンゴロンゴロ自然保護区ゲートの売店の店員(というよりも係員)の態度も余り愛想が無い。タンザニアは今も社会主義国である。

土埃に閉口
 乾季で乾ききった火山灰系の赤黒い土が上昇気流によるつむじ風で舞い上がる。一望のうちにこの小竜巻が数本見えることもある。こういう砂嵐に巻き込まれたときや、車に追い越されたときは、それこそ一寸先も見えぬ埃のカーテンに囲まれる。ヘッドライトを点灯しての徐行運転である。化粧パフのようなミクロパウダーなので、砂埃というよりむしろ土埃である。雨季に折角芽吹いた新緑も乾季の土埃を被って赤枯れてしまう。

 未舗装の道路を含め、このあとサファリツァーの間中物凄い土埃に悩まされることになる。天蓋を開けて駆け巡るサファリ・ドライブのときは尚更である。このことはどのガイドブックや旅行会社の説明会でも余り触れていない。マスクは必携である。

 サファリカーの後部の僅かなスペースに詰め込んだスーツケースは、ロッジの客室に搬入するにも憚られるほど土埃が積もっている。止むを得ず雑巾代わりにハンカチを濡らして拭き取った。小さな雑巾も必携品に加えたい。

世界遺産ンゴロンゴロ自然保護区
 大地溝帯の一部を成すマニヤラ湖国立公園を左に見て、リフトバレーの急坂をじぐざぐに登る。世界遺産ンゴロンゴロ自然保護区自体が南北16km東西19kmの噴火口である。標高2400mの火口縁にあるソパ・ロッジの夜は木枯らしのような冷風が吹き抜ける。阿蘇のカルデラ(430平方kmで世界最大)には及ばぬものの、朝霧の間から現出する264平方kmのクレーターは壮観である。

 クレーターの底まで600mの高低差を駆け下りるため、4人乗りの4WDランドローバーに乗り換えて初サファリに出発する。火口原には人間は一切住んで居らず、完全な野生動物の世界である。ここの動物たちは600m高の火口壁に阻まれて一生を火口内で過ごすという。

 インパラ、縞馬、ヌーの群れには早々と遭遇する。陀鳥、象、ガゼルも次々現れる。ハントした獲物を見張る牝ライオンの周りを、隙あらばと数匹のハイエナが徘徊する。ライオンの世界では牝がハントし、牡は食べるだけという。レライの木立のなかは一見、猿と縞馬の楽園のように見えるが樹上には親ライオン、道路脇には仔ライオンが蹲っている。マカトゥー湖では沢山のフラミンゴに混じって河馬の親子が遊んでいる。突然ドライバーが「デンジャラス(危険)」と指差すほうを見ると黒い大蛇がとぐろを巻いている。毒蛇である。

 ヒッポ・ポイントの沼地では河馬の群れが水浴を楽しみ、近くには水牛たちも。一匹だけ離れて、沼に蹲っているのは「死にかけている水牛だ」とドライバーは言う。岸辺には頭蓋の白骨も散らばっている。とある池の傍で持参のランチボックスをひろげる。但し空中からの鳶に攫われないように車中での昼食である。帰路、砂地を穿ったハイエナのねぐらを観察してロッジに引き揚げる。

マサイの村
 夕食までの時間を利用して近くのマサイの村を訪ねる。魂が吸い取られるとマサイ族が嫌がる写真撮影もOK、住居披露、歓迎舞踏などオール込みで@10US$の見学料である。4WDのドライバーが仕切って村長に手渡すという。

 赤い布を纏った30数人の村人が歌いながら歓迎してくれる。列の右端の老女は祈祷師のようでもある。歌に会わせて次々と奇声を発しながら、ひたすら跳び上がるばかりの単純な舞踏である。もともと背の高いマサイ族の跳躍力は目を瞠るものがある。

 それに引きかえ住居の狭くて低いこと、相当腰を曲げて出入りしなければならぬ。男の棟と女子供の棟とは別々である。一夫多妻なので屋内は第一夫人、第二夫人・・・と娘の部屋とは粗末ながら仕切られている。したがって子沢山である。
 村の周囲は棘のある枝で囲い、外敵、猛獣から守っている。槍、蛮刀は今でも彼等にとって必須の武器である。

深山ロッジでハネムーン
 夕食も終わりに近づいた頃、突然照明が消えた。松明をかざして10人ほどの列が歌いながら行進してくる。バースデー・ケーキのようなものを持って囃しながら客席を練り歩いた挙句、若い二人のテーブルではたと止った。先頭のボスが祝辞を述べてケーキを贈呈する。「Congratulationsおめでとう、どなたの誕生日?」と尋ねると「ハネムーン」との返事。

 節水か、自然保護のためか、夕方5時から8時までしかシャワーの湯が出ない山深いロッジに新婚旅行とは、余程のナチュラリストなのであろうか。

アンボセリ国立公園へ
 翌11日は再びサファリカーで砂塵を蹴って下山。メール山の麓アリューシャの新しいバーベキュー・レストランで昼食となる。純粋のアフリカンながらウエイトレスはなかなかの美人である。もう少し愛嬌があればと惜しまれる。

 ナマンガのタンザニア側出国審査は個々に面接、ケニア側の再入国審査は添乗員がパスポート一括で即OK。
 A104号線を右折してC103号線に入る。アンボセリ国立公園に近づいた頃アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロが見えてくる。ブッシュの間からはキリンが早速顔を出す。

干上がったアンボセリ湖
 古アンボセリ湖の一部は以前は雨季に水を湛えていたというが、乾季にはキリマンジャロの火山灰に覆われた全くの大平原である。直線で横断しても7kmはあるこの平原を併走する僚車を見ていると、まるで埃の煙幕を引っ張って疾走しているようである。パリ・ダカ・ラリーでもこのような猛烈な土埃から、車のメカを如何に守るかにエンジニアは随分苦心していることであろう。スピードよりも寧ろ土埃との戦いと思う。

 象の進入を防ぐため針金の暖簾を吊るしたゲートをくぐる。塀や屋根の上を跳梁するヒヒの群れに迎えられながらオル・トゥカイ・ロッジに到着する。

オル・トゥカイ・ロッジ
 火山では世界最高のキリマンジャロ(5895m)を、何の遮るものも無く真正面に望見できるマウンテン・ビュー側のロッジに泊まる。ロッジが既に海抜千余メートルなので富士山より少し高い程度に見える。山に直面しないサイドは象の水飲み場が近いことからエレファント・ビューと呼ばれている。ハワイと違って此処ではマウンテンビューが上級である。

 翌12日早朝には、まだ夜明け前なのに「ロッジの前をヌーの群れが大移動している」と呼び起こされる。キリマンジャロの頂きの雪が茜色に染まり、やがて左手東方より朝日が顔を出す。水飲み場へのヌーの大移動はまだ延々と続いている。

早朝サファリ
 朝食前のサファリに出発する。ヌー、縞馬、水牛などの定番動物はどの保護区、公園でも沢山いるが、アンボセリでは象、ガゼルそれからハイエナにもよく出会う。これらが早朝には一斉にそれぞれの水飲み場に集まり草を食む。

 肉食獣はハンティングに精を出す。仕留めた獲物で飽食し草むらに寝そべるライオン。ほかに恐れるもの無しとばかりに仰向けに寝転がる格好は百獣の王とも思えぬ他愛なさである。

キリマンジャロの雪
 朝食後、夕方サファリまで自由時間となる。正に空白のバカンス・タイムである。ロッジのバルコニーでキリマンジャロに正対しながら「キリマンジャロの雪」を読む。
 これはヘミングウェイが1934年頃アンボセリで狩猟旅行Safariを楽しんだ経験をもとに著した短編小説の傑作である。瀕死の主人公ハリーが「陽光を浴びて純白に輝くキリマンジャロの山頂」を見ながら愛と死について目まぐるしく思い巡らせる様を描いている。

 1899年シカゴ郊外の医者の息子として生まれたアーネスト・ヘミングウェイErnest Hemingwayは新聞記者となり、スペイン内乱、イギリス空軍などに特派される。生涯に4度結婚、戦傷、自動車事故、飛行機事故、最後は猟銃自殺という多情多感、波乱万丈のノーベル賞作家である。受賞作「老人と海」や「誰がために鐘は鳴る」は映画化もされた。

オブザベーション・ヒル(Observation Hill 観察の丘)
 ケニアの保護区、国立公園でのサファリは野生動物からの危険防止の為、途中降車禁止である。しかしアンボセリの展望台オブザベーション・ヒルだけは降車して登ることが出来る。5分程で登れる数十メートルの丘の上には小さな望楼がある。マサイ族が数人有料モデルとしてカメラ客を誘う。@1US$という。

 この丘はスワヒリ語でヌーモティオNoomotioと呼ばれ「中空に穿たれた内部に水を湛えた岩がある所」という説明標があった。キリマンジャロの地下水が浸出する、眼下の沼地には朝夕象、水牛等が集まってくるという。やがて一直線の西の地平に夕陽が燃えながら沈む。4発の旅客機が発着できるアンボセリ飛行場を左に見て、ロッジに帰る。

土産物屋もE-mail
 翌朝はロッジの中庭でキリマンジャロを背にして全員の記念写真を撮った後、ナイロビに向かう。アンボセリでもチータには会えなかった。せめてキリンにもう一度と、ドライバーが気を使ってブッシュの脇道に入ってくれ.る。道なき道を埃まみれで走り回った甲斐あって、漸く数頭のキリンの群れに出会うことが出来た。

 途中ナマンガの土産物屋で店員Benard Njagiベナード ンジャギ君と写真を撮った。「マサイ族は背が高いが自分はキクユ族なので高くない。その写真を送って欲しい。」と店の名刺に署名して手渡してくれた。見ると電話番号の下にE-mail:hcd@wildmail.comと書いてある。僻地だからこそ尚更、電子メールが必要なのであろう。後日写真を送った日には”I send you the photo today.”とメールした。

ナイロビの日本人倶楽部
 昼食はナイロビで久しぶりに日本料理店である。鍋焼きうどん、天ぷら、ステーキのような鮭定食、ラーメン・ギョーザ・マーボ・炒飯を組み合わせた中華定食など盛り沢山である。店内には日本人倶楽部が併設されていて、数日遅れながらロンドン印刷の日本の新聞、週刊誌がいつでも閲覧できる。奥の売店では味噌、醤油、豆腐から米(10kg \2800の秋田小町)まで一通りの日本食品が販売されている。この店は市中心部の高級ショッピング・モールの奥まった一角にある。前にも触れたが、モールは鉄格子とガードマンに警護されて不審者の進入を阻んでいる。

 このモールで気付いたことは美容院が多いことである。縮れ毛を丹念に編み上げて貰った黒い女性が満足そうに店を出る。どの店も順番待ちの客で一杯である。中流以上の家庭の婦女子であろう。

ナクル湖のフラミンゴ
 午後は国道A104号線を北上してナクル湖国立公園に向かう。ナイロビ西郊外のキクユ族の集落を走り抜け、大地溝帯に沿ってナイバシャ経由ナクルの街に入る。そのままナクル湖に直行、岸辺一面にピンクの絨毯を敷き詰めたようなフラミンゴの大群に息を呑む。

 ソーダ性の湖水で餌を食むほど紅色が濃くなるという。全周の岸辺を埋め尽くしているフラミンゴは200万羽とも300万羽ともいわれている。観光客が近づくとおもむろに距離を開けながら移動してゆく。時々ペリカンの群れが慌ただしく飛び交う。
ヌー、河馬、ガゼルは勿論のことアカシヤの森の樹上ではライオンも発見した。公園管理事務所では「猿、ヒヒに餌を与えないで、危険」と警告する。

ライオン・ヒル・ロッジ
 夕闇迫るライオン・ヒル・ロッジのゲート付近では、まるで作り物のような大きなキリンが長い首を伸ばしてアカシアの葉を食べている。

 ロッジは湖に面した斜面の樹林に散在している。バーの前のテラスではかがり火を焚いてタムタムやボンゴを乾かしていた。このあと、これらの笛鉦太鼓で民俗芸能が催されたが短時間のため鑑賞できなかった。部屋ではベッド毎に一人用の西洋蚊帳が垂らしてあり、ちょっとエキゾチックなムードである。

マサイ・マラ国立保護区へ
 14日は早めに発ってマサイ・マラ国立保護区に向かう。往路でも立ち寄った土産物屋では裏手の彫刻工房に行き、黒檀の小さい板を買う。しきりに「それをポケットに仕舞え」と促すのは工房直販を禁じられている為か。

 舗装されたA104号線(Tarmac Road)から未舗装のC12号線(Earth Road)に入ると、又もやひどい凸凹道と物凄い粉塵に悩まされる。正午(ヒル)をかなり過ぎてから、やっとマサイ・マラ国立保護区のキーコロック・ロッジに辿り着いた。この保護区は岩合(イワゴウ)日出子著「アフリカ・ポレポレ」の舞台でもある。マサイ・マラとはスワヒリ語で「マサイ族の土地」、ポレポレpole poleとは「ゆっくりゆっくり」という意味で、原住民はよく使う。

共生、時に強食弱肉
 遅い昼食、休憩、夕方サファリと結構気忙しい。角のある一匹の牡が十数匹の牝を従えるインパラのハーレム集団、ハーレム以前の牡だけで闘争するインパラの群れ、すぐに逃げ出すいぼいのしし、長い首を交叉してぶっつけ合う2匹のキリン、喧嘩しているのか、じゃれているのか、とにかく可愛い。
 しかし鼻面を血まみれにしてハントした水牛にかぶりつくライオンの形相は物凄い。獲物の脚を押さえ込み、はらわたを引きずり出しては食いちぎる。肉よりも内臓の方を好むのかも知れない。樹上の禿たかはじっと自分たちの出番を待っている。

 付近には屠られて一週間前後らしい首、毛皮、骨だけの死骸が散らばっている。毛皮の模様や角の形から縞馬、キリン、ヌー、水牛と区別がつく。
草原に沈む真っ赤な夕陽さえ、この日は不気味に見える。

動物も出入り自由
 このロッジは草原との間に柵が無い。昼間はとにかく夜間はいろいろな動物が庭園から部屋近くまで進入して来る。猿、インパラ、縞馬はいつものこと「時には象やライオンまでも。深夜、早朝でも暗いうちは部屋から絶対出ないように」とロッジのガードマンはゼスチュアたっぷりに警告する。

 庭園から木橋で繋がる水場展望台までの遊歩道は19-6時の間は閉鎖される。それでもという人は「フロントに言って、セキュリティー・エスコートを受けてください」との掲示がある。

バルーン・サファリ
 15日、早朝サファリに出発する前に、バルーン・サファリ(@350US$)に参加する4人は気球場に向かっていた。赤々とバーナーを焚いてオレンジ色の気球を膨らませながら、有明の月の残る茜空に昇って行く姿は幻想的でさえある。ゴンドラは左右6人づつの12人乗りで、バランスを保つため移動禁止。籠の縁が高くやっと首が出せる程度、角の人は270度見られるが、中ほどの人は180度しか俯瞰出来ない。バーナーに近い人は長髪に注意、地上45mを基準に飛行する。とは乗った人の話である。

 朝のサファリカーは意外に少なく初めは私たち2台だけだった。水辺には既に象、縞馬、水牛などが群れを成している。早くもライオンは背をかがめてインパラ攻撃の準備に入る。単なる彷徨か、獲物を狙っての抜き足差し足かはその姿勢気配で察しがつく。
 朝日が昇る頃には緑色のバルーンも2基加わって、快晴の空も賑やかになる。エジプト雁、冠鶴、時にはほろほろ鳥も草原の水場へ集まる。

 水平に枝が拡がるアカシア、ぶら下がる実の形から名付けられたソーセージ・ツリー、根と枝を逆さにしても可笑しくないような、ずんぐりむっくりのバオバブなどアフリカ固有の樹木が珍しい。

赤道直下の避暑地
 キーコロック・ロッジは南緯1度31分、赤道より僅か169km南の位置にあって、晴れた夜空には南十字星が美しい。しかし海抜1600mの高地に在るため冷涼の避暑地である。旧イギリス領植民地であったためか英語圏からの観光客が多いという。人種偏見を余り持たぬ日本人に、アフリカン・スタッフは好意的であるように思う。

 夕方サファリまでのフリータイムは優雅に避暑ムードを満喫する。庭先の水飲み場に集う綺麗な瑠璃椋鳥にしばし時を忘れる。午後のプール・サイドはデッキ・チェアが殆ど満席である。プールで悠々泳いでいるのは二三人で、あとは日光浴、木陰で昼寝か読書、知己への便りに筆を走らせる人など、さまざまである。

チータはスーパースター
 犀、象のファミリー、ライオン親子などは夕方サファリでも度々出会ったがチータはまだ一度も見たことが無い。今回も駄目かと諦めかけていた矢先、遥か彼方の立ち木の周りに数台のサファリカーが停まっているのを目聡くドライバーが見つけた。

 あたふたと急行すると、いました! チータが、しかも2匹。車がかなり接近しても動ずる気配も無い。いつの間にか20数台のサファリカーが集まってきた。この頃はマサイ・マラでもチータは滅多に見られないのであろう。観光パンフレットでもトップを飾るチータは矢張りスーパースターである。まだ集まって来ないサファリカーを推計すると、夕方は40乃至50台がオフロードの大草原を駆け巡っているのであろう。

 因みにマサイ・マラ国立保護区(1510平方km)は大阪府ほどの広さで、そのままタンザニア領セレンゲッティ国立公園、ンゴロンゴロ自然保護区に地続きである。セレンゲッティへ、雪崩を打つようにマラ川を渡るヌーの大移動はあまりにも有名である。

キーコロック・ロッジの躾
 他でも目に付かぬところで実行していることかも知れないが、客の眼前で食堂のスタッフ一同が集まり、ボスが指示点検した後さっと持ち場に就く。定刻にきっちりオープンして客を迎え入れる。手落ちのあろう筈がなく、見ていて爽快である。

 もうひとつ、同行の佐野さん夫妻が経験された話。「日本から持ってきたプチ・プレゼントの縫いぐるみのライオンを、部屋掃除に来たメイドに進呈しようとしたら”ちょっと待って”と言って事務所に帰り、上司と一緒に戻ってきた。”上司立会いの上で頂きたい”と喜んで受け取ってくれた。」客室からの窃盗と疑われないように、万全の証明を用意した訳である。ロッジの躾か本人の心掛けか、いずれにしても感心なことである。

 このロッジはアンボセリで泊まったオル・トゥカイ・ロッジと同系のBlock Hotelsグループである。ンゴロンゴロのソパ・ロッジはシェラトン系だった。

 ドライバーにアサンテ・サーナ(Asante sana有難う)

 念願のチータをはじめ大抵の野生動物を観察することが出来て、心残りなくマサイ・マラを去ることが出来る。期せずして一同からサファリカーのドライバー(マファ君とジョン君)に対してAsante sana(Thank you very much)と拍手が送られる。

 再び埃まみれの悪路に悩まされながら舗装のA104号線に出たときは内心ほっとした。「埃よ、Kwa heri(さようなら)」。それにしても連日観光客を乗せて、あの猛烈な粉塵の悪路を突っ走っているドライバー達の頑健さには感服する。

大地溝帯を見る
 A104号線でナクル湖へ行くときは通過した大地溝帯展望台に立ち寄る。土産物屋の私設展望台のようで店内への誘い込みが激しい。醤油味のない焼きとうもろこしを齧りながら眼下に広がるグレート・リフト・バレーを見る。

 嘗て南米大陸がアフリカ大陸から分断されたように、この巨大地溝がじりじりと引き裂かれて、何億年かの後には地球の割れ目となって、海の底に沈んでしまうのだろうか。大自然の悠久のドラマの一瞬を見た思いがする。

エミレーツ航空
 10月から花季を迎えるというジャカランダがナイロビ・ヒルトンの前では、まだ9月16日だというのに、もう薄紫の花を咲かせていた。ケニア航空でもオーバー・ブッキングの恐れありと、ジャカランダをあとに早めに空港に急ぐ。

 ナイロビ発19時20分。ドバイで1時間40分待ちの3時15分発タイ航空TG4500便、また深夜便である。ところがこれがエミレーツ航空のEK082便ホンコン行きとの共同運航で、機体はエミレーツ所属の最新型ボーイング777-300だという。往路では当初エミレーツ航空の筈がケニア航空に変更になって、がっかりしていた一行は大喜びである。

 エミレーツ航空はアラブ首長国連邦United ARAB Emiratesの航空会社である。Emirとはアラビアの首長、Emirateとはアラビアの首長国を意味する。

 案の定、搭乗するや「アラビアン・ナイトの後宮の美女」のような扮装のスチュアーデス達が、思いなしか妖艶な笑みを浮かべながら迎えてくれる。機内の装備、食事など、その高級志向は夙に定評がある。各席に液晶ディスプレーがあり、案内、映画、航行図、機前方、機下方の眺望などチャンネルで選択できる。配布されるクリーム色の毛布は清潔で感触も良い。ただトマト・ジュースにタバスコとウスター・ソースを添えられたのには「これがアラブ流か?」と驚いた。

12年振りのバンコク
 バンコクに17日昼の12時35分到着、名古屋行きのタイ航空TG644便は夜中の0時50分である。12時間余の待ち合わせのため、一旦タイに入国してホテルで休憩することになる。バンコク中央駅に近いツイン・タワーズ・ホテルである。日本人客が多いらしく、タイスキ、足裏マッサージなど随所に日本語表示がある。ホテルの夕食は海鮮たっぷりのタイスキで、和食の味に近くなかなか好評であった。

 思い掛けず12年振りに、ハイウェイから高層ビルが林立するバンコクの繁栄振りを見ることが出来た。しかし数年前タイ通貨バーツの為替相場が暴落したときは、進行中のプロジェクトなどはかなり慌てたことであろう。

 連日の深夜便と時差で、体調を整えるには暫く時間が掛かりそうである。矢張りアフリカは遠い国である。

インターネットで得た「ケニアの歌」についての情報を次に記す。

1999.11.22.  ぽれぽれサファリクラブの「かたの」さんより

Top Hits From Kenya
1. Hinde 2. Jambo Bwana 3.Simba Ngruma 4. MSA-Mombasa 5. Lala Salama 6. Safari 7.Disco Chakacha 8.Malaika 9.Kirie Kirio 10. Karinbuni Kenya

1999.11.2. ぽれぽれサファリクラブの「はな」さんより                      

Jambo

 Jambo Jambo bwana Habari gani mzuri sana
 Wageni mwakaribishwa Kenua yetu hakuma matata
 Knya nchi tetu Hakuma matata Pole pole na kazi
 Hakuna matata Hata huku Nairobi Hakuna matata
 Oooho Jambo ninaimbae kila mtu

( Kila mtu Katibuni, Karibuni Kenya mwone Nairobi )

Nchi yenya ajabu Hakuna matata Oh hata kule Amboseli
Hakuna matata Jambo Jambo Jambo Jambo bwana
Habari gani mzuri sana Wageni mwakaribishwa
Kenya yetu hakuna matata

ジャンボ

 やあ ! こんにちは 元気かい !  俺達は元気だよ。みんな遊びにおいでよ、
 俺達のケニアは遊びに来ても大丈夫だよ。俺達のケニアは(遊びに来ても)大丈夫だよ。
 ナイロビでもアンボセリでも大丈夫だよ。みんな遊びにおいで、
 俺達の国は素敵なところだよ。