<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532</id><updated>2012-02-16T20:38:24.786+09:00</updated><category term='ポルトガル、旅行'/><category term='旅順'/><category term='イギリス、旅行、ロンドン、ケンブリッジ'/><category term='アテネ、旅行、リカビトスの丘、コロナキ広場、ピレウス港'/><category term='旅行、回顧録'/><category term='オーストラリア'/><category term='オーストリア、旅行、オペラ座'/><category term='スペイン、旅行、バルセロナ、アルハンブラ宮殿'/><category term='ヴェネチア、旅行、リド島、ムラノ島、ローマ広場'/><category term='アウシュビッツ'/><category term='ポルトガル、旅行、トイレ事情'/><category term='アフリカ、旅行、ンゴロンゴロ自然保護区、マサイの村'/><category term='熊野古道、旅行'/><category term='ストラットフォード・アポン・エイボン、旅行、シェイクスピア'/><category term='フランス、旅行、モンサン・ミッシェル、パリ'/><category term='ドイツ、旅行、ベルリンフィル、コンサートホール'/><category term='喜寿、'/><title type='text'>My memoirs</title><subtitle type='html'></subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>30</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-5331763320375063670</id><published>2010-06-15T09:09:00.004+09:00</published><updated>2010-06-16T23:00:24.486+09:00</updated><title type='text'>父　岩太郎の思い出　－昔のさかな屋－（記：1995年7月）</title><content type='html'>一、徒弟制度　　　　　&lt;br /&gt;　　明治維新後、西南の役などまだまだ世情騒然としている中で、明治１６年いわゆる鹿鳴館時代がはじまった。そういう年に私の父、岩太郎は生まれている。　　　&lt;br /&gt;　　当時の義務教育である尋常小学校４年を卒業すると、すぐ四日市市北条町の谷村鮮魚店に小僧見習いとして弟子入りした。満１０才になったばかりの少年を社会人として放り出すには余りに早すぎる。そこで既に一業を成した先輩が親方となって、これら少年を受け入れ、職業人として必要な技能・知識を教育した。徒弟制度である。とかく暗いイメージで語られがちなこの制度だが、当時の社会では誠に有効な私立職業訓練学校であったといえよう。　　　&lt;br /&gt;　　まず大人社会への行儀・作法から厳しく躾けられ、ついで始末・才覚・算用など商人としての心得を始め、順次鮮魚商としての技術ノウハウを仕込んでもらったという。後年、店の帳箪笥の引き出しの中に、これらを説く教科書「商売往来」が入っていたのを憶えている。父は谷村店主を終生「親方」と呼んで敬慕していた。長じては谷村家の長女の仲人を引き受けるなど親密な付き合いが続けられた。　　　&lt;br /&gt;　　修業中は辛いこともいろいろあった様である。厳寒の水仕事では指が千切れるように　冷たい。親方から預けられた魚が思うように売れない。売残りを持って帰れば売り方が拙いといって、こっぴどく叱られる。思い余って自腹を切って、残った魚を三滝川へ投げ捨てたことも再三あったという。そのうち、おいしい食べ方・料理法を言い添えて奨めるという知恵がついた。それ以後は円滑に売り捌けるようになったとのことである。年季明け・お礼奉公・一本立ち（または暖簾分け）がいつ頃だったのかは判らない。ともかく２７才で結婚、３５才で北条町に転居している。ここは平野魚問屋（本誌第３集４３頁に写真掲載）の東隣りにあたる。&lt;br /&gt;　　　　&lt;br /&gt;二、魚問屋と仲買人　　&lt;br /&gt;　　当時はこの北条町の「平野」と浜町の「角中」が魚問屋として張り合っていた。父は「平野」に仲買人として加盟していた。商工人名録によると合資会社「平野魚問屋」代表社員平野太七、大正１１年設立とある。　　　&lt;br /&gt;　　仲買人の無闇な増員を避けるため、同業組合的なギルドの様に限定会員制をとっていた。会員には「いろは」４８文字が割り振られていた。もっとも最後の「ん」の字は無かった様である。父は「す」の字を貰っていた。問屋内では総てこの字で呼びあっていた。　　　&lt;br /&gt;　　ある時、父について問屋に行ったことがある。早朝、大八車をひいて問屋に着くと５時半。伊勢湾岸漁民よりの湾内もの、尾鷲方面よりの外洋ものなど入荷した魚を予め下見をしておく。時間があれば隅の茶店で、大福餅・串団子で渋茶をすする。茶碗酒を景気よくあおる人もいる。たしか６時頃から「競り」が始まった。浪曲師顔負けの塩辛声で競売係が喚きたてる。目星をつけた魚のせいろが競り台に引き出される。父が競落希望価格を符諜で叫ぶ。ダリとかダリ半とかいうのが耳に残っている。他にも希望者がいれば値は段々競りあがる。これ以上の一声がなければ競落決定である。「はい、すの字」と念を押して記帳方が帳面につける。１か月分の競落代金は翌月５日に現金で「平野」へ支払いに行く。　　　&lt;br /&gt;　　「平野」には競り場しかなく、最近の生鮮食品市場の様に、仲買人が構内に店舗を構える余地はなかった。殆ど仲買人兼鮮魚小売商で流通が間に合っていたのであろう。&lt;br /&gt;　　しかし新規に鮮魚商を創めようとする場合は、仲買人の空き枠は殆ど無いので、既存の仲買人から仕入れなければならぬ。駆出し時代ならともかく、すこし商売が大きくなってくると、仲買人経由の仕入れでは面白くない。そこで仲買人の名義を借りて魚問屋の競りに直接参加することを考え付く。これを「肩下」（カタシタ）という。父も或る時、若いさかな屋から熱心に頼み込まれて「肩下」にしたことがあった。始めのうちは競落代金をきちんと支払いにきたが、段々滞るようになり、とうとうその若い「肩下」は行方を晦ませてしまった。問屋に対しては、彼の仕入分も自分の仕入代金として支払はねばならず、多額の焦付債権となってしまった。それ以後「肩下」は一切持っていない。　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;三、鮮魚小売商　　　　&lt;br /&gt;　　鮮魚商としての屋号は魚岩、商標は　岩（カネイワ）である。北条町では同業者が　多かったせいか売り上げは余り伸びなかった。昭和３年頃、東海道沿いの水車町（今の浜一色）に引っ越してからは面白いように商売繁盛したという。　　&lt;br /&gt;　　四日市市商工人名録（昭和５年８月現在）には「鮮魚商　水車町　■■岩太郎」と記載されている。父も４６才。いっぱしの商人（アキンド）として活躍していたのであろう。時々得意先より頼まれて仕出し料理にも手を拡げ、かなりの皿小鉢や漆塗りの膳椀などを取揃えていた。預金獲得のため不動貯蓄銀行の行員が毎晩のように売上金を集金に廻ってきたのもこの頃である。　　&lt;br /&gt;　　鮮魚商は生物商売であるから鮮度・清潔が生命。今のように保健所の規制監督は無いかわり、鮮度管理は徒弟時代に親方から徹底的に教え込まれている。その日の仕入れはその日に売り切るのが大原則だが、万一売れ残った場合は自家冷蔵庫に収容する、量が多ければ製氷会社に預けに行く、いか・たこ等はさっと茹で上げる、最後は契約養鶏場に餌用として払い下げる。　　&lt;br /&gt;　　刺身など生食ものを調理する関係上、手指の清潔、負傷予防には細心の注意が必要である。おこぜ・こち等の有刺魚類を捌くときは非常に神経を使っていた。これらの針に刺されると必ず化膿するからだという。　　&lt;br /&gt;　　また鮮魚商は毎日の台所に繋がる商売であるから、盆正月以外は年中無休である。得意先への定時定点巡回を律儀に心掛けていたようである。「烏の鳴かぬ日はあっても、岩さんの廻ってこない日は無い。」と信用され、当てにされていることを父は誇らしげによく語ってくれた。本誌第３集に、買い手の立場から見た昭和１２年頃のさかな屋の様子を描いた富山滋子さんの作文が載っている。父もこのように毎日頑張っていたのであろうと思う。　　　　&lt;br /&gt;　　昭和１９年頃には戦局の緊迫とともに物価統制令の締め付けが厳しくなって、何でも公定価格を表示しなければならなくなった。しかし生鮮食品は極端にいえば、時々刻々鮮度の変化と共に売値を改訂しなければならない商品である。或る時、経済警察が臨検の際、価格表示を怠っていたとして注意されたときは、あとで「生鮮食品の実態が全く判っていない。」と大いに憤慨していた。　　&lt;br /&gt;　　いよいよ敗色濃い昭和２０年６月１８日の四日市大空襲では、何もかも焼けだされてしまった。鮮魚も配給統制の一環に組み込まれ、諸事思うに任せぬまま終戦、長男の戦死と悲報が相次いだ。ともかく焼け跡に住居は再建したものの、ついに往時の生気を取り戻せないまま昭和２８年逝った。６９才であった。　　&lt;br /&gt;　　　　&lt;br /&gt;　以上魚問屋の仲買人兼鮮魚小売商であった父の一生を駆け足で逐ってみた。６０年以上も昔の思い出を掘り起こし、その後学んだ事柄と照らし合わせながら書き記した。旧四日市の一端を偲ぶよすがとなれば幸いである。何分幼少時の記憶をもとにしているので、一部思い違いや大きな欠落があるかもしれない。お気付きの点は忌憚ないご指摘ご教示をお願いしたい。　　　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-5331763320375063670?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/5331763320375063670'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/5331763320375063670'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/06/19957.html' title='父　岩太郎の思い出　－昔のさかな屋－（記：1995年7月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-8207601242951437350</id><published>2010-06-15T08:51:00.002+09:00</published><updated>2010-06-15T08:57:43.517+09:00</updated><title type='text'>戦時体制下の四商（記：2002年８月）</title><content type='html'>　昭和16年12月大東亜戦争緒戦ではハワイ・マレー沖で大勝、シンガポール陥落と快進撃したものの、翌17年6月ミッドウェー海戦で惨敗してからは、国内の戦時体制は一段と強化されていった。四商での学園生活もご多分に漏れず、非常時色の濃いものに塗り替えられていった。第46回卒業生として、その幾つかを思い出すままに書き記してみよう。当時の呼称はカッコ内に現在の呼び方を注記した。四商先輩諸兄の、より詳細・正確な回想を期待します。&lt;br /&gt;　尚「四商」は明治29年、私立として開校、明治37年三重県立四日市商業学校となり、平成15年では創立107周年を迎える伝統校である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.鮮満旅行の廃止&lt;br /&gt;　5年生の修学旅行は従来から朝鮮・満州(今の中国東北部)旅行であった。関釜連絡船で釜山に上陸後、汽車で京城(ソウル)、平壌、新義州、奉天(瀋陽)、新京(長春)、ハルピンと鮮満を見学できるのを楽しみにしていたのに、2年程前に廃止となりがっかりした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.軍事訓練強化&lt;br /&gt;　菰野町千草の実弾射撃場への耐熱行軍では目的地まで水飲み禁止。にもかかわらず自転車に乗りながら時々駆け足を命じる教練の教官・I少尉がこの時ほど恨めしく思ったことは無い。桜村の一生吹き山での突撃演習。松坂から夜行軍して、宮川堤で暁の模擬遭遇戦。空包射撃の後、喚声を上げての白兵戦も印象深い。&lt;br /&gt;　武器庫には村田銃から三八式歩兵銃、騎兵銃や指揮刀などが保管されていた。擲弾筒、機関銃の有無は記憶が定かでない。射撃部を創設、東南隅の花卉園を改造して狭窄(きょうさく)射撃場が設置された。T准尉が教官となり、銃剣術訓練も始まった。&lt;br /&gt;　このほか久居の連隊見学、鈴鹿(荒神山)の陸軍通信隊(中部第132部隊)への体験入営など着々と徴兵予備訓練が進められていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.体力章検定、体格検査&lt;br /&gt;　単に”走る跳ぶ”のほかに20~40kgの土嚢運搬、手榴弾投擲などを含めた体力章検定が制定された。体力に応じ初級、中級、上級と3種類のバッジが交付されたが、土嚢と手榴弾はなかなかに難関であつた。&lt;br /&gt;　4年生の時には柔道場の一隅を衝立で仕切って、M検(性病チェックのため生殖器検査)を含むプレ徴兵検査のような体格検査が実施された。その後戦局急を告げて、本来満20歳で徴兵検査、21歳で入営の兵役が2年間繰り上げられてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.進学、志願&lt;br /&gt;　商業学校からの進学は高等商業学校へが従来からの常道であった。しかし戦局の進展に伴い、東京、横浜、名古屋、彦根、和歌山、神戸など本土中央部の高等商業学校はすべて工業経営専門学校に改変された。僅かに小樽、高松、山口、大分などの数校のみが今まで通りの高等商業学校として存続された。&lt;br /&gt;　一方、陸軍士官学校、海軍兵学校、陸軍経理学校、海軍経理学校等、軍関係の学校が進学候補に加わってきた。K君が陸士入学。S君が海軍経理学校に進んだと聞いている。&lt;br /&gt;　そのうち予科練(海軍飛行予科練習生)や特幹(とっかん)(陸軍特別幹部候補生)も募集が始まった。颯爽とした「七つボタンは桜に錨」は若人の憧れのステイタスでもあった。次の諸君が志願していった。&lt;br /&gt;　H君　　小豆島で「咬竜」特攻訓練中、機雷に接触して殉職。&lt;br /&gt;　T君　　ロケット戦闘機「秋水」特攻要員だったが終戦で命拾い。&lt;br /&gt;　M君　　人間魚雷「回天」浮上せずで、一時生死の境を彷徨。&lt;br /&gt;　TN君&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.授業科目の改廃・削減、就職&lt;br /&gt;　上記のように軍事教科が増強される一方、一般教科、商業教科は段々軽んぜられていった。経済・法規・商品・商業実践・商業作文・商業英作文(Correspondence コレポン)は殆んど授業が無かった。平田記念館の伝統的なEnglish Room(室内は英語only、日本語は厳禁)もいつしか廃止された。ただ支那語(中国普通話)だけは新設された数少ない教科の一つである。&lt;br /&gt;　それもこれも徴兵された壮丁の穴埋めとして、農村への勤労奉仕が多発してきたからであろう。挙句の果てが3ヶ月の繰り上げ卒業である。これで学業全て万事休すとなった。&lt;br /&gt;　軍国の道は厳しく、卒業後の就職も第二海軍燃料廠(塩浜)、三菱重工業(名古屋)、浦賀ドック(四日市)などの軍需工場に多く振り向けられた。南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)からも求人が有った。しかし渡満したのは満州電気へ就職したI君(故人)一人だけと聞いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　紗のかかったような遥かな回想なら懐かしくもある。しかし一つ一つの事例を具体的に列記して、平和な現在から顧みると随分異常な学園生活であったと思う。&lt;br /&gt;「跋渉踏破せり、幾山河」の感一入(ひとしお)である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-8207601242951437350?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/8207601242951437350'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/8207601242951437350'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/06/2002.html' title='戦時体制下の四商（記：2002年８月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-943466799634411228</id><published>2010-06-15T00:26:00.019+09:00</published><updated>2010-06-15T08:40:57.120+09:00</updated><title type='text'>東海道沿いの我が家（記：2001年12月）</title><content type='html'>　昭和57年に刊行された「東海道往来」(増田　武夫著)に収録されている旧四日市市内の街道絵図(昭和3年11月現在)を眺めていると70年程前の水車町(みずぐるまちょう)の面影が蘇ってくる。水車町は東海道の海蔵川に架かっていた海蔵橋(かいぞうばし)(今は無い)の南たもとから、南へ約100メートル迄の東海道を軸に、東西に拡がった地域である。&lt;br /&gt;　元禄年代に治左ヱ門なる人がこの地で水車業を始めたところから水車町と呼ばれるようになったと言う。当時我が家の所在地は通常は水車町234番地と称していたが、戸籍では浜一色(はまいっしき)234番地となつていた。現在の地籍では浜一色町2の9番地である。それはともかく、昭和5年に引っ越してきて、昭和20年6月空襲で焼失するまでの東海道沿いの水車町を、北から南へ思い浮かべてみよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　まず前述絵図の東海道の東側を、海蔵橋から南へ、&lt;br /&gt;&lt;table str="" style="border-collapse: collapse; width: 431px; height: 672px;" border="0" cellpadding="0" cellspacing="0"&gt;&lt;col style="width: 62pt;" width="83"&gt;  &lt;col style="width: 78pt;" width="104"&gt;  &lt;col style="width: 199pt;" width="265"&gt;  &lt;tbody&gt;&lt;tr style="height: 14.25pt;" height="19"&gt;   &lt;td class="xl24" style="height: 14.25pt; width: 62pt;" height="19" width="83"&gt;当時の通称&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl24" style="border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;絵図の表示&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl24" style="border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;思い出すことども&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27.75pt;" height="37"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 27.75pt; width: 62pt;" height="37" width="83"&gt;山之神&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;山之神祠&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;粕森(かすもり)さん?　が山嶽信仰の小祠を祭祀していた。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 13.5pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;　&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;割烹　容月&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;幼い私の記憶には無い。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 27pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;米屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;米辰商店&lt;br /&gt;(こめたつ)&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;米麦雑穀　武藤辰蔵。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 55.5pt;" height="74"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 55.5pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="74" width="83"&gt;ほしか屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;武藤商店&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;ほしかとは肥料用干し鰯のこと。大豆・菜種油の絞り粕、多木(たき)肥料の看板もあったが私たちは｢ほしか屋｣と呼んだ。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 27pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;目立て屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;水目屋&lt;br /&gt;(みずめや)&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;鋸目立て、大工道具販売。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 27pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;はかり屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;青木計器店&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;度量衡、特に台秤(だいばかり)が店頭に陳列されていた。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 41.25pt;" height="55"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 41.25pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="55" width="83"&gt;瀬戸物屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;辻本商店&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;万古焼(ばんこやき)に対し中級の陶磁器食器類を「せともの」と呼んだ。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 40.5pt;" height="54"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 40.5pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="54" width="83"&gt;綿屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;伊藤綿屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;当時は主婦が布団綿を買ってきて、又は打ち直して布団を新製・再製することが多かった。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 27pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;傘屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;伊藤傘屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;屋号入りの番傘や学童用の奴傘(やつこがさ)を店頭で貼っていた。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 13.5pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;窯(かま)屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;岩塚窯屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;万古窯元。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 27pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;しもた屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;会社員塚田&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;勤め人など、商売をしていない家を「しもたや」といった。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 27pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;タバコ屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;後藤煙草店&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;一定距離以内の競合開店を専売局が許さなかった。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 27pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;風呂屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;銭湯　松蔭湯&lt;br /&gt;(まつかげゆ)&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;予め買っておいた風呂札(ふろふだ)を番台(ばんだい)に渡して入浴。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 13.5pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;床屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;大矢知理髪店&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;子供客にはラムネ菓子を呉れた。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 27pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;菓子屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;竹尾菓子屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;後に川原町の菓子屋「宝来軒」は此処で創業した。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 13.5pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;窯屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;坂倉窯屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;万古窯元　店の奥は窯場だった。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 40.5pt;" height="54"&gt;   &lt;td class="xl26" style="height: 40.5pt; border-top: medium none; width: 62pt;" height="54" width="83"&gt;ろくろ師&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;松井糊屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl26" style="border-top: medium none; border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;手廻し轆轤(ろくろ)で皿・椀・花瓶を手作り、乾燥まで。かなりの名工だったとか。元は玉糊(たまのり)屋とは知らなかった。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt; &lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;br /&gt;次は東海道の西側を、北から南へ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;table str="" style="border-collapse: collapse; width: 433px; height: 776px;" border="0" cellpadding="0" cellspacing="0"&gt;&lt;col style="width: 62pt;" width="83"&gt;  &lt;col style="width: 78pt;" width="104"&gt;  &lt;col style="width: 199pt;" width="265"&gt;  &lt;tbody&gt;&lt;tr style="height: 14.25pt;" height="19"&gt;   &lt;td class="xl24" style="height: 14.25pt; width: 62pt;" height="19" width="83"&gt;当時の通称&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl24" style="border-left: medium none; width: 78pt;" width="104"&gt;絵図の表示&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl24" style="border-left: medium none; width: 199pt;" width="265"&gt;思い出すことども&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 41.25pt;" height="55"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 41.25pt; width: 62pt;" height="55" width="83"&gt;油屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;斎木だんご屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;だんご屋の記憶は全く無い。ガソリン給油機を店先に据えた河村石油店と覚えている。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 27pt; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;呉服屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;武藤呉服店&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;向かいの米辰・ほしか屋と共に武藤家は水車町の大店(おおだな)。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 27pt; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;菓子屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;伊藤菓子店&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;菓子製造販売、黒飴玉10個1銭、ビスケット10個1銭。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 13.5pt; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;万古屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;杉本万古問屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;あまり覚えていない。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 13.5pt; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;佐藤ランプ屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;殆んど記憶に無い。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 27pt; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;神主&lt;br /&gt;  中島由太郎&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;しもた屋だったせいか全く気付かなかった。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 27pt; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;八百屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;八百仁&lt;br /&gt;  (やおに)&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;野菜・果物。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 13.5pt; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;万古屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;村田万古問屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;万古焼きの茶器や花瓶などの卸問屋。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 13.5pt; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;万古屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;型万古　小野&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;よく覚えていない。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 27pt; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;万古屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;長谷川&lt;br /&gt;  万古問屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 13.5pt; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;荒物屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;坂部屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;荒物・雑貨から、ちょっとした文房具まで。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 27pt; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;下駄屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;会社員　伊藤&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;会社員と絵図にはあるが、店先での下駄作りが記憶にある。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 40.5pt;" height="54"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 40.5pt; width: 62pt;" height="54" width="83"&gt;酒屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;壁佐(かべさ)&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;絵図では壁材商とあるが、私の記憶では酒・醤油・食用油の小売店だったように覚えている。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 54pt;" height="72"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 54pt; width: 62pt;" height="72" width="83"&gt;米屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;小林商店&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;米穀薪炭のほか豆・卵も小売、陶磁器窯用の割木(わりき)(薪)を大量に貯蔵販売していた。武藤家と並んで町内の大店の一つ。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 40.5pt;" height="54"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 40.5pt; width: 62pt;" height="54" width="83"&gt;デンキ屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;杉本石屋の北半分に引っ越してきたモーターの巻き替えなどの電機修理屋。昭和3年の絵図にはまだ載っていない。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 27pt;" height="36"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 27pt; width: 62pt;" height="36" width="83"&gt;石屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;杉本石材店&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;屋号は「石一(いしいち)」、大番食品(株)の杉本一三氏の生家。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 81pt;" height="108"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 81pt; width: 62pt;" height="108" width="83"&gt;魚屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;前田屋&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;これが我が家、屋号は「魚岩」。うどん屋の前田屋(若林家)が昭和5年、出身地の亀山市に引き揚げることになったので、この家を建てた大工・後藤清蔵(私の母方の祖父)の斡旋で我が家が入居し、魚屋を営んだ。&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt;  &lt;tr style="height: 13.5pt;" height="18"&gt;   &lt;td class="xl25" style="height: 13.5pt; width: 62pt;" height="18" width="83"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 78pt;" width="104"&gt;火の見櫓&lt;/td&gt;   &lt;td class="xl25" style="width: 199pt;" width="265"&gt;我が家の南隣りには無かった。　&lt;/td&gt;  &lt;/tr&gt; &lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　昭和7年頃舗装されるまでは凸凹だった前の往還(おうかん)(東海道、広い道路を往還、狭い路地&lt;br /&gt;を「せこ」と呼んだ)を時たま桑名通い(がよい)(桑名行き)のバスがガタゴトと通り過ぎる。時移り人変わり、町並みも戦災で一変してしまった。私の微かな記憶も旧いボンネットバスのように、いつしか砂埃の彼方に走り去ってしまうのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　なにしろ、かなり昔の幼い記憶を辿って、古語・死語・俗語を交えながら書き記したので思い違いや欠落があるかも知れない。お気付きの節は忌憚なきご教示を賜りたい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-943466799634411228?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/943466799634411228'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/943466799634411228'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/06/200112.html' title='東海道沿いの我が家（記：2001年12月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-5232146456313454624</id><published>2010-06-15T00:20:00.001+09:00</published><updated>2010-06-15T00:22:28.549+09:00</updated><title type='text'>戦時下の婚礼（記：2001年８月16日）</title><content type='html'>　太平洋戦争勃発の翌年、昭和17年に結婚した兄の婚礼の情景を思い出している。60年近く前のこととて、記憶が一部覚束ない面もあるが思いつくままに記してみよう。&lt;br /&gt;　同年6月、兄は隣町の川原町から嫁を迎えることとなった。我が家のしきたりで、結納の金品に添えて蛇の目傘と高下駄を嫁方に納めた。これは「婚礼当日がどんな雨風になっても嫁入りして下さい」との願望を表す品々だという。もっとも雨が降れば降ったで「降り込め」といって、縁起が良いとも言い習わしていたが。&lt;br /&gt;　幸い当日は天気も良く、花嫁は我が家の100メートル位手前でタクシーを降り、仲人夫人に手を引かれてゆっくり歩む。近所の人々が物見高く人垣を築いて見守る中を、文金高島田に角隠し、裾模様の褄をとって、一歩一歩当家に近付く。&lt;br /&gt;　迎える花婿側は紋付羽織袴に威儀を正し、玄関の両側には我が家の家紋「剣かたばみ」入りの高張り提灯を掲げて花嫁を待つ。当家に嫁入りと同時に、屋根上から蜜柑箱に用意した袋菓子を見物衆の頭上に撒く。娯楽の少ない当時としては、これはちょっとしたショーイベントである。&lt;br /&gt;　花嫁は先ず仏間の仏壇に向かって拝礼し、この家の嫁に入ることを先祖に告げる。続いて座敷に上がり婚礼の儀となる。家は商家の造りで店の間・仏間・座敷と別れているが、間の襖・障子を取り外すとそれなりの広間となる。&lt;br /&gt;　あとは型通りに、三々九度の盃、新客との固めの盃、仲人の口上があって、披露宴となり、余り上手でもない謡曲「高砂」が謡われる。当時は「人的資源確保」ということで結婚・出産は結構奨励されていたようである。戦時下とはいえ何升かの酒が特配になり、披露の宴も宵闇と共に盛り上がっていった。これから先は余りよく覚えていない。ただ、その日の内に新婚旅行に出掛けることはなかった。&lt;br /&gt;　その兄も昭和20年6月、満30歳を目前にしてフィリピンで戦死してしまった。愛しい妻と只一人の愛娘を遺して。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-5232146456313454624?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/5232146456313454624'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/5232146456313454624'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/06/200116.html' title='戦時下の婚礼（記：2001年８月16日）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-2528793692727954318</id><published>2010-06-12T15:47:00.009+09:00</published><updated>2010-06-16T19:14:53.940+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='オーストラリア'/><title type='text'>オーストラリア紀行　　豪大陸点描（2004年10月）</title><content type='html'>１．オーストラリア入国&lt;br /&gt;　オーストラリア紀行と表題したものの、日本の20倍もある広い大陸を、僅か１０日間のツァーではとても見聞しきれるものではない。敢えて「点描」と付け加えた次第である。&lt;br /&gt;　ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、そしてアフリカへは今までに旅したことがある。しかし南半球のオーストラリア大陸へ足を踏み入れたのは今回が初めてである。本来オーストラル austral とは「南方の」を意味する。&lt;br /&gt;　１０月２３日(土)私たち１２名と南田真樹子TDの一行は小牧空港１９時５５分発ケアンズ・シドニー行きのオーストラリア航空AO7950便で名古屋から出発した。出発に先立ち名古屋空港税７５０円を含め、オーストラリアの出国税と国際線、国内線の到着、出発共の空港税合計１３９９０円が徴収された。後で知ったことだが丁度搭乗手続きをしている１７．５６頃、新潟県中越地方に震度６強の激しい地震が起こっていた。&lt;br /&gt;　約７時間半の夜行便でケアンズ空港に着陸する。時差＋１時間で薄明の午前４時半である。観光ETAS(イータス)とパスポートに入国カードを添えて入国審査を受ける。観光ETASとは査証(ビザ)に代わる入国許可証で、３ヶ月以内の観光なら１年間何回でも使用可能の入国許可カードである。機内で配られた日本語の入国カードに併記されたアンケートは詳細かつ厳格である。動植物、食品は原則持ち込み禁止、特に第６項「すべての食物は・・・」は「はい」を記入し、キャンディ、クッキー等も一応申告しておくようにとTDから注意がある。申告を偽り怠った場合の罰則は厳しいという。&lt;br /&gt;　太古(約１億5000万年前のジュラ紀)の海陸分布でもオーストラリアは他のどの大陸にも接せず、大陸移動を続けて現在の位置形状になつたとJ.T.ウィルソン(1962)は推定している。従ってほぼ純粋に繁殖してきた固有種の動植物を今更外来種に侵害されることの無いよう、神経質な防疫体制を執っているようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．ケアンズ、コアラ、バンジージャンプ&lt;br /&gt;　国際空港や日本領事館出張所がある割に、ケアンズは東西1.2&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVxuu1AMHI/AAAAAAAAAZQ/jWbeh92QzaM/s1600/%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%BA.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 175px; height: 131px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVxuu1AMHI/AAAAAAAAAZQ/jWbeh92QzaM/s320/%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%BA.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5482413169051709554" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;km南北2.3kmと碁盤の目状の小さな町である。しかし意外に多いホテル、大きなカジノ(ソフィテル・リーフ・カジノ)、さり気ないナイトクラブ、カナダ、ニュージーランドにも出店している大橋巨泉のOKギフト店、そして街路樹も気温も熱帯のリゾートである。そ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVyHvuzwnI/AAAAAAAAAZY/ZQV7bWp0yyM/s1600/%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%81%A8%E7%BE%A9%E6%AF%8D.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 100px; height: 130px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVyHvuzwnI/AAAAAAAAAZY/ZQV7bWp0yyM/s320/%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%81%A8%E7%BE%A9%E6%AF%8D.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5482413598790894194" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;して海は世界最大の珊瑚礁群グレートバリアリーフ、山は世界最古の熱帯雨林ウエットトロピックス等、世界遺産リゾートへの発進基地でもある&lt;br /&gt;　またケアンズは大陸を一周する世界最長の国道１号線(12,538km)の起点である。その一部を通ってまずトロピカル動物園を訪れる。コアラを抱いての写真撮影タイム(11時から)ではデジタル写真を１枚(14A$  \85/A$)。見学者を敵と感じないのか、襟巻きトカゲは襟を拡げてくれなかった。蛇、鰐、トカゲなど定番動物のほかカンガルー、ウォンバット、大型の火食い鳥、華麗なオウム、奇矯なフクロウ、赤いレッドパンダ、弱視のためうずくまる白カンガルーなど珍しい園内&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVykZpENJI/AAAAAAAAAZg/gRJROIVGxAM/s1600/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 166px; height: 125px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVykZpENJI/AAAAAAAAAZg/gRJROIVGxAM/s320/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5482414091077432466" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;を一巡して、次のバンジージャンプ場へ向かう。&lt;br /&gt;　ニュージーランドで若者が興じるのを見てヒントを得たというアクティビティーとしての施設である。高さ44mのジャンプ台から両足首を弾性のロープの端に結わえて飛び降りる。２回３回と跳ね上がりながら池の水面近くまで急降下する。その間ビートの利いたBGMがジャンパーの絶叫と混ざり合って観衆の熱狂をいやが上にも掻き立てる。&lt;br /&gt;その隣では恋人同士らしい二人が並んでロープに装着され、同じく44mの長大ブランコである。ゲストハウスの屋上遙か、一時見えなくなる程のインターバルで振り上げ、振り下ろされる。料金は写真撮影込みで160A$とのことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．キュランダ鉄道&lt;br /&gt;　ここを出て間もなく世界第二位の長さ(7.5km)を誇るスカイレールのゴンドラを見上げた。途中二回乗り換え、熱帯雨林を眼下にキュランダまで続くという。私たちは途中、展望台から遙かにコーラルシーを眺めながらバスでキュランダへ。&lt;br /&gt;　キュランダ美景鉄道(Scenic Railway)の１４時出発まで、町を散策する。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVy5XjrXrI/AAAAAAAAAZo/7V5BdgBeoTE/s1600/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E9%89%84%E9%81%93.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 183px; height: 138px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVy5XjrXrI/AAAAAAAAAZo/7V5BdgBeoTE/s320/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E9%89%84%E9%81%93.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5482414451295215282" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;向こうから白人が「コンニチワ」と声を掛けてきたので「グッダイ　マイト」(Good day mate　「やー今日は」くらいのオーストラリア英語)と返したらオージー(オーストラリア人)なのか、ニャッと笑って通り過ぎた。&lt;br /&gt;ブーゲンビリアの咲き匂う町角ではアボリジニのストリート・パフォーマンス。カンガルー、鰐の皮、ブーメラン等の民芸店に近いTシャツ屋でカンガルーのデザインのTシャツを買う。中年店員の応対が爽やかである。&lt;br /&gt;　少し早めにキュランダ駅に戻り、眺めの良い左側の席に就く。私たち１３名に対し２０名分の席が割り当てられたが、１０数両編成なので結局皆が思い思いにゆったり着席する。&lt;br /&gt;　発車して間もなくバロン滝駅に停車するが乾期のため、か細い白糸の滝である。バロン川沿いの雄大な熱帯雨林を眺めながらストーニークリーク滝の鉄橋を通るが、此処も水涸れである。しかし1890年代に完成したカーブのきついこの鉄橋は車輪を軋ませながら、年代物の客車で往時の鉄道旅行を経験させてくれる。&lt;br /&gt;　次々とトンネルを潜りながらフレッシュウォーター駅に到着、バスに乗り換えてケアンズへ帰る。建設当時工夫たちがこの村でフレッシュウォーターを補給してキュランダ山脈へ入ったことから、こう名付けられた。もともとこの鉄道は長い雨期の都度、ケアンズからの道路が度々損壊した為、交通の便を確保するため1886年着工、難工事の末1910年に完成したものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４．ウルル・カタジュタ国立公園&lt;br /&gt;　翌２５日(日)は9.25発カンタス航空QF989便でエアーズロックへ飛&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVzTvSUBDI/AAAAAAAAAZw/yWTptwNljq4/s1600/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BF%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%85%AC%E5%9C%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 163px; height: 119px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVzTvSUBDI/AAAAAAAAAZw/yWTptwNljq4/s320/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BF%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%85%AC%E5%9C%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5482414904341431346" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ぶ。せいぜい1000m程度の大分水嶺山脈を越えると赤茶けた大地に真っ白な塩湖が点在する。着陸直前、機の左側の荒野にぽっかりとエアーズロックが見える。その遙か先にはモコモコとしたカタジュタの岩群が霞んでいる。ケアンズから1786km、エアーズロック空港11.45到着。時差が－30分なので2時間50分のフライトである。&lt;br /&gt;　迎えてくれた現地ガイドめぐみさんが冒頭で「この地に約600人居る原住の人々はアボリジニaborigine(原住民、ラテン語でも「最初から、根源から」を意味する)またはアボ abo と軽蔑的に呼ばれるのをひどく嫌うので、アナング(アナング語で人々の意)と呼びます」と前置きして解説が始まる。５日間有効のウルル・カタジュタ国立公園入園券をバスの窓からゲート係員に提示しながら入境する。&lt;br /&gt;　この日はカタジュタのオルガ岩群見学である。３６の岩山の集まりであるカタジュタはアナング語で、カタ(頭)ジュタ(沢山)を意味する。1872年アーネスト・ジャイルズがこの岩群を発見して、最高の山(548m)にバーテンバーグ(ドイツ南西部)の女王の名に因んでオルガ山と名を付けた。&lt;br /&gt;　カタジュタまでの展望台では一連の岩群を、いわば裏側から眺めることが出来る。振り返れば赤紫のエアーズロックが荒野の地平にぽっかりと、遮るものも無く佇んでいる。その間約30km。&lt;br /&gt;予め聞いては居たものの早速小さい蠅の襲来である。乾燥地帯のため僅かの湿気を求めて目鼻口の周りにまつわりつく。防虫剤や化粧品はむしろ匂いが蠅を呼び寄せるらしい。頭からすっぽりと防虫網を被るのが最も効果的という。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;５．オルガ渓谷&lt;br /&gt;　バスを進めてオルガ渓谷入り口に到着する。圧倒的な岩山が左右から迫ってくる。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBigNnIkRpI/AAAAAAAAAaA/fbPyIkT8Cro/s1600/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E6%B8%93%E8%B0%B7.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 162px; height: 121px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBigNnIkRpI/AAAAAAAAAaA/fbPyIkT8Cro/s320/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E6%B8%93%E8%B0%B7.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5483308702027237010" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;しっかり水筒を肩に掛け奥の展望台まで往復する、約１時間。&lt;br /&gt;　ウルルもカタジュタも約６億年の昔、西方の山脈から流れ込んだ玄武岩、花崗岩、砂、小石が混じった礫岩の堆積が風雨に一部浸食されて、現在の形になった。岩肌が赤いのは鉄分のせいであると地質学者は言う。オルガ渓谷では剥落した礫岩塊を多く見かけた。浸食は今も続いている。岩山の渓谷を吹き抜ける風でアニメ作家宮崎駿が「風の谷のナウシカ」を発想したのも頷ける。&lt;br /&gt;　このあと立ち寄った公衆便所の建築費は膨大だったという。その殆どが資材機材の運送費で、道路も未整備の当時、毎回数百kmの道を往復したからだとガイドが解説する。ウルルに引き返す途中、一面の焼け野原に差し掛かる。時に猛烈な落雷があり一気に燃え広がるという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;６．エアーズロック、サンセット&lt;br /&gt;　1873年ウィリアム・クリスティー・ゴスがウルルの巨岩を発見し、当時&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBigt2OGM6I/AAAAAAAAAaI/RR3xwuyJZl4/s1600/%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BC%91.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 130px; height: 174px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBigt2OGM6I/AAAAAAAAAaI/RR3xwuyJZl4/s320/%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BC%91.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5483309255832777634" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;の南オーストラリア長官サー・ヘンリー・エアーズの名よりエアーズロック(Ayers Rock)と名付けた。決して空気(Air)の岩ではない。&lt;br /&gt;　アナングは今でもこの一枚岩をウルルと呼んでいるが、その意味はアナングの伝承ジュクルバの中にあり、アナング以外には明かされていない。&lt;br /&gt;　まずアナングの居住区に近いムティジュルの水場を訪ねる。水利に乏しいこの地では岩肌から流れ溜まる雨水は絶対に汚してはならない命の水であり、蛇神様が守っていると固く信じられている。雨は初め１０分間ほどは岩肌に染み込み、その後薄黒い跡を付けながら岩ひだを流れ落ちる。&lt;br /&gt;　明朝予定の登山口を下見してサンセット・ビューイング・エリアへ移動する。既に旅行会社がシャンパン・パー&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBihE2KMZlI/AAAAAAAAAaQ/5tVmdEjS7wM/s1600/%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 164px; height: 124px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBihE2KMZlI/AAAAAAAAAaQ/5tVmdEjS7wM/s320/%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5483309650953397842" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ティーの準備を整えている。グラスを片手に刻々と色相を変えて行くエアーズロックを眺めながら、観光客の一群がさんざめく。地平に近く雲がかかり、燃えるように真っ赤なエアーズロックは見られなかったが、シャンパンで上気した顔はそれぞれ満足気である。小型車で来た小グループも三々五々引き揚げて行く。&lt;br /&gt;　宿泊は国立公園の外側、ユララ(ディンゴ(オーストラリア犬の一種)が遠吠えするところの意)のエアーズロック・リゾートにあるエミュー・ウォーク・アパートメント。連泊客向けの宿舎らしくキッチンが完備している。６８枚ものスイス製日除け三角帆布がユニークである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;７．エアーズロック、サンライズ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBihhsXjQXI/AAAAAAAAAaY/uCBmGtzEIJA/s1600/%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BC%93.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 163px; height: 123px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBihhsXjQXI/AAAAAAAAAaY/uCBmGtzEIJA/s320/%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BC%93.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5483310146541273458" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　26日(火)は4.20モーニングコール。真っ暗の約13kmをエアーズロックの北東サンライズ・ピューイング・エリアへひた走る。カンガルーは光に向かって突進する習性があるので、ヘッドライトを防護するため頑丈なバンパーを装着しているとガイドが説明する。&lt;br /&gt;　まだ暗いなか、特製のリュックサックにセットされた握り飯と即席味噌汁で朝食を済ませる。漸く東が白み始めるとあちこちでカメラのフラッシュが閃く。空が茜色に染まる頃には見る見る大岩に赤みが増してくる。周囲を見渡せば夥しい人、人、人である。&lt;br /&gt;　1980年エアーズロック・リゾートの北6kmに現在の空港が完成するまでは、この辺りが飛行場だったが突風が多くパイロットは苦労したという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;８．アナングのジュクルバ&lt;br /&gt;　アナングにとってウルル自体が聖地なのだが、特に北東部には聖域が多く写真撮影禁止の立て札がある。地表から数メートルのところに水平にぱっくりと割れ目が出来ている。その幾つかは聖域として立ち入り撮影とも厳禁である。儀式、安産祈願、処刑場等ジュクルバに関する聖域が多い。&lt;br /&gt;　ジュクルパはアナン&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBiiAUwsn9I/AAAAAAAAAag/NsrL1FXn4bU/s1600/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 190px; height: 143px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBiiAUwsn9I/AAAAAAAAAag/NsrL1FXn4bU/s320/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5483310672780238802" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;グの神話「天地創造」から集団生活の掟、儀式、自然との共生、日常生活のノウハウまで包括する伝承である。アナングには文字が無く、これらの伝承は代々特定の人々によって口伝で語り継がれている。万一誤って伝えた者は、獲物を横取りした罪人同様、両手両足を切断されて処刑場に遺棄されるという。飢え渇きに悶え苦しみながら死に至る惨刑である。&lt;br /&gt;　剥落した亀裂が段々風食されて、高さ数メートルのウェーブロックになっている。天井には岩燕の巣が、壁面にはアナングの祈りを込めた水の渦巻き、貴重な食用幼虫(オオボクトウ)の絵などが描かれている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;９．エアーズロック、登山道&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBiigB8AhHI/AAAAAAAAAao/7p7fGH4TlO4/s1600/%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E7%99%BB%E5%B1%B1%E5%8F%A3.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 159px; height: 120px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBiigB8AhHI/AAAAAAAAAao/7p7fGH4TlO4/s320/%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E7%99%BB%E5%B1%B1%E5%8F%A3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5483311217483220082" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　針のような葉のスピニフェックスの原を通り、ユーカリの林を抜けて、8.00前に登山口に到着した。しかし掲示板には「雨の予報で登山口閉鎖」とある。雨雲一つ無い空を見上げ訝しんでいると、係員が次の掲示板に掛け替えた。「気温が36度以上になる予報で登山口閉鎖」である。聞けば昨日も一昨日も閉鎖されていたという。隣の掲示板には「神聖な山だから極力登らないで欲しい」というアナングの懇願にも似た願いが切々と記されている。&lt;br /&gt;　なお登山口閉鎖には次のような理由が列記されている。&lt;br /&gt;　(1)３時間以内に雨、嵐が予報されるとき&lt;br /&gt;　(2)2500フィートでの最高風速が25ノット以上と予想されるとき&lt;br /&gt;　(3)雲が頂上より下りてきているとき&lt;br /&gt;　(4)救助作業が行われているとき&lt;br /&gt;　(5)気温が36度以上になると予報されるとき&lt;br /&gt;　(6)伝統的所有者から文化的理由による要請があったとき&lt;br /&gt;　これらは数カ国語で列記されているが、日本語は英語、ドイツ語に次いで確か３番目位に書いてあった。&lt;br /&gt;　登山口より50m程先からは登山ルートに鎖の柵が設置されている。ルートの傾斜は平均30度、最大45度はあるという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１０． ウルル・カタジュタ・カルチャーセンター&lt;br /&gt;　心残りに登山道を見返りながら、アナングの生活様式や文化を展示紹介するウルル・カタジュタ・カルチャーセンターへ行く。アナング語には文字が無いので、英語に対するアナング語を音声で聞かせてくれる。蛇は「ニョロニョロ」と聞こえた、少し違うが。また数詞は1.2.3.しか無いので、それ以上は1.2.3.ジュタ・ジュタ・・・( 沢山、沢山・・・) という。興味深いセンターだが一切撮影禁止なのが残念である。&lt;br /&gt;　宿舎に戻り隣接のビジターズセンターでこの地域の地質、動植物、アナン&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBii776ctRI/AAAAAAAAAaw/VedP0d1MbgI/s1600/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%AB.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 170px; height: 128px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBii776ctRI/AAAAAAAAAaw/VedP0d1MbgI/s320/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%AB.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5483311696902403346" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;グの生活文化の展示を見学する。このあと無料シャトルバスでリゾート一円を巡回する。高級ホテル・セイルズ・インザ・デザートやアウトバック・パイオニアロッジのほか随所にキャンプ場、コーチ(Coach)旅行者用のグランドがある。一周の後はショッピングセンターで散策、ここの郵便局から投函した葉書(A$1.10)にはUraraの消印が押されていた。&lt;br /&gt;　空港までの道すがら、ガイドから「エアーズロック達成証明書」なるものが手渡される。曰く「ウルル・カタジュタ国立公園を訪れ、ジュクルバを学び、沢山の写真を撮り、南十字星( ? )を発見した」と記されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１１．パース到着&lt;br /&gt;　14.00発カンタス航空QF1923便でパースへ翔ぶ。眼下の荒野には一直線に走る道路が延々と続く。パースまでの途中800kmはガソ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBijajColrI/AAAAAAAAAa4/6uaUbuQQq_Y/s1600/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 119px; height: 159px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBijajColrI/AAAAAAAAAa4/6uaUbuQQq_Y/s320/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5483312222801794738" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;リンスタンドが無いので、予備のガソリンとスペアタイヤ２本は必携である、とガイドが言っていたのを思い出す。&lt;br /&gt;　緑が濃くなってきたと思ったらパースである。15.30到着、時差が－１時間３０分あるので実質３時間のフライトである。直線距離は1643km。&lt;br /&gt;　スーツケースの角が数センチ亀裂していたのでバゲージ・クレームしたが損傷軽微として取り上げてくれなかった。南田TDの助言に従い、帰国後旅行保険で修理することにした。&lt;br /&gt;　夕食までのひとときシーベルホテルの周辺を散歩する。街の中心部で歩行者天国にも近く、中世ヨーロッパの雰囲気を漂わせるロンドンコートにも足を伸ばす。入り口の時計はロンドンのビッグベンと同デザインという。ブティックに混じって土産物屋、両替屋もあり、観光名所の一つになっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１２．ピナクルズ&lt;br /&gt;　２７日(水)はピナクルズへの行きがけに郊外の墓地公園に立ち寄り、野生のカンガルーの群れに出会う。広い芝生を気ままに飛び跳ねるもの、腹袋に子供を入れたままゆっくり歩くもの、但し尻尾で腰を支えながら一足飛びに前へ進む、左右交互に脚を使う訳ではない。故人の名前、没年月日を刻んだ金属の墓標が半ば芝生に埋もれ掛けている。&lt;br /&gt;　トイレ休憩のガソリンスタンドでは大型荷台に羊をぎっしり詰め込んだトラックを見た。今やオーストラリアは中東イスラム圏への最大の羊輸出国だという。途中の展望台から見た薄碧り色のインド洋は意外に波静かである。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBijz1wEIbI/AAAAAAAAAbA/semigfRTeOY/s1600/%E3%83%94%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%BA.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 169px; height: 126px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBijz1wEIbI/AAAAAAAAAbA/semigfRTeOY/s320/%E3%83%94%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%BA.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5483312657320911282" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;ピナクルズに近く、三角形の道標が目に付く。野犬捕殺用の毒薬入りの餌が撒いてあるので、大事なペットなどは放さないようにとの警告だという。&lt;br /&gt;　ピナクルズ・デザート(砂漠)はパースの北約250km、ナムバン国立公園のほぼ中央に位置する。ビジターガイドによれば「石灰岩層の上に生育した樹木の根が誘導する水分で、石灰岩が部分的に溶ける。風が上層の砂を吹き飛ばし、溶け残った石灰岩が地表に現れ、長年に亘って風化されてきた」という。ピナクル( pinnacle )とはもともと高峯とか小尖塔という意味である。&lt;br /&gt;　人の背丈ほどの松茸、バットマンその他色々な形のものが林立し「荒野の墓標」の名に相応しい。展望台から見渡す限りの砂丘に「ピナクル」が点在している。砂地にぽつんと咲くイェローハイバーキャーの黄色い花が可憐である。此処でもエアーズロック以上に小蠅がたかってくる。早々にバスに引き返し、誘導石に従って「墓標砂漠」を回遊しつつ別れを告げる。&lt;br /&gt;　往路に立ち寄ったガソリンスタンドの周辺でワイルドフラワーを観察する。円筒形の花パンクシア、鮮紅のボトルブラシ、ふわっとした煙り草などが珍しい。&lt;br /&gt;　道路の中央分離線が直線なら追い越し禁止、波線なら追い越しOKとドライバーが解説する。そういえばカーブの手前は直線、曲がってしまえば波線になっていた。途中スーパーCOLESで蜂蜜を買ってパースに帰る。今日は往復500kmの行程である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１３．モンガー湖、キングズパーク、フリーマントル&lt;br /&gt;　28日(木)は郊外のモンガー湖で、西オーストラリア州鳥の黒鳥親子と少時戯れる。黒い親鳥にまつわりつく子は白に近い灰色である。&lt;br /&gt;　次に訪れたキングズパークの丘から、スワン川越しに眺めるパースの街は壮麗である。フェリーやクルーズ船が行き交う先には、サウスパースの街並みが拡がる。陸軍の戦争記念碑に敬意を表して、南西19kmのフリーマントルに向かう。町の入り口近い丘の上には海軍の戦争記念碑がある。何故か周りに米軍の魚雷が１基据えてあった。&lt;br /&gt;　通称カプチーノ通りからフリーマントル・マーケットを左に見て、海岸に近いラウンドハウスに到着する。一見円筒形のように見える12角形の建物は1831年、この地最初の刑務所として建てられた。西オーストラリアでは最も古い公共建築物である。中央に井戸、周囲の狭い囚人房には当時の様子が展示されている。&lt;br /&gt;　手枷・首枷を好奇の目でじっと見つめていたら「試してみては・・・? 」と係員に勧められた。手・首を差し込んでみる、矢張り不格好な見せしめの刑具である。裏手には古い大砲が１門インド洋に向かって据えられている。元々この町は1829年キャプテン・フリーマントルが植民地宣言をしたことに始まる、その名残りであろうか。&lt;br /&gt;　また知る人ぞ知る、此処は1986年、アメリカ以外でアメリカズカップのヨットレースが開催されたことでも有名である。港を望むシーフード・レストランでランチの後パースへ帰る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１４．パースのCATバス&lt;br /&gt;　このあとのフリータイムでは無料バスCAT(Central Area Transit)で市内を遊覧する。青猫はパース駅を挟んで南北ルート、赤猫は東西ルート、黄猫は駅からイーストパース方面を巡回する。波止場に近い珍奇なタワー「スワンベル」からキングズパーク下まで、右手に高層ビル群を見上げながらスワン川沿いに走るときは、まるでサイトシーイング・バスである。&lt;br /&gt;　パース駅では乗降客の流れに沿って構内を歩くうち「年中無休　日本語医療センター」の看板を見つけた。中には白人も混じって数人の患者が待っていた。陸橋で繋がったマイヤーデパートで花柄ノートを買ってホテルに戻る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１５．フィリップ島、ペンギンパレード&lt;br /&gt;　29日(金)は3.40モーニングコール。5.50発のカンタス航空QF480便でメルボルンへ。大オーストラリア湾(Great Australian Bight)岸上空を飛行すること3時間35分、11.25メルボルン着。時差は＋２時間である。&lt;br /&gt;　ワイルド・ワールド風のレストランでバイキング昼食の後、ペンギンパレードの見学にバスはひた走る。トイレ休憩の売店では飼っているウォンバットや、小型カンガルーのようなワラビーを間近に見る。夕食はスコットランド風の海岸に面したレストランで、見事なロブスターのディナーである。&lt;br /&gt;　橋を渡ってフィリップ島へ入った頃には陽も沈み、ペンギンパレードの時間が迫っている。昨夜もリトルペンギンが海から戻って来たのは19.10だった、今日もその頃だろうという。既に階段状の観覧席は満席に近い。タスマン海から吹き寄せる南極の風が冷たいので、体を寄せ合って腰掛ける。&lt;br /&gt;　ペンギンの視力保護のためカメラ、ビデオは持ち込み禁止である。それでも誰かがフラッシュを・・、監視の係員が制止に飛ぶ。やがて世界最小といわれる体長30cm程のペンギンが数羽づつ砂浜へ戻ってくる。日没後の薄明かりでは見つけるのが難しい。やむを得ず場所を変えて木橋を歩いていたら柵のすぐ外側を、既に上陸した一群がヨチヨチと尻尾を振りながら巣穴へ急いでいる。もっと大きいペンギンの群れは南アフリカのケープタウンに近いボルダーズ・ビーチで見たことがある。しかしリトルペンギンのパレードはゼンマイ仕掛けの玩具のようで、如何にも愛らしい。&lt;br /&gt;　これからメルボルンまで137kmの夜道を突っ走って、ホテルへ着いたのは２２時を過ぎていた。朝の３時起きからこの時間まで本ツァー最大の強行軍であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１６．メルボルン、マーケット、大聖堂&lt;br /&gt;　30日(土)朝、窓のカーテンを開けたら一面隣家の壁である。パークビュー・ホテルの名にも拘わらず、これではウォール( 壁 )ビューである。尤もホテルの正面は公園であったが。&lt;br /&gt;　初めに訪れたクイーン・ビクトリア・マーケットは肉、魚、野菜、果物は勿論、衣類、雑貨、玩具など何でも有りの大マーケットである。解体したばかりの首無し肉、ぴくぴく跳ねる魚など、パック詰めのスーパー食品を見慣れた目には凄まじいまでの店頭である。肉、魚ともA$5~10 /kg位、日本の約1/10の価格である。&lt;br /&gt;　次に訪ねたセントパトリック大聖堂は90年以上も掛かって1939年完成した、オーストラリア最大のカトリック教会である。塔の高さ105.8m、奥行き92.25m、７つの礼拝堂を持つ壮大なゴシック建築である。横手の水路で戯れる黒犬に見とれて暫く時を忘れる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１７．キャプテン・クックの家&lt;br /&gt;　数多い公園の中でもユニオン・ジャックをかたどったフィッツロイ・ガーデンはメルボルン随一という。1755年イギリスのグレート・エイトン村に建てられた煉瓦造りのキャプテン・クックの家が、1934年この公園に移築された。台所、居間、ベッドなど18世紀イギリスの生活様式を再現していて興味深い。魔除けなのか、屋根の両先端に「魔女の腰掛け」が設けられている。壊血病予防に役立つ薬草、野菜、果樹のある裏庭にはキャプテン・ジェイムス・クックの銅像が建っている。&lt;br /&gt;　家の前のクラシックな赤いポストに魅せられてはがきを投函した。帰国後到着の葉書にはオーストラリア郵便がここだけに認めているCook’s Cottageの消印がしてあった。&lt;br /&gt;　日射しの芝生では祈りを捧げるヨガ集団、春の花一杯の温室などを眺めながらバスに戻る。車体一面、窓まで広告を描き尽くした無料トラムが市中を走り回る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１８．メルボルン、車窓観光&lt;br /&gt;　ガイド加藤テルエさん(安城市出身)の説明を聞きながら、英国伝統のクリケット・グラウンド、南半球最大というメルボルン博物館、昔ながらのルームキーを使う、五つ星の名門ウインザーホテル、金色像を頂くブリンセス劇場、最初にオーストラリア国旗を掲揚したという州議事堂、英国風のフリンダー・ストリート駅などを車窓より見学する。&lt;br /&gt;　その東側には2002年完成の公共スペース、フェデレーション・スクェアがある。美術館、動画館、放送スタジオ、観光局その他カフェ、レストラン、ホールなどをユニークな建物内に収め、その前のザ・スクェアは１万人を収容できるイベント広場、言わばコングロマリット・スペースである。面するヤラ川の水は見た目よりも綺麗なのだとガイドは言い訳する。&lt;br /&gt;　オパールの店もそこそこに空港へ向かう途中、超正装の男女を幾組か見かけた、これから競馬場へ行く人達だという。今日は土曜日、競馬場へ急ぐ自家用車で交通渋滞である。イギリス同様この地でも競馬場はお洒落な社交場であり、男女出会いの場でもあるらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９．シドニー、オペラハウス&lt;br /&gt;　12.00発シドニー行きカンタス航空QF430便に搭乗する。オーストラリアの首都キャンベラを飛び越えてシドニーへは13.20着。&lt;br /&gt;　ドライバー兼ガイド前川さんのバスでシドニー随一のビューポイント、ミセスマックォーリー・ポイントへ行く。その昔、総督マックォーリーが夫人の郷愁を慰めるため、イギリスに似た眺望の場所に岩を削って腰掛けを作ったという。&lt;br /&gt;　左手オペラハウス越しにハーバーブリッジ、水面に時折遊覧クルーズ船が悠然と行き交う。旧砲台近くの海には数隻のヨットがたゆたい、傍の波打ち際では新婚夫婦を囲んで友人達が歓声を上げている。後ろの向こう岸には軍艦も停泊している。&lt;br /&gt;　オペラハウス前へ移動する。このユニーク建物はデザインコンペの結果、ヨットの帆をイメージしたデンマークの建築家ジョーン・ウッツォンの設計で1959年着工した。しかし工費、工期とも問題続出で、結局あとは４人のオーストラリア建築家チームが1973年に完成した。その間アメリカで開発された局面建築の技術が役立ったともいわれている。スウェーデンから運ばれた1,056,000枚の白タイルで覆われた外面は、天然の雨で常に清拭されるとガイドは説明する。&lt;br /&gt;　向かって左の大きい屋根の方が2679人収容のコンサートホール、右が1547人収容のオペラシァター、その他大小４つの劇場やスタジオが複合している。客席へは入れなかったが絵はがきを参照した。この前の広場にもウェディングドレスの１組がオープンカーで乗り付けている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０．ハーバーブリッジ&lt;br /&gt;　ハーバーブリッジのアーチ上にはブリッジクライム・ツァーの一団が豆粒のように登って行く。参加料はA$155という。もとは不況対策として1923年着工、1932完成したもので全長1149m、全幅49m、アーチの高さは水面より134mもある。電車の軌道、自動車道、歩道があり、入り口にある塔門(Pylon)の一つには資料展示と展望台がある。渡りはしなかったがロックス地区への途中、下を通ったときその巨大さを実感した。&lt;br /&gt;　1788年1月26日アーサー・フィリップが流刑囚780人、海兵隊及びその家族1200人を引き連れてこの辺りの入り江に上陸した。これを記念して1月26日がオーストラリアの建国記念日となっている。従ってロックスと呼ばれるこの地区は、今でも白人オーストラリア発祥の地と言われている。&lt;br /&gt;また60余年前、太平洋戦争のときには日本の特殊潜航艇がシドニー湾に侵入し攻撃したことから、未だに反日の老人が多いことも忘れてはならない。&lt;br /&gt;　市内に戻り、ビルの一角にオパールの採掘場を再現して売り込みに熱を入れるオパール店に立ち寄った後、シティーゲート・シーベル・ホテルに到着する。&lt;br /&gt;　シドニーの属するニューサウス・ウェールズ州を含む東南４州は今夜零時からサマータイムである。明朝遅刻の無いように夕食後、南田TDの指示で時計を１時間進める。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２１．ブルーマウンテン&lt;br /&gt;　明けて３１日(日)はサマータイム第一日である。前川さんのバスで西へ約100kmのブルーマウンテンへ。途中、コロニアル風バルコニーのある建物をよく見かける反面、住宅は意外にこぢんまりとした平屋が多く、ヨーロッパ型の四角い煙突を各戸に備えている。運転手の指さす路面には高橋尚子も走った2000年シドニー・オリンピック・マラソンの青いラインがある。&lt;br /&gt;　カトゥーバの町には寄ることなく、ブルーマウンテンのエコーポイントへ乗り付ける。奇岩スリーシスターズは目の前である。「アボリジニの父親が三人姉妹を魔物から守るため、岩にして隠したが人間に戻せなくて・・・」という伝説による。&lt;br /&gt;　見渡す限り高さ1000m程度の山々がユーカリの森に覆われている。その葉から発するユーカリオイルの微粒子が陽光でプリズム作用を起こし、ブルーの霞となって山谷に漂うのでブルーマウンテンと呼ばれるようになった。「アメリカのグランド・キャニオンには比すべくもないが」と誰かが呟いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２２．シーニック・ワールドとルーラ&lt;br /&gt;　バスで移動して、旧炭坑の運搬車を模したシーニック・レイルウェイに乗る。最前列に陣取ったものの50度前後の下り勾配では、バーに掴まるというよりは足を踏ん張って、半立ちの姿勢で急坂を駆け下りる。トンネル内の数秒は阿鼻叫喚である。尤もワイヤーロープで前後を結索しているので暴走することはない。最大５２度のレイルウェイはギネスものだという。&lt;br /&gt;　遊歩道では観光用に整備された旧炭坑入り口や掘削・運搬具などを見学する。この炭鉱は1945年までは採炭していたようである。今でもオーストラリア大陸の東部地方では何カ所かの大規模炭鉱で採掘が続けられている。この先は森林浴気分で熱帯雨林の中をそぞろ歩き。ターザンのロープのような蔓、ユーカリの大木、宿り木などを眺めながら木道をスカイウェイの乗り場へ行く。&lt;br /&gt;　84人乗りの大型ゴンドラのフロントに着席し、谷底から崖上へ約3分間のロープウエイ。右側からスリーシスターズが見守ってくれる。&lt;br /&gt;　一連のシーニック・ワールドを楽しんだ後、高原の町ルーラへ立ち寄る。避暑地らしいスマートな町で、郵便局併営のレストランやチャーミングなショッピングモール。その内のキャンディ・ストアでは山のようなキャンディ棚の中から、ここの名物ユーカリオイル入りのキャンディを見つけ購入する。&lt;br /&gt;　シドニーへの帰路、2000年オリンピック会場へ立ち寄る。広い敷地に各競技場、施設がゆったり配置されている。メイン会場の前でしばらく散策してバスに戻る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２３．クイーン・ビクトリア・ビル界隈&lt;br /&gt;　街の中心シドニータワーの近くでは消防車が走り、ストリート・パフォーマーが打楽器を打ち鳴らす。こういう都会の喧噪のなか自由行動となる。タワーに登る人、モノレールに乗る人、勿論ショッピングする人、色々である。&lt;br /&gt;　私たちは1898年に建てられたというクイーン・ビクトリア・ビルディングを訪れる。優美なロマネスク様式をそのままに1996年に改修され、今では地上３階地下１階のショッピングセンターになっている。&lt;br /&gt;　北口から入ると、上には高さ10m世界最大の吊り時計オーストラリアン・クロック、床は精緻なタイルが敷き詰められている。ブティック、毛皮、オパールからお土産、レストランなど200余店が軒を連ねる。エスカレータで３階に上がるとクイーン・ビクトリアの蝋人形と王冠、宝石のレプリカが大型ショーウィンドウに飾られている。南口の天井からは、毎時仕掛け人形が動くロイヤルクロックが吊り下げられている。&lt;br /&gt;　３階から１階まで大時代なアコーデオン・シャッターのエレベータで下りる。ビルを出た所にはクイーン・ビクトリアの銅像がでんとあたりを睥睨している。&lt;br /&gt;　交差点の向こうは高い時計塔がよく目立つタウンホール(シドニー市役所)である。折しも周囲は薄紫色のジャカランダが花盛り。桜が日本の春を象徴するように、ジャカランダは南半球の春を告げる花のようである。&lt;br /&gt;　隣りネオゴシックのセントアンドリュース大聖堂は1868年完成、オーストラリア最古の聖堂という。日曜日の午後、ひっそりとした堂内で見事なステンドグラスや荘厳な祭壇を見学する。&lt;br /&gt;　この後ハイドパークの第一次大戦記念碑を訪ねる。この公園は1810年造営された由緒ある所だが、各種イベントやランチスポットでもある。散歩、日光浴と思い思いに人々が緑を楽しんでいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２４．シドニー・ハーバー・クルーズ&lt;br /&gt;　今夜はシドニー・ハーバーのディナー・クルーズである。それなりに服装を整えて、サーキュラーキーの桟橋で乗船を待つ。ずらりと停泊している他社のクルーズ船もそれぞれ出発準備に忙しい。&lt;br /&gt;　やがて夕日が沈む頃、双胴のクルーズ船に乗り込む。ギター、ヴァイオリン、ヴォーカルのバンドが私たちを迎えてくれる。着席間もなくウェイターが飲み物とメインディッシュのチョイスを聞いて回る。船はゆっくり桟橋を離れ右手にオペラハウス、やがて反転してハーバーブリッジ。こんなコースを繰り返しながらシドニー・ハーバーを逍遙する。時に電飾のクルーズ船が行き交い、旧砲台のミニ灯台が煌めく。&lt;br /&gt;　宴たけなわの頃、グループのTさんが誕生日だというのでハッピーバースデーの大合唱となり、テーブルが沸きかえる。&lt;br /&gt;デッキに出ると満天の星の下、ライトアップされた白亜のオペラハウスが一段と幻想的である。ブリッジのアーチには夜目にもはっきりオーストラリアの国旗が翻る、時々船は橋の塔門(Pylon)のすぐ側をクルーズする。存分に夜景と潮風を愉しんだ後、接岸上陸する。皆ディナー、クルーズ共に満足したようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２５．オーストラリアという国&lt;br /&gt;　11月1日(月)は早くも帰国の日である。昨日見損なったシドニー駅を右手に見ながら空港へ急ぐ。帰りは8.45発ケアンズ経由名古屋行きオーストラリア航空AO7959便である。内側の席だったので景色は見えなかったが、地図で見るとシドニー付近は入り江が入り組んでいて、機上からは水郷のように見えたのではなかろうか。&lt;br /&gt;　２時間程でケアンズ空港に着陸、トランジットで別の機に乗り換えることになった。ここでまた時差調整である。ケアンズのあるクィーンズランド州はサマータスムを施行していないので、シドニーとは南北関係にありながら－１時間の時差がある。中部オーストラリアの南オーストラリア州と北のノーザン・テリトリーでもサマータイムの有無で１時間の時差がある。&lt;br /&gt;　このように州の独自性は時差のみに止まらず、祝祭日も全国共通日のほか、州毎に異なった日が制定されている。また生鮮食料品を含む動植物の搬入でも州毎に規制基準が異なっている。特にパースは持ち込み検査が厳しいとのことである。&lt;br /&gt;　しかしオーストラリアそのものはイギリスを盟主と仰ぐ英連邦国家であり、元首はエリザベス二世である。国旗の左上にもユニオン・ジャックを配している。&lt;br /&gt;　そもそもオーストラリアは1770年4月29日キャプテン・クックがエンデバー号でシドニー近郊に上陸、英国領を宣言したことに始まる。それまでアメリカを植民地として移民や流刑囚を送り込んでいたイギリスだが、1776年アメリカが独立してからは、その代替地をオーストラリアに求めるようになった。ゴールド・ラッシュ後(1861)採り続けてきた白豪主義も1970年には転換し、今では有色のアジア人種も多数流入している。&lt;br /&gt;　シドニーから同機に乗り込んでいた福岡県東朝倉高校の修学旅行生たちはケアンズ空港で福岡行きに乗り換えたらしい。空港の商店街で、先年ジャカルタで買ったWilliams シャツの専門店を見つけた。矢張りR.M.Williamsはオーストラリアのブランド衣料なのである。&lt;br /&gt;　正午頃乗り込んだ飛行機は、機体は替わったが便名はAO7959便のままである。昼間のフライトながら７時間半程うつらうつらと、まどろんでいるうちに名古屋空港に到着。また－１時間の調整である。サマータイムにぶつかったとはいえ、10月29日からの4日間に４回もの時差調整は何とも気忙しいことである。&lt;br /&gt;　あと数日で立冬、日本の秋は既に深まっていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本稿は今回見聞したことを、オーストラリア政府観光局「Travel Australia」'02版、各訪問地のビジターガイド、「地球の歩き方オーストラリア」'04~'05版等を参照しつつ記述したことを付記します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-2528793692727954318?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/2528793692727954318'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/2528793692727954318'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/06/200410.html' title='オーストラリア紀行　　豪大陸点描（2004年10月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBVxuu1AMHI/AAAAAAAAAZQ/jWbeh92QzaM/s72-c/%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%BA.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-1527222325204120556</id><published>2010-06-12T11:23:00.006+09:00</published><updated>2010-06-13T12:01:49.744+09:00</updated><title type='text'>儒神基佛の東京ミニ見物　覚え書き（2004年８月）</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLwyYMB6II/AAAAAAAAAYY/yHEvgA-nLkk/s1600/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 175px; height: 124px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLwyYMB6II/AAAAAAAAAYY/yHEvgA-nLkk/s320/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5481708444740348034" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　先月東京で家内の喜寿祝いの帰途、夕方新幹線までの時間を利用して儒神基佛の東京ミニ見物をしてみた。&lt;br /&gt;　午後３時頃中央特快が停車する御茶ノ水駅で下車、手荷物をロッカーに一時預けにして、まず湯島聖堂に向かう。ロッカー施錠で、乱数表かららしい５桁数字のメモがプリントアウトされる。合い鍵は無く、傍のテンキーからその５桁数字を打ち込めば開扉される仕組みである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．湯島聖堂 ( 儒教 )&lt;br /&gt;　聖橋(ヒジリバシ)を渡るとすぐ右手が湯島聖堂である。こんもりと茂った森の中は都心とは思えぬ蝉しぐれが鳴きしきっている。ここは文京区である。&lt;br /&gt;　先に&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLxNZ8tzMI/AAAAAAAAAYg/fyt2aV5iEcY/s1600/%E6%B9%AF%E5%B3%B6%E8%81%96%E5%A0%82.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 131px; height: 172px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLxNZ8tzMI/AAAAAAAAAYg/fyt2aV5iEcY/s320/%E6%B9%AF%E5%B3%B6%E8%81%96%E5%A0%82.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5481708909069454530" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;林羅山が建てた孔子廟「先聖堂」を、元禄３年(1690)五代将軍綱吉が湯島に移し大政殿と改称、付属の建物も含め聖堂と総称した。&lt;br /&gt;　寛政９年(1797)拡張した敷地内に昌平坂学問所が開設され、孔子の生地昌平郷に因んで昌平黄(学カンムリに黄)と呼ばれた。これが後の東京大学の前身である。&lt;br /&gt;　度々の江戸大火、関東大震災、東京大空襲により焼失、損壊したが、都度再建改修された。現在の聖堂は概ね昭和１０年(1935)に復興した鉄骨鉄筋コンクリート造りのものである。&lt;br /&gt;　入徳門をくぐり大政殿に詣でる。左右に四賢像(顔回、曽子、子思、孟子)を配し、中央には明末の遺臣朱舜水が携えて来たという孔子像が祀られている。左側の壁には蒋介石(名は中正)が揮毫した「有教無類」の石板額がある。&lt;br /&gt;　廟内の売店では四書(大学、中庸、論語、孟子)五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)よりも唐詩選など漢詩関連の書籍が目に付いた。&lt;br /&gt;　なお「湯島の白梅」で歌い囃された泉鏡花の小説「婦系図」の主人公お蔦・主税の別れの場は、聖堂とは別の湯島天神の境内である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．神田明神 ( 神道 )&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLyCaZZ7jI/AAAAAAAAAYo/ULf1RZst7FQ/s1600/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 176px; height: 130px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLyCaZZ7jI/AAAAAAAAAYo/ULf1RZst7FQ/s320/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5481709819722853938" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　聖堂の裏、道一筋を隔てると台東区、神田神社・通称神田明神がある。賑やかな神田祭とは裏腹に境内は意外にひっそりと鎮まりかえっている。&lt;br /&gt;　江戸時代には山王日枝神社の祭りと共に江戸二大祭とされ、元禄の頃からは神輿が江戸城内にまで入るようになった。盛時には山車３５台の長い行列が氏子地域内(京橋、神田、下谷)を４日がかりで巡行したという。現在の祭日は隔年の５月１５日としている。&lt;br /&gt;　祭神は大巳貴神(オオナムチノカミ)、少彦名神(スクナヒコナノカミ)である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．ニコライ堂 ( 基督教 )&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLyoCLn7ZI/AAAAAAAAAYw/FY4hpyDrSzw/s1600/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%A0%82%EF%BC%91.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 176px; height: 131px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLyoCLn7ZI/AAAAAAAAAYw/FY4hpyDrSzw/s320/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%A0%82%EF%BC%91.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5481710466057629074" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　再び聖橋に引き返して渡ると千代田区である。正面にニコライ堂の丸屋根が見える。歩いて僅か数百mのところに文京、台東、千代田と三区が区境を接しているのも面白い。&lt;br /&gt;　日本ハリストス正教会ニコライ堂は明治１７年(1884)起工、同２４年(1891)完成、日本最初&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLy7GWGw0I/AAAAAAAAAY4/ZlxKaQfvi7g/s1600/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%A0%82%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 125px; height: 167px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLy7GWGw0I/AAAAAAAAAY4/ZlxKaQfvi7g/s320/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%A0%82%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5481710793592849218" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;のビザンチン建造物で、重要文化財に指定されている。&lt;br /&gt;　文久１年(1861)函館のロシア領事館付き司祭として来日したイオアン・カサトキン、修道名ニコライが明治５年(1872)東京に日本ハリストス正教会を設立し、布教に努める傍ら前記のようにこの教会を着工完成させた。ニコライ堂と俗称される所以である。&lt;br /&gt;　ロシア工科大学教授シチュールポフ博士が設計し、鹿鳴館などを設計した英国人コンドルが一部修正して完成させた。その後関東大震災(1923)に遭い、昭和４年(1929)に再建されている。&lt;br /&gt;　ニコライは1906年大司教に叙せられ、1912年東京で没している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４．泉岳寺 ( 仏教 )&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLzQ1b-NMI/AAAAAAAAAZA/WQDB4VnH0pI/s1600/%E6%B3%89%E5%B2%B3%E5%AF%BA.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 136px; height: 181px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLzQ1b-NMI/AAAAAAAAAZA/WQDB4VnH0pI/s320/%E6%B3%89%E5%B2%B3%E5%AF%BA.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5481711167011173570" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　次は品川駅で下車してタクシーで北へ1.3km、仮名手本忠臣蔵で有名な芝高輪の泉岳寺を訪れる。慶長１７年(1612)開山した曹洞宗・万松山泉岳寺は旧赤穂藩主淺野家の菩提所である。&lt;br /&gt;　本堂左奥には元禄１４年(1701)切腹した浅野長矩、吉良邸に討ち入りした４７義士、長矩夫人の墓がある。４７士の墓は討ち入り後、身柄を預けられた細川家など４大名家別に配置されている。尋常でない死に方の為、戒名は例えば堀部安兵衛は刃雲輝剣信士のように刃・剣の二字に囲まれている。城代家老大石良雄の戒名は忠誠院刃空浄剣居士となっている。大石良雄とその子主税の墓には屋根が設えられている。&lt;br /&gt;　討ち入り陣羽織姿のボランティア数人が丁度墓地を清掃奉仕中であった。参道右傍らには吉良義央の首を洗ったという井戸が金網で覆われている。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLzuINUAqI/AAAAAAAAAZI/kzCcDYTwvJg/s1600/%E6%B3%89%E5%B2%B3%E5%AF%BA%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 171px; height: 128px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLzuINUAqI/AAAAAAAAAZI/kzCcDYTwvJg/s320/%E6%B3%89%E5%B2%B3%E5%AF%BA%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5481711670266167970" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　討ち入りの１２月１４日とか、義士切腹の命日には参詣者も多いのだろうが、通常は人影も疎らで、門前の土産物屋も開店休業、店員の姿も無い。&lt;br /&gt;　品川駅まで再びタクシーで戻り、東京17:36発「ひかり」には悠々間に合った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　湯島聖堂については斯文会の「湯島聖堂略志」を、その他は主に平凡社「世界大百科事典」を参照しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;script type="text/javascript"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;  var _gaq = _gaq || [];&lt;br /&gt;  _gaq.push(['_setAccount', 'UA-16932121-1']);&lt;br /&gt;  _gaq.push(['_trackPageview']);&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;  (function() {&lt;br /&gt;    var ga = document.createElement('script'); ga.type = 'text/javascript'; ga.async = true;&lt;br /&gt;    ga.src = ('https:' == document.location.protocol ? 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rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/TBLwyYMB6II/AAAAAAAAAYY/yHEvgA-nLkk/s72-c/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%92.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-1212187832456800889</id><published>2010-06-12T11:12:00.002+09:00</published><updated>2010-06-12T11:17:17.274+09:00</updated><title type='text'>兄　正一の戦没地をたずねて（1995年６月）</title><content type='html'>　去年の今頃は兄　正一の５０回忌の法要だというのに「戦没地はルソン島方面」という茫漠としたものだった。これではどうにも心許なく、もっと詳しい地域・場所が知りたい、出来ればそこまで行って鎮魂慰霊をしたい、追悼顕彰を行ないたいという思いが日毎に募っていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　爾来資料があると聞けば閲覧に走り、戦跡慰霊ツアーが出るといえば馳せ参じて、巡拝しつつ多くの方々から沢山の参考情報を承った。その結果「■■正一の戦没地はルソン島イフガオ州パクダン村」と判明した。そして遂に平成７年５月１３日、５０年振りにその地に立って兄の慰霊追悼を果たすことが出来た。これも偏に英霊のお導きと多くの関係の方々のご協力ご助言の賜と深く感謝します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　次にこれまでの経過と熱心にご教導頂いた方々のご芳名を記し、血を分けた兄弟児孫に報告するとともに、兄正一とその妻ひでさん、そして「息子の戦死はとても信じられない」と言いつつ逝った父母の霊前に謹んでこの一文を捧げます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　戦後５０年、私なりの一つのメモリアルである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一、防衛研究所図書館&lt;br /&gt;　　確か８月の終戦特集ＴＶ番組の中だったか、防衛庁戦史部には可成りの戦史資料が保　管されており閲覧可能と報じていた。手元にある戦中の住所録に記された軍事郵便の宛名「比島派遣渡第１０６１２部隊根本隊　■■正一」だけが唯一の手掛かりだった。&lt;br /&gt;　　平成６年１０月３日東京都中目黒の防衛研究所図書館を訪れた。まづ「渡１０６１２部隊」とは部隊の兵種・規模等を敵に察知されないための防諜名で、正式には第１４方面軍南方第１２陸軍病院であることが判った。その後昭和１９年１０月山下大将がマニラに着任後の編成見直しで「威１０６１２」と改称されていた。&lt;br /&gt;　　所蔵資料「中央部隊歴史・比島方面部隊略歴」及び戦史叢書「捷号陸軍作戦（２）ルソン決戦」によれば、正一戦没のころ第１２陸軍病院は第１４方面軍司令部の移動と前後して、キャンガンからもっと奥地のマゴックへ移動している。恐らくその途中の山道で、飢餓とマラリヤ熱発のため遂に力尽きたのだろうと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;二、三重県庁&lt;br /&gt;　　平成７年５月８日、兄の本籍（四日市市）を所管する三重県庁健康福祉部高齢者対策課援護恩給係を訪れ関係資料を閲覧した。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　「死亡告知書」（いわゆる戦死公報）によれば、&lt;br /&gt;　　　”昭和２０年６月２３日比島ルソン島方面ニ於イテ死亡セラレ候条此段通知候也”　　「履歴書」によれば、その軍歴は、&lt;br /&gt;　　　”昭和　９年１２月　１日　　　　　　　第二補充兵役編入&lt;br /&gt;　　　　昭和１８年　７月２０日　衛生二等兵　臨時召集により京都陸軍病院に応召&lt;br /&gt;　　　　昭和１８年　９月１４日　　　　　　　宇品港出発&lt;br /&gt;　　　　昭和１８年１０月　２日　　　　　　　マニラ港上陸&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　同日　　　　　　　南方第１２陸軍病院に転属&lt;br /&gt;　　　　昭和１９年　１月２０日　衛生一等兵&lt;br /&gt;　　　　昭和１９年　７月２０日　衛生上等兵&lt;br /&gt;　　　　昭和２０年　６月２３日　衛生兵長　　比島において戦病死　”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　「戦没者調査票」（軍人恩給原簿）によれば、その戦没状況は、&lt;br /&gt;　　　“ 身分　　　　　　　　軍人&lt;br /&gt;　　　　所属　　　　　　　　南方第１２陸軍病院&lt;br /&gt;　　　　官等身分　　　　　　死亡前　衛生上等兵、死亡後　衛生兵長&lt;br /&gt;　　　　死亡状況　　　　　　戦病死、在隊死&lt;br /&gt;　　　　死亡年月日　　　　　昭和２０年６月２３日&lt;br /&gt;　　　　公報年月日　　　　　昭和２１年１月２３日&lt;br /&gt;　　　　死亡場所　　　　　　外地　比島ルソン島&lt;br /&gt;　　　　受傷り病年月日　　　昭和２０年６月１５日&lt;br /&gt;　　　　傷病名　　　　　　　マラリヤ&lt;br /&gt;　　　　受傷り病場所　　　　外地　比島ルソン島　”&lt;br /&gt;　　以上のように県庁資料でも、戦没地は「比島ルソン島」までしか記載されていない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;三、太平洋全域洋上慰霊祭の船旅（ふじ丸）&lt;br /&gt;　　予て申し込んでいた上記の慰霊行に参加した。商船三井客船のふじ丸（23,340トン）を借り切って、平成７年２月１５日博多を出港。&lt;br /&gt;　途中、高雄（台湾）マニラ（フィリピン）メナド（インドネシヤ）ポートモレスビー（パプア・ニューギニヤ）ガダルカナル（ソロモン共和国）サイパン（北マリアナ連邦）には上陸、火山噴火で上陸出来なかったラバウルの湾口をはじめ、多数の将兵が海没した洋上など１２箇所で慰霊祭を行ない、３月１０日東京晴海帰港という行程であった。昭和１９年１０月比島沖で沈没した空母千歳から、奇しくも海没を免れた渡辺　守氏が団長である。&lt;br /&gt;　総勢５４０名の団員の中に、どなたか第１２陸軍病院の衛生兵であった兄に関する情報をお持ちではと、一縷の望みを抱いてその旨を船内掲示板に貼りだした。&lt;br /&gt;　　　　　　　&lt;br /&gt;　早速次の方々から貴重な関連情報の提供があった。&lt;br /&gt;　１．●●正太郎さん（名古屋市）&lt;br /&gt;　　　　宮古島沖で轟沈した空母雲竜より生還した数少ない１人である。戦中は南西方面艦隊司令部勤務であった。&lt;br /&gt;　　　　自ら経験したルソン山岳州での惨状、比島戦線のデータベース「比島文庫」、愛知県三ケ根山頂比島観音の例大祭などについて教示紹介を頂いた。また帰着後、昨年参加されたマニラ会（１２陸病のとは別で、マニラ在留邦人も入った会）での戦跡巡拝のビデオを拝借。この中にはパクダンでの光景も収録されていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　２．●●喜男さん（福岡県苅田町）&lt;br /&gt;　　　　戦中は屏東（台湾）で第１５７飛行場大隊勤務であった。&lt;br /&gt;　　　ふじ丸では比島観音、米側資料「山下奉文」などの情報を頂く。帰着後は「比島従軍記」（根本勝著）「追憶の詩」（坂田沢治著）を拝借した。その後届けて頂いた後記吉富巡拝団の西日本新聞の広告切抜は、このあとのパクダン慰霊行に繋がってゆく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　３．●●比佐子さん（福岡市）&lt;br /&gt;　　　　３月８日木村船長と同卓で夕食の際、隣り合わせた●●サエさん、●●トヨノさん（共にルソン山中会員）より紹介される。&lt;br /&gt;　　　昭和２０年７月父上をキヤンガンで喪くされている。父の戦没時期・場所等、姪淑子と状況のよく似た戦争遺児である。ルソン山中会の世話人・草むす屍会員である。船中では比島観音・１２陸病関係者の心当たり等について承り、帰着後は次のような多数の参考図書資料を提供頂いた。&lt;br /&gt;　　　　南方第１２陸軍病院の記録「アシンの谷間に」（元軍医中佐　玉村一雄編）&lt;br /&gt;　　　　比島観音２０年史&lt;br /&gt;　　　　フィリピン戦逃避行（新美彰・吉見義明共著）&lt;br /&gt;　　　　見知らぬ戦場（長谷部　日出雄著）&lt;br /&gt;　　　　炎熱商人（深田祐介著）&lt;br /&gt;　　　　その他戦跡巡拝記・会報・地図等&lt;br /&gt;　　　特に「アシンの谷間に」の玉村日記と遺芳録は兄の終期を知る上で誠に貴重な資料であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;四、比島文庫　　　　　&lt;br /&gt;　　　前記●●正太郎さんより「比島戦線に関して、よろず調査相談に応えられる」として紹介される。&lt;br /&gt;　１．●●喜徳さん（大分市）&lt;br /&gt;　　　　戦中は虎兵団陸軍伍長としてルソン戦に参加。帰還後は関係図書資料１５００冊を収蔵して「比島文庫」を主宰、関係者と連携して集録「ルソン」を編集発行しつつ、比島戦線の解明・調査に尽力中である。この集録「ルソン」全７０冊は「既刊戦史の誤りを正した第一級の戦史資料」として、平成７年度の菊池寛賞を受賞されている。&lt;br /&gt;　　　　私からの照会に対し、折り返し「■■正一さんの戦没地はパクダン」と資料コピー同封で教示があった時には、年来のわだかまりが一度に氷解したような感激だった。同時に集録「ルソン」（関係分）「ルソン島巡拝記」詳細図等届けられる。&lt;br /&gt;　　　また三ケ根山１２陸病慰霊碑世話人　●●義一氏を紹介される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;五、三ケ根山比島観音&lt;br /&gt;　　　愛知県幡豆町三ケ根山頂の大山寺境内にある観音さまで、昭和４５年、比島戦関係者の浄財で遥かフィリピンの方を向いて建立されているのでこの呼称がある。その前庭には比島戦線で散華した陸海軍部隊の慰霊碑が林立して居り、毎年４月の第１日曜日には例大祭が行なわれる。&lt;br /&gt;１．    ●●義一さん（伊勢市）&lt;br /&gt;　　　前記●●喜徳さん、●●比佐子さんより紹介される。&lt;br /&gt;　　戦中は南方第１２陸軍病院の衛生下士官。現在は比島観音奉賛会世話人・１２陸病&lt;br /&gt;　　慰霊碑の責任者である。&lt;br /&gt;今年４月２日の例大祭に姪淑子と参拝の際、受付（救護班）で元従軍看護婦●●艶子さん、●●秀子さんと共に初会。義一さん持参のアルバム・見取図により当時及び最近のパクダンの状況説明を受ける。部隊の転進経路図も頂いた。今後も１２陸病戦友会等の機会を通じ、兄に関する情報を尋ね続けて頂ける由である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;六、フィリピン戦跡巡拝の旅　　　　　&lt;br /&gt;　　　この種の巡拝ツァーは昭和４０年代より、各地の戦友会・遺族会等の間では催行されていた様である。一般には広報がないため前記中込さんより報らされるまでは全く関知しなかった。&lt;br /&gt;　１．●●孝信さん（熊本市）&lt;br /&gt;　　　　今回（平成７年５月１１日－１８日福岡発着）の戦跡巡拝団長である。&lt;br /&gt;　　　戦中は第１４方面軍通信隊将校。戦後はマルコス大統領時代以来、訪比歴数十回という比島巡拝の大先達の一人である。現在熊本市花岡山フィリピン戦没者慰霊碑奉賛会の世話人でもある。&lt;br /&gt;　　　　「戦没地が判っていて行く意志があれば、あらゆる手段を尽くして、たとえカトリック教会の自家用飛行機をチャーターしてでも（大小約7000余の島々よりなるフィリピンでは、離島僻地への布教用に飛行機を持っている教会があるという）行き着ける様に取り計らいます。」との吉富団長の力強い言葉に励まされて、勇躍この巡拝行に参加した。&lt;br /&gt;　　　　現に５月１３日には一行３６名がネグロス島・サラクサク峠・キヤンガン・パクダンと４班に別れて巡拝した。&lt;br /&gt;　　　　ルソン島を縦横に１５００Ｋｍ、８日間に及ぶ走行中、各戦跡に関する迫真の説明には大いに感ずる所があった。今日の繁栄の礎となったこれら多数同胞の死を決して無にしてはならぬと固く肝に銘じた次第である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　２．Ｍｒ．Ｓａｋａｉさん（KIANGAN ）&lt;br /&gt;　　　　祖父が明治時代に渡比、バギオに通じるベンゲット道路開削工事に従事したという日系三世である。今年６７才、日本語は話せず、夫人は現地の人。４０年来キヤンガンで雑貨商を営み、道を隔てた隣には”KIANGAN HOTEL ”を経営している。&lt;br /&gt;　　　　５月１３日、氏の長男が店のトラックで私達４人をキヤンガンからパクダンまで案内して頂いた。お陰で５０年目にして漸く念願の慰霊追悼をすることが出来た。この感謝の気持ちを込めて、帰国後、持ち帰ったペソ紙幣と若干のＵＳドルを慈善団体への寄付金としてＭｒ．Ｓａｋａｉに郵送・付託した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　３．Ｍｓ．ビューリー&lt;br /&gt;　　　　マニラより同行のカメラマンだが、商売を超えた熱心さでパクダンでの慰霊に何くれと無く協力してくれた。キヤンガンで添乗ガイドと別れたあと、現地の人と私達の間を、私の覚束ない英語と彼女のたどたどしい日本語で取り持って、どうにか無事に事が運んだ。勿論彼女の撮影した沢山のスナップ写真は買い上げた。&lt;br /&gt;　　　　平成１０年の巡拝行で私達に同行した現地カメラマン　ニコ氏に尋ねたら「自分の従姉妹」とのことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１年足らずの間にここまで実現出来たということは、丁度水面に輪が生まれ、拡がり、繋がって彼岸に達するように、これら多くの方々の貴重な情報・ご協力の連鎖がパクダンまで導いてくださったものとおもう。&lt;br /&gt;　あらためて英霊のご加護と、お寄せ頂いた沢山のご協力ご好意に深く感謝すると共に、英霊のご冥福とご協力各位の益々のご健勝を祈念します。　　　　　　　　　　　合　掌&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-1212187832456800889?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/1212187832456800889'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/1212187832456800889'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/06/1995.html' title='兄　正一の戦没地をたずねて（1995年６月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-6521054078464426053</id><published>2010-06-12T10:50:00.001+09:00</published><updated>2010-06-12T10:52:23.848+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='旅順'/><title type='text'>開放された「旅順」を観る（1996年７月）</title><content type='html'>　軍事機密のため戦後ずっと外国人立入禁止だった日露戦争の激戦地「旅順」が今年７月１０日、ようやく外国人観光客にも開放された。７月１６日大連を訪れた私達は予定の観光コースもそこそこに、現地旅遊社と交渉してその日の午後、旅順半日観光に出掛けることにした。　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　旅順は大連市中心部より西へバスで１時間ちょっとの距離にあり、一時は大連と連携して旅大市と称した時期もあった。現在は旅順口区として大連市の一部となっている。この地区は軍港をはじめ軍需工場、弾薬庫、砲台等軍事施設が集積していて観光開放は勿論、経済開発も永年見送られてきた。そのためか内陸部のような未開発の風物がいろいろ目につく。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　往路は北回り（旅大北路）で官城子を経てまず水師営に入った。ここで旅順旅遊公司のガイドが乗りこんでくる。彼等の専管観光テリトリーのようである。明治３７年１２月、乃木大将とロシヤの将軍ステッセルとの会見は、村外れの小さな工場構内へ入って、右奥の小屋（その後建てられたもの）の建っている場所で行なわれたという。当時国内で戦勝を祝って歌われた軍歌「水師営の会見」を次に記す。　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　　　　　　「水師営の会見」　　　　　　　佐々木　信綱　作詞　　&lt;br /&gt;　　１．旅順開城約なりて　敵の将軍ステッセル　　&lt;br /&gt;　　　　　　乃木大将と会見の　所はいずこ水師営　　&lt;br /&gt;　　２．庭に一本（ヒトモト）なつめの木　弾丸あともいちじるく　　&lt;br /&gt;　　　　　　くずれ残れる民屋に　今ぞ相見る二将軍　　&lt;br /&gt;　　３．乃木大将はおごそかに、みめぐみ深き大君の　　&lt;br /&gt;　　　　　　大みことのり伝うれば、彼かしこみて謝しまつる　　&lt;br /&gt;　　４．昨日の敵は今日の友、語る言葉もうちとけて　　&lt;br /&gt;　　　　　　われはたたえつ彼の防備、彼はたたえつわが武勇　　&lt;br /&gt;　　５．かたちただして言い出でぬ、この方面の戦闘に　　&lt;br /&gt;　　　　　　二子をうしない給いつる、閣下の心いかにぞと　　&lt;br /&gt;　　６．二人のわが子それぞれに、死所を得たるを喜べり　　&lt;br /&gt;　　　　　　これぞ武門の面目と、大将答え力あり　　&lt;br /&gt;　　７．両将昼食ともにして、なおもつきせぬ物語　　&lt;br /&gt;　　　　　　われに愛する良馬あり、今日の記念に献ずべし　　&lt;br /&gt;　　８．厚意謝するに余りあり、軍のおきてにしたがいて　　&lt;br /&gt;　　　　　　他日わが手に受領せば、長くいたわり養わん　　&lt;br /&gt;　　９．さらばと握手ねんごろに、別れて行くや右左　　&lt;br /&gt;　　　　　　砲音たえし砲台に、ひらめき立てり日の御旗　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;武人の礼を尽くした両将会見の情景が彷彿とイメージされる。残念ながら「なつめの木」はもう其処に無かった。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　続いてバスは２０３高地に向かう。中国人観光客向けの案内板や標識が結構目につく。山頂付近には当時のロシヤ軍塹壕や、日露戦争後、日本が山頂に建立した砲弾型の霊山記念碑が９０余年の風化を感じさせぬ鮮やかさで保存されている。頂上より黄海側を見下ろしたが旅順港は霞んでいて余りよく見えない。傍らの露店で購入したパンフレットの写真や地図と照合しながら当時の戦況を偲んだ。案内板に従って山頂より少し西側に下り、「乃木保典戦死の所」碑を訪ねて野の花一茎を供え、合掌して冥福を祈る。あたり一面はその後の植林で松の木などが生い茂り、当時の記録映画でよく見る荒涼たる山腹の面影は残っていない。因みに２０３高地を詠んだ乃木稀典作の漢詩を下記する。　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　　　「　霊山」　（ニレイサン）　　　&lt;br /&gt;　　　　霊山は険なれども、あに攀じ難からんや　　&lt;br /&gt;　　　男子功名、克艱を期す　　&lt;br /&gt;　　　鉄血、山を覆して、山形改まる　　&lt;br /&gt;　　　万人斉しく仰ぐ、　霊山　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　次に東鶏冠山に登りロシヤ軍の北堡塁を見学する。厚さ１メートル以上もあるコンクリート壁の堡塁が延々と続き、その表面には無数の弾痕が生々しい。銃眼の並ぶトーチカ、弾薬庫、電話室、司令部と覚しき天井の高い部屋等が連なり、いかにも堅固そうな要塞である。当時世界最強を豪語したロシヤ陸軍の自信と慢心の程が窺われる。ここにも大正５年日本の「満州戦跡保存会」が築造した「東鶏冠山北堡塁碑」や「露国００少将戦死の地碑」（日本語で刻字）が”旅順口日俄戦争遺址”（俄はゥオロシャの中国での略記）として大切に温存されていた。嘗て外国の軍隊によって踏み荒らされた自国の地を、敢えて戦跡として後世に伝えるのも中国国防政策の一環かとも思われる。とにかく日本人としては或る種の感慨を禁じえなかった。東鶏冠山の方は土産物屋も数軒あり、中国人観光客も多数訪れているようである。見学順路も階段、敷石、整地等よく整備されていた。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　帰路は南回り（旅大南路）をとり途中星海公園（旧星が浦海水浴場）で小休止の後、夕方大連の街に帰りついた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-6521054078464426053?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/6521054078464426053'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/6521054078464426053'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/06/1996.html' title='開放された「旅順」を観る（1996年７月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-7087194390863478606</id><published>2010-06-12T10:43:00.002+09:00</published><updated>2010-06-12T10:45:58.239+09:00</updated><title type='text'>サンクト・ペテルブルクで「白鳥の湖」を観る (1997年７月）</title><content type='html'>　バルト三国を経て１９９７年７月１１日夕方サンクト・ペテルブルクに入った。　この街は８０年前まではロマノフ王朝による近代ロシヤの首都であった。その時代の香りを残すマリインスキー（旧名キーロフ）劇場でバレー「白鳥の湖」を公演しているという。幸いホテルはイサク聖堂そばの「アストリア」なので、劇場までは歩いても１５分位とアクセスもよい。早速添乗員の中村さんを通じて現地ガイドのマルガリータさんにチケットの手配を頼んだ。翌１２日の土曜日夜しか私の都合がつかぬため、劇場関係の知人を通じてやっと一枚入手して貰った。５０ＵＳ＄であった。　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　開演は午後６時半である。６時にホテルを出てモイカ運河沿いに歩いていった。勿論ブレザーにネクタイ着用である。劇場前のグリンカ通りを隔てた向かい側テアトラリナヤ（劇場）広場には、ロシヤ音楽の父と呼ばれるグリンカとリムスキー・コルサコフの銅像が建っていた。そういえば１８５９年マリインスキー劇場のいわゆる「こけら落とし」にはグリンカの「イヴァン・スサーニン（皇帝に捧げた命）」が初演されたという。６時２０分頃の開場で劇場前の人の列は漸く進みだした。１階の入口ホールは狭くて殆ど無いに等しい。館内にはいくつもの人の列があったので、成るべく短い列にしたがって入場したら１階桟敷席であった。急いで中央の長い列に加わって１階オーケストラ席に入場した。私の指定席は前から６列目、右から３番目であった。右隣りはドイツから来たという初老の夫婦である。左隣りは二人連れの若い女性であった。この街の娘らしい。　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　客席の間を縫ってプログラム売りのおばさんが通る。１部９０００ルーブル（約１．６ＵＳ＄）という。生憎ルーブルを持ち合わせていなかったので、２ＵＳ＄を呈示したらニッコリして売ってくれた。ロシヤ語による解説・キャストの他英語版ＳＷＡＮ　ＬＡＫＥの梗概も添付されていた。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　椅子は意外にも硬い木製で、長時間の着席は可成つらい代物である。舞踏会を催すときはこの仮設式椅子を取り外づしてダンスホールにするという。１階席から見渡すと後部２階正面には２・３階通しでロイヤルボックスが設けられており、その左右両翼は５階まで桟敷席である。５階は所謂天井桟敷で立ち見らしき人達の顔、顔、顔が並ぶ。館内案内掲示によれば２階は”Ｄｒｅｓｓ　ｃｉｒｃｌｅ”、３階は”Ｆｉｒｓｔ　ｃｉｒｃｌｅ”と表示されている。そういえば２・３階の桟敷の前列にはドレスアップした婦人達が着席し、連れ添う男性は後列に控えていた。そのまた後に供の者達がつき従っているのであろう。垣間見た後部桟敷席には椅子が５列程並んでいた。&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;　程なく楽士達が前のボックスに着席して調律が始まった。２・３回予告のブザーが鳴ったあと何のアナウンスも無いまま「白鳥の湖」の前奏曲が演奏される。これが終って重厚な緞帳がゆっくり引き上げられてゆくと、そこは遠くに古城を望む御存じ「白鳥の湖」の畔りの情景である。緞帳にはスポンサーの文字など何もない。主演者、助演者級のそれぞれのソロ、デュエット、群舞のあとは舞台前列に進み出て「お気に召しましたでしょうか」とばかりに観客の拍手を待つ。余程不出来でない限り惜しみない拍手が贈られる。　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　第二幕までの幕間に軽く腹拵えをしておこうとビュッフェを探すが見当らない。コーヒー、紅茶、クッキー程度の売店が３階にあっただけである。また時間も１５分位でブザーが鳴るので、日本の幕の内弁当を楽しむような余裕はとてもない。トイレの床、壁は大理石張りながら意外に手狭で、華やかな館内の雰囲気のわりには地味な感じであった。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　再び予告ブザーが鳴って第２幕宮廷舞踏会の場が始まる。このとき気付いたことが二つある。その一つは舞台の宮廷大広間と観客席とくに薄緑と黄金色に彩られた絢爛たる桟敷席とが如何によく融合していることか。その二は「舞台は横長」の常識を破って、意外に間口の割りに舞台の丈（演劇仲間ではタッパと言うらしい）が高い。１階席から見上げていると寧ろ「縦長」にさえ見える。そのためか舞台の両翼に迫る５階までの桟敷席と宮廷の壮大な円柱の列とが実によく調和している。観客席全体が恰も舞台の宮廷の延長のように渾然一体、王妃選びの舞踏会の情景を華麗に盛り上げる。収容人員１７５２人というここのたたずまいのメリットであろう。　それに引き替え最近新改築される劇場の多くは客数拡大の商業主義に堕ちて、アーチスト側の希望が軽視されているのではないか。ロンドンのロイヤル・オペラハウスも１４０年の歳月には勝てず、今月から２年半の工期をかけて大改築に取りかかるという。舞台・設備の近代化とともに観客席も増加されるとのことである。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　次の幕間に２階のロビーに行ってみた。さすがにタキシード・ロングドレス姿は余り見かけなかったが、すっきりとドレスアップした男女がそこかしこに群れて談笑している。オペラグラスで舞台を鑑賞するかたわら他の桟敷へも視線を廻らせて、来場者の顔触れとその装いを確かめているのであろうか。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　館内は写真撮影禁止であるが１階席のあちこちからフラッシュが閃く。すぐ後の席からは開演中にも拘らず韓国語らしき私語が耳に障る。日本人観客も曾てそうであったかも・・と思い、ぐっと我慢する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　第３幕は再び白鳥が群れ遊ぶ湖畔の場面である。誤ってオディールを選んでしまった王子ジークフリートは悪魔ロットバルトと激闘の末これを倒し、オデット姫と結ばれて目出度く大団円となる。プリマドンナを先頭に出演者が代わるがわる前列に進み出て観客の盛んな拍手を受ける。ブラボーの声も混じって再三のカーテンコールが繰り返されたのち漸く場内が静まる。終演は午後９時１０分であった。　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　現地紙The st.Petersburg Times によればウリヤーナ・ロパートキナ、デイアナ・ヴィシニョーワ、ファルフ・ルジマートフ等マリインスキーの指導的パフォーマー達は８月までロンドン公演中とのこと。夏場の常とはいえ、ちょっと残念である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１２日のプログラムにはキャストとして次のように記されている。勿論キリル文字で。&lt;br /&gt;　　　　オデット　　　　鈴木　ヨシコ　（日本人）　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　　　　オディール　　テンマ　チカ　（日本人）　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　（わざわざ日本人と注記してある）&lt;br /&gt;　　　　ジークフリート以下はロシヤ人らしき名前が列記してあった。&lt;br /&gt;つい先日（１９９７．７．１３）亡くなった世界的名バレリーナ　アレクサンドラ　ダニロワも１９１８年ここからデビューしているという伝統的なマリインスキー劇場で、日本人バレリーナが見事にプリマの大役を果たしているのを見て感銘もひとしおであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　北欧の白夜は明るく午後１０時半頃日没、１１時過ぎまで薄暮が続く。主な交差点には交通安全の警官が立っていて、治安の心配は全く無かった。３時間足らずとはいえ旧王朝時代の雰囲気に半ば陶然としながら、ポリシャヤモルスカヤ通りを歩いて帰路についた。　&lt;br /&gt;　その後日譚・・・名古屋で鈴木ヨシコの帰国公演を見る　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９９８年１１月１０日「あの鈴木敬子（ヨシコ）が１０年ぶり帰国公演」との新聞広告を見る。サンクト・ペテルブルグで彼女のオデットを見たときの感銘を思い出し、主催者松本バレエ団宛思わずペンを執る。上記の観劇記とプログラムコピーを同封してお届けしたところ、折り返し藤田彰彦氏（同バレエ団演出家）より感謝の電話あり。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　鈴木敬子は名古屋市千種区茶屋が坂出身（私の長女が昭和５５年当時上野小学校に奉職していたので、もしやと思ったが千代田橋小学校とのこと）、&lt;br /&gt;　幼少（６才）より松本バレエ団で練習に励み、&lt;br /&gt;　千種高校では皆が一流大学を目指す中で、唯一人進学を擲って敢然渡欧。&lt;br /&gt;　サンクト・ペテルブルグのワガノワバレエ学校に入学、&lt;br /&gt;　その後マカロフ（ロシア国立バレエ・アカデミー）に入団して研鑽を積み、今や一流の若手ソリストに成長したとのこと。&lt;br /&gt;たまたまマリインスキー劇場での彼女の活躍ぶりを記した私の上記観劇記は「後輩バレエ団員の良い励みになるので回読させたい」とのことである。　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　翌日チケット・ピア、セゾンに赴き需めるも既に完売済(sold up) 。止むなく藤田氏に入手を依頼した。公演は１２月５日（土）夜一回のみである。前日の４日招待券(20 列35番）を贈るとの報せがあり、些少ながらお祝いを用意して上社の同団スタジオを訪問、鈴木敬子本人と松本道子団長に面会する。３年前結婚した彼女の夫君アレクセイ・パンチェーシン（今回はロットバルトを演ずる）とジーグフリード王子役のセルゲイ・ゴルバチョフも一緒に練習中であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今回の公演では名古屋市民会館大ホールの舞台に相応しいように、全２幕に構成し直したと演出家の藤田氏は言う。振り付けは松本道子団長である。オデット、オディールは鈴木の一人二役である。白鳥の清楚、黒鳥の妖艶の踊り分けが興味深い。この他主なレパートリーとしては”ジゼル”のミルタ、”スパルタカス”の妻があるという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　朝日新聞の３日夕刊芸能欄では、大きく写真入りで「彼女の踊りは情感豊かな芸術性の中に人間的な温かさ優しさを感じさせる」と紹介している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　170cm の鈴木のオデットがトウ立ちすると、その髪飾りの頂きは190cm の長身ジーグフリードを凌ぐ程である。出演者の殆どが長身揃いのマリインスキーの公演と比較すると、今回の大型デュエットは断然他を圧している感がある。広大な舞台空間を縦横無尽に切り裂くような伸びやかな、そしてメリハリのあるパフォーマンスは観客を魅了する迫力十分であった。終演後の盛大なアンコールの拍手は可成長い時間ずーっと鳴り止まなかった。　マリインスキーでのオディール役、天満チカは大阪出身で親子二代のバレリーナとか。今回鈴木の意欲的なオディールはメイクのせいもあってか、ひときわ精彩を放っていたように思う。素人目ながら鈴木敬子の凛とした首筋の形には妙に惹かれるものがあった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-7087194390863478606?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/7087194390863478606'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/7087194390863478606'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/06/1997.html' title='サンクト・ペテルブルクで「白鳥の湖」を観る (1997年７月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-2876223723044898704</id><published>2010-05-08T12:13:00.002+09:00</published><updated>2010-05-08T12:17:50.292+09:00</updated><title type='text'>ポーランド紀行（2004年５月）</title><content type='html'>&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１．使い易いフィンランド航空&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　5月31日、新幹線、特急はるかと乗り継いで9:10関空に到着。以前より鋭敏になった金属探知器でボディーチェックを受けて、11:00発ヘルシンキ行きフィンランド航空AY078便に搭乗する。&lt;br /&gt;今回のツァーは札幌から3名、別府から2名、名古屋からは3名、あとは大阪、神戸10名と片岡弥生TDの計19名( 男4名、女15名)の一行である。&lt;br /&gt;　所用10時間20分だが、－6時間の時差でヘルシンキへ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TXx8lRCTI/AAAAAAAAAYQ/4AMEzAB8LYA/s1600/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%EF%BC%91.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 154px; height: 115px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TXx8lRCTI/AAAAAAAAAYQ/4AMEzAB8LYA/s320/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%EF%BC%91.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468733100610619698" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;は同じ日の15:20に到着した。空港では日本人職員が親切に乗り継ぎや入国の案内をしている。17:45発コペンハーゲン行きAY667便の機内でも現地語、英語のほか日本語の案内放送があった。&lt;br /&gt;　さらに－1時間の時差で18:25到着した空港ではSASマークの飛行機が十数機駐機している。またスカンジナビア航空のストらしく、乗り継ぎカウンターは大混雑である。「だからSASはやり難い、その点フィンランド航空は使い易い」とは片岡TDの独り言。私達は19:30発ワルシャワ行きポーランド航空LO462便のためスムースに乗り継ぐことが出来た。(A+BC)で18列とコンパクトな機体である。　　左前方に飛行機雲を曳きながら飛んで行く機影が見える。普通は地上から見上げる飛行機雲を、機窓から横に眺められるとは・・・と悦に入っているうちに20:50ワルシャワのオケンチェ国際空港に着陸した。丁度夕日が沈むところである。&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２．ワルシャワ・ゲットー、ワルシャワ蜂起&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　6月1日、ポーランド最初の訪問はワルシャワのユダヤ人ゲットー記念碑である。戦災で壊滅したゲットー( ユダヤ人隔離居住地区)に建てられたもので、ユダヤ人受難像を刻んだレリーフである。三角形を逆に組み合わせた例の紋章が供えられている。早くも次の団体がバスで乗り付けてきた。&lt;br /&gt;　東へ600m程行ったところに、今では古文書館になっているというクラシンスキ宮殿がある。ワルシャワ大学で日本語とラテン語を学んだという現地ガイドのアンナさんが、ラテン語と数字についてひとくさり。「欧州の言語は語源がラテン語から来ているものが多く、綴りを見れば大凡の意味は判る」と。&lt;br /&gt;　道路を隔ててワルシャワ蜂起記念碑がある。1944年、ワルシャワ蜂起の地下運動を象徴するように、地下道から這い出した市民の苦しそうな表情が痛々しい。ソ連軍の離反により20万人もの市民を犠牲にして、結局ドイツ軍に惨敗した。1989年、この碑が建てられ、ドイツは首相が献花・謝罪したが、その後も圧政を続けたソ連に対しては市民は未だに反感を持っているという。ポーランド人はロシア人と同根の西スラブ族で、ポーランド語もロシア語に似た言葉が多いようだが・・・。&lt;br /&gt;　後ろには悲劇の碑とはアンバランスに薄緑色の最高裁判所が建っている。&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;３．キューリー夫人博物館から旧市街へ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　少し東にキューリー夫人博物館がある。この家で生まれた彼女は、当時ロシアに併合されていたポーランドでは勉学思うに任せず、フランスに脱出、ソルボンヌ大学を卒業した。その後フランス人科学者ピエール・キューリーと結婚、ラジウムなど放射性元素の発見、研究に努め、ノーベル物理学賞、後に化学賞を受賞した。館内には研究経過や実験器具などが展示されているが撮影禁止である。&lt;br /&gt;　次はいよいよ旧市街の入り口、バルバカンである。今ではヨーロッパに数カ所しか残っていないという赤煉瓦の円形砦である。15~16世紀に建てられ、火薬庫や牢獄としても使われていた。第二次大戦で破壊されてしまったものを市民の熱意で1954年、見事に復元された。&lt;br /&gt;広場に出ると中央には楯と剣を振りかざす人魚像が建ち、周囲は大きなパラソルを連ねたカフェや物売りで賑わっている。当時、広場は一つだけだったので、「広場」と言えば今でも此処を指すらしい。&lt;br /&gt;　広場を東に出るとヴィスワ川、対岸は動物園である。金の滴のような黄金色の花が藤のように、たわわに垂れ下がって咲いている。「金滴樹」と呼びたくなるような木である。&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;４．王宮復興の熱意&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　引き返して今は博物館になっている旧王宮を見学する。第二次大戦で完膚無きまでに破壊されたが、心ある美術史家たちによって事前に貴重な絵画・調度品は国外に持ち出されていたため無事であった。バロック様式の建物の内部は王の広間、寝室、食堂、コンサートホール等ジグムント3世当時の儘に再現されているという。被災直後、一面瓦礫の王宮周辺の写真と見比べて、よくぞここまで立派に復元したものだと感心する。疎開されていた精細絵画の数々が大いに貢献しているのだろうと思う。&lt;br /&gt;　ポーランド王を象徴する銀色の鷲を配した王座、豪華な楽譜収納箱、それにユニークなデザインのモザイク床や凝った趣向のドアノブなどが面白い。床、壁とも多種類の大理石を張り詰めた部屋では雰囲気が一変する。&lt;br /&gt;　王宮前広場には1596年、ポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジグムント3世の銅像が建っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;５．ショパンの心臓&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　続いてサスキ公園の無名戦士の墓を車窓から眺めながら聖十字架教会に行く。屋上には金の十字架、内部も金銀きらびやかな教会である。入って左手前の石柱にはショパンの心臓が埋められているが、それにはショパンの遺志を尊重した姉が大いに尽力したという。&lt;br /&gt;　道路の斜め向かいがワルシャワ大学の正門、斜め右には地動説のコペルニクスの銅像がある。&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;６．ワジェンキ( 浴場 )公園&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　午後は市の南方、ワジェンキ公園へ行く。ゲートを入ってすぐ、池の向こうに巨大なショパンの銅像がある。死期に近い肖像から取ったのか憂愁の面持ちである。ピアニストらしいドレスの女性がその前で写真撮影をしてもらっていた。&lt;br /&gt;　18世紀ポーランド最後の王ポニャトフスキが造園した公園で、池に面して建てられた数々の夏の離宮に立派な浴場(ワジェンキ)があったことから、こう呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;　ステージの前に池を配した野外音楽堂では折しもアマチュア合唱コンクールの最中である。歌手の前に陣取った数羽の孔雀が時々猫のような鳴き声で奇妙に唱和する。&lt;br /&gt;　早めにメルキュール・ホテルに引き揚げ、民族料理ピエロギの夕食である。水餃子に似ているが、にら、ニンニクは入らず、酢醤油も無いので期待した餃子の味ではなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;７．IC特急で古都クラクフへ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　2日はワルシャワ中央駅から9:15発インターシティー特急で南部の古都クラクフへ。ソ連時代の影響か、駅構内は撮影禁止である。駅前に聳える文化科学宮殿付近は再開発のクレーンが立ち並ぶ。&lt;br /&gt;　地下二階のプラットホームから6人1コンパートメントの一等車に乗る。ワルシャワから暫くは見渡す限りの平野だが、後半は丘陵の起伏が続く。途中、車掌が一度検札に来たのみでノンストップ、2時間35分でクラクフ到着である。ここも駅前は再開発で掘り返していた。&lt;br /&gt;　クラクフのガイド、リヒアルト君が同乗して広大な墓地を横目に、西方54kmのオシフィエンチムに向かう。墓地に林立する十字架はロシア正教のものと似ているが少し違う。カトリックと混合した「連合」のものだという。街を出て道の両側に続く白樺林を見ているとシベリアのタイガを思い出す。&lt;br /&gt;　オシフィエンチム駅前で昼食を済ませ、この町外れにあるアウシュビッツ強制収容所を訪ねる。しかし此処はは余りに「凄惨」、稿を改めて記すことにする。&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;８．中世の面影を残す旧市街&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　3日はまず1498年建造、欧州最大を誇る円形防塁バルバカンを見る。すぐ傍には1300年頃に建てられたというフロリアンスカ門がある。門をくぐれば旧市街、「白貂を抱く貴婦人」のポスターを掲示したチャルトルスキ美術館前から中央広場へ行く。&lt;br /&gt;　中世からそのまま残っている広場としてはこれも欧州最大という。真ん中には14世紀に建てられた、長さ100mもあるルネッサンス様式の織物会館がでんと居座っている。当時は織物取引所だったが、今や琥珀をはじめアクセサリや民芸品の店がぎっしりの「おみやげ会館」である。入り口近くの地下男性用有料トイレでは「大は1z、小は0.5z」と用足しをおばさんが見張っていて、料金を徴収する。1ズウォチ( 1z)は約35円。&lt;br /&gt;　旧市庁舎は1820年に取り壊されたが、時計塔だけはそのままこの広場に残された。&lt;br /&gt;　続いてヤギェウォ大学を訪れる。1364年創立、ポーランド最初の大学で、「地動説」のコペルニクス(1473~1543)、現ローマ法王ヨハネ・パウロ2世もここで学んでいる。&lt;br /&gt;　15世紀ゴシック様式の赤煉瓦建物コレギウム・マイウスには一種の威厳がある。アーケード回廊の中庭には卒業試験合格の霊泉があり、毎年6月には学生が列をなすという。&lt;br /&gt;　中央広場へ引き返し1222年に建てられた、これもゴシックの聖マリア教会を見学する。正面ファサードには高さの違う塔を左右に擁する大きな教会である。国宝に指定された奥の聖壇やステンドグラスに目を見張る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;９．古都に相応しいヴァヴェル城&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　午後は見学時間を予約したヴァヴェル城である。ポーランドの6月は気候も良く、学校の社会科見学のトップシーズンである。混雑を避けるため厳格に入場制限をしている。城門脇の銅像は18世紀末、3国分割に抗した英雄タデウシ・コシチェシコである。&lt;br /&gt;　入城すると左側に3つの礼拝堂を持つ大聖堂がある。初め1320年ゴシック様式で着工後、数世紀に亘ってルネッサンス、バロックが加えられた異色の建物である。中でもネッサンスの傑作金色ドームのジグムント・チャペルとポーランド最大の鐘を吊すジグムント塔が偉容を誇っている。王の戴冠式は18世紀までここで行われたという。&lt;br /&gt;　旧王宮の中庭に入る。取り巻く建物は16世紀、ジグムント王がゴシックとルネッサンスの複合様式で建てたものだが庇が高いのは太陽光を多く取り入れる為という。屋根の樋の先端が竜頭を象っているのが面白い。集めた雨水を竜の口から吐き出させる趣向である。&lt;br /&gt;王の公室、私室、無数の肖像画、武具もさることながら、厖大な豪華タペストリーは圧巻である。原産地を凌ぐほどのコレクションは、この王宮をむしろタペストリー博物館と見紛うくらいである。&lt;br /&gt;　ヴィスワ川に面して賢者クラクスに退治された伝説の竜の銅像があるが、樹間から竜頭のみを見て退出した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１０．岩塩の殿堂・ヴィエリチカ岩塩坑&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　続いて市の南東15kmの世界遺産、ヴィエリチカ岩塩坑の見学である。ここも社会科見学の生徒が沢山入場を待っている。狭い坑内への入坑のため人数制限は厳重である。待つ間、壁の写真を見ていたら高松宮ご夫妻来坑の写真があった。&lt;br /&gt;　順番が来て、まず木製の螺旋階段を約400段垂直に降りる。早足で降りたら恐らく目が回るだろう。途中の渋滞で書いたのか、名前らしき落書きがいっばい、漢字で書いた台湾人の住所氏名も散見される。&lt;br /&gt;　岩塩採掘を再現した現場に降り立つ。採掘夫、運搬・昇降に使役した馬は岩塩の彫像である。王様、偉人、伝説の像など見て回るうち、かつて稼働していた昇降機場へ着く。金属は岩塩で腐蝕するため巨大な昇降機構はすべて木製である。坑道の側板は塩がしみ込んで化石のようになっている。材木の塩干物である。&lt;br /&gt;　天井からは鍾乳石のような塩のつらら、足元には塩水のせせらぎ、それが注ぎ込む地底湖は当然飽和塩水である。&lt;br /&gt;　突然大広間のような巨大空間に出る。採掘跡を利用した聖キンガ礼拝堂である。聖壇、キリスト像、壁面深さ18cmに彫刻した「最後の晩餐」のレリーフ、半透明のシャンデリア、床ブロックまで総てが岩塩製の殿堂である。ここで記念写真を撮る、10z 。&lt;br /&gt;　坑内は自然換気だが、強風を遮るため所々に防風扉が設けられている。鉱山規則によりスィッチ・ボックスは防爆型を設置しているが、1950年代より採掘を中止した後は坑内爆発も無いため、照明器具は普通型を認められているとのことである。&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１１．真っ暗闇のエレベーター&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　最後の出坑待合い広場には岩塩製おみやげ売り場、身障者用エレベーター、高い天井にはギネスブック級のバンジージャンプ台まである。小1時間近く待たされた。一般のエレベーター乗り場へは狭くて長い坑道を歩かねばならぬ。一度に大勢を導入すると「酸欠の恐れがあるので、天井の高い洞窟の方で待って貰っている」と説明がある。&lt;br /&gt;　漸く順番が来てエレベーターへ。鉄檻のような9人乗りの3基が並列運転である。「暗黒恐怖症の人は予め申告を、一応懐中電灯は用意していますから」と片岡TD。2~3分間だったと思うが真っ暗闇の立坑をひたすら昇る。隣のエレベーターからは悲鳴に似た奇声が聞こえる。最初の坑口に近い降り場に辿り着く。久し振りの外界は眩しい程に明るい。&lt;br /&gt;　端正な服装の女性御者の観光馬車が客待ち顔である。僅かな距離だがバス乗り場まで、遊び心で5人が乗り込む、30z 。&lt;br /&gt;　夕食はキャンドルライトのクラシックなレストランでピエロギ他の郷土料理である。ノボテル・ホテル前のヴィスワ川畔で暮れなずむヴァヴェル城を背景にスナップを1枚撮って貰う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１２．カジミエーシュのシナゴーグ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　4日午前中のフリータイムを利用してカジミエーシュ地区へ行ってみた。元々は1335年、カジミエーシュ大王が城塞都市クラクフの南東に別の町として作られたものだが、1941年ナチスによってゲットーが設置され、クラクフのユダヤ人6万人のうち1万5千人がここに移された。しかも大量虐殺により2年後には1/10にまで減ったという。&lt;br /&gt;　最初にイサーク・シナゴーグに入り、ユダヤ人強制移住のビデオ、その後の迫害、遺体処理などの陰惨な展示写真を見る。平和のシンボル鳩の市場がすぐ近くにあるのも皮肉なコントラストである。&lt;br /&gt;　ポーランド最古のユダヤ教会スタラ・シナゴーグの内部はユダヤ博物館である。会堂の中央に大きな鳥籠のような説教壇が設けられている。聖壇には例の7本足の燭台が据えられている。周囲には聖具をはじめユダヤ文化を伝える民俗遺品の数々が展示されている。大戦中ユダヤ人脱出に協力した杉原千畝に関する資料は ? と尋ねたが無かった。&lt;br /&gt;　映画「シンドラーのリスト」の舞台になったこの地区の街並みを見ていると南インド・コーチンの旧ユダヤ人街を彷彿される。&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１３．トラムでチャルトルスキ美術館へ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　走行ルートを確かめて3番線のトラムに乗る。切符売り場が見つからぬ儘、乗車して運転手から切符を買う、2.4z+0.6z(運転手手数料)。大きな停留所近くのMPKの表示のあるキオスクでしか売っていないらしい。色々な番線のトラムが2連、3連、時には4連で頻繁に走っている。&lt;br /&gt;　バルバカン前で降りチャルトルスキ美術館へ急ぐ。途中出会った片岡TDが同館のガイドブックを貸してくれる。チャルトルスキ王子の夫人イザベラのコレクションを展示するため、1801年オープンしたポーランド最古の美術館である。&lt;br /&gt;　絵画、彫刻、武具、アンティークなど名品が沢山展示されているが、何はともあれレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」の特別展示室へ急ぐ。その醸し出す気品はルーブルのモナリザに匹敵する逸品である。レンブラントの傑作もあったが午後の集合時間12:15に近く、ゆっくり鑑賞出来なかった。気が急くままに急ぎ足で通り過ぎたイコン・コーナーで、独特画風のブリューゲルのキリスト説教図を見たのは収穫であった。&lt;br /&gt;　織物会館前の老人バンド(ヴァイオリン、アコーデオン、ドラム)に耳を傾ける暇もなく集合場所のレストランに滑り込む。&lt;br /&gt;　昼食後はバスでワルシャワまで約300kmの長旅である。途中片岡TDの「旅のトラブル話」は間合いの良いテンポで結構面白く聞かせてくれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１４．ショパンの生家でコンサート&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　5日はワルシャワから西へ54kmのジェラゾヴァ・ヴォラへ行く。1810年フレデリック・ショパンが生まれた生家を見学してビアノ・ミニコンサートを聞くスケジュールである。&lt;br /&gt;　生まれた年にワルシャワに移転しているし、主な遺品はワルシャワのショパン博物館である。こちらには出生証明書、洗礼証明書、家族の写真のほか、14才の時の作詩、スケッチなど芸術的天分を窺わせるものが展示されている。小型ながら竪型のグランドピアノも珍しい。&lt;br /&gt;　この家のサロンでピアニスト、モニカ・ロッサ夫人( ? )によるショパンのプレリュード、ワルツ、エチュード、マズルカの演奏。最後は力強いポロネーズで締めくくった。僅か30分ながら十分の感動を誘ったようである。戸外のベンチでは見学の生徒達が行儀良く傾聴していた。&lt;br /&gt;広い庭園には日本ショパン協会が贈った桜の木、日本趣味らしい橋もある。うつむき加減のショパンの銅像と「対面」のポーズでスナップを撮って貰う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１５．感動のワルシャワ歴史博物館&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　昼食後はワルシャワに戻ってフリータイムである。旧市街のワルシャワ歴史博物館に飛び込む。小さい入り口、小振りな建物の割に4階までの館内には戦前戦後のワルシャワの様子を示す資料がびっしりである。戦中破壊され尽くした建物の「壁のひび1本までも忠実に復元」したというワルシャワ市民の不屈の精神に感銘、その経過を確かめたくて入館した。&lt;br /&gt;　１，2階は13世紀から1596年クラクフよりの遷都、18世紀ロシア、プロシァ、オーストリアによる三国分割までの市民、王室の民俗資料。&lt;br /&gt;　3階は占領ロシアの圧政と、それへの抵抗運動から1918年三国分割が一応終わる頃までの歴史資料。&lt;br /&gt;　4階は1939年第二次大戦勃発、独ソ両軍侵入、ナチスの暴虐、対するレジスタンス、1944年ワルシャワ蜂起、翌年終戦までの生々しい経過資料、特に破壊前の建物の絵画、写真、設計図等々。&lt;br /&gt;　これあってこそ厳密な修復が出来たのだと納得する。修復前後の対比写真を見るとき、復興への市民の執念には「脱帽」である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１６．修復、オペラ劇場、ワルシャワ大学&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　思いの外時間を費消してしまった。旧王宮前の聖アンナ教会には、土曜日のこととて挙式を待つ新郎新婦の笑顔が溢れている。&lt;br /&gt;大通り(クラクフ郊外通り)を右折して国立オペラ劇場の裏手に出る。余りに大きな建物で、通りがかりの市民に「本当にオペラ劇場か ? 」と確かめてみた。正面に回って見ると誠に壮大である。&lt;br /&gt;　1833年完成、ミラノ・スカラ座、ウイーン・オペラ座にも比肩するヨーロッパ有数の老舗劇場である。第二次大戦で正面外壁以外すべて焼失してしまったのを、市民の熱意で1956年、元の姿に復元したという。&lt;br /&gt;　大通りに戻って貴族ラジヴィウ家宮殿の前を通る。1765年当時は館内でオペラやコンサートを開催したこともあるというが、現在は大統領官邸である。&lt;br /&gt;　南隣りワルシャワ大学の正門をくぐって、キャンパス奥のカジミエーシュ宮殿を見学する。1335年カジミエーシュ大王ゆかりの宮殿で、この日は大広間で学生のモダンアート展覧会が開催されていた。&lt;br /&gt;　別の建物( 講堂 ? )では外壁をそのままに内部を大改修中である。ヨーロッパではこういう工事が得意なのだろうか。&lt;br /&gt;　時間も残り少なく、実物兵器がずらりの軍事博物館やソ連時代の遺物・文化科学宮殿の見学は割愛してノボテル・ホテルに帰る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１７．ポーランド政体の変遷と治安&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　ワルシャワのガイドによれば「ポーランドの国家体制が社会主義下では家賃、授業料等無料、失業も無かったが、自由も無かった。大学でもロシア語以外は勉学の自由が無い時代が続いた。海外旅行も、その国の招聘状が無いとパスポートが発給されない。しかも旅行が済めば直ちに返納しなければならず、所謂「海外渡航の自由」は無かった。&lt;br /&gt;　自由主義社会になって「自由」は得たが、失業者、ホームレスが増えて、確かに詐欺、窃盗などの犯罪は増加している」という。&lt;br /&gt;　外務省海外安全情報では「ポーランドでも繁華街、駅周辺、バス、トラム等では掏摸、置き引きに注意。時に集団かつ暴力化することもある。」と警告が出ていた。しかし昼間のワルシャワ、クラクフではそのような気配は殆ど感じられなかった。&lt;br /&gt;　子連れのジプシーや物乞いなども執拗に付きまとうことも無く、観光客を狙って掏摸に豹変するイタリア、フランスとは大違いである。「特に注意」の駅への地下道でも三叉路には大柄の警官が仁王立ちで見張っていた。&lt;br /&gt;　タクシーも正規のものであれば、料金の不当請求は無くなってきたが、タクシー業者によっては信用の差が若干有るようである。ホテルで呼んで貰うタクシーはまず問題は無いが、ホテル周辺で屯している車は観光客狙いの白タクなど悪質なのもいるので、乗らぬように」と現地ガイドは注意する。&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１8．フォークロア・ショーでダンス&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　夜はレストランでのディナー付きフォークロア・ショーにオプション参加する、@\9000.-。既に1組の老夫婦が軽快にダンスを楽しんでいる。スイスからという十数人の客も着席した。&lt;br /&gt;やがて3組の男女の踊り手と楽員が入場して民俗舞踊の競演が始まる。愛の哀歓を表現しているような振り付けである。ワルシャワのガイド・アンナさんが「日本は主に上半身で踊るが、この地方では下半身、特に脚で踊る。」と評していたのを思い出す。&lt;br /&gt;ショーの合間にダンサーが誘いに来たので、久し振りにクィック・ステップを踊ってみた。いくらラフスタイルOKと言われてもディナー、ダンスとなれば上着は必携である。&lt;br /&gt;終わって帰る頃にはどしゃ降りの雷雨である。市内見学中じゃなくて良かったと皆で顔を見合わせる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１9．首都－旧都－戦争の惨禍&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　翌6日はもうポーランドとお別れである。ワルシャワ・オケンチェ国際空港、通称ショパン空港のバス降り場ではショパン像が迎えてくれる。&lt;br /&gt;スーツケースに入れた岩塩の缶詰がダイナマイトのように透視されたらしく、開披させられていた。&lt;br /&gt;　10:45ワルシャワ発ヘルシンキ行きAY742便も、17:20ヘルシンキ発関空行きAY077も満席である。なるほど6~7月は北欧観光の最盛期である。関空へは翌7日8:40定刻通り到着した。&lt;br /&gt;振り返れば今回のポーランド旅行のワルシャワ－クラクフ－アウシュヴィッツは日本の東京－京都－ヒロシマ。首都－旧都－戦争の惨禍に相当するように思われる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本稿は今回の見聞に各見学場所の資料、地球の歩き方「ポーランド」等を併せ参照しました。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-2876223723044898704?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/2876223723044898704'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/2876223723044898704'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/05/2004_08.html' title='ポーランド紀行（2004年５月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TXx8lRCTI/AAAAAAAAAYQ/4AMEzAB8LYA/s72-c/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%EF%BC%91.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-386701401437998226</id><published>2010-05-08T11:34:00.006+09:00</published><updated>2010-05-11T06:43:51.179+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='アウシュビッツ'/><title type='text'>凄惨　アウシュヴィッツ（2004年６月）</title><content type='html'>&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１．ナチスの「東方総合計画」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　ポーランド南部の古都クラクフから西へ54km、オシフィエンチムの町はずれにアウシュヴィッツ強制収容所はあった。今では国立オシフィエンチム博物館として、遺された建物・施設・遺品が保存、展示されている。&lt;br /&gt;　第一次世界大戦で課された厖大な賠償金に疲弊したドイツ国&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TOat1Pn4I/AAAAAAAAAWI/5V71k3o1kY0/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%91.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 160px; height: 119px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TOat1Pn4I/AAAAAAAAAWI/5V71k3o1kY0/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%91.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468722805909462914" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;民は、ナチスを率いるヒトラーに回生の期待を掛けて、1933年政権を託した。アウトバーン( 軍用高速道路 )建設で失業者を吸収したヒトラーは密かに「東方総合計画」なるものを策定していた。それは東ヨーロッパを支配下に置いて現住民およそ5000万人を追い出し、ドイツ人1000万人を移住させるという壮大な計画であった。その根底にはドイツ選民意識と劣視民族( ユダヤ人、ジプシー、一部のスラブ民族など )の抹殺という意図が隠されていた。&lt;br /&gt;　幸い第二次大戦で後半の戦局ドイツに利あらず、この計画はほとんど実現しなかった。ただポーランドでだけは1939年より1000箇所以上の強制収容所を設置し、ナチ親衛隊( SS )管轄の下に実行されていった。&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２．アウシュヴィッツ強制収容所設立&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　アウシュヴィッツ強制収容所はポーランドに侵入したナチス・ドイツが、初めはポーランド人政治犯を収容するために、1940年設立された。本来の政治犯の他に一部のクリスチャン( 主に、ものみの塔信者 )、常習犯罪者、同性愛者、浮浪者( ジプシーなど )そしてナチが最も蔑視したユダヤ人が続々と送り込まれた。&lt;br /&gt;　地元ポーランドはもとよ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TO7Z2yoUI/AAAAAAAAAWQ/JCs1t0mZUR0/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 168px; height: 122px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TO7Z2yoUI/AAAAAAAAAWQ/JCs1t0mZUR0/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468723367482925378" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;り、ドイツ、オランダ、ベルギー、オーストリア、ハンガリー、チェコ・スロバキア、ブルガリア、ギリシア、旧ユーゴスラビアそれにイタリア、フランス、北はノルウエー、リトアニアから旧ソ連と、当時ナチが跳梁したヨーロッパ各地から、約２８の民族の人達が収容された。　翌1941年、独ソ開戦後はソ連軍の捕虜12,000人も収容され、その過半数は数ヶ月以内に毒殺、銃殺、衰弱死したという。&lt;br /&gt;　20,000人程度の収容能力では増大する囚人に対処しきれなくなり、1941年には約3km離れたブジェジンカ村に第二収容所としてビルケナウ( ドイツ語で新しい白樺の意 )収容所が建設された。更に1942年にはモノヴィツェ村に、付近の工場、炭坑に囚人&lt;br /&gt;の労働力を供給する目的で、傘下に40箇所ものミニ収容所を擁する第三収容所が設立された。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TPL0MmK4I/AAAAAAAAAWY/-LjxVjSwOV8/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%93.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 96px; height: 123px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TPL0MmK4I/AAAAAAAAAWY/-LjxVjSwOV8/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%93.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468723649431612290" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;３．収容所正&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;門と遺品の&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;山&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　博物館では館内の混雑を避けるためインフォメーションセンターからの入場を制限している。数人が「死の壁」に献花する花束を買いに売店へ走る。コースの最初に、鎖に繋がれた右手を大きくデフォルメした彫刻に出くわし、これから見学する陰惨さを予感する。&lt;br /&gt;アウシュヴィッツ強制収容所正門にはドイツ語で ARBEIT  MACHT  FREI ( &lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TPgDZtpGI/AAAAAAAAAWg/5jLi_ZmpJjY/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%94.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 161px; height: 121px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TPgDZtpGI/AAAAAAAAAWg/5jLi_ZmpJjY/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%94.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468723997110543458" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;働けば自由になる )と掲げられているが、 B の字が上下逆になっている。強制労働に駆り出された囚人達のせめてものレジスタンスだったろうといわれている。&lt;br /&gt;　収容所に連行された人達は先ず持ち物一切を没収される。展示室にはそれらの衣服、靴、鞄、眼鏡、櫛、ブラシなどが堆く積み上げられている。鞄やトランクには国籍、住所、氏名、子供は生年月日、孤児にはその旨がペンキで書き込んである。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TP7zprKxI/AAAAAAAAAWo/0eLKrWsipkI/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%95.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 106px; height: 142px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TP7zprKxI/AAAAAAAAAWo/0eLKrWsipkI/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%95.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468724473918860050" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　移住だと騙されて、ユダヤ人が自ら買った東方都市行きの切符が一枚・・・ことの真相を知った時はさぞ無念だったろうと思う。&lt;br /&gt;　処刑前後に刈り取った頭髪、それで織った布地、義手義足の山、1kgで400人をガス殺出来るチクロンB( 青酸ガスの素 )の空き缶がごろごろ。戦局逆転でソ連軍が迫った頃、ナチが焼却し切れなかったものである。死体の焼却灰は肥料にした。遺灰の一部は瓶に詰めて展示台に安置されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;４．人間の「選別」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　人々は到着すると隊列を組んで医師の前を行進させられる。労働の可否を判別する為である。老人、身体障害者、病人、妊婦、乳飲み子を抱えた母親、ホモ、身長120cm未満の子供は非労働力として「生存の価値無し」と選別され、こうして約３／４の人達がガス室送りとなった。&lt;br /&gt;労働能力有りと判定された人は正面、横、斜めの顔写真を撮られた後、囚人番号を腕に刺青される。しかしナチ・ドイツはもともと「労働力として収奪し尽くした後、抹殺する」という特定民族絶滅政策を執っている。( ガス室へ)行くも地獄、( 労働班に)残るも地獄である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;５．カポの鞭と高圧鉄柵&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　労働班は夏冬通して1着きりの囚人服、1500cal / 日 程度の粗悪な食事で、一日中ほとんど休息なしに労働に酷使された。彼等を一層悲惨にしたのは、ドイツ本国の刑務所から送り込まれたマゾ的凶悪犯のカポである。カポとはイタリア語で親方の意味で、囚人頭として現場監督に当たった。&lt;br /&gt;　労働の督励、懲罰に振るったゴムホースの鞭は乗馬用の鞭とは比較にならぬほど強烈で、時にはその場で絶命する者もいたという。殆どの者は2~3ヶ月で骸骨同様に痩せ衰え、やがてガス室送りとなっていった。&lt;br /&gt;　耐えかねて逃亡を図る者には高圧電流( 三相交流380v とガイドは言う&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TQQOSlBzI/AAAAAAAAAWw/jQEJOk6lnc0/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%96.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 169px; height: 122px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TQQOSlBzI/AAAAAAAAAWw/jQEJOk6lnc0/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%96.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468724824667129650" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;)を印加した二重の有刺鉄線柵が待っている。係員向けに「高圧危険」の立て札が立っているが、囚人には無地の裏側しか見えない。遂には自殺目的で感電死する者が続出し、その都度、所内停電が頻発したため、監視塔よりの射殺が強化された。&lt;br /&gt;　それでも旧ポーランド軍の兵舎を流用したアウシュヴィッツ( 第１)はまだ良い方である。後で行くビルケナウの馬小屋式バラック棟に比べれば。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;６．忌まわしい生体実験&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　ナチの許し難いのは劣視民族絶滅の手段を探るため、男女囚人を使っての不妊・断種の生体実験である。若くて体格の良い男女約30人を実験材料に、聞くもおぞましい施術を週に2~3回行ったという。　　また非労働力と見なされた子供でも双生児は別に温存されて、比較生体実験に供された。&lt;br /&gt;　実験中または直後に死亡する者も多く、たとえ生き残っても秘密保持のため結局はガス殺されていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;７．銃殺刑場「死&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;の壁」と拷問室&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　奥の第11棟には臨時裁判所( 室 )があり、2~3時間の間に百数十件の死刑がほとんど即決で下されていった。隣の中庭「死の壁」の前で裸で銃殺されたという。この日も沢山の献花が供えられていた。&lt;br /&gt;　建物の地下は刑&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TQnFNhw7I/AAAAAAAAAW4/cD4_2tjXiIY/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%97.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 168px; height: 124px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TQnFNhw7I/AAAAAAAAAW4/cD4_2tjXiIY/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%97.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468725217367016370" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;務所というよりは、むしろ懲罰のための拷問室である。餓死室では長崎で布教したこともあるマクシミリアン・コルベ神父もここで落命した。&lt;br /&gt;隣の窒息室では僅かな明かり取り窓も積雪で閉ざされると、扉の監視用小穴しか空気が流通しない。直径1cm程の穴を拡げようと内側から爪で掻きむしった痕がある。見る者の胸も掻きむしられる思いがする。最後は長時間90cmに背を屈める「立ち牢」である。厨房前の広場には見せしめの為の公開集団絞首台が復元されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;８．ガス室にゆらめく鬼火&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TQ7P490mI/AAAAAAAAAXA/wi00L_OXFKo/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%98.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 164px; height: 121px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TQ7P490mI/AAAAAAAAAXA/wi00L_OXFKo/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%98.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468725563830948450" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　ガス室と焼却炉は有刺鉄線柵の外にあった。焼却炉の隣の、もと死体安置所であった広い部屋はシャワー室に見せかけたガス室に改造された。収容所より解放する前の衛生措置と偽って、男女とも頭髪を刈り、消毒、シャワー室、実はガス室に誘導して、一度に2000人を約30分でガス殺した。チクロンB.5kgから発する青酸ガスで事足りたという。&lt;br /&gt;　薄暗いガス室に揺らめく慰霊の献灯がむしろ鬼火のようにさえ見える。見学の一行も段々言葉少なに、陰鬱な気持ちを抱きながら次のビルケナウ収容所を訪れる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;９．「死の門」から馬小屋へ&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TRRyk0HUI/AAAAAAAAAXI/JAZJAKf0rrs/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%99.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 160px; height: 116px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TRRyk0HUI/AAAAAAAAAXI/JAZJAKf0rrs/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%99.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468725951098789186" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　オシフィエンチムからの鉄道引き込み線を飲み込むように「死の門」と中央衛兵所の建物が建っている。当時「一旦入ったら、出口は焼却炉の煙突しか無い」と恐れられた「死の門」である。&lt;br /&gt;　衛兵所3階の監視塔&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TRpoP3z9I/AAAAAAAAAXQ/9J9IpzL8CLw/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8410.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 165px; height: 122px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TRpoP3z9I/AAAAAAAAAXQ/9J9IpzL8CLw/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8410.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468726360643456978" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;から175ha( 約53万坪)にも及ぶ広大な収容所の全景をバンして眺める。貨車で運び込んだ収容者を「選別」した積み降し場の左側、煉瓦造りの建物群が女囚棟である。右側は52頭用馬小屋の設計図で建てた木造バラック群で男性用である。&lt;br /&gt;　枕省略のため頭部に若干勾配を付けた木製3段ベッドがぎっしり。1段に8人を詰め込んで1棟に約1000人、全所で男女併せて10万人、最大16万人を収容したこともあるという。ただ監獄法規則とかで、全棟中央に暖房用横引き煙突が設置されて&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TR_kfUnxI/AAAAAAAAAXY/C07ocL-SpZ4/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8411.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 165px; height: 125px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TR_kfUnxI/AAAAAAAAAXY/C07ocL-SpZ4/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8411.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468726737591639826" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;いるのが、堅苦しいドイツらしい。&lt;br /&gt;　手前の第1棟は共同便所棟である。中央通路の両側に、2列の便穴を並べた細長い便器が据えられている。背中合わせに腰掛け&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TSdcFKNiI/AAAAAAAAAXg/xNzgFsj9hKc/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8412.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 98px; height: 136px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TSdcFKNiI/AAAAAAAAAXg/xNzgFsj9hKc/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8412.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468727250730497570" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;て用を足す。勿論前後左右にセパレーターは無い。夜はそれぞれの棟内の便桶を使うが、それも使えない時は唯一支給された食器皿に排便したという。&lt;br /&gt;　ビルケナウはもともと湿地帯のうえ、ろくに基礎工事も施さぬまま急造したバラック団地で、水の便も悪く、衛生的にはいろいろ問題を抱えていた。さらに鼠の大発生と伝染病の蔓延で、管理には可成り手を焼いたらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１０．殺人工場へ変貌&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　引っ込み線の奥には4棟のガス室・焼却炉跡と国際慰霊碑がある。時間の&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TS02r1FJI/AAAAAAAAAXo/XN6aZW6qXt8/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8413.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 160px; height: 115px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TS02r1FJI/AAAAAAAAAXo/XN6aZW6qXt8/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8413.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468727653009003666" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;都合で其処までは行けなかったが、150万人もの大量ガス殺は主にこちらで行われた。その２／３はユダヤ人だったという。&lt;br /&gt;　ガス殺が増えるに伴い4基の焼却炉は24時間稼働しても追いつかず、ついには屋外の大きな壕で焼却したとのことである。こうしてこの収容所はナチスによる劣視民族絶滅の殺人工場へと急速に変貌していった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１１．解放、証言、オシフィエンチム博物館&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　ドイツの敗色が濃くなるに従い、収容所内外の秘密抵抗組織の連携が強化され、所内ナチの残虐犯行、兵員・装備、士気の低下などの情報が外部にリークされていった。&lt;br /&gt;　1945年1月、ソ連軍によって約7000人が解放されたものの、その多くは肉体的、精神的に極限状態にあった。また約200人の双生児が医学実験材料として、なおストックされていたという。&lt;br /&gt;　これら生き残った人達の証言と破&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TTRhjMPLI/AAAAAAAAAXw/0zmaRG1IJZw/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8414.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 150px; height: 112px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TTRhjMPLI/AAAAAAAAAXw/0zmaRG1IJZw/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%8414.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468728145551834290" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;壊を免れた施設の調査でナチスの暴虐は明らかとなり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館として後世に語り継がれることになった。&lt;br /&gt;　ヒロシマ、ナガサキの原爆とともに、「アウシュヴィッツ」はまさに人類の負の遺産である。&lt;br /&gt;最後に、アウシュヴィッツ収容所元所長ルドルフ・ヘスが戦後1947年4月16日、収容所内の絞首台で処刑されたことを付記しておきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本稿は自己の見聞に、国立オシフィエンチム博物館案内書、グリンピース出版会「心に刻むアウシュヴィッツ」、地球の歩き方「ポーランド」などを併せ参照して記述しました。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TTv5q5pmI/AAAAAAAAAX4/xHeSpjlbqYw/s1600/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 189px; height: 102px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TTv5q5pmI/AAAAAAAAAX4/xHeSpjlbqYw/s320/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468728667422697058" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div style="text-align: left;"&gt;　なお福島県白河市の「白坂駅」近くの丘に江戸中期の民家を移築した「アウシュヴィッツ平和博物館」があり、アウシュヴィッツ強制収容所の一部の遺品、写真が展示してあります。同館で頒布の前記「心に刻むアウシュヴィッツ」には154件の関連図書名が掲載されております。&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;　右は白河の「アウシュヴィッツ平和博物館」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;左はビルケナウ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TUfhW5jaI/AAAAAAAAAYA/4NXOVLVOvMc/s1600/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%A6.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 155px; height: 92px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TUfhW5jaI/AAAAAAAAAYA/4NXOVLVOvMc/s320/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%A6.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468729485530074530" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;の「死の門」・中央衛兵所の建物全景&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;下はビルケナウ収容所の航空写真( 絵はがきより)&lt;br /&gt;手前が「死の門」・中央衛兵所、引き込&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TU3LhP6WI/AAAAAAAAAYI/r7NYtgiV84Y/s1600/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%A6%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 264px; height: 197px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TU3LhP6WI/AAAAAAAAAYI/r7NYtgiV84Y/s320/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%A6%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468729891984763234" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;み線の左側が現存している女囚棟、右が男囚棟、奥がガス室・焼却炉跡&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-386701401437998226?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/386701401437998226'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/386701401437998226'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/05/2004.html' title='凄惨　アウシュヴィッツ（2004年６月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TOat1Pn4I/AAAAAAAAAWI/5V71k3o1kY0/s72-c/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%91.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-5813087158717688305</id><published>2010-05-08T08:36:00.024+09:00</published><updated>2010-05-08T11:30:08.822+09:00</updated><title type='text'>チュニジア紀行（2004年３月）</title><content type='html'>&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１．遺跡の街ローマから　チュニスへ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　３月６日、始発の地下鉄・バスで小牧空港へ駆けつける。国際線７時２５分発NH338便で成田空港へ。ウイング違いのアリタリア航空へはシャトル・バスで。チェックイン、出国審査の後、11:30発AZ785便に乗り込む。乗客は疎らで３．３．３の窓側３席を占領する。雪景色のシベリアをひとっ飛びにローマ・フィウミチーノ空港に着陸する。時差－８時間のため同日の16:25である。&lt;br /&gt;　夫婦２組と女２．２．１，男１．１．１に岡本TDの我々一行１３名は６０人は優に乗れそうな大型バスでホテルへ向かう。城壁、城門、水道橋、カラカラ浴場、サンジョバンニ・イン・ラテラーノ教会と、矢張りローマは遺跡の街である。２連・３連の路面電車と並行して、バス・タクシー専用レーンを走る。車の渋滞は無いが赤信号がやたらに多い。&lt;br /&gt;　着いたエクスプレス・バイ・ホリデイインは今までのホリデイインとは様変わりのビジネスホテルである。ロビー、ダイニングは無く、簡単なカフェバーのみのB&amp;amp;Bである。部屋は日&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SlkNi4oBI/AAAAAAAAAPY/vnalu-iSerI/s1600/%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AE%E7%8B%90.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 161px; height: 116px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SlkNi4oBI/AAAAAAAAAPY/vnalu-iSerI/s320/%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AE%E7%8B%90.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468677889064476690" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;本のものよりも広かったが、バスタブは無く、シャワーのみである。&lt;br /&gt;　７日は朝食もそこそこに10:20発AZ864便で地中海をひとまたぎ、11:35チュニス・カルタゴ空港に到着する。機内で配られたチュニジアへのEDカードは英語の表示が無く、アラビア語とフランス語だけなので記入に一苦労する。空港を出ると耳の長い４匹の「砂漠の狐」の像が愛くるしく迎えてくれる。昼食は海鮮材料を壺ごとオーブンで暖めた「クスクス」である。ナンのようなメリケン粉の蓋をナイフで切り裂いて皿に盛りつける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２．タイルなら　バルドー博物館&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Sl89GIOyI/AAAAAAAAAPg/U56unE7y9Jk/s1600/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 157px; height: 119px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Sl89GIOyI/AAAAAAAAAPg/U56unE7y9Jk/s320/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468678314145626914" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　チュニスではまずモザイクタイルでは世界一を誇るバルドー博物館を訪ねる。オスマン統治者の邸宅を利用したものだけに豪壮である。カルタゴの遺跡から出土した尖った墓碑、紀元２世紀のユダヤ教典、ギリシャ・ローマ時代の等身大の石像、その他工芸品。しかし此処の目玉はなんと言っても「ディアナの狩猟」など人間・動物を描いたモザイクタイルである。細かい色石を巧みに組み合わせて色の階調を精細に表現した秀作が揃っている。血まみれの動物に剣を振るう剣闘士のモザイクなどに目を奪われる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;３．白と青の町　シディ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;・ブ・サイ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;ド&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　日曜日でお&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Smj-3SEvI/AAAAAAAAAPo/9b3DuPj2BUI/s1600/%E3%82%B7%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 153px; height: 113px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Smj-3SEvI/AAAAAAAAAPo/9b3DuPj2BUI/s320/%E3%82%B7%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468678984635126514" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;休みのメディナ( 旧市内 )のスーク( 市場 )は明日に振り替えて、シディ・ブ・サイドを見学する。町の名は「ブ・サイド聖人」という意味である。ほかにもシディ( 聖人の意 )の付く名称はよく見かけた。町を通り抜けた高台から見る、真っ青な地中海に白壁の家々とその青い扉とのコントラストが素晴らしい。&lt;br /&gt;　引き返して町のランドマークでもある「カフェ・デ・ナット」へ入る。世界で最も古いカフェといわれるアラブ風の喫茶店である。バルコニーの椅子席で海を眺め、町を眺めながら、松の実入りのミントティー( @1.5D 、１ディナールは約９０円 )をスローに喫する。時の流れがしばし止まったように。店の奥では花筵の席に上がり込んでティーを飲み、シーシャ( 水タバコ )をくゆらせながら悠々と時を過ごす土地の男達。女性客の姿が見えないのはイスラムの男尊女卑の所為か。午後６時になると土産物屋はばたばたと店を閉める。私達もシェラトン・チュニス・ホテルへ引き揚げる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;４．チュニスのメディナ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;( 旧市内 )、スーク( 市場&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt; )&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SnBsyQ0PI/AAAAAAAAAPw/1IDBM1vZduQ/s1600/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%96%80.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 187px; height: 140px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SnBsyQ0PI/AAAAAAAAAPw/1IDBM1vZduQ/s320/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%96%80.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468679495178309874" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　翌８日はシャンゼリゼ風のカフェ・テラスが並ぶハビブ・ブルギバ通り ? では４両編成もの路面電車が走っている。ビクトワール広場のバブ・バール( フランス門 )からメディナのスーク( 市場 )へ入る。種々雑多な店が軒を連ねる。派手な形の鳥籠や、結婚式に使う花籠の店が華やかである。グランドモスクを取&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SndOaqmoI/AAAAAAAAAP4/Fg9CbX-gw68/s1600/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 116px; height: 155px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SndOaqmoI/AAAAAAAAAP4/Fg9CbX-gw68/s320/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468679968062610050" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;り囲むように香水の店が多い。モスク周辺では香水のような「高貴」なものしか扱えない決まりが有るらしい。その先の一角は昔、奴隷取引専門のスークだったとか。&lt;br /&gt;　スークの中のカフェでミントティーを一服、@ 500ミリーム( 0.5D )である。シディ・ブ・サイドでは３倍の１．５D だった。シディ・ユセフ・モスクのバルコニー付きミナレットは後の建築家の手本となった有名なものである。スークを出た西側はカスバ広場だが、行政機関が多いため殆ど撮影禁止である。首相官邸周辺は自動小銃を持った兵士が警護している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;５．陶器の町　ナブール&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　次いでチュニスを後に陶器の町ナブールへ。それを象徴するように巨大な陶器の花瓶がロータリーに据えられている。工房では轆轤と絵付けの工程を見学する。細密な模様を描き込んだ見事な大皿( 40D )には裏に絵付け師のサインが書き込まれている。しかし全般に焼きが甘く割れ易そうである。&lt;br /&gt;　この町の青空スークでは当然陶器の店が多いが、真鍮細工、水タバコ器具のほか、特に目立つのがTatoo( 刺青 )の看板を掲げた装身具店である。刺青も装身具の一種と見なしているのだろうか。図柄見本の中には漢字もあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;６．チュニジアのトップ・リゾ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;ート&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;　ハマメット&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SoGWofURI/AAAAAAAAAQA/wrVHk3ObYSw/s1600/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%A1%E3%83%83%E3%83%89.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 175px; height: 121px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SoGWofURI/AAAAAAAAAQA/wrVHk3ObYSw/s320/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%A1%E3%83%83%E3%83%89.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468680674642710802" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　綺麗な海岸沿いに暫く走ると、チュニジアのトップ・リゾート、ハマメットである。カスバ( 城塞 )を正面に見据えながら海鮮の昼食のあと、城の中にはいる。小規模ながら賑やかなスークがあり、その奥は一転して静かな住居地区である。城壁の外の海岸には異様な人魚像と民芸店が一店、客待ちの観光馬車も。ゆったりと時が流れて、地中海が眩しいほどに青い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;７．此処もリゾート　スース&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　海沿いに走ってスースの街ではまず城壁に囲まれたメディナへ行く。右手、教会のミナレットと思えば城塞の見張り塔、左手、城と思えばモスク、但し外敵に対しては城塞になる。ともあれ教会と城塞は表裏一体のようである。スークを&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Soc7pX0qI/AAAAAAAAAQI/0EQ8BRKaFPg/s1600/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B9.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 149px; height: 111px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Soc7pX0qI/AAAAAAAAAQI/0EQ8BRKaFPg/s320/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B9.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468681062535647906" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;一巡したあと、ガイドが適正価格だと奨めるショッピング・センターへ入る。この店頭にもTatooの看板があり、近くで背中に「愛」と彫った女性を見かけた。&lt;br /&gt;　向こうのプロムナードのある岸壁にはロケにでも使ったのか海賊船が二隻繋留されている。入場無料ではあったが、キャビンにはホームレスの毛布らしきものが二三枚散乱していた。&lt;br /&gt;スースのホテル、ディアール・アンダルースは海に面して広いプールを備えたリゾート・ホテルである。ロビーにゴルフ・パックの広告が貼ってあった。３ゴルフ場２０５D、４ゴルフ場５ラウンド３５９D、ゴルフ三昧である。街の割には立派なカジノも目に付いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;８．「血と砂」　エル・ジェムのコ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;ロセウム&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　明くる９日は広大なオリーブ畑を左右に見ながら南下してエル・ジェムのコロセウムを訪れ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-So6E-P8RI/AAAAAAAAAQQ/XZoqb8MSVDE/s1600/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%83%A0.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 129px; height: 181px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-So6E-P8RI/AAAAAAAAAQQ/XZoqb8MSVDE/s320/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%83%A0.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468681563255337234" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;る。紀元２世紀頃、オリーブ・オイルの交易で栄えたローマ時代に建設された円形闘技場である。紀元８０年に完成したローマのコロッセオより規模は小さいが保存状態が良く、今でも毎年夏には音楽フェスティバルが行われる。イタリア・ヴェローナのアレーナ同様、現役のコロセウムである。１９７９年、世界遺産に登録されている。&lt;br /&gt;　観客席の１階は国会議員、２階は軍人、３階以上は一般民衆及び奴隷だったという。支配者のロイヤル・ボックスは場内がよく見渡せる中央入口の上に設けられている。当時は猛獣同士、奴隷と猛獣との対戦の他、剣闘士同士のトーナメントも行われた。年間３０人抜きを３回勝ち抜いた剣闘士は奴隷の身分から解放されたという。&lt;br /&gt;　血生臭い決闘で汚された闘技場を整備するため撒いた砂をラテン語でアリーナと呼んだ、現在の円形演技場「アリーナ」の語源である。スペインの闘牛士が主人公の「血と砂」という映画を思い出&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SpSvjJHOI/AAAAAAAAAQY/Z5omh3fhGqk/s1600/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%83%A0.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 164px; height: 124px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SpSvjJHOI/AAAAAAAAAQY/Z5omh3fhGqk/s320/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%83%A0.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468681987001228514" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;した。続いて地下の剣闘士の控え室、猛獣収容室も見学する。ベルベル人の女王カヒナが７０１年、イスラム・アラブ軍と最後の決戦で果てた処と言い伝えられている。&lt;br /&gt;　私達もベルベル人が逐われた跡を訪ねてマトマタへ向かう。しばらくはオリーブ畑を眺めながらバスは走る。時々首付き羊肉を店先に吊した店が目に付く。中にはその場で食べる客もいるのか、バーベキュー用コンロを備えた店もある。若い羊肉は、それを証する為わざわざ首付きで吊すという。&lt;br /&gt;　ハニカム状煉瓦で新増築ながら中途で放置してある家をよく見かける。金があるときは煉瓦を買ってきて築造するが、無いときはそのままいつまでも放っておくという。道理で素人臭い工事である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;９．ベルベル人の&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;穴蔵&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;住居　マトマタ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　再び海沿いに南下を続ける。以前はリゾートだったという海岸も所々通り過ぎる。ガベスを過ぎるあたりから山地へ入って行く。やがてマトマタのベルベル人の穴蔵住居前&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S1Ktoq3yI/AAAAAAAAASI/JezymVvjESE/s1600/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 163px; height: 122px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S1Ktoq3yI/AAAAAAAAASI/JezymVvjESE/s320/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468695043188121378" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;に到着する。山肌から１０m程掘り込んだ竪穴から、放射状に横穴を掘り進んだ居室が幾つかある。夏は涼しく、冬は暖かくてなかなか快適らしい。居室の上階は倉庫だという。&lt;br /&gt;　女主人のファティマさん( 83歳 )がよく整頓された室内を案内してくれる。日本人観光客と見ると唯一覚えた日本語「フジヤマ」を連発して盛んに愛嬌を振りまく。帰り際にチップ`@ 1D、今では観光用住居のようで、シーズンには可成りの収入になろう。&lt;br /&gt;　少し離れたところに「スターウォーズ」のロケ( バーのシーン )にも使われた穴蔵式オテル・シディ・ドリスがある。天井に奇異な模様を描いた穴蔵「バー」の隣の同じく穴蔵の食堂で昼食を執る。チュニジア風春巻きは意外に美味しかった。２階はドミトリー式の寝室でベッドが７台並んでいた。&lt;br /&gt;　此処から乗り換えて行くべき４WD( 四輪駆動車 )がなかなか来ない。土産物屋の冷やかしにも飽きた頃、漸く２台が到着した。あと１台は途中で故障したという。３台に @ 4人が分乗して行く予定だったが、急遽２台に@ 6人が詰め込まれることになった。これから砂漠への道中が思いやられる。&lt;br /&gt;　砂の広野に棗椰子が数本の小さなオアシスに、バー「サルタン」と看板の店がポツンと建っている。僅かの飲み物、スナック菓子とは対照的に「砂漠のバラ」と呼ばれる石の結晶は山盛り並べてある。とにかく貴重なトイレ・スポットではある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１０．駱駝ツァーとテント・ロッジ　クサルギレン&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　砂埃を巻き上げて走ることしばし、緑の森が見えてきた。クサルギレンである。棗椰子に囲まれたパンシー・ホテルにはプールもあり、早く到着していたら泳げただろうに。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S1hbDi1SI/AAAAAAAAASQ/CzM07X8mJ9A/s1600/%E9%A7%B1%E9%A7%9D%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 116px; height: 155px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S1hbDi1SI/AAAAAAAAASQ/CzM07X8mJ9A/s320/%E9%A7%B1%E9%A7%9D%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468695433337558306" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　取り急ぎ荷物を降ろし、砂漠の駱駝ツァー( 約２０分 )に出掛ける。先ず一こぶ駱駝への乗り方を見覚える。３匹縦隊に一人の御者が付く。先頭の駱駝は御者が手綱を握っているから問題ないが、後の駱駝はご用心である。駱駝の機嫌が悪かったのか、乗り方が拙かったのか、男性２人、女性１人が振り落とされた。砂地とはいえ約２mの高さから不意に落とされれば怪我もする。70余歳 の女性は起き上がれない程の重傷である。後で判ったことだが股関節脱臼らしく、数十km先のドゥーズの医院まで４WDで担ぎ込んだ。呉々も御者が手綱を取る先頭の駱駝に乗ることか肝要である。&lt;br /&gt;　石油を探索し&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S2D7_tr4I/AAAAAAAAASY/Zo2AR7Y0Stc/s1600/%E9%A7%B1%E9%A7%9D%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 157px; height: 115px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S2D7_tr4I/AAAAAAAAASY/Zo2AR7Y0Stc/s320/%E9%A7%B1%E9%A7%9D%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468696026295414658" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ていたら温泉が出たというこのオアシスには砂漠のすぐ傍に温泉池があり、一人の男性が泳いでいた。&lt;br /&gt;　宿泊はこのツァーの呼び物テント・ロッジである。１張りに３ベッド、水洗トイレ、シャワー、エアコン完備の二重テントである。内側のテントは念入りに目張りがしてある。凄まじい砂嵐に備えてのことであろう。こういうテントが数十張り砂地の上に設置されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１１．砂漠のオアシス　ドゥーズか&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;ら塩&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;湖「ショット・エル・ジェリド」&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;へ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　翌朝１０日、いつの間に撮ったのか駱駝に乗っている写真を売りに来た、１枚買う。今日は4WD(トヨタのランドクルーザー) ３台に分乗して出発である。駱駝の放牧を眺めながら昨日の小オアシスに立ち寄る。丁度店員がナンを焼いていたので１枚( 0.5D &lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S2huxvQ6I/AAAAAAAAASg/s3QWSNLD-F8/s1600/%E5%B0%8F%E3%82%AA%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%A6.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 163px; height: 122px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S2huxvQ6I/AAAAAAAAASg/s3QWSNLD-F8/s320/%E5%B0%8F%E3%82%AA%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%A6.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468696538143212450" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;)買って、皆に小分けしながら食べる。噛むほどに味わい深い。傍らのテントには砂地に直に毛布が敷いてある、この店員の寝所らしい。&lt;br /&gt;　太い送油パイプが路傍に数本づつ縦列に放置してある。砂嵐で道路が埋まるのに備えての目印とのことである。&lt;br /&gt;　遊牧民族の交差点らしく、ドゥーズの街に近ずくにつれ、羊や駱駝の放牧が目に付く。街の青空スークでは部族毎に異なったデザインのペンダントを売っている。ミント・ティー１袋を買う( 1D )、後日チュニスのスーパーでは３袋で１Dであった。昼食を執ったホテルのロビーに見事な能衣装が飾ってあった。トイレのタイルも精巧で地方都市にしては・・・と感心する。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S3BEitqBI/AAAAAAAAASo/cZEV1iWMBOc/s1600/%E5%A1%A9%E6%B9%96.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 163px; height: 121px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S3BEitqBI/AAAAAAAAASo/cZEV1iWMBOc/s320/%E5%A1%A9%E6%B9%96.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468697076561717266" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　この街を出るとケビリ経由いよいよ塩湖「ショット・エル・ジェリド」( 塩の層に覆われた湖の意 )の横断である。一直線に続く道路脇の水際に塩が白く析出している。そのうち塩田、塩の小山、製塩工場が見えてくる。遙か彼方にオアシスらしい森影が現れる、「あれは蜃気楼 !　オアシスと信じて乾いた塩湖を歩き続け、遂に水、食料が尽きて行き倒れた人もいた。」とガイドが解説する。途中に唯一カ所、粗末なトイレを併設した土産物屋がある。トイレ休憩には不可欠の店である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１２．山のオアシス３渓谷　シェビカ、タメルザ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;、ミデ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;ス&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　塩湖の北岸トズール&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S3dp0KusI/AAAAAAAAASw/eDQFxP8l_hc/s1600/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%AB%E6%B8%93%E8%B0%B7.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 160px; height: 113px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S3dp0KusI/AAAAAAAAASw/eDQFxP8l_hc/s320/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%AB%E6%B8%93%E8%B0%B7.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468697567603374786" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;を通過してしばらく走ると「山のオアシス」シェビカ渓谷である。一木一草も無い山間の谷間に僅かに水が湧き、棗椰子が茂る。正に山のオアシスである。１９６９年の大洪水でベルベル人が放棄した廃村があり、「インディー・ジョーンズ(レイダース) 」もロケしたという秘境ムードが漂っている。大昔は海だったのか、山肌をよく見るとアンモナイトらしい貝の化石が露出している。&lt;br /&gt;　次はタメルザの滝を見に行く。ここも山のオアシスで、グラン・カスカド( 大滝 )というささやかな滝が流れ落ちている。土産物屋が数軒あるだけで、周囲は勿論禿げ山である。&lt;br /&gt;　続いて訪れたミデス渓谷はアルジェリアまで２kmという国境の谷である。バルコニー・オアシスと呼ぶ地点は足元から地球の割れ目のような狭くて深い谷が延びてい&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S3661UpLI/AAAAAAAAAS4/rjLZnJLzIoE/s1600/%EF%BC%93%E6%B8%93%E8%B0%B7.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 162px; height: 122px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S3661UpLI/AAAAAAAAAS4/rjLZnJLzIoE/s320/%EF%BC%93%E6%B8%93%E8%B0%B7.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468698070387827890" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;る。殆ど水平に延々と続く鮮明な地層はミデス峡谷の年輪のようでさえある。１９９７年アカデミー賞の映画「イングリッシュ・ペイシェント( イギリス人の患者 )」もこの峡谷でロケしたという。&lt;br /&gt;　今夜の宿は荒れ地にぽっかりと現れたようなタメルザ・パレス・ホテルである。３週間も降り続いたという１９６９年の大洪水でベルベル人が捨てた廃村が大きな涸れ川越しに眺められる。こちら側はプールもある豪華な四つ星のリゾート・ホテル、川向こうは古代の廃墟のような集落のパノラマ。一瞬異次元の時空を往復しているような錯覚に捕らわれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１３．宇宙ロケに最適　オング・ジャメル砂丘と塩&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;湖「ショット・エル&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;・ガルサ」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　１１日はサハラ砂漠の日の出を見ようと3:30 モーニング・コール、4:45 出発で一路砂漠の真っ只中へ。6:00 目的地のオング・ジャメルという小高い砂丘へ到着、次の発進でタイヤがめり込まないように４WDを、下り勾配に駐車する。早速土産物売りの男が数人、いつの間にか、忽然と地から湧いて来たかのように近づいて来る。１Dの民芸ペンダントには女性客の人気が集まり、結構売れたようである。6:20漸く朝日が昇り始める。地平線は薄雲で少し霞んだ太陽である。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S582Wvv6I/AAAAAAAAATI/Pum4mJBJxXE/s1600/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 151px; height: 120px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S582Wvv6I/AAAAAAAAATI/Pum4mJBJxXE/s320/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468700302568832930" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;砂丘の遙か彼方にぽつんと異様な集落が見える。近づくと、なんとスターウォーズのロケに使った異星人基地のオープン・セットである。ロケットのミニチュアも数本立っている。１０数年経った今ではさすがに損傷も進み、内側の張りぼても無残である。動植物の一切無い空間は地球外の宇宙のシーンには最適であろう。&lt;br /&gt;　続いて真っ白に乾いた塩湖「ショット・エル・ガルサ」にある奇岩ラクダ岩を見に行く。此処も&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S6ayLjf7I/AAAAAAAAATQ/KftjVydcFUY/s1600/%E5%A1%A9%E6%B9%96%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 147px; height: 111px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S6ayLjf7I/AAAAAAAAATQ/KftjVydcFUY/s320/%E5%A1%A9%E6%B9%96%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468700816844226482" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;珍奇な風景としてロケによく使われるという。この異空間からスベイトラに向かう途中、砂漠の彼方に大型飛行機とコントロール・タワーが見える。これも蜃気楼かと一瞬目を疑うが、トズール・ネフタ国際空港であった。周辺の観光リゾートを楽しむため、主にフランスからほぼ毎日直行便があるという。ガソリン・スタンドで給油中、二部制授業に登校中の女学生にフランス語で声を掛けたら、通じたらしく笑顔が返ってきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１４．ビザンチン遺跡　スベイトラ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　サハラ砂漠ともお別れで、４WDからバスに乗り換える。スベイトラの遺跡見学は先ずローマ式の半円形劇場から始まる。この劇場でも歌舞伎の黒子のように、台詞の助っ人&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S7LW1bNjI/AAAAAAAAATY/oMCGHftn9W0/s1600/%E3%83%93%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E9%81%BA%E8%B7%A1.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 171px; height: 128px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S7LW1bNjI/AAAAAAAAATY/oMCGHftn9W0/s320/%E3%83%93%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E9%81%BA%E8%B7%A1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468701651317241394" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;プロンプターの控え室がある。客席の後方を真っ直ぐ、大通りを進むとアントニウス・ビヌスの門を潜り、フォルム( 公共広場 )へ出る。正面にコリント柱のミネルバ、ジュピター、ジュノの３神殿が立ち並ぶ。資産家が財力を誇示し、人望を集めるために建てたのだとガイドは言う。&lt;br /&gt;５　０ヘクタールにも及ぶこの遺跡は７世紀半ばにチュニジアに建設されたビザンチン最後のものである。洗礼槽、避暑目的の地下室、その見事な床タイルなどローマ式都市のたたずまいを知る上で貴重な遺跡である。まだまだ未発掘の面積も大きいという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１５．ケロアンの宿は城塞　「ラ・カスバ」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　ケロアンへの道中では砂漠から緑野へと、車窓が次第に移り変わって行く。ケロアンのカーペット工房では次々に床に拡げて見せてくれるが買った人は居なかったようである。中近東の旅などで既に購入済みなのであろうか。デザイン、配色、見る角度で色調が変わるなど、なかなか豪華なものではあった。&lt;br /&gt;　１１月７日通りのスークではカーペットのほか、ベリーダンスでも着られそうな&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S7tW1c0eI/AAAAAAAAATg/rLXScvSOIuU/s1600/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%90.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 153px; height: 115px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S7tW1c0eI/AAAAAAAAATg/rLXScvSOIuU/s320/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%90.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468702235432899042" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;派手なドレスを路傍に並べ立てている。また土地名物の鄙びた菓子「マックロード」( 棗椰子の実を蜂蜜のしみ込んだ生地でコーティングした菓子 )の店が多い。店頭での実演販売では間合いの良いタイミングの口上でつい２つ３つ買ってしまう。此処と思えばまたあちらと場所をかえながらの、商売熱心な香料屋台もある。&lt;br /&gt;　今夜の宿泊は城塞の中のズバリ、「ラ・カスバ」ホテルである。城壁の外には大砲まで据えられていたが、ホテル内部は一般の観光ホテルと変わらない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１６．大貯水池と大モスク　ケロアン&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　翌１２日の見学は街の北、アグラブ朝の貯水池から始まる。西方３６kmから導水路によって運ばれ、浄水池を経て大&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S8MFNgq5I/AAAAAAAAATo/-RDTQUrX0-w/s1600/%E3%82%B1%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%B3.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 101px; height: 135px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S8MFNgq5I/AAAAAAAAATo/-RDTQUrX0-w/s320/%E3%82%B1%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%B3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468702763277921170" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;型貯水池に蓄えられる。９世紀当時の最高技術で建設された１４の貯水池も、現在なお４池がケロアン市民に上水を供給している。&lt;br /&gt;　再び城内に戻りグランド・モスクを見学する。重厚な煉瓦の四囲は要塞を思わせる。大理石を敷き詰めた中庭の中央に向かってゆるやかに勾配し集水口、その下に貯水槽があり雨水を貯めている。中庭を囲む回廊の華麗な壁タイル、豪壮なレバノン杉の扉など目を瞠るものがある。礼拝堂はムスリム( イスラム教徒 )以外は入れないが、入り口からメッカの方向を示すミフラーブの壁を見ることが出来る。&lt;br /&gt;　中庭の反対側には高さ３１．５mのミナレットがある。７２８年に築かれた最下段はイスラム最古のもので、キリル文字が読めない職人が築いたのであろう、文字が上下逆になっている。角石はビザンチン遺跡から持ち出されたものだという。６４０年建立、９世紀のアグラブ朝に再建されたこのモスクは北アフリカ最古最大のものである。&lt;br /&gt;　次の目的地ドゥッガへの道中では山頂まで届く広大なオリーブ畑が続く。昼食はホテルのレストランで猪肉のステーキであった、意外に臭みは無かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１７．チュニジア史の縮図　ドゥッガ遺跡&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　アフリカを代表するローマ遺跡として１９９７年世界遺産&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S8uBy7qBI/AAAAAAAAATw/CvJYmj1ylec/s1600/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%82%AC%E9%81%BA%E8%B7%A1.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 161px; height: 123px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S8uBy7qBI/AAAAAAAAATw/CvJYmj1ylec/s320/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%82%AC%E9%81%BA%E8%B7%A1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468703346476689426" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;に登録されたドゥッガ遺跡は規模、保存状態とも最も優れたものの一つと言われている。ヌミディア、カルタゴ、ローマ、ビザンチンとチュニジア征服の歴史を示す複合遺跡でもある。&lt;br /&gt;　先ず出会うのが１６８年に建てられたローマ式半円形劇場で、ほぼ原型に近く保存されている。背後の山では放牧の牛や羊がのんびりと草を食んでいる。轍の跡が凹んだ道路、凱旋門、商店、そして都市の中心フォルムからキャピトルへ。其処にはユピテル、ユノー、ミネルヴァの三神を祀るコリント柱の神殿が荘厳に聳える。しかし中央のユピテル像は今は無い。&lt;br /&gt;　ローマ人の住居跡を通ってメインストリートを下り、トリフォリウム(クローバー)の家へ行く。これは公営売春宿で、家の名前は例の小部屋「クロー&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S9T6KsyFI/AAAAAAAAAT4/c2sEiSrEhS4/s1600/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%AE%B6.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 148px; height: 111px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S9T6KsyFI/AAAAAAAAAT4/c2sEiSrEhS4/s320/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%AE%B6.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468703997263923282" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;バーの間」から来ている。前金を支払って階段を下りると中庭に面して幾つかの小部屋がある。一方通行で他の客と顔を合わせることもなく、出口はその先にある。１２穴の共同便所はセパレーターも無く、青空の下おおらかな情景である。アーチの石組みや浴場の床タイルもよく保存されている。&lt;br /&gt;　遺跡の南端に近くベルベル人の墓といわれる石塔が建っている。ただし１８４２年崩壊のため、フランス政府が再建したものだという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１８．ヌミディアの地下住居　ブラ・レジア遺跡&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　引き続きブラ・レジア遺跡へ移動する。地上には２世紀に建てられたというユリア・メムニアの大浴場が目立つくらいで、此処の見所は北部の地下住居群である。夏の暑熱を避けるため地下に上下水道完備、中庭付きの住居を築き、床には見事なモザイク画が描かれている。中でもアンフィトリテの家のトリトンとアフロディテのモザイク画はブラ・レジアで最高の傑作といわれ、２世紀頃の作品とは信じられないくらい保存状態がよい。サウナ風呂の焚き口、チューブボルトを使ったアーチ工法の跡などを見ることが出来る。&lt;br /&gt;　ブラ・レジアの盛衰はヌミディア王国の興亡でもある。ベルベル系民族のヌミディア王国はカルタゴ時代はその勢力下に、第二次ポエニ戦争後はローマの同盟国に、第三次ポエニ戦争後はローマに反抗して滅ぼされ、その属州となって栄えた時期もあったが、ビザンチン時代以降は衰退し、今では無人の都市遺跡を残すのみである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１９．現地ガイド・ロトビー君の談話&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　この辺の鉄道は総て単線で&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S96_JRkdI/AAAAAAAAAUA/2Fjj8Mkpcqo/s1600/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B9.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 150px; height: 111px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S96_JRkdI/AAAAAAAAAUA/2Fjj8Mkpcqo/s320/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B9.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468704668615021010" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;、殆ど貨物輸送用だという。チュニスへの道すがら、現地ガイド・ロトビー君の談話にしばし耳を傾ける。&lt;br /&gt;　「驚異の戦後復興を成し遂げた日本の活力を絶賛する教師に感化されて、大学では日本語科を卒業した。再度来日して東京、名古屋、京都、広島を歴訪した。二度目は日本民放の招きで超長身のチュニジア人を案内して来た。日本人観光客がもっと沢山チュニジアに来てほしい、まだ独身中。&lt;br /&gt;　なおチュニジアでは独身の特権として、金の無いときはカフェの茶代は免除される。しかし妻帯後はいかに失業中でも支払わなければならない。」と。&lt;br /&gt;　ようやくチュニスに帰り着く。今日はなかなかの強行軍であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２０．ケリビアから　カルタゴ遺跡ケルクアンへ&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S-dzoG5KI/AAAAAAAAAUI/ChSeTKi0GE4/s1600/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 164px; height: 131px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S-dzoG5KI/AAAAAAAAAUI/ChSeTKi0GE4/s320/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468705266818540706" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　１３日はボン岬の遺跡歴訪である。先ずはケリビアのビザンチン要塞へ。５世紀のカルタゴ時代を経て６世紀からのビザンチン時代に城塞が築かれた。城壁は威厳を保っているが城内は殆ど見るべきものはない。ケリビア港に向かって据えられた大砲が不気味である。強風にあおられながら城壁の上から見渡したパノラマは壮観であった。&lt;br /&gt;　次はいよいよ世界遺産ケルクアンの古代カルタゴ遺跡である。先ず町の北西の岩山から発掘されたネグロポリス( 墓場 )の副葬品、異形の墓石などを陳列した博物館を見学する。&lt;br /&gt;　ケルクアンの町は紀元前６世紀頃カルタゴ人によって築かれ、紀元前２世紀、第一次ポエニ戦争でローマ軍によって破壊された。その後町を再建しなかったため、建物の底部が遺され、整然とした都市計画と各戸の構造を知ることが出来る。住居は真っ直ぐ中庭に進&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S_DJzNvSI/AAAAAAAAAUQ/5OHF4pM_q_M/s1600/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%94%BA.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 147px; height: 110px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S_DJzNvSI/AAAAAAAAAUQ/5OHF4pM_q_M/s320/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%94%BA.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468705908425866530" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;み、それを囲んで生活の場が配置されている。赤いセメントで造られた浴室、竈、貯水槽、排水溝、二階への石段が２～３段、シンプルな床モザイクも。ささやかながら皆同じような構成である。&lt;br /&gt;　ローマ人が公共大浴場を建設したのに対し、カルタゴ人は各戸に小浴室を設備したのは、染色過程で発生する紫貝の腐臭を洗い流すためという説もある。因みにフェニキアとはギリシァ語で「紫」の意である。&lt;br /&gt;　海に近くアポトロバイオンの円柱群跡にはカルタゴの守護神タニトを表した床モザイクがあり、神聖な場所とされている。集落の中心部にフォーラム( 中央広場 )が有るのはローマ遺跡と同じである。貴重なフェニキア遺跡として１９８５年世界遺産に登録されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２１．石切場エル・ハワリアと　「カルフール」ショッピング&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　昼食はエル・ハワ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S_lWf9HJI/AAAAAAAAAUY/wZui786c5eA/s1600/%E7%9F%B3%E5%88%87%E5%A0%B4.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 156px; height: 117px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-S_lWf9HJI/AAAAAAAAAUY/wZui786c5eA/s320/%E7%9F%B3%E5%88%87%E5%A0%B4.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468706495950298258" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;リアのレストラン・レ・グロット( 洞窟の意 )でトマト煮の海鮮料理「ウジャ」を食した。この石切場は石質が良いとして６世紀ローマ時代のカルタゴ都市建設には大量の石が切り出された。より良い石質を求めて幾つもの洞窟が掘り進まれた、中でもガル・エル・ケビルは最大の切り出し穴といわれている。&lt;br /&gt;　岬の丘に風力発電のプロペラが数十基林立しているのを眺めながら、チュニスへの帰路に就く。チュニス郊外のフランス系スーパー「カルフール」でクッキー、ワイン、オリーブオイル、ミントティーを買う。おおまかに言えば食品は日本の半値以下、家電など工業製品は倍以上の価格である。店内は一切撮影禁止、ワイン売り場は袋小路式で、唯一カ所の出入り口は係員が監視 ? している。小売業としてはカルフールは世界第２位の売上高という。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２２．「平家琵琶」のようなマルーフ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　今夜はチュニスのメディナの「エッサラヤ・レストラン」で民族音楽マルーフを聞きながらの夕食である。スークの元富豪の邸宅を改装したもので、中庭に天井を取り付けてダイニングルームにしている。従って周囲に個室もあれば、二階にはバルコニーもある。&lt;br /&gt;　入り口に近く薄暗いところに黒い僧衣を纏ったような男が琵琶に似&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TAlVm_UKI/AAAAAAAAAUg/ZJzGiNx-8Ck/s1600/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 148px; height: 111px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TAlVm_UKI/AAAAAAAAAUg/ZJzGiNx-8Ck/s320/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468707595222995106" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;た楽器を抱えて着座している。やがて満席に近づいた頃、弦を掻き鳴らしながらマルーフを吟じ始める。吟遊詩人もさぞやと思わせる纏綿たる情緒である。日本ならさしずめ「平家」を語る琵琶法師というところであろうか。物静かに、或いは高らかにディナーに興を添える。宴の余韻に浸りながら、昼間の喧噪とは打って変わった夜更けのメディナを後にホテル・シェラトン・チュニスへ引き揚げる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２３．ビュルサ伝説と　古代カルタゴ遺&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;跡&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TBKCR5oBI/AAAAAAAAAUo/uFfkT_RFTqI/s1600/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 116px; height: 153px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TBKCR5oBI/AAAAAAAAAUo/uFfkT_RFTqI/s320/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468708225689427986" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　翌１４日はチュニジア最後の行程である。TGMと呼ばれる郊外電車と、時に併走しながらカルタゴに到着する。カルタゴは現地ではフランス語式にカルタージュ(CARTHAGE)と呼ばれている。カルタゴの遺跡はTGMのカルタージュ・サランボ駅からカルタージュ・アミルカル駅まで６駅に亘って分布している。&lt;br /&gt;　先ずビュルサの丘へ上る。伝説に依ればこの丘の名は、王位争いからフェニキアを逐われた王女エリッサが放浪の末、紀元前８１４年、此の地に辿り着き、牛の皮(ビュルサ)を細&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TCA5AGhCI/AAAAAAAAAUw/ZpT4w_eSPP8/s1600/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%AB%E3%82%A4%E6%95%99%E4%BC%9A.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 112px; height: 150px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TCA5AGhCI/AAAAAAAAAUw/ZpT4w_eSPP8/s320/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%AB%E3%82%A4%E6%95%99%E4%BC%9A.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468709168091661346" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;長く切り裂いて土地を囲い、丘を手に入れたことに由来するという。はじめはカルト・ハダシュト(フェニキア語で「新しい町」の意)と称していたが、後にローマ人がカルタゴと呼ぶようになった。&lt;br /&gt;　眼前に威容を誇るのは十字軍遠征でこの地に没したフランス国王聖ルイ９世に捧げて建てられたというサン・ルイ教会である。横を通り抜け紀元前３世紀ポエニ時代のカルタゴ住居跡を見学する。中庭を囲んで「狭いながらも楽しい我が家 ? 」の跡が画然と並んでいる。&lt;br /&gt;　カルタゴ博物館ではカルタゴの変遷の見取り図、墓碑、副葬品、人骨、剣で突き刺した穴のある鎧などの出土品が展示してある。チュニスのバルドー博物館には及ばないが、カルタゴ最古といわれるモザイクタイルを始め、狩猟の図を描いたモザイクの大壁画が床に展示してある。これを二階への階段から眺めるとその巨大さが実感できる。館外の敷地にはかつて建っていたであろう建物の円柱の底部が遺されている。&lt;br /&gt;　丘を下りて古代カルタゴ軍港に行く途中、ポエニ人の墓地トフェがある。カルタゴの守護神タニト神を祀る聖域とされていたが、今は数十基の墓石が散乱しているだけである。中に何基か、神への生け贄に捧げられた一歳未満の嬰児の墓といわれる小さな墓碑があり、思わず合掌す&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TCuKSYYwI/AAAAAAAAAU4/8CZpQ-eUT4I/s1600/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E8%BB%8D%E6%B8%AF%E3%81%AE%E7%95%94.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 155px; height: 126px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TCuKSYYwI/AAAAAAAAAU4/8CZpQ-eUT4I/s320/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E8%BB%8D%E6%B8%AF%E3%81%AE%E7%95%94.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468709945825846018" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;る。&lt;br /&gt;　一見、中の島のある池のように見える古代カルタゴ軍港の畔を散策する。直径約300mの円形ながら、古代軍船２２０隻を繋留することが出来たという。隣接して横長の商業港が水路で繋がっている。&lt;br /&gt;　東へ移動して、１９８８年に修復されたアントニヌスの大共同浴場を見学する。２世紀ローマのア&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TDcreMQnI/AAAAAAAAAVA/BV5WACp9_y8/s1600/%E5%A4%A7%E5%85%B1%E5%90%8C%E6%B5%B4%E5%A0%B4.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 161px; height: 121px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TDcreMQnI/AAAAAAAAAVA/BV5WACp9_y8/s320/%E5%A4%A7%E5%85%B1%E5%90%8C%E6%B5%B4%E5%A0%B4.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468710745007735410" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ントニヌス・ピウス帝が建設したもので、二階建て、冷温浴の大小１００余の部屋を持つ一大温泉レジャーセンターであったという。&lt;br /&gt;　この東隣はチュニジア大統領官邸のためカメラを向けることは一切禁止されている。今やカルタゴ一帯は高級住宅地として各国大使公邸や別荘などが建ち並び、遺跡はその間に点在している状態である。これら一連のカルタゴ遺跡は１９７９年世界遺産に加えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２４．神業　テルミニ駅～フォロ・ロマーノ間を３０分で&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;往復&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　此処からチュニス・カルタゴ国際空港は近い。空港で昼食代わりにサンドウィッチを頬張って12:35 AZ863 アリタリア航空で飛び立った。離陸して間もなく、あのドーナッツ型の古代カルタゴ軍港を俯瞰することが出来た。&lt;br /&gt;　機内食も無いまま13:55ローマのフィウミチーノ国際空港に着陸する。滑走路は殆ど海岸沿いで、こんなに海に近い空港とは知らなかった。&lt;br /&gt;　成田行き20:45まで待ち合わせ時間があるので、ローマの街へ出ようということになった。空港駅からテルミニ駅行きの切符は空港線オンリーのため簡単に買うことが出来た。9.5Euro(約1300円)、ノンストップで約３０分。しかしテルミニ駅で帰路の切符を買うのには難儀した。どの出札窓口も長蛇の列、自販機は英・独・仏・伊・西・蘭語を選択して次々と数画面を操作しなければならぬ。やむを得ず、どこかの添乗員らしき日本人男性をつかまえて手伝って貰った。&lt;br /&gt;　メトロでフォロ・ロマーノへ行くつもりだったが、段々時間が無くなってタクシーで駆けつけた。チップ込み１０Euro。日曜日のため人出は多&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TER-dIW1I/AAAAAAAAAVI/7riWUZIRmiw/s1600/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AD%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%8E.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 320px; height: 119px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TER-dIW1I/AAAAAAAAAVI/7riWUZIRmiw/s320/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AD%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%8E.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468711660636625746" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;かったが交通渋滞も無く約１０分で到着する。しかし残念ながら冬季は15:00で閉場のため、フォロ・ロマーノの中には入れなかった。大急ぎで道路脇から全景をビデオとデジカメで撮影してタクシー乗り場へ。運転手に「テルミニ駅へ」と言うと「メトロか、トレインか ? 」と聞いてくる。「空港へ行くのだからトレ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TFBOkxpUI/AAAAAAAAAVQ/PwH2EoiQU_g/s1600/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8B%E9%A7%85.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 159px; height: 119px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TFBOkxpUI/AAAAAAAAAVQ/PwH2EoiQU_g/s320/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8B%E9%A7%85.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468712472417510722" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;インのテルミニ駅だ」と答える。&lt;br /&gt;　来るとき覚えておいたが空港線は２６番線である。しかしいくら見渡しても１～２４番線までしか見当たらない。警備員らしき職員に尋ねたら右側ずーっと( 約200m ? )前方だという。殆ど小走りに17:22発空港行きに飛び乗った。テルミニ駅～フォロ・ロマーノ間往復たったの３０分、あとから思うと正に神業であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２５．帰国　明暗&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　ユーロ圏外への出国審査を念入りにチェックしているためか、数カ所の窓口がどれも大混雑である。搭乗ゲートまで約１時間半かかってしまった。アリタリア航空AZ7788便はJAL400便と共同運航のため日本人スチュアーデスも多く、イタリア人スチュアーデスも日本人顔負けの物腰で、早くも国内線ムードである。このジャンボ機では二階席であった。１５日17:00成田着、入国手続きの後、19:30全日空NH339便で名古屋空港着20:40。無事流れ解散となった。&lt;br /&gt;　駱駝ツァーで負傷した老婦人は、無理にでも皆と一緒に帰国したいと熱望したが、旅行保険の傷害治療は医師の指示通りが原則で、それを逸脱した行動は以後一切自己負担という。やむを得ず小康を待って俄介護人となった友人と共に2~3日遅れて帰国したようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２６．カルタゴの興亡と　チュニジア概史&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　最後におさらいとしてカルタゴの興亡とチュニジアの歴史を概観しておこう。&lt;br /&gt;　ビュルサ( 牛の皮 )の「伝説」はともかく、カルタゴの&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TFsmw6ILI/AAAAAAAAAVY/ClyoEVGiEdw/s1600/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%81%AE%E8%A1%97%E3%81%AE%E7%B5%B5.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 156px; height: 117px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TFsmw6ILI/AAAAAAAAAVY/ClyoEVGiEdw/s320/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%81%AE%E8%A1%97%E3%81%AE%E7%B5%B5.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468713217645224114" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;興亡は3000年の昔に遡る。地中海東岸地方(主としてレバノン)の民だったフェニキア人は造船、航海、通商に優れ、地中海交易の中継基地としてカルタゴに植民都市を建設した。紀元前６世紀には最盛期を迎えたという。&lt;br /&gt;　これに対し地中海の覇権をめぐってギリシャ、ローマと対立し、三次( 前264～前146 )に亘るポエニ戦争( ローマ人はフェニキア人のことをポエニと呼んだ )の後、カルタゴは滅亡した。勇将ハンニバルがローマ軍を散々苦しめたのは第二次のときであつた。しかし&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TGez7eiOI/AAAAAAAAAVg/ZK_q8MY1tLE/s1600/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AB%E3%81%A6.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 170px; height: 127px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TGez7eiOI/AAAAAAAAAVg/ZK_q8MY1tLE/s320/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AB%E3%81%A6.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468714080172673250" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;カルタゴはローマ支配下にあっても、好立地から再び繁栄を取り戻し、ローマ、アレキサンドリアに続くローマ帝国第三の都市となった。&lt;br /&gt;　降って2～4世紀、ローマ帝国の衰退と共に、ヴァンダル人( ゲルマン民族の一部族、439)、ビザンチン( 東ローマ帝国、534 )、イスラムを信奉するアラブ軍( 647 )が次々に侵攻する。先住ベルベル人の抵抗、アラブの内部抗争などを抱えながらも歴代のイスラム王朝はチュニジア全土を制圧してきた。&lt;br /&gt;　これに対しスペイン&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-THQ6rRMoI/AAAAAAAAAVo/MB90saF6xrQ/s1600/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AB%E3%81%A6%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 167px; height: 125px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-THQ6rRMoI/AAAAAAAAAVo/MB90saF6xrQ/s320/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AB%E3%81%A6%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468714940977197698" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;はレコンキスタの余勢を駆ってイスラム追放を狙う( 1525 )が、一方イスラム国家オスマン・トルコはこれに対抗( 1574 )、借金の形に付け入るフランスは遂にチュニジアを植民地化してしまった( 1878 )。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　しかし1956年遂に独立。その&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TH-vWVXzI/AAAAAAAAAVw/yAThDsVCrRI/s1600/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AB%E3%81%A6%EF%BC%93.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 171px; height: 128px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TH-vWVXzI/AAAAAAAAAVw/yAThDsVCrRI/s320/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AB%E3%81%A6%EF%BC%93.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468715728210583346" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;間も尚チュニジアはイスラム国家であり続けた。因みに３月１１日スペインで起こった通勤電車爆破テロの首謀者の一人ファケットはチュニジア人である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本稿ではダイヤモンド社「地球の歩き方・チュニジア」を一部参照させて頂いたことを付記します。&lt;br /&gt;(←シェビカ渓&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TJ4Ai3yTI/AAAAAAAAAWA/v6XBFT4QJBQ/s1600/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%AB%E6%B8%93%E8%B0%B7%E3%81%A7.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 159px; height: 115px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TJ4Ai3yTI/AAAAAAAAAWA/v6XBFT4QJBQ/s320/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%AB%E6%B8%93%E8%B0%B7%E3%81%A7.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468717811590744370" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;谷でTD岡本さんと林さん)&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TI_L-sx4I/AAAAAAAAAV4/2FVUChejKWM/s1600/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%A4%A7%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 171px; height: 128px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-TI_L-sx4I/AAAAAAAAAV4/2FVUChejKWM/s320/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%A4%A7%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468716835407710082" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この２６節の写真は上から、カルタゴ古図、ベルベル系ヌミディアのブラ・レジア遺跡、ドゥッガのローマ遺跡、ケリビアのビサンチン要塞、ケロアンのイスラム大モスク。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-5813087158717688305?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/5813087158717688305'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/5813087158717688305'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/05/20044_08.html' title='チュニジア紀行（2004年３月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SlkNi4oBI/AAAAAAAAAPY/vnalu-iSerI/s72-c/%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AE%E7%8B%90.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-5592921984513991514</id><published>2010-05-07T20:58:00.012+09:00</published><updated>2010-05-08T09:44:46.588+09:00</updated><title type='text'>伊豆大島と八丈島の旅（2004年4月）</title><content type='html'>&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１．大島アンコと椿まつり&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　「チャーター便で行く伊豆大島・八丈島二島めぐり」に海外旅行の旅友・鷹羽さんに誘われて参加することにした。&lt;br /&gt;　３月２３日１２時４０分名古屋空港発NAL５９１便で伊豆大島へ約１時間。中日本エアラインサービスのフォッカー５０は４席x１６列で乗客定員は６４名、久し振りの双発プロペラ機である。&lt;br /&gt;　大島空港ではアンコ姿のJTB社員が出迎えてくれる。大島は伊豆七島の中では最大で、東京山手線の内側くらいの面積である。&lt;br /&gt;　先ず島の北東・大島公園へ直行する。園内では良く手入れ改良された見事な椿をいろいろ観賞する。人の顔ほどの大輪の椿、「貴宝殿」と名付けられた上品な白椿など、それぞれに尤もらしい名前が付けられている。&lt;br /&gt;　一巡して中央広場に戻ると仮設舞台で「えんやらやー」のアンコ節など、アンコ達数人の手踊りである。丁度１月３１日から３月２８日までは「伊豆大島椿まつり」&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-QC0AQNLrI/AAAAAAAAAO4/d-lLMcykfp4/s1600/%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%93%E6%A4%BF.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 146px; height: 110px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-QC0AQNLrI/AAAAAAAAAO4/d-lLMcykfp4/s320/%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%93%E6%A4%BF.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468498939979050674" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;であった。くさや、島焼酎、あしたばそば、まんじゅう、椿油、せんべい等々土産物屋がまわりに軒を連ねる。&lt;br /&gt;　島内では年長の女性を、例えばお春姉さんなら「お春のアンコー( 姉公の訛り ? )」と呼んでいたが、近年では余り聞かれなくなった。「アンコ椿は恋の花・・・」などと都はるみが歌い囃して、逆に若い大島娘をアンコというようになった。しかしこれも今や観光用であるらしい。アンコが荷物を頭に載せて運ぶ光景もすっかり見られなくなったという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２．為朝伝説&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　1156年、源為朝が大島へ流されている。強弓で名高い為朝は九州を制圧して鎮西八郎と称し、保元の乱では崇徳上皇側について、後白河天皇・平清盛側と戦って敗れた。&lt;br /&gt;　滝沢馬琴の読み本( 小説 )「椿説弓張月」(1811年刊 )では、その後伊豆七島を征服し、果ては琉球に漂着して土地の王女と結ばれ、一子は王位に就くという規模壮大な物語により、各地にいろいろな伝説を派生している。丁度源義経が陸奥の衣川で没することなく、蒙古にまで渡ってジンギスカンになったという義経伝説のように。&lt;br /&gt;　八丈島では１１７０年、従者５０人と共に為朝が来島したと言い伝えられている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;３．御神火太鼓&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-QDOxKBImI/AAAAAAAAAPA/6yfS6f3eooY/s1600/%E5%BE%A1%EF%A8%99%E7%81%AB%E5%A4%AA%E9%BC%93.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 160px; height: 118px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-QDOxKBImI/AAAAAAAAAPA/6yfS6f3eooY/s320/%E5%BE%A1%EF%A8%99%E7%81%AB%E5%A4%AA%E9%BC%93.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468499399783031394" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　郷土芸能館では大島節、アンコ節などの民踊に続いての御神火太鼓が圧巻である。二台の大太鼓をはっぴ姿の娘３人が威勢良く両面打ちをする。舞台の左右、真上のスクリーンには三原山噴火の映像が大音響と共に映し出され、両々相俟って胸に迫る大迫力である。芸能館の向かい側には「御神火太鼓道場」があり、日夜練習に励んでいるのであろう。軽快なリズム、小粋な所作、びしっと決まる見栄など、なかなかに玄人はだしである。&lt;br /&gt;　売店では椿の実を華麗に彩色した根付けを購う。暖かい甘酒も嬉しいサービスである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;４．大島夜祭り&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　大島町営の観光バスは補助席を利用しても５０名余である。今回の参加人員４９名はこのバスの定員リミットによるものらしい。４軒の旅館に分宿することになり、私達は北区からのご夫婦と一緒に「大島館」に割り振られた。温泉は豊かだが売店もなく、昔ながらの宿屋のたたずまいである。&lt;br /&gt;　来島客のナイトライフを楽しんで貰おうと「大島夜祭り」が開催される。会場の元町港待合室までは宿のマイクロバスで送迎してくれる。&lt;br /&gt;　夜７時半からの抽選会に続いて、威勢の良いスーパーそーらん・よさこい踊りである。派手な長羽織に鉢巻きの若い男女が舞台狭しと踊り跳ねる。「名古屋ど真ん中まつり」のパフォーマンスさながらである。司会のシンちゃんが間合いの良い口上で舞台を進行し、あっという間に９時の終演となる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;５．三原山頂と割れ目火口&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　翌２４日は朝８時から４軒の旅館をピックアップしながら三原山&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-QDwMYrgaI/AAAAAAAAAPI/NH12rIf1nC0/s1600/%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E9%A0%82.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 157px; height: 117px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-QDwMYrgaI/AAAAAAAAAPI/NH12rIf1nC0/s320/%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E9%A0%82.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468499974027968930" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;山頂口へ。生憎の雨とガスで内輪山のお鉢巡りは中止となった。警視庁大島警察署外輪山警備派出所という物々しい表示の駐在巡査と相談の結果「ガスで視界不良では・・・」と考慮して決定された。昔、三原山心中が一時流行 ? したこともあって警官が常駐するようになったのかも知れない。&lt;br /&gt;　残念ながらお鉢巡りは諦めて、帰路は割れ目噴火の跡を辿りながら下山することになった。それまでの噴火では溶岩流は外輪山の切れ目から島の東部地区に流出していって、西北部の元町、岡田港方面は安全と考えられてい&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-QEKKuhilI/AAAAAAAAAPQ/BZ8sowSBW-g/s1600/%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%B1%B1.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 157px; height: 123px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-QEKKuhilI/AAAAAAAAAPQ/BZ8sowSBW-g/s320/%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%B1%B1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468500420259318354" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;た。ところが昭和６１年、外輪山の外側からハワイ・キラウェア火山のような割れ目噴火が始まった。割れ目の拡大・多発を恐れて、この時は東京都知事により全島&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Ss_n35iHI/AAAAAAAAAQg/A1fAZMJP2qA/s1600/%E5%99%B4%E7%81%AB%E3%81%AE%E8%B7%A1.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 109px; height: 146px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Ss_n35iHI/AAAAAAAAAQg/A1fAZMJP2qA/s320/%E5%99%B4%E7%81%AB%E3%81%AE%E8%B7%A1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468686056569800818" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;避難が発令された。その深い噴火口も今では草むして歳月の経過を感じさせる。&lt;br /&gt;　割れ目と溶岩流に阻まれてそれまでの有料旧登山道は廃止されてしまった。路傍に建つ「天皇陛下臨幸之跡」の標柱がひときわ目を惹く。&lt;br /&gt;　このあと火山博物館では２０mに及ぶ地層断面の剥ぎ取&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-StfbnOtrI/AAAAAAAAAQo/wc9pdhGucGU/s1600/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%9B%E4%B8%8B%E8%87%A8%E5%B9%B8%E4%B9%8B%E8%B7%A1.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 157px; height: 119px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-StfbnOtrI/AAAAAAAAAQo/wc9pdhGucGU/s320/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%9B%E4%B8%8B%E8%87%A8%E5%B9%B8%E4%B9%8B%E8%B7%A1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468686603034474162" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;り標本により、火山島・大島噴火の年輪 ? を目の当たりにする。島民にとって三原山は矢張り恐れ敬うべき御神火なのであろう。引き続きいろいろな噴火形態や世界の火山について館長の解説を聞く。&lt;br /&gt;　御神火スカイラインを登って再び三原山頂の「歌の茶屋」へ。昼食はあしたば定食である。あしたばの天麩羅はさほどでもないが、おひたしは些か癖がある。隣の客が「ちょっと石油くさい」と呟いた。&lt;br /&gt;　雨も上がって三原山の全貌を見ることが出来た。戦後間もなく封切られた映画「暁の脱走」で、池部良と李香蘭(山口淑子)がこけつま&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-St6yth2LI/AAAAAAAAAQw/nGZ9TypE3w8/s1600/%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E5%85%A8%E8%B2%8C.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 156px; height: 116px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-St6yth2LI/AAAAAAAAAQw/nGZ9TypE3w8/s320/%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E5%85%A8%E8%B2%8C.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468687073091377330" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ろびつ脱走するラストシーンのロケ砂漠も、５０余年を経た今では一面の草原である。&lt;br /&gt;　晴天なら富士山がよく見えるという富士見展望台を後に山を下りる。中腹から下は野生のやぶ椿の森である。道路の両側からトンネルのように椿が覆い被さる。２月から３月前半位の最盛期はさぞかし見事な椿のオンパレードであろう。&lt;br /&gt;　歌や川端康成の「伊豆の踊子」がその後落ち着いたという波浮の港は島の東南端にあり、旧港屋旅館や踊り子通りなど当時の面影を偲ばせる情緒が今に漂っているそうだが、今回は行けなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;６．八丈島歴史民俗資料館&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　１３時４０分、名古屋からのチャーター機が大島空港に着陸する。本日のご一行が降りた後、１４時１０分私達４９名が搭&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SucLIZEPI/AAAAAAAAAQ4/EhE3HrAbTNg/s1600/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%EF%BC%95%EF%BC%90.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 163px; height: 122px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SucLIZEPI/AAAAAAAAAQ4/EhE3HrAbTNg/s320/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%EF%BC%95%EF%BC%90.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468687646582182130" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;乗して八丈島へ。フォッカー５０はフル回転である。４０分で早くも到着した八丈島空港では密植したキダチアロエと八丈富士が私達を迎えてくれる。&lt;br /&gt;　まずは八丈島歴史民俗資料館へ案内される。旧東京府八丈支庁( 昭和１４年築 )を利用しているため、戦前にタイムスリップしたような錯覚を覚える。建物は高温多湿と台風の潮風に耐えるよう釘を一切使っていないという。&lt;br /&gt;　縄文土器から黄八丈の柄見本帳( 永鑑牒 )、織機、農耕具など民俗資料は数多いが、矢張り「鳥も通わぬ流人の島」としての資料に関心が集まる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;７．流人は知識人&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家の父子主従１３人が、１６０６年来島したのが八丈島流人第一号である。徳川方に味方した前田利家の四女豪姫が嫁していた為か、死一等を減ぜられてこの島に流罪になった、時に秀家３３才。しかし豪姫は八丈島へは来ていないという。&lt;br /&gt;　明治になって赦免され、東京・板橋に移り住むまでの２６５年間毎年２回、前田藩より衣食を供する船が来航したと言い伝えられている。&lt;br /&gt;　明治４年までの流人は１８６５人を数え、公家、神官、僧侶、武士、百姓、町人から無宿者、遊女まで種々雑多な人々が全国各地から流されて来ている。&lt;br /&gt;もともと八丈島は政治犯、思想犯、経済犯等比較的有識者が多かったが、五代将軍綱吉以降は火付け、盗賊、人殺しなど凶悪犯も流されて来るようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　・永見大蔵、荻田主馬・・・越後高田藩のお家騒動で。相手の小栗正矩父子は切腹。&lt;br /&gt;　・僧　日要、日巡、日顕、日成ほか・・・日蓮宗不受不施派が幕府から禁断されて。&lt;br /&gt;　・梅辻規清・・・神道を鼓吹して儒教を反駁した勤王の志士。&lt;br /&gt;　・丹宗庄右衛門・・・島津藩財政立て直しのため密貿易に尽力したが、幕府に露見して。&lt;br /&gt;　　　芋焼酎の製法を伝えた遺徳を頌えて、島酒醸造用大がめの碑が建てられている。&lt;br /&gt;　・近藤富蔵・・・蝦夷地開拓に功のあった近藤重蔵の長男ながら、隣人７人を斬殺して。&lt;br /&gt;　　　父親譲りで文を能くし八丈実記６９巻を著す。土木工芸にも長じ六法積玉石垣などを残す。&lt;br /&gt;　２００余人もの流罪僧のなかには、禁忌宗派のほかに女犯の僧も多かったと元校長の資料館長は言う。ともあれ公家、神官、僧侶、武士など知識人の流人が島民啓蒙に尽くした功績は大きい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;８．島抜けと黒瀬川&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　流人の唯一の望みはご赦免、それが適わぬ重罪犯は島抜けを画策する。念願の抜け舟を手に入れ、神港あたりから沖へ漕ぎ出したものの、三宅島との間を時速１４kmという奔流のような黒潮に阻まれて、殆ど全員が逮捕または水死したという。&lt;br /&gt;　この黒潮は「黒瀬川」と呼ばれ、航空写真でもひときわ波立っているのが認められる。帰路の飛行機は雲上を飛んだため見ることは出来なかった。&lt;br /&gt;　「黒瀬川」を乗り切って房総半島に辿り着いた男が一人いた。八丈島２７０年流刑史に残る抜け舟１５回のうち、唯一の島抜け成功者である。&lt;br /&gt;　通常島抜けは捕らえられれば死罪となる。しかし地上で処刑すれば土が血で汚され、黄八丈の泥染めに障るとして、断崖絶壁から海に突き落とす刑が行われた。この島特有の刑である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;９．赦免花&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　無実を叫びながら断食死した慈運法印の墓に植えた蘇鉄に花が咲くと不思議に赦免状が届いた。誰言うとなくこの花を赦免花と呼ぶようになった。&lt;br /&gt;　流人のなかには島の水汲み女と懇ろになり子まで成しながらも、赦免状が届くと矢張り帰心を募らせ本土に帰ってしまうため、生き別れの愁嘆場が度々有ったという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１０．六法積玉石垣&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Su6OAZ8SI/AAAAAAAAARA/LqpKNDvERDU/s1600/%E5%85%AD%E6%B3%95%E7%A9%8D%E7%8E%89%E7%9F%B3%E5%9E%A3.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 159px; height: 119px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Su6OAZ8SI/AAAAAAAAARA/LqpKNDvERDU/s320/%E5%85%AD%E6%B3%95%E7%A9%8D%E7%8E%89%E7%9F%B3%E5%9E%A3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468688162750066978" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　昔の住居を修復した大里ふるさと村を見学する。台風に備えて周囲を玉石垣と熱帯樹( 蛸の足のような枝?根?を伸ばすタコの木 など)で防護している。門を入るとまず閑所(カンジョ便所)、牛小屋、高倉( 食料庫 )、それに茅葺きの母屋は縁側と障子で囲み壁が無い。沖縄の住宅を連想する。&lt;br /&gt;　前記近藤富蔵が考案したという堅固な六法積玉石垣用の玉石を、横間が浦( 大坂トンネル&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SvVJ9YxjI/AAAAAAAAARI/JbbEa09YBvc/s1600/%E9%AB%98%E5%80%89.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 169px; height: 128px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SvVJ9YxjI/AAAAAAAAARI/JbbEa09YBvc/s320/%E9%AB%98%E5%80%89.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468688625520133682" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;の西側海岸 )から運んでくると１個につき握り飯１個または手拭い１本が与えられたという。米の貴重なこの島では過分の報償である。&lt;br /&gt;　海辺の岩石が波の波動で琢磨されて、見事な球形になっているのがバスからも望見出来た。大分県別府湾の波打ち際でもビーロンと呼ぶビー玉のような玉石を拾ったことがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１１．南原千畳岩海岸&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　南原千畳岩海岸に面して宇喜多秀家と豪姫の石像がある。NHK大河ドラマ「利家とまつ」の影響か、その後北陸地方からの観光客が増えたという。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SvzEJ1-jI/AAAAAAAAARQ/Z5h9p_nf6yw/s1600/%E5%8D%83%E7%95%B3%E5%B2%A9.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 168px; height: 130px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SvzEJ1-jI/AAAAAAAAARQ/Z5h9p_nf6yw/s320/%E5%8D%83%E7%95%B3%E5%B2%A9.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468689139357841970" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　千畳岩は八丈富士から海岸まで流れ出した溶岩流が冷え固まったもので、ハワイ島のそれには比すべくもないが、ごつごつした溶岩越しに見る無人の八丈小島は南海の孤島を思わせる。&lt;br /&gt;海辺の土産物屋でクサヤの小片を試食したが殆ど臭みが無い。土産物用にソフトに仕上げてあるのかも知れない。&lt;br /&gt;　八丈島では４９名全員八丈ビューホテル宿泊である。大広間で子供のスーパーそーらん節を見ながら夕食を執っていた時、客の一人が踊り手におひねりをバラバラと投げかけた。子供達は初めての経験らしく、呆然と棒立ちになってしまった。熱演を賞賛・激励したという意味を説明して、漸く踊りを再開した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１２．黄八丈「め由工房」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　明くる２５日はまず登竜峠( ノボリョウトウゲ )より、底土港越しに八丈富士と八丈小島を展望する。代表的な景観の一つである。&lt;br /&gt;　島内一周道路がこ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SwSE5q6RI/AAAAAAAAARY/senLqlhSapc/s1600/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%AF%8C%E5%A3%AB.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 171px; height: 128px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SwSE5q6RI/AAAAAAAAARY/senLqlhSapc/s320/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%AF%8C%E5%A3%AB.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468689672134387986" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;のさき末吉地区で不通のため引き返して民芸店「あき」に立ち寄る。なんと畳敷きのおみやげショップである。脱靴して店内を見て回る。&lt;br /&gt;　次は黄八丈「め由工房」へ行く。きんさん・ぎんさんも１０４才の時来島して、昔を懐かしみ機織りを再演して見せたという。&lt;br /&gt;　東京都無形文化財技術保持者山下八百子の息子山下誉さんの解説に依れば、&lt;br /&gt;　・黄色はコブナグサの煎汁に十数回浸けては乾かし、最後にサカキとツバキの灰汁に浸けて発色。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Sw0w9SEQI/AAAAAAAAARg/3qoh6Y9QbeE/s1600/%E3%82%81%E7%94%B1%E5%B7%A5%E6%88%BF.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 166px; height: 126px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Sw0w9SEQI/AAAAAAAAARg/3qoh6Y9QbeE/s320/%E3%82%81%E7%94%B1%E5%B7%A5%E6%88%BF.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468690268076249346" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　・樺色はタブノキの生皮の煎汁に十数回と囲炉裏の灰汁、これを３回繰り返す。&lt;br /&gt;　・黒色はシイノキの乾皮の煎汁に十数回、最後に還元鉄の多い泥土に浸けて発色させる。&lt;br /&gt;　絣とは違って黄八丈は縞柄のため、いくら力強く織っても柄のずれる心配が無い。&lt;br /&gt;　一般にくすんだ黄色が好まれているようだが、白洲正子も言っているように本来の黄八丈は明るく鮮やかな黄色である。&lt;br /&gt;　皇室専用だった蚕品種「小石丸」が昭和２７年、貞明皇后の御遺志により紅葉山養蚕所より下賜されて伝承してきた。しかし今は島に養蚕農家は無く、主に群馬県から絹糸を移入している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　昭和天皇御製&lt;br /&gt;　　小石丸の糸の話を島人より　聞きて母君(貞明皇后 )をしのびけるかも&lt;br /&gt;山下八百子デザインの黄八丈根付けを買い　とめる。工房の創始者山下め由は八百子の母である。&lt;br /&gt;　この島では室町時代から島自生の草木染めの八丈長さの絹織物を、米の代わりに貢納していた。八丈島の名前の由来について本居宣長も「八丈絹より出ずるらむかし」と述べている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１３．焼酎のフリードリンク&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　名古の展望台は足下に洞輪沢港を望む２００m余の断崖絶壁の上にある。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SxVCsXJgI/AAAAAAAAARo/Bxg6Ui_p7GI/s1600/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%95%E6%9C%9B%E5%8F%B0%E3%82%88%E3%82%8A.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 162px; height: 121px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SxVCsXJgI/AAAAAAAAARo/Bxg6Ui_p7GI/s320/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%95%E6%9C%9B%E5%8F%B0%E3%82%88%E3%82%8A.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468690822592931330" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;海からの水蒸気で常に雲が湧き出るため快晴の日は滅多に無いが、普通の晴天でも伊豆七島最南の青ヶ島が見えるという。&lt;br /&gt;　売店の店先に焼酎カメと数個の盃が置いてある。湯茶の無料サービスは時々見かけるが、焼酎のフリードリンクは初めてである。癖のない焼酎で銘柄は「情けの岬 ? 」とか言っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１４．服部屋敷跡で樫立踊り&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　樫立&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Sx7Ot8p3I/AAAAAAAAARw/hYZoS6tBYPs/s1600/%E6%A8%AB%E7%AB%8B%E8%B8%8A%E3%82%8A.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 156px; height: 134px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Sx7Ot8p3I/AAAAAAAAARw/hYZoS6tBYPs/s320/%E6%A8%AB%E7%AB%8B%E8%B8%8A%E3%82%8A.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468691478655838066" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;地区の服部屋敷は黄八丈を貢納するご用船の小舟預かりを勤めた船方のもので、同家の盛衰は可成り激しかったようである。今では近藤富蔵が築城形式で築いた玉石垣と樹齢７００年余の大蘇鉄を残すのみである。&lt;br /&gt;　屋敷跡に建てられた芸能館では各地からの流人が持ち込んだ樫立踊りと八丈太鼓が披露される。黄八丈を着た男女５人が諸国民謡のうち１２曲を立て続けに踊り通す。伊勢音頭は６番目、１２番目は鹿児島おはら節であった。&lt;br /&gt;　島唄ショメ節では観客も交えて「あーショメショメ( 塩梅の訛り)」と賑やかに囃し立てる。歌いながら敲く八丈太鼓もユニークである。&lt;br /&gt;　八丈八景の一つ「大坂夕照」は車窓から、大坂トンネルを出たあたりで八丈富士と八丈小島を眺望して通り過ぎた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１５．島寿司と八丈植物公園&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　昼食は名代の「くらみつ」で島寿司である。島で捕れたネタを予め醤油に漬けておいて、わさびの代わりに洋からしで握り込んだものである。いわば「島前寿司」ということだろうか。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Syh9J72wI/AAAAAAAAAR4/Yu2Y58mWd_8/s1600/%E5%85%AB%E4%B8%88%E6%A4%8D%E7%89%A9%E5%85%AC%E5%9C%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 165px; height: 124px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Syh9J72wI/AAAAAAAAAR4/Yu2Y58mWd_8/s320/%E5%85%AB%E4%B8%88%E6%A4%8D%E7%89%A9%E5%85%AC%E5%9C%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468692143956286210" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　午後は空港近くの八丈植物公園を訪ねる。入口を飾る火山岩で形作った八丈島のミニチュアが面白い。面積は大島より小さく瓢箪型で、八丈富士( 東山 )と三原山( 西山 )に挟まれて空港も長方形の石で表現されている。&lt;br /&gt;　極楽鳥花と呼ばれるストレチアは八丈島の町花、フェニックス・ロベレニーは島の主要産品となった観葉植物で、以前の養蚕農家もこれの栽培に転向してしまった。その他熱帯・亜熱帯の花が咲き競い、温室の中ではハイビスカスなど特に赤い花が百花繚乱である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１６．フリージアを胸に名古屋へ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　ビジターセンターで一息入れたあと、八形山麓のフリージアまつり会場へ移動する。４月４日までのまつり期間中は一人２０本まで球根ごと摘み取り無料である。黄、紫、赤、ピンクなど蕾で品定めして、思い思いにフリージア畑を物色する。採集したフリージアは飛行機内持ち込みが出来るようコンパクトに包装してくれる。&lt;br /&gt;　八丈島空港では現在１８００mの滑走路を２０００mに拡張工事中である。東京・羽田空港までの３００kmをジェット機で４５分、同じく３００kmの名古屋までプロペラ機なら１時間１０分かかる。&lt;br /&gt;　大島からの客を降ろし&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SzMy-E-pI/AAAAAAAAASA/7fWma8Prp3U/s1600/%E8%87%AA%E5%AE%85%E3%81%AE%E7%8E%84%E9%96%A2.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 167px; height: 125px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-SzMy-E-pI/AAAAAAAAASA/7fWma8Prp3U/s320/%E8%87%AA%E5%AE%85%E3%81%AE%E7%8E%84%E9%96%A2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468692879956572818" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;たフォッカー５０に乗り込み、１５時２０分それぞれフリージアの花束を胸に一路名古屋空港へ。帰宅後、二つの花瓶に生けたフリージアは豪華絢爛に咲き匂っている。&lt;br /&gt;　大島、八丈両島とも「流人の島」という先入観とは裏腹に、島人たちはとても凶悪犯の後裔とも思えぬ立派な人品骨柄である。「観光客熱烈歓迎」の熱意も充分感じられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本稿記述に当たっては実業之日本社ブルーガイド「伊豆大島・八丈島」、両町観光パンフレット、博物館長・資料館長の解説、特に八丈町役場産業観光課の「八丈島名所・旧跡と温泉のしおり」( 平成１４年２月版 )を参照させて頂いたことを付記します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-5592921984513991514?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/5592921984513991514'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/5592921984513991514'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/05/20044.html' title='伊豆大島と八丈島の旅（2004年4月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-QC0AQNLrI/AAAAAAAAAO4/d-lLMcykfp4/s72-c/%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%93%E6%A4%BF.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-4549035247791798648</id><published>2010-05-07T09:00:00.008+09:00</published><updated>2010-05-07T09:49:19.848+09:00</updated><title type='text'>「僕の細道」白河・会津紀行（2003年9月）</title><content type='html'>&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１．「奥の細道」「僕の細道」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　嫁いだ娘夫婦の誘いで東北路を旅することになった。「奥の細道」をもじって「僕の細道」と洒落てみたが、或る週刊誌の俳句投稿欄に既に先例があった。&lt;br /&gt;「みちのく」とは「みちのおく( 陸奥 )」を意味し、奥州ともいう。明治元年、五つ( 磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥 )に分割されてからの陸奥は概ね現在の青森県を指す。出羽のくに( 羽州　ほぼ今の秋田、山形県 )と合わせて奥羽地方といえば、大体現在の東北地方を指すことになる。&lt;br /&gt;　処暑、白露と節季は移り変わっているのに、残暑はまるで「大暑」並みの盛夏続きである。９月６日午前８時前、マイカーで鳩山を発ち、うどんのまち加須市を経て羽生ICから東北自動車道に入る。宇都宮までは片側３車線で、可成りの交通量である。１１時頃白河ICに到着、白河関跡に向かう。やはり「みちのく僕の細道」は白河関からスタートしたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;２．白河関&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NZGaAccCI/AAAAAAAAAMQ/Vv4tPBkPwDw/s1600/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E9%96%A2%E8%B7%A1.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 146px; height: 112px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NZGaAccCI/AAAAAAAAAMQ/Vv4tPBkPwDw/s320/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E9%96%A2%E8%B7%A1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468312339153186850" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　平安中期、能因法師が「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠んで、一躍有名になった。その後西行、一遍、芭蕉などもここからみちのく路へ旅立って行った。&lt;br /&gt;もともと此処は奥羽三関( 白河、勿来ナコソ、念珠ネズ )の一つで、蝦夷の侵入を防ぐため５世紀頃設けられた砦であった。しかし坂上田村麻呂が延暦２０年( 西暦801 )蝦夷を平定した後は、いつしか関の機能が失われて廃関となっていった。&lt;br /&gt;　江戸後期、白河藩主松平定信が収集した古書画等で空湟(壕)、南門跡、北門跡などを照査して、この地を白河古関跡と認証し碑を建てた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;３．アウシュビッツと白河そば&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　観光アンケートを採っている白河市の職員に勧められるままに、アウシュビッツ平和博物館を訪れた。建家は江戸中期の民家を白坂駅近くの丘に移築したものである。入館料 @ 500 円。&lt;br /&gt;　特に目を引いたものは、　高さ１４０cm の鉄棒、身長がこれに届かぬ子供は非労&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NZlSjhEBI/AAAAAAAAAMY/b7CSWfOaVuI/s1600/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 195px; height: 104px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NZlSjhEBI/AAAAAAAAAMY/b7CSWfOaVuI/s320/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468312869728751634" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;働力としてガス室に送られた。もう一つ　夜間、便器・便桶が使用できないときは、各人唯１個宛支給された食器( ホーロー引きの深皿 )に排便をしていたという。&lt;br /&gt;　館外に置かれた有蓋貨車２両には子供たちが描いたユダヤ人迫害の絵が多数展示してあり、中でも拉致、処刑の図は痛ましい。&lt;br /&gt;那須連山からの雪解け水に恵まれて、白河のそば、ラーメンは旨いという。麺マップで奨められた新駒本店で割子そばを注文する。そば粉分が多く、舌触りがざらついて喉越しがいまひとつである。&lt;br /&gt;　元来そばは米麦作にも適さぬ寒冷荒地に救荒植物として栽培されたもので、つなぎの小麦粉が少ない古来の製法に依ったものかも知れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;４．檜枝岐温泉&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　再び東北自動車道を南下して塩原ICから国道４００号線へ。塩原温泉郷を通り抜け、道の駅たじまで小休止。「真実の口」のレプリカで占いを試した後、丁度３時半に檜枝岐温泉に到着した。&lt;br /&gt;　４時半の夕食までのひととき、今夜の歌舞伎会場の下見かたがた村内を散策する。舞台の茅葺き建家は明治中期の再&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NZ4_5lvVI/AAAAAAAAAMg/nTGRNZc5BSY/s1600/%E6%AA%9C%E6%9E%9D%E5%B2%90%EF%BC%91.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 156px; height: 117px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NZ4_5lvVI/AAAAAAAAAMg/nTGRNZc5BSY/s320/%E6%AA%9C%E6%9E%9D%E5%B2%90%EF%BC%91.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468313208318442834" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;建とか、それを囲む階段状の観客席を見てギリシャの円形劇場を思い出す。路傍に祀られた「縁切り縁結び像・・橋場のバンバ」には縁結びより縁切り鋏のお供えの方が多く苦笑する。そのあと釘を使わない正倉院様式のセイロウ作り板倉、凶作のため間引いた嬰児を慰霊する六地蔵などを見学して帰館する。蕎麦屋が経営する丸屋新館の山人(ヤモウド)料理に出た「そば」は逸品である。名を伏せた天麩羅のひとつは山椒魚であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;５．檜枝岐歌舞伎&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NaL_x_sJI/AAAAAAAAAMo/vO6I0X-gRrA/s1600/%E7%94%BA%E6%B0%91%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 170px; height: 128px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NaL_x_sJI/AAAAAAAAAMo/vO6I0X-gRrA/s320/%E7%94%BA%E6%B0%91%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468313534704103570" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　少し早めに宿の座布団を携えて歌舞伎会場へ行く。程よい二段目あたりの階段に席を取る。既に高齢の素人カメラマンがずらりとカメラの砲列を布いていた。薄暮の６時半、恒例の寿式三番叟で幕が開く。神に奉納するため、舞台の四方を浄める舞である。「舞い手は高校生」と誰かが呟いた。&lt;br /&gt;　今夜の演目は大阪夏の陣に材を取りながら時代を遡った「鎌倉三代記　三浦別れの段」である。伊勢参りの帰途、江戸で見覚えた村人の素人歌舞伎が起源である。歌舞伎三姫( 八重垣姫、雪姫、時姫 )のひとり時姫、木村重成を擬した三浦之助、真田幸村をなぞった佐々木高綱の各役とも、聊か生硬な演技がまた農民芸能らしくて却って親しめる。この有志集団を花駒座という。&lt;br /&gt;　花道から舞台下まで続々とご祝儀のびら( 二万円から千円まで )が貼り出される。「国立劇場より一万円」もあった。村民６００人程の村に２０００人余の観客が詰めかけた。長袖で丁度良い夜の涼気に包まれながら、盛況のうちに午後８時過ぎ終演となった。一つしかない出入り口から整然と退出、宿の檜風呂で一浴びして床に就く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;６．南泉寺から塔のへつりへ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　翌７日は出がけに村はずれの人工ミニ尾瀬を散歩したあと１２１号線を北上する&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NapSP0sZI/AAAAAAAAAMw/l9sH03vYtQk/s1600/%E5%8D%97%E6%B3%89%E5%AF%BA.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 142px; height: 106px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NapSP0sZI/AAAAAAAAAMw/l9sH03vYtQk/s320/%E5%8D%97%E6%B3%89%E5%AF%BA.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468314037877256594" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;。路傍の茅葺き鐘楼門は松見山南泉寺のもので、１７９４年建立、今年３月福島県重要文化財に指定された。&lt;br /&gt;　「鐘撞き自由」の貼紙で代わる代わる撞いてみる。掲示板によれば「寺はもと聖徳太子を本尊とする太子守宗であったが、１６５５年浄土真宗に転宗した」とのことである。&lt;br /&gt;　次に立ち寄ったの&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NbaszUUeI/AAAAAAAAAM4/LzWVtfeIBH8/s1600/%E5%A1%94%E3%81%AE%E3%81%B8%E3%81%A4%E3%82%8A.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 161px; height: 121px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NbaszUUeI/AAAAAAAAAM4/LzWVtfeIBH8/s320/%E5%A1%94%E3%81%AE%E3%81%B8%E3%81%A4%E3%82%8A.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468314886819041762" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;が東北一の景勝と地元が自称する天然記念物「塔のへつり」て゛ある。河岸の岩壁が堆積地層毎に微妙に浸食されて、恰も１０個の奇妙な塔のように並んでいる。向かって左から烏帽子、護摩、象、尾形、九輪、櫓、屋形、獅子、鷹、鷲の各塔岩と名付けられている。&lt;br /&gt;　トルコのカッパドキア広野に散在する風蝕の奇岩群には比すべくもないが大自然の為せる奇勝である。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NbwLI1g2I/AAAAAAAAANA/y8VeW9GxCzg/s1600/%E5%A4%A7%E5%86%85%E3%81%AE%E5%AE%BF.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 157px; height: 118px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NbwLI1g2I/AAAAAAAAANA/y8VeW9GxCzg/s320/%E5%A4%A7%E5%86%85%E3%81%AE%E5%AE%BF.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468315255739614050" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;７．大内宿&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　続いて下野街道の大内宿を訪れる。会津若松から日光街道の今市宿までを結ぶ約３０里(118km) １７宿のうちの一つである。会津から江戸への最短ルートで、廻米をはじめ産品輸送の重要路であった。参勤交代のとき、大名が泊まった藁葺き屋根の本陣も立派に現存している。&lt;br /&gt;　格式のありそうな佐藤家は「玉屋( 佐藤家 )由来」によれば治承４年( 1180年　平家討伐のため源氏が起った年)以来の名家とあるが、平安末期にしては建ちも高く、かなりの豪族の館だったに違いない。&lt;br /&gt;　道の両側には農家の縁側に民芸みやげを並べた格好の店や食堂、旅館が軒を連ねている。軽食とおみやげショッピングモールとして、最近の観光客には案外うけているのかも知れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;８．鶴ヶ城と麟閣(リンカ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;ク)&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NcMmFOnLI/AAAAAAAAANI/KisMU9MmcrE/s1600/%E9%B6%B4%E3%81%8C%E5%9F%8E.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 155px; height: 116px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NcMmFOnLI/AAAAAAAAANI/KisMU9MmcrE/s320/%E9%B6%B4%E3%81%8C%E5%9F%8E.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468315744008576178" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　会津若松では「山葵」の釜めしで腹ごしらえの後、鶴ヶ城へ。１３８４年創建以来度々の増改再築が繰り返され、現在の天守閣は昭和４０年( 1956年)、昔ながらに再建されたものである。&lt;br /&gt;　西出丸に車を止め梅坂より入城、戊辰戦争のとき落城直前まで鐘を鳴らし続けたという鐘撞堂を過ぎると天守閣が目前である。本丸側に回ると大勢の観光客を引き連れて現地ガイドが「よく見てくなんしょ、云々」と会津弁でまくし立てている。天守閣&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NcoYunOzI/AAAAAAAAANQ/BiV-01xz-FE/s1600/%E9%B1%97%E9%96%A3.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 155px; height: 116px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NcoYunOzI/AAAAAAAAANQ/BiV-01xz-FE/s320/%E9%B1%97%E9%96%A3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468316221460396850" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;へ登る人、櫓・走長屋などを見て回る人、様々である。&lt;br /&gt;　私達は千利休の次男　少庵が時の城主蒲生氏郷のために造ったと伝えられる茶室「麟閣」を見学する。但し現在の「麟閣」は戊辰戦争後の荒廃を避けて他所に移築していたものを、平成２年、城内に復元したものである。寄付待合、中門、腰掛待合、蹲踞( ツクバイ)から茶室へと正統なたたずまいに心洗われる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;９．御薬園(オヤクエン)&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　次に市の東郊「御薬園」を訪れる。その昔、薬泉が湧いた霊地としてこの地に祠、藩主別荘が建てられ、３代松平正容の頃には朝鮮人参ほか各種薬草が栽培された。今や４００種に及ぶ薬草・薬木となり、「御薬園」として広く名を知られるようになった。&lt;br /&gt;　用法次第で薬効ありという毒草「とりかぶと」も花盛り、蔓延して困る「どくだみ」が１坪&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Ndlh-TiiI/AAAAAAAAANY/2nX-6lNYaj8/s1600/%E3%81%8A%E8%96%AC%E5%9C%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 154px; height: 115px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Ndlh-TiiI/AAAAAAAAANY/2nX-6lNYaj8/s320/%E3%81%8A%E8%96%AC%E5%9C%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468317271914154530" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;程の区画にちんまり収まっているのは寧ろ不思議である。&lt;br /&gt;　秩父宮妃殿下ゆかりの新滝旅館が東山温泉から移築され、妃殿下の誕生日(9月９日)に因んで重陽閣と名付けられた。昭和天皇の弟君秩父宮に嫁した勢津子さまは会津藩主松平容保の孫娘である。本日は９０周年の何か記念行事があったらしい。邸前に咲いた数輪の蓮が清々しい。&lt;br /&gt;　回遊路に従って「心字の池」へ回る。徳川中期の築庭で、池畔には茅葺きの御茶屋御殿、中の島には戊辰の刀痕も残る楽寿亭を配した山水の名庭である。池を前に、緋毛氈の床几で胡麻羊羹と抹茶を一服頂く。水量豊かな男滝、女滝が特に印象的であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１０．飯盛山&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　今日の観光の終盤は白虎隊の飯盛山である。中腹までは有料( @ 250円)の動く歩道で行く。そのあと３０数段ほど階段を登ると白虎隊士の墓がある。正面はここで自刃した１９士、右側には会津各地で戦没した白虎隊士のうち氏名が判明した３１士の墓が並んでいる。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Nd-u5vdTI/AAAAAAAAANg/waoGZJJ23M0/s1600/%E9%A3%AF%E7%9B%9B%E5%B1%B1.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 156px; height: 117px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Nd-u5vdTI/AAAAAAAAANg/waoGZJJ23M0/s320/%E9%A3%AF%E7%9B%9B%E5%B1%B1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468317704881403186" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　墓前の広場では白虎隊の扮装で剣舞「白虎隊」と当時の戦況説明をしている。右奥には「白虎隊の武士道精神に感銘した」として昭和３年、ローマ市民より贈られた「古代ローマ精神を象徴するファッシスタ党章を冠したボンベイの古柱の碑」が建っている。&lt;br /&gt;　また自刃したものの唯一蘇生して白虎隊の実録を後世に伝えた飯沼貞雄の墓も、昭和３２年になって近くに建てられた。尚、山中で本隊にはぐれた酒井峰治が後世書き残した記録も、併せて貴重である。&lt;br /&gt;　更に右奥には炎上する鶴ヶ城( 実は周囲の侍屋敷の火煙を見誤ったとも言われている)を拝し、従容自刃した白虎隊&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NeatMbbPI/AAAAAAAAANo/gogw9k4ij3A/s1600/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%9A%8A.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 153px; height: 114px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NeatMbbPI/AAAAAAAAANo/gogw9k4ij3A/s320/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%9A%8A.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468318185459248370" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;士の聖地がある。十四・五歳の少年を形どった石像が掌をかざしてお城を望見する様はひときわ涙を誘う。&lt;br /&gt;　帰路は登降別通路のさざえ堂前を通り、戸の口堰洞穴を見学して下山する。この堰洞穴は猪苗代湖の水を通水して会津盆地を潅漑するため天保３年(1832年)掘削されたものだが、戸の口原の戦いに敗れた白虎隊士２０名が難渋しながら通り抜けたことでも有名である。&lt;br /&gt;　まだ４時半だというのに麓のみやげもの屋はバタバタと店を閉めている。私達も一路、東山温泉「御宿東鳳」へ急ぐ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１１．東山温泉から猪苗代湖へ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　若松市内を眼下の大展望浴場で旅塵を洗い流したあと、料亭「吉祥&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Ne1VK1UDI/AAAAAAAAANw/aPR3nu60qIU/s1600/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E6%B8%A9%E6%B3%89.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 185px; height: 137px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Ne1VK1UDI/AAAAAAAAANw/aPR3nu60qIU/s320/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E6%B8%A9%E6%B3%89.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468318642866573362" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;」へ。ホテル内とは思えぬ本格的な料亭玄関から観月の間に案内される。板長自慢の旬菜(シュンサイ)御膳１４品を堪能するうち、当館の芳賀女将が挨拶に参上、彼女を囲んで皆で写真を撮る。&lt;br /&gt;　宿泊はタワー館１７階の和室で会津盆地が一望の下である。勿論遠目ながら鶴ヶ城も見渡せる。この旅館は東山温泉随一、収容人員1000人を豪語するだけあって、和洋中華の朝食バイキングでは大バンケットルームもほぼ満席の盛況である。&lt;br /&gt;　８日、猪苗代湖への峠道で久し振りに「支那そば」の看板を見た。戦前はチャルメラを吹きながら屋台車で町中を流していたものだが、戦後は「中華そば」に呼び方も変わり、何となくもの悲しいチャルメラの音色もすっかり聞かれなくなった。&lt;br /&gt;　いまの中華人民挙共和国は紀元前３世紀、この地域を統一した「秦」帝国のことが西欧に伝わって、英語でChinaチャイナ、フランス語でChineシーヌ、イタリア語でCinaチーナと呼ばれている。漢民族が世界の中央に位置し、華の文化国家と誇る「中華思想」の高揚と共に「支那」という文字を禁忌するようになった。しかし「シナ」は本来、現在の中国及びその周辺を含む一大地域の名称である。例えば東シナ海、インドシナ半島など。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１２．野口記念館&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　湖面標高５１４mの猪苗代湖はさすがに爽やかな秋色である。朝８時半開館の野口&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NfQiAOVAI/AAAAAAAAAN4/Izc_xJxXU9c/s1600/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E8%8B%B1%E4%B8%96%E7%94%9F%E5%AE%B6.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 156px; height: 114px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NfQiAOVAI/AAAAAAAAAN4/Izc_xJxXU9c/s320/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E8%8B%B1%E4%B8%96%E7%94%9F%E5%AE%B6.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468319110168204290" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;記念館には早くも見学者が詰めかけている。まず「野口博士生家」を見る。文政６年(1823年)に建てた生家は損傷甚だしく、昭和５６年(1981年)解体復旧された。&lt;br /&gt;　１歳半の清作(英世の幼名)が左手を火傷した囲炉裏、１９歳で上京する時「志を得ざれば再び此地を踏まず」と刻んだ床柱に注目する。火傷の時、母シカが洗い物をしていた小川、快癒を祈って熱心に信仰した救世観音(クセカンノン)、英世が英仏文で書いた忍耐の碑、遺髪塚碑など中庭を見て回る。&lt;br /&gt;　本館では冒頭に野口清作尋常小学校４年生の試験成績表が目につく。修身、読書、作文、習字、算術、体操(除)平均９３点、席順一、優 ( 席順四以下は「良」ではなくて「尋」)と記載されている。読み、書き、算術など基礎学力を重視した当時の教育方針が窺え&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Nf2T57SLI/AAAAAAAAAOA/aVy6OUtzcv8/s1600/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 115px; height: 154px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Nf2T57SLI/AAAAAAAAAOA/aVy6OUtzcv8/s320/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468319759218722994" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;る。その隣には高等小学校で使ったらしい英語のリーダーが展示されている。父娘で蜜蜂を観察している情景の頁である。韓国でも野口英世は望ましい立志の偉人として尊敬されているのか、見学者が多いらしく、ハングルでの説明文が頻りに目につく。&lt;br /&gt;　等身大に引き伸&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NghUsbr2I/AAAAAAAAAOI/dDqUU1H1p84/s1600/%E5%9B%B2%E7%82%89%E8%A3%8F.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 165px; height: 123px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NghUsbr2I/AAAAAAAAAOI/dDqUU1H1p84/s320/%E5%9B%B2%E7%82%89%E8%A3%8F.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468320498164936546" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ばした「ニューヨークでの英世の写真」と並んで写真を撮る。彼は１５３cm位で割に小柄に見える。&lt;br /&gt;　アメリカ、中南米、アフリカで蛇毒、梅毒、黄熱病等の解明に尽力するうち、その黄熱病に冒されて１９２８年アフリカで病没した、５１歳であった。６年前、私が訪れたメキシコのメリダにも１９１９年１２月から３ヶ月、研究のため滞在したという。&lt;br /&gt;　英世自筆の愛妻メリー夫人像、旧師への手紙など、画才、書才もなかなかのものである。「はやくきてくだされ、はやくきてくだされ・・・」と繰り返す母シカの手紙は肉親の情が惻々と迫ってくる。&lt;br /&gt;　生家の北の空高く標高&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Ng-7lUCuI/AAAAAAAAAOQ/oHRgFNRshIo/s1600/%E7%A3%90%E6%A2%AF%E5%B1%B1.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 186px; height: 112px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-Ng-7lUCuI/AAAAAAAAAOQ/oHRgFNRshIo/s320/%E7%A3%90%E6%A2%AF%E5%B1%B1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468321006820264674" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;1819 mの磐梯山が端然と聳えている。清作少年は国際的医学者への雄飛を朝な夕な、この秀峰に誓っていたのではなかろうか。&lt;br /&gt;　エクアドルで撮った野口英世の写真が来年の新千円札に採用される。また一段と来館者が増えることであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１３．五色沼&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NhcB5x8sI/AAAAAAAAAOY/5GyDTqLNCos/s1600/%E4%BA%94%E8%89%B2%E6%B2%BC.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 144px; height: 120px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NhcB5x8sI/AAAAAAAAAOY/5GyDTqLNCos/s320/%E4%BA%94%E8%89%B2%E6%B2%BC.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468321506732929730" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　猪苗代湖から磐梯山を左に見て五色沼へ到着する。沼一帯は未舗装路ながら緑豊かなハイキングコースで、三々五々ハイカーが散策を楽しんでいる。大小１００以上の湖沼があるというが、時間の都合で深緑の柳沼、コバルトブルーの青沼、瑠璃色のるり沼までを見て引き返す。&lt;br /&gt;　水底に赤錆や湯ノ花状の沈堆があり、鉄分、硫黄分の溶融加減で水の色がいろいろに変化&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NhzO4uniI/AAAAAAAAAOg/-S1I9XEC_h8/s1600/%E7%8C%AA%E8%8B%97%E4%BB%A3%E6%B9%96.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 177px; height: 111px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NhzO4uniI/AAAAAAAAAOg/-S1I9XEC_h8/s320/%E7%8C%AA%E8%8B%97%E4%BB%A3%E6%B9%96.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468321905355169314" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;しているのだと思う。&lt;br /&gt;　続いて裏磐梯最大の檜原湖畔を走る。湖に散在する小島は磐梯山噴火の堰き止め湖であることを表している。磐梯高原から大塩温泉を経て喜多方市にはお昼頃着いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;&lt;br /&gt;１４．「蔵のまち」喜多方でラーメン&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　元祖喜多方ラーメンを自称する「源来軒」で&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NiQ9rzswI/AAAAAAAAAOo/ifdsE0NTXzQ/s1600/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%96%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 137px; height: 103px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NiQ9rzswI/AAAAAAAAAOo/ifdsE0NTXzQ/s320/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%96%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468322416133649154" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;定番ラーメン( @ 550円)を賞味する。大正年代、中国から移り住んだ店主が手打ち一筋に、屋台ラーメンから始めたという。少し太めの麺に玄妙なスープがよく合う。店を出る頃には席待ちの列が出来ていた、あちこちに沢山ラーメン屋はあるだろうに。&lt;br /&gt;　観光パンフレットには「蔵のまち」喜多方と謳って、醸造蔵、レンガ蔵、長蔵(80m位)、蔵座敷、蔵寺院など紹介されているが、川越の蔵通りも前に見たことだし、切り上げて会津若松に還る。途中、塩川町では東鳳の女将が激賞した塩川牛のことを思い出した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;１５．会津若松から５時間&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　会津若松では市の観光物産協会で若松の赤べこ、会津塗り、堆朱の根付け(&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NiyXy5NeI/AAAAAAAAAOw/4Dc0Z1EvmXA/s1600/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%8B%A5%E6%9D%BE.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 139px; height: 105px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NiyXy5NeI/AAAAAAAAAOw/4Dc0Z1EvmXA/s320/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%8B%A5%E6%9D%BE.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5468322990078375394" border="0" /&gt;&lt;/a&gt; 本来は財布などの紐に付け、帯にはさむ飾り)、お菓子「ハットー」などを買い調える。観光地図によれば、この近くに「野口英世の初恋の人、山内ヨネの生家」の記載まである。&lt;br /&gt;　東北新幹線で栃木県黒磯付近を通過中、もくもくと立ち昇る異様な黒煙を見た。この日の正午頃発生したブリヂストンのタイヤ工場の大火災であった。&lt;br /&gt;　会津若松駅を夕刻４時前に出発、郡山駅、東京駅で新幹線を乗り継いで、午後９時過ぎには名古屋駅に到着した、その間５時間余。高速鉄道の発達を今更のように感心するとともに、奥州「みちのく」も近くなったものだと思う。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-4549035247791798648?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/4549035247791798648'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/4549035247791798648'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/05/20039.html' title='「僕の細道」白河・会津紀行（2003年9月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S-NZGaAccCI/AAAAAAAAAMQ/Vv4tPBkPwDw/s72-c/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E9%96%A2%E8%B7%A1.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-2859214071268916187</id><published>2010-05-07T08:46:00.001+09:00</published><updated>2010-05-07T08:52:07.851+09:00</updated><title type='text'>西南インドを行く（2003年3月）</title><content type='html'>エローラ、アジャンタ、コモリン岬そしてシンガポール&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;1. 仏跡を訪ねてインド、スリランカ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　10年前にインド東北部を、カルカッタからブッダガヤ、バーラーナシー(旧ベナレス)、サルナート、クシナガラ、ルンビニ(ネパール)、アグラ、デリーへと主に釈迦ゆかりの遺跡を旅したことがある。&lt;br /&gt;　昨年末は漸く治安が回復したスリランカで、ポロンナルワ、シギリア、ダンブッラ、キャンディなどの仏跡を訪ね歩いた。&lt;br /&gt;　今回は西南インドで待望のエローラ、アジャンタの石窟群とコモリン岬を巡遊することにした。&lt;br /&gt;2003年2月19日9時50分名古屋(小牧)空港発、シンガポール乗り継ぎ、同日深夜ムンバイ(旧ボンベイ)空港へ到着した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;2. ギャング、テロ、ボディーチェック&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　搬出が遅れたスーツケースを携えて税関を出た途端、多数の報道陣がカメラを構えている。アラブ首長国連邦で捕まったムンバイのギャング、ダウッド兄弟が国外追放されて、ドバイから到着するのを待ち構えていたのだとは、翌朝の新聞で知った。&lt;br /&gt;　翌20日は早朝5時モーニングコール。長谷川添乗員以下22名の中日旅行会一行は7時10分発オーランガバード行きジェットエアーに乗るべく国内空港へ向かう。朝食は大きなランチボックス、但し中身はパン、ケーキ、卵、林檎が片隅にひっそり。&lt;br /&gt;　空港での機内携行品の検査は聞きしに勝る厳重さである。印・パ紛争でイスラム過激派のテロを警戒してか、「身に寸鉄をも許さじ」とばかりに探知機で撫で回す。硬貨、鍵、尾錠にまで鋭敏に反応する。特にカメラの予備電池、懐中電灯は持ち込み厳禁。しかも搭乗までに3回もこんなボディーチェックが繰り返される。&lt;br /&gt;　現に私達が帰国後の3月13日、ムンバイ郊外の通勤列車で爆弾テロがあり、69人が死傷したとの報道があった。&lt;br /&gt;　　　&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;3. ダウラターバード砦からエローラ石窟へ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　約60分、簡単な機内食を終えた頃にはもう着陸である。まずバスでエローラへの途中、ダウラターバード(幸運の町の意)砦に立ち寄り見学する。12世紀築造のこの砦はインド3名砦の一つに数えられ、ピンクの戦勝記念塔チャンドミナールは30mと、インド第二の高さを誇っている。&lt;br /&gt;　デカン高原に入ってしばらく行くと一列に並んだエローラ石窟群である。この土地ではヴェルールと呼ばれ、昔から巡礼で賑わったといわれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;4. まず仏教窟から&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　7～8世紀頃造営の仏教窟から見学する。第10窟はチャイティヤ(塔院)窟で、奥のストゥーパ(佛塔、卒塔婆の語源でもある)前には観音菩薩、弥勒菩薩を左右に配した佛坐像がある。ヴォールト天井は古代木造たるき垂木リブを模したものという。欄間の位置にはミトゥナのような男女像が多数彫り込まれているが、ヒンドゥー教にある交合像ではないとガイドは言う。&lt;br /&gt;　3階構造の第12窟ヴィハーラ(僧院)窟や第15窟を右に見て、本日のハイライト第16窟カイラーサ寺院へ向かう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;5. ヒンドゥー教窟カイラーサ寺院&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　この寺院はヒンドゥー教のシヴァ神が棲むというヒマラヤのカイラーサ聖山を表していると伝えられる。756年から鑿とハンマーだけで一世紀余に亘って巨大な一枚岩より、幅46m、奥行き80m、高さ34mの寺院を彫り刻んだ信仰の偉業である。8世紀といえば日本では奈良時代、正倉院が造営された時期である。精巧な計算機、測定器も無い時代に、3～4世代に亘ってあれだけ正確・細緻に彫り継ぎ、刻み進んだ建築? いや掘削技術は驚嘆に値する。&lt;br /&gt;　本殿奥の「胎堂」には本尊リンガ(男根)がヨーニ(女陰)の上にそそり立っている。子孫繁栄、五穀豊穣などの祈りが込められているのだろうか。外へ出て手彫りの痕が残る岩壁を見上げていると恰もビルの谷間に居るような圧迫感を覚える。&lt;br /&gt;　寺院の全貌を俯瞰しょうと岩山を駆け登ること6～7分、暑い、息が弾む、地元の子供たちが微笑みながら通り過ぎる。脚下に展開するパノラミックな巨大彫刻には唯唯感嘆、脱帽である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;6. ジャイナ教窟も&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　左奥のジャイナ教窟へは約2km、バスで移動である。ジャイナとは「煩悩に打ち勝った解脱者」という意味で、無欲、無所有、不殺生を旨とし、富裕の信者が多いという。&lt;br /&gt;　9世紀頃造営されたという第32窟はなかなか手の込んだ彫刻である。入口近くには不動の修行で蔦が絡みついた無衣の行者像が、奥には開祖マハーヴィーラの像が据えられている。第33,34窟と門構えのある第30窟は外観のみで見学を終えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;7. オーランガバードの小タージ・マハルと水車公園&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　オーランガバードに戻り、ビービー・カ・マクバラーを訪ねる。タージ・マハルを少し小型にしたようなこの廟は、町名の元にもなったアウラングゼーブ帝の息子が母ベーガム・ラビア・ドラニを追慕するため、1679年、建立したという。ここで出会った、絢爛華麗にサリーを着こなした女性の一団が印象深い。&lt;br /&gt;　このあと前記アウラングゼーブ帝のイスラム導師ムザファルが葬られたパーンチャッキー(水車の意)公園を見学する。10km程離れた丘から導いた水で滝を作り、水車を廻し、貯水したという。今では粉は挽いていないが、縦軸水車と石臼だけは廻り続けている。&lt;br /&gt;　隣接するイスラム礼拝堂の周辺には表面が凸型の男性の墓、凹型の女性の墓が数基ある。空港の厳重検査を敬遠してスーツケースはムンバイのホテルに置いたまま、手荷物だけでオーランガバードのホテル・ラマ・インターナショナルに一泊する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;8. アジャンタ石窟は電気自動車と駕籠で&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　21日はもう一つの目玉、アジャンタ石窟の見学である。遺跡、特に壁画を自動車の排気ガスから護るため、麓のバスターミナルで電気自動車に乗り換える。みやげ物売りの男たちがわっと押し寄せる。一行中一番若い長谷川裕子添乗員には若者が執拗に付き纏う。隠然たるカースト制度に阻まれて同国の異性には気安くアプローチ出来ない為の反動かも知れない。&lt;br /&gt;　電気自動車の筈なのにディーゼル車のような轟音を轟かせながら、渓谷沿いに10数分で石窟群の入口に着く。坂道は苦手という人の為に4人組みで一人を担ぐ駕篭かきが沢山待機している。急な階段を昇降する為、座席は駕籠よりは高く、輿よりは低い。座席を半ば低くした川渡りの輦台(れんだい)のようなものである。この際は仮に駕籠と呼んでおこう。&lt;br /&gt;　「担ぎ賃は公定で客一人につき500ルピー(約1400円)、見学を終えてこの出発点まで戻ってから、ガイドの目前で支払うように」とガイドが強調する。目の届かぬところでは時々雲助根性が出るのかも知れない。登りは前向きに座るが、急な下り坂は前につんのめらぬよう、後ろ向きに担がれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;9. 壁画はインド仏教美術の精華&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　途中、野猿にも出迎えられながら第1窟に辿り着く。窟左奥の蓮華手菩薩像はアジャンタ壁画の最高傑作といわれ、艶やかな気品を漂わせる三屈の姿態は法隆寺金堂壁画の勢至菩薩像のモデルにもなったといわれる。&lt;br /&gt;　第2窟も6世紀頃彫られた僧院窟だが、この時代になると正面奥には仏堂が造作されるようになる。高さ3.6mの仏像は目下、足場を組んで修復中であった。天井の円形の図柄は見事である、しかし周囲の壁に描かれているジャータカ(釈迦前世説話)の絵は暗くてよく見えない。&lt;br /&gt;　第7窟仏堂前の壁面には、かなり後期の作らしく丹念に千仏像が浮き彫りされている。&lt;br /&gt;　第10窟は前期の塔院窟らしく、ストゥーパ前に仏像は無い。周りの39本の八角柱の鮮やかな仏陀や僧の図は後世に描かれたものだという。右側壁面には紀元前1世紀頃に書かれたものが額縁のようにガラスで保護されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;10. 虎とアジャンタ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　また右奥柱の僧の絵の胸に「ジョン・スミス第28騎兵隊、1819年4月28日」と線刻されている。この日、虎狩りにきた彼が川向こうの丘(今は展望台になっている)からこの石窟を千余年振りに発見したという。アジャンタ石窟はワーグラー川(虎の川の意)に面する馬蹄形の岩壁に、600mに亘って彫り続けられた大小30もの石窟群である。&lt;br /&gt;　第12窟は三方の壁に各4室づつ房室がある僧院窟である。房の入口は虎の侵入を防ぐ為とかで異常に狭く、中には左右各一つの岩のベッドが造られている。&lt;br /&gt;　最も保存状態が良いといわれる第17窟の壁画のなかでもジャータカの一場面を描いた「六牙象本生」図は有名である。&lt;br /&gt;　第19窟は正面玄関に2本の円柱を備え、ちょっと昔の銀行を連想させる。いかにも後期の僧院窟らしく、ストゥーパ自体に仏像が彫りこまれている。それを取り囲む佛彫像、画像も精細である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;11. 明るい塔院窟と未完の僧院窟&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　第26窟はアジャンタ最大の後期塔院窟で、ストゥーパを囲む列柱の外側回廊の壁面には無数の佛立像、坐像が彫られている。左出口近くには全長7.3m、インド最大の涅槃像が横たわる。クシナガラの沙羅双樹の下で入滅した釈迦の姿を表しているという。この窟は唯一、随所に明るく照明があり存分に見学することが出来た。&lt;br /&gt;　第24窟は未完の僧院窟で、掘削半ばの床面、壁面が凸凹のまま放置されている。ヒンドゥー教の普及、仏教の衰退とともに僧たちも段々離散して行ったのであろう。&lt;br /&gt;　第13窟?は仏堂を備えた僧院窟だが、現在は管理オフィスに使っているらしい。アジャンタ渓谷の立体模型や修復前後の壁画写真が対比して展示してある。&lt;br /&gt;窟前の通路は近年観光客のために築造されたもので、往時の僧たちは狭隘な径をさぞ難渋しながらアジャンタ村まで托鉢に出かけたことであろう。アジャンタとはア(遥かな)ジャンタ(俗界)を意味するとガイドは言う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;12. ムンバイ、コーチン、ヴァスコ・ダ・ガマ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　再び一般客も乗り合いで電気自動車に乗り、麓のバスターミナルへ。ホテルで夕食、空港ではまたぞろ再三の携行品検査を受け、ムンバイへは21時15分到着した。翌22日も6時モーニングコール、8時50分発ジェット・エアーでコーチンへ。&lt;br /&gt;　東インド会社の根拠地でもあったムンバイではフォート地区からインド門にかけて植民地時代の面影を色濃く残していると聞く。マリオット・ホテルは市街から遠く、深夜到着、早朝出発の為これらが観られなかったのは聊か残念である。また映画産業が盛んでボリウッド(ボンベイ・ハリウッド)とも別称されているそうである。&lt;br /&gt;　10時35分コーチン着、まずヴァスコ・ダ・ガマゆかりの聖フランシスコ教会を訪ねる。ガマは香辛料を求めてポルトガルからインドにまで到達した大航海時代の大物である。のちにインド総督にもなり、1524年コーチンで病没した。この教会に葬られたが、遺体は後年故国ポルトガルに移送された。もと埋葬された跡は柵で囲われている。エリザベス女王来訪記念のタブレットも飾ってある。&lt;br /&gt;　ポルトガル人の手になるこの教会はさほど大きくはないが、降り注ぐ陽光の下、南欧リスボンのノスタルジアを感じさせる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;13. 中国人、オランダ人、ユダヤ人&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　次は歩いて数分のチャイニーズ・フィッシング・ネットを見学する。いつ頃中国人が伝えたものか、10m四方もあろうかという四つ手網を沈めては引き揚げる漁法で、アラビア海の海岸に10数基設置されている。石の錘を着脱して梃子を操作し、網を上げ下げする。産地直売の魚屋も軒を連ねる。&lt;br /&gt;　コーチンはインドとしては格段に就学率が高く(98%とか)英語が普及しているので、街頭でも英語の表示が多いと、ガイドのアジータは言う。&lt;br /&gt;　1568年に建てられたというシナゴーグ(ユダヤ教会)は礼拝日のため観られなかった。その代わりという訳ではないが、近くのマッタンチェリー・パレスを見学する。もとはコーチン藩主の宮殿だったが、オランダ統治時代にその総督邸になったためダッチ・パレスとも呼ばれている。&lt;br /&gt;　藩時代のものが多数陳列され、ラーマヤナ説話の細密壁画、なかでも王妃寝室の壁いっぱいに描かれた犬、牛、馬、象など哺乳動物の交接図には圧倒される。王族繁栄を望む切なる願いなのであろうか。見学を終えた女学生の一団が、心なしかはにかみ笑いをしているように見えた。&lt;br /&gt;　次に訪れたスパイス・マーケットは5時過ぎのため閉店、薄暗いスパイス倉庫を瞥見しただけで近くの商店に入る。土地柄各種スパイスの小袋が棚一面に、カレー粉も野菜用、魚用、チキン用とブレンド別に包装されている。勿論ヒンドゥー教、イスラム教が禁忌する牛肉用、豚肉用は無い。&lt;br /&gt;　この付近は昔スパイス取引で巨利を得たユダヤ人が多く住み着き、ユダヤ人墓地もあるが、今では数家族しか住んでいないという。僅かに残る家並みには、かつて殷賑を誇ったユダヤ商人の心意気が感じられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;14. カタカリ・ダンスとは&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　午後6時過ぎ「コーチン・カルチャー・センター」の「劇場」に入る。「劇場」といっても倉庫のような建物の一隅にステージを設け、可搬式の椅子が数十脚並べられているだけである。楽屋が手狭なためかステージの上でカタカリ・ダンスの主役二人がメークアップに余念が無い。歌舞伎「暫」「車引」も顔負けのどぎつい隈取である。&lt;br /&gt;　7時開演、司会者がカタカリの由来、所作の意味、今夜の演目などを英語で説明する。カタカリとはカタ(物語)カリ(音楽)の意味でインド・ケララ州を中心に古くから伝わる、いわばミュージカルで、ラーマヤナなどの伝承に材を採ったものが多いという。&lt;br /&gt;　今夜はその内の一つ・・・兄の嫁探しに神の国に忍び込んだ妹の悪魔が、逆に神の皇子に恋慕してしまう。しかし悪魔の本性を見破られて結局、皇子に首を刎ねられてしまう・・・という話が上演される。&lt;br /&gt;　出演は男性のみで、太鼓と鉦に僅かな語りが入る。悪魔役が時々奇声を発するほかは、すべてパントマイムである。太鼓の連打はラマ教のそれを思い出させる。約1時間で終演、希望者は主演者と並んで記念写真を撮る。観客は私たち22人とほぼ同数の欧米人である。「カルチャー・センター」の別棟では健康・美容のアーユルベーダを実施しているようである。&lt;br /&gt;　今夜のホテル・トライデントはコーチン市のウィリントン島ヴェンバナード湖に面したリゾート風ホテルである。湖といってもアラビア海にそのまま口を開いているので、プールの先は海岸のような砂浜が続いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;15. バック・ウォーター・クルーズ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　23日はバスでコヴァラム・ビーチへ向かう。途中アレッピーからクマロコムまでは約3時間のバックウォーター・クルーズを楽しむ行程である。定員100人足らずの小さな観光用クルーザーに貸切で乗り込む。水路には椰子の葉で葺いた苫舟のような舟がたくさん舫っている。水郷に住む人たちの重要な脚である。&lt;br /&gt;　岸辺に近い水路では数人の子供が「ボールペン、ボールペン」とせがんで舟に並走する。昔ながらに石に叩きつけて洗濯をするサリーの女、水に戯れる子供たち、水中に蹲っている人を見て誰かが「用便をしているのでは ? 」と呟く。岸辺の椰子の林に南国情緒をたっぷり味わいながら、或いは広く、或いは狭い水路を滑るように船は進んでゆく。この地方の州名ケララはケラ(椰子)のラ(国)と、そのものずばりである。&lt;br /&gt;　トイレ休憩を兼ねて、とある岸辺に接岸する。丁度マンゴー収穫の最中である、一人が水上に伸びた枝からマンゴーを水面に掻き落とす、他の一人は水中でそれを拾い集める。表面に傷が付かないから、商品価値を保つには良い方法である。&lt;br /&gt;　デリーから移り住んだというマンガラムッタム夫妻の家を見せてもらう。一見小奇麗な住宅だが中は少々猥雑である。雨水をタンクに貯めて生活用水に、街へは自家用モーターボートで、と都会の利便とは程遠い生活である。&lt;br /&gt;　再び乗船して広い水路に出る。やがて拡がった湖はアジア第2の大湖とガイドは言うが、地図を見ても定かでない。バックウォーター back water とは元々堰き止められた水、淀んだ入り江を意味し、この辺りは運河と湖の区別も判然としない、むしろ広大な水郷と言った方が相応しい。&lt;br /&gt;　今度は小島に立ち寄る。○○クルーザーの看板を掲げた薄汚い小屋の片隅で、茹でた蝦の試食を勧めてくれるが、粗末な食卓には食べかけのカレーが椰子の葉の皿に散乱し、ちょっと頂けない。それでも好奇心で、もぎ落とした椰子の実にストローを挿し込んで飲んでみる、余り甘くなく少し青臭い、10ルピー( 27 円位)という。一息入れて再び船へ戻る。&lt;br /&gt;　入り江の入り口に、照明付き十字架を冠したミニ灯台のような白い塔が立っている。船長がひと際大きく鐘を鳴らす、クマロコムが近いことを乗客に知らせると共に、船着場の係員に着岸準備を促す警報でもあるようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;16. コバラム・ビーチ・リゾートは遠かった&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　クマロコムのホテルで昼食、午後5時頃にはコバラム・ビーチに着くだろうと聞いたが、その時間になっても一向にその気配が無い。途中の観光案内所で訊ねたら、まだ2~3時間は掛かるだろうという。直線距離でいえば150kmそこそこだが高速道路が無く、町へ入れば人込みを掻き分けるように右折左折しながら走る訳だから、平均時速は40km位にまで落ちているのだろう。&lt;br /&gt;　しかも夕方暗くなっても無灯火の自転車、バイク、三輪車が多いのも気になるところである。午後8時過ぎ、漸くコバラム・ビーチ・リゾート・ホテルに到着した。&lt;br /&gt;　24日午前は久し振りにリゾート・ライフをエンジョイすることが出来た。スイミング・プールで泳いだ後、ホテルのプライベート・ビーチでもうひと泳ぎ。波打ち際の貝殻に気を付けながら暫く「アラビア海」の海水浴を楽しんだ。&lt;br /&gt;　砂浜に戻ると長谷川添乗員とガイドのワドワ君が浜の少年から買った「うに」を食している。お相伴させて頂いたが薄い潮味で、頬を撫ぜる海風と共に磯の香りを満喫した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;17. 荒波にご用心、コモリン岬&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　早目の昼食の後、この旅後半のハイライト、コモリン岬の観光である。バスで3時間、カニャークマリ(処女岬の意)の町に着く。午後4時の渡し船最終便に間に合うように、そして6時半にはアラビア海のサンセットが観られるようにと、苦心のスケジュールである。&lt;br /&gt;　同じような思惑なのか、ヴィヴェーカーナンダ岩への渡し船は100余席程度の小型船なのに、どうやら定員超過の満杯である。「乗船者注意」の掲示板には「席から立たないで、撮影禁止・・・」などいくつか箇条書きの最後に「どんな事態になっても総て乗客の責任である」と書いてある。&lt;br /&gt;　目と鼻の小島へたかだか10分位、「何程の事や、あらん」と船首に近い所でビデオカメラを構えていた。これが大間違いのもとで、ベンガル湾から打ち寄せる波は意外に荒く、渡し船は激しくシッピング(上下動)して、舳先からの大波を頭から被ってしまった。暴風雨に翻弄される船上のシーンの様に。&lt;br /&gt;　当然ビデオカメラは即アウト、以後撮影不能となった。幸い旅行保険で10万円までは補償されるそうである。コモリン岬では「船首、大波、カメラ」にはくれぐれも「ご用心」。&lt;br /&gt;　詩人ティルヴァルヴァールの巨像のみが建っている右手の島では、海水を被ったカメラとびしょ濡れの衣服の善後処理に追われて観光どころではない。再び渡し船に乗ってヴィヴェーカーナンダ岩へ渡る。この数分間は岩礁に遮られてか、波は静かである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;18. コモリン岬はヒンドゥー教の聖地&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　ヒンドゥー教の改革者ヴィヴェーカーナンダ(1863～1902)が瞑想したこの岩に1970年、石造の記念堂が建てられた。カーストを重視するヒンドゥー教徒にしては珍しく、彼は平等を説いたという。&lt;br /&gt;　堂内には裸足で入場、一隅に据えられた等身大の立像には「グル(尊師) ヴィヴェーカーナンダ」と標記されている。見学を終えた頃、往客無しの最終便がこちらへ直進して来る。数人の管理要員を残し、観光客は全て総攫えにして帰港する。&lt;br /&gt;　土産物屋の建ち並ぶ参道を歩いて、物々しく囲われたクマリ寺院へ行く。コモリン岬の語源でもあるクマリ(処女神)を祀るこの寺院へは裸足、男性は上半身裸で入場しなければならぬ。&lt;br /&gt;　初潮を見ると失格という本尊の生き女神(この日は代わりの人形だった)に一礼して何がしかの喜捨(バクシーシ)をすると、傍らの寺男が眉間に紅を付けてくれる。互いに顔を見合わせて、俄かヒンドゥー教徒になった様な気分になる。&lt;br /&gt;　寺院の先のガート(沐浴場)では、敬虔な信者たちがインド洋の波に身を沈めながら合掌祈念している。右はアラビア海、正面はインド洋、左はベンガル湾越しにスリランカの島影が望見される。正にインド亜大陸最南端、コモリン岬はヒンドゥー教の大切な聖地である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;19. アラビア海のサンセット&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　今日の日没は午後6時35分とのこと、マハトマ・ガンジーの遺灰を流した地に建てられたガンジー記念堂への入場は諦めて、サンセット展望塔へ急ぐ。塔の最上階にはもうかなりの人数が西を向いて待機している。&lt;br /&gt;　刻々と赤い太陽がアラビア海の水平線に近づいて行く、しかし夕靄が濃くなってきて沈む瞬間は霞んでしまった。同行のアマチュア・カメラマンは「波間に反射する陽光と共に、水平線に沈み行く夕日を撮りたかったのに・・・」と口惜しがる。&lt;br /&gt;　日没と共に観光客は一斉に帰り支度である。3時間のバスに揺られて、この日もホテルでの夕食は10時過ぎとなった。&lt;br /&gt;　25日はゆっくり朝食、全裸全身に香油を付けてマッサージというアーユルベーダに行く人、紺碧のビーチを散歩する人、私は潮抜き水洗いした衣服を乾燥かたがたプールサイドへ。&lt;br /&gt;　椰子の木陰でデッキチェヤに、海水パンツで寝そべって約3時間、衣服は乾いたが皮膚は軽いサンバーンsun burn(日焼け)である。矢張り南国の太陽は強烈である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;20. トリヴァンドラム観光&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　午後はトリヴァンドラム観光に出かける。ネピエル博物館では宮殿のような建物、特異な彫刻、トラヴァンコール藩王時代の文物などが目を惹く。続く美術館ではインド細密画は勿論のこと、中国の山水画、日本の浮世絵も、また王自身の絵も展示されて居り、なかなかの画才である。&lt;br /&gt;　次に訪れたパドマナーバスワーミは厳格なヒンドゥー寺院で、牛肉を食べる異教徒は一切入場禁止とのことである。沐浴の池を右に見てヒンドゥー独特の細緻な彫刻を施した塔屋を正面から、側面から、そして背面からとなぞる様に見上げる。カジュラホのカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院ほどではないが、かなり際どいミトゥナ(男女交合像)の集積である。&lt;br /&gt;　境内裏手の小祠の軒上にはヴィシュヌ神の化身像が並べられている。光背を背負った釈迦像が第9番目の化身といわれている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;21. 南インドの街角で&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　この街は大学、カレッジがよく目に付く。英語の看板のほか、ドラヴィタ系の言葉なのか ? くるくると丸まっちい文字の看板が多い。逆に横線のあるヒンドゥー語の文字は殆ど見かけない。　　　長々と板を敷き、幕を張って座り込むストライキの列が続く、この地方は共産党が強いという。&lt;br /&gt;　この街に限ったことではないが、大都市はともかく、インドでは上下水道やごみ収集制度が無い、いわば垂れ流し、捨てっ放しである。また停電も多い。国民多数の低所得と徴税制度の未熟から、インフラ整備になかなか手が廻らないのであろう。日光、水、空気、動植物の生態系など大自然の摂理で浄化還元されるに任せているように見える。&lt;br /&gt;　夕べのホテルでも部屋にはFiltered water(濾過された水)のペットボトルが置いてあったが、果たしてどんな水を濾過したものやら。&lt;br /&gt;　また町外れでは流浪の人たちの集落をよく見かける。ギリシャ、イタリアなどで見たジプシーのテントのような小屋が立ち並ぶ。インドから発したというジプシーとルーツを同じくしているからだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;22. サンセット・ディナー&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　デリー大学日本語科中退のスルーガイド・ワドワ君も南インドの地元の人にはヒンドゥー語が余り通じなくて、困惑する場面もあったようだ。&lt;br /&gt;　バスのエアコン、リクライニングシートの不具合のお詫びも兼ねて、今夕はインド側の旅行会社(Great India Tour ? )がホテルでフリー・ドリンクの海鮮ディナーを提供するという。アラビア海に面したプールサイドに机を並べてサンセットを待ったが、今日も夕靄に紛れて、水平の彼方に沈む夕陽を見ることは出来なかった。&lt;br /&gt;　再びトリヴァンドラムに戻り、国際空港から23時発のシルク・エアーでシンガポールへ。&lt;br /&gt;国際空港といってもスリランカのコロンボ、シンガポールとモルディブが主なdestination(行き先)のようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;23. マーライオン、ブキテマ、オーチャードロード&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　26日朝5時50分シンガポールのチャンギ空港に到着後、最寄のホテルで朝食バイキング。醤油を垂らした中国粥を口にして、何かとカレーっぽい香りの付き纏うインド料理から、やっと開放された感じがした。&lt;br /&gt;　通勤者も疎らな早朝だというのに、さっそく市内観光である。まず昨年9月、ワン・フラトンのプロムナード近くに移転したマーライオンを見学する。昔この島にライオンが居たという伝説からシンガ(ライオン)プーラ(街)と呼ばれるようになった。頭がライオン、尻尾がマーメイド(人魚)のマーライオンが街のシンボルとして設置されたという。&lt;br /&gt;　続いて太平洋戦争の激戦地ブキテマ(マレー語でBukit Timah)の丘から対岸のセントーサ島を眺める。この後は昨夜の睡眠不足が祟ってシンガポール植物園はバスの中でパス。昨夜のフライト、シルクエアーはエアコンの個別調節が無く、小寒い窓際席で仮眠も儘ならなかった。&lt;br /&gt;　次は開店を待ち兼ねたようにバスはスコッツ・ロード沿いのデューティー・フリー・ショップへ急ぐ。ここは早々に抜け出して、近くのオーチャード・ロードへ出る。街角の両替店でも事足りるが、ちょっとバンキングを試みたくて伊勢丹スコッツ前のDBS銀行でシンガポール・ドルに両替する。Personal(個人)とcorporation(法人)に受付カウンターが区別されている。&lt;br /&gt;　飲茶で昼食の時、ウーロン茶を持ってきたウェィターに「ムコーイ」(広東語でやあ、どうも、ありがとう、程度の常用語)と声を掛けると、はっと振り向いて早口に何か話しかけてきたが勿論聞き取れない。この後はマリーナ・ベイを見下ろすオリエンタル・ホテルにチェックインして深夜発の帰国便まで休憩である。その間にオプショナル・ツァーのナイトサファリに行く人、添乗員と夕食を食べに行く人、夫々である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;24. 戦争記念碑&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　私はシティー・ホール前の戦争記念碑を訪ねる。日本語の観光地図にはWar Memorial(戦争記念碑)とのみ記載されているが、中国語の地図では「日治時期蒙難人士記念碑」(日本が占領統治時代に被災受難した人達の記念碑)と表示されている。&lt;br /&gt;　モニュメントの中央に骨壷のような器が安置してある。台座には「シンガポールか華僑が提唱し、市民・政府が資金を拠出して1967年建設した」と記されている。60余年前シンガポール陥落に沸いた当時の日本を回想して、万感の思いを込めて合掌する。&lt;br /&gt;　日本語の少し怪しい現地ガイドも太平洋戦争のことについては、此処でもブキテマでも殆ど触れようとはしなかった。聞けば日本人と結婚した中国人とのことである。&lt;br /&gt;　碑文を読みカメラに収めていると一人の老人が近付いてくる、「イングランドから来た」と言う。互いに写真を撮りあって、言葉少なに別れた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;25.  ラッフルズ・ホテルとロング・バー&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　続いて筋向いの区画のラッフルズ・ホテルに向かう。名前は、1819年シンガポールに上陸、貿易拠点を築いたイギリス東インド会社のトーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿(1781~1826)に因んで名付けられたが、創業者はアルメニア人サーキーズ兄弟である。&lt;br /&gt;　1887年部屋数10のバンガロー風の建物で創業し、その後度々の増改築で1910年頃ラッフルズらしいオリジナルが出来上がった。太平洋戦争当時日本軍に、戦後しばらく連合軍に占有されたが、1991年には1915年当時の姿に忠実に復元、リニューアル・オープンされた。&lt;br /&gt;　左右に翼を拡げたような堂々たるファサードである。しかし風水学的には余り感心しないらしく、周囲に沢山の樹木を植えて「悪い気」を避けているという。&lt;br /&gt;　裏手のショッピング・アーケイドに戻り二階のロング・バーLong Barに入る。予ねて聞いていたラッフルズ・ホテル名物「シンガポール・スリング」を注文する。海南島出身のバーテンダー、ニャン・トン・ブンが1915年創作したカクテルで、ジンをベースにした上品な南国フルーツジュース風である。チップ込みで20S$(約1400円)。地元の人は専らジョッキでビールを楽しんでいる。&lt;br /&gt;　このバーのユニークなところは落花生が食べ放題、殻は床へ捨て放題、次々にカップに豆を補充してくれる。一連5枚位の椰子の葉団扇が電動で、天井からゆったりと微風を・・・南国の旅情が慰められるひと時である。&lt;br /&gt;　日本円への再両替は通常千円紙幣単位だが、チャンギ空港では百円硬貨単位まで計算してくれる。1700円が再両替で戻ってきた。午前1時15分発SQ982便名古屋行きはあちこち空席が目に付く。シンガポールへの商用・観光とも一時ほどの繁忙が幾分遠退いたのかも知れない。&lt;br /&gt;　27日午前8時25分小牧空港到着。真夏のようなインド、シンガポールに馴染んだ身体には春まだ浅い名古屋の寒風が身に沁みる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;26. 変な肺炎SARS拡がる&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　帰国後の報道(中日新聞3月30日朝刊)で知ったことだが、東南アジアを中心に原因不明の肺炎SARS(重症急性呼吸器症候群)が拡がっているという。世界保健機構WHOによると昨年11月中国広東省で集団発生(感染792人、死亡31人)し、今年2月26日ベトナム(感染58人、死亡4人)で新型の肺炎と断定された。航空機による旅客の移動で、その後香港(感染266人、死亡11人)、シンガポール(感染65人、死亡2人)でも発生、アメリカ、カナダ、ドイツ・タイでも若干名が発症しているという。&lt;br /&gt;　新種のウィルスによるものらしく、接触感染か空気感染かも不明で、対応策はまだ見つかっていないようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ところどころ三題噺のような小見出しを付けてしまったが、本稿記述に当たっては各政府観光局「ガイドブック」、「地球の歩き方」(ダイヤモンド社)、「世界遺産」(講談社)、その他各種辞事典等を参照させて頂いたことを付記します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-2859214071268916187?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/2859214071268916187'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/2859214071268916187'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/05/blog-post.html' title='西南インドを行く（2003年3月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-86096126075563680</id><published>2010-04-30T22:30:00.020+09:00</published><updated>2010-05-01T08:19:58.071+09:00</updated><title type='text'>スリランカに佛跡をたずねて(2002年12月）</title><content type='html'>1.スリランカとは&lt;br /&gt;　2002年掉尾の旅行はセイロン紀行である。タミル人過激派「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」による20年来の内乱も漸く治まり、観光渡航が出来るようになった。&lt;br /&gt;以前にインドからネパール、チベットを経て中国の敦煌、西安への北伝の大乗仏教の跡を辿ったことはある。今回はスリランカからミャンマー、タイ、カンボジヤへと伝播していった南伝の上座部仏教遺跡探査の第一歩となった。&lt;br /&gt;　セイロンとはサンスクリット名シンハラ・ドヴィーパ(獅子を殺した者の島)をアラビア人がサラン・ディープと呼び、ポルトガル人が更にセイラーンと訛ったもので、異国人の呼び方である。1972年イギリスより独立した際に、自国民が従来から呼び慣れたスリ(光り輝く)ランカ(島)と改称された。&lt;br /&gt;北緯8度付近に位置するこの島は「インド亜大陸の涙」とも評され、九州よりは大きく北海道よりは小さい。人口約2000万人のうちシンハラ人は約74%で殆ど仏教徒、タミル人は約18%で主にヒンドゥー教徒、その他キリスト教徒、イスラム教徒が若干づつである。&lt;br /&gt;　平成14年(2002年)12月5日、添乗員共16人のJTBツァーで小牧空港を飛び立った。キャセイ航空で香港、バンコク経由コロンボ北方のバンダラナーヤカ国際空港に到着したのは同日深夜となった。社会主義国家の例に漏れず空港内は一切撮影禁止である。時差が3時間遅れなので、就寝した午前2時は日本時間なら早朝5時である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.アヌラダブラ&lt;br /&gt;　6日は午前8時半出発、文化三角地帯(Cultural triangle)と呼ばれる島の中央&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rekYwWxbI/AAAAAAAAAHY/9pgrOaeGUf4/s1600/çµå©šå¼.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465925814469445042" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 165px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 123px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rekYwWxbI/AAAAAAAAAHY/9pgrOaeGUf4/s320/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E5%BC%8F.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;部の一角アヌラダブラに向かう。文化三角地帯とはアヌラダブラ、ポロンナルワ、キャンディの三つの旧王都で囲まれた地域である。途中、クルネーガラで立ち寄ったレストランで伝統的盛装の結婚式をしばし参観する事が出来た。思いがけない収穫である。&lt;br /&gt;　アヌラダブラに着いていざ見学という矢先、雨が降り出した。この地域は10~1月が雨季である。乾季に替わる3~4月には激しい雷害もあるという。&lt;br /&gt;　街灯のある石畳を&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9re_k0qvXI/AAAAAAAAAHg/_JLf8ciiYFA/s1600/é»„éŠ…å®®æ®¿.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465926281565224306" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 175px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 130px" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9re_k0qvXI/AAAAAAAAAHg/_JLf8ciiYFA/s320/%E9%BB%84%E9%8A%85%E5%AE%AE%E6%AE%BF.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;歩いて黄銅宮殿と呼ばれる旧僧院跡を左に見てスリー・マハー菩提樹へ行く。紀元前3世紀、インドのアショカ王の王女サンガミッタがインド・ブッダガヤの菩提樹の分木を此処へ持って来たと伝えられている。地元民は「インドの元木はその後枯れて今は二代目、だからこの菩提樹の方が正統」と胸を張る。樹種にもよるが樹齢2300年にしては楚々とした風情である。&lt;br /&gt;　半円形の敷石ムーンストーンから先の仏教遺跡は仏教徒にとって聖域である。脱帽・脱靴で入らなければならぬ。但し靴下・雨天の雨傘・仏像のみの撮影は許される。初めから脱着の容易なサンダルという手もあるが、雨の日には足拭きタオルが必携である。男女別入口が設けられている所もある。&lt;br /&gt;　次はアヌラダブラ遺跡の中心ルワンウェリサーヤ大塔へ。紀元前2世紀ドゥッ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rfa1rI5QI/AAAAAAAAAHo/NJVFjJQ8PZ8/s1600/ã‚¢ãƒŒãƒ©ãƒ€ãƒ–ãƒ©.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465926749945128194" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 157px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 116px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rfa1rI5QI/AAAAAAAAAHo/NJVFjJQ8PZ8/s320/%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%A9.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;タガーマニー王が侵攻してきたタミル軍を撃退してこの塔を建設し始めたという。その王の立像は正門右手にある。大塔の基壇を囲む無数の象のレリーフに先ず目を奪われる。大塔脇には館からはみ出さんばかりに大きな涅槃像が横たえられている。&lt;br /&gt;　続いて典型的&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rgcv8VgzI/AAAAAAAAAHw/o-wclcC96ek/s1600/æ—§çŽ‹å¦ƒæ®¿è·¡.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465927882278011698" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 107px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 144px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rgcv8VgzI/AAAAAAAAAHw/o-wclcC96ek/s320/%E6%97%A7%E7%8E%8B%E5%A6%83%E6%AE%BF%E8%B7%A1.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;なムーンストーンが残る旧王妃殿跡へ行く。欲望の炎を表す外輪から象(生)馬(老)ライオン(病)牛(死)を経て半円の中心・蓮の花(極楽)へたどり着くという人の輪廻を表現したものと言われている。&lt;br /&gt;　やっと雨は小降りになった。僧院沐浴場クッタムポクナを車窓から眺めながらアヌラダブラを象徴する大塔ジェータワナ・ラーマヤ(祇園の意)の前に降り立つ。3世紀マハーナーナ王により建立、現在の高さ70m、古いサンスクリット文字で書かれた経典の金板が発見された事で有名である。目下ユネスコにより大規模な足場を組んで修復作業が進んでいる。&lt;br /&gt;　この日投宿のパームガーデン・ビレッジ・ホテルの裏は広大なバサロックラマ貯水池で、時には象も水浴びに来るという。2500年以上も昔、スリランカ最古の都アヌラダブラでは歴代王朝が灌漑・上下水道の造営に熱心で、1400年の永きに亘って栄えたと言い伝えられている。このホテルのプールもまた広大である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.ミヒンタレー&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rhArIA8MI/AAAAAAAAAH4/PqDLPUdwoL4/s1600/ãƒŸãƒ’ãƒ³ã‚¿ãƒ¬ãƒ¼.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465928499460108482" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 164px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 122px" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rhArIA8MI/AAAAAAAAAH4/PqDLPUdwoL4/s320/%E3%83%9F%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%BC.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　7日はインド・アショカ王の王子マヒンダが最初にスリランカに仏教を伝えた地ミヒンタレーを訪れる。アヌラダブラの東方10数kmに位置し、地名は王子マヒンダに由来する。&lt;br /&gt;　途中、車窓から古代病院跡を見る。日本でも730年、光明皇后が設置した悲田院に相当か。人形に穿った浴槽に注目する。傷病人をその浴槽で薬湯又は薬水に浸けて治療する、特にコブラなど毒蛇に噛まれた人に卓効ありという。&lt;br /&gt;　僧院規則の彫られた石柱の&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rhVxKEQZI/AAAAAAAAAIA/hggNlEc-65E/s1600/çŸ³æ¡¶.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465928861856579986" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 162px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 122px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rhVxKEQZI/AAAAAAAAAIA/hggNlEc-65E/s320/%E7%9F%B3%E6%A1%B6.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;近くに長大な石桶が据えられている。往時の僧侶たちがバナナの葉を底に敷いて、布施された食物を集め並べて食したという。今では僧衣も布施されるが、原初は葬送の遺体を包んだ布を染めて僧衣にした、と現地ガイドのランリ君は説明する。&lt;br /&gt;　このあたりから登り階段のヘルパーが付きまとう。「No thank y&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rhz7hcdeI/AAAAAAAAAII/0nyiCvSm7bQ/s1600/ã‚¢ãƒ"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465929380035065314" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 160px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 119px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rhz7hcdeI/AAAAAAAAAII/0nyiCvSm7bQ/s320/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%BC.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ou」と断るが一向に離れない。マヒンダ王子の遺骨を祀るというアムバスタレー(マンゴーの木の意)大塔では早々と脱靴して参詣し、背後の岩山に登る。この急坂で先程のヘルパーがここぞとばかりに強引に手を引く。6~7月のポヤ・デーには何千という信者がこの頂上から満月を拝むという。&lt;br /&gt;　上から見ると大塔を囲む石柱群が嘗ての大ドームを想像させる。大塔周囲の首なし仏像は異教徒&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9riJNwaRkI/AAAAAAAAAIQ/2zpYc0FlRec/s1600/å°‘å¹´åƒ§.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465929745706927682" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 161px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 121px" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9riJNwaRkI/AAAAAAAAAIQ/2zpYc0FlRec/s320/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%83%A7.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;の仕業か。数人の少年僧に出会った。僧衣の色が違うのは出家年次または僧位を表すものらしい。&lt;br /&gt;　大塔の左奥に白亜の大仏が鎮座している。マヒンダの墓とガイドブックにあるが、新しすぎてちょっと違和感がある。右手のマハー・サーヤ大塔へは時間が無くて登れなかった。見学を終えて件のヘルパーに何がしかのチッブを与えたが、もっともっとと執拗に付きまとうのは聊か迷惑である。&lt;br /&gt;　昼食は緑に囲まれたホテルの食堂で10種類ほどの野菜カレーである。ここでは南瓜、パイナップル、バナナの花も夫々立派にカレーの具である。ガイドの説明に従って右手指でつまんで食べて見た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.ポロンナルワ&lt;br /&gt;　午後は10世紀末(一説には8世紀末とも)南インドの侵攻軍にアヌラダブラを&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9riimjQe9I/AAAAAAAAAIY/nFcUFIzJ_v4/s1600/ãƒãƒ&amp;shy;ãƒ³ãƒŠãƒ«ãƒ¯.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465930181859376082" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 161px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 120px" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9riimjQe9I/AAAAAAAAAIY/nFcUFIzJ_v4/s320/%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%AF.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;追われたシンハラ王朝が12世紀まで首都としたポロンナルワの見学である。まずパラークラマ・バーフ1世の宮殿跡を見る。煉瓦造りで、もとは7階建てだったというが現在は3階までの壁しか残っていない。壁の厚さは3mもあり中々堅固である。&lt;br /&gt;　左前方の閣議場跡の石柱には各大臣の名が刻まれ、着席位置が決まっていたという。また近くに形の整ったマーラ王子の沐浴場跡もある。&lt;br /&gt;　&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9ri9hnX-aI/AAAAAAAAAIg/RmSVtyepvc4/s1600/ã‚·ãƒãƒ‡ã‚§ãƒ¼ãƒ¯ãƒ¼ãƒ©ãƒ¤.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465930644390934946" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 163px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 122px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9ri9hnX-aI/AAAAAAAAAIg/RmSVtyepvc4/s320/%E3%82%B7%E3%83%90%E3%83%87%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A4.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;仏教遺跡群の中に唯一つシヴァ・デェーワーラヤNo1と称されるヒンドゥー教寺院がある。ちょっと奇異な感があるが、正面奧にはれっきとしたリンガがでんと納まっている。さすがに場所はクォードラングル(Quadrangle 城壁に囲まれた四辺形の中庭)の外側である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5. クォードラングルのなか&lt;br /&gt;　クォードラングルに入って直ぐのトゥーパーラーマはドラヴィダ式長方形の重厚な仏堂である。内部の仏像は損壊甚だしいとのことで外観を見るに止めた。続いて菩提樹寺跡、ラター・マンダパヤは蓮の蕾を載せた茎型&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rjYf_4RhI/AAAAAAAAAIo/nEV2ohB6S-A/s1600/ã‚¯ã‚©ãƒ¼ãƒ‰ãƒ©ãƒ³ã‚°ãƒ«ã®ä¸&amp;shy;.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465931107813312018" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 163px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 121px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rjYf_4RhI/AAAAAAAAAIo/nEV2ohB6S-A/s320/%E3%82%AF%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%AD.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;の8本の石柱群、涅槃像跡の石壇、11世紀に建てられた仏歯寺跡アタダーゲ(8つの遺宝の家の意)を見学する。&lt;br /&gt;　なかでも中心にあるワタダーゲは壮麗である。円形の仏塔の四方に入口があり、夫々ムーンストーンとガードストーンがある。特に北口のものが整っている。ガードストーンは悪魔の進入を防ぎ、中の本尊を守る役目を負う。ここのムーンストーンはヒンドゥー教の影響か、死を表す牡牛の図が省かれている。私が四方の仏像に丁重に詣でるのを見て、地元の信者が線香を提供してくれた。ワタダーゲの傍の小さな仏像は風雨に曝されて侘しげに立っている。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rj2KPXvaI/AAAAAAAAAIw/gr5xMpA8G9Q/s1600/ã‚µãƒˆã‚¥ãƒžãƒãƒ«ãƒ—ãƒ©ã‚µãƒ¼ãƒ€.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465931617368784290" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 166px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 125px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rj2KPXvaI/AAAAAAAAAIw/gr5xMpA8G9Q/s320/%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%80.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　向い側には12世紀ニッサンカ・マーラ王によって建てられた佛歯寺跡。王朝盛時には歴代王が夫々佛歯寺を建てたという。その東側に石の本ガルポタがある。長さ9m、幅1.5mの長大な石にマーラ王が当時の世情を刻ませたものである。北東隅にはタイの建築家が建てたというサトゥマハル・プラサーダが7階建ての偉容を誇っている、但し用途は定かでない。ポロンナルワが全盛時には上座部仏教の聖地としてタイ、ビルマからも多数の僧侶たちがこの地を訪れたという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6. 上座部仏教と大乗仏教&lt;br /&gt;　上座部仏教とは「出家・修行して上座に位置する僧侶が仏に済度され(救われ)、在家の一般衆生はこれら僧侶たちに布施・功徳をつんだ者のみが、その小さな乗り物(例えば船)に乗せてもらって救われる。」と説く。&lt;br /&gt;　これに対し、北伝の大乗仏教は「信ずるものは皆、大きな乗り物に乗せて済度される」と教え、南伝の上座部仏教を小乗仏教と批判した。現地ガイドのランリ君が「ヒンドゥー教は最古の宗教だが、仏教は哲学。」と呟いたのが妙に印象に残る。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rkWmG7QTI/AAAAAAAAAI4/bjSOZKCKj5k/s1600/å°–å¡”.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465932174605369650" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 166px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 123px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rkWmG7QTI/AAAAAAAAAI4/bjSOZKCKj5k/s320/%E5%B0%96%E5%A1%94.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;7.ガル・ヴィハーラへ&lt;br /&gt;　一旦バスに戻りランコトゥ・ヴィハーラ(金の尖塔の意)へ行く。この大塔は12世紀マーラ王が建てた当時、上部の尖塔は総て金で覆われていたという。その北には13世紀バラークラマ・バーフ3世が建立した巨大な仏堂ランカティラカがある。高さ17.5m、屋根は無く、奧正面にはスリランカ最大の佛像が立っている。これも異教徒が損壊したのか、頭部が無い。&lt;br /&gt;　尚も北に歩を進めるとポロンナルワのメイン・イベント(?) ガル・ヴィハーラがある。高さ4.6mの凛とした坐像、アーナンダと&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rlY1K-k_I/AAAAAAAAAJI/C3I-_GW247Y/s1600/ä»åƒå·¦.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465933312520262642" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 176px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 132px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rlY1K-k_I/AAAAAAAAAJI/C3I-_GW247Y/s320/%E4%BB%8F%E5%83%8F%E5%B7%A6.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;の説もある高さ7mの立&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rlEqmrI2I/AAAAAAAAAJA/QU1xtoJpfPY/s1600/ä»åƒå³.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465932966086255458" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 186px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 138px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rlEqmrI2I/AAAAAAAAAJA/QU1xtoJpfPY/s320/%E4%BB%8F%E5%83%8F%E5%8F%B3.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;像、全長14m、左右の足のずれでそれと判る釈迦涅槃像。なだらかな曲線、安らかな表情の仏陀の前で記念写真を撮りたい衝動に駆られるが、勿論撮影禁止、監視員が見つけ次第フィルム没収と警告される。そういえば「つくば博」のスリランカ館でこの実寸大の模像を見た記憶がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.シギリヤの悲劇&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rmlh2J02I/AAAAAAAAAJQ/ntsS4uzmdec/s1600/å²©å"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465934630182572898" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 166px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 132px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rmlh2J02I/AAAAAAAAAJQ/ntsS4uzmdec/s320/%E5%B2%A9%E5%A0%B4%EF%BC%91.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　8日、シギリヤ・ビレッジ・ホテルの食堂からはシギリヤ・ロックがプール越しに真正面である。5世紀後半、下賎の妾腹から生まれた長男王子カーシャバが父王を廃して、強引に王座に就いたものの、正妻から生まれた弟王子の復讐を恐れて、高さ195mの切り立った岩山の上に王宮を築いた。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rm-1IOk7I/AAAAAAAAAJY/Vnhrpn1PC2k/s1600/å²©å"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465935064855385010" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 159px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 120px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rm-1IOk7I/AAAAAAAAAJY/Vnhrpn1PC2k/s320/%E5%B2%A9%E5%A0%B4%EF%BC%92.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;敵襲に備えて内濠には鰐を放ち、断崖の上には投石用の岩石を蓄える堅固な城塞とした。しかし11年後、弟軍の兵糧攻めであえなく陥落、王は自ら命を絶ったという悲劇の遺跡である。&lt;br /&gt;　もともとここは仏教僧たちの修験場で岩場の説経場や礼拝堂があり、カーシャバ王亡き後は僧侶たちの手に戻された。水の管理運用はなかなか巧みで上下水道、大貯水池から噴水まで設けられている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.シギリヤ・レディーの壁画&lt;br /&gt;　何といってもここを一躍有名にしたのは、1875年発見された岩壁のフレス&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rnp76id4I/AAAAAAAAAJg/BgHAkbLRmAo/s1600/å£ç”».jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465935805411391362" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 166px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 124px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rnp76id4I/AAAAAAAAAJg/BgHAkbLRmAo/s320/%E5%A3%81%E7%94%BB.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;コ画シギリヤ・レディーであろう。鏡の回廊から壁画までは急な螺旋階段を登らねばならぬ。18人の美女のうち12人までは撮影する事が出来た。殺害した父王の霊を鎮めるためカーシャバが描かせたともいわれている。前述・鏡の回廊の表面は今でも滑らかで、かすかに人影を映す。彫られたシンハラ文字による詩文は、シンハラ語研究の重要な資料となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.シギリヤ・ロック&lt;br /&gt;　岩山頂上へは「&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9roD-NuUxI/AAAAAAAAAJo/Ef50r_t9v8U/s1600/ã‚·ã‚®ãƒªãƒ¤ãƒ&amp;shy;ãƒƒã‚¯.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465936252705329938" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 155px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 116px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9roD-NuUxI/AAAAAAAAAJo/Ef50r_t9v8U/s320/%E3%82%B7%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ライオンの入口」から入る。シギリヤはシンハラ語でシンハ(ライオン)ギリヤ(喉)から来ている。「マーライオン」がシンボルの「シンガポール」のシンガも語源はライオンだとガイドは言う。岩肌にへばりつくように架設された鉄製の階段は昇降別に狭く、約60度の急角度である。麓から尾いて来たヘルパーがここを先途と手を引き、尻を押す。途中、大きな蜂の巣を横目に見ながら安穏を祈って、息を弾ませながらひたすら登る。頂上は1.6haと意外に広く、360度のパノラマは素晴らしい。颯颯たる微風も頬に心地よい。王宮、兵舎、ダンスステージの跡、大きな貯水場、今も石の玉座がある展望台など、しばし栄枯の昔を偲んでみる。&lt;br /&gt;　復路は途中から別れて旧会議室、礼拝堂、コブラ岩へと降ってくる。この辺りにも僅かながら退色した壁画が認められる。&lt;br /&gt;　ダンブッラへの途中、バティック工房に立ち寄る。暗い所での細かい「ろうけつ」作業はちょっと気の毒である。新しい寺院の前を通ったが、金色の仏像がぴかぴか過ぎて&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9roi4TWsnI/AAAAAAAAAJw/fhNsHr9YLPA/s1600/çŸ³çªŸå¯ºé™¢.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465936783694279282" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 219px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 146px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9roi4TWsnI/AAAAAAAAAJw/fhNsHr9YLPA/s320/%E7%9F%B3%E7%AA%9F%E5%AF%BA%E9%99%A2.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;新興宗教の祠のようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.ダンブッラ&lt;br /&gt;　ダンブッラの石窟寺院は紀元前1世紀に、高さ180m程の岩山(ランギリ山、黄金色に輝く山の意)の洞窟に造り始められた。自然の洞窟を利用して第一窟から第五窟まで次々に多数の仏像が彫られ、壁画が描かれたものである。&lt;br /&gt;　バスを降りて寺院まではかなりの坂道である、しかしシギリヤ程ではない。道の傍らではコブラ使いが笛を吹いて蛇籠の蓋を開け、参詣人の気を引く。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9ro6zXdaGI/AAAAAAAAAJ4/S0YQvtRTdZ8/s1600/è¶³.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465937194686179426" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 127px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 94px" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9ro6zXdaGI/AAAAAAAAAJ4/S0YQvtRTdZ8/s320/%E8%B6%B3.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　第一窟デーワラージャ・ヴィハーラ(神々の王の寺)は、ここでは最古の寺院、全長14mと最大の涅槃佛が自然石から彫り出されている。かなり、くすんではいるが全身は黄金色で足裏だけが赤く、花模様が描かれている。これはスリランカ涅槃佛の特徴とか。&lt;br /&gt;　第二窟マハ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rpy9i9KrI/AAAAAAAAAKA/zcjExSvzby8/s1600/ä»åƒï¼‘.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465938159491426994" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 153px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 116px" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rpy9i9KrI/AAAAAAAAAKA/zcjExSvzby8/s320/%E4%BB%8F%E5%83%8F%EF%BC%91.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ーラージャ・ヴィハーラ(偉大な王:この寺の創始者ドゥッタガーマニー王:の寺)はダンブッラ最大の洞窟で、幅約52m、奥行き25mに及ぶ。洞内56体の仏像もさることながら壁・天井一面に描かれた壁画が圧巻である。仏陀の生涯やシンハラ人対タミル人との争いなどスリランカの歴史がびっしりと描き込まれている。画面が意外に鮮やかなのは、香煙で煤けたのを度々修復したからだという。しかし必ずしも原画に忠実に描き直したのではないそうである。洞内奧では天井から岩清水が滴り落ち、聖水とされている。ダンブッラとは「水の湧き出る岩」の意である。&lt;br /&gt;　第三窟マハー・アルト・ヴィハーラ(偉大な新しい寺)は18世紀に造られた窟で、全長9m、両足を揃えた寝佛と56体の仏像がある。第四窟バスシーマ・ヴィハーラ(西の寺)は19世紀キャンディ王朝末期に造られたもので、比較的手狭な上、仏像も新しい。&lt;br /&gt;　第五窟は1915&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rqfQwtcII/AAAAAAAAAKI/aWYDCNE8LkU/s1600/ä»åƒï¼’.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465938920563634306" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 166px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 123px" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rqfQwtcII/AAAAAAAAAKI/aWYDCNE8LkU/s320/%E4%BB%8F%E5%83%8F%EF%BC%92.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;年に造られたもので坐像の頭上に光背のようにコブラが覆い被さっているのが怪異に見える。雨は降ったり止んだりだったが、窟から窟へは立派な回廊が連なっているので大助かりである。&lt;br /&gt;カレーの昼食の後はスパイス・ガーデンに立ち寄る。香辛料のほか漢方薬まがいの軟膏、香油のマッサージ付き実演販売でひととき賑わった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12. キャンディアン・ダンス&lt;br /&gt;　キャンディの宿はマハウ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rq9cQGuHI/AAAAAAAAAKQ/EaUOsNX4TV4/s1600/ãƒ€ãƒ³ã‚¹.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465939439044180082" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 278px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 159px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rq9cQGuHI/AAAAAAAAAKQ/EaUOsNX4TV4/s320/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ェリ川沿いで、セミ・リゾート・ムードのマハウェリ・リーチ・ホテルである。7時開演のキャンディアン・ダンスを鑑賞するべく、キャンディ湖に近い芸術協会へ急ぐ。このダンスは正式にはウダ・ラタ・ナトゥムといって、高地の神に捧げる儀式だったという。&lt;br /&gt;　まず最初、激しい太鼓の連打で幕が開く。続いて仏陀に祈りを捧げる女性たちの舞。次はシンハラ戦士を表す男性のバック転の踊り。コブラを飼い慣らす仕草。悪霊払いの大仮面の踊り。勝利を祈る孔雀の舞の青い衣装は美しい。&lt;br /&gt;　王の衣装とされるビーズ玉のチョッキ、耳輪、首輪、手首足首の鈴輪をジャラジャラ振り鳴らしながら踊るヴェ・ダンサーは聖者とされている。インドの踊りに似てはいるが、首や手指の動きはいくらか地味である。&lt;br /&gt;　最後は悪魔を追い払う火踊りと、燃え盛る炭火の上を歩く火渡りの儀式でお開きとなる。約1時間のショーである。隣席の千葉から来たというカップルは新婚旅行で「明日はリゾート地・ニゴンボへ行く」という。内戦続きのスリランカに、漸く平和が戻って来たからこそのツーリストである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13. キャンディの仏歯寺&lt;br /&gt;　9日は仏歯の部屋が開扉される午前10時前に仏歯寺に着く。前庭には4世紀、頭髪に隠して仏陀の歯をスリランカに持ってきたインドのカリンガの王子の像や、王朝滅亡に際し、慫慂として死に就いた勇敢な王子の像がある。16世紀始めポルトガル人が、17世紀にはオランダ人が侵攻し、これを追い払うべく援軍を頼んだイギリスに、1815年キャンディ王朝は結局滅ぼされてしまった。&lt;br /&gt;　正面茶色の屋根&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rraOfH3SI/AAAAAAAAAKY/kruSftuzoRk/s1600/ã‚·ãƒ³ãƒãƒ©æ§˜å¼ã®å»ºç‰©.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465939933565279522" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 170px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 127px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rraOfH3SI/AAAAAAAAAKY/kruSftuzoRk/s320/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%A9%E6%A7%98%E5%BC%8F%E3%81%AE%E5%BB%BA%E7%89%A9.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;の八角堂はシンハラ様式の建物で、今は貴重な写本を蔵する図書館になっている。脱靴して17世紀建築の古い建物の前を通り、仏歯を祀る本殿へ進む。10時の開扉を今や遅しと、敬虔な信者たちが蓮の花を供えて待っている。突然けたたましい太鼓とラッパの伴奏で読経が始まる。チベットのラマ教のような雰囲気でもある。行列に従って&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rsTwiGJuI/AAAAAAAAAKg/ZE3ShiBmfiQ/s1600/ã‚¿ãƒšã‚¹ãƒˆãƒªãƒ¼ã¨æ¯.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465940921957099234" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 169px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 126px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rsTwiGJuI/AAAAAAAAAKg/ZE3ShiBmfiQ/s320/%E3%82%BF%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%A8%E6%AF%8D.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;、金の小箱に収められた仏歯にお布施を供えながら、極く眼近かに拝む事が出来た。&lt;br /&gt;　こうして見てくると、スリランカの仏教伝播の跡を辿る旅は、仏歯を奉じてアヌラダブラからキャンディまで転々と王都を移して滅んだ、シンハラ王朝の盛衰をなぞる旅でもあった。王権を象徴する仏歯は日本の「三種の神器」に相当するのかも知れない。&lt;br /&gt;　このあと鐘楼、ペラヘラ祭りの仏歯奉安台、透明石の仏像、図書館などを見学して寺院を出る。今日も雨降りの中「記念撮&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rst4DR97I/AAAAAAAAAKo/8zMnsw-mHQw/s1600/æœ¨ã¨çˆ¶.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465941370651932594" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 166px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 123px" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rst4DR97I/AAAAAAAAAKo/8zMnsw-mHQw/s320/%E6%9C%A8%E3%81%A8%E7%88%B6.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;影は如何 ? 」と象が一匹、勿論有料である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14. ペーラーデニヤ植物園&lt;br /&gt;　次はバスでペー&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rtO81fqeI/AAAAAAAAAKw/3pUynjbYpUc/s1600/æœ¨ã¨è‘‰ã¯.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465941938871970274" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 158px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 119px" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rtO81fqeI/AAAAAAAAAKw/3pUynjbYpUc/s320/%E6%9C%A8%E3%81%A8%E8%91%89%E3%81%AF.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ラーデニヤ植物園へ行く。もとは14世紀、王妃のために造られた庭園で広大・多種なことはスリランカ第一である。&lt;br /&gt;　各種熱帯植物が多いのは当然だが、ミャンマーから持ってきた世界最大の竹、熟すまで5年もかかるという世界一大きいココナッツをつける双子椰子、象の足のような大木、スリランカの島の形&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rtri3iYgI/AAAAAAAAAK4/ANYRSpXaqLE/s1600/å¥³ç”Ÿå¾’.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465942430117421570" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 187px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 147px" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rtri3iYgI/AAAAAAAAAK4/ANYRSpXaqLE/s320/%E5%A5%B3%E7%94%9F%E5%BE%92.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;をした池、アキヒト皇太子(現天皇)の記念植樹、一本で1800平方メートルを覆う「この木何の木・・・」ビンロー樹の下で出会った現地の女学生たちが印象深い。&lt;br /&gt;　再びキャンディ駅前の雑踏をすり抜けて、レイク・ビュー・ポイントのレストランで中華料理の昼食である。人造のキャンディ湖越しに仏歯寺や市街地が眼下である。初めて食べた炒めパイナップルが意外に美味しかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15. 現地ガイド・ランリ君&lt;br /&gt;　午後はセイロン紅茶&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9ruNTWPrgI/AAAAAAAAALA/wjwoDjf8Jh0/s1600/é’å¹´ã¨æ¯.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465943010066804226" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 162px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 129px" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9ruNTWPrgI/AAAAAAAAALA/wjwoDjf8Jh0/s320/%E9%9D%92%E5%B9%B4%E3%81%A8%E6%AF%8D.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;の本場ヌワラ・エリヤへ。途中、スリランカ最古、最高のペーラーデニヤ大学脇を通る。4000人の学生、10 平方kmの広いキャンパス内には鉄道駅まで有るという。スリランカでは10年間の義務教育は総て無料、大学の年間授業料も800円位。但し入学試験に合格しても、大学の収容能力が小さい為1.8 % 位しか入学出来ないという。現地ガイド・ランリ君も入試には合格したが、諦めて観光ガイド専門学校に進んだとのことである。彼のネイティブは勿論シンハラ語だが、日本語・英語・フランス語を能くし、歴史・地理・生物に関しても造詣が深いようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16. 日本とスリランカとの関係&lt;br /&gt;　日本とスリランカとの関係についてランリ君は言う。&lt;br /&gt;「太平洋戦争初期、英国軍港のあるセイロン島のトリンコマリーが日本軍によって攻撃された。従ってセイロンは賠償請求権があるが仏教の教えに則って、仏教国・日本に対し敢えてこれを放棄した。その後、日本は米国と並んで最大の経済援助国になってくれた。」&lt;br /&gt;　それに対し私、「昭和21(1946)年から始まった極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)でインド選出(セイロン出身)のパル判事が “ 嘗て植民地侵略をした英・米・蘭の諸国に、果たして侵略を裁く裁判権が有るのか ? 争いの勝者が敗者を裁くのは私刑ではないか ? “と唯一人、正論を吐いて英米側を制したが、オーストラリヤ出身のウェブ裁判長が一切黙殺してしまった。当時の日本の為政者はこの発言を大いに多としている。」&lt;br /&gt;　そういうことをランリ君の認識に加えておいて欲しい、と話した。隣で聞いていた元海軍軍医(斎藤さん)も「正にその通り」と言葉を添えてくれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.セイロン紅茶&lt;br /&gt;　追々山道に差し掛&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9ruqM-Lg-I/AAAAAAAAALI/LM8M_Cm-9Dw/s1600/ç´…èŒ¶ç•‘.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465943506571461602" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 167px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 133px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9ruqM-Lg-I/AAAAAAAAALI/LM8M_Cm-9Dw/s320/%E7%B4%85%E8%8C%B6%E7%95%91.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;かる程に、紅茶畑、谷川、滝を左右に眺めながら、いつしか気温も下がって来たようである。ジグザグの坂道を駆け抜ける花売り少年を見て、ペルー・マチュピチュのグッドバイ・ボーイを思い出す。&lt;br /&gt;　かなり山に分け入ったところでラブーケリー・ティー・センターがある。製茶工程の説明を聞きながら工場&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rvSUjcBuI/AAAAAAAAALQ/KEOkrsPonJQ/s1600/Tea+Centerã®å‰ã§.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465944195801548514" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 136px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 102px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rvSUjcBuI/AAAAAAAAALQ/KEOkrsPonJQ/s320/Tea+Center%E3%81%AE%E5%89%8D%E3%81%A7.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;見学。折りしも12月、サンタの居るサロンで紅茶を試飲して、直売カウンターへどっと押し寄せる。工場推奨のOP( Orange Pekoe オレンジ・ペコー)や BOP( Broken Orange Pekoe ブロークン・オレンジ・ペコー)に人気が集中する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18. ヌワラ・エリヤ&lt;br /&gt;　尚も坂道を登りつづけると、急に英国風の町並みに出る。ヌワラ・エリヤ(光溢れる町の意)である。ス&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rvztIV7MI/AAAAAAAAALY/rI6XKMg1x4Y/s1600/ãƒ”ãƒ³ã‚¯ã®éƒµä¾¿å±€.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465944769334471874" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 176px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 131px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rvztIV7MI/AAAAAAAAALY/rI6XKMg1x4Y/s320/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%81%AE%E9%83%B5%E4%BE%BF%E5%B1%80.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;リランカらしからぬ涼気を求めて、新婚旅行の好適地とされている。 1828年植民地時代に建てられたというピンク色の郵便局がひときわ目を惹く。&lt;br /&gt;　今夜泊まるザ・グランド・ホテルも内装・外観とも全くの英国調で、直ぐ裏はゴルフ場である。植民地時代は英国人の格好の避暑地だったのであろう。瞥見した此処のバーは如何にも正統的で、スーツ、ネクタ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rwSyt4puI/AAAAAAAAALg/Yzn_TTNEsSg/s1600/ãŠè²·ã„ç‰©.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465945303410058978" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 148px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 110px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rwSyt4puI/AAAAAAAAALg/Yzn_TTNEsSg/s320/%E3%81%8A%E8%B2%B7%E3%81%84%E7%89%A9.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;イ着用が建前らしい。北隣りのヒルクラブ・ホテルには頑なに正装を楽しむ人達が多く出入りするという。&lt;br /&gt;　夕食は折角重厚なダイニング・ルームでエトランゼ気分を楽しんでいるのに、数人の楽士が傍で盛んに日本の歌を演奏してくれるのは少々艶消しである。食後のショッピング・モールではサリーやブラウスなどシルクの店が婦人客で一頻りさんざめく。&lt;br /&gt;　10日、キャンディへの帰路、目に付いたことを二つ三つ。平野部では幹・葉・実・殻とも全部有用な椰子林の所有者は富者とされている。しかしこの辺りの山地では椰子の木をついぞ見かけることは無く、山肌は総て紅茶畑で覆われている。スリランカの食料自給率は未だに50 % そこそこだと聞くが、このいびつ歪な農業構成も植民地政策のなせる業なのだろうか。山間に点々と見えるのは茶摘人の粗末な長屋である。殆どはインドの紅茶産地から連れてきたタミル人で、月収は800円位という。&lt;br /&gt;　日本の熊谷組がODAで道路改修工事に携わっている。寄付されたのか「成田山幼稚園」の掲示板を見た。また三井セメントの看板をしばしば見かけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19. 象の孤児園&lt;br /&gt;　キャンディの近くに象の&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rw5lYHZ0I/AAAAAAAAALo/RyVgAyA6yb0/s1600/åƒã®å&amp;shy;¤å…åœ’.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465945969843988290" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 177px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 132px" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rw5lYHZ0I/AAAAAAAAALo/RyVgAyA6yb0/s320/%E5%83%8F%E3%81%AE%E5%AD%A4%E5%85%90%E5%9C%92.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;孤児園がある。13時からが授乳の時間というので、昼食もそこそこに授乳場へ急ぐ。小象といえども大きな哺乳瓶を一気に飲み干してしまう。授乳体験にはチップが要る。成象は長い鼻で椰子の葉などをバシバシと口に入れる。飼育係は「記念写真をどうぞ」と手招きするがこれも要チップ。&lt;br /&gt;　象たちの食事が終わると前の川へ水浴びに行く。50頭程の象がのっしのっしと、小象は小走りにレストラン前の「道や狭し」と行進する様は壮観である。最後に一頭、足の不自由な象が遅れまいとびっこを引きながら駈けて行くのは痛ましい。&lt;br /&gt;　川では飼育係りがエスケープを警戒しながら象に水を掛ける。自分の鼻で水を吹きかける象、気持ち良さそうに川床に蹲る象、母像に寄り添って水浴びをする小象など色々である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.コロンボ市街&lt;br /&gt;　このあとは一路コロンボへ。夕方の交通渋滞とも重なり、露天・バザー&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rxbFIOgsI/AAAAAAAAALw/rsA9IqiXivU/s1600/ã‚³ãƒ&amp;shy;ãƒ³ãƒœå¸‚è¡—.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465946545302962882" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 166px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 125px" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rxbFIOgsI/AAAAAAAAALw/rsA9IqiXivU/s320/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%9C%E5%B8%82%E8%A1%97.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ルの多いペタ地区、官庁・ビジネス街のフォート地区とも車窓観光となった。小さい町でも結構目に付いたがコロンボの街ではスリー・ウィーラーというミニ・オート三輪タクシーが矢鱈に多い。　　南国とはいえ街のデパート、大きな商店、街角のロータリーには電飾のクリスマス・トゥリーが煌く。海岸通りでは、特に時化ている訳ではないが、インド洋の荒波が砂浜にどどっと打ち寄せる。今でも街の要所要所には掩堤で囲んだ軍の監視哨が築かれていて、内乱の余韻を窺わせる。&lt;br /&gt;　夕食は久し振りに和食レストランで煮魚定食である。経営者は関西の人らしく、フライ以外は純日本の味であった。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rx-rcmFwI/AAAAAAAAAL4/pevYgOEY27s/s1600/å›½ä¼šè&amp;shy;°äº‹å"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465947156884363010" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 163px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 115px" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rx-rcmFwI/AAAAAAAAAL4/pevYgOEY27s/s320/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E5%A0%82.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　スーパー・マーケットでお土産を買い足して、屋根続きのホテルに帰るとロビーで数人のアンサンブルがクラシック音楽を演奏している。さすがコロンボは首都と思いきや、1984年、行政上の首都は10km余東南方のスリー・ジャヤワルダナプラに移転していた。しかし、そ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rymTtJiiI/AAAAAAAAAMA/RJOA9Q02HYQ/s1600/å›£æ¬’.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465947837706111522" style="FLOAT: left; MARGIN: 0pt 10px 10px 0pt; WIDTH: 173px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 129px" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rymTtJiiI/AAAAAAAAAMA/RJOA9Q02HYQ/s320/%E5%9B%A3%E6%AC%92.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;こは湖の中央の小島に巨大な国会議事堂が有るだけという。従ってヒルトン・ホテルから見えていた広壮な建物は旧国会議事堂であった。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rzOMe_yxI/AAAAAAAAAMI/8jM6NxmSY9k/s1600/ãƒ„ãƒªãƒ¼ã®å‰ã§.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465948522962471698" style="FLOAT: right; MARGIN: 0pt 0pt 10px 10px; WIDTH: 105px; CURSOR: pointer; HEIGHT: 141px" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rzOMe_yxI/AAAAAAAAAMI/8jM6NxmSY9k/s320/%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%89%8D%E3%81%A7.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　帰途のフライトは深夜の2時50分発である。ホテルでゆっくり入浴・休憩の後、空港へ。&lt;br /&gt;　キャセイ航空でバンコック、香港経由11日午後9時、予定通り小牧空港に着陸した。往復とも香港空港で夫々4~5時間の待ち時間は、エコノミー症候群回避にはなるが、少々退屈である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-86096126075563680?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/86096126075563680'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/86096126075563680'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/200212.html' title='スリランカに佛跡をたずねて(2002年12月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S9rekYwWxbI/AAAAAAAAAHY/9pgrOaeGUf4/s72-c/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E5%BC%8F.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-7011811642468385995</id><published>2010-04-08T19:45:00.023+09:00</published><updated>2010-04-09T22:42:01.301+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='喜寿、'/><title type='text'>喜寿所懐（2002年9月）</title><content type='html'>　私は今年喜寿である。熱田神宮に初詣での際、参道脇の掲示板に「大正15年生まれの人は今年は喜寿、その他還暦、古稀、米寿や厄祓いの年回り」などが大書してあった。戦後は満年齢で数えることが普通になったが、暦の上での年齢は古来数え年である。しかも本来は立春から翌年の節分までで区切っていた。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S75w9GZ1P3I/AAAAAAAAAFI/-8ps9e14QMg/s1600/DSC00001.JPG"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 164px; height: 124px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S75w9GZ1P3I/AAAAAAAAAFI/-8ps9e14QMg/s200/DSC00001.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457923993412910962" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　喜の字を七十七と読み替えて喜寿としたのは日本独特のもので漢語には無い。同様に傘寿80歳、卒寿90歳、白寿99歳も我が国独自の略字などからくる牽強付会(こじつけ)である。況してや近頃デパート業界が提唱する「緑寿66歳」に至っては「売らんかな」の意図が露である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ここで少し漢語と干支について付け加えておこう。米寿88歳に相当する漢語は米年、古稀70&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S75xQSKKqKI/AAAAAAAAAFQ/6yntCSKGdHI/s1600/Img_0392.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 126px; height: 168px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S75xQSKKqKI/AAAAAAAAAFQ/6yntCSKGdHI/s200/Img_0392.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457924322985945250" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;歳は七旬ともいう、80歳は漢語で八秩、90歳は九旬、100歳は期頤、還暦61歳は漢語でも華甲という。”広辞苑”　によると「華の字を分解すれば六つの十と一になる。甲は甲子の意。数え年61歳の称」とある。これは「米年」と同じ発想である。甲子は十干(木火土金水の兄弟、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)　十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の最初の組み合わせである。「華」にはもともと立派な、尊いという意味もあるので、「華甲」には干支が一巡して初めに還ったことを寿ぐ思いも込められている。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S75xryJ7H2I/AAAAAAAAAFY/8joAu_SMMJs/s1600/DSC00542.JPG"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 158px; height: 120px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S75xryJ7H2I/AAAAAAAAAFY/8joAu_SMMJs/s200/DSC00542.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457924795431329634" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　それは兎も角、喜寿の旨を子らに告げたところ、敬老の日ころに喜寿祝いをしようということになった。児孫眷属八人で一卓を囲む中華料理で賀宴を張ろうと長男が発案し、横浜中華街の聘珍楼に席が設けられた。横浜は開港の祖・井伊掃部頭直弼に、妻の母方の曾祖母が仕えたことがあり所縁が深い。この際一泊して皆で記念写真を撮ることにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　宿舎はアニバーサリーに相応しく昭和2年誕生のホテル・ニューグランド。終戦直後マッカーサー元帥が焼け残ったこのホテルの315号室に滞在したことでも有名である。記念写真は大正7年設立の草分け的写真館フォト・エクボで撮った。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S754_GOrlUI/AAAAAAAAAGw/ULBHFc2u3Vg/s1600/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AE%B6%E4%B8%80%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="display: block; margin: 0px auto 10px; text-align: center; cursor: pointer; width: 374px; height: 169px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S754_GOrlUI/AAAAAAAAAGw/ULBHFc2u3Vg/s400/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AE%B6%E4%B8%80%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457932823818900802" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　聘珍楼は明治20年創業以来115年の伝統を持つ中華料理店の超老舗である。&lt;br /&gt;　富貴の寿筵と題する菜譜で鶴亀を象った前菜から始まった。次に鱶鰭スープ、鮑、北京ダック、帆立貝、伊勢海老、福建炒飯と続いてバースデイ・ケーキ状のデザートで締め括った。&lt;br /&gt;そのあと喜寿祝いとして”広辞苑”(購入用図書カード)を贈ってくれた。これはいつか佳き日の記念にと、私が今まで購入を引き延ばしていたも&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S75zZzJVkoI/AAAAAAAAAFw/shgQdvj4V5s/s1600/DSC00570.JPG"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 141px; height: 112px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S75zZzJVkoI/AAAAAAAAAFw/shgQdvj4V5s/s200/DSC00570.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457926685482914434" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;のである。人生を振り返り折に触れ所感を書き記す際、参照確認の為に必須のアイテムの一つである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最後に祝賀の答辞として、「喜寿所懐」をしたためた七言絶句の漢詩(下記)を子等に手渡して寿席をお開き(祝いごとを終わるという語を避けて)とした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;佳辰喜天寿　 平成十四年九月十四日（記：ハンドルネームJoe）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　佳辰天寿を喜ぶ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S750vGb-fSI/AAAAAAAAAF4/FTCSSYVi8Do/s1600/104-0411_IMG.JPG"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 121px; height: 92px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S750vGb-fSI/AAAAAAAAAF4/FTCSSYVi8Do/s200/104-0411_IMG.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457928150950247714" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　光陰如矢早喜寿　　光陰矢の如し早くも喜寿&lt;br /&gt;　跋渉踏破幾山河　　跋渉踏破せり　幾山河&lt;br /&gt;　弥栄萬歳児孫聚　　弥栄萬歳　児孫聚まる&lt;br /&gt;　崇祖修身期斉家　　崇祖修身して斉家を期す&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　【漢詩の意味】&lt;br /&gt;　この佳き日に　天から授かった寿命を喜ぶ&lt;br /&gt;　歳月は矢のように流れて、早くも喜寿、七十七歳になった。&lt;br /&gt;　その間、幾多の山河、艱難辛苦を踏み渉り踏み越えてきたものだ。&lt;br /&gt;　今日はめでたい。枝も弥弥栄えて葉も繁るように、子や孫、婿や嫁も聚まってきた。&lt;br /&gt;　萬歳、萬歳。&lt;br /&gt;　生を享けた先祖に感謝尊崇して益々身を修め、一家眷属が整然と一層栄えて行くよう覚悟を新たにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S751CWri1cI/AAAAAAAAAGA/5N2wwJJFr9Y/s1600/DSC00552.JPG"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 120px; height: 162px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S751CWri1cI/AAAAAAAAAGA/5N2wwJJFr9Y/s200/DSC00552.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457928481728026050" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　14日午後、山下公園桟橋からのシーバスは氷川丸、横浜ベイブリッジ、赤レンガ倉庫などを左右に見ながら「みなとみらい21」まで僅か10分程の航行だったが、妙に印象深い。ニューグランドの客室から大桟橋越しに&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S751TfLWEEI/AAAAAAAAAGI/JkMLJ2wvdcQ/s1600/104-0415_IMG.JPG"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 118px; height: 156px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S751TfLWEEI/AAAAAAAAAGI/JkMLJ2wvdcQ/s200/104-0415_IMG.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457928776066666562" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;見る「みなとみらい21」の夜景、特にランドマークタワー、電飾された巨大なメリーゴーラウンドは絢爛華麗である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　翌15日は、掃部山公園で井伊直弼銅像や旧加賀藩の能舞台を見学ののち散会した。このあと訪れた東京ディズニーシーの行程も含めて、この度は非日常的な、ちょっと大袈裟に言えば異次元の時空を遊泳した&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S751x6NR4LI/AAAAAAAAAGQ/JQTY9FyWhhY/s1600/DSC00445.JPG"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 134px; height: 100px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S751x6NR4LI/AAAAAAAAAGQ/JQTY9FyWhhY/s200/DSC00445.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457929298718613682" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ような数日間で&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S752AsqXZvI/AAAAAAAAAGY/p29YCypbYX8/s1600/DSC00403.JPG"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 131px; height: 99px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S752AsqXZvI/AAAAAAAAAGY/p29YCypbYX8/s200/DSC00403.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457929552780551922" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;あつた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-7011811642468385995?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/feeds/7011811642468385995/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/20029.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/7011811642468385995'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/7011811642468385995'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/20029.html' title='喜寿所懐（2002年9月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S75w9GZ1P3I/AAAAAAAAAFI/-8ps9e14QMg/s72-c/DSC00001.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-2572145842823957412</id><published>2010-04-08T19:26:00.007+09:00</published><updated>2010-04-09T20:48:20.153+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='フランス、旅行、モンサン・ミッシェル、パリ'/><title type='text'>フランス周遊　雑観et雑感（2002年6月）</title><content type='html'>&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;1. リヴィエラ、モナコとモンテカルロ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　雑感とは「さまざまの、まとまりのない感想」と辞書にある。主な観光ポイントを僅か8日間で目まぐるしく駆け回った今回のフランス周遊は正しく「まとまりの無い」観光の観さえある。敢えて「雑観」と表題に挿入した所以である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　2002年5月30日総勢36名で小牧空港を出発したJTBツァーは成田経由、その日の夕方イタリアのミラノ空港に到着した。乗り継ぎ便の都合が悪く、バスでニースまで行くという。約5時間の行程である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「只今国境を通過してフランスに入りました」とガイドのアナウンス。ミラノ空港でEU入境に際しパスポートを提示しただけで、あとは自由に域内を通行できる。ミラノから南下してリヴィエラをひた走る。森進一が「冬のリヴィエラ」を歌ってから一層人々の口の端に上るようになったリヴィエラは実は街の名前ではない。フランスのニースからイタリアのラ・スペチアまでの地中海沿岸を指し、ニース、モナコ、マントン、サンレモなど国際的な観光保養地が半円状に地中海を取り囲んでいる様を首飾り(La Riviere)に譬えてリヴィエラと呼んだものである。フランスではコート・ダジュール(Cote d’Azur　水色の海岸)とも別称している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　F１グランプリ・レースと女優グレース・ケリーを王妃に迎えたことで有名なモナコ公国に入る頃には夜の帳がすっかり下りていた。ひときわ街の灯が闇に煌く。オールド・ファンには懐かしい唄「一夜さモンテカールロ・・・」の灯である。公国の東部、カジノ、オペラハウス、など高級社交場が密集するモンテカルロ地区である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;2. ニースとシャガール&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　前夜零時過ぎにニース到着の為、31日は午前10時出発である。出発前のひと時、フランス最大のリゾート、ニースの海岸に出る。ボスコロ・パーク・ホテル前の公園、プロムナード・デザングレ(イギリス人の散歩道の意)の向こうはパラソルの林立するビーチである。冬以外はいつでも海水浴が出来るという温暖なニースのこととて、まだ9時前だというのに早くも水浴を楽しむ人、トップレスで肌を焼く女性などが散見される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　港を見下ろす高台から眺める紺碧の地中海、それを抱く白砂の海岸は国際的リゾートの風格十分である。降って旧市街サレヤ広場の花市では数十軒の花屋がけんを競う。ブーケ一束\2000前後。動物や怪獣の形をしたカラフルな駄菓子の店ではつい立ち止ってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　薔薇の綺麗な展望台からシャガール美術館へ。正式には「国立マルク・シャガール聖書の言葉美術館」という。聖と俗を、青と赤とを巧みに使い分けて描いたシュールリアリズム絵画が多数展示されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　近・現代美術館前には人面の上半分を立方体に形作った大胆なモニュメント、海岸プロムナードには所々に奇抜な彫像、それを縫うように初老のローラースケーターが・・・、とにかくビジターの目を楽しませてくれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ニース風サラダで昼食を執ったウエスト・エンド・ホテルの隣は有名なホテル・ネグレスコである。もとは北欧の王侯貴族が避寒のため建てた「冬の宮殿」で、ピンク色のドームやアール・ヌーボーのエントランス庇などがひときわ目を惹く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;3. エクス・アン・プロバンスとセザンヌ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　陽光の地中海ともお別れして、セザンヌ生没の地エクス・アン・プロバンスへ。途中国道D17号線ではセザンヌが描き続けたサント・ヴィクトワールの石灰山(標高1011m)を延々と右手に見てバスは走る。ドゴール広場や工事中のミラボー通りはバスの窓からそこそこに、エクスの町外れセザンヌのアトリエへ行く。入って左奧の「病める老人のデッサン」からは暗い呟きが聞こえてきそうである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;4. アルルとゴッホ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　次のアルルはローマ遺跡とゴッホの町である。一世紀末建造の円形闘技場は今でも闘牛場として現役、古代劇場はステージの残存石柱2本ながら12000人を収容できる劇場として毎年コンサートやオペラが催行されるという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　市庁舎前のサン・トロフィーム教会は中世スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路にあたり、いわば札所である。そのファサードのポルタイユと呼ばれる彫刻はプロバンス・ロマネスクの典型といわれている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　フォーロム広場ではゴッホの「夜のカフェ」を髣髴させるカフェ・フォーロムが営業中、店先にはゴッホの銅像も。しかしこの絵はゴッホのモデル、ジヌー夫人が経営するアルル駅前のカフェだという説もある。続いて訪れた精神病院中庭もゴッホ入院当時描いたままの面影を残している。ここは1989年総合文化センターになった。この日の宿「ニュー・ホテル」は床は凸凹でかなりオールドだが、部屋の広いのが取り柄だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;5. ラングロワの跳ね橋と水道橋ポン・デュ・ガール&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　翌6月1日はアルル郊外の運河に復元されたゴッホ「ラングロワの跳ね橋」見学から始まった。ラングロワとは地名ではなく、当時の橋守りの人名である。オランダ生まれ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S78T0tkEEQI/AAAAAAAAAHQ/sOYY62ivtF8/s1600/DSC00036+%282%29.JPG"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 170px; height: 135px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S78T0tkEEQI/AAAAAAAAAHQ/sOYY62ivtF8/s200/DSC00036+%282%29.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5458103069701312770" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;のゴッホは同郷の技師が架けた跳ね橋に郷愁をそそられた事であろう。しかし跳ね上がったままの復元橋は取り付け道路も無い鑑賞用である。むしろオランダ統治時代に架けられたジャカルタ・コタ地区の跳ね橋の方が原画に近いように思う。こちらは今でも橋上を人・車が往来している。しかしアスファルトで固めてしまったので、もう跳ね上げられない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アヴィニヨンへの道すがら古代ローマ時代の水道橋ポン・デュ・ガール(防護の橋の意)に立ち寄る。ニームの町まで日量2万立方メートルの水を50Kmに亘って送り続けたという2000年以上も昔の構築物である。今では高さ49ｍの一部しか見られないがスペインの世界遺産セゴビアの水道橋にも匹敵する程である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;6. アヴィニヨンの橋と法王庁&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　アヴィニヨンではまずローヌ川のプロムナードから法王庁宮殿とサン・ベネゼ橋を遠望したあと法王庁に向かう。1309年フランス国王側の勢力に逐われて、教皇はローマからアヴィニヨンに移された。両者抗争の影響で宮殿というよりは、むしろ城塞である。厚さ4m&lt;br /&gt;高さ50mの外壁に囲まれた法王庁は「城攻め」に備えて石落としまで設けていたという。内部は度々の争乱で損壊し、がらんどうである。ただ塔屋上で金色に輝くマリア像が僅かに法王庁を象徴しているかのようである。そういえば日本でも戦乱・一揆の世では高塀を巡らせた寺院は避難所或いは城塞と化したようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「アヴィニヨンの橋で踊ろよ踊ろよ・・・」の歌で有名なサン・ベネゼ橋はバスの窓から見る限りでは「輪になって踊る」程の広さは無い。1177年聖ベネゼが一生かけて寄進を集め架けた橋だが、度重なるローヌ川の氾濫で今では4つのアーチを残すのみとなっている。橋上には聖ベネゼを祀るサン・ニコラ礼拝堂がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　中世の城壁に取り囲まれたアヴィニヨンの町を後に、ローヌ川沿いをリョンへ。途中断崖を穿った住居やホテルが目に付く。なかには高級ホテルもあるとのこと。道路の渋滞もあってリョンでの行程は慌しかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;7. リヨンとTGV(Train a Grande Vitesse　高速列車の意　フランスの新幹線)&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　まずケーブルカーで約3分、フルヴィエールの丘に登る。リヨンの街はソーヌ川とローヌ川の合流点に近いこの丘に設けられたローマの城塞に、その端を発するという。展望台からは左の方、1993年オープンのオペラ座、右足下には12世紀建設のサン・ジャン大司教教会と眺めが広がる。背後にはノートルダム・フルヴィエール・バジリカ聖堂がそそりたつ。ノートルダムといえばパリの大聖堂が有名だが、各地にもノートルダムを名乗る聖堂は沢山ある。ノートルダム(Notre-Dame)とは私達の婦人、この場合は聖母マリアを意味する。カトリツクではイエス・キリストよりも聖母マリアを崇拝するようで、多くの地で聖マリア聖堂が建設されたとのことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本の新幹線と最高速度を競うTGV(フランスの新幹線)に乗るためリヨン・ペラーシュ駅へ急ぐ。トゥール行きは午後7時定刻に発車、現地人の乗客はまばらである。美食の町リヨンのシェフが腕を振るったという洋食弁当を車中で配られたが、全般に薄味で物足りない。塩分の味覚に差があるように思う。殆んどノンストップで人家の少ない山野をつっ走ること約3時間、漸く日が沈む頃終点トゥールに到着した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;8. シュノンソー城、ディアーヌとカトリーヌ&lt;/span&gt;　&lt;br /&gt;　翌2日、一時フランスの首都が置かれたこともあるトゥールだが、街を見学することもなくロワール地方の古城めぐりに出かける。フランス中部の肥沃なこの地方には王族が競って城館を建てた。その数100余、内約80が公開されている。主にトゥールからロワール川沿いにオルレアンまでの間に多いという。今日はその内の代表的な2城を見学する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シュノンソー城ではまず直営のワインセラーで試飲ののち城に向かう。森を抜けるとシェール川に浮かぶ船のような白亜のシュノンソー城が姿を現す。代代城主が女性だったことから「6人の奥方の城」と呼ばれている。15世紀のマルク家城塞の名残を留める塔を右に見て入城する。内部はよく保存整備されているが、なかでもアンリ2世からこの城を与えられた寵姫ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋が興味深い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アンリ2世のHと、王妃カトリーヌ・ド・メディチのCとを組み合わせながら、全体としてはディアーヌ・ド・ポワティエのDとなつた絵文字が暖炉に刻まれている。アンリ2世は幼時、父フランソワ1世の愛妾ディアーヌに愛育された。長ずるに及んで慕情が恋情となり、父の死後は20歳も年上ながら彼女を寵愛した。なにしろディアーヌは60歳になっても30歳位にしか見えないほどの美貌だったといわる。しかしアンリ2世が騎馬槍試合で倒されてからは、フィレンツェ・メディチ家から輿入れの王妃カトリーヌに逐われて、ショーモン城に去った。ディアーヌの部屋はすっかり模様替えされて暖炉の上にはカトリーヌの肖像画が架けられた。しかし城の左カトリーヌの庭園より大きい、城の右ディアーヌの庭園を改変するまでには至らなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一方カトリーヌはシェール川に架かる一層の橋上に二層を積み重ね、現在の優美な姿にした。第一次大戦中は時の城主の英断により軍用病院になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;9. シャンボール城、フランソワ1世とルイ14世&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　今でも子孫が住むという17世紀のシュベール城を左に見てバスはシャンボール城へ。ソローニュの森の中に5440ヘクタールの敷地を持つシャンボール城は部屋数440室を擁する壮大な平城である。フランソワ1世が自分の狩猟館をもとに1519年着工、その子アンリ2世を経て1685年完成まで167年も費やしたフランス・ルネッサンス様式の精華である。ヴェルサイユ宮殿完成までの一時期、太陽王ルイ14世が居を置いたこともある。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そもそも若きフランソワ1世がこの地に館を構えたのは、愛人トゥリー伯爵夫人の館に近く、逢瀬を楽しむ為だったといわれる。以後歴代ルイ13世、14世も不義・密会とうたかたの恋を重ねたようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　レオナルド・ダビンチ原案ともいわれる城内、特に二重螺旋階段やテラスは見たかったが時間の都合で叶わず、ブルターニュのサン・マロに急ぐことになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;10. サン・マロとシャトーブリアン&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　岬全体を高い城壁で取り囲んだサン・マロの旧市内は全くの城砦都市である。17世紀には王公認の海賊の根拠港だったというから、宣なるかなと納得する。イギリス海峡から吹きつける北風は6月でもまだ肌寒い。海岸に林立するポプラの古木はテトラポットならぬ消波林である。冬季に押し寄せる荒波で岸壁に亀裂が入ることもあるという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　セント・ヴィンセント門を入ると右手奧にシャトーブリアン・ホテルがある。そのシャトーブリアンは1768年没落貴族の子としてサン・マロに生まれた文学者･政治家である。没後は渚続きのグラン・ベ島に葬られた。その先のプチ・ベ島は明らかに往時の見張り砦である。サン・マロはブルターニュ随一のリゾートといわれるが、しばしば海霧に包まれる肌寒いビーチではどうも、俄かには肯じ難い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;11. モン・サン・ミッシェルとノルマンディー上陸作戦&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　6月4日はいよいよフランスを代表する世界遺産の一つモン・サン・ミッシェルである。イギリス風に煙突の目立つ家々を眺めながら走ること数刻、海中からそそり立つようなモン・サン・ミッシェルが見えてくる。嘗ては満潮になると島への道が水没したが、今では約2Kmの堤防によって結ばれ、バスでも行ける。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S78RxA16lZI/AAAAAAAAAG4/VADpmaUZ71E/s1600/DSC00221.JPG"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 168px; height: 126px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S78RxA16lZI/AAAAAAAAAG4/VADpmaUZ71E/s200/DSC00221.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5458100807133730194" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　全景の見える所で記念写真を撮ったあとラヴァンセ門から入る。名物特大オムレツの元祖ラ・メール・プーラール・ホテルの看板が目に付く。そのレストランの壁に貼られた有名来店者写真のなかに高松宮ご夫妻のものもある。「大通り」(Grande Rue)という名の狭い参道の両側には土産物屋とレストランが犇めき合う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　モン・サン・ミッシェル(聖ミカエルの山の意)は天使軍団長ミカエルに促されて司教オベールが966年トンプ山頂に修道院を建てたのが始まりである。その後数世紀に亘ってロマネスクやゴシックなどの様式で増改築が繰り返され、16世紀に入ってほぼ現在の形になったという。特に北面のラ・メルヴェイユ(La Merveille　驚異)と呼ばれる建物はゴシック建築の傑作といわれている。その最上階には美しい中庭を囲んで127本の二重の列柱回廊があり、祈りと瞑想の場であった。サン・マロ湾を望む西のテラスの床石には当時の工人が刻んだ文字･数字がある。王や貴族たちを迎える迎賓の間が修道僧たちの食堂の真下というのも、両者の立場を表象しているようで面白い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　昼食は参道沿いのレストランで名物・泡泡の特大オムレツである。もともと巡礼に施した給食なので、お味のほうは今ひとつ。食堂を突き抜けると島を取り囲む城壁に出る。眼下にはガイドに導かれて、素足で遠浅の海を沖に向かう一団がある。所どころ流砂床があるのでガイド無しでは危険という。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　対岸はコタンタン半島である。1944年6月6日いわゆるD- Day、米英軍によるノルマンディー上陸作戦が決行されたのは半島の東側アロマンシュ一帯の海岸線である。周辺数箇所には当時の遺品・資料を収めた戦争博物館があるという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　モン・サン・ミッシェル自身、城壁は14世紀英仏100年戦争に備えて築造されたものであり、18世紀フランス革命では略奪を、ナポレオン1世はここを牢獄に利用するなど、幾多の辛酸を経ている。しかし修道院付属教会の尖塔で金色に輝く大天使ミカエル像を仰ぐと、やはりモン・サン・ミッシェルは信仰の聖地だとあらためて思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　島を離れて振り返ると、潮風に吹かれる仔羊の群れと共に見るモン・サン・ミッシェルは正に「天空のラピュタ城」である。この後は一路パリへ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　地方の道路交差は殆んどロータリー式、鉄道線路前では日本とは逆に一時停車禁止、EUマーク(星の環)と国識別文字を表示した自動車は域内通行自由、乗用車の多くは小型乃至ミニバンである。パリ近郊からは交通渋滞、加えてトゥールからのバス運転手は市内不案内らしく、メルキュール・ヴェルシー・ホテルへの到着はかなり遅れてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;12. ノートル・ダム寺院とエッフェル塔&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　6月4日盛り沢山のパリ観光はノートル・ダム寺院からであ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S78SQEeVTEI/AAAAAAAAAHA/zCyv3j0VOMo/s1600/DSC00230.JPG"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 163px; height: 122px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S78SQEeVTEI/AAAAAAAAAHA/zCyv3j0VOMo/s200/DSC00230.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5458101340684504130" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;る。寺院正面にあるパリ道路原標に代わるがわる立ってみる。中央ファサードには、どの宗教にもよくある天国と地獄を分かつ天秤を持った彫像がある。「ノートル・ダムのせむし男」カジモドが住み着いたのは向かって右の鐘楼とされている。1330年完成以来度々の損壊苦難を経て1804年漸くナポレオンが戴冠式を挙げるまでになった。広大な内部空間、ステンドグラスの巨大なバラ窓を可能にしたのは建物外部からの支柱の為である。裏側の広場からはその支柱の形がよく見える。この工法はブルジュのサン・テチエンヌ大聖堂でも見られるという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　コンコルド広場、シャンゼリゼ通り、凱旋門はバスの窓越し。大きなごみ箱のような古本市、花苗店の長い列などが通りすがりに目に付く。全高320.75mのエッフェル塔はパリのランドマークである。全容が見易いシャン・ド・マルス公園側で記念撮影をする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;13. セーヌ川クルーズと自由の女神&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　アルマ広場近くのバトー・ムーシュ乗船場からセーヌ川クルーズに出発する。なんとクルーズコース両岸の全景が世界遺産に指定されているという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　アレクサンドル3世橋では金色の彫像が眩しい&lt;br /&gt;　　コンコルド広場にはエジプトから贈られたオベリスク&lt;br /&gt;　　ルーヴル宮へは明日訪れる&lt;br /&gt;　　ポン・ヌフ(Pont Neuf)橋　新しい橋の意だが、今では一番古い橋&lt;br /&gt;　　サン・ミッシェル橋付近の散歩道は映画のロケによく使われる、画学生もちらほら&lt;br /&gt;　　静かな住宅地シテ島はパリ発祥の地、ここでUターン&lt;br /&gt;　　パリ市庁舎&lt;br /&gt;　　コンシェルジェリーはマリー・アントワネットが処刑前幽閉されていた館&lt;br /&gt;　　オルセー美術館は元オルレアン鉄道の終着駅&lt;br /&gt;　　イエナ橋ではエッフェル塔を間近に&lt;br /&gt;　　自由の女神(ニューヨークのコピー)のあるグルネル橋中洲の先でUターン&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女神とエッフェル塔を一つのシーンに撮影して元の発着所に戻る。約&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S78S3jdWX6I/AAAAAAAAAHI/zAGOXbHa_2s/s1600/DSC00314.JPG"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 118px; height: 158px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S78S3jdWX6I/AAAAAAAAAHI/zAGOXbHa_2s/s200/DSC00314.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5458102019016777634" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;1時間半のクルーズである。夜のディナー・クルーズなら尚素晴らしいことであろう。但し船会社のパンフレットには「フォーマル・ウェアで」と書いてある。船上スピーカーで河岸の説明が5ヶ国語で為されるが日本語は最後の為、時として景色通過後になってしまうのは残念である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;14. ヴェルサイユ宮殿と庭園&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　久し振りの和食でお昼を済ませて、パリの南西約18Kmのヴェルサイユ宮殿に向かう。ルイ14世が1661年着工以来50年の歳月を要した畢生の大宮殿である。しかしこの80余年後にルイ16世が処刑され、ブルボン王朝が滅亡するとは夢想だにしなかったであろう。まずは庭園の方から見学する。丹念に手入れされた唐草模様の芝生は寧ろ人工の極致にさえ見える。沼地を改造した大運河を中心に、815ヘクタールの大庭園である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この正面に当時としては貴重な578枚もの鏡をはめ込んだ、長さ73メートルの「鏡の回廊」がある。第一次大戦後の1919年6月ヴェルサイユ条約はここで調印された。この他華麗な部屋部屋を多数見学したが、慌しいガイドの説明で、しかとは区別が付け難い&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;15. モンマルトルの丘と少年すり団&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　渋滞もなく順調にパリに帰り着いたところで一行と別れ自由行動をとる。地下鉄ピラミッド駅近くの「マイ・バス社」へ行き、今夜のムーラン・ルージュ・ドリンク・ツァーの予約を確認する。@140ユーロ(約\17000)。流しのタクシーは殆んどいないので、タクシー乗り場で拾ってモンマルトルに向かう。オペラ・ガルニエ、サン・トリニテ教会を経て丘の上のサクレ・クール寺院に着く。名高いモンマルトルの丘である。市街を望見したあとケーブルカーの山上駅へ。西に降れば画家の卵が集うテルトル広場だが、このまま登山電車を横目に階段を下りて、ウィレット公園のメリーゴーラウンドの横に出る。ここから見る白亜の寺院ドームは立派に絵のモチーフである。映画のロケもよくあるという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　土産物屋の建ち並ぶ坂道を下って地下鉄アンベール駅へ。ここで予て聞いていた少年すりらしき一団に遭遇した。切符を買う時の財布の中身と仕舞うポケットをマークしているらしい。勿論ガードを固めていたので被害は無かった。パリ地下鉄は思ったより清潔で、案内表示もわかり易い。ホテルでスーツ、ワンピースに着替えて再び地下鉄14号線でマイ・バス社へ引き返す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;16. ムーラン・ルージュとフレンチ・カンカン&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　20時集合、マイクロバスでシァター・レスラン・ムーラン・ルージュまで送ってくれる。東京から来た細田さんという女性と私達の3人である。例の赤い風車下の入口より入場、丁度19時からのディナーは終わりに近づいていた。通路脇に小卓を仮設してワインクーラーに入れたボトル・シャンペンが運ばれる。ショーは21時から始まった。ステージの立ちは余り高くないが、幅はホール巾一杯に広く取ってある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　粒の揃ったトップレス・ガールのショーが切れ目無く続く。嘗ての日劇ミュージック・ホールのタカラヅカ版というところか。さり気なくセクシーに演出しているのはさすがである。中間ではマジック、コミック、アクロバットも挿みながらフィナーレは矢張りフレンチ・カンカンである。フランス国旗の赤白青を配したコスチュームで舞台一杯に跳ね回る。肌の浅黒いメスティーソらしき混血娘も混じっている。観客も国際色豊かで隣のテーブルも東洋系だった。フレンチ・カンカンは今やフランスの無形文化財として篤く保護されているという。盛んなアンコールの甲斐も無くそのまま終演となった。22時45分である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　マイ・バス社の車でホテルまで送ってくれるのが嬉しい。終演後のタクシーは捕まえ難い、通は終演直前に退出してタクシーを確保するという。それは兎も角、セーヌ川端は川面に近い下段の道路を走ったので夜のセーヌの風情も味わうことが出来た。ディナーを終えて帰航するクルーズ船の消燈は、宴の後の哀愁をふと覚える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;17. ルーヴル美術館とモナリザ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　6月5日はルーヴル美術館のオプショナル・ツァーである。@\9000。個人で入場するにはガラス・ピラミッドの入口に長蛇の列、団体見学なら地下から優先的に入場出来る。9時開場と同時に入場しようと早めにホテルを出る。地下駐車場からピラミッドの真下を通って正面シュリー翼の半地下部に入る。中世は要塞だったルーヴル宮の濠や城壁を見て1階に上がる。なにしろ30万点を超えるコレクションの中から、代表的なものだけを2時間そこそこで鑑賞しようというだから気忙しい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　古代ギリシャの名品ミロのヴィーナス、次は2階デゥノン翼でサモトラケのニケ。ダ・ヴィンチの「モナリザ」の前は既に人だかりである、フラッシュ禁止にも拘わらず盛んに閃光が走る。隣には名古屋でも公開された「白てんを抱く貴婦人」と同系のダ・ヴィンチの絵がある。　引き返して次はドラクロアの「民衆を導く自由の女神」、ここでは画学生が特別料金を払って部分画を模写中である。全画面を同寸で模写することは贋作防止のため禁止されている。ジェリコの「メデュース号の筏」は沖合いの小船に助けを求める群像に迫力がある。またヴェロネーゼ「カナの婚宴」やダヴィッド「ナポレオン1世の戴冠式」の大画面にはそれぞれ圧倒される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ナポレオンの部下が発見し、シャンポリオンが解読したロゼッタ・ストーンや古代エジプトの壁面彫刻の右翼は大英博物館に収められている。当時は各国のオリエント遺跡発掘競争が相当熾烈だったのであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;18. 凱旋門とシャンゼリゼ大通り&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　3階にも見たいものが沢山あったが今日の見学はここまで、11時45分である。3時ホテル集合までの間、地下鉄で凱旋門まで足を伸ばす。高さ49.54m、幅44.82m、30年かけて1840年完成した凱旋門は世界最大である。壁面にはナポレオンの戦功の数々が刻み込まれている。凱旋門の近くから雨上がりのシャンゼリゼをそぞろ歩きに、とあるカフェテラスでお茶とワインとサンドウィッチ。サラダがメインのランチは13ユーロである。同じシャンゼリゼ大通りといってもクレマンソー駅まで来るとすっかり緑の並木通りとなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　すりが多いと聞いていた地下鉄1号線もさほどの気配も無く、リヨン駅で乗り換えてホテルに着く。御一行の皆さんの疲れた顔が既に集まっていた。あとは予定通りシャルル・ドゴール空港よりエア・フランス共同運行のJAL406便で帰途についた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　6月6日　成田乗り継ぎ19時25分小牧空港着。目まぐるしくも慌しいフランス周遊の旅は終わった。しかしバラエティーに富んだ旅ではあった&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-2572145842823957412?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/feeds/2572145842823957412/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/et20026.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/2572145842823957412'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/2572145842823957412'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/et20026.html' title='フランス周遊　雑観et雑感（2002年6月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S78T0tkEEQI/AAAAAAAAAHQ/sOYY62ivtF8/s72-c/DSC00036+%282%29.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-7313448953932480046</id><published>2010-04-07T14:14:00.003+09:00</published><updated>2010-04-07T14:18:04.098+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='スペイン、旅行、バルセロナ、アルハンブラ宮殿'/><title type='text'>スペイン見聞抄（2002年2月）</title><content type='html'>&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;1. ガウディの街　バルセロナ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　1月26日スペインの旅はバルセロナから始まった。首都マドリッドに次ぐスペイン第二の都市バルセロナは1992年オリンピック開催で世界の注目を集めた。一方芸術の分野では19世紀末に起った「モデルニスモ」(近代主義)という芸術運動により、ガウディ、ビカソ、ダリ、ミロなど特異なアーチストが輩出している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　まずグラシア通りのカサ・ミラ(ミラ邸)前を通りグエル公園に行く。未来指向の住宅地を目指したが完成は2棟のみで、あとは公園になった。1棟は医者が、もう1棟はガウディ自身が住み、現在はガウディ博物館になっている。直線よりもグニュグニュした曲線を多く採り入れた建築物はむしろ異様でさえある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　続いてサグラダ・ファミリア(聖家族)聖堂を訪れる。1882年着工以来延々と建築中で、完成は200年後とも言われている。1883年ガウディが担当して以来、1926年交通事故で亡くなるまでの44年間建設に精励したという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　現在引き継いでいる建築家の一人は日本人である。その手になる「ご誕生の門」の母子像は心なしか日本人的容貌である。反対側入口脇には縦・横・斜め何れも合計が33になる数字表がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;2. 西回り大航海　コロンブス&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　オリンピック・スタジアムのあるモンジュイックの丘に登る。バルセロナの市街と港が一望の下である。眼下に目を凝らすとランブラス通りの南端で、港に近いロータリーにコロンブスの塔が見える。1888年にバルセロナ万博を記念して建てられたものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし1492年イタリアの探検家コロンブスがスペイン女王イサベル1世の援助の下、新大陸発見の航海に船出したのはスペイン南西部のパロス港であつて、バルセロナではない。その後スペインは西回りで中南米を簒奪し、遠くフィリピンにまで達している。ともあれオリンピックの年にはコロンブス500年祭も合わせ開催されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　バレンシアへの途中、江ノ島のように地中海に突き出た岩山の城塞の町ペニスコラを、ベニカルロの海岸から海越しに眺める。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　3月19日深夜、巨大なファリヤ(張子人形)が次々に炎に包まれるバレンシアの火祭りはオレンジと共に有名である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;3. ドン・キホーテの幻想　ラ・マンチャ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　27日は西進してドン・キホーテの舞台ラ・マンチャ地方に向かう。内陸の高地に入ると俄かに霧に包まれ、自動車はのろのろ運転を余儀なくされる。世界遺産にも指定されたサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道では、ピレネー越えの濃霧で道を見失い、行き倒れる巡礼者が続出したというが、それもう頷かれる。なにしろ突然の濃霧である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ドン・キホーテが巨人ブリアレオと見間違えて突進した風車は霧の中。風車の村カンポ・デ・クリプターナも霧に霞んで益々幻想を掻き立てる。セルバンテスが度々泊まったというプエルト・ラピセ村の旅籠で昼食を執る。ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサのおどけた銅像があちこちに建っていて、ついつい虚構の中世に引き込まれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;4. 情熱のフラメンコ　グラナダ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　グラナダに到着の夜はフラメンコのディナー・ショウである。タブラオと呼ばれる洞窟風のフラメンコ酒場もあるが、今回は「サラ・アルハンブラ」というレストラン・シァターである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　会場へは一番乗りだったので最前列に陣取った。ディナーのあと10時過ぎに漸く開演。トーケ(ギタリスト)、カンテ(歌い手)、バイラオーラ(踊り手)がフラメンコ特有のリズムに乗って、ぴったり息の合ったパフォーマンスが展開される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　数種類のリズムパターンがあるが”33222”の12拍子が代表的という。歌はアンダルシア地方の歌をジプシー風にアレンジしたというが、どこかインド・アラブ的旋律も交じっているようで共感を覚える。踊りは6人の踊り手が一人ずつ踊っては自席に戻るクワドロ形式で始まる。自席ではパルマ(手拍子)で同僚の踊りを盛り立てる。思いなしか掌指が大きく、踊りのブラセオ(腕の動き)を一層魅力的に強調する&lt;br /&gt;。最前列で見たせいか、強烈なリズムを生み出すサバテアード(足の動き)を存分に堪能することが出来た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　終盤フィグラで登場する真打ダンサー男女の真摯なデュエットは圧巻である。全員が額に汗し、胸弾ませてのフィナーレで最高潮のうちに終演した。午後11時半。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;5. アルハンブラ宮殿と　ジプシー&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　1354年イスラム文明の粋を集めて完成したアルハンブラ宮殿は最盛時2000人を超える人が住む宮廷都市であった。砂漠から来たアラブの王は水を非常に珍重した。アラヤネスの中庭では、水を満々と湛えた池に映えるコマレスの塔に各国大使を迎えたという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　噴水を備えたライオンの中庭に面して東に王の間、南にハーレムがある。北側の二姉妹の間の天井の鍾乳石飾りは、グエル公園のガウディの作品に通ずるものがあるように思う。&lt;br /&gt;カルロス5世宮殿は資金難から屋根が未完成である。同じく屋根が無いポルトガルのバターリアの礼拝堂をふと思い出した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　城外、ナスル朝の離宮ヘネラリフェは修築中のため、代表的なスペイン・イスラム庭園「アセキアの中庭」を見ることは出来なかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　宮殿への途次、通り過ぎたサクロモンテの丘にはクエバと呼ばれるジプシーの洞窟住居がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　言い伝えによれば千年程前、異民族の侵略に追われてインド西北部ラジャスタン地方より脱出した部族が各地を放浪の末、ルーマニアをはじめヨーロッパ各地に流れ着いた。しかし生来の放浪癖と地元民の排斥のため、なかなか定住出来なかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　レコンキスタ(キリスト教徒による、イスラムからの国土回復運動)の頃、イサベル女王がアラブの王ボアプディルを追放する際、協力した功によりジプシーの一群は許されてこの丘の洞窟に住みついた。未だに放浪を続ける人々がいる一方、定住してオリーブ、オレンジの収穫に従事する者も多いとのことである。またフラメンコで見初められて、グラナダ市長夫人に納まったジプシーダンサーもいたという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　地元民はエジプトから来た人「イジプシアン」(Egyptian　エジプト人)と呼んだのが訛って「ジプシー」になったらしい。しかし彼等はこれを嫌って自身を「ロマ」と称している。「ロマ」とは彼らの言葉ロマ語で”人間”を意味する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;6. イスラムとカトリックの鬩ぎあい　コルドバ&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　ヨーロッパが「暗黒の中世」の頃、コルドバではイスラム文化全盛を誇っていた。その象徴　メスキータ(Mezquita　スペイン語でモスクの意)は785年建設が始められ、その後三度の拡張で175m x 135m, 25.000人を収容する巨大モスクとなつた。堂内東奧にはイスラムの聖地メッカを指向するミーラブと呼ぶ聖所がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　レコンキスタののち、カトリツクのカテドラルに大改造されたが、前記ミーラブや赤白のアーチなどはそのまま残され、イスラムとの混交が随所に見られる。もとは白い石と赤煉瓦を交互に組み合わせて構成したアーチであるが、後期拡張では全部白い石で構築し、縞模様は後で赤く塗装したという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　イスラムに経済協力したユダヤ人もレコンキスタで追放されたが、今に残るユダヤ人街の「花の小道」の路地から見えるメスキータのたたずまいは、鬩ぎあいの昔を忘れさせる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;7.  グレコの後半生　トレド&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　29日は一気に北上して、街全体が世界遺産のトレドを訪ねる。タホ川越しに見るトレドの全景はまるで中世都市のシネラマである。偉大な建物の双璧、カテドラルとアルカサルは時間の関係で外観と遠望に止まった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「グレコの家へ」の標識を横目にサント・トメ教会に急ぐ。閉館時刻が近い。ここにはグレコ中期の代表作「オルガス伯爵の埋葬」がある。オルガス伯はこの教会の創立者である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　エル・グレコとはスペイン語で”一人のギリシァ人”の意。1541年クレタ島で出生、本名はドメニコス・キリアコス・テオトコプーロスという。1575年から没する1614年までの40年間をトレドで過ごした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;8.  マドリッドといえば　プラド美術館&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　人口300万余人を抱えるスペインの首都だから、いろいろな観光名所があるがマドリッドといえば、さしずめプラド美術館が最大の観光ポイントだろう。スペイン王室のコレクションを中心にベラスケス、ゴヤ、グレコなど珠玉のスペイン絵画を誇るヨーロッパ屈指の美術館である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　30日は先ず同館に直行する。フラッシュカメラやビデオは禁止、フラッシュレスなら撮影自由。しかし同時開催されていた「ゴヤ展」会場だけは何故か一切撮影禁止であった。限られた時間にいわゆる名画だけはと鑑賞・撮影に没頭した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　現地ガイドによる「絵画」に関するエピソードや解説のいくつかを次に記す。&lt;br /&gt;ベラスケス「マルガリータ王女」・・・ドレスを特に絢爛豪華に描いたのは王女の「斜視」から観る者の目を逸らす為だったという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ゴヤ「カルロス4世とその家族」・・・画面中央のマリア・ルイーサ王妃は実は歯抜け婆さんであった。口元を良く見ればそれとわかる程度に、宮廷お抱え画家のゴヤは描写に苦心したことであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ゴヤ「裸のマハ」・・・マハはMajaのスペイン語読み。カルロス4世は日頃これを架けて楽しんだが、来客のときは「着衣のマハ」に架け替えた。とガイドは解説するが ?&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　グレコ「羊飼いの礼拝」・・・手指が長く、殆んど12等身にデフォルメされている。その後のベラスケス「褐色と銀のフェリペ4世」にもその傾向が見られる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その他カンバスの都合で馬身が寸詰まりの騎馬像や、分断された絵を額縁付きのように復元したグレコの作品などが目を惹く。1階を探し回ってヒエロニムス・ボッスの奇画「快楽の園」も観ることが出来た。これはプラド美術館の至宝といわれている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;9. 観光客はご用心　スペイン広場&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　スペイン広場ではセルバンテス、ドン・キホーテの銅像前でそそくさと写真を撮っただけである。あとで気が付いたが、私達のグループの周りをうろついている色黒の男を近付けまいと、現地ガイドが牽制していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　物乞い風に近寄ってきて、強盗に豹変する者も居るらしい。子供連れのジプシー窃盗団も居るようだが、スペインではモロッコなどから職を求めて、密入国してきたものの食い詰めた挙句、強盗を働く北アフリカ人が多いという。最峡部15Kmのジブラルタル海峡は漁船でも密航可能とか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;10. ローマ人の水道橋とお伽の城　セゴビア&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　マドリッドの北西95Kmのセゴビアにはローマ人の遺跡、水道橋がある。全長728m、最高29m、二段アーチの水道橋はスペイン最大、世界遺産にも指定されている。推定で紀元100年頃、表面に穿った小穴のみを識別して一切の接合材を用いず、ただ積み上げただけでこれだけ壮大なものを構築するとは、大した石造技術である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　貴婦人と評されるゴシック式カテドラル前を通ってアルカサル(城)を訪れる。これは13世紀初めエレスマ川とクラモレス川との合流点に築かれた戦略的要塞である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ディズニーの「白雪姫」のお城のモデルということでメルヘンチックに観られがちだが、牢獄として使われたこともあり、炎上、再建の憂き目も見ている。城内の軍事博物館には中世の武器・甲冑が展示されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;11. オレンジ・オリーブ・ひまわり　そして闘牛&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　これは今回、バス沿線の移り変わりである。バルセロナから地中海沿いに南下したときはオレンジ畑がよく目に付いた。バレンシア・オレンジはブランドとしても有名である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　続いて多いのがオリーブ畑である。この国は石灰岩の地質らしく大樹の森林が少ない。従って丘の上までオリーブの樹が植えられている。山上までの段々畑を評して「耕して天に至る」と言われるが、ここでは正に「植して天に至る」である。収穫の時には膨大な人手が要ることであろう。よく見ると樹間は石ころだらけである。昼夜の地温を平準化するため態々砕石を敷き詰めているという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　オレンジは大生産地らしく廉かったが、オリーブの一番絞り「バージン・オイル」は意外に高かった。コルドバから北上するに従い、ひまわり畑が増えてくる。花が満開の頃はさぞかし壮観であろう。&lt;br /&gt;尚、北上してマドリツドからセゴビアに向かう沿線は広闊な牧草地である。闘牛用の牛もこのあたりで飼育されているという。&lt;br /&gt;　闘牛で勇敢に戦った牛も、倒された後は筋張った肉質のため安値で処分されてしまう。地方の町でも結構、闘牛場が目に付いた。古代ギリシァの小都市でも円形劇場があったように、必須のエンターテイメントなのであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;12. カスティーリャ、カタルーニャ、アンダルシアと　ポルトガル&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　一般にスペイン語と呼ばれているものはマドリツドを中心とするカスティーリャ語である。フランスに近いカタルーニャ地方ではフランス語の影響を受けたカタルーニャ語が用いられ、これも公用語として認められている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　旅行者に必要ないくつかを対比してみよう。&lt;br /&gt;　　　日本語　　　　　スペイン語(カスティーリャ語)　　カタルーニャ語&lt;br /&gt;　　男性 / 女性　　　　caballeros / damas              homes / dones&lt;br /&gt;　　トイレ　　　　　　 servicio                        servei&lt;br /&gt;　　　水　　　　　　　 agua                            aigua&lt;br /&gt;　　　出口　　　　　　 salida                          sortida&lt;br /&gt;　　開店　/ 閉店　　　 abierto / carrado               obert / tancat&lt;br /&gt;　(ドアを)引く/ 押す 　tirar / empujar                 tireu / empenyeu&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　長年イスラムの勢力下にあったスペインではアラブ系の言葉が入って来ている。Alで始まる言葉、特に名詞が多い。アンダルシア地方でその傾向が強いようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ポルトガル語はスペイン語と同類だと言われるが、スペインからみればポルトガル地方の一方言と見なすのであろうか。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;31日払暁、マドリツド・バラハス空港から機上の人となる。短い期間ではあつたが、&lt;br /&gt;グラシアス(Graciasありがとう)スペイン、 アディオス(Adiosさようなら)スペイン語。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-7313448953932480046?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/feeds/7313448953932480046/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/1.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/7313448953932480046'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/7313448953932480046'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/1.html' title='スペイン見聞抄（2002年2月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-8314354055542873587</id><published>2010-04-07T00:31:00.003+09:00</published><updated>2010-04-07T14:00:17.704+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='熊野古道、旅行'/><title type='text'>初冬の熊野古道を歩く（2001年12月）</title><content type='html'>&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;一、熊野詣でとは&lt;/span&gt;　　&lt;br /&gt;　京から遠く離れた熊野は黄泉の聖地として古くから畏敬されていた。熊野の「熊は隈に通ず」として、中央に対する僻遠、陽・顕に対する陰・蜜の意味が込められている。特に熊野三山は死者の霊魂が鎮まる霊地として平安の昔より、貴賎男女を問わず尊崇されていた。後白河上皇は年2回、通算34回も供奉数百人を従えて熊野御幸をしたという。&lt;br /&gt;　　　　&lt;br /&gt;　京・大阪(天満橋付近が起点)よりは主に紀伊路(熊野街道)、田辺から中辺路を経て熊野本宮に至る経路である。その道中には熊野(ユヤとも読む)権現の御子神を祀る九十九王子社があり、時には歌合をしながら巡拝して熊野詣でをした。田辺から更に熊野灘沿いの大辺路、高野山から高野聖も通ったであろう小辺路、吉野からは大峯修験者の奧駈道(大峯道)もある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　江戸時代に入ると伊勢参宮のあと伊勢路(東熊野街道)からの熊野参詣が盛んになり、那智大社に隣接する青岸渡寺を第一番札所とする西国三十三箇所の巡礼が流行した。引きも切らぬ巡礼者の行列を指して「蟻の熊野詣で」と評されるほど当時は賑わった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　熊野三山とは熊野夫須美神(別称イザナミノミコト)を主神とする那智、速玉神を祀る速玉、家津御子神(実はスサノオノミコト)を中心に祀る本宮の三大社をいう。本地垂迹では夫々の神を観音佛、薬師佛、阿弥陀仏の化身として三所権現ともいう。修験僧等が勢力を広げたときは仏教色の濃い寺社と見なされた時期もあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;二、伊勢路&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　こういう古道を歩いてみたいと思っていたところ「熊野古道・大門坂と熊野詣でのクライマックス中辺路を歩く」一泊二日の旅の広告が目に付いた。早速申し込み12月4日朝7時半、三重交通のバスで名古屋駅西より出発した。男9人、女13人(内夫婦4組)と添乗員(中村和美さん)の総勢23人で、殆んど山歩きの常連らしい。伊勢自動車道安濃SA、国道42号線尾鷲、七里御浜、那智で小休止を執りながら那智大社へ。&lt;br /&gt;　途中ツヅラト峠(九十九折り峠の意)近くの荷坂峠からは急に視界が開けて紀伊長島町から熊野灘が見晴らせる。巡礼者たちはこれを補陀落の海(南海にある観音浄土)として大いに感動したという。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wLvsvFrLI/AAAAAAAAACo/sJceiz9Dpl4/s1600/%E9%AC%BC%E3%83%B6%E5%9F%8E.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 184px; height: 136px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wLvsvFrLI/AAAAAAAAACo/sJceiz9Dpl4/s320/%E9%AC%BC%E3%83%B6%E5%9F%8E.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457249762556619954" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;熊野市では鬼が城、獅子岩を経て花の窟神社前を通過する。この神社は高さ70メートルの巨岩をご神体とする日本最古の神社とされ、火霊神カグツチを生んだときの大火傷で亡くなったイザナミノミコトの御陵といわれている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この間42号線から熊野古道伊勢路の難所始神峠・馬越峠・八鬼山峠・松本峠に向かう道標が目に付く。名古屋から既に4時間、持参の弁当は車中で執る。新宮市の速玉大社には今回は立ち寄らず、不老不死の仙薬を求めて秦より渡来した「徐福」の記念公園を左にして那智勝浦町に入る。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wQVKWtwrI/AAAAAAAAAEA/8qTfs7mzXvE/s1600/%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%85%AC%E5%9C%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 184px; height: 141px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wQVKWtwrI/AAAAAAAAAEA/8qTfs7mzXvE/s320/%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%85%AC%E5%9C%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457254804209124018" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　那智浜の潮垢離場、浜の王子の隣は補陀落山寺である。ここには観音浄土を求めて、この浜から南海へ補陀落渡海(一種の入水往生、即身成仏)した僧侶・修験者の墓がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;三、大門坂から那智大&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;社&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　いよいよ那智大社の入口、大門坂に到着。宿場跡、関所跡、下馬石碑に続いて大門茶屋がある。ここでは熊野詣での平安衣装を貸してくれる、撮影1000円、散策2000円。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　振ヶ瀬橋を渡ると樹齢80&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wQB3fIqdI/AAAAAAAAAD4/6azymIzRtS8/s1600/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%8F%A4%E9%81%93.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 177px; height: 132px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wQB3fIqdI/AAAAAAAAAD4/6azymIzRtS8/s320/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%8F%A4%E9%81%93.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457254472726653394" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;0年の夫婦杉が古道の両側に亭亭と聳えている。20段ほど石段を登ると中辺路最後の王子社たぶき多富気王子跡がある。神仏への「手向け」が訛ったものといわれる。約600メートルに及ぶ石段の坂道は古道の面影を最も美しく残しているとして「日本の道百選」にも選ばれ、写真撮影には最適である。十一文関跡からは那智の大滝が望見出来る。あと120段ほど登ったところが大門跡の広場である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　土産物屋で無料の杖を借りて那智大社の長い石段を登る。登り疲れたころ「那智山熊野権現」の額を掲げた赤い鳥居に辿りつく。右は西国三十三箇所一番札所の青岸渡寺である。左の石段を更に登ると熊野三山のうちで昔の姿を最も残しているという那智大社の朱塗りの社殿がある。右奧の門から隣の青岸渡寺へ続く。本尊は勿論、観音様である。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wPYbHqkoI/AAAAAAAAADw/NKFh1F_mG-Q/s1600/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%9C%AC%E5%AE%AE.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 178px; height: 137px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wPYbHqkoI/AAAAAAAAADw/NKFh1F_mG-Q/s320/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%9C%AC%E5%AE%AE.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457253760737383042" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　裏山からは熊野本宮に通じる最大の難所、大雲取越えが始まる。途中から折れて妙法山阿弥陀寺(女人高野)へも行ける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　朱い三重の塔の奥に見える那智の滝は誠に壮観である。だらだら坂を降りて滝をご神体とする飛滝神社に行く。133メートルの直落差は日本一、鳥居越しに仰ぐ大滝はさすがに神々しい。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wPGrt-blI/AAAAAAAAADo/Q4TnyhKLtKA/s1600/%E9%82%A3%E6%99%BA%E3%81%AE%E6%BB%9D.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 152px; height: 203px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wPGrt-blI/AAAAAAAAADo/Q4TnyhKLtKA/s320/%E9%82%A3%E6%99%BA%E3%81%AE%E6%BB%9D.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457253455955390034" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　参拝を終り再び那智浜から新宮市に戻り、熊野川右岸を遡って今夜の宿「湯の峯荘」に到着する。熊野詣での湯垢離場として知られ、我が国最古の温泉といわれる。淡い硫黄泉で湯ノ花の化石佛の胸から温泉が湧いたというので元は湯の胸温泉と呼んだ。毒酒を盛られた小栗判官が湯治したという壺湯へは、宿からは離れていて行けなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;四、中辺路&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　明けて5日は熊野古道のクライマックス中辺路である。朝霧立ち込める「湯の峯荘」を後に熊野本宮大社前へ。此処で本宮町の元産業観光課長だった語り部佐古さんが同乗して発心門王子社に行く。此処は大社聖域の入口に当たり、九十九王子社の中でも格の高い五体王子の一つである。人々はここで心身を祓い清めて聖域に足を踏み入れたという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　後鳥羽上皇に供奉の藤原定家が泊まったという尼南無房宅跡が社の後ろにある。&lt;br /&gt;語り部が路傍の小祠を「歯痛の石仏」と指差すと皆が慌てて掌を合わせる。小さな村落を通り抜けた水呑王子跡にも「腰痛の石&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wOpcm_r1I/AAAAAAAAADg/A9JiLIcj960/s1600/%E5%8D%97%E7%84%A1%E6%88%BF%E5%AE%85%E8%B7%A1.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 174px; height: 131px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wOpcm_r1I/AAAAAAAAADg/A9JiLIcj960/s320/%E5%8D%97%E7%84%A1%E6%88%BF%E5%AE%85%E8%B7%A1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457252953683373906" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;仏」が祀られている。旧小学校の一角にある王子碑の傍には岩清水を掬む柄杓が置いてある。当時も道中の休息・水呑場だつたのだろう。&lt;br /&gt;　前に果無山脈、後ろに音無川(音無紀美子はこの近くの出身)を控える民家の前で大層深い菊水井戸の釣瓶を手繰ってみる。この辺には但馬仔牛(神戸牛)を肥育する農家が多いとか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しばらく村道を行くと伏拝王子である。現地の人はフショガミと呼ぶ。はるばる熊野詣での人々はここから遥かに見える大社の杜を伏し拝んだという。ここで「月の障り」を嘆いたという和泉式部の供養塔婆もある。あたり一帯に「N&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wOPQf8ZII/AAAAAAAAADY/1IEyNKrwH6U/s1600/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E6%9C%A8%E8%91%89%E3%81%AE%E5%AE%B6.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 179px; height: 136px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wOPQf8ZII/AAAAAAAAADY/1IEyNKrwH6U/s320/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E6%9C%A8%E8%91%89%E3%81%AE%E5%AE%B6.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457252503755973762" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;HKほんまもんのまち本宮町」の幟が林立する。近くの民家の外装を整えて山中木葉の家とし、樹上に櫓を組んで瞑想のシーンをロケしたという。茶畑の一隅には「山中フジの墓」が本物の御影石で建ててある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ロケを機会に観光で町おこしをと願う町民の気持ちも判らぬでは無いが、山深い熊野古道のあちこちにPR幟をなびかせるのは如何なものか。少々鼻白む思いである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　初冬の山道は枯葉をカサコソではなくザクザクと踏みしめて歩く。よくした下枝打ちをした杉林は神域の風情があるが、手入れの行き届かぬ森林は、伸び放題の下枝があたかも悪魔が手を絡ませたようで鬼気迫る思いさえする。ところどころに「蘇生の森　熊野古道」の石碑が建っている。地方自治体が世界遺産登録を目指して古道周辺の杉檜林の整備保全に乗り出しているようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　杉林を抜けて橋を渡ると三軒茶屋跡と九鬼口関所跡に出る。傍らに「右高野口　左紀三井寺(西国三十三箇所の二番札所)」の小さい道標が蹲っている。近世の関所通行料は酒一升分位だったらしいと語り部は言う。また夫婦の関所手形は夫の名だけ記し、妻は女房とのみで記名&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wN08dLgaI/AAAAAAAAADQ/3rr0MvfB3sQ/s1600/%E8%A6%8B%E6%99%B4%E5%8F%B0%E3%81%8B%E3%82%89.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 180px; height: 138px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wN08dLgaI/AAAAAAAAADQ/3rr0MvfB3sQ/s320/%E8%A6%8B%E6%99%B4%E5%8F%B0%E3%81%8B%E3%82%89.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457252051699073442" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;は無かった。今でいうパスポートのようなもので、傷病のときは介抱を、行き倒れたときは現地の風習に従って葬ってやってくれとの一文があつたとのこと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今回のコースでは目にしなかったが、伊勢路の峻険な古道の傍らには参詣の願い半ばにして異郷に骨を埋めた巡礼たちを供養する無縁石仏が多いという。&lt;br /&gt;左脇道を登ると見晴台に出る。熊野川、片や本宮大社の全景が眼下である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;五、本宮大社と大斎原&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　山坂を降って大&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wNPB89jqI/AAAAAAAAADI/RB-d4vo-vxc/s1600/%E6%97%A7%E7%A4%BE.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 174px; height: 139px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wNPB89jqI/AAAAAAAAADI/RB-d4vo-vxc/s320/%E6%97%A7%E7%A4%BE.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457251400339525282" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;社の裏手に当たるところに祓戸王子がある。この石祠の前で長旅の穢れを祓い清めて社殿に向かったものである。祓所、祓殿とも書くが何れもハライドと読む。&lt;br /&gt;　熊野本宮大社は家津御子神(実はスサノオノミコト)社殿を中心に、向かって左隣にイザナギ、イザナミノカミ、右隣に天照大神の四社がある。元は熊野川の中州にあつたが、明治22年の大水のとき流失を免れたこの上四社だけは現在の高台に移された。流されてしまった中四社と下四社は旧社地(おおゆのはら大斎原)に石祠として祀られている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　大斎原には高さ30余メートル?という日本一の大鳥居が平成に入って建てられた。その頂門に描かれたヤタガラスは熊野の神使として神聖視されている。此処にも「蘇」の字を刻んだ大石が据えられている。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wM5Nb0VwI/AAAAAAAAADA/xSNR0akfBF4/s1600/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%9C%AC%E5%AE%AE%EF%BC%92.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 188px; height: 140px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wM5Nb0VwI/AAAAAAAAADA/xSNR0akfBF4/s320/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%9C%AC%E5%AE%AE%EF%BC%92.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457251025464612610" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　左手熊野川の向こうには大峯修験者の奧駈道を抱く山波が横たわる。ここ大斎原の芝生で当地名産めはり寿司・さんま寿司の入った弁当をひろげる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;六、参詣を終えて&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　熊野古道は「紀伊山地の霊場と参詣道」として2001年4月ユネスコの世界遺産暫定リストに登録された。早ければ2004年にも本登録をと地元プロジェクトは意気込んでいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　既に世界遺産に登録され&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wMVozbBsI/AAAAAAAAAC4/-KgiV_pJEnU/s1600/%E5%8D%83%E4%BA%BA%E9%A2%A8%E5%91%82.jpg"&gt;&lt;img style="float: left; margin: 0pt 10px 10px 0pt; cursor: pointer; width: 172px; height: 143px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wMVozbBsI/AAAAAAAAAC4/-KgiV_pJEnU/s320/%E5%8D%83%E4%BA%BA%E9%A2%A8%E5%91%82.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457250414336083650" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;ているキリスト教巡礼道「サンチャゴへの道」と姉妹道の提携をしたという。&lt;br /&gt;　大社前で語り部の佐古さんとも別れ、旅の疲れを癒すべく川湯温泉の仙人(千人)風呂まで足を伸ばす。川床から湧出する温泉を川水でうめて入浴する男女混浴の露天風呂である。海水着着用の更衣室は、女性用はよしず張りながら男性用は簡単な衝立程度である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　膝上くらいの深さだが底は角石が多い。立って歩くと体重が掛かって足の裏が痛いので全身を湯に漬けて、体を浮かせて手で歩く。&lt;br /&gt;　全行程を終えて帰途に、尾鷲と関のドライブインで小休止して一路名古屋へ。定員45人のバスを客22人で座席指定、オール禁煙、カラオケ無しで快適なバス旅行である。予定より早く午後8時に名古屋駅に到着した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この旅の前夜、熊野古道のイメージを想像して泉鏡花の「高野聖」を読み返してみた。飛騨の深山に踏み込んだ富山の薬売りを馬に化身させてしまう女の魔力に、読み終わってゾッとする。今回歩いた熊野古道は道幅もあり、石段・石畳もまずまず整っていた。先月踏破した赤目滝の裏山から落合への杣道の方が「高野聖」の雰囲気に、より近いと思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　魂の蘇生を願う熊野詣でというと何となく陰陰滅滅たる情景を想起させる。しかし黒潮洗う熊野灘は海の幸にも恵まれ、温暖多雨のため蜜柑栽培や杉・檜の林業も盛んである。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wL83RrqNI/AAAAAAAAACw/AeGKyt9nmWc/s1600/%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg"&gt;&lt;img style="float: right; margin: 0pt 0pt 10px 10px; cursor: pointer; width: 184px; height: 137px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wL83RrqNI/AAAAAAAAACw/AeGKyt9nmWc/s320/%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5457249988724369618" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　戦国の世には九鬼水軍や雑賀衆など勇壮な軍団も輩出した。熊野はむしろ陽明の地とさえ思えてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本稿記述に当たっては関係自治体観光協会発行の地図・パンフレット・ガイドブック、特に小倉肇著「伊勢から熊野へ、再生を願う巡礼の道、東熊野街道」を参照させて頂いた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-8314354055542873587?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/feeds/8314354055542873587/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/200112.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/8314354055542873587'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/8314354055542873587'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/200112.html' title='初冬の熊野古道を歩く（2001年12月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7wLvsvFrLI/AAAAAAAAACo/sJceiz9Dpl4/s72-c/%E9%AC%BC%E3%83%B6%E5%9F%8E.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-6279003252918221845</id><published>2010-04-06T23:49:00.000+09:00</published><updated>2010-04-06T23:51:47.275+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ポルトガル、旅行、トイレ事情'/><title type='text'>ポルトガルを旅してのトイレ考（2001年8月）</title><content type='html'>　2001年6月ポルトガルを旅して、トイレについて気が付いたことを記してみよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　欧米のトイレではよくあることだが、ポルトガルでも男性用小便器の朝顔の位置が高い。ポルトガル人は日本人と同じくらいの体格で、そんなに大柄でもないのに矢張り高い。子供用に低い小便器もあるが、大人が使うには少々抵抗がある。若い時なら上向き放水も容易だが高年ともなるとそうも行かぬ。精一杯爪先立ちして朝顔に注ぎ込むことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ポルト市からリスボンへはポルトガル国鉄Caminhos de Ferro Portguesesで移動した。車両後部のトイレで小用を済ませたが、通常在るべき位置に放水ボタンが見当たらない。あちこちと見渡すうちに足元に突起ボタンを見つけた。ドンッと踏み込むと勢い良くフラッシュして洗い流してくれた。そういえばシベリア鉄道でも同じような記憶がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ポルトガル南東部エヴォラの町で、地元民が多く集う食堂に入る。この店のトイレは中近東・インド方面でよく見かける前向きにしゃがむ型式である。和式に似ているが所謂「金隠し」は無い。ヨーロッパといっても必ずしも全部が座式の洋風便器ではないことが判った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　帰路アムステルダムの空港トイレで気付いた事がある。洗面所の大鏡の横に目線の高さで一見ティッシュ・ペーパーの自動販売機のような機器が取り付けられている。良く見るとコンドームの自販機である。しかも寸法別に大小の選択ボタンまで設けられている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　フランスの高校ではエイズ予防のためとして、生徒にコンドームを配布するというニュースを聞いたことがある。性に対して随分あっけらかんとしたものだと思う。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6119103994948222532-6279003252918221845?l=memoirs-minoru.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/feeds/6279003252918221845/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/20018.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/6279003252918221845'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6119103994948222532/posts/default/6279003252918221845'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://memoirs-minoru.blogspot.com/2010/04/20018.html' title='ポルトガルを旅してのトイレ考（2001年8月）'/><author><name>Joe</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09883606741464372578</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='29' height='32' src='http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7tL8AvqLNI/AAAAAAAAACI/efYrHUnrdmc/S220/Joe2.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6119103994948222532.post-4752166389312083132</id><published>2010-04-06T22:30:00.018+09:00</published><updated>2010-04-07T08:23:13.833+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='イギリス、旅行、ロンドン、ケンブリッジ'/><title type='text'>ケンブリツジ　駆けある記（2001年7月）</title><content type='html'>　今年はイギリスへ行ってみようと思い立った。行くからには長女が1976年短期留学したケンブリツジには是非立ち寄ってみたい。旅行各社の旅程を比較検討した結果H社の8日間のツァーに参加することにした。これならロンドン半日観光後のフリータイムでケンブリツジ見学が可能と推定した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;1.地下鉄ピカデリー・サー&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;カスPiccadily Circus駅&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　2001年6月28日　中華レストランへ昼食に行くツァーの一行と別れて地下鉄ピカデリー・サーカス駅へ向かう。バスの運転手に「Tubeはどの方向か?」と尋ねると「真っ直ぐ前方へ」と。ロンドンではSub wayは”地下道”、”地下鉄”はTubeと聞いていたが、入り口はUndergroundと表示されていた。デートの待ち合わせで有名な”エロスの像”を撮る暇もなく地下に潜る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ずらりと並んだ切符自販機の前で当惑していると、「出札窓口は角の向こうに」と日本語で女性の声。窓口に”Assistance and Ticket(お手伝いと切符)と書いてあるのが嬉しい。本日の一日乗車券Oneday travelcard(@４ポンド　約800円)を買う。朝9時半以降Zone1.2&lt;br /&gt;　区内の地下鉄・バスは乗り放題である。自動改札機に差し込んで、先で取り上げると扉が開く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　紫色のガイドラインに沿ってピカデリー線のホームに出る。この駅は茶色のベーカールー線と2本しか通っていないので迷うこ&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_GApbSqWRGx4/S7s4qU0N7CI/AAAAAAAAAAw/JduYmSVtyZA/s1600/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E3%81%AE%E9%A7%85.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width
